カントの哲学について語ろう!


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001 2011/04/29(金) 05:51:54 ID:HztDmUoU9s
イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724年4月22日 - 1804年2月12日)は、プロイセン王国出身の思想家で大学教授である。
近代において最も影響力の大きな哲学者の一人である。
『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらす。
ドイツ観念論哲学の祖ともされる。

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005 2011/05/04(水) 10:43:10 ID:4jydPro71.
カントの臨終間際の言葉「これでいい(Es ist gut.)」も、
紀元前の諸子百家の直筆の一つである「列子」に出てくる。

未開の僻地に、長男を家内安全の祈願のための生贄にして食ってしまう奇習
を持つ蛮族がいることなどを受けて、老荘に次ぐ道家の偉人として知られる
列子こと列御寇が「これでもいい(未だ異と為すに足らず)」と断じている。
(「列子」湯問第五・六を参照)

列子の場合は、長男こそを家督相続者とする正統な封建制の実在をも踏まえた上で、異端の
蛮族の悪習としての長男殺しにも「それはそれで別にいい」という判断を加えているわけで、
これは、優良なものも劣悪なものもあっていいのだという「万物斉同」の理念に即している。

一方で、カントのほうはといえば、人々を悩乱ばかりに陥れる、晦渋なわりに実質は不実な
机上の空論哲学を数多捏造しまくっておいて、挙句に「これでいい」といいつつ死んだわけで、
ひょっとしたら列子もまた「それでいい」とすら言うかもしれないが、正統な思想哲学も
わきまえた上で、異端の雑学なども「それはそれであり」とするのではなく、異端の雑学
ばかりしか知らないままの状態で「これでいい」とするのでは、真理からはあまりにも
程遠いというようなことをも列子はいっている(「列子」仲尼第四・十六などを参照)。

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006 2011/05/11(水) 08:13:00 ID:yzRRzS6flg:SoftBank
明和にカント原書で読める奴なんていねーだろ

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007 2011/05/21(土) 19:24:47 ID:RnlbC4s.LU
>>2>>5
スレを立てた人の気持ちを無視してそんなレスをするような人が
何か真実について知っているとも思えないし、
仮に何か知っていたとしても何も学べないだろう。

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008 2012/06/22(金) 00:50:09 ID:pTNIHn/gr2
009 2013/02/03(日) 17:18:50 ID:ZNUOQhor.6
「カント」って言葉、口にするの、ちょっと恥ずかしかったりする。

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010 2013/02/04(月) 01:43:09 ID:3DaWUrm9xA
>>6
文字をなぞると言う文字通りの意味での読む、ならいるかもしれんけど
読解するのはそこらへんの哲学の院生でも怪しいからなあ・・・。

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011 2013/04/06(土) 14:28:29 ID:qJ9NjTVR7g
カントはまだそれなりのことを言ってるだろ
その後に続く奴らが先鋭化させて
なんのこっちゃ分からんことになっただけで

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012 2013/04/12(金) 15:43:30 ID:rQBu1HkToM
人間が成長するにしたがって形成されてゆく人格のうちで、
体験的に獲得してゆくもの以外に「先天的なもの」と「先験的なもの」が存在する事を発見した。
「人間の」利他的行動が利己的行動より古く、精神の位階の上位に属する先天的な性質とした。
古くから利己的行動は動物本能由来であり、利他的行動が文明的であるとされてきたが、
逆に、利己的行動は「人間」が人間として自覚した段階以降で得た物質的欲望の範疇で、
むしろ利他的行動のほうが、社会行動を行う動物の古い性質を文明的に発展させたものである。
したがって利他的行動は先天的であり、利己的行動は先験的であるとされる。

誕生以前に既に与えられた精神の神殿をもって、人はこの世で人格を育むのである。
先験的、体験的な性質を削り落とし、磨き上げられてゆく理性=善や正義、道徳の姿が
「純粋理性批判」であり、それが日頃安易に使う善や正義とは全く異なる、
容易には手にできない厳しい光を放つ宝石であることが「実践理性批判」に綴られている。
難しいのはその精緻で複雑な証明過程のせいではなかろうか?

