聖書の論理が世界を滅ぼす
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1.今の全世界、地球人類社会の政治を独裁しているのが欧米露聖書圏である。
2.今の世界は人口爆発や深刻な環境破壊、核戦争勃発の危機などによって着実な破滅へと向かっている。
3.1と2の事実から「聖書の論理が世界を滅ぼす」と結論付けることができる。
聖書の論理以外の論理によって、人類が確実に滅亡の危機を免れられるか、
必ず人類が繁栄へと導かれるかは、定かではない。しかし、新旧約聖書の論理が世界を滅亡へと
導いていることだけは間違いがないため、人類が「100%確実な、即座の滅亡」を免れるためには、
聖書の論理が世界を動かすことを、滅亡が決定的となる前に、途絶する必要がある。
誰もが薄々気づいていることだが、恐れたじろいで誰もまともに指摘しようとしない事実を、ここに明言する。

2.今の世界は人口爆発や深刻な環境破壊、核戦争勃発の危機などによって着実な破滅へと向かっている。
3.1と2の事実から「聖書の論理が世界を滅ぼす」と結論付けることができる。
聖書の論理以外の論理によって、人類が確実に滅亡の危機を免れられるか、
必ず人類が繁栄へと導かれるかは、定かではない。しかし、新旧約聖書の論理が世界を滅亡へと
導いていることだけは間違いがないため、人類が「100%確実な、即座の滅亡」を免れるためには、
聖書の論理が世界を動かすことを、滅亡が決定的となる前に、途絶する必要がある。
誰もが薄々気づいていることだが、恐れたじろいで誰もまともに指摘しようとしない事実を、ここに明言する。

あ〜いあむあ あんち くらいすと!
からかう余裕 ∝ 助かる余裕
からかう余裕が絶えた時には、助かる余裕も絶えている。
からかう余裕がある内に、助けを乞わなければ助からない。
からかう余裕がある内から、助けを乞えるだけの改悛をしなければならない。
からかう余裕がある内から、助けを乞えるだけの改悛を受け入れることこそは、屈辱である。
からかう余裕がある内から、助けを乞えるだけの改悛を受け入れる屈辱を呑まなければ、助からない。
からかう余裕が絶えた時には、助かる余裕も絶えている。
からかう余裕がある内に、助けを乞わなければ助からない。
からかう余裕がある内から、助けを乞えるだけの改悛をしなければならない。
からかう余裕がある内から、助けを乞えるだけの改悛を受け入れることこそは、屈辱である。
からかう余裕がある内から、助けを乞えるだけの改悛を受け入れる屈辱を呑まなければ、助からない。
そういうことを言うと、
あなたは、常に、イエスの言葉の逆を行わねばならない責任と義務が生じてしまうのだぞ。
是非とも、その結果を報告してもらいたい。
その時真実に気づくだろう。
言葉とは、呪詛なのだ。発した自分を最も縛る呪詛は、実は、自分が発した言葉なのだ。
自分を縛り、不幸にする言葉は発するべきではないのだ。
マタイ12章
12:36あなたがたに言うが、審判の日には、
人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。
12:37あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである。
言葉とは、怖いものなのだ、
それは、キリスト教も、佛教も、ヒンドゥ教も、古神道も、あらゆる宗教が知っている。
真理は、聖書や仏典やその他の聖典の中の、たった一つに気づけば、それが最初の一歩なのだ。
その瞬間が来るのだ。
たった一行の言葉を読んで、聞いて、
「これは、事実だ」
そう気づいた瞬間、真理の目が開けるのだ。
誰でも、ある日、それに気づくのだ。
あなたは、常に、イエスの言葉の逆を行わねばならない責任と義務が生じてしまうのだぞ。
是非とも、その結果を報告してもらいたい。
その時真実に気づくだろう。
言葉とは、呪詛なのだ。発した自分を最も縛る呪詛は、実は、自分が発した言葉なのだ。
自分を縛り、不幸にする言葉は発するべきではないのだ。
