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聖書 Part5
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「聖書」という言葉の原典となっている「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下の記述に基づけば、「聖書」とは
①聖人が書いた書物。
②叙勲などを司る記録官による、正式な記録作業によって編纂された書類。
③賢愚の分け隔てなく全ての評価対象者をおしなべて取り上げた書物。
④賢愚をおしなべて取り上げつつも、その格の上下に合わせた公正な評価が行き届いている書物。
⑤年功や等級の高低を重視し、分をわきまえない僭越などを十全に排している書物。
といった条件を満たしている書物のことであり、そのような書物の中でも、最も代表的かつ古典的であるのが四書五経。
①の条件は孔子の書いた「易経」繋辞伝や「春秋経」、曾子の書いた「大学」や子思子の書いた「中庸」などが満たしている。
②の条件は太古の正式な政治記録である「書経」が(ただしあまりにも太古過ぎるため、多少の修繕がなされている)、
③と④の条件は「詩経」の大雅小雅両篇や「春秋経」が、⑤の条件は身分秩序を重んじる「易経」「論語」「礼記」などが
満たしている。まさに四書五経こそは、「聖書」という言葉の厳密な条件を満たしきるために著されたような書物であり、
これほどにも聖書の名に値する書物は、他に存在しないと言えるほど。ここはその真正聖書たる四書五経などについて語るスレ。
(画像は「論語」の主人公孔子、「孟子」の主人公孟子、「大学」の著者曾子、「中庸」の著者子思子の四名。四書の各筆頭)

①聖人が書いた書物。
②叙勲などを司る記録官による、正式な記録作業によって編纂された書類。
③賢愚の分け隔てなく全ての評価対象者をおしなべて取り上げた書物。
④賢愚をおしなべて取り上げつつも、その格の上下に合わせた公正な評価が行き届いている書物。
⑤年功や等級の高低を重視し、分をわきまえない僭越などを十全に排している書物。
といった条件を満たしている書物のことであり、そのような書物の中でも、最も代表的かつ古典的であるのが四書五経。
①の条件は孔子の書いた「易経」繋辞伝や「春秋経」、曾子の書いた「大学」や子思子の書いた「中庸」などが満たしている。
②の条件は太古の正式な政治記録である「書経」が(ただしあまりにも太古過ぎるため、多少の修繕がなされている)、
③と④の条件は「詩経」の大雅小雅両篇や「春秋経」が、⑤の条件は身分秩序を重んじる「易経」「論語」「礼記」などが
満たしている。まさに四書五経こそは、「聖書」という言葉の厳密な条件を満たしきるために著されたような書物であり、
これほどにも聖書の名に値する書物は、他に存在しないと言えるほど。ここはその真正聖書たる四書五経などについて語るスレ。
(画像は「論語」の主人公孔子、「孟子」の主人公孟子、「大学」の著者曾子、「中庸」の著者子思子の四名。四書の各筆頭)

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世界の歴史上において、欧米史の権力犯罪による腐敗は突出したものであり、あまりにも残酷無残であり過ぎたために、
中国史やインド史やイスラム史などの、欧米以外の世界史とまともに比較対照されることすらない。そうであることをいいことに、
たとえば中国であれば夏桀殷紂なみに悪逆非道の暴君扱いされるレベルの暗君が、そこそこに偉大な王君扱いされていたりする。
未だ為政者の功罪貴賤の度量衡すら取り決められていない現今の世界史において、「どっちのほうが凄かった」云々の
比較歴史論を引き合いに出せば、大体は反論者が乱立して大論戦となることが予想されるわけだが、そんな徒労に耽る暇もなく、
今の地球人類社会は、罪悪まみれな欧米史に取り込まれた結果として、破滅の危機に陥れられたり、その一歩手前程度の
悲惨な殺し合い奪い合いが横行する乱脈に巻き込まれている。欧米史がそのまま拡大して世界史全体を取り込んだ結果として、
欧米以外の世界にとっては、未だかつてない汚辱の苦渋を嘗めさせられる状態が続いている。欧米よりも欧米以外の世界のほうが
圧倒的大多数な上、欧米が全世界支配者となった現今よりも、大多数の人々が昔はより豊かで安穏な生活を送れていたわけだから、
欧米史は総体的に全世界史のうちで劣悪な部類であり、西洋に全世界が支配された結果としての現状や、現状の一歩先にある
全世界の破滅は、全世界の中でも特に劣悪な欧米に覇権を握られたが故の特例であり、欧米が覇権を放棄して総体的な禁治産処分下に
置かれるなどすれば、「あと一歩で人類が破滅する」という可能性をも含めた現状全体が、確実に改善されることが期待できる。
中国史やインド史やイスラム史などの、欧米以外の世界史とまともに比較対照されることすらない。そうであることをいいことに、
たとえば中国であれば夏桀殷紂なみに悪逆非道の暴君扱いされるレベルの暗君が、そこそこに偉大な王君扱いされていたりする。
未だ為政者の功罪貴賤の度量衡すら取り決められていない現今の世界史において、「どっちのほうが凄かった」云々の
比較歴史論を引き合いに出せば、大体は反論者が乱立して大論戦となることが予想されるわけだが、そんな徒労に耽る暇もなく、
今の地球人類社会は、罪悪まみれな欧米史に取り込まれた結果として、破滅の危機に陥れられたり、その一歩手前程度の
悲惨な殺し合い奪い合いが横行する乱脈に巻き込まれている。欧米史がそのまま拡大して世界史全体を取り込んだ結果として、
欧米以外の世界にとっては、未だかつてない汚辱の苦渋を嘗めさせられる状態が続いている。欧米よりも欧米以外の世界のほうが
圧倒的大多数な上、欧米が全世界支配者となった現今よりも、大多数の人々が昔はより豊かで安穏な生活を送れていたわけだから、
欧米史は総体的に全世界史のうちで劣悪な部類であり、西洋に全世界が支配された結果としての現状や、現状の一歩先にある
全世界の破滅は、全世界の中でも特に劣悪な欧米に覇権を握られたが故の特例であり、欧米が覇権を放棄して総体的な禁治産処分下に
置かれるなどすれば、「あと一歩で人類が破滅する」という可能性をも含めた現状全体が、確実に改善されることが期待できる。
哲学には正解が複数あって、その中で最もマジョリティな意見が力を持つ
君の意見は誰も同意がない所をみると哲学的には無力という事だ
君の意見は誰も同意がない所をみると哲学的には無力という事だ
まさにこの論及こそは、民主主義の調伏のためにある。
多数派ですらあれば何をやったっていいという、権勢に乗ったやりたい放題の帰結としての
民主主義支配による人類史上最悪の大虐殺の収拾のためにこそ、この論及が行われている。
それなのになぜ、多くの支持が得られないことを恥じたり、支持を得ることを希求したり
する必然があろうか。それよりも必要なのは、権勢の図に乗って悪行を働く権力犯罪者への
あまねき真理や道理に基づく調伏や、その上での愚民への従順化を含めた矯正だろう。
民主化そのものを推進ではなく廃絶するところに、これからの人類の希望もあるのだから。
「容れられざるを何ぞ病えん。容れられずして然る後君子を見る。」
「乱世に受け入れられないことをなぜ憂えようか。受け入れられないでこそ君子ではないか」
(「史記」孔子世家より)
多数派ですらあれば何をやったっていいという、権勢に乗ったやりたい放題の帰結としての
民主主義支配による人類史上最悪の大虐殺の収拾のためにこそ、この論及が行われている。
それなのになぜ、多くの支持が得られないことを恥じたり、支持を得ることを希求したり
する必然があろうか。それよりも必要なのは、権勢の図に乗って悪行を働く権力犯罪者への
あまねき真理や道理に基づく調伏や、その上での愚民への従順化を含めた矯正だろう。
民主化そのものを推進ではなく廃絶するところに、これからの人類の希望もあるのだから。
「容れられざるを何ぞ病えん。容れられずして然る後君子を見る。」
「乱世に受け入れられないことをなぜ憂えようか。受け入れられないでこそ君子ではないか」
(「史記」孔子世家より)
また、自分からは何事をも述べる資格も持たない
迷妄のさ中の住人である、iPhone教信者がわき始めたな。
「宗教」を絶対的なエスケープゾーンにしようとする画策自体が、
間違った宗教を信じているおまえら自身の勝手な都合でしかないことに気づけ。
迷妄のさ中の住人である、iPhone教信者がわき始めたな。
「宗教」を絶対的なエスケープゾーンにしようとする画策自体が、
間違った宗教を信じているおまえら自身の勝手な都合でしかないことに気づけ。
何も楯突かずに、ただニャンニャンしてりゃ可愛いのに。
自分に都合の悪い人の意見は聞かず、自分に都合のいい自分の意見ばかりを述べる、
そんな「汚い大人」を絵に描いたような人間には決してなりたくないし、
そんな連中をわざわざ量産するカルト教義にも決して与したくないものだ。
「明神を敬い恭みて、宜しく悔怒する無かるべし」
「明らかなる神を敬い慎んで、ただその咎めを食らわぬように。
(神は愛し愛されるものではなく、敬って怒りを買わぬようにするものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・雲漢より)
そんな「汚い大人」を絵に描いたような人間には決してなりたくないし、
そんな連中をわざわざ量産するカルト教義にも決して与したくないものだ。
「明神を敬い恭みて、宜しく悔怒する無かるべし」
「明らかなる神を敬い慎んで、ただその咎めを食らわぬように。
(神は愛し愛されるものではなく、敬って怒りを買わぬようにするものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・雲漢より)
別に、宗教書として無条件な肯定対象とするばかりが新旧約の読み方でもあるまい。
宗教も扱うとはいえ、基本ここは思想哲学板なのだし、思想哲学を中心とするのは何もおかしくない。
そして宗教を絶対的な金科玉条と化したり、それを認めたりすることこそは、いま卒業すべきことでもある。
前にも言ったことだが、新旧約こそは「腐った大人」を大量生産する元凶にもなっている。
別にピーターパンとしてネバーランドにこもるのでもなく、就職して妻子を養っていく、大人としての成長を
伴いつつも、人間道徳を堅持する立派な大人となる道が四書五経などによっても開けている。それなのに、
大人になっても幼児退行状態の精神薄弱のままでいて、いっぱしの行為能力を得た以上は決して許されない
放辟邪侈や我田引水に没入する腐れきった大人が、新旧約信仰やその是認によってどこまでも量産されていく。
そのせいで人間道徳による抑え付けもままならず、年齢的な大人によって構成される社会全体が腐敗に陥っている。
人間道徳の正典たる四書五経によって、腐った大人の金科玉条たる新旧約を駆逐するというよりは、
新旧約信仰やその是認があらかじめ駆逐されてから、その後に、四書五経などによる人間道徳の頒布が
行われるほうが望む所。「儒者は進取をともにするは難く、守成をともにするは可なり(史記・叔孫通列伝)」とは、
前漢の礼楽統治勃興の祖となった叔孫通も言っていること。今はまだ、腐った大人どもに引導を渡す作業のために、
自分自身の儒学の実践もまたおろそかになっている所がある。楚漢戦争中には儒服を脱いで軽便な格好をし、戦闘に
向かない儒生の弟子を温存した叔孫通のように、「純粋に直なる故に曲がって見える(司馬遷曰)」状態と化している。
宗教も扱うとはいえ、基本ここは思想哲学板なのだし、思想哲学を中心とするのは何もおかしくない。
そして宗教を絶対的な金科玉条と化したり、それを認めたりすることこそは、いま卒業すべきことでもある。
前にも言ったことだが、新旧約こそは「腐った大人」を大量生産する元凶にもなっている。
別にピーターパンとしてネバーランドにこもるのでもなく、就職して妻子を養っていく、大人としての成長を
伴いつつも、人間道徳を堅持する立派な大人となる道が四書五経などによっても開けている。それなのに、
大人になっても幼児退行状態の精神薄弱のままでいて、いっぱしの行為能力を得た以上は決して許されない
放辟邪侈や我田引水に没入する腐れきった大人が、新旧約信仰やその是認によってどこまでも量産されていく。
そのせいで人間道徳による抑え付けもままならず、年齢的な大人によって構成される社会全体が腐敗に陥っている。
人間道徳の正典たる四書五経によって、腐った大人の金科玉条たる新旧約を駆逐するというよりは、
新旧約信仰やその是認があらかじめ駆逐されてから、その後に、四書五経などによる人間道徳の頒布が
行われるほうが望む所。「儒者は進取をともにするは難く、守成をともにするは可なり(史記・叔孫通列伝)」とは、
前漢の礼楽統治勃興の祖となった叔孫通も言っていること。今はまだ、腐った大人どもに引導を渡す作業のために、
自分自身の儒学の実践もまたおろそかになっている所がある。楚漢戦争中には儒服を脱いで軽便な格好をし、戦闘に
向かない儒生の弟子を温存した叔孫通のように、「純粋に直なる故に曲がって見える(司馬遷曰)」状態と化している。
ムスリム支配下のズィンミーには、一定の服装制限などがあった場合もあるようだが、
これから行為能力を精神年齢並みに制限されるニャンニャンズィンミーたちも、
服装を学生服や幼児服に制限するなどすればいいな。
むかし、アメリカの黒人ラッパーが日本の学生服を着てるのを見たことがある。
あと、イギリス紳士の嗜みの一つとして赤ちゃんプレイもあるそうだし、
もう一生、中坊や赤ん坊のままでいていいんだぞ? よかったなぁ。
これから行為能力を精神年齢並みに制限されるニャンニャンズィンミーたちも、
服装を学生服や幼児服に制限するなどすればいいな。
むかし、アメリカの黒人ラッパーが日本の学生服を着てるのを見たことがある。
あと、イギリス紳士の嗜みの一つとして赤ちゃんプレイもあるそうだし、
もう一生、中坊や赤ん坊のままでいていいんだぞ? よかったなぁ。
年齢を重ねて、社会的にも出世するに連れて、相応の責任を担う精神的成長を果たした大人こそは立派となる一方、
