ウパニシャッド哲学 世界最古の哲学にして、人類哲学の本流
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まるで当たり前の事実であるかのように、「哲学発祥の地はギリシャ」だの、
「詩文学の発祥地もギリシャ」だのの、全くの思い違いが公然とまかり通り続けているが、
世界最古の本格的な詩文学は、ギリシャのホメロスなどではなく、インドのヴェーダであり、
そのヴェーダに注解を施す形式で編み出された「ウパニシャッド」こそは、
ギリシャ哲学よりも数百年程度は先んじて発祥した、世界最古の哲学にあたる。
古代中国の諸子百家が、政治行為などに関連する実際論に終始した素朴な「思想」止まりで
あったのに対し、ウパニシャッドは、理念に昇華された思索を重んじる純粋な「哲学」であり、
その内容も、「人類哲学の先駆け」としての存在性にも見合った、極めて上質なものとなっている。
その、哲学的根幹に値する「梵我一如」は、日本人などには、密教や禅などの仏教哲学を通じて
知られている場合が多いが、元はといえば、ヴェーダの解釈学でもあるウパニシャッドの根本教理であり、
ヴェーダの絶対的権威を否定した釈迦が説いた「諸法無我」とも決定的な相違を伴っている。
思索が「ネーティ、ネーティ(〜ではない、〜ではない)」と、否定を重畳していくことによって
アートマン(真我)を把捉し、そのアートマンこそは最高真理ブラフマン(梵)とも同一であるとみなす
ところなどは、「思索の構造が真我であったり梵であったりすることはない」ということを定立しているわけで、
思考が自我であることはウパニシャッドによっては否定されるため、「我れ思う、ゆえに我れあり」の
デカルトのコギト論も、ウパニシャッドによってとっくの昔に完全否定されていることになる。
ヘーゲルが、インド哲学批判の論拠とした「構造体系の欠如」も、「思考それ自体が真我であったり
梵であったりすることはない」という、明確な理念に即して徹底されていることであり、批判材料にはあたらない。
もちろん、思考の絶対性を否定するインド哲学の姿勢が、思考を絶対化する西洋哲学の価値を一切合切無効化
してしまうものだから、西洋哲学者などにとっては特に受け入れがたいものでもあるのだろうが、思考の絶対性を
否定するインドのウパニシャッド哲学こそは、全地球人類にとっての、哲学の源流であると共に本流でもある。

「詩文学の発祥地もギリシャ」だのの、全くの思い違いが公然とまかり通り続けているが、
世界最古の本格的な詩文学は、ギリシャのホメロスなどではなく、インドのヴェーダであり、
そのヴェーダに注解を施す形式で編み出された「ウパニシャッド」こそは、
ギリシャ哲学よりも数百年程度は先んじて発祥した、世界最古の哲学にあたる。
古代中国の諸子百家が、政治行為などに関連する実際論に終始した素朴な「思想」止まりで
あったのに対し、ウパニシャッドは、理念に昇華された思索を重んじる純粋な「哲学」であり、
その内容も、「人類哲学の先駆け」としての存在性にも見合った、極めて上質なものとなっている。
その、哲学的根幹に値する「梵我一如」は、日本人などには、密教や禅などの仏教哲学を通じて
知られている場合が多いが、元はといえば、ヴェーダの解釈学でもあるウパニシャッドの根本教理であり、
ヴェーダの絶対的権威を否定した釈迦が説いた「諸法無我」とも決定的な相違を伴っている。
思索が「ネーティ、ネーティ(〜ではない、〜ではない)」と、否定を重畳していくことによって
アートマン(真我)を把捉し、そのアートマンこそは最高真理ブラフマン(梵)とも同一であるとみなす
ところなどは、「思索の構造が真我であったり梵であったりすることはない」ということを定立しているわけで、
思考が自我であることはウパニシャッドによっては否定されるため、「我れ思う、ゆえに我れあり」の
デカルトのコギト論も、ウパニシャッドによってとっくの昔に完全否定されていることになる。
ヘーゲルが、インド哲学批判の論拠とした「構造体系の欠如」も、「思考それ自体が真我であったり
