SARO&Desperado隔離スレ
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自分でスレたてて自分でコメントするなよw
せっかくスレ立てしてくれたので、徒然なるままに何か書きましょうかね。
写真の本は私が師と仰ぐアルフォンスデーケン神父の御本です。
師は元上智大学教授兼神父様で、現在は同大名誉教授兼神父様です。
私はカトリックの家庭に育だち、カトリックは何か禁欲的な厳しいものという
イメージを植え付けられていたのですが、デーケン先生と出会って信仰について
新たな視点を得られました。
デーケン先生には私たちの結婚式も挙げてもらったり、色々お世話になっています。
もう教授では無いのでデーケン先生と呼ぶのは相応しくないのですが、ついくせで
デーケン先生と言ってしまいます。デーケン神父様と呼ぶのが適切でしょう。
デーケン先生は上智大学を定年退職後、すぐに母国のドイツに帰ってしまわれました。
『ああ、もうお会い出来ないのか』と落胆したのですが、その後しばらくして日本に
戻ってきてくれ『日本に骨を埋める』と言っていらっしゃいます。
現在は毎週水曜日(13時からと18時からの2回)にイグナチオ教会のホールを借りて
信仰入門講座を開いています。入門講座といっても、かつての教え子(私みたいなの)
もたくさん来ていますし、もちろん先生の本に興味を持ったので、という新人さん
もたくさんいらっしゃいます。大盛況ですので興味がおありの方は一度どうぞ。
イグナチオ教会入口の右に売店があるのですが、そこのシスターに聞けば場所を
教えてもらえます。カトリックでは自主性を重んじるというか、信者でも他人に
無関心な人ばかりなので、プロテスタント教会みたいに、いきなり太ったおばさんに
『新しい兄弟ですか、オホホホ』とか、変な外人に『アナタハカミヲシンジマスカ』
とか言われないので心配しないで来てください。毎週のように新人の方が来ています。
残念ながら8月はデーケン先生はオーストリアで研究をなさるそう。9月も各地の
講演がおありとのこと。だから後期の入門講座は10月9日からになります。
講座は無料です。何も持ってこなくて構いません。教室(小学校の教室の半分くらいの
広さ)に入るとボランティアで受付をやっているおばさんがいるので、一言声をかけて
いただけたら、讃美歌の楽譜を渡してくれます。嫌だったら歌わなくて構いませんよ。
写真の本は私が師と仰ぐアルフォンスデーケン神父の御本です。
師は元上智大学教授兼神父様で、現在は同大名誉教授兼神父様です。
私はカトリックの家庭に育だち、カトリックは何か禁欲的な厳しいものという
イメージを植え付けられていたのですが、デーケン先生と出会って信仰について
新たな視点を得られました。
デーケン先生には私たちの結婚式も挙げてもらったり、色々お世話になっています。
もう教授では無いのでデーケン先生と呼ぶのは相応しくないのですが、ついくせで
デーケン先生と言ってしまいます。デーケン神父様と呼ぶのが適切でしょう。
デーケン先生は上智大学を定年退職後、すぐに母国のドイツに帰ってしまわれました。
『ああ、もうお会い出来ないのか』と落胆したのですが、その後しばらくして日本に
戻ってきてくれ『日本に骨を埋める』と言っていらっしゃいます。
現在は毎週水曜日(13時からと18時からの2回)にイグナチオ教会のホールを借りて
信仰入門講座を開いています。入門講座といっても、かつての教え子(私みたいなの)
もたくさん来ていますし、もちろん先生の本に興味を持ったので、という新人さん
もたくさんいらっしゃいます。大盛況ですので興味がおありの方は一度どうぞ。
イグナチオ教会入口の右に売店があるのですが、そこのシスターに聞けば場所を
教えてもらえます。カトリックでは自主性を重んじるというか、信者でも他人に
無関心な人ばかりなので、プロテスタント教会みたいに、いきなり太ったおばさんに
『新しい兄弟ですか、オホホホ』とか、変な外人に『アナタハカミヲシンジマスカ』
とか言われないので心配しないで来てください。毎週のように新人の方が来ています。
残念ながら8月はデーケン先生はオーストリアで研究をなさるそう。9月も各地の
講演がおありとのこと。だから後期の入門講座は10月9日からになります。
講座は無料です。何も持ってこなくて構いません。教室(小学校の教室の半分くらいの
広さ)に入るとボランティアで受付をやっているおばさんがいるので、一言声をかけて
いただけたら、讃美歌の楽譜を渡してくれます。嫌だったら歌わなくて構いませんよ。
デーケン先生はたくさん本を書いてまして、アマゾン等で検索しても何冊もヒット
します。世界各国語に翻訳されていて、日本より米国やカナダでのほうが名声が高い
ようです。特に『よく生き よく笑い よき死と出会う』はベストセラーです。
デーケン先生はドイツ人なのですが、日本語で本を書いちゃうんですよ。
この本の題名を見てもお判りの通り、デーケン先生の学問は哲学で、専門は『死生学』
です。死ぬことを研究するんですよ。如何に死ぬかとか、死死死・・・おお嫌だ、
おお怖い、ナンマンダブ、ナンマンダブ。
でもちょっと待ってください。あなただけに内緒で教えますが、本当にここだけの
話ですが、日本人の死亡率は驚くことに100%にも達するんですよ。あなたが、この
スレのリンクをクリックしてここまで読み進めるのに何秒かかりましたか?