年齢や社会的身分は上がりつつも、精神だけは低劣なままでい続ける大人こそは腐れきった状態となる。
江戸時代の武士のように、年齢や身分に相応の精神力を持った大人からは、畏敬すべき威厳すら感じられる一方、
精神だけは幼児も同然でいる大人などは、キ○○イめいた気持ち悪さは感じられても、威厳などは感じられない。
結局人は、生き続ける以上はいつかは年を取っておっさんやじいさんになるのだから、おっさんやじいさんなりの
精神的成長に基づく威厳ある振る舞いでいるのが最善の選択となり、加齢という運命を受け入れられずに、
脳内だけはピーターパンも同然の状態でいて、肉体や身分だけは年相応に老化していくことが見苦しい腐敗となる。
そういう意味で、精神的にも年相応に成長した立派な大人を輩出するのが四書五経である一方、年齢に不相応な
幼稚な精神しか持てない腐った大人を無駄に量産するのが新旧約。誰しもがいつかは大人になり、大人こそは
主体的に社会を構成していくのが現実なのだから、精神だけは幼児のままでいさせてくれる新旧約などが、
現実における腐った大人の量産手段としかなり得ないのも必定。イエスが盛大な虚言で提供したネバーランドは、
信者たち自身の脳内にしか存在しないものなのだから。
年齢や社会的身分は上がりつつも、精神だけは低劣なままでい続ける大人こそは腐れきった状態となる。
江戸時代の武士のように、年齢や身分に相応の精神力を持った大人からは、畏敬すべき威厳すら感じられる一方、
精神だけは幼児も同然でいる大人などは、キ○○イめいた気持ち悪さは感じられても、威厳などは感じられない。
結局人は、生き続ける以上はいつかは年を取っておっさんやじいさんになるのだから、おっさんやじいさんなりの
精神的成長に基づく威厳ある振る舞いでいるのが最善の選択となり、加齢という運命を受け入れられずに、
脳内だけはピーターパンも同然の状態でいて、肉体や身分だけは年相応に老化していくことが見苦しい腐敗となる。
そういう意味で、精神的にも年相応に成長した立派な大人を輩出するのが四書五経である一方、年齢に不相応な
幼稚な精神しか持てない腐った大人を無駄に量産するのが新旧約。誰しもがいつかは大人になり、大人こそは
主体的に社会を構成していくのが現実なのだから、精神だけは幼児のままでいさせてくれる新旧約などが、
現実における腐った大人の量産手段としかなり得ないのも必定。イエスが盛大な虚言で提供したネバーランドは、
信者たち自身の脳内にしか存在しないものなのだから。
まぁ 君は社会的にも精神的にも腐ったガキだかな
上では説明の便宜を図るために、精神的な成長云々、精神年齢云々と述べたが、
正確には精神ってのは成長したりするものではなく、天地万物にあまねく付与された道理や真理を
堅固に把持できているか否かでその厚薄が左右されるもの。幼児には幼児なりの、児童には児童なりの、
若者には若者なりの、壮者には壮者なりの、老人には老人なりの精神の厚薄がある。
子供や若者の頃には、まだ行為能力も微弱であるために、精神を薄弱化させてしまいかねないような
人生の重大選択に差し迫られることが少なく、精神を温厚なままに保全していられる場合が多い。
しかし年を経るにつれて、人殺し級の罪を犯しかねないような責任を負わされるようになって、
誤った決断によって無辜の命を奪ってしまったりすることによって、連動して精神も薄弱化する。
重大な過ちを積み重ねれば積み重ねるほどに精神もより薄弱化し、結果、「腐った大人」になってしまう。
腐った大人になることなく、立派な大人となるためには、子供や若者のころ以上にも精神の自主的な
強靭化が必要となり、それを「精神的な成長」とかいった言葉で表現する場合があるが、それは畢竟、
子供や若者のころには保てていた精神の温厚さの保全ともなっていて、精神を年相応に強靭化することが
できた大人こそは、年齢的な子供や若者とも対等以上に渡り合える、真に立派な大人となる。
子供や若者並みの精神力でいるせいで、年寄りゆえの行為能力の甚大な左右に巻き込まれることで
精神が薄弱化し、腐った大人となるのに対し、そのような荒波にも耐えて強靭な精神を保ち続けられた
者こそは、未だ無垢なる子供や若者とも同等かそれ以上もの、温厚なる精神を持つ立派な大人となる。
正確には精神ってのは成長したりするものではなく、天地万物にあまねく付与された道理や真理を
堅固に把持できているか否かでその厚薄が左右されるもの。幼児には幼児なりの、児童には児童なりの、
若者には若者なりの、壮者には壮者なりの、老人には老人なりの精神の厚薄がある。
子供や若者の頃には、まだ行為能力も微弱であるために、精神を薄弱化させてしまいかねないような
人生の重大選択に差し迫られることが少なく、精神を温厚なままに保全していられる場合が多い。
しかし年を経るにつれて、人殺し級の罪を犯しかねないような責任を負わされるようになって、
誤った決断によって無辜の命を奪ってしまったりすることによって、連動して精神も薄弱化する。
重大な過ちを積み重ねれば積み重ねるほどに精神もより薄弱化し、結果、「腐った大人」になってしまう。
腐った大人になることなく、立派な大人となるためには、子供や若者のころ以上にも精神の自主的な
強靭化が必要となり、それを「精神的な成長」とかいった言葉で表現する場合があるが、それは畢竟、
子供や若者のころには保てていた精神の温厚さの保全ともなっていて、精神を年相応に強靭化することが
できた大人こそは、年齢的な子供や若者とも対等以上に渡り合える、真に立派な大人となる。
子供や若者並みの精神力でいるせいで、年寄りゆえの行為能力の甚大な左右に巻き込まれることで
精神が薄弱化し、腐った大人となるのに対し、そのような荒波にも耐えて強靭な精神を保ち続けられた
者こそは、未だ無垢なる子供や若者とも同等かそれ以上もの、温厚なる精神を持つ立派な大人となる。
結構 頻繁にスレチェックしてるんだなw
大きなお世話かも知れないが文章を短くまとめられないのは立派な馬鹿の証拠って知ってるか?
大きなお世話かも知れないが文章を短くまとめられないのは立派な馬鹿の証拠って知ってるか?
書くことが何もしないよりも心地良いことしか書いてない。
日本語おかしいぞ 大丈夫か??
精神の強靭さを育む中には、何もしないでいるよりも読み書きの楽しい金言が、いくらでもある。
まだおかしいぞ ホントに大丈夫か???
文章の構築の仕方が間違えてるって
文章の読み書きが酒よりもタバコよりも、クスリよりも女よりも楽しくてこそ、真の文聖だといえる。
句読点打つ所も間違えてるぞ しっかりしろ
世界の修理を始めよう。
頭おかしいぞ 大丈夫か???
言葉の扱いが正当なものと不当なものとでは、言葉の位相がことごとくひっくり返っている。
そのせいで「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」みたいなごく簡単な一言ですら理解できなかったりする。
一言すら理解できないのに、長文が理解できるはずもないが、長文は長文ですべての意味が通っている。
言葉の扱いが正当である中に、全ての長文が論理だてられて健全に構築されている。
それは経史子集や大蔵経などの形でも前例がわんさかとあることで、別段俺ばかりの独走でもない。
不当な言語使用者が一言すら理解できない構文で、膨大な文献がすでに編纂されてもいる。
それらに価値がないのではなく、価値がありすぎて、価値のない文章ばかり読み書きしている連中には
糞くらいに振舞われる満漢全席ほどにも、不相応すぎてその価値が見定められないだけのことである。
「終に兄弟に遠ざかり、他人を父と謂う。他人を父と謂うも、亦た我を顧る莫し」
「実の兄弟すらをも遠ざけて、よその他人を父と呼ぶ。他人を父などと呼んだ所で、なぜ私を顧みてくれようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・葛藟より)
そのせいで「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」みたいなごく簡単な一言ですら理解できなかったりする。
一言すら理解できないのに、長文が理解できるはずもないが、長文は長文ですべての意味が通っている。
言葉の扱いが正当である中に、全ての長文が論理だてられて健全に構築されている。
それは経史子集や大蔵経などの形でも前例がわんさかとあることで、別段俺ばかりの独走でもない。
不当な言語使用者が一言すら理解できない構文で、膨大な文献がすでに編纂されてもいる。
それらに価値がないのではなく、価値がありすぎて、価値のない文章ばかり読み書きしている連中には
糞くらいに振舞われる満漢全席ほどにも、不相応すぎてその価値が見定められないだけのことである。
「終に兄弟に遠ざかり、他人を父と謂う。他人を父と謂うも、亦た我を顧る莫し」
「実の兄弟すらをも遠ざけて、よその他人を父と呼ぶ。他人を父などと呼んだ所で、なぜ私を顧みてくれようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・葛藟より)
自分に都合の悪い人の意見は聞かず、自分に都合のいい自分の意見ばかりを述べる、
そんな「汚い大人」を絵に描いたような人間には決してなりたくないし、
そんな連中をわざわざ量産するカルト教義にも決して与したくないものだ。
そんな「汚い大人」を絵に描いたような人間には決してなりたくないし、
そんな連中をわざわざ量産するカルト教義にも決して与したくないものだ。
俺だって今は、自分に都合の悪い意見は聞かず、自分に都合の良い意見ばかり述べているが? おまえらを真似てな。
すでに完全に真性の腐った大人であるおまえらに、まるで鏡を直視させるようにして、その腐れ加減をお返ししている。
毒を以て毒を制する勧悪懲悪であり、ただそれだけなら単なる乱戦状態でしかない。
ただ、おまえらと俺とで明らかに違うのは、勧悪懲悪で俺がおまえらを調伏した結果として、
今は自分にも実践できていない儒学の頒布を行っていこうとしている点で、現時点における姿勢は腐った大人然としていても、
その目的は立派な大人を輩出する人間道徳の復興である点。今もまた腐った大人然としており、
その目的もまたいつまでも腐った大人のままでい続けることであるおまえらとは、最終的な目的が根本的に異なる。
目的が正当だから、手段が悪辣でもまだ許される俺。手段も悪辣で、目的も不当であるが故に許されないのがおまえら。
今は腐った大人であっても、これからは立派な大人になることの誓約の有無。その誓約ぐらいはあるのが俺で、それすらなく、
これからも腐った大人でい続けようとしているだけなのがおまえら。おまえらのほうがさっさと入獄すべき根拠もそこにある。
すでに完全に真性の腐った大人であるおまえらに、まるで鏡を直視させるようにして、その腐れ加減をお返ししている。
毒を以て毒を制する勧悪懲悪であり、ただそれだけなら単なる乱戦状態でしかない。
ただ、おまえらと俺とで明らかに違うのは、勧悪懲悪で俺がおまえらを調伏した結果として、
今は自分にも実践できていない儒学の頒布を行っていこうとしている点で、現時点における姿勢は腐った大人然としていても、
その目的は立派な大人を輩出する人間道徳の復興である点。今もまた腐った大人然としており、
その目的もまたいつまでも腐った大人のままでい続けることであるおまえらとは、最終的な目的が根本的に異なる。
目的が正当だから、手段が悪辣でもまだ許される俺。手段も悪辣で、目的も不当であるが故に許されないのがおまえら。
今は腐った大人であっても、これからは立派な大人になることの誓約の有無。その誓約ぐらいはあるのが俺で、それすらなく、
これからも腐った大人でい続けようとしているだけなのがおまえら。おまえらのほうがさっさと入獄すべき根拠もそこにある。
自分の精神状態は、自分が一番よく把握している。
劣悪な犯罪労働に全く手を出さないでいる清浄さと、
毎日の四書五経の勉強とで、ますます精神も壮健と化している。
自分ばかりがこれほどにも健康で、憂い少なき生活を送れている後ろめたさからも、
こんなところへの意見の発表を続けてもいるわけだが、ただ羨まれて嫉妬されるばかりで、
少しもこの壮健さを倣おうとする者が現れない。せっかく最高の人生を送る手段をも提示してやっているのに、
かえって自分たちの明日なき人生を自慢しようとすらする。上知と下愚ってのは、本当に移らないものだ。
「愛を立つるは惟れ親よりす」
「愛し合うことはまず親族身内の間柄から始めることが筋である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・伊訓より)
「如之何、如之何と曰わざる者は、吾れ如之何ともすること末きのみ」
「『どうしようか、どうしようか』と己れに責める恭しさも持たない者は、私にもどうしようもない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・一六より)
劣悪な犯罪労働に全く手を出さないでいる清浄さと、
毎日の四書五経の勉強とで、ますます精神も壮健と化している。
自分ばかりがこれほどにも健康で、憂い少なき生活を送れている後ろめたさからも、
こんなところへの意見の発表を続けてもいるわけだが、ただ羨まれて嫉妬されるばかりで、
少しもこの壮健さを倣おうとする者が現れない。せっかく最高の人生を送る手段をも提示してやっているのに、
かえって自分たちの明日なき人生を自慢しようとすらする。上知と下愚ってのは、本当に移らないものだ。
「愛を立つるは惟れ親よりす」
「愛し合うことはまず親族身内の間柄から始めることが筋である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・伊訓より)
「如之何、如之何と曰わざる者は、吾れ如之何ともすること末きのみ」
「『どうしようか、どうしようか』と己れに責める恭しさも持たない者は、私にもどうしようもない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・一六より)
だからそんな、自分の病状を相手にあてこすって悦に入る冤病志向はもう入らないから。
おまえのほうこそもう、医者でもカウンセラーでもない相手との通話などやめて、
剃刀も預かってくれる親切な病院にでも入るべきだ。むしろ刑務所のほうがいいか?