梵であったりすることはない」という、明確な理念に即して徹底されていることであり、批判材料にはあたらない。
もちろん、思考の絶対性を否定するインド哲学の姿勢が、思考を絶対化する西洋哲学の価値を一切合切無効化
してしまうものだから、西洋哲学者などにとっては特に受け入れがたいものでもあるのだろうが、思考の絶対性を
否定するインドのウパニシャッド哲学こそは、全地球人類にとっての、哲学の源流であると共に本流でもある。

近ごろ、思想哲学板の趣旨に反する駄スレの乱立が甚だしいため、板の趣旨にできる限り見合った
スレをあえて立てておく。思想板のスレとしての模範は引き続き「聖書(四書五経)スレ」で、
哲学板のスレとしての模範は、こちらのウパニシャッドスレで示していくことにしよう。
スレをあえて立てておく。思想板のスレとしての模範は引き続き「聖書(四書五経)スレ」で、
哲学板のスレとしての模範は、こちらのウパニシャッドスレで示していくことにしよう。
全地球人類にとっての真の聖書であり、世界最古の思想書でもあるのが、
世界最古の古典「易」を含む四書五経である一方で、世界最古の本格的な詩文学が
古代インドで編み出された「ヴェーダ」であり(ただし口伝が基本とされ、文書による判読は正統とされない)、
そのヴェーダに対する解釈書として提唱されたウパニシャッドが、全人類にとっての「哲学の本流にして源流」ともなっている。
決してギリシャ哲学やギリシャ文学が、人類にとっての哲学や文学の、本流や源流だったりはしないし、
イスラエル発症の新旧約聖書が、人類にとっての真の聖書や、正統な思想であったりすることはない。
じゃあ、ギリシャ学とか新旧約聖書とかってなんなのかといえば、インド哲学や中国思想といった「光に対する影」の存在。
ヒンディズムやチャイニズムが人類文化文明の「本体」であり、全人類を一家と見なした場合の家長たる「夫」であるのに対し、
ヘレニズムやヘブライズムは人類文化文明の「客体」であり、全人類という一家にとっての「妻」に値する存在。
いくら、インド文化や中国文化のほうがギリシャ文化やイスラエル文化よりも質・量・古さの全てにおいて優るからといって、
ギリシャやイスラエルの歴史的存在性を根本から無みすることも、実質的に不可能なことであり、ギリシャ文化や
イスラエル文化だって、一定の質や量や古さを湛えているという、事実までをも否定し尽くすわけにはいかない。
ただ、ギリシャやイスラエルを起源とする西洋文化文明が、インドや中国を起源とする東洋文化文明と比べて、
質・量・古さの全てにおいて「劣位」であるという事実がわきまえられて、あたかも妻が夫に対して主人面をするような
僭越を控えるようにすればいいだけのことであり、そのわきまえすら徹底されたなら、ギリシャやイスラエルに始まる
西洋の文化文明を実相から絶滅させるほどもの措置まで講ずる必要はなくなる。あれはアリだがこれはナシとかじゃなく、
あれもアリだがこれのほうがもっとアリというような、評価の重畳に基づいて、何物をも活かされる選択肢が開かれている。
世界最古の古典「易」を含む四書五経である一方で、世界最古の本格的な詩文学が
古代インドで編み出された「ヴェーダ」であり(ただし口伝が基本とされ、文書による判読は正統とされない)、
そのヴェーダに対する解釈書として提唱されたウパニシャッドが、全人類にとっての「哲学の本流にして源流」ともなっている。
決してギリシャ哲学やギリシャ文学が、人類にとっての哲学や文学の、本流や源流だったりはしないし、
イスラエル発症の新旧約聖書が、人類にとっての真の聖書や、正統な思想であったりすることはない。
じゃあ、ギリシャ学とか新旧約聖書とかってなんなのかといえば、インド哲学や中国思想といった「光に対する影」の存在。
ヒンディズムやチャイニズムが人類文化文明の「本体」であり、全人類を一家と見なした場合の家長たる「夫」であるのに対し、
ヘレニズムやヘブライズムは人類文化文明の「客体」であり、全人類という一家にとっての「妻」に値する存在。
いくら、インド文化や中国文化のほうがギリシャ文化やイスラエル文化よりも質・量・古さの全てにおいて優るからといって、