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013 2013/04/13(土) 14:39:31 ID:QYL22AE2lk
パソコンでたとえると
「先天的なもの」=Basic
「先験的なもの」=OS
「体験的なもの」=Application Soft
でいいのかな?

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014 2013/04/20(土) 15:38:40 ID:er6iLJAiCg
今日、ママンが死んだ。

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015 2013/10/20(日) 21:23:14 ID:N459CXo5Cs
私は論理的なものが自分自身としても好きだし、これまで良くも悪くも西洋人が世界を
リードしてきたのは論理的思考を受け入れる土壌が西洋社会に十分あったからだと思う。
だから、そういった方向に突き進むことができれば政治問題も環境問題も解決しやすい
から、国のためにも絶対よいはずだ。私はそうやって国のためになりたい。

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016 2013/10/20(日) 21:37:55 ID:N459CXo5Cs
カントの理論が数学と少し違うことは面白い。
数学は1+1=2だが、カント哲学は1+1=2に等しいだけの1+1だ。
つまり1+1=1+1であり2ではないのだ。まあ確かにそういう考え方も
よく考えたら可能だ。

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017 2014/09/15(月) 16:52:57 ID:TsvFaBndMc
なるほどね。

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018 2014/09/17(水) 01:22:20 ID:FDASlnoeLc
>>7

批判的論証に耐えられないのなら哲学など辞めてしまえ。

発言者の気持ち??

哲学はいつからご機嫌取りのおべんちゃらに成り下がったんだ。
君は哲学に近寄るには愚かすぎる。

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019 2014/09/17(水) 01:29:06 ID:FDASlnoeLc
>>13

パソコンでたとえると
「先天的なもの」=ハードウェアの論理回路
「先験的なもの」=OS
「体験的なもの」=値
じゃないか?

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020 2014/09/24(水) 16:16:20 ID:VZiko5Qcqw
>>16
つまり半人前がふたりそろっても一人前にはならず
半人前が倍になるってことですね。
わかる〜

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021 2014/09/25(木) 14:26:04 ID:8P6fSjq9OQ
そういう見方すれば、
人気とか世論とか炎上とか…
数をかさに着ても、マイナスの累乗ってことになるなあ
わかる〜

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022 2014/11/29(土) 13:51:27 ID:LHgrvlrJzQ
あ、そうですか。

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023 2015/01/18(日) 00:49:18 ID:lMY8YtU6vs
「先天的なもの」=おなにい
「先験的なもの」=せくろす
「体験的なもの」=はってんば

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024 2015/03/15(日) 10:31:06 ID:D5wjyiJ1Ww
カントは「徳」と「福」との原理的な不一致に固執した上で前者の価値の絶対的な優位を説いているが、
いま挙げたような道徳に直接かかわらない価値がいくつも存在するという問題とは別に、次のような洞察もまた重要である。
 それは、私たちの生活の現実の中には「善」と「快」、「徳」と「福」とは、事実上一致している場合が非常に多いという点である。
両者はけっしていつもぶつかり合うわけではないのだ。
 たとえば、困っている人を助けると相手が喜ぶのはもちろん、自分もいい気持になる。我を通さずに譲る気持ちをもつと、
自分のなかに余裕のある心が確認できて満足感を抱く。
 これはなぜだろうか。
 エゴイズムだけの観点からこの現象を分析すれば、自分が優位に立てたからだとか、相手に感謝されることが自分の価値を高め、
自己愛を満たすように感じられるからだといった指摘以上に出ることはないだろう。
だがこれは間違いとは言えないにしても、同義反復の思考停止というべきである。