マタイ12章
12:36あなたがたに言うが、審判の日には、
人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。
12:37あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである。
言葉とは、怖いものなのだ、
それは、キリスト教も、佛教も、ヒンドゥ教も、古神道も、あらゆる宗教が知っている。
真理は、聖書や仏典やその他の聖典の中の、たった一つに気づけば、それが最初の一歩なのだ。
その瞬間が来るのだ。
たった一行の言葉を読んで、聞いて、
「これは、事実だ」
そう気づいた瞬間、真理の目が開けるのだ。
誰でも、ある日、それに気づくのだ。
権力犯罪聖書——通称聖書にあるイエスなりエホバなりのほざいている戯れ言の
逆を実践するということは、四書五経の記述の実践に務めるということだ。それは
周代や漢代や唐代の中国人、平安時代や江戸時代の日本人などが身を挺して示しているあり方で、
(ただし唐代の中国や平安時代の日本の場合は、仏教の実践も相当に兼ねている)
場合によっては、謀反人や火付盗賊への懲罰などの血なまぐさい事態もあったにしろ、
全体としてはよく泰平や繁栄を保てていた時代で、確実に人類社会が滅亡や困窮へと
追いやられている、犯罪聖書を実践した状態よりは確実にマシな様相を呈していたといえる。
真理や道理がある以上は、完全誤謬や概括誤謬もまたある。
仏教の把捉するものが完全なる真理であったり、儒学の把捉するものが概括的な道理であったり
する一方で、権力犯罪聖書——通称聖書が把捉しているものは、完全なる真理に真っ向から
反する完全誤謬や、概括的な道理に真っ向から反する概括誤謬である。真理とも道理とも
全く無縁なのではなく、本物の真理や道理に真っ向から反する転倒夢想である。だからこそ、
真理や道理と全く無縁な「単なる概念」など以上にも、本物の真理や道理であると錯覚しての
信仰や実践の対象ともしてしまいやすい。とはいえそれはやはり転倒夢想に根ざした邪信であり、
完全誤謬や概括誤謬の実践でしかないため、着実に人類を破滅へと追いやってしまうのである。
逆を実践するということは、四書五経の記述の実践に務めるということだ。それは
周代や漢代や唐代の中国人、平安時代や江戸時代の日本人などが身を挺して示しているあり方で、
(ただし唐代の中国や平安時代の日本の場合は、仏教の実践も相当に兼ねている)
場合によっては、謀反人や火付盗賊への懲罰などの血なまぐさい事態もあったにしろ、
全体としてはよく泰平や繁栄を保てていた時代で、確実に人類社会が滅亡や困窮へと
追いやられている、犯罪聖書を実践した状態よりは確実にマシな様相を呈していたといえる。
真理や道理がある以上は、完全誤謬や概括誤謬もまたある。
仏教の把捉するものが完全なる真理であったり、儒学の把捉するものが概括的な道理であったり
する一方で、権力犯罪聖書——通称聖書が把捉しているものは、完全なる真理に真っ向から
反する完全誤謬や、概括的な道理に真っ向から反する概括誤謬である。真理とも道理とも
全く無縁なのではなく、本物の真理や道理に真っ向から反する転倒夢想である。だからこそ、
真理や道理と全く無縁な「単なる概念」など以上にも、本物の真理や道理であると錯覚しての
信仰や実践の対象ともしてしまいやすい。とはいえそれはやはり転倒夢想に根ざした邪信であり、
完全誤謬や概括誤謬の実践でしかないため、着実に人類を破滅へと追いやってしまうのである。
あたかも、仏典を信仰の対象としたり、四書五経を実践の対象にしたりするようにして、
権力犯罪聖書——通称聖書もまた、信仰や実践の対象とすることができる。しかしそれは、
犯罪聖書の記述が真理や道理に真っ向から反する「作為的な誤謬」の集大成であるからで、
その記述内容までもが、真理や道理そのものに根ざしていたりするからではない。
仏典の基本的な論調:
「生きとし生けるものは皆いつかは必ず死に、死んだ以上は二度と生き返らない」