ギリシャやイスラエルの歴史的存在性を根本から無みすることも、実質的に不可能なことであり、ギリシャ文化や
イスラエル文化だって、一定の質や量や古さを湛えているという、事実までをも否定し尽くすわけにはいかない。
ただ、ギリシャやイスラエルを起源とする西洋文化文明が、インドや中国を起源とする東洋文化文明と比べて、
質・量・古さの全てにおいて「劣位」であるという事実がわきまえられて、あたかも妻が夫に対して主人面をするような
僭越を控えるようにすればいいだけのことであり、そのわきまえすら徹底されたなら、ギリシャやイスラエルに始まる
西洋の文化文明を実相から絶滅させるほどもの措置まで講ずる必要はなくなる。あれはアリだがこれはナシとかじゃなく、
あれもアリだがこれのほうがもっとアリというような、評価の重畳に基づいて、何物をも活かされる選択肢が開かれている。

仏教の六道十界論に基づけば六道中最高位に当たる「天道」、十住心論では下から三番目に当たる「嬰童無畏心」に相当する。
六道のうちでは上から二番目の「人道」にあたり、十住心のうちでは下から二番目の「愚童持斎心」にあたる儒家よりも
一段階だけ程度が高い一方で、六道全体をも超越する仏道の境地からすれば、まだまだ程度の低いものともされる。
もちろん、これは仏教の教義に基づいた品評であり、ヒンズー教はそんな低い評価などを認めず、今から約1300年前の
高名なウパニシャッド哲学者であるシャンカラも、大乗仏教の教義的核心にあたる中観や唯識などに対して反意を唱えている。
その弁明の内容もそれなりに納得のいくものであり、仏教に関しての専門知識も未熟な門外漢などからすれば、
シャンカラと仏者と、どちらのほうがより正しい意見を述べているのか、判然としない所すらある。
釈迦が興した仏教よりもさらにその起源の古い、ヒンズー教の哲学者としての面目躍如たるところがあり、
これは同じく、仏典よりもさらに成立の古い四書五経などを聖典とする、儒者である朱子などが仏教に対して
唱えた反意にも共通するところであり、その成立に関しては、ヒンズー教と儒学は確かに仏教よりも先んじており、
この両者こそは、全世界的に見ても「世界最古の本格教学」としての、一二を争う存在同士となっている。
(もちろんギリシャ学や聖書教なども、これらの教学よりも遥かに成立が遅れている)

聖典として好まれている、マハーバーラタのハイライト「バガヴァッド・ギーター」などを読んでみれば、
その内容が、西洋哲学並みにも具体的かつ肯定的な概念をこねくり回していることが分かり、
概念に対する肯定的な論及を繰り出す過程で、積極的な社会奉仕などをも促していることが分かる。
これは、「ネーティ、ネーティ(〜ではない、〜ではない)」といった思考の否定の重畳こそが
梵我一如たる真我アートマンの把捉にもつながるという、ウパニシャッド哲学の主体的な実践やその記述には
なっておらず、むしろ大乗仏教の根本経典の一つである「般若経」のほうが、否定に否定を積み重ねることで
解脱に至るという、ウパニシャッド哲学の大まかな要件をも満たしているといえる。
しかし、般若経を含む仏教は、否定の重畳を躍進する過程でついには「我」をも否定してしまい、
自我すらをも脱落した諸法無我の境地に絶対真理を定立したために、真我こそは最高真理ブラフマン梵とも
同一であるとする、ウパニシャッド哲学のうちの「肯定的要素」との決定的な断裂をも生じてしまうこととなった。
ヴェーダやウパニシャッドやマハーバーラタを教理とするバラモンは、祭司階級とはいえ、一応は世俗の人間だから、
何もかもを否定しつくして、挙句に出家者のように生殖までをも否定してしまったのでは、社会参画すら立ち行かなくなって
しまうから、バラモン・ヒンズー教では、仏教ほどには否定の重畳も徹底されず、そのせいで、ウパニシャッド哲学が
理想とする万事万物の思考からの否定も、半ば片手落ちになってしまっているところがある。ただ、それにしても、
世俗における罪業の輪廻を脱け出せない、六道の範囲内における最高位である天道の教理を、同じ天道である神道や道教以上
にも如実に捉えたヒンズー教の各種教学は、やはり、人類の遺産としての高位に据えるに相応しい存在であるには違いない。
