SARO&Desperado隔離スレ
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自分でスレたてて自分でコメントするなよw
せっかくスレ立てしてくれたので、徒然なるままに何か書きましょうかね。
写真の本は私が師と仰ぐアルフォンスデーケン神父の御本です。
師は元上智大学教授兼神父様で、現在は同大名誉教授兼神父様です。
私はカトリックの家庭に育だち、カトリックは何か禁欲的な厳しいものという
イメージを植え付けられていたのですが、デーケン先生と出会って信仰について
新たな視点を得られました。
デーケン先生には私たちの結婚式も挙げてもらったり、色々お世話になっています。
もう教授では無いのでデーケン先生と呼ぶのは相応しくないのですが、ついくせで
デーケン先生と言ってしまいます。デーケン神父様と呼ぶのが適切でしょう。
デーケン先生は上智大学を定年退職後、すぐに母国のドイツに帰ってしまわれました。
『ああ、もうお会い出来ないのか』と落胆したのですが、その後しばらくして日本に
戻ってきてくれ『日本に骨を埋める』と言っていらっしゃいます。
現在は毎週水曜日(13時からと18時からの2回)にイグナチオ教会のホールを借りて
信仰入門講座を開いています。入門講座といっても、かつての教え子(私みたいなの)
もたくさん来ていますし、もちろん先生の本に興味を持ったので、という新人さん
もたくさんいらっしゃいます。大盛況ですので興味がおありの方は一度どうぞ。
イグナチオ教会入口の右に売店があるのですが、そこのシスターに聞けば場所を
教えてもらえます。カトリックでは自主性を重んじるというか、信者でも他人に
無関心な人ばかりなので、プロテスタント教会みたいに、いきなり太ったおばさんに
『新しい兄弟ですか、オホホホ』とか、変な外人に『アナタハカミヲシンジマスカ』
とか言われないので心配しないで来てください。毎週のように新人の方が来ています。
残念ながら8月はデーケン先生はオーストリアで研究をなさるそう。9月も各地の
講演がおありとのこと。だから後期の入門講座は10月9日からになります。
講座は無料です。何も持ってこなくて構いません。教室(小学校の教室の半分くらいの
広さ)に入るとボランティアで受付をやっているおばさんがいるので、一言声をかけて
いただけたら、讃美歌の楽譜を渡してくれます。嫌だったら歌わなくて構いませんよ。
写真の本は私が師と仰ぐアルフォンスデーケン神父の御本です。
師は元上智大学教授兼神父様で、現在は同大名誉教授兼神父様です。
私はカトリックの家庭に育だち、カトリックは何か禁欲的な厳しいものという
イメージを植え付けられていたのですが、デーケン先生と出会って信仰について
新たな視点を得られました。
デーケン先生には私たちの結婚式も挙げてもらったり、色々お世話になっています。
もう教授では無いのでデーケン先生と呼ぶのは相応しくないのですが、ついくせで
デーケン先生と言ってしまいます。デーケン神父様と呼ぶのが適切でしょう。
デーケン先生は上智大学を定年退職後、すぐに母国のドイツに帰ってしまわれました。
『ああ、もうお会い出来ないのか』と落胆したのですが、その後しばらくして日本に
戻ってきてくれ『日本に骨を埋める』と言っていらっしゃいます。
現在は毎週水曜日(13時からと18時からの2回)にイグナチオ教会のホールを借りて
信仰入門講座を開いています。入門講座といっても、かつての教え子(私みたいなの)
もたくさん来ていますし、もちろん先生の本に興味を持ったので、という新人さん
もたくさんいらっしゃいます。大盛況ですので興味がおありの方は一度どうぞ。
イグナチオ教会入口の右に売店があるのですが、そこのシスターに聞けば場所を
教えてもらえます。カトリックでは自主性を重んじるというか、信者でも他人に
無関心な人ばかりなので、プロテスタント教会みたいに、いきなり太ったおばさんに
『新しい兄弟ですか、オホホホ』とか、変な外人に『アナタハカミヲシンジマスカ』
とか言われないので心配しないで来てください。毎週のように新人の方が来ています。
残念ながら8月はデーケン先生はオーストリアで研究をなさるそう。9月も各地の
講演がおありとのこと。だから後期の入門講座は10月9日からになります。
講座は無料です。何も持ってこなくて構いません。教室(小学校の教室の半分くらいの
広さ)に入るとボランティアで受付をやっているおばさんがいるので、一言声をかけて
いただけたら、讃美歌の楽譜を渡してくれます。嫌だったら歌わなくて構いませんよ。
デーケン先生はたくさん本を書いてまして、アマゾン等で検索しても何冊もヒット
します。世界各国語に翻訳されていて、日本より米国やカナダでのほうが名声が高い
ようです。特に『よく生き よく笑い よき死と出会う』はベストセラーです。
デーケン先生はドイツ人なのですが、日本語で本を書いちゃうんですよ。
この本の題名を見てもお判りの通り、デーケン先生の学問は哲学で、専門は『死生学』
です。死ぬことを研究するんですよ。如何に死ぬかとか、死死死・・・おお嫌だ、
おお怖い、ナンマンダブ、ナンマンダブ。
でもちょっと待ってください。あなただけに内緒で教えますが、本当にここだけの
話ですが、日本人の死亡率は驚くことに100%にも達するんですよ。あなたが、この
スレのリンクをクリックしてここまで読み進めるのに何秒かかりましたか?
うん十秒ですか、そうですか。するとあなたの大事な余命は『うん十秒』縮まって
しまったんですよ。と書いてるそばから、もう数秒縮んでしまいました。
『ああ』と声に出して叫んでも1秒は縮まります。いくら急いで『あっ』と叫ぼうが
時間は止まってくれません。
これは濁流に流される葉っぱにしがみついた蟻に例えることが出来るでしょうか。
葉っぱはすぐに濁流に飲み込まれて蟻の運命もそこまで。運よく大海まで流れて
行っても、やがては海の藻屑と消えるでしょう。何か虚しいですねえ。
人間だったらどうでしょうか。濁流に流される木片にかじりついた人。この場合は、
『助けて〜』と叫び続ければ、誰かがロープを投げてくれたり、あるいは救助隊の
ヘリコプターが出動するかも知れません。人間には生き方を選択するある程度の
能力が与えられているのですね。
いきなり旧約聖書の話で恐縮ですが、神様は生物を色々お造りになったのですが、
人間だけはご自身に似せてお造りになったそうです。生物といったら色々ありますね。
イヌやネコのような動物、松や杉のような植物、ノミやダニ、あるいは大腸菌だって
ピロリ菌だって生物ですよね。でもその中で人間だけが偉いのです。人間だけが特別な
存在なのです。不遜ですね。偉そうですね。こんなに付け上がって良いのでしょうか。
します。世界各国語に翻訳されていて、日本より米国やカナダでのほうが名声が高い
ようです。特に『よく生き よく笑い よき死と出会う』はベストセラーです。
デーケン先生はドイツ人なのですが、日本語で本を書いちゃうんですよ。
この本の題名を見てもお判りの通り、デーケン先生の学問は哲学で、専門は『死生学』
です。死ぬことを研究するんですよ。如何に死ぬかとか、死死死・・・おお嫌だ、
おお怖い、ナンマンダブ、ナンマンダブ。
でもちょっと待ってください。あなただけに内緒で教えますが、本当にここだけの
話ですが、日本人の死亡率は驚くことに100%にも達するんですよ。あなたが、この
スレのリンクをクリックしてここまで読み進めるのに何秒かかりましたか?