犯罪聖書の基本的な論調:
「人はたとえ死のうとも、神を信じれば生き返ることができる」
四書五経の基本的な論調:
「父子君臣の関係を第一としてよく、尊重していかなければならない」
犯罪聖書の基本的な論調:
「父子兄弟は殺し合いをし、社会的な上下関係よりも絶対神への服従を優先しろ」
真理や道理が二つも三つも並立している時点で、それは真理でも道理でもなんでもない。
いずれも真理でも道理でないか、もしくはいずれかが真理や道理であり、
それ以外が真理や道理に違う誤謬でないのならば、筋が通らない。
四書五経や仏典の記述を実践や信仰の対象とすれば、我れと人とを総括した人間社会全体が
安寧や繁栄へと導かれる一方、それらの記述に真っ向から反する記述の集大成である
犯罪聖書を信仰や実践の対象とすれば、自分と社会のいずれもが多大なる不幸に見舞われて、
実際に困窮や滅亡と言った破滅へと陥れられる。だから四書五経や仏典の記述こそは
本物の道理や真理に適っていて、犯罪聖書の記述こそは道理や真理に真っ向から反する
概括誤謬以内の完全誤謬以下の代物であるということが言える。
完全誤謬や概括誤謬の塊でしかない、にもかかわらずではなくだからこそ、
信仰や実践の対象としていくこともまたできる。単なる「一般的な虚構」ではなく、
真理や道理に決定的に違背する邪義だけを選別して集めた「特殊な虚構」だからこそ、
あたかも真理や道理を尊ぶようにして、それを尊ぶこともまたできなくはない。
権力犯罪聖書——通称聖書もまた、信仰や実践の対象とすることができる。しかしそれは、
犯罪聖書の記述が真理や道理に真っ向から反する「作為的な誤謬」の集大成であるからで、
その記述内容までもが、真理や道理そのものに根ざしていたりするからではない。
仏典の基本的な論調:
「生きとし生けるものは皆いつかは必ず死に、死んだ以上は二度と生き返らない」
犯罪聖書の基本的な論調:
「人はたとえ死のうとも、神を信じれば生き返ることができる」
四書五経の基本的な論調:
「父子君臣の関係を第一としてよく、尊重していかなければならない」
犯罪聖書の基本的な論調:
「父子兄弟は殺し合いをし、社会的な上下関係よりも絶対神への服従を優先しろ」
真理や道理が二つも三つも並立している時点で、それは真理でも道理でもなんでもない。
いずれも真理でも道理でないか、もしくはいずれかが真理や道理であり、
それ以外が真理や道理に違う誤謬でないのならば、筋が通らない。
四書五経や仏典の記述を実践や信仰の対象とすれば、我れと人とを総括した人間社会全体が
安寧や繁栄へと導かれる一方、それらの記述に真っ向から反する記述の集大成である
犯罪聖書を信仰や実践の対象とすれば、自分と社会のいずれもが多大なる不幸に見舞われて、
実際に困窮や滅亡と言った破滅へと陥れられる。だから四書五経や仏典の記述こそは
本物の道理や真理に適っていて、犯罪聖書の記述こそは道理や真理に真っ向から反する
概括誤謬以内の完全誤謬以下の代物であるということが言える。
完全誤謬や概括誤謬の塊でしかない、にもかかわらずではなくだからこそ、
信仰や実践の対象としていくこともまたできる。単なる「一般的な虚構」ではなく、
真理や道理に決定的に違背する邪義だけを選別して集めた「特殊な虚構」だからこそ、
あたかも真理や道理を尊ぶようにして、それを尊ぶこともまたできなくはない。
「始め吾れの人に於けるや、其の言を聴きて其の行を信ず。
今吾れの人に於けるや、其の言を聴きて其の行を観る」
「昔、わたしは人の言葉を聞けば即座にその行いまでをも信じた。今は改めて、
仮に人の言葉を聞いたとしても、必ずその行いにまで注意を向けるようにしている。
(言葉はよさげでも行いは非道だったり、口汚くても行いは正しかったりするから)」
(真正福音書——論語——公冶長第五・一〇より)
権力犯罪聖書——通称聖書の逆を実践するために、何も仏典の実践にまで務める必要はない。
ごく当たり前な道理を無宗教的に取り揃えた、四書五経の記述を実践するだけでも十分である。