俺が相手にしようとしているのも、一応は健常者以上の学習者に限っている。
精神的な健常者ですらない人間には、俺の話を聞くよりも、
まずは入院や入獄のほうを切実に勧める。
おまえのほうこそもう、医者でもカウンセラーでもない相手との通話などやめて、
剃刀も預かってくれる親切な病院にでも入るべきだ。むしろ刑務所のほうがいいか?
俺が相手にしようとしているのも、一応は健常者以上の学習者に限っている。
精神的な健常者ですらない人間には、俺の話を聞くよりも、
まずは入院や入獄のほうを切実に勧める。
孔子にも宰我のような仁徳に欠ける弟子がいたし、孟子にも履物を盗むような姑息な弟子がいたとされる(Part3の411参照)。
「去る者は追わず、来たるものは拒まず」の学風でいる、学校というよりは塾よりの風紀であったのが儒家でもあるため、
必ずしも弟子の質が保証されていたとはいえない。ただ、本人が旺盛なる向学心の持ち主であるぐらいのことが儒生には要求され、
向学心すら抱けない精神薄弱者などには、わざわざ上知を教えたりするものではないとされる(>>41の「論語」の引用などを参照)。
このような、意欲の有無による選択制を儒家が講じていることが「荘子」などにおいてはこっぴどく批判され、孔子やその先輩格である
子産などが、身心ともに壮健であることばかりを貴んで、身体障害者や重病人などを蔑んでいたかのような寓話までもが載せられている。
別に儒家が身体的な不遇を貶めたりしていないことは、見てくれの醜悪な澹台滅明という弟子が、内面に豊かな徳性を宿していることを
孔子が知って見直したという、「史記」仲尼弟子列伝における史実などからもうかがえるわけだが、やはり儒者が、精神的な壮健さを
重んじていたのは確かであり、四書五経などの経書を読み解くことによって、その健全さをより養っていくことが目的の一つともされる。
いま俺がここに儒学に関する書き込みをしているのは、人に教えるためというよりは、自分が学ぶためであるところが大きく、
まだ自分が実践込みの儒者として大成できているとも思わない。もしも自分が、本当に儒学の教師となるのならば、そのときは
向学心の持ち主であるか否か程度の選択制にはするのであり、向学心すら抱けない精神薄弱者などは相手にしないようになる。
いまはむしろ、向学心の有無に関わらず万物斉同の真理に安んずる、道家の大成者として自由にものを言っており、善悪をも
超えた絶対性を居場所としている。そしてその実践が他でもない無為自然であり、何もしないことこそは何をするよりもえらい、
現代人とは180度転倒した、奇天烈ながらも真理に即した言行一致の偉業となっており、それはそれで相当な価値を持っている。
「去る者は追わず、来たるものは拒まず」の学風でいる、学校というよりは塾よりの風紀であったのが儒家でもあるため、
必ずしも弟子の質が保証されていたとはいえない。ただ、本人が旺盛なる向学心の持ち主であるぐらいのことが儒生には要求され、
向学心すら抱けない精神薄弱者などには、わざわざ上知を教えたりするものではないとされる(>>41の「論語」の引用などを参照)。
このような、意欲の有無による選択制を儒家が講じていることが「荘子」などにおいてはこっぴどく批判され、孔子やその先輩格である
子産などが、身心ともに壮健であることばかりを貴んで、身体障害者や重病人などを蔑んでいたかのような寓話までもが載せられている。
別に儒家が身体的な不遇を貶めたりしていないことは、見てくれの醜悪な澹台滅明という弟子が、内面に豊かな徳性を宿していることを
孔子が知って見直したという、「史記」仲尼弟子列伝における史実などからもうかがえるわけだが、やはり儒者が、精神的な壮健さを
重んじていたのは確かであり、四書五経などの経書を読み解くことによって、その健全さをより養っていくことが目的の一つともされる。
いま俺がここに儒学に関する書き込みをしているのは、人に教えるためというよりは、自分が学ぶためであるところが大きく、
まだ自分が実践込みの儒者として大成できているとも思わない。もしも自分が、本当に儒学の教師となるのならば、そのときは
向学心の持ち主であるか否か程度の選択制にはするのであり、向学心すら抱けない精神薄弱者などは相手にしないようになる。
いまはむしろ、向学心の有無に関わらず万物斉同の真理に安んずる、道家の大成者として自由にものを言っており、善悪をも
超えた絶対性を居場所としている。そしてその実践が他でもない無為自然であり、何もしないことこそは何をするよりもえらい、
現代人とは180度転倒した、奇天烈ながらも真理に即した言行一致の偉業となっており、それはそれで相当な価値を持っている。
俺に会話能力がないんじゃない。
おまえらに俺と会話させていただくだけの資格がまだないだけだ。
その資格はひとえに、「向学心の具備」に尽きるのであり、
いい学校を卒業したとか難しい国家資格を取ったとかである必要はない。
向学心すら備わっていたなら、別に顔回や楽正子とまではいかずとも、
有象無象の弟子程度にはなれるだろうから、それだけでも教えてやるには十分。
学生の側からの向学心すらあれば、師弟の節義もわきまえられて、
弟子の側からの未熟な自論のひけらかしによって教示が滞ったりすることもない。
そしたらどこまでも講義が行き届き、歯車のかみ合った対話がどこまでも展開されていく。
俺とおまえらとの立場は、もうすでにそういった師弟の関係であるぐらいで
適切なところにまで開ききっているのであり、今さら対等な会話を望んだりするほうが不相応。
不相応で不快な対話など、できない以前にしたくもなく、絶対にしないと自分から決断してもいる。
会話という選択肢もその技能もあるにしても、それはおまえらの今の目線よりも遥か上にある。
だからおまえらはその存在に気づかないだけで、会話のできる所には無限の会話が待っている。
おまえらに俺と会話させていただくだけの資格がまだないだけだ。
その資格はひとえに、「向学心の具備」に尽きるのであり、
いい学校を卒業したとか難しい国家資格を取ったとかである必要はない。
向学心すら備わっていたなら、別に顔回や楽正子とまではいかずとも、
有象無象の弟子程度にはなれるだろうから、それだけでも教えてやるには十分。
学生の側からの向学心すらあれば、師弟の節義もわきまえられて、
弟子の側からの未熟な自論のひけらかしによって教示が滞ったりすることもない。
そしたらどこまでも講義が行き届き、歯車のかみ合った対話がどこまでも展開されていく。
俺とおまえらとの立場は、もうすでにそういった師弟の関係であるぐらいで
適切なところにまで開ききっているのであり、今さら対等な会話を望んだりするほうが不相応。
不相応で不快な対話など、できない以前にしたくもなく、絶対にしないと自分から決断してもいる。
会話という選択肢もその技能もあるにしても、それはおまえらの今の目線よりも遥か上にある。
だからおまえらはその存在に気づかないだけで、会話のできる所には無限の会話が待っている。
違うな。お前に会話能力がないんだよ。社会性も人間的な魅力もないが。
皆がそれに賛同するのに対して、
お前に賛同する奴は誰ひとりいないだろ。
一人でいいから、お前の正気を保証してくれる人がいるのか?
親にすら見放されて、ネットしか社会との接点がないお前を。
皆がそれに賛同するのに対して、
お前に賛同する奴は誰ひとりいないだろ。
一人でいいから、お前の正気を保証してくれる人がいるのか?
親にすら見放されて、ネットしか社会との接点がないお前を。
むしろ、ネット上でのなけなしのコミュニケーションすら
アク禁などによって強制的に断絶されたほうがいいな。
それでおまえらの迷妄な書き込みをわざわざ看取してあげる手間も省かれる。
おまえら全員が、俺抜きでの限りない妄想に明け暮れているより、
俺一人が自分だけで黙想に明け暮れていることのほうが、よっぽど価値がある。
ウソだと思うなら、俺を完全にネット社会から追い出してみればいい。
おまえらばかりは不満をより溜め込む一方、俺のほうはより満足を高めていく。
俺自身としては、むしろそうなることを望んですらいる。ぜひそうすべきだ。さあ。
アク禁などによって強制的に断絶されたほうがいいな。
それでおまえらの迷妄な書き込みをわざわざ看取してあげる手間も省かれる。
おまえら全員が、俺抜きでの限りない妄想に明け暮れているより、
俺一人が自分だけで黙想に明け暮れていることのほうが、よっぽど価値がある。
ウソだと思うなら、俺を完全にネット社会から追い出してみればいい。
おまえらばかりは不満をより溜め込む一方、俺のほうはより満足を高めていく。
俺自身としては、むしろそうなることを望んですらいる。ぜひそうすべきだ。さあ。
あぁ、気持ちいい。
自分からネット辞められないだろ?
それも病気の特徴(偏執)だぞ。
違うというなら自らやめてみな。
他人から矯正されてやめたところで意味がないんだよ。
お前と違って、ここのみんなにはネットはおまけなんだよ。
現実で恋人やら家庭やら仕事やら趣味やらの方が大事で楽しいんだ。
この乖離に気づくのは自力では無理だろうけどな。
医者でも半年はかかる。
それも病気の特徴(偏執)だぞ。
違うというなら自らやめてみな。
他人から矯正されてやめたところで意味がないんだよ。
お前と違って、ここのみんなにはネットはおまけなんだよ。
現実で恋人やら家庭やら仕事やら趣味やらの方が大事で楽しいんだ。
この乖離に気づくのは自力では無理だろうけどな。
医者でも半年はかかる。
おまえみたいな身の程知らずに私見で揶揄されればされるほど、
自らの健全さや偉大さがより強化されて、よほど好ましいよ。
おまえ自身は自己崩壊寸前の苦悩に陥っているのかも知らんが。
語られれば語られるほど、気持ちよさこの上ない。
どうして自分からやめる気になどなれようか?