うん十秒ですか、そうですか。するとあなたの大事な余命は『うん十秒』縮まって
しまったんですよ。と書いてるそばから、もう数秒縮んでしまいました。
『ああ』と声に出して叫んでも1秒は縮まります。いくら急いで『あっ』と叫ぼうが
時間は止まってくれません。
これは濁流に流される葉っぱにしがみついた蟻に例えることが出来るでしょうか。
葉っぱはすぐに濁流に飲み込まれて蟻の運命もそこまで。運よく大海まで流れて
行っても、やがては海の藻屑と消えるでしょう。何か虚しいですねえ。
人間だったらどうでしょうか。濁流に流される木片にかじりついた人。この場合は、
『助けて〜』と叫び続ければ、誰かがロープを投げてくれたり、あるいは救助隊の
ヘリコプターが出動するかも知れません。人間には生き方を選択するある程度の
能力が与えられているのですね。
いきなり旧約聖書の話で恐縮ですが、神様は生物を色々お造りになったのですが、
人間だけはご自身に似せてお造りになったそうです。生物といったら色々ありますね。
イヌやネコのような動物、松や杉のような植物、ノミやダニ、あるいは大腸菌だって
ピロリ菌だって生物ですよね。でもその中で人間だけが偉いのです。人間だけが特別な
存在なのです。不遜ですね。偉そうですね。こんなに付け上がって良いのでしょうか。
実はですね。人間だけがある特殊な能力を神様から与えられているのです。それは
『私は何者か?』という問いが出来る能力。『私は何者か?』って問いは不思議だと
思いませんか。問いかけるのも私で、それに回答を出すのも私です。更に言うと、
『私は何者か?』と問うている私は何者か? と際限が無くなります。
イヌやネコだって色々考えていると思いますよ。『腹減った』とか『おしっこ行って
こよう』とか。でも『私は何者か?』と思い悩んでいるネコを見たことがありますか?
人間は昔から色々な問題について数学的に、とか科学的に解答を出して来ました。
例えば『1+1は?』と幼稚園児に聞いても『2』と答えますよね。いずれはあらゆる
病気、例えばガンを治す方法などの回答が出されるでしょう。このような答えが出せる
問いは『質問』と呼びます。当たり前ですね。しかし『私は何者か?』という問いは
『神秘』なのです。
『私は何者か?』という問いは多くの示唆を含んでいます。『なぜ生まれて来たのか』、
せっかく生まれて来たのに『なぜ死ぬのか』等々。なぜ生まれて来たのかというのも
哲学ですが、これはもう生まれてしまったのですから文句の言いようがありません。
そこで今生きている人間、すなわち全世界の全ての人類にとって、死という事象が恐怖
の対象となります。ある哲学者は死を恐れることを奴隷に例え、『死の奴隷になって
いる人は、既に死んでいるのと一緒だ』と述べています。では死の奴隷から解放される
にはどうしたら良いでしょう。これは昔から哲学の命題のひとつですね。
先の濁流に流される人を思い出してください。人は『助けて〜』と叫ぶことが出来ます。
『私は何者か?』という問いには『私は主のしもべです』と答えてはいかがでしょうか。
『いや、俺は無神論者だから』と言う人は、座禅でも組みながら座してただ死を待つの
ですか。それでは先の例の蟻と一緒です。ペシミスティック(悲観的)な考え方ですね。
人間だけに与えられた『私は何者か?』と問う能力を発揮したいと思いませんか?
『私は何者か?』という問いが出来る能力。『私は何者か?』って問いは不思議だと
思いませんか。問いかけるのも私で、それに回答を出すのも私です。更に言うと、
『私は何者か?』と問うている私は何者か? と際限が無くなります。
イヌやネコだって色々考えていると思いますよ。『腹減った』とか『おしっこ行って
こよう』とか。でも『私は何者か?』と思い悩んでいるネコを見たことがありますか?
人間は昔から色々な問題について数学的に、とか科学的に解答を出して来ました。
例えば『1+1は?』と幼稚園児に聞いても『2』と答えますよね。いずれはあらゆる
病気、例えばガンを治す方法などの回答が出されるでしょう。このような答えが出せる
問いは『質問』と呼びます。当たり前ですね。しかし『私は何者か?』という問いは
『神秘』なのです。
『私は何者か?』という問いは多くの示唆を含んでいます。『なぜ生まれて来たのか』、
せっかく生まれて来たのに『なぜ死ぬのか』等々。なぜ生まれて来たのかというのも
哲学ですが、これはもう生まれてしまったのですから文句の言いようがありません。
そこで今生きている人間、すなわち全世界の全ての人類にとって、死という事象が恐怖
の対象となります。ある哲学者は死を恐れることを奴隷に例え、『死の奴隷になって
いる人は、既に死んでいるのと一緒だ』と述べています。では死の奴隷から解放される
にはどうしたら良いでしょう。これは昔から哲学の命題のひとつですね。
先の濁流に流される人を思い出してください。人は『助けて〜』と叫ぶことが出来ます。
『私は何者か?』という問いには『私は主のしもべです』と答えてはいかがでしょうか。
『いや、俺は無神論者だから』と言う人は、座禅でも組みながら座してただ死を待つの
ですか。それでは先の例の蟻と一緒です。ペシミスティック(悲観的)な考え方ですね。
人間だけに与えられた『私は何者か?』と問う能力を発揮したいと思いませんか?
実は救いのロープは常に私たちの目の前にぶら下がっているのですが、残念ながら
それに気づかない人が多いのです。欧米では70〜80%の人が何らかの信仰を持っている
と答えているのに、日本では残念ながら70〜80%の人が無神論者とのこと。なぜ日本人に
無神論者が多いのか。これはたぶん神様にご利益を期待するからでしょうか。例えば
『お金が儲かりますように』と祈りながら銭洗い弁天でお札を洗っても、いきなり
宝くじの一等が当たるなんてことはまず無いでしょうね。だから神社に詣でるのも
単なるイベントとか習慣とかになっているんじゃないでしょうか。
でもこう考えてはどうでしょう。お祈りをしてご利益があったら、これは神様の賜物、
ありがたや、ありがたや。もしご利益が無かったら、これは神様が私の信仰が厚いか
薄いか試されているのだ。更にお祈りを続ければいつか願いが叶うに違いない。
これはオプティミスティック(楽観的)な考え方です。悲観的な考え方をするのと
楽観的な考え方をするのとでは、どちらが楽ですか?
先の死の問題へと戻りますが、あらゆる哲学者がこの問題を研究しています。『命が
終わることを恐れるな、むしろ真に生き始めないことを恐れよ』とか、ゲーテは
『永遠に生き続けることを信じない者は、現在も生きていないのと一緒だ』と聖書を
信頼すべき旨を述べています。パスカルは『○○地域の気圧は××ヘクトパスカル』
と気圧の単位に使われるほど有名な物理学者で、神様などは無縁の人のようですが、
ある時、寝ている時、神の啓示を肌で感じたのです。有名なパスカルの回心として
今に残るメモは、神様と触れ合った喜びと驚きに満ち溢れた文章で『喜び喜び喜び』
と神への感謝を殴り書きした物で、パスカルはそのメモを肌着に縫い付け、生涯肌身
離さず持ち歩いたそうです。
デーケン先生によると、洗礼を受けに来る医者がとても多いそうです。最先端医療に
かかわる医者や、パスカルのような堅物そうな物理学者ほど、自然の摂理の不思議さ
美しさ、整然さに感動して、神の存在を肯定せざるを得なくなるらしいです。
それに気づかない人が多いのです。欧米では70〜80%の人が何らかの信仰を持っている
と答えているのに、日本では残念ながら70〜80%の人が無神論者とのこと。なぜ日本人に
無神論者が多いのか。これはたぶん神様にご利益を期待するからでしょうか。例えば
『お金が儲かりますように』と祈りながら銭洗い弁天でお札を洗っても、いきなり
宝くじの一等が当たるなんてことはまず無いでしょうね。だから神社に詣でるのも
単なるイベントとか習慣とかになっているんじゃないでしょうか。
でもこう考えてはどうでしょう。お祈りをしてご利益があったら、これは神様の賜物、
ありがたや、ありがたや。もしご利益が無かったら、これは神様が私の信仰が厚いか
薄いか試されているのだ。更にお祈りを続ければいつか願いが叶うに違いない。
これはオプティミスティック(楽観的)な考え方です。悲観的な考え方をするのと
楽観的な考え方をするのとでは、どちらが楽ですか?