人間の心には、宇宙の神秘とも通じている部分と、通じていない部分との両方がある。
知能も感情も超えたところにある純粋精神こそは、神秘にも通じているところであり、
宇宙の真理や、実相的な物理法則とも合致するものであることから「梵我一如」や「物我一理」とも言われる。
ただ、ここで決して勘違いしてはならないのは、ヒンズー教や朱子学が「我」と定義しているものは、
左右大脳が司る知能や感情も超えたところにある純粋精神のことであって、「我思う、故に我あり」
などという倒錯によって自我と勘違いされた、思考や情念などではないということだ。
思考とは知能の処理であり、情念とは感情の溜め込みであるため、いずれも大脳が司っている。
欲求という情念もまた、感情を司る右脳にその根源があり、それはそれで存在するものではあるにしろ、
決して宇宙の真理や普遍的な物理法則とも通じている、純粋精神だったりするわけではない。
純粋精神の普遍的な在り処を人体ばかりに求めるのも無粋なことだが、仮にあえて求めるというのなら、
中脳に位置する上丹田、心臓に位置する中丹田、臍の下三寸に位置する下丹田の三つであるといえ、
この三つが八卦の上中下三爻の対称性にも符合している。そこに知能や感情を司る左右大脳などは
含まれておらず、上中下の丹田が位置する正中線からも外れた左右両側に大脳は位置しているため、
大脳の絶対化ばかりに陥れば陥るほど、人は純粋精神の把捉から遠ざかってすらしまうのである。
知能も感情も超えたところにある純粋精神こそは、神秘にも通じているところであり、
宇宙の真理や、実相的な物理法則とも合致するものであることから「梵我一如」や「物我一理」とも言われる。
ただ、ここで決して勘違いしてはならないのは、ヒンズー教や朱子学が「我」と定義しているものは、
左右大脳が司る知能や感情も超えたところにある純粋精神のことであって、「我思う、故に我あり」
などという倒錯によって自我と勘違いされた、思考や情念などではないということだ。
思考とは知能の処理であり、情念とは感情の溜め込みであるため、いずれも大脳が司っている。
欲求という情念もまた、感情を司る右脳にその根源があり、それはそれで存在するものではあるにしろ、
決して宇宙の真理や普遍的な物理法則とも通じている、純粋精神だったりするわけではない。
純粋精神の普遍的な在り処を人体ばかりに求めるのも無粋なことだが、仮にあえて求めるというのなら、
中脳に位置する上丹田、心臓に位置する中丹田、臍の下三寸に位置する下丹田の三つであるといえ、
この三つが八卦の上中下三爻の対称性にも符合している。そこに知能や感情を司る左右大脳などは
含まれておらず、上中下の丹田が位置する正中線からも外れた左右両側に大脳は位置しているため、
大脳の絶対化ばかりに陥れば陥るほど、人は純粋精神の把捉から遠ざかってすらしまうのである。
1しか読んでないけど、まあ概ね正しいな。
しかしヴェーダとウパニシャッドの距離と、バラモン様の政治的なバイアスといった問題も考えるべきであって
こう手放しにマンセーってのもどうなの?つーのはある。
しかしヴェーダとウパニシャッドの距離と、バラモン様の政治的なバイアスといった問題も考えるべきであって
こう手放しにマンセーってのもどうなの?つーのはある。
1は西洋哲学が近代になってようやく到達した思考法や哲学的志向性は
東洋哲学(ウパニシャッド哲学)では本来のものですらあった
という事を言ってんじゃない?
ヘーゲル弁証法すらヴェーダの中にあると思うと面白いね。
でも、政治的バイアスとか、哲学上関係なくない?
解説よろ。
芥川が「東洋の画家には未だ甞て落款の場所を軽視したるもの
はない。
落款の場所に注意せよなどと言うのは陳套語である。
それを特筆するムアアを思うと、坐ろに東西の差を感ぜざるを
得ない。」と言うのと同義だと思う。
東洋哲学(ウパニシャッド哲学)では本来のものですらあった
という事を言ってんじゃない?
ヘーゲル弁証法すらヴェーダの中にあると思うと面白いね。
でも、政治的バイアスとか、哲学上関係なくない?