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025 2015/04/14(火) 16:53:27 ID:JqNph5i3Ws
ケーニヒスベルクの思想家であるカントによれば、私たちが物において置く(=感覚する)ことしか、先験的に(=必然的なやり方で)物を知ることが出来ない(『純粋理性批判』Kritik der reinen Vernunft (第二版への序文)。
カントによれば、人間は「物自体」(Ding an sich)を認識できない。認識の対象は、感覚に与えられ得るものだけであり、人間理性は、ただ感性にあたえられるものを直観し、これに純粋悟性概念を適応するにとどまる。
カントによると、人間が物それ自体が何であるかその本性が何であるかその真理が何であるか現実が何であるか、知り得ない。
カントは、人間悟性は自分の内部(に映る現象)を知るに留まる、とした。今まで、人間の外部にある物事が、人間の知性を規定してこれが何かを知らしめた、これからはカントによれば、人間の悟性が物を規定する、とした。

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026 2015/05/10(日) 17:53:09 ID:LcE84JayRE
一生、女性を知らなかったなんて・・・・。
良い人生だったのかな?

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027 2015/05/10(日) 21:05:33 ID:3I5Bh/IvU.
内部にあるものを発見するのがすごいんだよ、人生は。
内部に何かが見つけられるからすごいんだよ、人間は。
でも、それを掘り下げ、発見するためには、徹頭徹尾、外部との交渉が不可欠。

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028 2015/05/11(月) 14:10:44 ID:Q3rtzeZToQ
動機においてはそのとおり。
人間の精神世界の消息をたどり、その辺縁に至らんとする探求の出発点は人間の発見であるから。
しかし、その探求そのものは、自らのたましいの奥底に向かう思弁的な孤独な旅路だ。
ブッダやイエスの思想も人との雑多な交わり中で紡がれたものではない。

それから、カントの時代のドイツ文人が、19世紀国民国家誕生の黎明にあって
国民という文明史に登場したまったく新しい集団を、どのような精神において組織しうるか、しうるべきか?
という未曾有の課題に立ち向かった事を前提にしなくては、彼らのめざしたもの自体が見えにくくなる。

「二人のハインリヒ」H・トライチュケとH・グレーツ。プロイセンの歴史学の父と敬愛された学者と、ユダヤ文人の著名な論争書簡がある。
ニイツェやリルケの苦悩にまで至る、あるいはローゼンベルクの酸鼻を極めた失墜に至る、
19世紀ドイツ精神の苦闘の黙示のような輪郭がそこにある。イスラエル建国精神にもつながりかねないようなね。

NHKドラマ、タイトルなんだっけ?吉田松陰が同じ動機によって苦闘したことがかすかに忍ばれるよ。
ニイツェ風にいえば「神が太古の人間の祖先であり、英雄が現世の人間とつながる失墜した神の子、あるいは呪われ滅びを約束された神の子であるなら、
ドイツの新しい歴史の神話が今綴られているのだ。神のように生き、英雄のように人間世界に下っていくのだ」
とかなんとか。

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029 2015/05/12(火) 23:03:25 ID:08nXBCaycg
外部とは外界のことで、他人はそのうちの一つに過ぎず
瞑想したって、夢の無意識の中にだって、外界のコピーは出現する
氏か育ちかというときの「育ち」全部が外界

孤独な散歩者と哲学醸成関係なし。

遅れてきた日本とドイツの近代国民国家建設の、遅れてきたが故の優位性が先走ってNGが出された。
これが二十世紀中葉。
それに先立つ、もっと遅れた国家たちの共産化はゆっくり破綻したが、
ドイツと日本は第二次世界大戦でぶっ潰された。

鬼っ子たちは、一方は個人崇拝カリスマ=ファシズム(民主主義のカリカチュア)、他方は反則技の禁じ手、「現人神」を使用した。
似たようなものだが、日本の方がかえってシステマチックだった。
共産主義はなお一層科学的を装いつつも、明らかな似非で、結局は一党独裁という非民主的全体主義の亜流に堕した。
中共はどうやって滅ぼされるのだろうか?

カント関係ないな。

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030 2015/05/13(水) 11:49:22 ID:M8c0dtkm1s
カントというか、政治の技術的解釈は
歴史とはまして哲学とはなじまないのではないかと?