先の死の問題へと戻りますが、あらゆる哲学者がこの問題を研究しています。『命が
終わることを恐れるな、むしろ真に生き始めないことを恐れよ』とか、ゲーテは
『永遠に生き続けることを信じない者は、現在も生きていないのと一緒だ』と聖書を
信頼すべき旨を述べています。パスカルは『○○地域の気圧は××ヘクトパスカル』
と気圧の単位に使われるほど有名な物理学者で、神様などは無縁の人のようですが、
ある時、寝ている時、神の啓示を肌で感じたのです。有名なパスカルの回心として
今に残るメモは、神様と触れ合った喜びと驚きに満ち溢れた文章で『喜び喜び喜び』
と神への感謝を殴り書きした物で、パスカルはそのメモを肌着に縫い付け、生涯肌身
離さず持ち歩いたそうです。
デーケン先生によると、洗礼を受けに来る医者がとても多いそうです。最先端医療に
かかわる医者や、パスカルのような堅物そうな物理学者ほど、自然の摂理の不思議さ
美しさ、整然さに感動して、神の存在を肯定せざるを得なくなるらしいです。
またまた聖書の話で恐縮ですが、ヨハネによる福音書によるとイエス様は最後の晩餐の
時、『私はブドウの木。父(神様ですね)は農夫である。私の枝で実を結ばない物は
父(農夫)が剪定して切ってしまう。実を結ぶ枝は手入れしてもっときれいにしてくだ
さる』と述べたとあります(概略ですが)。これは二千年前も今も、古今東西にかか
わらず農業に携わる人には真理ですね。あなたもぶどうの実を目指しませんか?
またヨハネは、キリスト教的人生は旅人のようだと述べています。人は未来へ向かう
旅人であり、過去にとらわれることはない。人間は未来に向けて開かれた存在だから。
すなわち人生は神へと向かう旅であり、イエス・キリストは神へ向かう唯一の道だと。
松尾芭蕉の奥の細道の書き出し『月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也』と
似ていると思いませんか?
ちょっと名前を忘れたんですがある哲学者は『来世が無いと証明できぬからには、来世が
あると信じざるを得ない』というようなことを言っています。ちょっと乱暴に聞こえます
が、これがオプティミスティックなキリスト教の本質を突いているんじゃないでしょうか。
一度デーケン先生の話を聞くと、理詰めで神の存在を説明してくれるので、精神的にも
とても癒されます。医者や科学者にファンが多いのも納得いきます。実は私も理工科系
なんですが、やはり神様の存在なしには『私は何者か?』という問いに答えられません。
今まで述べたように、私たちにはイエス・キリストという救いのロープ、と言いますか
神への道が示されたのですから、これに乗っかるというのも楽な生き方だと思いますよ。
今西暦2013年ですが、西暦はキリスト誕生以降をAD(紀元後)、誕生以前をBC(紀元前)
と言いますよね。もう二千年以上にわたって信じられ、かつ哲学や文学の議題になって
きた宗教なのですから、私たちもこれを学ぶことによって得られる物は多いはずです。
そういった意味では仏教でも神道でも良いんですが、残念ながら仏教は葬式専用みたいに
なってますし、神道は初詣や新車を買った時の気休めのお祓いなど、イベント専用みたい
になっています。なかなか哲学的命題に応えて貰えない所があるのが残念です。
時、『私はブドウの木。父(神様ですね)は農夫である。私の枝で実を結ばない物は
父(農夫)が剪定して切ってしまう。実を結ぶ枝は手入れしてもっときれいにしてくだ
さる』と述べたとあります(概略ですが)。これは二千年前も今も、古今東西にかか
わらず農業に携わる人には真理ですね。あなたもぶどうの実を目指しませんか?
またヨハネは、キリスト教的人生は旅人のようだと述べています。人は未来へ向かう
旅人であり、過去にとらわれることはない。人間は未来に向けて開かれた存在だから。
すなわち人生は神へと向かう旅であり、イエス・キリストは神へ向かう唯一の道だと。
松尾芭蕉の奥の細道の書き出し『月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也』と
似ていると思いませんか?
ちょっと名前を忘れたんですがある哲学者は『来世が無いと証明できぬからには、来世が
あると信じざるを得ない』というようなことを言っています。ちょっと乱暴に聞こえます
が、これがオプティミスティックなキリスト教の本質を突いているんじゃないでしょうか。
一度デーケン先生の話を聞くと、理詰めで神の存在を説明してくれるので、精神的にも
とても癒されます。医者や科学者にファンが多いのも納得いきます。実は私も理工科系
なんですが、やはり神様の存在なしには『私は何者か?』という問いに答えられません。
今まで述べたように、私たちにはイエス・キリストという救いのロープ、と言いますか
神への道が示されたのですから、これに乗っかるというのも楽な生き方だと思いますよ。
今西暦2013年ですが、西暦はキリスト誕生以降をAD(紀元後)、誕生以前をBC(紀元前)
と言いますよね。もう二千年以上にわたって信じられ、かつ哲学や文学の議題になって
きた宗教なのですから、私たちもこれを学ぶことによって得られる物は多いはずです。
そういった意味では仏教でも神道でも良いんですが、残念ながら仏教は葬式専用みたいに
なってますし、神道は初詣や新車を買った時の気休めのお祓いなど、イベント専用みたい
になっています。なかなか哲学的命題に応えて貰えない所があるのが残念です。
キリスト教といっても堅苦しい物ではありません。私の口癖は聖書を引用して『天国に宝
を積む前に腹ごしらえ』ですが、決して聖書を冒とくしているわけではありません。
キリスト教はジョークを好みます。デーケン先生もよく冗談を言って人を笑わせます。
またパーティのような飲めや歌えやも大事にします。イエス様が最初に弟子に見せた奇跡
をご存知ですか? ある豪邸で結婚式の披露パーティが開かれ、イエス様や弟子たちも
呼ばれたのですが、皆が盛り上がってカメ一杯用意した葡萄酒が底をついてしまったのです。
召使の女性がイエス様に『あんたも先生だったらここで奇跡を見せて葡萄酒を出して』と
吹っかけたのです。イエス様は『まだ時は来ていない』と一旦は断るのですが、結局、
召使に押し切られ、カメ一杯の水を上等な葡萄酒に変えて見せました。追加された葡萄酒で
パーティもさぞかし盛り上がったでしょうね。
だから私は遠慮なくミシュラン三ツ星レストランで食事をしたり、ブランド日本酒を買い
漁ります。でも先の引用の『天国に宝を積む』ですが、これはイエス様の弟子になりたいと
いう金持ちの男に投げかけられた言葉で『あなたの財産を全て貧しい者に施しなさい。
そうすれば天の国に宝を積むことになる』ということなのです。するとやはり『贅沢は敵、
寄付をしろ』という事になりますね。聖書には色々な含蓄のある言葉が出て来ますが、
やはり最初は自分に都合のいい部分から共感して行けば良いのではないでしょうか・・・
と、ちょっと言い訳を。
デーケン先生なのですが2013年8月に81才になります。少年期は第二次大戦下で苦労された
ようですね。まず当時4才だった妹が病で亡くなります。彼女の最後の言葉が『天国でまた
会いましょう』だったとのこと。またデーケン先生の一家は敬虔なカトリック教徒で、父や
祖父は反ナチス運動の旗手だったとのこと。すなわち、当時のドイツのカトリック教徒は
反ナチだったのです。ここが国民一丸となって鬼畜米英に燃えた日本との違いですね。
そのため父や祖父も強制収容所で労働をさせられたりしたそうです。強制収容所というと
ポーランド人ばかり入れられていたように思いますが、相当数の神父やドイツ人カトリック