それだけで、儒学の実践に特に忠実だった前漢の頃の中国や、江戸時代の日本程度の繁栄は達成できる。
確かに当時の中国や日本にも、謀反の多発や匈奴との小競り合い、火付盗賊の一時的な横行などの
問題は来たしていたが、それとて、世の中の破滅を決定付けるほどのものではなかった。しかも、
漢帝国や江戸幕府の崩壊を決定付けたのは、黄巾党のようなカルト集団の跳梁や、米英を始めとする
侵略勢力による外圧であり、それにより儒学の実践が妨げられたからこそ、崩壊をも来たしたのだった。
四書五経だけでなく、仏典の実践にまで及んだときに、世界最高の文化大国となった大唐帝国や、
死刑一つ行う必要もないほどに罪業が絶やされた平安朝ほどもの未曾有の治世が達成される。
それもまた選択肢としてあることはあるが、それはもはや「聖書の記述の逆の実践」なんていう
低レベルな領域に止まらない、より積極的な断悪修善の先にこそある代物なので、今はまだ措く。
まるで、ザラスシュトラがアンラマンユを罵倒するようにして、俺もイエスやエホバに対して、
「ほざく」とか「戯れ言」とかの侮辱的な言葉を用いている。これも、漢代の中国や江戸時代
の日本であれば、まだある程度は容認されていた程度のたわ言だから用いているのであって、
侮蔑一つ許されることがないような時代が到来するのは、まだ先のことだと踏んでいるからだ。
言葉の良し悪しなど以上にも、行いの良し悪しのほうを重視する、四書五経の実践にもなっている。
今吾れの人に於けるや、其の言を聴きて其の行を観る」
「昔、わたしは人の言葉を聞けば即座にその行いまでをも信じた。今は改めて、
仮に人の言葉を聞いたとしても、必ずその行いにまで注意を向けるようにしている。
(言葉はよさげでも行いは非道だったり、口汚くても行いは正しかったりするから)」
(真正福音書——論語——公冶長第五・一〇より)
権力犯罪聖書——通称聖書の逆を実践するために、何も仏典の実践にまで務める必要はない。
ごく当たり前な道理を無宗教的に取り揃えた、四書五経の記述を実践するだけでも十分である。
それだけで、儒学の実践に特に忠実だった前漢の頃の中国や、江戸時代の日本程度の繁栄は達成できる。
確かに当時の中国や日本にも、謀反の多発や匈奴との小競り合い、火付盗賊の一時的な横行などの
問題は来たしていたが、それとて、世の中の破滅を決定付けるほどのものではなかった。しかも、
漢帝国や江戸幕府の崩壊を決定付けたのは、黄巾党のようなカルト集団の跳梁や、米英を始めとする
侵略勢力による外圧であり、それにより儒学の実践が妨げられたからこそ、崩壊をも来たしたのだった。
四書五経だけでなく、仏典の実践にまで及んだときに、世界最高の文化大国となった大唐帝国や、
死刑一つ行う必要もないほどに罪業が絶やされた平安朝ほどもの未曾有の治世が達成される。
それもまた選択肢としてあることはあるが、それはもはや「聖書の記述の逆の実践」なんていう
低レベルな領域に止まらない、より積極的な断悪修善の先にこそある代物なので、今はまだ措く。
まるで、ザラスシュトラがアンラマンユを罵倒するようにして、俺もイエスやエホバに対して、
「ほざく」とか「戯れ言」とかの侮辱的な言葉を用いている。これも、漢代の中国や江戸時代
の日本であれば、まだある程度は容認されていた程度のたわ言だから用いているのであって、
侮蔑一つ許されることがないような時代が到来するのは、まだ先のことだと踏んでいるからだ。
言葉の良し悪しなど以上にも、行いの良し悪しのほうを重視する、四書五経の実践にもなっている。
>>11
>視野の広狭の極致でもある、絶対的な境地でもあるんじゃないか。
意味が分かりません。補足説明お願いします。
>犯罪聖書の基本的な論調:「父子兄弟は殺し合いをし、社会的な上下関係よりも絶対神への服従を優先しろ」
「社会的な上下関係」がないのはその通りだと思いますが、(天の父である神の前では人類皆兄弟)「父子兄弟は殺し合いを」は聖書のどの箇所に書かれているのですか?もしかして聖書を通読されたことがないのですか?