うん十秒ですか、そうですか。するとあなたの大事な余命は『うん十秒』縮まって
しまったんですよ。と書いてるそばから、もう数秒縮んでしまいました。
『ああ』と声に出して叫んでも1秒は縮まります。いくら急いで『あっ』と叫ぼうが
時間は止まってくれません。
これは濁流に流される葉っぱにしがみついた蟻に例えることが出来るでしょうか。
葉っぱはすぐに濁流に飲み込まれて蟻の運命もそこまで。運よく大海まで流れて
行っても、やがては海の藻屑と消えるでしょう。何か虚しいですねえ。
人間だったらどうでしょうか。濁流に流される木片にかじりついた人。この場合は、
『助けて〜』と叫び続ければ、誰かがロープを投げてくれたり、あるいは救助隊の
ヘリコプターが出動するかも知れません。人間には生き方を選択するある程度の
能力が与えられているのですね。
いきなり旧約聖書の話で恐縮ですが、神様は生物を色々お造りになったのですが、
人間だけはご自身に似せてお造りになったそうです。生物といったら色々ありますね。
イヌやネコのような動物、松や杉のような植物、ノミやダニ、あるいは大腸菌だって
ピロリ菌だって生物ですよね。でもその中で人間だけが偉いのです。人間だけが特別な
存在なのです。不遜ですね。偉そうですね。こんなに付け上がって良いのでしょうか。
します。世界各国語に翻訳されていて、日本より米国やカナダでのほうが名声が高い
ようです。特に『よく生き よく笑い よき死と出会う』はベストセラーです。
デーケン先生はドイツ人なのですが、日本語で本を書いちゃうんですよ。
この本の題名を見てもお判りの通り、デーケン先生の学問は哲学で、専門は『死生学』
です。死ぬことを研究するんですよ。如何に死ぬかとか、死死死・・・おお嫌だ、
おお怖い、ナンマンダブ、ナンマンダブ。
でもちょっと待ってください。あなただけに内緒で教えますが、本当にここだけの
話ですが、日本人の死亡率は驚くことに100%にも達するんですよ。あなたが、この
スレのリンクをクリックしてここまで読み進めるのに何秒かかりましたか?
うん十秒ですか、そうですか。するとあなたの大事な余命は『うん十秒』縮まって
しまったんですよ。と書いてるそばから、もう数秒縮んでしまいました。
『ああ』と声に出して叫んでも1秒は縮まります。いくら急いで『あっ』と叫ぼうが
時間は止まってくれません。
これは濁流に流される葉っぱにしがみついた蟻に例えることが出来るでしょうか。
葉っぱはすぐに濁流に飲み込まれて蟻の運命もそこまで。運よく大海まで流れて
行っても、やがては海の藻屑と消えるでしょう。何か虚しいですねえ。
人間だったらどうでしょうか。濁流に流される木片にかじりついた人。この場合は、
『助けて〜』と叫び続ければ、誰かがロープを投げてくれたり、あるいは救助隊の
ヘリコプターが出動するかも知れません。人間には生き方を選択するある程度の
能力が与えられているのですね。
いきなり旧約聖書の話で恐縮ですが、神様は生物を色々お造りになったのですが、
人間だけはご自身に似せてお造りになったそうです。生物といったら色々ありますね。
イヌやネコのような動物、松や杉のような植物、ノミやダニ、あるいは大腸菌だって
ピロリ菌だって生物ですよね。でもその中で人間だけが偉いのです。人間だけが特別な
存在なのです。不遜ですね。偉そうですね。こんなに付け上がって良いのでしょうか。
実はですね。人間だけがある特殊な能力を神様から与えられているのです。それは
『私は何者か?』という問いが出来る能力。『私は何者か?』って問いは不思議だと
思いませんか。問いかけるのも私で、それに回答を出すのも私です。更に言うと、
『私は何者か?』と問うている私は何者か? と際限が無くなります。
イヌやネコだって色々考えていると思いますよ。『腹減った』とか『おしっこ行って
こよう』とか。でも『私は何者か?』と思い悩んでいるネコを見たことがありますか?