教徒も混じっていたのです。
を積む前に腹ごしらえ』ですが、決して聖書を冒とくしているわけではありません。
キリスト教はジョークを好みます。デーケン先生もよく冗談を言って人を笑わせます。
またパーティのような飲めや歌えやも大事にします。イエス様が最初に弟子に見せた奇跡
をご存知ですか? ある豪邸で結婚式の披露パーティが開かれ、イエス様や弟子たちも
呼ばれたのですが、皆が盛り上がってカメ一杯用意した葡萄酒が底をついてしまったのです。
召使の女性がイエス様に『あんたも先生だったらここで奇跡を見せて葡萄酒を出して』と
吹っかけたのです。イエス様は『まだ時は来ていない』と一旦は断るのですが、結局、
召使に押し切られ、カメ一杯の水を上等な葡萄酒に変えて見せました。追加された葡萄酒で
パーティもさぞかし盛り上がったでしょうね。
だから私は遠慮なくミシュラン三ツ星レストランで食事をしたり、ブランド日本酒を買い
漁ります。でも先の引用の『天国に宝を積む』ですが、これはイエス様の弟子になりたいと
いう金持ちの男に投げかけられた言葉で『あなたの財産を全て貧しい者に施しなさい。
そうすれば天の国に宝を積むことになる』ということなのです。するとやはり『贅沢は敵、
寄付をしろ』という事になりますね。聖書には色々な含蓄のある言葉が出て来ますが、
やはり最初は自分に都合のいい部分から共感して行けば良いのではないでしょうか・・・
と、ちょっと言い訳を。
デーケン先生なのですが2013年8月に81才になります。少年期は第二次大戦下で苦労された
ようですね。まず当時4才だった妹が病で亡くなります。彼女の最後の言葉が『天国でまた
会いましょう』だったとのこと。またデーケン先生の一家は敬虔なカトリック教徒で、父や
祖父は反ナチス運動の旗手だったとのこと。すなわち、当時のドイツのカトリック教徒は
反ナチだったのです。ここが国民一丸となって鬼畜米英に燃えた日本との違いですね。
そのため父や祖父も強制収容所で労働をさせられたりしたそうです。強制収容所というと
ポーランド人ばかり入れられていたように思いますが、相当数の神父やドイツ人カトリック
教徒も混じっていたのです。
デーケン少年はというと、小学校で優秀な成績だったのでナチスの幼年学校に推薦入学
されたのですが、父のカトリックの教えを守りナチス幼年学校を拒否。そのため迫害された
そうです。また一番の恐怖は連合国軍の戦闘機に機銃掃射で狙われたことだそうです。
何度も旋回しながら執拗に追ってくる敵戦闘機。パイロットの顔が見えたそうです。
しかしデーケン少年は父の教えに従って敵パイロットを許したとのこと。
それなのにまだデーケン少年を悲劇が襲います。ドイツ降伏のまさに当日、半ナチス運動
をしていた祖父が、あろうことか連合国軍に射殺されたのです。でもやはりアメリカ人を
許すのですね。このような不慮の死の連続がデーケン先生に『死生学』という学問を
選ばせたのでしょうか。そしてデーケン先生はアメリカで博士論文を著し、上智大学に
やって来て教授になったのです。そういった話を優しく語り掛けてくるデーケン先生には、
本当にとても癒されます。各界にファンが多いのもうなずけます。デーケン先生がお元気で
いらっしゃるうちに、一度お話を聞きに来ませんか。きっとあなたの人生に一筋の光明が
見えると思います。
先生の御本もこの講座で買うことが出来ます。その場合、消費税無しで買えるからお得
ですよ。おまけにデーケン先生のサインもいただけます。スレ写真がそのサインです。
デーケン先生は、サインの後に必ず写真のようなニコニコマークを書きます。共に喜びを
分かち合おうという先生のお気持ちの現れでしょうか。ロザリオなどカトリック用品を
買った場合も、デーケン先生に聖別してもらう方が霊験あらたかと言ったら、イグナチオ
教会の神父様に叱られますね。
主の平和がいつも明和の皆さんと共にありますように。
されたのですが、父のカトリックの教えを守りナチス幼年学校を拒否。そのため迫害された
そうです。また一番の恐怖は連合国軍の戦闘機に機銃掃射で狙われたことだそうです。
何度も旋回しながら執拗に追ってくる敵戦闘機。パイロットの顔が見えたそうです。
しかしデーケン少年は父の教えに従って敵パイロットを許したとのこと。
それなのにまだデーケン少年を悲劇が襲います。ドイツ降伏のまさに当日、半ナチス運動
をしていた祖父が、あろうことか連合国軍に射殺されたのです。でもやはりアメリカ人を
許すのですね。このような不慮の死の連続がデーケン先生に『死生学』という学問を
選ばせたのでしょうか。そしてデーケン先生はアメリカで博士論文を著し、上智大学に
やって来て教授になったのです。そういった話を優しく語り掛けてくるデーケン先生には、
本当にとても癒されます。各界にファンが多いのもうなずけます。デーケン先生がお元気で
いらっしゃるうちに、一度お話を聞きに来ませんか。きっとあなたの人生に一筋の光明が
見えると思います。
先生の御本もこの講座で買うことが出来ます。その場合、消費税無しで買えるからお得
ですよ。おまけにデーケン先生のサインもいただけます。スレ写真がそのサインです。
デーケン先生は、サインの後に必ず写真のようなニコニコマークを書きます。共に喜びを
分かち合おうという先生のお気持ちの現れでしょうか。ロザリオなどカトリック用品を
買った場合も、デーケン先生に聖別してもらう方が霊験あらたかと言ったら、イグナチオ
教会の神父様に叱られますね。
主の平和がいつも明和の皆さんと共にありますように。
desperado乙
それだけ信心深いならもっと穏やかにSAROとやりあえるのに…
それだけ信心深いならもっと穏やかにSAROとやりあえるのに…
このスレを覗いたあなたは幸いです。
この板の他スレでは、ちょっと取っつきにくい聖書の言葉を、ただ羅列したような物ばかり
目に付くようです。でもカトリックでは、もちろん基本は聖書にあるわけですけど、やはり
神の御子である主イエス・キリストの生き様を、ミサの聖書朗読を通じて味わうというのが
本質であるように思います。
聖書から断片的に抜き出したお言葉は、それ自体ではいったい何のことかわからない物も多く、
やはり福音書の全体を通してそれを味合わないと、一見矛盾したことのように見えたり
何か線香臭いお説教に聞こえたりすると思います。
キリスト者に与えられた義務のひとつは、福音(神様を信じる喜び・神の教え)を、まだ
神様の存在に気づいていない人に伝える、というものがあります。今日キリスト教がこの
ように一般化したのは、パウロという人がイスラエルからこの教えを欧州に伝えたという
ことが大きいのです。
パウロという人は元の名前をサウロといい、元々はキリスト者を迫害する側の人でした。
ある時サウロは、キリスト者を逮捕・処刑するためイスラエルにやってくるのですが、
神の啓示に目覚めてキリスト者に回心しました。
キリスト教の迫害者であるサウロに対してでも神様は愛の手を差し伸べてくれるのですから、
仏教徒のあなたが、今からキリスト教を勉強しても何ら不都合はありません。もちろん、あなたが
敬虔な仏教徒だとしても、カトリックの教えを聞くのは意義があるかも知れませんよ。
この板の他スレでは、ちょっと取っつきにくい聖書の言葉を、ただ羅列したような物ばかり
目に付くようです。でもカトリックでは、もちろん基本は聖書にあるわけですけど、やはり
神の御子である主イエス・キリストの生き様を、ミサの聖書朗読を通じて味わうというのが
本質であるように思います。
聖書から断片的に抜き出したお言葉は、それ自体ではいったい何のことかわからない物も多く、
やはり福音書の全体を通してそれを味合わないと、一見矛盾したことのように見えたり
