カントの哲学について語ろう!
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001 2011/04/29(金) 05:51:54 ID:HztDmUoU9s
イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724年4月22日 - 1804年2月12日)は、プロイセン王国出身の思想家で大学教授である。
近代において最も影響力の大きな哲学者の一人である。
『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらす。
ドイツ観念論哲学の祖ともされる。
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047 2017/07/08(土) 13:30:18 ID:K1398y1ZUg
>>46 そうだね、
自分が今ただちに不快と感じないことに関心が向かない。
というのは、哲学や社会学において思索の基軸ではない。
むしろ克服すべき命題だからね。
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048 2017/08/14(月) 17:49:42 ID:Zx8jSYzFao
啓蒙とは人間が自ら招いた未成年状態から抜け出ることである。未成年状態とは、他人の指導なしには自分の悟性を用いる能力がないことである。
この未成年状態の原因が悟性の欠如にではなく、他人の指導がなくとも自分の悟性を用いる決意と勇気の欠如にあるなら、未成年状態の責任は本人にある。
したがって啓蒙の標語は「あえて賢くあれ!」「自分自身の悟性を用いる勇気を持て!」である。
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049 2017/12/08(金) 16:18:40 ID:3eJwC9rzGg
アドルノとホルクハイマーが活動をしていた1930年代ドイツといえば、ご存知のようにナチスドイツが台頭し始めた時期です。
アドルノもホルクハイマーもユダヤ人であったため、ナチスの迫害の対象になってしまいます。
2人は大学教授の資格を剥奪されて、仕事まで奪われてしまったのです。彼らはドイツ社会の仕打ちに対して失望を覚え、ナチスの野蛮性に対して強い憤りを感じました。
その後、ユダヤ迫害が激しくなるにつれて、アドルノとホルクハイマーはドイツにはいられなくなり、ニューヨークへと亡命しました。
しかしそこで彼らはナチスとはまた違った困難に直面しました。
当時のアメリカの社会学は統計的手法を用いた実証分析が主流であり、彼らのような(実証分析派からみて)あやふやで実態性のない思惟による社会哲学などお呼びではなかったのです。
またアメリカのテレビやラジオなどの大衆文化が形骸化し、値段と売れ行きのみで評価される資本主義の商品として取引されていたことにも、芸術愛好家であったアドルノは失望します。
結局2人はニューヨークからも追い出されカルフォルニアへと渡ります。
アドルノとホルクハイマーは統計データを妄信する社会研究や、市場商品となった大衆文化の中にナチスドイツと似た野蛮性を見いだしました。
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050 2017/12/28(木) 15:29:59 ID:U/lhU477Ek
国家をひとつの人格として捉える。
そうすると国家は対外的・対内的利害に動かされる傾向性をもっていると同時に、定言命法により道徳的法則を自分自身に課すような存在だということができる。
でも国家は利害意識を放棄しようとしない。
だから永遠平和状態に少しずつ近づくことしかできない。だから「つねに拡大しつつある国際連合」という考え方の方が役に立つ。
「結局、永遠平和状態に到達できないのなら、それを目指す意味なんてあるの?」と思う人もいるかもしれない。
しかしそれは考え方として正しくない。
なぜなら永遠平和状態がいつか達成されることは、自然の「摂理」が保証しているからだ(具体的にいつ達成されるのかは分からないが)。
そのことに心配する暇があるなら、永遠平和状態に少しでも近づけるように努力するべきだ。
「まずもって純粋実践理性の国とその正義を求めて努力せよ。そうすれば汝の目的(永遠平和という恵み)はおのずからかなえられるであろう」。
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051 2018/02/04(日) 08:01:12 ID:UmJ2QcWxMw
道徳的行為は、利害を度外視しても「しなければならないこと」なのであって、幸福への要求やエゴイズムに基づくものではない。