次の聖書の抜粋をどう解釈されますか?
そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
イエスは言われた。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』(マタイ22:35〜39)
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)
>視野の広狭の極致でもある、絶対的な境地でもあるんじゃないか。
意味が分かりません。補足説明お願いします。
>犯罪聖書の基本的な論調:「父子兄弟は殺し合いをし、社会的な上下関係よりも絶対神への服従を優先しろ」
「社会的な上下関係」がないのはその通りだと思いますが、(天の父である神の前では人類皆兄弟)「父子兄弟は殺し合いを」は聖書のどの箇所に書かれているのですか?もしかして聖書を通読されたことがないのですか?
次の聖書の抜粋をどう解釈されますか?
そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
イエスは言われた。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』(マタイ22:35〜39)
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)
>>13
「斉の景公政を孔子に問う。孔子対えて曰く、君君たり、臣臣たり、父父たり、子子たり」
「斉の景公が孔先生に政治のあり方を問うた。孔先生は答えて言われた。『主君は主君として、
臣下は臣下として、父は父として、子は子として、それぞれの身分をよくわきまえることです』」
(真正福音書——論語・顔淵第十二・一一より)
権力道徳学者たる孔子が述べる政治とは、すなわち仁徳に根ざした治世のことであり、
その徳治の実現のためにこそ、君臣父子上下の身分関係がよくわきまえられる必要があるという。
君臣父子の上下関係を蔑ろにすることが乱世に繋がるのは、春秋戦国時代の中国における、
君父の尊位の著しい毀損を共にした引っ切り無しの戦乱状態や、「神の下での万人の平等」
などという邪義によって社会的上下関係を蔑ろにし続けてきたキリスト教圏における、
ひっきりなしの戦乱状態などからも実証されていることである。
「近きを釈てて遠きを謀る者は、労すれども功無し。遠きを釈てて近きを謀る者は、佚して終わり有り」
「近隣のことよりも遠方のことを重視する者は、どんなに苦労をしても功績を挙げられない。
遠方のことよりも近隣のことを重視する者は、比較的容易に目的を達成することができる」
(武経七書・三略・下略・三より)
君臣上下の秩序が乱れた結果来たしてしまった戦乱状態において、遠方のことを棄てて近隣だけを
重視することが、確かに兵法上、有効ではある。「神の下での万人の平等」などという邪義によって
引っ切り無しの戦乱状態に陥れられたキリスト教圏において、何とか自分が生き延びていく術
としても確かに隣人愛が有効となるが、それは必要もなくわざわざあえてもたらされた戦乱状態
におけるマッチポンプな自己救済の指南でしかなく、そもそも戦乱状態を来たしていないのなら、
釈遠謀近をカルト教義として美化した隣人愛などに惑溺したりする必要もないのである。
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。
平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。
人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる」
(権力犯罪聖書——通称聖書——マタイ禍音書10:34‐36)
「斉の景公政を孔子に問う。孔子対えて曰く、君君たり、臣臣たり、父父たり、子子たり」
「斉の景公が孔先生に政治のあり方を問うた。孔先生は答えて言われた。『主君は主君として、
臣下は臣下として、父は父として、子は子として、それぞれの身分をよくわきまえることです』」
(真正福音書——論語・顔淵第十二・一一より)
権力道徳学者たる孔子が述べる政治とは、すなわち仁徳に根ざした治世のことであり、
その徳治の実現のためにこそ、君臣父子上下の身分関係がよくわきまえられる必要があるという。
君臣父子の上下関係を蔑ろにすることが乱世に繋がるのは、春秋戦国時代の中国における、
君父の尊位の著しい毀損を共にした引っ切り無しの戦乱状態や、「神の下での万人の平等」
などという邪義によって社会的上下関係を蔑ろにし続けてきたキリスト教圏における、