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031 2015/06/06(土) 07:26:38 ID:LcUvUZ0AMQ
①将来の戦争の種を残す「平和条約」は、決して平和条約と見なされてはならない。
②いかなる独立国家に対しても、継承・交換・買収・贈与によって、他国が取得することがあってはならない。
③常備軍は、時とともに全廃されなければならない。
④国家の対外紛争に関しては、いかなる国債も発行されてはならない。
⑤いかなる国家も、他国の体制や統治に対して、暴力をもって干渉してはならない。
⑥いかなる国家も、他国との戦争において、将来の平和時における相互信頼を不可能にするような行為(暗殺者の雇用、降伏条約に違反、敵国内での裏切り教唆など)をしてはならない。

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032 2015/06/16(火) 18:00:30 ID:mO9A1et842
この世を去る時
「これでいい。」と
言ったんですか?

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033 2015/06/29(月) 17:07:18 ID:yIxEt44En.
一生、女性を知らなかったし。
それでよかったの?

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034 2015/06/29(月) 22:11:29 ID:yKUUPSl87M
世界最高峰の登頂を目指したものに、
「ちんちんいぢってる方が楽しい」
と言うに等しい。

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035 2015/07/18(土) 10:37:02 ID:urNJ/9zUXE
そうですか。
すみません。

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036 2015/11/22(日) 12:33:33 ID:fDBK..UA8w
自分と他人。
その関係を述べた哲学だろうか?

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037 2016/01/02(土) 13:14:23 ID:Xw0D1nWqtw
自分勝手な面を捨てればよいのか?

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038 2016/02/09(火) 16:31:29 ID:xySnjz3Gco
カントは、人間は「どのような人によっても、他人によっても、自分自身によってさえも、
単に手段として利用されることはできず、つねに同時に目的として用いられねばならない」
「この点にこそまさに人間の尊厳がある」と説いた。(『人倫の形而上学の基礎づけ』)
 人間は、個人個人が尊厳を備えている。
個人は、何かの目的を実現するために、単に手段とされてはならない。
その実現すべき目的そのものでなければならない。
だが、また単に目的とされるのではなく、互いがその目的を実現する手段となって、協力し合わなければならない。

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039 2016/05/22(日) 15:09:44 ID:2wIaj2b9Fk
[YouTubeで再生]
純粋理性批判、プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

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040 2016/08/18(木) 12:54:30 ID:21NSGcEo1s
自分の事ばかり考えてはいけない。
他人もいるのだ。

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041 2016/09/22(木) 09:07:47 ID:W0Lm0Ip4Jk
[YouTubeで再生]
経験論・合理論への批判

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042 2016/11/23(水) 11:13:58 ID:H9eLaxjTew
カントの三角形

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043 2016/12/29(木) 12:05:43 ID:qiWQlHKojE
ドイツには現在、16の国立公園、15の生物圏保護区、104の自然公園、そして8000以上の自然景観保護地区があり、これらを合わせた面積は、国土の約48%に相当する。
ドイツの森林は、モミの木に似ているトウヒ(25%)、松(22%)、ブナ(15%)などで構成され、7万7500種類の野生動物が生息している。
ドイツには、北海とバルト海という二つの海と、ライン川(865km)、エルベ川(727km)、ドナウ川(647km)など国境を越えて流れるいくつもの河川がある。

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044 2017/02/20(月) 19:34:52 ID:dCZmrZiKYE
孤独に生きるのも、いいかもね。

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045 2017/03/29(水) 17:11:07 ID:RI0JIHY4q6
のどかな昼下がり、小鳥のさえずりを聞きながら、草原でゆったりと
していたとします。静かでのどかで平和な世界です。

ところが、そばにいる、犬のポチは落ち着きません。

どうしてかというと、騒がしく犬笛がなっているからです。
犬笛は人間の耳には聞こえません。
ですから、私は「しずかなのどかな世界」と思っています。

ところが、同じ場所に同じ時間にいるはずのポチには大変騒がしい
世界に感じられます。

どちらが正しいのでしょうか?
どちらも正しいともいえますし、どちらも間違っているともいえますね。

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046 2017/07/08(土) 11:36:51 ID:QQuPMYaFeU
ポチが正しいです。