人間は昔から色々な問題について数学的に、とか科学的に解答を出して来ました。
例えば『1+1は?』と幼稚園児に聞いても『2』と答えますよね。いずれはあらゆる
病気、例えばガンを治す方法などの回答が出されるでしょう。このような答えが出せる
問いは『質問』と呼びます。当たり前ですね。しかし『私は何者か?』という問いは
『神秘』なのです。
『私は何者か?』という問いは多くの示唆を含んでいます。『なぜ生まれて来たのか』、
せっかく生まれて来たのに『なぜ死ぬのか』等々。なぜ生まれて来たのかというのも
哲学ですが、これはもう生まれてしまったのですから文句の言いようがありません。
そこで今生きている人間、すなわち全世界の全ての人類にとって、死という事象が恐怖
の対象となります。ある哲学者は死を恐れることを奴隷に例え、『死の奴隷になって
いる人は、既に死んでいるのと一緒だ』と述べています。では死の奴隷から解放される
にはどうしたら良いでしょう。これは昔から哲学の命題のひとつですね。
先の濁流に流される人を思い出してください。人は『助けて〜』と叫ぶことが出来ます。
『私は何者か?』という問いには『私は主のしもべです』と答えてはいかがでしょうか。
『いや、俺は無神論者だから』と言う人は、座禅でも組みながら座してただ死を待つの
ですか。それでは先の例の蟻と一緒です。ペシミスティック(悲観的)な考え方ですね。
人間だけに与えられた『私は何者か?』と問う能力を発揮したいと思いませんか?
『私は何者か?』という問いが出来る能力。『私は何者か?』って問いは不思議だと
思いませんか。問いかけるのも私で、それに回答を出すのも私です。更に言うと、
『私は何者か?』と問うている私は何者か? と際限が無くなります。
イヌやネコだって色々考えていると思いますよ。『腹減った』とか『おしっこ行って
こよう』とか。でも『私は何者か?』と思い悩んでいるネコを見たことがありますか?
人間は昔から色々な問題について数学的に、とか科学的に解答を出して来ました。
例えば『1+1は?』と幼稚園児に聞いても『2』と答えますよね。いずれはあらゆる
病気、例えばガンを治す方法などの回答が出されるでしょう。このような答えが出せる
問いは『質問』と呼びます。当たり前ですね。しかし『私は何者か?』という問いは
『神秘』なのです。
『私は何者か?』という問いは多くの示唆を含んでいます。『なぜ生まれて来たのか』、
せっかく生まれて来たのに『なぜ死ぬのか』等々。なぜ生まれて来たのかというのも
哲学ですが、これはもう生まれてしまったのですから文句の言いようがありません。
そこで今生きている人間、すなわち全世界の全ての人類にとって、死という事象が恐怖
の対象となります。ある哲学者は死を恐れることを奴隷に例え、『死の奴隷になって
いる人は、既に死んでいるのと一緒だ』と述べています。では死の奴隷から解放される
にはどうしたら良いでしょう。これは昔から哲学の命題のひとつですね。
先の濁流に流される人を思い出してください。人は『助けて〜』と叫ぶことが出来ます。
『私は何者か?』という問いには『私は主のしもべです』と答えてはいかがでしょうか。
『いや、俺は無神論者だから』と言う人は、座禅でも組みながら座してただ死を待つの
ですか。それでは先の例の蟻と一緒です。ペシミスティック(悲観的)な考え方ですね。
人間だけに与えられた『私は何者か?』と問う能力を発揮したいと思いませんか?