自らの健全さや偉大さがより強化されて、よほど好ましいよ。
おまえ自身は自己崩壊寸前の苦悩に陥っているのかも知らんが。
語られれば語られるほど、気持ちよさこの上ない。
どうして自分からやめる気になどなれようか?
「史記」外戚世家において太史公司馬遷も言っていることだが、親族への親愛を特に重んじて、そこから天下万民への
程度をわきまえた慈しみを嗜む仁徳志向は、ある程度以上に身分の高い為政者などに対してこそ徹底して要求されていたもの。
江戸時代のようなガチガチの封建社会においてですら、百姓や町人といった庶民たちは、世襲での家の存続にもこだわらず、
伊勢参りや各種のお祭りがてら、気の向いた者同士で同衾して夫婦にもなるなど、ごく自由な性愛生活を送っていた。
為政にも携わらず、儒学をも志さない単なる庶民なら、それでも別に構いやしないのであって、親にこそ親しみ、次に人を仁し、
最後に物を愛玩する「情愛の序列の嗜み」は、君子道徳の学究者やその実践者にのみ徹底して要求されること。だれ彼構わず
禽獣のように愛し合って交合し合う乱交パーティーも、庶民ですらあるなら封建社会においてですら許されること。
「詩は志を言い、歌は言を永くし、声は永きに依り、律は声を和す。八音克く諧い、倫を相奪うこと無ければ、神人、以て和す」
「詩には志しを込め、歌声はその言葉を伸ばして詠じ、楽器の旋律によってその声との調和を図る。
八つの楽器の音すらもがよく調和し、お互いの調和を破るようなことがなければ、神も人も和らげることができる。
(詩歌やそれを詠い奏でる音楽の調和を、士農工商といった封建社会の位階の調和にも暗に喩えている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・舜典より)
程度をわきまえた慈しみを嗜む仁徳志向は、ある程度以上に身分の高い為政者などに対してこそ徹底して要求されていたもの。
江戸時代のようなガチガチの封建社会においてですら、百姓や町人といった庶民たちは、世襲での家の存続にもこだわらず、
伊勢参りや各種のお祭りがてら、気の向いた者同士で同衾して夫婦にもなるなど、ごく自由な性愛生活を送っていた。
為政にも携わらず、儒学をも志さない単なる庶民なら、それでも別に構いやしないのであって、親にこそ親しみ、次に人を仁し、
最後に物を愛玩する「情愛の序列の嗜み」は、君子道徳の学究者やその実践者にのみ徹底して要求されること。だれ彼構わず
禽獣のように愛し合って交合し合う乱交パーティーも、庶民ですらあるなら封建社会においてですら許されること。
「詩は志を言い、歌は言を永くし、声は永きに依り、律は声を和す。八音克く諧い、倫を相奪うこと無ければ、神人、以て和す」
「詩には志しを込め、歌声はその言葉を伸ばして詠じ、楽器の旋律によってその声との調和を図る。
八つの楽器の音すらもがよく調和し、お互いの調和を破るようなことがなければ、神も人も和らげることができる。
(詩歌やそれを詠い奏でる音楽の調和を、士農工商といった封建社会の位階の調和にも暗に喩えている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・舜典より)
俺は自学自習の一環としてここに書いているし、新旧約信仰への懲罰という明確な目的も伴っている。
むしろ何の目的もなく、ただ無軌道なちょっかいを出して来ているだけのおまえらのほうが病んでいるのであり、
やめるというのならおまえらがやめればいいんだ。どうせネットへ参加などおまけでしかないんだろう?w
重犯罪者どもと面と向かい合う必要のないネットが、今の総員犯罪者社会での直接的な人間関係よりも健全であるのはもちろんだし、
もしネットすらうかがうことなく、完全に現代社会との関わりを絶つのならば、それ以上にも健全となれるだろう。
ただ、そこまでいけばもはや「行為能力否定主義」とまでなり、「行為能力劣後主義」を旨とする俺の信条にもそぐわなくなるので
一応ネットぐらいは続けている。それも四書五経の自学自習などと共になので、精神衛生も相当に確保された状態でいる。
むしろ何の目的もなく、ただ無軌道なちょっかいを出して来ているだけのおまえらのほうが病んでいるのであり、
やめるというのならおまえらがやめればいいんだ。どうせネットへ参加などおまけでしかないんだろう?w
重犯罪者どもと面と向かい合う必要のないネットが、今の総員犯罪者社会での直接的な人間関係よりも健全であるのはもちろんだし、
もしネットすらうかがうことなく、完全に現代社会との関わりを絶つのならば、それ以上にも健全となれるだろう。
ただ、そこまでいけばもはや「行為能力否定主義」とまでなり、「行為能力劣後主義」を旨とする俺の信条にもそぐわなくなるので
一応ネットぐらいは続けている。それも四書五経の自学自習などと共になので、精神衛生も相当に確保された状態でいる。
俺がこれほどにも満悦な人生を送れている、具体的な根拠を探ってみたんだが、特にないな。
できるかぎり何もしないでいる中にも、多少はやっていること、
ここなどでのネット上での読み書きも、不快な反応への不快を煽る言い返しなど、かえってつまらない部類。
道を歩いても、全くの他人とはいえ、そこら中が強盗リンチ殺人犯だらけ。自分自身では罪状に気づいていなくても、
重犯罪者に特有のえもいわれぬ凶相を帯びていて、顔つきや身のこなし、声色などに独特の気持ち悪さがにじみ出ていて、不快だ。
かといって自分自身がそんなに清浄な外見を帯びているともいえず、それなりに人ごみの中に溶け込むこともできる、それも不快な事実。
別段、一つ一つの事象の中に、自分が常日頃満悦であることの絶対的な根拠があるわけでもなく、かえって不快さの根拠であるものばかり。
つまり、俺が満悦であることは現象のせいではないし、現象的な知識でも、それにまつわる思考のせいでもない。あらゆる現象を超越した
所にある純粋精神、最高真理ブラフマンとも同等である、ならずならずのアートマンこそは、俺が満足に暮らせている唯一無二の根拠であり、
それは俺自身と完全に合致しているものであるため、それを俺が傍観することなどはできないし、誰にも具体的に察知されることもない。
己れを傍観する己れというような、分裂病的な精神異常が完全に排されることで、人間はこの上ない満足を得ることができる。
そのためには、現象的な側面におけるいかなる「是」をもさしはさむことなく、一切の現象を「非」としたところに真我たるアートマンが
実在することを自覚すること。現象的な知識を扱う思考などが、自我であったりすることはないのだという事実に気づくことだ。
「乃の有位を慎み、敬して其の願う可きを修めよ」
「汝の帝位をよく保ち慎んで、恭敬と共に願うべきところ(民の安寧など)を修めよ。
(舜帝の禹への禅譲の際の言葉。物事への願いにすら義務性を付与している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・大禹謨より)
できるかぎり何もしないでいる中にも、多少はやっていること、
ここなどでのネット上での読み書きも、不快な反応への不快を煽る言い返しなど、かえってつまらない部類。
道を歩いても、全くの他人とはいえ、そこら中が強盗リンチ殺人犯だらけ。自分自身では罪状に気づいていなくても、
重犯罪者に特有のえもいわれぬ凶相を帯びていて、顔つきや身のこなし、声色などに独特の気持ち悪さがにじみ出ていて、不快だ。
かといって自分自身がそんなに清浄な外見を帯びているともいえず、それなりに人ごみの中に溶け込むこともできる、それも不快な事実。
別段、一つ一つの事象の中に、自分が常日頃満悦であることの絶対的な根拠があるわけでもなく、かえって不快さの根拠であるものばかり。
つまり、俺が満悦であることは現象のせいではないし、現象的な知識でも、それにまつわる思考のせいでもない。あらゆる現象を超越した
所にある純粋精神、最高真理ブラフマンとも同等である、ならずならずのアートマンこそは、俺が満足に暮らせている唯一無二の根拠であり、
それは俺自身と完全に合致しているものであるため、それを俺が傍観することなどはできないし、誰にも具体的に察知されることもない。
己れを傍観する己れというような、分裂病的な精神異常が完全に排されることで、人間はこの上ない満足を得ることができる。
そのためには、現象的な側面におけるいかなる「是」をもさしはさむことなく、一切の現象を「非」としたところに真我たるアートマンが
実在することを自覚すること。現象的な知識を扱う思考などが、自我であったりすることはないのだという事実に気づくことだ。
「乃の有位を慎み、敬して其の願う可きを修めよ」
「汝の帝位をよく保ち慎んで、恭敬と共に願うべきところ(民の安寧など)を修めよ。
(舜帝の禹への禅譲の際の言葉。物事への願いにすら義務性を付与している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・大禹謨より)

目の前に不快なものが現れたり、不快な言葉や奇声を聞かされたりしたら、やっぱり不快になる。
それらを不快だとも思わないから満悦なのでもないし、不快を快楽だと倒錯しているから満悦なのでもない。
耳目の感官などによって被る、現象の知覚に基づく快や不快を超えたところにある、ならずならずの真我たる
アートマンと、宇宙の最高真理たるブラフマンの一致、すなわち「梵我一如」こそを楽しんでいる。
ヒンズー教の梵我一如は、密教や禅仏教を通じて中国にも輸入され、宋代の朱子学などにおいて
「物我一理」と解釈し直されてもいる。インドだろうが中国だろうが、最高真理は同じものであり、
それと自我との一致が現象を超えた浩然の気を養うのも同じであり、ただその捉え方が微妙に違っているだけ。
逆に自我が最高真理たる梵と乖離したり、乖離した状態で不当に肥大化したりした時に、人間は精神を病む。
その結果、現象界における耳目などの知覚に基づく快楽ばかりを渇望する小人とも化してしまう。
インドや中国だけに限らず、日本や中東や西洋などにおいても全く共通している普遍法則であり、
梵我一如が不能と化したままに自我が奇形的に肥大化していくことで、内面の渇望が際限のないものとなり、
現象界での欲求第一な悪行にひた走り続けてしまうという、ヒンズー教や朱子学の範囲内における説明で、
新旧約信者やニヒリストどものイかれた言行も完全に看破されきってしまう。それ以外の何らかの付加要素が
あるのならまだ神秘的だが、何らの未知もないのだから仕方ない。何らの神秘もない、単なる現実上の過ちの
範疇に収まりきっていて、全くそうでしかない所が、新旧約や洋学に幻滅させられる何よりの根拠でもある。
「内陽にして外陰なり、内健にして外順なり、内君子にして外小人なり、君子は道長じ、小人は道消ずるなり」
「天下を掌握する権力機構の、内部が陽剛にして外部が陰柔となり、内部が壮健で外部が従順となる。
内部が君子で構成されて、外部に小人が置かれることとなり、君子は道が長じて、小人はその道が消ずることとなる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・泰卦より)
「内陰にして外陽なり、内柔にして外剛なり、内小人にして外君子なり、小人は道長じ、君子は道消ずるなり」
「天下を掌握する権力機構の、内部が陰柔にして外部が陽剛となり、内部に小人がたむろして、
外部に君子が打ち捨てられる。小人はその道が長じて、君子はその道が消ずることとなる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・否卦より)
すでに部分的には引き合いに出したことのある「易経」原文の引用。
「内と外」という位相関係は、どちらが絶対によく、どちらが絶対にいけないというような優劣論ではない。
たとえば「家」においては、妻たる女が家の内にいて、夫たる男が家の外で働くのが適切であると「易経」家人卦にもある。
ただ、上の場合は文脈上「天下国家」についての内と外を述べていて、天下国家の内部が君子によって公正され、
外部に小人がたむろするのが吉祥である一方、内部に小人がたむろして、外部に君子が放擲されるのが不吉とする。
「天下を掌握する権力機構の、内部が陽剛にして外部が陰柔となり、内部が壮健で外部が従順となる。
内部が君子で構成されて、外部に小人が置かれることとなり、君子は道が長じて、小人はその道が消ずることとなる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・泰卦より)
「内陰にして外陽なり、内柔にして外剛なり、内小人にして外君子なり、小人は道長じ、君子は道消ずるなり」
