>>40 ルドルフ・カール・プルトマンでさえもさすがに聖書は真実という信用には『全く当たらない』
とまでは言ってませんが、神話的(伝承的)部分を取り除くと、やはり初期キリスト教徒が
生活の座で述べた信仰告白が新約聖書の根幹となっているのは事実と思われます。さらに福音
書の趣旨はやはりケリュグマであると思います。教会にとって都合の悪いことは闇に葬られた
であろうことは間違いありません。したがって福音書を通じて真の(実在した人間としての)
イエスに迫るのは難しいと言わざるを得ません。
使徒言行録でも、アレクサンドリアからきたアポロというキリスト者が、パウロの教えを更に
上回った立派な事を言って人々を驚かせたというような逸話がありますが、たぶんアポロとい
うのはパウロとは違った教義(たぶんグノーシス主義?)を持っていたのでしょう。
現在に至るキリスト教(それはパウロの思想に他なりません)が確立されるために、様々な
教義が異端として退けられたであろうことは、既に紀元1世紀に書かれたアポロの逸話からも
うかがい知ることが出来ます。それは紀元2世紀に書かれた(らしい)トマスの福音書が20世
紀に再発見されるまで、完全に世間から抹殺されていたことからもわかります。
生活の座における信仰告白というのは、フェニキア女の信仰の逸話(マルコ7-24)が、初期の
教会の混乱をよく表していると思います。
シリアのフェニキアの女が、娘から悪霊を追い出して欲しいと頼むと、イエスの答えは、
『まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取り上げて小犬にやっ
てはいけない』。これに対して女は『主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいた
だいてしまいます』。
これは子供たち=ユダヤ人、小犬=異邦人と解釈するわけですが、するとこれは明らかに異邦人
キリスト信者が、ユダヤ人を上位と位置付ける初期の教会から差別されていたことに対する、不
満を表明したものに他ならないということになります。マルコはどういった意図で異邦人の不満
をイエスの言葉として語ったのか。それはマルコの福音書を書いたマルコが、パウロの伝道旅行
に従ったマルコその人であるという証明のような気がします。
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