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047 2017/07/08(土) 13:30:18 ID:K1398y1ZUg
>>46
そうだね、
自分が今ただちに不快と感じないことに関心が向かない。
というのは、哲学や社会学において思索の基軸ではない。
むしろ克服すべき命題だからね。

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048 2017/08/14(月) 17:49:42 ID:Zx8jSYzFao
啓蒙とは人間が自ら招いた未成年状態から抜け出ることである。未成年状態とは、他人の指導なしには自分の悟性を用いる能力がないことである。

 この未成年状態の原因が悟性の欠如にではなく、他人の指導がなくとも自分の悟性を用いる決意と勇気の欠如にあるなら、未成年状態の責任は本人にある。

 したがって啓蒙の標語は「あえて賢くあれ!」「自分自身の悟性を用いる勇気を持て!」である。

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049 2017/12/08(金) 16:18:40 ID:3eJwC9rzGg
アドルノとホルクハイマーが活動をしていた1930年代ドイツといえば、ご存知のようにナチスドイツが台頭し始めた時期です。
アドルノもホルクハイマーもユダヤ人であったため、ナチスの迫害の対象になってしまいます。
2人は大学教授の資格を剥奪されて、仕事まで奪われてしまったのです。彼らはドイツ社会の仕打ちに対して失望を覚え、ナチスの野蛮性に対して強い憤りを感じました。
その後、ユダヤ迫害が激しくなるにつれて、アドルノとホルクハイマーはドイツにはいられなくなり、ニューヨークへと亡命しました。
しかしそこで彼らはナチスとはまた違った困難に直面しました。
当時のアメリカの社会学は統計的手法を用いた実証分析が主流であり、彼らのような(実証分析派からみて)あやふやで実態性のない思惟による社会哲学などお呼びではなかったのです。
またアメリカのテレビやラジオなどの大衆文化が形骸化し、値段と売れ行きのみで評価される資本主義の商品として取引されていたことにも、芸術愛好家であったアドルノは失望します。
結局2人はニューヨークからも追い出されカルフォルニアへと渡ります。
アドルノとホルクハイマーは統計データを妄信する社会研究や、市場商品となった大衆文化の中にナチスドイツと似た野蛮性を見いだしました。

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050 2017/12/28(木) 15:29:59 ID:U/lhU477Ek
国家をひとつの人格として捉える。
そうすると国家は対外的・対内的利害に動かされる傾向性をもっていると同時に、定言命法により道徳的法則を自分自身に課すような存在だということができる。
でも国家は利害意識を放棄しようとしない。
だから永遠平和状態に少しずつ近づくことしかできない。だから「つねに拡大しつつある国際連合」という考え方の方が役に立つ。

「結局、永遠平和状態に到達できないのなら、それを目指す意味なんてあるの?」と思う人もいるかもしれない。

しかしそれは考え方として正しくない。
なぜなら永遠平和状態がいつか達成されることは、自然の「摂理」が保証しているからだ(具体的にいつ達成されるのかは分からないが)。
そのことに心配する暇があるなら、永遠平和状態に少しでも近づけるように努力するべきだ。

「まずもって純粋実践理性の国とその正義を求めて努力せよ。そうすれば汝の目的(永遠平和という恵み)はおのずからかなえられるであろう」。

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051 2018/02/04(日) 08:01:12 ID:UmJ2QcWxMw
道徳的行為は、利害を度外視しても「しなければならないこと」なのであって、幸福への要求やエゴイズムに基づくものではない。
人間の心に快楽を求め、苦痛を避ける気持ちが「存在すること」は確かだが、「存在すること」から、「しなければならないこと」を導き出すことはできない。(存在と当為という論点)
人間の心には生まれつきの弱さがある。悪に向かう傾向がある。
だから「望ましい」ことという実質的な願望の内容に即した原理では、苦痛を避け、快楽を求める気持ちが、どうしてもエゴイズムの原理、すなわち悪の原理になってしまって、道徳性の原理にはならない。
道徳性の原理は、実質的でない形式的なものでなければならない。それは「君の格律が普遍的な立法の原理となるように行為しなさい」という命令の形をとる。(内容と形式という論点)
「正直の頭に神宿る(正直者に幸運が舞い込む)」とか、「情けはひとの為ならず」、「正直は最善の策」とかいうのは道徳性ではない。
功利性の立場に立つ人がたまたま正直な振る舞いをすることがあっても、それは得になるというエサがある時だけで、身銭を切っても一肌脱ぐとか、水火を辞せずというわけにはいかない。
「正直にすれば得になる」という打算的な正直は「〜したければ、〜するがよい」という仮言命法の形になる。道徳的な内容は、有無を言わさず、ひたむきに「正直であれ」と命令するものだから、無条件の命令という意味で「定言命法」の形になる。(仮言命法と定言命法という論点)