「天下を掌握する権力機構の、内部が陰柔にして外部が陽剛となり、内部に小人がたむろして、
外部に君子が打ち捨てられる。小人はその道が長じて、君子はその道が消ずることとなる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・否卦より)
すでに部分的には引き合いに出したことのある「易経」原文の引用。
「内と外」という位相関係は、どちらが絶対によく、どちらが絶対にいけないというような優劣論ではない。
たとえば「家」においては、妻たる女が家の内にいて、夫たる男が家の外で働くのが適切であると「易経」家人卦にもある。
ただ、上の場合は文脈上「天下国家」についての内と外を述べていて、天下国家の内部が君子によって公正され、
外部に小人がたむろするのが吉祥である一方、内部に小人がたむろして、外部に君子が放擲されるのが不吉とする。
これは、「内と外」を論じている対象であるものが「個々の家」であるか「天下国家」であるかの違いがあることから
生じている相違で、「個々の家」というのは陰陽でいうところの「陰」であり、女性性を付帯しているので女が内にいるべき
となる一方、「天下国家」は陰陽でいうところの「陽」であり、男性性を付帯しているので男が内にいるべきとなる。
キリストは、見るからにひげ面のおっさんであり、どう見ても男なので(そういう記述が禍音書中にもある)、
個々の家か天下国家かでいえば、天下国家と同じ男性性を帯びていることになる。そのキリストのうちに他力本願の小人どもが
包含されることは、「内小人にして外君子なり」の否卦の卦象に合致し、「小人は道長じ、君子は道消ずるなり」という
不吉な結果につながるために相応しくない。それだったらむしろ、アマテラスのような女神のうちにあるほうが適切で、
それは実際のところ「個々の家」に女子小人が止まることとなるため、天下国家においては「内君子にして外小人なり」となり、
「君子は道長じ、小人は道消ずるなり」という吉祥な結果を得る。すでに罪を犯しまくっている小人の場合は、自宅ではなく
刑務所や閉鎖病棟の内に入る必要があるかもしれないが、それはそれで天下国家の外部に小人がいることとなって、好ましい。
生じている相違で、「個々の家」というのは陰陽でいうところの「陰」であり、女性性を付帯しているので女が内にいるべき
となる一方、「天下国家」は陰陽でいうところの「陽」であり、男性性を付帯しているので男が内にいるべきとなる。
キリストは、見るからにひげ面のおっさんであり、どう見ても男なので(そういう記述が禍音書中にもある)、
個々の家か天下国家かでいえば、天下国家と同じ男性性を帯びていることになる。そのキリストのうちに他力本願の小人どもが
包含されることは、「内小人にして外君子なり」の否卦の卦象に合致し、「小人は道長じ、君子は道消ずるなり」という
不吉な結果につながるために相応しくない。それだったらむしろ、アマテラスのような女神のうちにあるほうが適切で、
それは実際のところ「個々の家」に女子小人が止まることとなるため、天下国家においては「内君子にして外小人なり」となり、
「君子は道長じ、小人は道消ずるなり」という吉祥な結果を得る。すでに罪を犯しまくっている小人の場合は、自宅ではなく
刑務所や閉鎖病棟の内に入る必要があるかもしれないが、それはそれで天下国家の外部に小人がいることとなって、好ましい。

給料や年金のおこぼれに与りながらの生活すらできなくなったとする。
その頃にも相変わらず殺し合い奪い合いの乱世が続いていて、世の中での労働の一切が
有害無益な犯罪労働のままであったとする。もちろん俺は一貫して労役拒否を続ける。
自分で働かず、扶養者もいないのであれば当然食えなくなる。その時には、まずは県庁か市役所あたりに赴いて、
これらの図像の当時版(資本主義先進国による虐殺被害者数も大幅に増加しているだろうと思われる)を提示する。
「こんな、何をやったって強盗リンチ殺人にしかならない世の中で、一切働く気にはなれません」と言い、
「扶養者ももういませんので、このままいけばホームレスになるか、餓死するかでしょう」と言うだろう。
役所の人間はただ「そうですか、分かりました」というだけで放っておくかもしれないし、事態を慮ってか、
俺をキ○○イ扱いするかして、生活保護や措置入院の便宜を図ってくれるかもしれない。もちろん俺は自分では、
自分がキ○○イであることなどを認めておらず、むしろ役所の人間を含む今の世の労働者のほうがキ○○イであると
断定しているわけだが、そう断定していることも含めてキ○○イ扱いして、手厚い扶養の対象とするかもしれない。
もちろんそうなったりする前に、資本主義先進国が軒並み崩壊して仁政が敷かれ、そのような優良な世の中において
俺が仕事を始めるようになったほうがいいわけだが、最悪の場合としては上記のような場合も想定されうる。
それ以前に、人口爆発や環境破壊も行き過ぎて全面核戦争も勃発し、人類が滅亡する可能性のほうが高くもあるが。
≫104
親は何歳だ?
働く気がないといってしまうと、生活保護はもらえない。
病院いって精神疾患の診断書貰えば、
病気の程度に応じて貰えるが、食っていくだけ貰うのは重度のキチガイ故に働けないことをちゃんと証明しないとダメだぞ。
また、役所の人間が入院を斡旋することはない。
いずれにしろ、餓死リスクたかいわな
親は何歳だ?
働く気がないといってしまうと、生活保護はもらえない。
病院いって精神疾患の診断書貰えば、
病気の程度に応じて貰えるが、食っていくだけ貰うのは重度のキチガイ故に働けないことをちゃんと証明しないとダメだぞ。
また、役所の人間が入院を斡旋することはない。
いずれにしろ、餓死リスクたかいわな
「働こうと思えば働けるでしょうし、ある種の職務(仁徳統治など)については人並み以上の職能も持っていますが、
その職能を活用する場は今の社会にはこれっぽっちもありませんし、曲学阿世で自らの学識を悪用する気もありません。
誰にでもできる程度の単純労働もできるでしょうが、やればやるほど犯罪行為になるだけなので、自分からは決してやりません」
と、ちゃんと事情をありのままに全て説明する。
精密な精神鑑定もすでに受けたことがあるが、全くの異常なしで、むしろ人並み以上に
健常だとも言われたので、医師の診断による精神疾患を根拠に生活保護を受けたりすることもできない。
それでも決して働かない。「犯罪行為には手を染めない」という、
自ずからの道徳的な要求によって、現状での労役を拒否する。
もしかしたら役所などが、不審なホームレスの増加による公衆衛生の悪化を忌んで、最低限の生活ぐらいは保証してくれる
かもしれないが、してくれないかもしれない。してくれなかったホームレスになるまでで、ホームレスとしてですら
働く気はないので、コンビニなどの残飯をもらったりの乞食や、配給ぐらいでしか食いつながない。
そのせいで餓死するのなら、それでも結構。放伐革命を忌んで首陽山に引きこもり、ゼンマイだけを食って餓死した伯夷・叔斉、
仕官の高望みをし過ぎて野に打ち捨てられ、食うにも困った孔子、戦国時代の乱世に愛想を尽かして職を辞し、濁世の悲哀を詩として
「楚辞」に書き残した上で入水して死んだ屈原。乱世ゆえの不遇に置かれていたとはいえ、自ずからの威光を発する聖人君子も数多い。
その職能を活用する場は今の社会にはこれっぽっちもありませんし、曲学阿世で自らの学識を悪用する気もありません。
誰にでもできる程度の単純労働もできるでしょうが、やればやるほど犯罪行為になるだけなので、自分からは決してやりません」
と、ちゃんと事情をありのままに全て説明する。
精密な精神鑑定もすでに受けたことがあるが、全くの異常なしで、むしろ人並み以上に
健常だとも言われたので、医師の診断による精神疾患を根拠に生活保護を受けたりすることもできない。
それでも決して働かない。「犯罪行為には手を染めない」という、
自ずからの道徳的な要求によって、現状での労役を拒否する。
もしかしたら役所などが、不審なホームレスの増加による公衆衛生の悪化を忌んで、最低限の生活ぐらいは保証してくれる
かもしれないが、してくれないかもしれない。してくれなかったホームレスになるまでで、ホームレスとしてですら
働く気はないので、コンビニなどの残飯をもらったりの乞食や、配給ぐらいでしか食いつながない。
そのせいで餓死するのなら、それでも結構。放伐革命を忌んで首陽山に引きこもり、ゼンマイだけを食って餓死した伯夷・叔斉、
仕官の高望みをし過ぎて野に打ち捨てられ、食うにも困った孔子、戦国時代の乱世に愛想を尽かして職を辞し、濁世の悲哀を詩として
「楚辞」に書き残した上で入水して死んだ屈原。乱世ゆえの不遇に置かれていたとはいえ、自ずからの威光を発する聖人君子も数多い。
伯夷も叔斉も孔子も屈原も、決して完全な世捨て人(行為能力否定主義者)ではなかった。
ただ、禅譲革命や仁徳統治といった、理想的な社会統治を望むあまり、殺し合い奪い合いの横行する
乱世などでの実務に関わらされることに嫌気が差し、仕方なくなく、在野に放擲されることに甘んじていた。
まさに「内小人にして外君子なり、小人は道長じ、君子は道消ずるなり」の「易経」否卦に完全に合致した姿で、
真の聖人君子なればこそ、乱世には天下国家の内部で活躍することあたわず、外野で食うも困る苦境に置かれている。
「乱世に受け入れられないでこそ君子ではないか」という、「史記」孔子世家での顔回の発言にもちゃんと根拠がある。
ただ、禅譲革命や仁徳統治といった、理想的な社会統治を望むあまり、殺し合い奪い合いの横行する
乱世などでの実務に関わらされることに嫌気が差し、仕方なくなく、在野に放擲されることに甘んじていた。
まさに「内小人にして外君子なり、小人は道長じ、君子は道消ずるなり」の「易経」否卦に完全に合致した姿で、
真の聖人君子なればこそ、乱世には天下国家の内部で活躍することあたわず、外野で食うも困る苦境に置かれている。
「乱世に受け入れられないでこそ君子ではないか」という、「史記」孔子世家での顔回の発言にもちゃんと根拠がある。
>>「働こうと思えば働けるでしょうし、ある種の職務(仁徳統治など)については人並み以上の職能も持っていますが、
「自分は人徳ありますから働けます」なんて言ってどこの職員が納得するんだw
「はいはい。何もないんだね。まずは職能訓練受けてね〜」で終わり。
>>誰にでもできる程度の単純労働もできるでしょうが、やればやるほど犯罪行為になるだけなので、自分からは決してやりません」
アウト。この時点で生活保護も失業保険も貰えません。
これらは働こうとする意思がある人しか貰えない。
>>精密な精神鑑定もすでに受けたことがあるが、全くの異常なしで、むしろ人並み以上に
健常だとも言われたので、
はい嘘。「人並み以上に健常」なんてことを言う医者はいない。
学会がひっくりかえるわ。
自殺街道まっしぐらじゃねえかw
「自分は人徳ありますから働けます」なんて言ってどこの職員が納得するんだw
「はいはい。何もないんだね。まずは職能訓練受けてね〜」で終わり。
>>誰にでもできる程度の単純労働もできるでしょうが、やればやるほど犯罪行為になるだけなので、自分からは決してやりません」
アウト。この時点で生活保護も失業保険も貰えません。
これらは働こうとする意思がある人しか貰えない。
>>精密な精神鑑定もすでに受けたことがあるが、全くの異常なしで、むしろ人並み以上に
健常だとも言われたので、
はい嘘。「人並み以上に健常」なんてことを言う医者はいない。
学会がひっくりかえるわ。
自殺街道まっしぐらじゃねえかw
自殺する度胸はないでしょ。
ホームレスとして残飯あさって、40くらいで衰弱死に百円。
ホームレスとして残飯あさって、40くらいで衰弱死に百円。
要は、おまえらが社会的に死ぬか、俺がのたれ死ぬかの二つに一つだから。
他者の屍の上に己れの活路を切り開くぐらいのつもりなら、当然
己れの屍の上に他者の活路が開かれることも覚悟しなければならない。
たとえ自分の目的が勧善懲悪で、相手の目的が悪逆非道だろうとも。
「己れの欲せざるところを人に施すことなかれ」だから。
他者の屍の上に己れの活路を切り開くぐらいのつもりなら、当然
己れの屍の上に他者の活路が開かれることも覚悟しなければならない。
たとえ自分の目的が勧善懲悪で、相手の目的が悪逆非道だろうとも。
「己れの欲せざるところを人に施すことなかれ」だから。
いやいや、金がなくなって確実な死がくるのは俺らじゃなくて、お前だぞ(笑)
お前の親、あと何年生きるんだ?何年稼げるんだ?