何か線香臭いお説教に聞こえたりすると思います。
キリスト者に与えられた義務のひとつは、福音(神様を信じる喜び・神の教え)を、まだ
神様の存在に気づいていない人に伝える、というものがあります。今日キリスト教がこの
ように一般化したのは、パウロという人がイスラエルからこの教えを欧州に伝えたという
ことが大きいのです。
パウロという人は元の名前をサウロといい、元々はキリスト者を迫害する側の人でした。
ある時サウロは、キリスト者を逮捕・処刑するためイスラエルにやってくるのですが、
神の啓示に目覚めてキリスト者に回心しました。
キリスト教の迫害者であるサウロに対してでも神様は愛の手を差し伸べてくれるのですから、
仏教徒のあなたが、今からキリスト教を勉強しても何ら不都合はありません。もちろん、あなたが
敬虔な仏教徒だとしても、カトリックの教えを聞くのは意義があるかも知れませんよ。
幸いなことに7月は、あと10日と17日にデーケン先生の講座が開かれます。7月21日はデーケン
先生が、私たちのために特別ミサを立ててくれます。詳細は講座に来てくれればわかります。
ちょっとイグナチオ教会の一般向けミサと違うのですが、ミサという式典を経験できる良い
機会かも知れません。
これでキリスト者の義務の一つ、福音を述べ伝えるということを、私も果たせたような気が
します。カトリック信者は、前にも述べた通り、他人に無関心な人が多く、福音を述べ伝える
なんてことは誰もしません。これは○○学会とかエホバとかモルモン教を見習わなくては
ならないかも知れませんね。ただそうなるとカトリックもカルトと見られかねないし、こうやって
明和あたりでひっそりやる方が適当でしょうか・・・。
先生が、私たちのために特別ミサを立ててくれます。詳細は講座に来てくれればわかります。
ちょっとイグナチオ教会の一般向けミサと違うのですが、ミサという式典を経験できる良い
機会かも知れません。
これでキリスト者の義務の一つ、福音を述べ伝えるということを、私も果たせたような気が
します。カトリック信者は、前にも述べた通り、他人に無関心な人が多く、福音を述べ伝える
なんてことは誰もしません。これは○○学会とかエホバとかモルモン教を見習わなくては
ならないかも知れませんね。ただそうなるとカトリックもカルトと見られかねないし、こうやって
明和あたりでひっそりやる方が適当でしょうか・・・。
以下飲食板より転載↓
まず、彼は教会にはクリスマスくらいにしか行かないとはっきり言っていた訳で、
その時点で軸がぶれすぎてる。
というか、彼はいつもこんな感じで、その場しのぎの嘘が多すぎる。
会計の話は何度も言ったけど、
会計は神父がやるものでなく、教会員がやるもので、
サレジオやイグナチオあたりの教会員が知らないなんてことは現実的にあり得ない。
共同訳聖書についてもまるで頓珍漢。ただしくは「新共同訳聖書」であり、
「共同訳聖書」はまた別の聖書。
そんなものつかってるプロテスタント教会は無い。単立教会は知らんけど。
なお、俺の友人は経理、ではなくて会計ね(笑)
適当なことばかり言ってるから、
こんな基本的な間違いを犯すんだよ。
経理を教会員がやるはずないじゃん。
改めて、隔離スレでやることを望みますが、
ここで反論されればやむを得ないので、
再反論せざるを得ません。
TBMの人はもしかすると真性なのかもしれないけど
流石に無駄レス過ぎるんで、
帰宅したら削除依頼出しときます。
まず、彼は教会にはクリスマスくらいにしか行かないとはっきり言っていた訳で、
その時点で軸がぶれすぎてる。
というか、彼はいつもこんな感じで、その場しのぎの嘘が多すぎる。
会計の話は何度も言ったけど、
会計は神父がやるものでなく、教会員がやるもので、
サレジオやイグナチオあたりの教会員が知らないなんてことは現実的にあり得ない。
共同訳聖書についてもまるで頓珍漢。ただしくは「新共同訳聖書」であり、
「共同訳聖書」はまた別の聖書。
そんなものつかってるプロテスタント教会は無い。単立教会は知らんけど。
なお、俺の友人は経理、ではなくて会計ね(笑)
適当なことばかり言ってるから、
こんな基本的な間違いを犯すんだよ。
経理を教会員がやるはずないじゃん。
改めて、隔離スレでやることを望みますが、
ここで反論されればやむを得ないので、
再反論せざるを得ません。
TBMの人はもしかすると真性なのかもしれないけど
流石に無駄レス過ぎるんで、
帰宅したら削除依頼出しときます。
会計は教会の事務員も一部携わるのですが、基本は教会単位で行います。
先にも申しました通り、教会の内部事情は基本的に非公開です。
ですからどの神父様が会計担当かは一般信徒には知る由もありません。
だってお金を勘定する神父様なんて、ちょっと想像するのも下衆な感じで嫌でしょう?
ただし、イグナチオ教会はイエズス会に属し、サレジオ会とは違うのかも知れません。
しかし一般信徒が会計をやるなんて、サレジオ会方式は信じられませんね。
個人情報がだだ漏れじゃないですか。
イグナチオでもボランティアグループがたくさんあります。
ホームレスにおにぎりを配ったり、教会の清掃をしたり、それこそ様々です。
しかし教会維持費を数えるボランティアなど聞いたことがありません。
あと蛇足ですが教会員という言い方は止めてください。
先にも申しました通り、教会の内部事情は基本的に非公開です。
ですからどの神父様が会計担当かは一般信徒には知る由もありません。
だってお金を勘定する神父様なんて、ちょっと想像するのも下衆な感じで嫌でしょう?
ただし、イグナチオ教会はイエズス会に属し、サレジオ会とは違うのかも知れません。
しかし一般信徒が会計をやるなんて、サレジオ会方式は信じられませんね。
個人情報がだだ漏れじゃないですか。
イグナチオでもボランティアグループがたくさんあります。
ホームレスにおにぎりを配ったり、教会の清掃をしたり、それこそ様々です。
しかし教会維持費を数えるボランティアなど聞いたことがありません。
あと蛇足ですが教会員という言い方は止めてください。
このスレで死というイメージを宗教としてのキリスト教的視点から述べましたが、
なにしろ理系の私、哲学に関しては全くド素人でお恥ずかしい限り。
ここはやはりサロ君のような神学専攻の者に私の誤りを正して欲しい所ですね。
次回は『生きる』とは何かをキリスト教的視点から語りましょうかね。
なにしろ理系の私、哲学に関しては全くド素人でお恥ずかしい限り。
ここはやはりサロ君のような神学専攻の者に私の誤りを正して欲しい所ですね。
次回は『生きる』とは何かをキリスト教的視点から語りましょうかね。
質問に全然答えてないじゃん。
クリスマスにしか教会いかないといってた人が、
この段になって何故通いつめてるなどとキャラ転換してるの?
共同訳聖書についても、反論になってないし、
会計についても、サレジオは信徒総会で収支報告しないとでも?
サレジオにも勿論友人がいるけど。
教会員、と呼称することの教義的意味付けは?
すべてにおいて適当すぎることばかり。
生きるということ(笑)?
誰もそんな話はしていない。
天然なのか意図的にかは知らないけど、
すっとんきょうな話題を持ち出さないように。
あ、重箱だけど、俺は神学専攻
ではないぞ。宗教学。
院で社会学やら哲学もやってたけど。
クリスマスにしか教会いかないといってた人が、
この段になって何故通いつめてるなどとキャラ転換してるの?
共同訳聖書についても、反論になってないし、
会計についても、サレジオは信徒総会で収支報告しないとでも?
サレジオにも勿論友人がいるけど。
教会員、と呼称することの教義的意味付けは?
すべてにおいて適当すぎることばかり。
生きるということ(笑)?