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052 2018/03/05(月) 14:50:56 ID:taYBYB.VTI
ヘーゲルは、人間の本質は 「自由」 であるというカントの説に対して、この言い方はまだ甘い、と言った。 
カントは、神に関係なく人間の存在の本質が 「自由」 である、と主張した。 
スコラ哲学の強大な世界理論に対抗するためだ。 
しかしヘーゲルによれば、それはまだ反対のための反対理論、つまり 「対抗論理」 であって、そうであるかぎり思想としては十分深くない。 
彼はむしろこう考えた。 
人間は生まれつき 「自由」 なのでもなく、また人間は 「自由」 であるべきだ、というのも違う。 
むしろ、どんな人間も必ず少しでもより 「自由」 たろうとする本性をもっている。 
つまり人間精神の本質は 「自由への欲求」 という点にある。 と言うのがよいと

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053 2018/03/30(金) 17:07:40 ID:eI3m3upyo6
カントの一番の功績は何でしょうか?

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054 2018/05/03(木) 11:25:27 ID:.Xuylg6hvQ
美は正義。

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055 2018/05/13(日) 08:44:28 ID:d7qjCOrp2Q
自 と 他

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056 2018/06/03(日) 09:00:42 ID:m2ENgXNqmI
ありのままに・・・。

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057 2018/07/21(土) 09:01:44 ID:/KMfa/K3GU
自分と他人は違う。

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058 2018/08/05(日) 09:21:33 ID:lycaiQI862
いかに活きるか?

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059 2018/08/25(土) 08:04:10 ID:w3dKdrgKx2
カントは『宗教論』の中で「自己愛は、私たちのすべての格率の原理として仮定されると、あらゆる悪の源泉にほかならないのである」28)と論じ、私たち人間の自己愛を悪の根元として捉えている。
確かに自己愛は自己中心的な行為や考えを想起させ、私たちが日常生活に於いて排すべきものと考えられている。
しかし、他者との関係を阻害しない限りでの自己愛はとりたてて指摘されることはなく、さらには道徳的とも思われる行為が、実のところ自己愛を動機として行われていることもよくあることなのである。

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060 2018/09/17(月) 08:24:42 ID:SPmt/SAabE
カントは凄い!

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061 2019/09/01(日) 09:05:08 ID:Mm2oTWcWbE
カントの哲学的な文体は、カラフルな文飾や気の利いた言い方に依存せずに、概念の構築の仕組みで思想を伝えるもので、きっと長持ちするだろうと感心します。
とはいえ、きまって肝心な箇所で、それが裏目に出て、三段論法を組み合わせたような素っ気ない文章になるのは、困ったものです。

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062 2021/08/08(日) 04:29:19 ID:7tiGXu9jLE
どうすればいいの?

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063 2021/08/08(日) 09:55:49 ID:7rB0xO8GTM
カントはかなりテキトー。
ドイツ哲学内では必要なプロセスでも、あまり普遍的価値がなく、役に立たない。
知らなきゃ知らないで済んでしまう。
重要なのは、イギリス哲学の系譜。
大英帝国を生み出しただけのことはある。
一方、ドイツは?
まあ、そういうこと。
哲学と国は繫がってンだね。

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064 2021/09/11(土) 12:47:57 ID:xyJon37HjQ
カント・・・
ささやき - いのり - えいしょう - ねんじろ!!