お前の親、あと何年生きるんだ?何年稼げるんだ?
今どき自殺なんて中高生でもやっているから。
ただ、その理由は「いじめを苦にして」とかの私的なものばかりで、
天下国家を慮る公共性に即したりはしていない。
屈原の詩歌もいくつかは読んでみたが、あれは精神病患者の書けるような詩じゃない。
心から人を慕い、世を利せんとする中にも、自らの思いが果たされない苦悩が
制動と抑揚の均衡を取りつつの、荘厳なる文体によって表現されている。
きっと、入水の瞬間にすら完全な正気を保ち、
まるで家に帰るかのようにして溺れ死んでいったに違いない。
ただ、その理由は「いじめを苦にして」とかの私的なものばかりで、
天下国家を慮る公共性に即したりはしていない。
屈原の詩歌もいくつかは読んでみたが、あれは精神病患者の書けるような詩じゃない。
心から人を慕い、世を利せんとする中にも、自らの思いが果たされない苦悩が
制動と抑揚の均衡を取りつつの、荘厳なる文体によって表現されている。
きっと、入水の瞬間にすら完全な正気を保ち、
まるで家に帰るかのようにして溺れ死んでいったに違いない。
>>113
おまえら資本主義先進国の犯罪労働者全員が、ムスリムあたりに自首して入獄や強制入院などの処置を被る。
俺のほうは、後進国などへの強盗リンチ殺人加害者でなかったことを根拠に罪を免れ、
二度とこのような惨劇を起こさないための、仁徳統治の確立業務に携わっていく。
選択肢として、一応それはある。あるにはあるが、もちろんおまえらは自首を拒絶するだろう。
拒絶した結果として俺は職にありつけず、生活保護なり措置入院なり浮浪なり自殺なりの不遇な人生を送る。
俺の要求によって、おまえらが自首するなどとは、俺自身ですら思っていない。
ただ、人口爆発や環境破壊などの、人類破滅の危機を免れるためにおまえらが自首するか、
もしくはおまえらの無価値な自尊心を保つために、全面核戦争なども通じて人類が強制的に滅ぼされるか
というところが、実際に世界の大局を左右する根本要因となるだろう。その結果として、おまえらが社会的に
死んで、俺が社会的に活躍するようなこともある。このままいけば数十年以内に人類の破滅は免れ得ないので、
おまえらがまともな生活を送りつつ、俺がのたれ死ぬという選択肢のほうが、ほぼあり得ないことが分かる。
おまえら資本主義先進国の犯罪労働者全員が、ムスリムあたりに自首して入獄や強制入院などの処置を被る。
俺のほうは、後進国などへの強盗リンチ殺人加害者でなかったことを根拠に罪を免れ、
二度とこのような惨劇を起こさないための、仁徳統治の確立業務に携わっていく。
選択肢として、一応それはある。あるにはあるが、もちろんおまえらは自首を拒絶するだろう。
拒絶した結果として俺は職にありつけず、生活保護なり措置入院なり浮浪なり自殺なりの不遇な人生を送る。
俺の要求によって、おまえらが自首するなどとは、俺自身ですら思っていない。
ただ、人口爆発や環境破壊などの、人類破滅の危機を免れるためにおまえらが自首するか、
もしくはおまえらの無価値な自尊心を保つために、全面核戦争なども通じて人類が強制的に滅ぼされるか
というところが、実際に世界の大局を左右する根本要因となるだろう。その結果として、おまえらが社会的に
死んで、俺が社会的に活躍するようなこともある。このままいけば数十年以内に人類の破滅は免れ得ないので、
おまえらがまともな生活を送りつつ、俺がのたれ死ぬという選択肢のほうが、ほぼあり得ないことが分かる。
「そんな世の中」の中には、おまえらが相も変わらず強盗殺人込みの放辟邪侈の生活を続け、
そんなおまえらとの友愛を拒絶する俺が、挙句にのたれ死ぬという場合も含まれているわけだが。
それが、よくよく考えた上での立派な結論。
もちろんそれが最善ではなく、おまえらが自首して俺が仁徳統治を始めるほうが
俺の望みだが、そんな世の中は来ないらしいな。俺の帰宅も決まったも同然だ。
そんなおまえらとの友愛を拒絶する俺が、挙句にのたれ死ぬという場合も含まれているわけだが。
それが、よくよく考えた上での立派な結論。
もちろんそれが最善ではなく、おまえらが自首して俺が仁徳統治を始めるほうが
俺の望みだが、そんな世の中は来ないらしいな。俺の帰宅も決まったも同然だ。
「明夷は艱貞に利なり。(中略)内難にして能くその志しを正しくす。(中略)君子以て衆に蒞み、晦を用いてしかも明なり」
「光明が地の底に閉ざされた暗黒の時代には、あえて艱難を耐えしのぎ、正しさを貫くことが利口である。
天下国家の内部中枢などが多難な時代に、あえてその志しの正しさを貫く。正しさを貫かんとするあまり、
君子はかえって(是非善悪が転倒した世の中において)無知蒙昧であるような姿を衆目に晒すが、それでも聡明である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・明夷より)
「光明が地の底に閉ざされた暗黒の時代には、あえて艱難を耐えしのぎ、正しさを貫くことが利口である。
天下国家の内部中枢などが多難な時代に、あえてその志しの正しさを貫く。正しさを貫かんとするあまり、
君子はかえって(是非善悪が転倒した世の中において)無知蒙昧であるような姿を衆目に晒すが、それでも聡明である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・明夷より)
「明夷は艱貞に利あり」
「光明の閉ざされた暗黒無道の時代には、艱難に耐えて正しくあることが有利に働く」
果たしてこれは、信ずべき言葉なのだろうか?
信じるにしては、あまりにもその表現がそっけなく、「俺の言うことを信じろ!」的な情熱が微塵も見られない。
もちろん易者がこの「易経」の文言に即して、占いで明夷の卦が出た場合などに「艱難に耐えて正しくありなさい」と
依頼者に伝え、依頼者の側がその教えを信じるということはあるだろう。しかし「占いなどあてにはならない」とは
古くは殷代のころから言われていることで(「書経」などを参照)、易者の発言の信憑性などは古来から疑われ通しであり、
信じるか信じないかは本人の意向次第という程度の信頼度止まりで、やはり熱心に信じるにあたるものではない。
しかし、「易経」六十四卦の卦辞は、周の武王の父親である文王がこしらえたともされており、特にこの明夷の卦辞は
文王の解釈であることが明記されてもいる。中国史上屈指の暴君である殷の紂王に、七年間もの幽閉生活を送らされ、その獄中において、
文王に好意を抱く獄吏の計らいで得た占い道具で易占を試みた結果、この卦が出たという。すなわち、「明夷は艱貞に利あり」と。
紂王の暴虐の非道さは今さら言うまでもなく、実際に諫言を試みた臣下の比干を殺害するなどの、正しさが報われない虐殺も行っている。
艱難に耐えられるかどうかということは、本人自身の自力の及ばない運命に左右されることもあるが、その運命の加護も受けて、
艱難に耐え続けることが果たせた上で、しかも正しさも貫けたなら、明夷における艱貞はかえって有利に働くということだろう。
「正しさを貫く」という人事を尽くした上で、「艱難に耐える」ことにかけては人事を尽くして、しかも天命を待つ。
それが、「明夷は艱貞に利あり」という明夷の卦辞の、実際に言わんとするところであるのだろう。
「光明の閉ざされた暗黒無道の時代には、艱難に耐えて正しくあることが有利に働く」
果たしてこれは、信ずべき言葉なのだろうか?
信じるにしては、あまりにもその表現がそっけなく、「俺の言うことを信じろ!」的な情熱が微塵も見られない。
もちろん易者がこの「易経」の文言に即して、占いで明夷の卦が出た場合などに「艱難に耐えて正しくありなさい」と
依頼者に伝え、依頼者の側がその教えを信じるということはあるだろう。しかし「占いなどあてにはならない」とは
古くは殷代のころから言われていることで(「書経」などを参照)、易者の発言の信憑性などは古来から疑われ通しであり、
信じるか信じないかは本人の意向次第という程度の信頼度止まりで、やはり熱心に信じるにあたるものではない。
しかし、「易経」六十四卦の卦辞は、周の武王の父親である文王がこしらえたともされており、特にこの明夷の卦辞は
文王の解釈であることが明記されてもいる。中国史上屈指の暴君である殷の紂王に、七年間もの幽閉生活を送らされ、その獄中において、
文王に好意を抱く獄吏の計らいで得た占い道具で易占を試みた結果、この卦が出たという。すなわち、「明夷は艱貞に利あり」と。
紂王の暴虐の非道さは今さら言うまでもなく、実際に諫言を試みた臣下の比干を殺害するなどの、正しさが報われない虐殺も行っている。
艱難に耐えられるかどうかということは、本人自身の自力の及ばない運命に左右されることもあるが、その運命の加護も受けて、
艱難に耐え続けることが果たせた上で、しかも正しさも貫けたなら、明夷における艱貞はかえって有利に働くということだろう。
「正しさを貫く」という人事を尽くした上で、「艱難に耐える」ことにかけては人事を尽くして、しかも天命を待つ。
それが、「明夷は艱貞に利あり」という明夷の卦辞の、実際に言わんとするところであるのだろう。
しかし、「艱貞に利あり(艱難に耐えて正しくあることが有利となる)」ということは、
正しさが報われるような状況がまたやって来るということでもあるはずだから、「易経」は事態の好転をも明確に予言している。
今のような暗黒無道の世の中が清算されて、光明の世の中に戻るのならば、当然暗黒時代においてこそ道長じていた小人たちが
破綻して衰亡していくことにもなる。殷紂のように放伐革命で打ち滅ぼされることもあれば、始皇帝のように自らの死後、
後裔が絶やされることもある。いずれにしろ暴虐の限りを尽くして来た小人たちが、いつかは自他の業によるわざわいによって
破綻を来たして衰亡するのであると、易は別段、信仰対象とするまでもない明らかな事実として、予言をゴロリと投げ出している。
実際に、資本主義先進国の数億人規模の大虐殺をも含めた暴虐によって、人口爆発や環境破壊などの致命的な大問題が巻き起こり、
このままいけば数十年後には必ず人類の破滅が免れ得ない状況になっている。しかしそれは易の法則に基づけば杞憂であり、
重犯罪者であったものこそは特定して自滅・衰亡し、道徳者が評価される光明の時代へと移行するのが普遍法則であるとする。
それは、易が「信じるまでもない大前提」として定めていることで、信じる信じないは個々人の勝手という以上にも、信不信
云々以前の絶対法則だとする。ただ、易がそうであると断定しているのみで、易を信じるか信じないかは確かに個々の自由だ。
どこぞやの馬の骨とも知れない匿名者の暴言などよりは、よっぽど信じられるが、別にこれも無闇に信じられるということではない。
易の法則が自分にとって都合が良いことも悪いこともあるわけで、都合が良ければ信じたく、都合が悪ければ信じたくないという
こともあるわけで、結局は信じる信じない、信じたい信じたくないなどという恣意で左右される範疇と、易の法則に連動性はない。
正しさが報われるような状況がまたやって来るということでもあるはずだから、「易経」は事態の好転をも明確に予言している。
今のような暗黒無道の世の中が清算されて、光明の世の中に戻るのならば、当然暗黒時代においてこそ道長じていた小人たちが