人間の心に快楽を求め、苦痛を避ける気持ちが「存在すること」は確かだが、「存在すること」から、「しなければならないこと」を導き出すことはできない。(存在と当為という論点)
人間の心には生まれつきの弱さがある。悪に向かう傾向がある。
だから「望ましい」ことという実質的な願望の内容に即した原理では、苦痛を避け、快楽を求める気持ちが、どうしてもエゴイズムの原理、すなわち悪の原理になってしまって、道徳性の原理にはならない。
道徳性の原理は、実質的でない形式的なものでなければならない。それは「君の格律が普遍的な立法の原理となるように行為しなさい」という命令の形をとる。(内容と形式という論点)
「正直の頭に神宿る(正直者に幸運が舞い込む)」とか、「情けはひとの為ならず」、「正直は最善の策」とかいうのは道徳性ではない。
功利性の立場に立つ人がたまたま正直な振る舞いをすることがあっても、それは得になるというエサがある時だけで、身銭を切っても一肌脱ぐとか、水火を辞せずというわけにはいかない。
「正直にすれば得になる」という打算的な正直は「〜したければ、〜するがよい」という仮言命法の形になる。道徳的な内容は、有無を言わさず、ひたむきに「正直であれ」と命令するものだから、無条件の命令という意味で「定言命法」の形になる。(仮言命法と定言命法という論点)
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052 2018/03/05(月) 14:50:56 ID:taYBYB.VTI
ヘーゲルは、人間の本質は 「自由」 であるというカントの説に対して、この言い方はまだ甘い、と言った。
カントは、神に関係なく人間の存在の本質が 「自由」 である、と主張した。
スコラ哲学の強大な世界理論に対抗するためだ。
しかしヘーゲルによれば、それはまだ反対のための反対理論、つまり 「対抗論理」 であって、そうであるかぎり思想としては十分深くない。
彼はむしろこう考えた。
人間は生まれつき 「自由」 なのでもなく、また人間は 「自由」 であるべきだ、というのも違う。
むしろ、どんな人間も必ず少しでもより 「自由」 たろうとする本性をもっている。
つまり人間精神の本質は 「自由への欲求」 という点にある。 と言うのがよいと
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053 2018/03/30(金) 17:07:40 ID:eI3m3upyo6
カントの一番の功績は何でしょうか?
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054 2018/05/03(木) 11:25:27 ID:.Xuylg6hvQ
055 2018/05/13(日) 08:44:28 ID:d7qjCOrp2Q
056 2018/06/03(日) 09:00:42 ID:m2ENgXNqmI
057 2018/07/21(土) 09:01:44 ID:/KMfa/K3GU
058 2018/08/05(日) 09:21:33 ID:lycaiQI862
059 2018/08/25(土) 08:04:10 ID:w3dKdrgKx2
カントは『宗教論』の中で「自己愛は、私たちのすべての格率の原理として仮定されると、あらゆる悪の源泉にほかならないのである」28)と論じ、私たち人間の自己愛を悪の根元として捉えている。
確かに自己愛は自己中心的な行為や考えを想起させ、私たちが日常生活に於いて排すべきものと考えられている。
しかし、他者との関係を阻害しない限りでの自己愛はとりたてて指摘されることはなく、さらには道徳的とも思われる行為が、実のところ自己愛を動機として行われていることもよくあることなのである。
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060 2018/09/17(月) 08:24:42 ID:SPmt/SAabE
061 2019/09/01(日) 09:05:08 ID:Mm2oTWcWbE
カントの哲学的な文体は、カラフルな文飾や気の利いた言い方に依存せずに、概念の構築の仕組みで思想を伝えるもので、きっと長持ちするだろうと感心します。
とはいえ、きまって肝心な箇所で、それが裏目に出て、三段論法を組み合わせたような素っ気ない文章になるのは、困ったものです。
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062 2021/08/08(日) 04:29:19 ID:7tiGXu9jLE
063 2021/08/08(日) 09:55:49 ID:7rB0xO8GTM
カントはかなりテキトー。
ドイツ哲学内では必要なプロセスでも、あまり普遍的価値がなく、役に立たない。
知らなきゃ知らないで済んでしまう。
重要なのは、イギリス哲学の系譜。
大英帝国を生み出しただけのことはある。
一方、ドイツは?