ひっきりなしの戦乱状態などからも実証されていることである。
「近きを釈てて遠きを謀る者は、労すれども功無し。遠きを釈てて近きを謀る者は、佚して終わり有り」
「近隣のことよりも遠方のことを重視する者は、どんなに苦労をしても功績を挙げられない。
遠方のことよりも近隣のことを重視する者は、比較的容易に目的を達成することができる」
(武経七書・三略・下略・三より)
君臣上下の秩序が乱れた結果来たしてしまった戦乱状態において、遠方のことを棄てて近隣だけを
重視することが、確かに兵法上、有効ではある。「神の下での万人の平等」などという邪義によって
引っ切り無しの戦乱状態に陥れられたキリスト教圏において、何とか自分が生き延びていく術
としても確かに隣人愛が有効となるが、それは必要もなくわざわざあえてもたらされた戦乱状態
におけるマッチポンプな自己救済の指南でしかなく、そもそも戦乱状態を来たしていないのなら、
釈遠謀近をカルト教義として美化した隣人愛などに惑溺したりする必要もないのである。
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。
平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。
人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる」
(権力犯罪聖書——通称聖書——マタイ禍音書10:34‐36)

この犯罪聖書中の教条は、
「競争不参加者を競争参加者以上にも迫害する」
という習性を聖書信者に植え付けた。
そのため、一部の郷原(世間知らずなの偽善者)の放任を通じて
聖書圏の資本主義者との競争にも臨んだ日本人以上にも、
経済競争に始めから参加すらしないでいようとし続けてきた
大陸人こそは、徹底的な迫害下に置かれ続けてきたのである。
特に、被迫害者としての傾向が著しいのがインドの人々で、帝国主義の競争にも、
資本主義の競争にも本格的には参加しなかったことから、一人頭の資産保有率では、
ブラックアフリカとも並んで、世界の底辺を這い続けているような状態にある。
際限のない争いで愛し合うことが、世界規模での富の過剰な不均衡をもたらす。
マタイ音福書10:34‐36
は文字通り、「殺し合いをせよ」ではなく、
ユダヤ教の古くからの慣習や律法に、
がんじがらめになっている不幸な世界を根底から剣をもって
イエスがたたき直そうという意味だと思います。
家族内であるのは、
家族という社会の最小単位から変革が必要だということからです。
は文字通り、「殺し合いをせよ」ではなく、
ユダヤ教の古くからの慣習や律法に、
がんじがらめになっている不幸な世界を根底から剣をもって
イエスがたたき直そうという意味だと思います。
家族内であるのは、
家族という社会の最小単位から変革が必要だということからです。
マタイ禍音書10:34‐36のイエキリの暴言は、旧約権力犯罪聖書にあるモーセの十戒、
1.主以外の何者も神としてはならない。
2.偶像を作ってはならない。
3.主の名をみだりに唱えてはならない。
4.週に一度は休日としなさい。
5.父母を敬いなさい。
6.何をも殺してはならない。
7.姦淫してはならない。
8.盗みを働いてはならない。
9.偽証してはならない。
10.他人の物を欲しがってはならない。
のうちの5「父母を敬いなさい」の破戒を信者に促したものであることが分かる。
一方で、イエキリの物言いはどれもこれも、唯一無二の主なる神の存在を肯定することを
前提としたものばかりであり、十戒中の1「主以外の何者も神としてはならない」という
戒律の破戒やその奨励を試みた形跡などは、一切見られない。
モーセの十戒は、人間道徳や仏法に根ざしても善良であると見なせる戒律(5〜10)と、
悪質もしくは無意味としか見なしようのない戒律(1〜4)のみそくそとなっていて、
もしも破戒を促すというのなら、善良な5〜10の戒律ではなく、悪質ないし無意味な
1〜4の戒律の破却を促すべきであるのに、イエキリと来たら、5のような優良極まりない
戒律の破戒を促しておいて、1のような劣悪極まりない戒律のほうは取り置こうとしている。
善良な戒律と、悪質無意味な戒律のみそくそである十戒の、善い部分だけを棄てて、
悪い部分だけを持ち越すことを促したのがイエキリであり、旧来の政商カルト詐欺の
あり方に一石を投じようとしたにしても、劣悪さの重畳に加担したとしか言ようがない。
1.主以外の何者も神としてはならない。
2.偶像を作ってはならない。
3.主の名をみだりに唱えてはならない。
4.週に一度は休日としなさい。
5.父母を敬いなさい。