実は救いのロープは常に私たちの目の前にぶら下がっているのですが、残念ながら
それに気づかない人が多いのです。欧米では70〜80%の人が何らかの信仰を持っている
と答えているのに、日本では残念ながら70〜80%の人が無神論者とのこと。なぜ日本人に
無神論者が多いのか。これはたぶん神様にご利益を期待するからでしょうか。例えば
『お金が儲かりますように』と祈りながら銭洗い弁天でお札を洗っても、いきなり
宝くじの一等が当たるなんてことはまず無いでしょうね。だから神社に詣でるのも
単なるイベントとか習慣とかになっているんじゃないでしょうか。
でもこう考えてはどうでしょう。お祈りをしてご利益があったら、これは神様の賜物、
ありがたや、ありがたや。もしご利益が無かったら、これは神様が私の信仰が厚いか
薄いか試されているのだ。更にお祈りを続ければいつか願いが叶うに違いない。
これはオプティミスティック(楽観的)な考え方です。悲観的な考え方をするのと
楽観的な考え方をするのとでは、どちらが楽ですか?
先の死の問題へと戻りますが、あらゆる哲学者がこの問題を研究しています。『命が
終わることを恐れるな、むしろ真に生き始めないことを恐れよ』とか、ゲーテは
『永遠に生き続けることを信じない者は、現在も生きていないのと一緒だ』と聖書を
信頼すべき旨を述べています。パスカルは『○○地域の気圧は××ヘクトパスカル』
と気圧の単位に使われるほど有名な物理学者で、神様などは無縁の人のようですが、
ある時、寝ている時、神の啓示を肌で感じたのです。有名なパスカルの回心として
今に残るメモは、神様と触れ合った喜びと驚きに満ち溢れた文章で『喜び喜び喜び』
と神への感謝を殴り書きした物で、パスカルはそのメモを肌着に縫い付け、生涯肌身
離さず持ち歩いたそうです。
デーケン先生によると、洗礼を受けに来る医者がとても多いそうです。最先端医療に
かかわる医者や、パスカルのような堅物そうな物理学者ほど、自然の摂理の不思議さ
美しさ、整然さに感動して、神の存在を肯定せざるを得なくなるらしいです。
それに気づかない人が多いのです。欧米では70〜80%の人が何らかの信仰を持っている
と答えているのに、日本では残念ながら70〜80%の人が無神論者とのこと。なぜ日本人に
無神論者が多いのか。これはたぶん神様にご利益を期待するからでしょうか。例えば
『お金が儲かりますように』と祈りながら銭洗い弁天でお札を洗っても、いきなり
宝くじの一等が当たるなんてことはまず無いでしょうね。だから神社に詣でるのも
単なるイベントとか習慣とかになっているんじゃないでしょうか。
でもこう考えてはどうでしょう。お祈りをしてご利益があったら、これは神様の賜物、
ありがたや、ありがたや。もしご利益が無かったら、これは神様が私の信仰が厚いか
薄いか試されているのだ。更にお祈りを続ければいつか願いが叶うに違いない。
これはオプティミスティック(楽観的)な考え方です。悲観的な考え方をするのと
楽観的な考え方をするのとでは、どちらが楽ですか?
先の死の問題へと戻りますが、あらゆる哲学者がこの問題を研究しています。『命が
終わることを恐れるな、むしろ真に生き始めないことを恐れよ』とか、ゲーテは
『永遠に生き続けることを信じない者は、現在も生きていないのと一緒だ』と聖書を
信頼すべき旨を述べています。パスカルは『○○地域の気圧は××ヘクトパスカル』
と気圧の単位に使われるほど有名な物理学者で、神様などは無縁の人のようですが、
ある時、寝ている時、神の啓示を肌で感じたのです。有名なパスカルの回心として
今に残るメモは、神様と触れ合った喜びと驚きに満ち溢れた文章で『喜び喜び喜び』
と神への感謝を殴り書きした物で、パスカルはそのメモを肌着に縫い付け、生涯肌身
離さず持ち歩いたそうです。
デーケン先生によると、洗礼を受けに来る医者がとても多いそうです。最先端医療に
かかわる医者や、パスカルのような堅物そうな物理学者ほど、自然の摂理の不思議さ
美しさ、整然さに感動して、神の存在を肯定せざるを得なくなるらしいです。
またまた聖書の話で恐縮ですが、ヨハネによる福音書によるとイエス様は最後の晩餐の
時、『私はブドウの木。父(神様ですね)は農夫である。私の枝で実を結ばない物は
父(農夫)が剪定して切ってしまう。実を結ぶ枝は手入れしてもっときれいにしてくだ
さる』と述べたとあります(概略ですが)。これは二千年前も今も、古今東西にかか
わらず農業に携わる人には真理ですね。あなたもぶどうの実を目指しませんか?
