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聖書 Part11
▼ページ最下部
人間社会を司る体系化された思想信条の聖書として、
全世界においてその立場を揺るぎないものとしている権力道徳聖書、通称四書五経。
今となっては、その主要な編纂者や登場人物である孔子や孟子が至上の学聖として
崇められてもいるが、決して本人たち自身は恵まれた人生ばかりを送ったわけでもない。
すでに徳治の実践自体が疎かにされていた春秋戦国時代の中国で、せめてでも古来からの
権力道徳を保全しておこうとする目的で、儒者(学究者)という身分に即した学問の興隆
を試みていた。その結果として、周代までは専ら王侯の嗜むものであった権力道徳学が
市井に到るまで広く受容されることとなり、儒学道徳が「権力のための道徳」に止まらない、
「人間のための道徳」としてまで人口に膾炙されることとなったわけだから、孔子や孟子が
在野の学者として儒学を温めてくれたことも、人類にとっては「怪我の功名」になったのだといえる。
とはいえ本来は、儒学が考究対象とする道徳学もまた、国家権力を司ることこそを第一の
目的とした帝王学でこそあるわけだから、ただの学者や庶民としての受容に止まるよりは、
天下国家に名を馳せる大権力者として儒学を受容することこそが本望ともなるのである。
だから、孔子や孟子を儒学の大成者として尊ぶべきであるとはいえ、在野の学者に甘んじさせられた
その境遇までをもわざわざあえて見習ったりする必要はない。特に、孔子は妾腹の私生児という
それはそれは恵まれない境遇に生れ落ちながら、その逆境をばねにしての自学自習によって儒学の
始祖ともなったわけだから、その努力的な姿勢にあやかるべきである一方で、妾腹の私生児のような
立場であることを自ら恥としたその奥ゆかしさをも見習うべきなのである。故に、孔子がそのような立場
だからといって、妾腹の私生児のような立場自体を崇めたりするようなことがあってもならないのである。

全世界においてその立場を揺るぎないものとしている権力道徳聖書、通称四書五経。
今となっては、その主要な編纂者や登場人物である孔子や孟子が至上の学聖として
崇められてもいるが、決して本人たち自身は恵まれた人生ばかりを送ったわけでもない。
すでに徳治の実践自体が疎かにされていた春秋戦国時代の中国で、せめてでも古来からの
権力道徳を保全しておこうとする目的で、儒者(学究者)という身分に即した学問の興隆
を試みていた。その結果として、周代までは専ら王侯の嗜むものであった権力道徳学が
市井に到るまで広く受容されることとなり、儒学道徳が「権力のための道徳」に止まらない、
「人間のための道徳」としてまで人口に膾炙されることとなったわけだから、孔子や孟子が
在野の学者として儒学を温めてくれたことも、人類にとっては「怪我の功名」になったのだといえる。
とはいえ本来は、儒学が考究対象とする道徳学もまた、国家権力を司ることこそを第一の
目的とした帝王学でこそあるわけだから、ただの学者や庶民としての受容に止まるよりは、
天下国家に名を馳せる大権力者として儒学を受容することこそが本望ともなるのである。
だから、孔子や孟子を儒学の大成者として尊ぶべきであるとはいえ、在野の学者に甘んじさせられた
その境遇までをもわざわざあえて見習ったりする必要はない。特に、孔子は妾腹の私生児という
それはそれは恵まれない境遇に生れ落ちながら、その逆境をばねにしての自学自習によって儒学の
始祖ともなったわけだから、その努力的な姿勢にあやかるべきである一方で、妾腹の私生児のような
立場であることを自ら恥としたその奥ゆかしさをも見習うべきなのである。故に、孔子がそのような立場
だからといって、妾腹の私生児のような立場自体を崇めたりするようなことがあってもならないのである。

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四書五経に明記されている倫理基準そのものは、決して体系的ではない。
孔子や孟子の提示する倫理判断も直観的で散逸的なものばかりで、
その一つ一つの言葉の絶対性に固執することが、儒学の粗雑な
宗教化(儒教化)を招く危険性をも孕んでいる。
一方で、四書五経を学ぶことで本人自身が体得する体系的な倫理基準というものは実在する。