6.何をも殺してはならない。
7.姦淫してはならない。
8.盗みを働いてはならない。
9.偽証してはならない。
10.他人の物を欲しがってはならない。
のうちの5「父母を敬いなさい」の破戒を信者に促したものであることが分かる。
一方で、イエキリの物言いはどれもこれも、唯一無二の主なる神の存在を肯定することを
前提としたものばかりであり、十戒中の1「主以外の何者も神としてはならない」という
戒律の破戒やその奨励を試みた形跡などは、一切見られない。
モーセの十戒は、人間道徳や仏法に根ざしても善良であると見なせる戒律(5〜10)と、
悪質もしくは無意味としか見なしようのない戒律(1〜4)のみそくそとなっていて、
もしも破戒を促すというのなら、善良な5〜10の戒律ではなく、悪質ないし無意味な
1〜4の戒律の破却を促すべきであるのに、イエキリと来たら、5のような優良極まりない
戒律の破戒を促しておいて、1のような劣悪極まりない戒律のほうは取り置こうとしている。
善良な戒律と、悪質無意味な戒律のみそくそである十戒の、善い部分だけを棄てて、
悪い部分だけを持ち越すことを促したのがイエキリであり、旧来の政商カルト詐欺の
あり方に一石を投じようとしたにしても、劣悪さの重畳に加担したとしか言ようがない。
「見よ、わたし(イエス・キリスト)は戸口に立って、(門を)たたいている。
だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入って
その者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」
(権力犯罪聖書——通称聖書——ヨハネ妄想録3:20)
上記のイエキリの暴言とされる言葉なども、モーセのくそみそ十戒の10、
「他人の物を欲しがってはならない」の破戒にも通ずる言葉となっていて、
もしもイエキリの行いに信者が倣うというのであれば、他人のものまで
当たり前のように我が物とするジャイアニズムを、信者にけしかけることにもなる。
ちなみに、上記のイエキリのものとされる行い、
下の「詩経」の歌における、イナゴやクツワムシの振る舞いともそっくりである。
「五月にはイナゴが股を動かして鳴き出し、六月にはクツワムシが羽を振って鳴き始める。
小虫たちが七月には野にあり、八月には家の軒下に近寄り、九月には戸口の前にやってくる。
外も寒気がさし始めた十月には、小虫たちはついには床の中にまで入ってこようとする。
そこで部屋のありとあらゆる穴を塞いで燻すことで元からいる鼠などを追い出し、
窓も塞いで戸口の隙間も塗り固めて、小虫たちが入ってこないようにする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・豳風・七月より)
まさに、イエキリのあり方に倣おうとした聖書信者がもたらした
世界的災禍は、人間版の「イナゴの大量発生」であったのだといえる。
だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入って
その者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」
(権力犯罪聖書——通称聖書——ヨハネ妄想録3:20)
上記のイエキリの暴言とされる言葉なども、モーセのくそみそ十戒の10、
「他人の物を欲しがってはならない」の破戒にも通ずる言葉となっていて、
もしもイエキリの行いに信者が倣うというのであれば、他人のものまで
当たり前のように我が物とするジャイアニズムを、信者にけしかけることにもなる。
ちなみに、上記のイエキリのものとされる行い、
下の「詩経」の歌における、イナゴやクツワムシの振る舞いともそっくりである。
「五月にはイナゴが股を動かして鳴き出し、六月にはクツワムシが羽を振って鳴き始める。
小虫たちが七月には野にあり、八月には家の軒下に近寄り、九月には戸口の前にやってくる。
外も寒気がさし始めた十月には、小虫たちはついには床の中にまで入ってこようとする。
そこで部屋のありとあらゆる穴を塞いで燻すことで元からいる鼠などを追い出し、
窓も塞いで戸口の隙間も塗り固めて、小虫たちが入ってこないようにする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・豳風・七月より)
まさに、イエキリのあり方に倣おうとした聖書信者がもたらした
世界的災禍は、人間版の「イナゴの大量発生」であったのだといえる。
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スレッドタイトル:聖書の論理が世界を滅ぼす