破綻して衰亡していくことにもなる。殷紂のように放伐革命で打ち滅ぼされることもあれば、始皇帝のように自らの死後、
後裔が絶やされることもある。いずれにしろ暴虐の限りを尽くして来た小人たちが、いつかは自他の業によるわざわいによって
破綻を来たして衰亡するのであると、易は別段、信仰対象とするまでもない明らかな事実として、予言をゴロリと投げ出している。
実際に、資本主義先進国の数億人規模の大虐殺をも含めた暴虐によって、人口爆発や環境破壊などの致命的な大問題が巻き起こり、
このままいけば数十年後には必ず人類の破滅が免れ得ない状況になっている。しかしそれは易の法則に基づけば杞憂であり、
重犯罪者であったものこそは特定して自滅・衰亡し、道徳者が評価される光明の時代へと移行するのが普遍法則であるとする。
それは、易が「信じるまでもない大前提」として定めていることで、信じる信じないは個々人の勝手という以上にも、信不信
云々以前の絶対法則だとする。ただ、易がそうであると断定しているのみで、易を信じるか信じないかは確かに個々の自由だ。
どこぞやの馬の骨とも知れない匿名者の暴言などよりは、よっぽど信じられるが、別にこれも無闇に信じられるということではない。
易の法則が自分にとって都合が良いことも悪いこともあるわけで、都合が良ければ信じたく、都合が悪ければ信じたくないという
こともあるわけで、結局は信じる信じない、信じたい信じたくないなどという恣意で左右される範疇と、易の法則に連動性はない。
キリストのいう「愛」は、愛ではない。単なる娼婦の私生児ゆえの自暴自棄に過ぎない。
誰が自分の父親であるかも分からず、息子として認知してくれる程度の愛情すらも
父親に注がれることのなかった恨みを、悪意を込めた寓喩によってほのめかし、触れ回った。
それはむしろ、愛情の欠如こそを原動力としているもので、父子の親という最も重大な
愛の起点となる部分を、根本的に欠いていたことからもたらされてしまったもの。
キリストの愛こそは、キリストが捏造した虚構の中でも最たるものであり、
それが真実の愛でないのはもちろんのこと、根本的に相反しているものですらある。
性愛のような下賤な部分を愛の本質とし、親愛のような高貴な部分を愛の本質ではないとする。
愛が真実さや健全さの条件を満たすことを反故にするためにこそ捏造されたキリストの愛。
そこにこそ、悪霊としての供養の必要性があるのであり、聖性を見出すことなどもってのほか。
「土に安んじ仁に敦くす、故に能く愛す」
「父祖も住まえる土地に安んずることで、天下万民を慮る仁を厚くする。故にこそよく愛せるのでもある。
(自身も父母の野合によって産まれた私生児である孔子の直筆。自身は与れなかった道理をも冷静にわきまえている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
誰が自分の父親であるかも分からず、息子として認知してくれる程度の愛情すらも
父親に注がれることのなかった恨みを、悪意を込めた寓喩によってほのめかし、触れ回った。
それはむしろ、愛情の欠如こそを原動力としているもので、父子の親という最も重大な
愛の起点となる部分を、根本的に欠いていたことからもたらされてしまったもの。
キリストの愛こそは、キリストが捏造した虚構の中でも最たるものであり、
それが真実の愛でないのはもちろんのこと、根本的に相反しているものですらある。
性愛のような下賤な部分を愛の本質とし、親愛のような高貴な部分を愛の本質ではないとする。
愛が真実さや健全さの条件を満たすことを反故にするためにこそ捏造されたキリストの愛。
そこにこそ、悪霊としての供養の必要性があるのであり、聖性を見出すことなどもってのほか。
「土に安んじ仁に敦くす、故に能く愛す」
「父祖も住まえる土地に安んずることで、天下万民を慮る仁を厚くする。故にこそよく愛せるのでもある。
(自身も父母の野合によって産まれた私生児である孔子の直筆。自身は与れなかった道理をも冷静にわきまえている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
誰からも愛された事のない奴が愛を語るとは
滑稽
滑稽
単純な男女間での異性愛でもなく、キリスト教徒が「神の愛の下での平等」の中に、
横の繋がりとしてウレシがる隣人愛や友愛ともまた別個のものである、キリストのいう「神の愛」、
これこそは、父子の親愛に与れなかった、娼婦の私生児の自暴自棄に過ぎず、
それは愛であるどころかむしろ、「(親)愛の欠如」こそをその正体とするものだ。
儒家の三綱「君臣父子夫婦」の序においては、夫婦の序列よりも重要である一方、君臣の序列ほどにも
絶対的でない父子の序列が、時に乱れやすい夫婦関係を規律すると共に、それだけでは堅苦しくなり過ぎる
君臣関係をも温厚化させる働きを持つ。父子の序列を守る中に育まれる父子の親愛が、これまた夫婦の情愛よりは
清廉なものとなる一方、君臣の節義よりは融通の利くものとして、社会秩序を保つ上での重要な役割を果たす。
「過ぎたるはなお及ばざるが如し」の中庸を重んずる儒家においては、夫婦の家庭愛よりはもちろんのこと、
君臣の節義以上にも父子の親愛が重視されることもあり、実際、孟子は三綱を「父子君臣夫婦」の順に述べたり、
父子の親を世間一般への仁愛以上にも重んずるようなことをも述べている。父子の親愛こそは、世の中の序列が
何もかも平行化されて無秩序化するのを防ぐ一方で、軍隊形式の薄情な序列によって世の中が殺伐化することをも防ぐ、
封建社会成功のための最重要理念となっており、その最重要理念たる父子の親愛を、娼婦の私生児であるがゆえの
自暴自棄によって破壊せんと試み、親愛の欠如ゆえの怨恨を逆に「神の愛」と呼び変えて、親愛が蔑ろにされて
父子兄弟での殺し合いすら横行し始めるような状態を「神の愛」の達成であるかのように思い込ませたのがキリスト。
横の繋がりとしてウレシがる隣人愛や友愛ともまた別個のものである、キリストのいう「神の愛」、
これこそは、父子の親愛に与れなかった、娼婦の私生児の自暴自棄に過ぎず、
それは愛であるどころかむしろ、「(親)愛の欠如」こそをその正体とするものだ。
儒家の三綱「君臣父子夫婦」の序においては、夫婦の序列よりも重要である一方、君臣の序列ほどにも
絶対的でない父子の序列が、時に乱れやすい夫婦関係を規律すると共に、それだけでは堅苦しくなり過ぎる
君臣関係をも温厚化させる働きを持つ。父子の序列を守る中に育まれる父子の親愛が、これまた夫婦の情愛よりは
清廉なものとなる一方、君臣の節義よりは融通の利くものとして、社会秩序を保つ上での重要な役割を果たす。
「過ぎたるはなお及ばざるが如し」の中庸を重んずる儒家においては、夫婦の家庭愛よりはもちろんのこと、
君臣の節義以上にも父子の親愛が重視されることもあり、実際、孟子は三綱を「父子君臣夫婦」の順に述べたり、
父子の親を世間一般への仁愛以上にも重んずるようなことをも述べている。父子の親愛こそは、世の中の序列が
何もかも平行化されて無秩序化するのを防ぐ一方で、軍隊形式の薄情な序列によって世の中が殺伐化することをも防ぐ、
封建社会成功のための最重要理念となっており、その最重要理念たる父子の親愛を、娼婦の私生児であるがゆえの
自暴自棄によって破壊せんと試み、親愛の欠如ゆえの怨恨を逆に「神の愛」と呼び変えて、親愛が蔑ろにされて
父子兄弟での殺し合いすら横行し始めるような状態を「神の愛」の達成であるかのように思い込ませたのがキリスト。
孔子もまた父母の野合によって生まれ、母方の家で育てられている。母親は孔子が野合によって産まれた子供で
あることを恥じて父親の居場所を告げず、葬儀の時にすら孔子を参列させなかった。自学自習によって仁義道徳を
学んでいた孔子は、父子の親愛の重要さを自力でわきまえて、親戚に何とか父親の墓の場所を聞き出して墓参りをした。
自らの不徳を恥じていた母親もまた、亡くなったときには手厚く葬って三年の喪に服した(「史記」孔子世家参照)。
娼婦の私生児だったから、非嫡出の非認知だったから絶対に父子の親をわきまえられないわけでもなく、かえって
自分のほうから親愛や序列の盛り立てに努めることすら可能であることが、孔子の行ないからも明らかであるのに、
あまつさえ、父親からの愛情が欠如していたことを怨みに、かえって父子の親愛や序列を破壊するような暴挙におよび、
逆にそれを「神の愛」の達成などに言い換えた悪質極まりない姿。これこそは、キリストが悪霊そのものである論拠だ。
「帝初め歴山に於いて、田に往き、日に旻天に於いて號泣す。父母に於いて、
罪を負い慝きを引き、祗しみ載えて、瞽叟に見え、夔夔として齋栗すれば、瞽も亦た允とし若えり」
「むかし舜帝は、歴山のふもとに田を耕しに赴いては、毎日憐れみ深い上天に向かって、父母のことを号泣されていました。
息子である自分を殺そうとするほどにも、子愛に欠けていた自らの父母の罪までをも背負って、悪を自らに引き受け、ひたすら悪父である
瞽叟に慎み仕えるように努めました。いつもそのようにされたために、瞽叟もついに舜帝の言うことを聞き入れるようになりました。
(古の聖王舜帝も、父母の子愛の欠如の下で育ったが、それに対してかえって孝養で応答し、父子の親愛を自力で築き上げている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・大禹謨より)
あることを恥じて父親の居場所を告げず、葬儀の時にすら孔子を参列させなかった。自学自習によって仁義道徳を
学んでいた孔子は、父子の親愛の重要さを自力でわきまえて、親戚に何とか父親の墓の場所を聞き出して墓参りをした。
自らの不徳を恥じていた母親もまた、亡くなったときには手厚く葬って三年の喪に服した(「史記」孔子世家参照)。
娼婦の私生児だったから、非嫡出の非認知だったから絶対に父子の親をわきまえられないわけでもなく、かえって
自分のほうから親愛や序列の盛り立てに努めることすら可能であることが、孔子の行ないからも明らかであるのに、
あまつさえ、父親からの愛情が欠如していたことを怨みに、かえって父子の親愛や序列を破壊するような暴挙におよび、
逆にそれを「神の愛」の達成などに言い換えた悪質極まりない姿。これこそは、キリストが悪霊そのものである論拠だ。
「帝初め歴山に於いて、田に往き、日に旻天に於いて號泣す。父母に於いて、
罪を負い慝きを引き、祗しみ載えて、瞽叟に見え、夔夔として齋栗すれば、瞽も亦た允とし若えり」
「むかし舜帝は、歴山のふもとに田を耕しに赴いては、毎日憐れみ深い上天に向かって、父母のことを号泣されていました。
息子である自分を殺そうとするほどにも、子愛に欠けていた自らの父母の罪までをも背負って、悪を自らに引き受け、ひたすら悪父である
瞽叟に慎み仕えるように努めました。いつもそのようにされたために、瞽叟もついに舜帝の言うことを聞き入れるようになりました。
(古の聖王舜帝も、父母の子愛の欠如の下で育ったが、それに対してかえって孝養で応答し、父子の親愛を自力で築き上げている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・大禹謨より)
君は最近の中国の動向についてどう思う?
今の中国は、暗黒時代(明夷)の真っ只中だが?