まあ、そういうこと。
哲学と国は繫がってンだね。
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064 2021/09/11(土) 12:47:57 ID:xyJon37HjQ
カント・・・
ささやき - いのり - えいしょう - ねんじろ!!
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065 2021/09/12(日) 08:15:04 ID:I5QGWKORns
ごまかしに使えるカントの哲学!
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066 2022/02/27(日) 04:50:11 ID:eokkxEIghc
067 2022/05/29(日) 04:38:14 ID:6QNKQrF9aw
068 2022/07/23(土) 04:36:16 ID:mzkBfMqmns
最初に確認しておかなければならないことは、カントは私たち人間を理性的存在者として捉えていることである。
それは私たちが自ら備える理性によって自律的に、そして道徳的に行為することができるということを意味する。
『基礎付け』には、それを裏付けるかのごとく「それゆえ自律が、人間などあらゆる理性的本性の尊厳の根拠なのである」や「いまや私たちは最初の出発点であった、無条件的に善い意志という概念で締めくくることができる。
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069 2022/10/16(日) 06:50:41 ID:oRbcZWNoWY
070 2023/01/22(日) 03:56:21 ID:yupofeChHk
071 2023/04/01(土) 03:42:52 ID:yGX9jilhNU
072 2023/06/11(日) 14:19:09 ID:IePBLhrYIM
073 2023/07/17(月) 12:48:39 ID:HOQavI3QLk
074 2023/11/03(金) 14:59:39 ID:9WVoO98YU6
「カントの思想の偉大さを把握することは,実存みずからの根本的決意を前提とする。」(ヤスパース,K.)といわれるように,カントの後の個性的な哲学者たちは,いずれもカント思想との格闘の中からみずからの哲学を構築していった。
しかし20世紀の現象学や実存哲学,さらにアメリカのプラグマティズムに至るまで彼の理論を克服することはできなかった。
カントを克服することは,西洋哲学の伝統そのものを克服することであるからである。
西洋的実存を克服することは,哲学の根源である問いそのものの意味を問い直すことが必要だからである。
そして問いの意味は問いそのものが言語であり,その言語の解明,そのための言語の相対化なしにありえない。
それはヤスパースが考える以上の「実存みずからの根本的決意」すなわち東洋的思考様式による人間存在への問い直しと生命科学にもとづく哲学的洞察が必要なのである。
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075 2023/12/17(日) 14:54:49 ID:WjidExMMbI
076 2024/02/04(日) 14:08:36 ID:FhQ8sYw67g
077 2024/03/23(土) 12:52:07 ID:WCtcuvC5rA
078 2024/05/03(金) 13:16:53 ID:QKNI6u8/ZU
079 2024/05/18(土) 12:36:07 ID:6QKK4Bm6dA
080 2024/08/17(土) 10:54:59 ID:A5UPaylgV.
「カント的ドグマ」に基づく論駁はカントの批判の本筋ではないとする解釈がある。
「現存在は何らかの物の述語でも規定でもない」(II 72)というテーゼは超越論的哲学の洞察から得られたものではないし、「100ターレル」の例もカント独自のものではないのであって(cf. Henrich 120)、批判の本来的な論点はそこにはない。
このような立場を採るのは、ヘンリッヒやシュムッカー 、また上記の異論を展開したエヴェリット自身である。
エヴェリットは、EN という超越的概念を使用するための「経験的基準」の欠如という主張にこそカントの真意はあり、カントが行っているのは認識論的な批判である、と指摘する。
彼に従えば、カントが問題視しているのは実在的命題一般の可能性の条件ではなく、われわれに認識可能な実在的命題の条件である。
カントは現象と物自体の区別を通じて、われわれに可能な認識対象(現象)についての分析的な実在的命題の可能性を否定しているのである 。
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081 2024/10/30(水) 15:56:47 ID:igJUOka8Co
082 2024/10/30(水) 21:34:21 ID:I/yqjcii2w
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