解説よろ。
芥川が「東洋の画家には未だ甞て落款の場所を軽視したるもの
はない。
落款の場所に注意せよなどと言うのは陳套語である。
それを特筆するムアアを思うと、坐ろに東西の差を感ぜざるを
得ない。」と言うのと同義だと思う。
徹頭徹尾、脳内思考を絶対化する西洋哲学が、
思考の絶対的価値を否定する東洋哲学とは相容れないことを説いているわけだが。
質・量・古さ・発行部数の全てにおいて西洋哲学を上回っているにもかかわらず、
哲学展開の場でもある頭脳の至上化(脳化)に対しては消極的であるのが東洋哲学。
そのあまりにもの偉大さとは裏腹に、偉大さの根拠を捉えがたい理由もそこにある。
思考の絶対的価値を否定する東洋哲学とは相容れないことを説いているわけだが。
質・量・古さ・発行部数の全てにおいて西洋哲学を上回っているにもかかわらず、
哲学展開の場でもある頭脳の至上化(脳化)に対しては消極的であるのが東洋哲学。
そのあまりにもの偉大さとは裏腹に、偉大さの根拠を捉えがたい理由もそこにある。
学問を目的のための手段としてしか捉えない、「学問実用主義」の傾向が、
人類最古の学問をも研究対象とする、バラモンや科挙にこそ存在しない。
どうせ、今までにインドや中国で紡ぎ上げられてきた、膨大な量のウパニシャッドや経史子集を
一人の人間が一生をかけても研究し尽くすことなどは不可能であり、せいぜい自分自身が
生きてるうちにできる限り多くのことを学んでいくように努め続けていくしかないわけだから、
存命中に学問を中絶して「これでよし(Es ist gut)」などといえるわけがあり得ない。
もちろん、ただ勉強をし続けるだけでなく、それなりの仕事をこなしていくこともあるわけだが、
だからといって学問を途絶させたりもせず、「学問第一実業第二」の姿勢を保ち続ける。それでこそ、
学知による制御をも振れきっての、放辟邪侈にまみれた犯罪労働に没入したりすることもないわけだから。
人類最古の学問をも研究対象とする、バラモンや科挙にこそ存在しない。
どうせ、今までにインドや中国で紡ぎ上げられてきた、膨大な量のウパニシャッドや経史子集を
一人の人間が一生をかけても研究し尽くすことなどは不可能であり、せいぜい自分自身が
生きてるうちにできる限り多くのことを学んでいくように努め続けていくしかないわけだから、
存命中に学問を中絶して「これでよし(Es ist gut)」などといえるわけがあり得ない。
もちろん、ただ勉強をし続けるだけでなく、それなりの仕事をこなしていくこともあるわけだが、
だからといって学問を途絶させたりもせず、「学問第一実業第二」の姿勢を保ち続ける。それでこそ、
学知による制御をも振れきっての、放辟邪侈にまみれた犯罪労働に没入したりすることもないわけだから。

「餓鬼道」に相当する洋学に毒された迷妄に過ぎない。
鬼神を敬してこれを遠ざく、最低限の人間らしさを保つことでこそ、
「人道」に相当する学問もまた成立するのであり、そうでなく、何もかもを
幼稚な天邪鬼や疑心暗鬼に持ち込もうとするのは、学術であろうとも「餓鬼道」に相当する。
ガキだから、どこまでも探求を続けたところで、ただただ餓え渇いたままでいる。
餓え渇いているのは何も、学術的探求がまだ足りないからではなく、
神仏への信仰や目上の相手への畏敬も捨て去っての、自意識過剰な思い上がりに
自分たち自身をやつしているからであって、その醜悪な思い上がりを捨て去って、
人としての最低限の品位を保ったなら、その餓え渇きからして根本的に立ち消えるもの。
餓え渇きに突き動かされての無鉄砲な学術探求は、善も悪もみそくそと化しての
糞喰らいな害悪の探求ともなるため、礼にあらざるものを見ず、聞かず、言動しないでいて
初めて可能となる純粋なミソ=有益無害な物事の探求もまた、自業自得で不可能と化してしまう。
あーらら、
またレベル下がっちゃったw
またレベル下がっちゃったw

まさに、洋学や聖書信仰に基づく、人々の自意識過剰の思い上がりの増長こそは、
人類という種族にとっての自業自得のバイオハザードでもあって、
思い上がりの塊と化した民衆に、為政者の側も主権まで与えて放辟邪侈を鼓舞する。
結果、資本主義社会(主に欧米聖書圏)という一部の社会の民衆が、
自分たちだけのための我田引水で、数億人もの人々を餓死や戦死に追いやっている。
大局的に見れば、これは明らかに人類という種族全体にとっての自殺行為であり、
自身の体内に悪性新生物を発生させての、末期ガン状態とでも呼ぶべきものとなっている。
人類にとってのガン細胞と化した資本主義者や聖書信仰者と、それ以外の健全な
人類との決定的な違いは、自身の自我が人類という種族、地球という社会の範疇を
逸脱してまで肥大化しているか、もしくは地球人類としての適度な身の程を
わきまえた自我=梵我一如を保てているかという点にあり、梵我一如を逸脱して、
過剰な思索と共に無根拠な自我を肥大化させていくことが、当該の人間が地球人類に
とっての悪性新生物、有害無益なガン細胞格と化していく発端ともなっている。
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