誰もそんな話はしていない。
天然なのか意図的にかは知らないけど、
すっとんきょうな話題を持ち出さないように。
あ、重箱だけど、俺は神学専攻
ではないぞ。宗教学。
院で社会学やら哲学もやってたけど。
何、頭から湯気出してるんですか?
共同訳聖書と行ったのは私のミスと認めてるじゃないですか。
キャラ転換が気に入らないのですか?
それは相済みませんね。何しろネット世界の仮想空間。
言った者勝ちという原則をひたすら守っているあなたに非難されるとは驚きです。
サレジオの会計についてはあなたの友人の『サレジオ会の会計』の人に聞いて
ください。イグナチオの会計については以下のリンクで調べられる電話番号に
かけてください。事務所に繋がります。
http://www.ignatius.gr.jp/annai/contact.htm...
生きるという事はあなたに言ってるのではありませんよ。
このスレで死という問題に私的考察をしたので、次回は生について考察すると
言ってるのです。この板の趣旨は『思想/哲学』ですよ。
私怨を持ち込まないように。
しかしあなたも変な所に粘着しますね。蛙然り、教会の金の流れ然り。
ずいぶんと卑俗な所ばかり粘着していて、性格に問題があるんじゃないですか?
宗教学が専門なんですね。ははあ、お見それいたしました。
共同訳聖書と行ったのは私のミスと認めてるじゃないですか。
キャラ転換が気に入らないのですか?
それは相済みませんね。何しろネット世界の仮想空間。
言った者勝ちという原則をひたすら守っているあなたに非難されるとは驚きです。
サレジオの会計についてはあなたの友人の『サレジオ会の会計』の人に聞いて
ください。イグナチオの会計については以下のリンクで調べられる電話番号に
かけてください。事務所に繋がります。
http://www.ignatius.gr.jp/annai/contact.htm...
生きるという事はあなたに言ってるのではありませんよ。
このスレで死という問題に私的考察をしたので、次回は生について考察すると
言ってるのです。この板の趣旨は『思想/哲学』ですよ。
私怨を持ち込まないように。
しかしあなたも変な所に粘着しますね。蛙然り、教会の金の流れ然り。
ずいぶんと卑俗な所ばかり粘着していて、性格に問題があるんじゃないですか?
宗教学が専門なんですね。ははあ、お見それいたしました。
>教会員、と呼称することの教義的意味付けは?
>すべてにおいて適当すぎることばかり。
教会員と呼称することの教義的意味付けは知りません。
それはプロテスタントのお友達に聞いてください。
カトリックではまず誰も教会員という用語は使いません。
信徒または信者、あるいはキリスト者と言う場合もあります。
教会員という響きにはプロテスタントの臭いがあります。
一部の(私を含む)カトリック信徒がプロテスタントを嫌うというのは
前述した通りです。これはカトリック教会がどう言おうが、嫌いなものは
嫌いなのですからどうしようもありません。
嫌う理由として追加すると『韓国統一教会もプロテスタントか』、
『プロテスタントの洗礼って風呂桶に突っ込むのか』、『結婚している
牧師に自分の罪を告白することができるか』、『だから告解の秘跡が無い
のか』、『モルモンもプロテスタントを自称しているが、酒もコーヒーも
禁止とはおかしいだろ、イエス様もワインを飲むことを勧めてるじゃないか』、
『プロテスタントは金の亡者、収入の1割を教会維持費に出せとは』等々。
>すべてにおいて適当すぎることばかり。
教会員と呼称することの教義的意味付けは知りません。
それはプロテスタントのお友達に聞いてください。
カトリックではまず誰も教会員という用語は使いません。
信徒または信者、あるいはキリスト者と言う場合もあります。
教会員という響きにはプロテスタントの臭いがあります。
一部の(私を含む)カトリック信徒がプロテスタントを嫌うというのは
前述した通りです。これはカトリック教会がどう言おうが、嫌いなものは
嫌いなのですからどうしようもありません。
嫌う理由として追加すると『韓国統一教会もプロテスタントか』、
『プロテスタントの洗礼って風呂桶に突っ込むのか』、『結婚している
牧師に自分の罪を告白することができるか』、『だから告解の秘跡が無い
のか』、『モルモンもプロテスタントを自称しているが、酒もコーヒーも
禁止とはおかしいだろ、イエス様もワインを飲むことを勧めてるじゃないか』、
『プロテスタントは金の亡者、収入の1割を教会維持費に出せとは』等々。
これも質問に答えてないじゃん。
共同訳聖書については、単純な言い間違え、などという説明はなかったし、
その言い訳は、前スレでもなされてたけど、
日本語訳聖書のなりたちから全く筋違いのものだったし、
そもそも単純なミスで看過されるものじゃない。
教義の枝葉について語ってるときに、本質を言い間違えるかって話だ。
キャラ変更に意味があるかどうかはさておき、
そうではなく、事実として体験したこと、してることがコロコロと変わるのは
議論として駄目だろう。自分が適当だと公言してまわってるようなものだ。
いったもの勝ち?俺はそんなことを言った覚えはないし、
原則として事実に則って主張してるし、議論してる。
蛙の話も、化学調味料の話も、横浜中華街の質の話も、
テクニカルライターがライターではないことも、全部そう。
そもそも自分の主張に筋が通っているなら
キャラ変更、などという小手先の手段はとる必要はないし、
その時点でやはり論拠を失っているのだ。
生きるということに関して。
勘違いも甚だしい(笑)
このスレは食板で板違い、スレ違いになりそうな宗教論議を
適切な場所に移設するために第三者が建てたもので、
実存やら存在の神性を語る場ではない。
君が便乗して書き込んだスレがあるというだけの話で、
根本をとらえ損なっては困る。
どうしてもその話がしたいなら、
それこそ別スレを立てたまえよ。
そこでなら議論に応じることも吝かではない。
共同訳聖書については、単純な言い間違え、などという説明はなかったし、
その言い訳は、前スレでもなされてたけど、
日本語訳聖書のなりたちから全く筋違いのものだったし、
そもそも単純なミスで看過されるものじゃない。
教義の枝葉について語ってるときに、本質を言い間違えるかって話だ。
キャラ変更に意味があるかどうかはさておき、
そうではなく、事実として体験したこと、してることがコロコロと変わるのは
議論として駄目だろう。自分が適当だと公言してまわってるようなものだ。
いったもの勝ち?俺はそんなことを言った覚えはないし、
原則として事実に則って主張してるし、議論してる。
蛙の話も、化学調味料の話も、横浜中華街の質の話も、
テクニカルライターがライターではないことも、全部そう。
そもそも自分の主張に筋が通っているなら
キャラ変更、などという小手先の手段はとる必要はないし、
その時点でやはり論拠を失っているのだ。
生きるということに関して。
勘違いも甚だしい(笑)
このスレは食板で板違い、スレ違いになりそうな宗教論議を
適切な場所に移設するために第三者が建てたもので、
実存やら存在の神性を語る場ではない。
君が便乗して書き込んだスレがあるというだけの話で、
根本をとらえ損なっては困る。
どうしてもその話がしたいなら、
それこそ別スレを立てたまえよ。
そこでなら議論に応じることも吝かではない。
以上の理由で、生きる、などというテーマがスレ違いであることは説明したので、
これが私怨でもないことは重ねて説明するまでもない。
蛙に関しては、中華料理の要素の1つに過ぎない問題ではあるけど、
中華としては馴染み深い、不可欠な食材であるわけで、
少なくともその無知を正当化するような主張には批判せざるを得ないし、
その点でとるに足らない問題と片付けることはできない。
まあ、これについては食板の第三者にも伝わったことだろうと
ある程度納得しているから、
ことさらに掘り起こさなくともよいが。
君はどうも、筋ということに対する把握能力が低い。
人の性格を揶揄する前に、
自分の社会性を省みてはどうか。
教義に関しての反論は帰宅後に改めて。もしかすると明日以降になるかも。悪しからず。
これが私怨でもないことは重ねて説明するまでもない。
蛙に関しては、中華料理の要素の1つに過ぎない問題ではあるけど、
中華としては馴染み深い、不可欠な食材であるわけで、
少なくともその無知を正当化するような主張には批判せざるを得ないし、
その点でとるに足らない問題と片付けることはできない。
まあ、これについては食板の第三者にも伝わったことだろうと
ある程度納得しているから、
ことさらに掘り起こさなくともよいが。
君はどうも、筋ということに対する把握能力が低い。
人の性格を揶揄する前に、
自分の社会性を省みてはどうか。
教義に関しての反論は帰宅後に改めて。もしかすると明日以降になるかも。悪しからず。
何度も言うけど、自演などはしていないし、
その画像はむしろ、IDが被ると言うことの証拠だよね。
なんどそれが自演の証拠になるのかわからん。
あまり下らんことばかり言うようなら、
前に荒らしてた人のようにアク禁にしてもらいます。
その画像はむしろ、IDが被ると言うことの証拠だよね。
なんどそれが自演の証拠になるのかわからん。
あまり下らんことばかり言うようなら、
前に荒らしてた人のようにアク禁にしてもらいます。
『生きる』といったことを考えたいと思うのですが。あのネコは生きているとか、
このサボテンは生きているとか、乳酸菌を生きたまま腸へとか、
私たちは簡単に生きているという言葉を使います。でも人が生きているという場合、
それらとは違ったものであるというのはお判りですよね。
人は霊的に生きていると言えましょう。『私は何者か?』。
答1.『私は新陳代謝をしている有機物である』。
これは真に正しい科学的回答ですね。思えば人体は不思議です。意識せずとも
心臓が鼓動し、肺が酸素を取り入れ、腸が栄養を吸収します。考えるとなかなか
神秘的だと思いませんか?