またヨハネは、キリスト教的人生は旅人のようだと述べています。人は未来へ向かう
旅人であり、過去にとらわれることはない。人間は未来に向けて開かれた存在だから。
すなわち人生は神へと向かう旅であり、イエス・キリストは神へ向かう唯一の道だと。
松尾芭蕉の奥の細道の書き出し『月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也』と
似ていると思いませんか?
ちょっと名前を忘れたんですがある哲学者は『来世が無いと証明できぬからには、来世が
あると信じざるを得ない』というようなことを言っています。ちょっと乱暴に聞こえます
が、これがオプティミスティックなキリスト教の本質を突いているんじゃないでしょうか。
一度デーケン先生の話を聞くと、理詰めで神の存在を説明してくれるので、精神的にも
とても癒されます。医者や科学者にファンが多いのも納得いきます。実は私も理工科系
なんですが、やはり神様の存在なしには『私は何者か?』という問いに答えられません。
今まで述べたように、私たちにはイエス・キリストという救いのロープ、と言いますか
神への道が示されたのですから、これに乗っかるというのも楽な生き方だと思いますよ。
今西暦2013年ですが、西暦はキリスト誕生以降をAD(紀元後)、誕生以前をBC(紀元前)
と言いますよね。もう二千年以上にわたって信じられ、かつ哲学や文学の議題になって
きた宗教なのですから、私たちもこれを学ぶことによって得られる物は多いはずです。
そういった意味では仏教でも神道でも良いんですが、残念ながら仏教は葬式専用みたいに
なってますし、神道は初詣や新車を買った時の気休めのお祓いなど、イベント専用みたい
になっています。なかなか哲学的命題に応えて貰えない所があるのが残念です。
時、『私はブドウの木。父(神様ですね)は農夫である。私の枝で実を結ばない物は
父(農夫)が剪定して切ってしまう。実を結ぶ枝は手入れしてもっときれいにしてくだ
さる』と述べたとあります(概略ですが)。これは二千年前も今も、古今東西にかか
わらず農業に携わる人には真理ですね。あなたもぶどうの実を目指しませんか?
またヨハネは、キリスト教的人生は旅人のようだと述べています。人は未来へ向かう
旅人であり、過去にとらわれることはない。人間は未来に向けて開かれた存在だから。
すなわち人生は神へと向かう旅であり、イエス・キリストは神へ向かう唯一の道だと。
松尾芭蕉の奥の細道の書き出し『月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也』と
似ていると思いませんか?
ちょっと名前を忘れたんですがある哲学者は『来世が無いと証明できぬからには、来世が
あると信じざるを得ない』というようなことを言っています。ちょっと乱暴に聞こえます
が、これがオプティミスティックなキリスト教の本質を突いているんじゃないでしょうか。
一度デーケン先生の話を聞くと、理詰めで神の存在を説明してくれるので、精神的にも
とても癒されます。医者や科学者にファンが多いのも納得いきます。実は私も理工科系
なんですが、やはり神様の存在なしには『私は何者か?』という問いに答えられません。
今まで述べたように、私たちにはイエス・キリストという救いのロープ、と言いますか
神への道が示されたのですから、これに乗っかるというのも楽な生き方だと思いますよ。
今西暦2013年ですが、西暦はキリスト誕生以降をAD(紀元後)、誕生以前をBC(紀元前)
と言いますよね。もう二千年以上にわたって信じられ、かつ哲学や文学の議題になって
きた宗教なのですから、私たちもこれを学ぶことによって得られる物は多いはずです。
そういった意味では仏教でも神道でも良いんですが、残念ながら仏教は葬式専用みたいに
なってますし、神道は初詣や新車を買った時の気休めのお祓いなど、イベント専用みたい
になっています。なかなか哲学的命題に応えて貰えない所があるのが残念です。
キリスト教といっても堅苦しい物ではありません。私の口癖は聖書を引用して『天国に宝
を積む前に腹ごしらえ』ですが、決して聖書を冒とくしているわけではありません。
キリスト教はジョークを好みます。デーケン先生もよく冗談を言って人を笑わせます。