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065 2021/09/12(日) 08:15:04 ID:I5QGWKORns
ごまかしに使えるカントの哲学!

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066 2022/02/27(日) 04:50:11 ID:eokkxEIghc
>>65
ありがとうございました。

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067 2022/05/29(日) 04:38:14 ID:6QNKQrF9aw
困った時はお互い様。

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068 2022/07/23(土) 04:36:16 ID:mzkBfMqmns
最初に確認しておかなければならないことは、カントは私たち人間を理性的存在者として捉えていることである。
それは私たちが自ら備える理性によって自律的に、そして道徳的に行為することができるということを意味する。
『基礎付け』には、それを裏付けるかのごとく「それゆえ自律が、人間などあらゆる理性的本性の尊厳の根拠なのである」や「いまや私たちは最初の出発点であった、無条件的に善い意志という概念で締めくくることができる。

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069 2022/10/16(日) 06:50:41 ID:oRbcZWNoWY
所詮この世は金と財産だ。

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070 2023/01/22(日) 03:56:21 ID:yupofeChHk
変異株に注意

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071 2023/04/01(土) 03:42:52 ID:yGX9jilhNU
助け合って生きていこうよ。

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072 2023/06/11(日) 14:19:09 ID:IePBLhrYIM
次いってみよう。

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073 2023/07/17(月) 12:48:39 ID:HOQavI3QLk
自分は自分

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074 2023/11/03(金) 14:59:39 ID:9WVoO98YU6
「カントの思想の偉大さを把握することは,実存みずからの根本的決意を前提とする。」(ヤスパース,K.)といわれるように,カントの後の個性的な哲学者たちは,いずれもカント思想との格闘の中からみずからの哲学を構築していった。
しかし20世紀の現象学や実存哲学,さらにアメリカのプラグマティズムに至るまで彼の理論を克服することはできなかった。
カントを克服することは,西洋哲学の伝統そのものを克服することであるからである。
西洋的実存を克服することは,哲学の根源である問いそのものの意味を問い直すことが必要だからである。
そして問いの意味は問いそのものが言語であり,その言語の解明,そのための言語の相対化なしにありえない。
それはヤスパースが考える以上の「実存みずからの根本的決意」すなわち東洋的思考様式による人間存在への問い直しと生命科学にもとづく哲学的洞察が必要なのである。

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075 2023/12/17(日) 14:54:49 ID:WjidExMMbI
楽しく行きたい。

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076 2024/02/04(日) 14:08:36 ID:FhQ8sYw67g
だんしんごおるなあい

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077 2024/03/23(土) 12:52:07 ID:WCtcuvC5rA
生と死・・・。

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078 2024/05/03(金) 13:16:53 ID:QKNI6u8/ZU
さようなら

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079 2024/05/18(土) 12:36:07 ID:6QKK4Bm6dA
悩みが多い

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080 2024/08/17(土) 10:54:59 ID:A5UPaylgV.
「カント的ドグマ」に基づく論駁はカントの批判の本筋ではないとする解釈がある。
「現存在は何らかの物の述語でも規定でもない」(II 72)というテーゼは超越論的哲学の洞察から得られたものではないし、「100ターレル」の例もカント独自のものではないのであって(cf. Henrich 120)、批判の本来的な論点はそこにはない。
このような立場を採るのは、ヘンリッヒやシュムッカー 、また上記の異論を展開したエヴェリット自身である。
エヴェリットは、EN という超越的概念を使用するための「経験的基準」の欠如という主張にこそカントの真意はあり、カントが行っているのは認識論的な批判である、と指摘する。
彼に従えば、カントが問題視しているのは実在的命題一般の可能性の条件ではなく、われわれに認識可能な実在的命題の条件である。
カントは現象と物自体の区別を通じて、われわれに可能な認識対象(現象)についての分析的な実在的命題の可能性を否定しているのである 。

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081 2024/10/30(水) 15:56:47 ID:igJUOka8Co
他人は他人

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082 2024/10/30(水) 21:34:21 ID:I/yqjcii2w
女性器はカント
あんたのはカリントー

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