動機においてはそのとおり。
人間の精神世界の消息をたどり、その辺縁に至らんとする探求の出発点は人間の発見であるから。
しかし、その探求そのものは、自らのたましいの奥底に向かう思弁的な孤独な旅路だ。
ブッダやイエスの思想も人との雑多な交わり中で紡がれたものではない。
それから、カントの時代のドイツ文人が、19世紀国民国家誕生の黎明にあって
国民という文明史に登場したまったく新しい集団を、どのような精神において組織しうるか、しうるべきか?
という未曾有の課題に立ち向かった事を前提にしなくては、彼らのめざしたもの自体が見えにくくなる。
「二人のハインリヒ」H・トライチュケとH・グレーツ。プロイセンの歴史学の父と敬愛された学者と、ユダヤ文人の著名な論争書簡がある。
ニイツェやリルケの苦悩にまで至る、あるいはローゼンベルクの酸鼻を極めた失墜に至る、
19世紀ドイツ精神の苦闘の黙示のような輪郭がそこにある。イスラエル建国精神にもつながりかねないようなね。
NHKドラマ、タイトルなんだっけ?吉田松陰が同じ動機によって苦闘したことがかすかに忍ばれるよ。
ニイツェ風にいえば「神が太古の人間の祖先であり、英雄が現世の人間とつながる失墜した神の子、あるいは呪われ滅びを約束された神の子であるなら、
ドイツの新しい歴史の神話が今綴られているのだ。神のように生き、英雄のように人間世界に下っていくのだ」
とかなんとか。
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