またパーティのような飲めや歌えやも大事にします。イエス様が最初に弟子に見せた奇跡
をご存知ですか? ある豪邸で結婚式の披露パーティが開かれ、イエス様や弟子たちも
呼ばれたのですが、皆が盛り上がってカメ一杯用意した葡萄酒が底をついてしまったのです。
召使の女性がイエス様に『あんたも先生だったらここで奇跡を見せて葡萄酒を出して』と
吹っかけたのです。イエス様は『まだ時は来ていない』と一旦は断るのですが、結局、
召使に押し切られ、カメ一杯の水を上等な葡萄酒に変えて見せました。追加された葡萄酒で
パーティもさぞかし盛り上がったでしょうね。
だから私は遠慮なくミシュラン三ツ星レストランで食事をしたり、ブランド日本酒を買い
漁ります。でも先の引用の『天国に宝を積む』ですが、これはイエス様の弟子になりたいと
いう金持ちの男に投げかけられた言葉で『あなたの財産を全て貧しい者に施しなさい。
そうすれば天の国に宝を積むことになる』ということなのです。するとやはり『贅沢は敵、
寄付をしろ』という事になりますね。聖書には色々な含蓄のある言葉が出て来ますが、
やはり最初は自分に都合のいい部分から共感して行けば良いのではないでしょうか・・・
と、ちょっと言い訳を。
デーケン先生なのですが2013年8月に81才になります。少年期は第二次大戦下で苦労された
ようですね。まず当時4才だった妹が病で亡くなります。彼女の最後の言葉が『天国でまた
会いましょう』だったとのこと。またデーケン先生の一家は敬虔なカトリック教徒で、父や
祖父は反ナチス運動の旗手だったとのこと。すなわち、当時のドイツのカトリック教徒は
反ナチだったのです。ここが国民一丸となって鬼畜米英に燃えた日本との違いですね。
そのため父や祖父も強制収容所で労働をさせられたりしたそうです。強制収容所というと
ポーランド人ばかり入れられていたように思いますが、相当数の神父やドイツ人カトリック
教徒も混じっていたのです。
を積む前に腹ごしらえ』ですが、決して聖書を冒とくしているわけではありません。
キリスト教はジョークを好みます。デーケン先生もよく冗談を言って人を笑わせます。
またパーティのような飲めや歌えやも大事にします。イエス様が最初に弟子に見せた奇跡
をご存知ですか? ある豪邸で結婚式の披露パーティが開かれ、イエス様や弟子たちも
呼ばれたのですが、皆が盛り上がってカメ一杯用意した葡萄酒が底をついてしまったのです。
召使の女性がイエス様に『あんたも先生だったらここで奇跡を見せて葡萄酒を出して』と
吹っかけたのです。イエス様は『まだ時は来ていない』と一旦は断るのですが、結局、
召使に押し切られ、カメ一杯の水を上等な葡萄酒に変えて見せました。追加された葡萄酒で
パーティもさぞかし盛り上がったでしょうね。
だから私は遠慮なくミシュラン三ツ星レストランで食事をしたり、ブランド日本酒を買い
漁ります。でも先の引用の『天国に宝を積む』ですが、これはイエス様の弟子になりたいと
いう金持ちの男に投げかけられた言葉で『あなたの財産を全て貧しい者に施しなさい。
そうすれば天の国に宝を積むことになる』ということなのです。するとやはり『贅沢は敵、
寄付をしろ』という事になりますね。聖書には色々な含蓄のある言葉が出て来ますが、
やはり最初は自分に都合のいい部分から共感して行けば良いのではないでしょうか・・・
と、ちょっと言い訳を。
デーケン先生なのですが2013年8月に81才になります。少年期は第二次大戦下で苦労された
ようですね。まず当時4才だった妹が病で亡くなります。彼女の最後の言葉が『天国でまた
会いましょう』だったとのこと。またデーケン先生の一家は敬虔なカトリック教徒で、父や
祖父は反ナチス運動の旗手だったとのこと。すなわち、当時のドイツのカトリック教徒は
反ナチだったのです。ここが国民一丸となって鬼畜米英に燃えた日本との違いですね。
そのため父や祖父も強制収容所で労働をさせられたりしたそうです。強制収容所というと
ポーランド人ばかり入れられていたように思いますが、相当数の神父やドイツ人カトリック
教徒も混じっていたのです。
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