私は2個の目を持っています。遠くの物も近くの物も見えます(コンタクトが
必要ですが)。色を認識できますし物の形もわかります。人の顔はもちろん
犬や猫の顔も識別できます。目に映った画像を選択して脳のアルバムにしまって
置くこともできます。こんな素晴らしい器官を人間は持っているわけですが
人間が地球上に登場して数十万年あるいは数百万年もたっているのに、まだ誰も
目を作った人はいません。
それにこの答えはあらゆる動植物にあてはまりますから、ちょっと人間を表現
するには物足りないですね。
目で思い出したのですが次のような回答をした人がいます。
答2.『われ思うゆえに我あり』。これはデカルトの言葉ですね。
ヤフー知恵袋に傑作な回答がありますので引用させていただきましょう。
>例えばあなたは今自分の部屋にいます。窓を開けてみてください。そこには
いつも見慣れた光景が広がっているはず、と思いますね。しかしその景色が絶対
にそこにあると証明できますか?できません。
例えば何か悪魔みたいなのがいて、あなたが窓を開けた瞬間にその景色を作って
るのかもしないという可能性を確実に否定することはできません。これは、
ジムキャリーの「トゥルーマン・ショー」という映画を観ると解りやすいかもしれません。
このサボテンは生きているとか、乳酸菌を生きたまま腸へとか、
私たちは簡単に生きているという言葉を使います。でも人が生きているという場合、
それらとは違ったものであるというのはお判りですよね。
人は霊的に生きていると言えましょう。『私は何者か?』。
答1.『私は新陳代謝をしている有機物である』。
これは真に正しい科学的回答ですね。思えば人体は不思議です。意識せずとも
心臓が鼓動し、肺が酸素を取り入れ、腸が栄養を吸収します。考えるとなかなか
神秘的だと思いませんか?
私は2個の目を持っています。遠くの物も近くの物も見えます(コンタクトが
必要ですが)。色を認識できますし物の形もわかります。人の顔はもちろん
犬や猫の顔も識別できます。目に映った画像を選択して脳のアルバムにしまって
置くこともできます。こんな素晴らしい器官を人間は持っているわけですが
人間が地球上に登場して数十万年あるいは数百万年もたっているのに、まだ誰も
目を作った人はいません。
それにこの答えはあらゆる動植物にあてはまりますから、ちょっと人間を表現
するには物足りないですね。
目で思い出したのですが次のような回答をした人がいます。
答2.『われ思うゆえに我あり』。これはデカルトの言葉ですね。
ヤフー知恵袋に傑作な回答がありますので引用させていただきましょう。
>例えばあなたは今自分の部屋にいます。窓を開けてみてください。そこには
いつも見慣れた光景が広がっているはず、と思いますね。しかしその景色が絶対
にそこにあると証明できますか?できません。
例えば何か悪魔みたいなのがいて、あなたが窓を開けた瞬間にその景色を作って
るのかもしないという可能性を確実に否定することはできません。これは、
ジムキャリーの「トゥルーマン・ショー」という映画を観ると解りやすいかもしれません。
さらに私があなたの部屋に行き、一緒に窓の外の景色を観たとして、全く同一の
ものを観ているということも証明できません。なぜなら例え色や形を言葉で説明して
も、その色や形の定義自体が同じであるということを証明することができないからです。
そう考えていくと、世の中にあるもので、絶対に存在を証明することのできるものは
一つもない、ということになります。あるように見えるけど、本当にあるのか?
ということです。
しかし、ここでデカルトは気づきます。そのように考えている思いがあることは確かだ、
と。ということは、そのことを考えている「自分」がいることも、間違いなく事実だ、
ということになります。つまり世の中で絶対に存在することがはっきりしているのは、
今このことを考えている、「自分自身」のみである、ということになります。
だから、「われ思う、故に我あり」なのです。
(引用ここまで)
デカルトにとっての『私は何者か?』とは、絶対的な自分自身を発見した所で止まって
しまいます。でもデカルトも生きたわけで、彼は『なぜ生きるのか?』に思い至らなかった
のでしょうか。
答3.『人間は考える葦である』。有名なパスカルの言葉ですね。パスカルは死を考える
上でも出て来た人ですが大変病弱で、若くして亡くなった物理学者です。そういったことを
知っていれば、これはなかなか示唆に富んだ言葉です。葦は風が吹いたらすぐに倒れて
しまうような弱い植物ですが、考える葦だったらどうでしょうか。倒れたら倒れたで
理由をあれこれ考えられますし、自分で立ち上がる工夫もできますよね。まさに『私は
何者か?』を考えるのに忘れてはならない言葉です。
もちろんこの言葉にはそれ以上の哲学的意味があるのですが、哲学者ならぬ理系人間の
悲しさで、なかなか彼の理論を共有することが叶いません。
ものを観ているということも証明できません。なぜなら例え色や形を言葉で説明して
も、その色や形の定義自体が同じであるということを証明することができないからです。
そう考えていくと、世の中にあるもので、絶対に存在を証明することのできるものは
一つもない、ということになります。あるように見えるけど、本当にあるのか?
ということです。
しかし、ここでデカルトは気づきます。そのように考えている思いがあることは確かだ、
と。ということは、そのことを考えている「自分」がいることも、間違いなく事実だ、
ということになります。つまり世の中で絶対に存在することがはっきりしているのは、
今このことを考えている、「自分自身」のみである、ということになります。
だから、「われ思う、故に我あり」なのです。
(引用ここまで)
デカルトにとっての『私は何者か?』とは、絶対的な自分自身を発見した所で止まって
しまいます。でもデカルトも生きたわけで、彼は『なぜ生きるのか?』に思い至らなかった
のでしょうか。
答3.『人間は考える葦である』。有名なパスカルの言葉ですね。パスカルは死を考える
上でも出て来た人ですが大変病弱で、若くして亡くなった物理学者です。そういったことを
知っていれば、これはなかなか示唆に富んだ言葉です。葦は風が吹いたらすぐに倒れて
しまうような弱い植物ですが、考える葦だったらどうでしょうか。倒れたら倒れたで
理由をあれこれ考えられますし、自分で立ち上がる工夫もできますよね。まさに『私は
何者か?』を考えるのに忘れてはならない言葉です。
もちろんこの言葉にはそれ以上の哲学的意味があるのですが、哲学者ならぬ理系人間の
悲しさで、なかなか彼の理論を共有することが叶いません。
答4.『私は一流大学を出たエリートサラリーマンだ』。
それはうらやましい。私はといえばダメダメリーマンです。その昔『スチャラカ社員』と
いう映画があったそうですが。その類です、我ながら・・・。
でもあなたはどうして一流大学を出られたのですか? 偶然ですか? 頭が良かったから
ですか? 猛勉強をしたからですか? ちょっと変な例えですが、精子は1度に最大4億から
5億も出るのですが、その99%が子宮頚部にたどり着く前に死んでしまうそうです。運よく
子宮にたどり着くのは数千から数十万、そしてその中のたった1個が卵子と受精してあなたが
生まれたのですね。そう考えると自分自身を偶然の産物と考えるには、あまりに神秘的な、
不思議な出来事のように思えませんか?