特に、易詩書礼春秋の五経を的確に学ぶことで、自らに普遍的かつ体系的な倫理的判断力が
身に付くようになっていて、そこから派生する言行こそは確かに、孔孟のそれにも近似する。
特に基幹となるのは、易の陰陽法則を体得レベルで理解することで、それが経書の勉学の内
でも最難関となる一方、体得すらできたなら孔孟級の聖賢にすら決してなれなくはない。
四書五経を学ぶことによって体得する倫理体系そのものはあまりにも膨大すぎて、
完全に文面化しようとしても永遠にとりとめのないものとなってしまう。それは、
易の陰陽法則から有機的に派生する倫理体系が無尽蔵であると共に、それを勉学の対象
とした者自身が、全身全霊によって当該の無尽蔵な倫理体系を受け止めてもいるからだ。
脳の記憶容量は10テラバイト(5兆文字)以上といい、しかもその記憶構造が本人自身の人体構造や生活とも
密接に関係し合っている。易の陰陽法則もまた、そのような心身全体によって体得されるものであるため、
他人がちょっと聞きかじってみたりした所で、その全容は愚か、片鱗すら掴みようもない場合がほとんど。
しかし、それ程もの膨大さを湛えていればこそ、その倫理体系が実社会でも健全に機能できるのである。
孔子や孟子の提示する倫理判断も直観的で散逸的なものばかりで、
その一つ一つの言葉の絶対性に固執することが、儒学の粗雑な
宗教化(儒教化)を招く危険性をも孕んでいる。
一方で、四書五経を学ぶことで本人自身が体得する体系的な倫理基準というものは実在する。
特に、易詩書礼春秋の五経を的確に学ぶことで、自らに普遍的かつ体系的な倫理的判断力が
身に付くようになっていて、そこから派生する言行こそは確かに、孔孟のそれにも近似する。
特に基幹となるのは、易の陰陽法則を体得レベルで理解することで、それが経書の勉学の内
でも最難関となる一方、体得すらできたなら孔孟級の聖賢にすら決してなれなくはない。
四書五経を学ぶことによって体得する倫理体系そのものはあまりにも膨大すぎて、
完全に文面化しようとしても永遠にとりとめのないものとなってしまう。それは、
易の陰陽法則から有機的に派生する倫理体系が無尽蔵であると共に、それを勉学の対象
とした者自身が、全身全霊によって当該の無尽蔵な倫理体系を受け止めてもいるからだ。
脳の記憶容量は10テラバイト(5兆文字)以上といい、しかもその記憶構造が本人自身の人体構造や生活とも
密接に関係し合っている。易の陰陽法則もまた、そのような心身全体によって体得されるものであるため、
他人がちょっと聞きかじってみたりした所で、その全容は愚か、片鱗すら掴みようもない場合がほとんど。
しかし、それ程もの膨大さを湛えていればこそ、その倫理体系が実社会でも健全に機能できるのである。

巻き上げて我が手元に置き、その富を元手に諸々の事業を催すことに専らでいるわけだから、ことに、
世界中や国中の人々を満遍なく豊かにするということだけは絶対にできない。
モナコやルクセンブルグ程度の極小国であればともかく、アメリカやイギリス程度の規模の国ともなれば、
世界最凶級の政商がそこを根城とした結果としても、国内に一定数以上の貧困層が生じてしまうこととなる。
政商がこの世にもたらし得る公益というものは、それ程にも挟隘な範囲に限られるのであり、だからこそ、
政商活動の猛威を超越神エホバの業に見立てた旧約教義においても、神の救いを得られるとされる人間が
ごくごく限られた範囲ばかりに止まってしまっているのでもある。
常日頃から自衛隊を批判しているような左翼活動家なども、いざ日本国内で大災害に見舞われたりすれば、
本人が絶対拒否でもしない限りは、自衛隊員が救助や復興支援をしてくれることとなる。そりゃあ当然、
自衛隊が国家の統制下にある公務組織であるからで、三菱などの政商を兼ねる大企業の飼い犬であるからではない。
兵装の開発や生産を軍需企業に頼ることがあっても、そのための資金は税金によってまかなわれる。
日本の場合は、兵器産業がまだ自国の自衛用途のために限られているから、軍産複合体の肥大化なども
抑制されていて、軍事面で政商の横暴を許すようなこともない。だからこそ、自衛隊の活動なども節度が
保たれて、純粋に「世のため人のため」であることが守られているわけだけれども、果たして、敵国侵略能力を
擁する規模の軍事力を手に入れた場合にもそれが保守されるかどうかは、甚だ疑問である。何かにかけて