答5.『私はニートの自宅警備員だ』。
それはこまりましたね。時間という川はとても急流で、常に頑張って泳いでいないと
どんどん下流に押し流されて溺れてしまいますよ。溺れる者は藁をも掴むといいますが、
どんな藁にでもしがみつくという努力が大切なんだと思います。まずどうにか川の流れに
身を任せられられるという所に、自分を持って行くという努力が急務だと思います。
『なぜ生きるかがわかっていれば、大抵の苦難は我慢できるものだ』とはニーチェの言葉
ですが、『私は何者か?』という命題は私たち生きている人にとっては『なぜ生きるのか?』
という命題に言いかえることが出来ると思います。ニーチェの言葉はとてもオプティミス
ティックですね。
というのも次のようなことを言った日本人がいるからです。
『人生は重き荷を負うて遠き道を往くがごとし』。これは徳川家康の言葉ですが(後世の
創作臭いらしいですが)、なかなかペシミスティックですね。
どちらも真だと思うのですが、私はオプティミスティックですから『なぜ生きるのか?』と
考えたい所ですが、これがなかなか難しい。先にも申しました通り時間の流れは急流で、
いくら泳いでも対岸へたどり着くことができません。このまま死ぬまでわからないんじゃない
だろうかと思ったりもします。『なぜ生きるのか?』が分かった時から、私は『真に生き始め
る』んじゃないかと思います。そういった意味でニーチェは私を希望の光で照らしてくれたと
言えましょう。
それはうらやましい。私はといえばダメダメリーマンです。その昔『スチャラカ社員』と
いう映画があったそうですが。その類です、我ながら・・・。
でもあなたはどうして一流大学を出られたのですか? 偶然ですか? 頭が良かったから
ですか? 猛勉強をしたからですか? ちょっと変な例えですが、精子は1度に最大4億から
5億も出るのですが、その99%が子宮頚部にたどり着く前に死んでしまうそうです。運よく
子宮にたどり着くのは数千から数十万、そしてその中のたった1個が卵子と受精してあなたが
生まれたのですね。そう考えると自分自身を偶然の産物と考えるには、あまりに神秘的な、
不思議な出来事のように思えませんか?
答5.『私はニートの自宅警備員だ』。
それはこまりましたね。時間という川はとても急流で、常に頑張って泳いでいないと
どんどん下流に押し流されて溺れてしまいますよ。溺れる者は藁をも掴むといいますが、
どんな藁にでもしがみつくという努力が大切なんだと思います。まずどうにか川の流れに
身を任せられられるという所に、自分を持って行くという努力が急務だと思います。
『なぜ生きるかがわかっていれば、大抵の苦難は我慢できるものだ』とはニーチェの言葉
ですが、『私は何者か?』という命題は私たち生きている人にとっては『なぜ生きるのか?』
という命題に言いかえることが出来ると思います。ニーチェの言葉はとてもオプティミス
ティックですね。
というのも次のようなことを言った日本人がいるからです。
『人生は重き荷を負うて遠き道を往くがごとし』。これは徳川家康の言葉ですが(後世の
創作臭いらしいですが)、なかなかペシミスティックですね。
どちらも真だと思うのですが、私はオプティミスティックですから『なぜ生きるのか?』と
考えたい所ですが、これがなかなか難しい。先にも申しました通り時間の流れは急流で、
いくら泳いでも対岸へたどり着くことができません。このまま死ぬまでわからないんじゃない
だろうかと思ったりもします。『なぜ生きるのか?』が分かった時から、私は『真に生き始め
る』んじゃないかと思います。そういった意味でニーチェは私を希望の光で照らしてくれたと
言えましょう。
黒澤明監督の映画に『生きる』という傑作があるそうですが、私は世代が違うのか観たことが
ありません。しかし大体の荒筋は知っています。ある平凡な中年サラリーマンが、ある時
突然に、ガンで余命半年と宣告されるのです。その時彼は、自分の過ぎ越しかたを思って
愕然とするのですね。会社と家庭の間を惰性で条件反射のように行き来して、得た物は一体
なんだったのだろう。そして彼は自分の住んでいる地区に児童公園が無いことに気づきました。
そこで彼は自分に残された半年の命を児童公園の実現のために使おうと思い立つのです。
彼は自分の人生が半年と知った時点で初めて『真に生き始めた』んですね。そして公園が完成
した夜、彼は自分が奔走して実現したブランコに座りながら息を引き取るのです。
彼の死に顔に笑顔があったか、それともまだやり残した後悔の顔があったかはわかりません。
突然に私事で恐縮ですが、はっきり言って私も惰性で生きてしまっているようです。生きる
目的もまだ見えないし、『なぜ生きるのか?』などに答えるなんて畏れ多くて出来やしません。
これは私にとって神秘に属す命題です。まさに『言うは易く行うは難し』ですね。生きるという
ことはメソッド(方法)では無くプロシージャー(手続き・手順)だと理系の私はつくづく
思うのですが、そこから先が見えません。どのような手順を踏めば真に生きられるのでしょう。
神秘などというと宗教上の問題も絡んで来てしまうのですが、なにしろ生身の自分でさえこの
問いに上手く答えられないのですから、宗教を引き合いに出したら問題が更に哲学的な深みへと
はまって行きます。眩暈さえ感じざるを得ません。皆さんに自分の馬鹿さ加減を告白しましょう。
ありません。しかし大体の荒筋は知っています。ある平凡な中年サラリーマンが、ある時
突然に、ガンで余命半年と宣告されるのです。その時彼は、自分の過ぎ越しかたを思って
愕然とするのですね。会社と家庭の間を惰性で条件反射のように行き来して、得た物は一体
なんだったのだろう。そして彼は自分の住んでいる地区に児童公園が無いことに気づきました。
そこで彼は自分に残された半年の命を児童公園の実現のために使おうと思い立つのです。
彼は自分の人生が半年と知った時点で初めて『真に生き始めた』んですね。そして公園が完成
した夜、彼は自分が奔走して実現したブランコに座りながら息を引き取るのです。
彼の死に顔に笑顔があったか、それともまだやり残した後悔の顔があったかはわかりません。
突然に私事で恐縮ですが、はっきり言って私も惰性で生きてしまっているようです。生きる
目的もまだ見えないし、『なぜ生きるのか?』などに答えるなんて畏れ多くて出来やしません。
これは私にとって神秘に属す命題です。まさに『言うは易く行うは難し』ですね。生きるという
ことはメソッド(方法)では無くプロシージャー(手続き・手順)だと理系の私はつくづく
思うのですが、そこから先が見えません。どのような手順を踏めば真に生きられるのでしょう。
神秘などというと宗教上の問題も絡んで来てしまうのですが、なにしろ生身の自分でさえこの
問いに上手く答えられないのですから、宗教を引き合いに出したら問題が更に哲学的な深みへと
はまって行きます。眩暈さえ感じざるを得ません。皆さんに自分の馬鹿さ加減を告白しましょう。
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