因縁を付けては中東諸国を侵略している米軍やNATO軍のようにすらなりかねず、そこにはもはや正義も存在しない。
それでいてそのような極大級の腕力を手に入れた軍隊こそは、軍産複合体という体裁を帯びた政商の忠実な飼い犬となる。
軍事組織も、純粋な国の統制下にあれば純良なものでいられるが、いざ政商の飼い犬と化してしまえば、
もはやろくな道義性も保てなくなる実例が、現状の自衛隊と、米軍やNATO軍とであるといえる。

政商の配下に下ることで、侵略能力を伴うような絶大な軍事力を手にするに至る。そのような構図はすでに、
2000年以上前の中国などでも確立されていたことであり、実際に、政商兼秦国の宰相だった呂不韋のように、
政商としての手腕によって武力による中国統一の貢献者となった事例すらもがある。ただ、政商ありきの
ペースで中国を統一した秦帝国は、その政商活動を保たせてやるための甚大な土建事業などによって
人々を酷使し続けて困窮に陥れたために、天下全土の人々から「まだないほうがマシなもの」としての
扱いを受けて、全国規模の反乱によってたった15年で崩壊させられることとなってしまった。
いま、アメリカやイギリスがその秦帝国とほぼ同じような末路を辿りつつあるが、結局、世界中の
人々を富ませてやることができないだけでなく、自分たちが根城とする国すらをもろくに保たせて
やれないのが政商という存在であるわけだから、これ程にも「できなければ困ること」が
ピンポイントにできない不具的存在もまた、他にないといえる。
ぶっちゃけ、国や政府というものは、商売人を統制することを第一の任務とするものである。
人々にとっての本業である農業や必需工業を奨励し、末業である商業やガラクタ工業を控えさせることでこそ、
国というものもまた長期の泰平や繁栄を獲得することができるものなのだから、政商の介在を許して
しまうことなどは、まさに本末転倒の所業以外の何物でもないということが言えるのである。
国が政商を容認したりすることが、国にとっての本末転倒の所業となるからこそ、それによって
国も貧しくなり、挙げ句には傾いて滅ぶこととすらなってしまう。唐代の中国や江戸幕府のような、
隆盛期には極めて良質な治世を築き上げた政権すらもが、末期には塩の闇商人や大坂豪商の組織的暗躍を
許すことで崩壊に見舞われてしまったわけだから、何も秦や北宋や織豊政権の如き。政商を真っ向から
容認していたような政権ばかりが、政商的存在によって滅びているわけでもないということまでもが言える。
この世に極大級の不具をもたらす政商という存在を、その有能さではなく不能さによってこそ
取り締まっていかねばならぬ。そのためには、政商がもたらす利益以上の害というものを、
上記のような大局的考察に即して十分に計り知っておく必要があるのである。
「指人に若かざるときは、則ち之を悪むことを知るも、
心人に若かざるときは、則ち悪むことを知らず。此れ類を知らずと謂うなり」
「自分の指が人並みに動かせないとなれば、大いにこれを嫌悪する一方で、
自分の心が人並みの品性すら保てないことなどは、一向に嫌悪しようともしない。
これこそは、物事の軽重を知らないあり方だといえる。(指一本自由に動かせない
程度の能力的な不能よりも、心の不能のほうがよっぽど恥ずべきことである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句上・一二より)
取り締まっていかねばならぬ。そのためには、政商がもたらす利益以上の害というものを、
上記のような大局的考察に即して十分に計り知っておく必要があるのである。
「指人に若かざるときは、則ち之を悪むことを知るも、
心人に若かざるときは、則ち悪むことを知らず。此れ類を知らずと謂うなり」
「自分の指が人並みに動かせないとなれば、大いにこれを嫌悪する一方で、
自分の心が人並みの品性すら保てないことなどは、一向に嫌悪しようともしない。
これこそは、物事の軽重を知らないあり方だといえる。(指一本自由に動かせない
程度の能力的な不能よりも、心の不能のほうがよっぽど恥ずべきことである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句上・一二より)
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