最隆盛を誇った漢代や唐代からはかなりの年月が過ぎ、
金や元や清といった異民族支配が相次ぎ、明代にも官僚腐敗が横行していた。
清朝後期には英仏や日本などからの侵略も相次ぎ、大戦後にやっとサンドバック状態から
抜け出したかと思いきや、今度は「共産主義」という異文化による支配を被ることとなった。
異民族に支配を受けた元代や清代においても、漢民族特有の文化を中国人が重んじていたのは同じで、
逆に異民族の側を自国の文化に順応させてしまう「漢化」と共にすらその歴史が紡がれていた。
それが、マルクスやらモンテスキューやらを耽読して、独特の共産主義を立ち上げた毛沢東率いる
中国共産党によって征服され、文化面での完全なる伝統破壊=文化大革命の憂き目に遭った。
自国民同士ですら相当な殺し合いを続けてきた経歴からも、民族の統治権が奪われることなどは
まだ耐えられたかもしれないが、自国が紡ぎ上げてきた悠久の文化こそが破壊されて、
より劣悪な蛮族文化による支配を被っている、これこそは中華民族にとっての未曾有の恥辱。
共産主義も「毛沢東主義」として大幅に改変したり、新旧約信仰だけは徹底的に禁止したりと、
それなりに自尊心を保とうともしているようだが、共産主義も所詮は新旧約信仰の一種でしかなく、
君臣父子の尊位を貴ぶ古来の漢文化を壊滅状態に追いやっていることには変わりない。
もしかしたらそんな中にも、伝統文化を守ろうとする聖賢がどこかにいるのかもしれないが、
それこそ日本のニート並みにも、卑賤な境遇に貶められているに違いない。たとえいたとしても。
最隆盛を誇った漢代や唐代からはかなりの年月が過ぎ、
金や元や清といった異民族支配が相次ぎ、明代にも官僚腐敗が横行していた。
清朝後期には英仏や日本などからの侵略も相次ぎ、大戦後にやっとサンドバック状態から
抜け出したかと思いきや、今度は「共産主義」という異文化による支配を被ることとなった。
異民族に支配を受けた元代や清代においても、漢民族特有の文化を中国人が重んじていたのは同じで、
逆に異民族の側を自国の文化に順応させてしまう「漢化」と共にすらその歴史が紡がれていた。
それが、マルクスやらモンテスキューやらを耽読して、独特の共産主義を立ち上げた毛沢東率いる
中国共産党によって征服され、文化面での完全なる伝統破壊=文化大革命の憂き目に遭った。
自国民同士ですら相当な殺し合いを続けてきた経歴からも、民族の統治権が奪われることなどは
まだ耐えられたかもしれないが、自国が紡ぎ上げてきた悠久の文化こそが破壊されて、
より劣悪な蛮族文化による支配を被っている、これこそは中華民族にとっての未曾有の恥辱。
共産主義も「毛沢東主義」として大幅に改変したり、新旧約信仰だけは徹底的に禁止したりと、
それなりに自尊心を保とうともしているようだが、共産主義も所詮は新旧約信仰の一種でしかなく、
君臣父子の尊位を貴ぶ古来の漢文化を壊滅状態に追いやっていることには変わりない。
もしかしたらそんな中にも、伝統文化を守ろうとする聖賢がどこかにいるのかもしれないが、
それこそ日本のニート並みにも、卑賤な境遇に貶められているに違いない。たとえいたとしても。
獄中で「明夷は艱貞に利あり」との易占結果を得るなどした文王は、息子たちによる
自主的な紂王への賄賂などにもよって、七年間の幽閉の後にやっと開放された。
殷の紂王が、自らの放辟邪侈と引き換えに人民たちを極度に貧窮させていた中で、
文王は諸国王なりの仁政に尽力したために、多くの士人や民が文王の下に集まって来、
最終的には中国全土の3分の2の人々の支持を得るまでになった。
しかし、それはあくまで非武装民たちによる支持であって、
軍事的な優勢ではなく、軍事的には未だ殷のほうが遥かに強大な武力を誇っていた。
だからということもあったかも知れないが、文王は決して紂王の帝位を簒奪しようなどとはせず、
あくまで殷王朝に臣従する格下の態度をとり続けていた。その恭しさを慕って、
小国の王子だった伯夷や叔斉も周への帰属を試みたが、その頃にはすでに文王はなく、
息子の武王が王位を継承し、文王が釣り場の邂逅で臣従させた太公望呂尚などと共に、
今まさに殷の紂王を討ち、新たな統一中華王朝の創立を試みんとしていた。
天下全土の3分の2もの支持を受けながらも、殷への臣従を守った文王こそを
慕って周に赴いた伯夷や叔斉は、車上にいる武王に対し、何とか放伐革命を避けるように
説得したが、近衛兵に遠ざけられて殺されそうになった。太公望呂尚はそれを見取って
「仁士であるので解放するように」と命じた。失望感にかられた伯夷と叔斉は周を捨てて
首陽山にこもり、山菜だけを食べて一時の命をつないだ挙句に餓死した。
自主的な紂王への賄賂などにもよって、七年間の幽閉の後にやっと開放された。
殷の紂王が、自らの放辟邪侈と引き換えに人民たちを極度に貧窮させていた中で、
文王は諸国王なりの仁政に尽力したために、多くの士人や民が文王の下に集まって来、
最終的には中国全土の3分の2の人々の支持を得るまでになった。
しかし、それはあくまで非武装民たちによる支持であって、
軍事的な優勢ではなく、軍事的には未だ殷のほうが遥かに強大な武力を誇っていた。
だからということもあったかも知れないが、文王は決して紂王の帝位を簒奪しようなどとはせず、
あくまで殷王朝に臣従する格下の態度をとり続けていた。その恭しさを慕って、
小国の王子だった伯夷や叔斉も周への帰属を試みたが、その頃にはすでに文王はなく、
息子の武王が王位を継承し、文王が釣り場の邂逅で臣従させた太公望呂尚などと共に、
今まさに殷の紂王を討ち、新たな統一中華王朝の創立を試みんとしていた。
天下全土の3分の2もの支持を受けながらも、殷への臣従を守った文王こそを
慕って周に赴いた伯夷や叔斉は、車上にいる武王に対し、何とか放伐革命を避けるように
説得したが、近衛兵に遠ざけられて殺されそうになった。太公望呂尚はそれを見取って
「仁士であるので解放するように」と命じた。失望感にかられた伯夷と叔斉は周を捨てて
首陽山にこもり、山菜だけを食べて一時の命をつないだ挙句に餓死した。
文王が獄中で得た「明夷は艱貞に利あり」という易占の結果は、あくまで文王自身の
艱貞(艱難の中にも正しさを貫く)によって、天下全土の3分の2もの支持を得る点までを
予言していたのであって、文王の息子である武王が、禅譲に劣る放伐によって殷紂の
王位を簒奪した点を予言していたのではない。大多数の人民からの支持までが、
文王にとっての「利」であったし、結局はその父親への支持を嵩にかかって、
武王も紂王を放伐できたのだから、殷周革命その瞬間は、すでに文王が自得した有利さの
消費の段階に入っていた。文王が大多数の万民の支持を受けた時点が最隆盛であり、
放伐革命によって武王が紂王を討ち滅ぼした時には、すでに下り坂に入っていた。
だから伯夷や叔斉も周を捨てて山篭りした。もしも文王の存命中に伯夷や叔斉が臣従して、
ある程度の俸禄を得たりしていたなら、おそらく伯夷や叔斉とて周への帰属を続けただろう。
そして、武王に放伐革命を思いとどまるよう正式な臣下として諌め通し、殷紂が完全な
自業自得によって自滅する所まで臣従を通させただろう。孟子も「殷周革命の実態は
禅譲も同然だった」と推定しているが、形式上はやはり放伐革命になってしまったため、
それが確かに運命の分かれ道となり、周朝は殷代まで存続していた帝号を排して王号止まりとした。
「明夷は艱貞に利あり」とは、あくまで正しさが貫かれる限りにおいてもたらされる利の予言であり、
放伐革命のような惨事を予言しているわけではない。孟子が推定したような極めて禅譲寄りの放伐となったり、
本当に禅譲になったりということもあり、そこは上記の予言によって左右されるところではない。
艱貞(艱難の中にも正しさを貫く)によって、天下全土の3分の2もの支持を得る点までを
予言していたのであって、文王の息子である武王が、禅譲に劣る放伐によって殷紂の
王位を簒奪した点を予言していたのではない。大多数の人民からの支持までが、
文王にとっての「利」であったし、結局はその父親への支持を嵩にかかって、
武王も紂王を放伐できたのだから、殷周革命その瞬間は、すでに文王が自得した有利さの
消費の段階に入っていた。文王が大多数の万民の支持を受けた時点が最隆盛であり、
放伐革命によって武王が紂王を討ち滅ぼした時には、すでに下り坂に入っていた。
だから伯夷や叔斉も周を捨てて山篭りした。もしも文王の存命中に伯夷や叔斉が臣従して、
ある程度の俸禄を得たりしていたなら、おそらく伯夷や叔斉とて周への帰属を続けただろう。
そして、武王に放伐革命を思いとどまるよう正式な臣下として諌め通し、殷紂が完全な
自業自得によって自滅する所まで臣従を通させただろう。孟子も「殷周革命の実態は
禅譲も同然だった」と推定しているが、形式上はやはり放伐革命になってしまったため、
それが確かに運命の分かれ道となり、周朝は殷代まで存続していた帝号を排して王号止まりとした。
「明夷は艱貞に利あり」とは、あくまで正しさが貫かれる限りにおいてもたらされる利の予言であり、
放伐革命のような惨事を予言しているわけではない。孟子が推定したような極めて禅譲寄りの放伐となったり、
本当に禅譲になったりということもあり、そこは上記の予言によって左右されるところではない。
「君子に三楽あり。而して天下に王たるは与り存せず」
「君子にも色々と楽しみはある。しかし天下全土に冠たる帝王となることなどは、そのうちに入っていない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・二〇より)
殷の紂王が中国史上にも稀に見る暴虐を行っていた頃に、幽閉から解かれてからの周文王は、自国を中心とした
仁政を施し、次第に諸国民の支持を得るまでとなり、存命中に天下全土の大多数の人民の支持を得るまでになった。
そこまでが「明夷は艱貞に利あり」という予言の果報であり、「利」とは天下を統一することでもなければ、
自らの勢力が軍事経済的な優位に立つことでもなかった。実際、後に殷周革命の雌雄を決した牧野の戦いにおいても、
殷軍が数十万の軍勢を擁していたのに対し、周の武王軍はせいぜい数万程度の規模だったと言われる(正確な数は諸説あり)。
しかし、大多数の民衆の支持を、自分たち殷ではなく周のほうが獲得していることに失望感を抱いて、殷軍はほとんど
なすすべも無く無勢の周軍に破れ、ほとんど戦うことすらなく首都朝歌を明け渡し、紂王やその愛妾たちは自決して果てた。
その頃の殷は、ただ軍事的に膨張していただけでなく、経済的にも相当な隆盛を誇っていたため、殷の旧称である
「商」が今でも「商業」や「商売」といった言葉に痕跡をとどめている。しかし、周の武王はその殷朝単独での
経済面や軍事面における膨張が、かえって天下万民を苦しめる元凶となっていたことに配慮して、軍事や経済ではなく
文徳による統治支配を天下全土に敷いた。そのため周代には数多くの詩歌や歴史書などが編纂され、特に武王の弟の
周公旦が直接統治した魯において文化保存も行き届いていたために、後に孔子がこれらを「詩経」や「書経」として編纂した。
文王が卦辞を作り、周公が爻辞を作ったとされる易も、孔子が整形して繋辞伝を付録するなどしたことによって、
今の「易経」とほぼ同等の体裁を完成させるにいたった。
「君子にも色々と楽しみはある。しかし天下全土に冠たる帝王となることなどは、そのうちに入っていない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・二〇より)
殷の紂王が中国史上にも稀に見る暴虐を行っていた頃に、幽閉から解かれてからの周文王は、自国を中心とした
仁政を施し、次第に諸国民の支持を得るまでとなり、存命中に天下全土の大多数の人民の支持を得るまでになった。
そこまでが「明夷は艱貞に利あり」という予言の果報であり、「利」とは天下を統一することでもなければ、
自らの勢力が軍事経済的な優位に立つことでもなかった。実際、後に殷周革命の雌雄を決した牧野の戦いにおいても、
殷軍が数十万の軍勢を擁していたのに対し、周の武王軍はせいぜい数万程度の規模だったと言われる(正確な数は諸説あり)。
しかし、大多数の民衆の支持を、自分たち殷ではなく周のほうが獲得していることに失望感を抱いて、殷軍はほとんど
なすすべも無く無勢の周軍に破れ、ほとんど戦うことすらなく首都朝歌を明け渡し、紂王やその愛妾たちは自決して果てた。
その頃の殷は、ただ軍事的に膨張していただけでなく、経済的にも相当な隆盛を誇っていたため、殷の旧称である
「商」が今でも「商業」や「商売」といった言葉に痕跡をとどめている。しかし、周の武王はその殷朝単独での
経済面や軍事面における膨張が、かえって天下万民を苦しめる元凶となっていたことに配慮して、軍事や経済ではなく
文徳による統治支配を天下全土に敷いた。そのため周代には数多くの詩歌や歴史書などが編纂され、特に武王の弟の
周公旦が直接統治した魯において文化保存も行き届いていたために、後に孔子がこれらを「詩経」や「書経」として編纂した。
文王が卦辞を作り、周公が爻辞を作ったとされる易も、孔子が整形して繋辞伝を付録するなどしたことによって、
今の「易経」とほぼ同等の体裁を完成させるにいたった。
文王が天下全土の大多数の支持を得る仁政を施したことによって、その息子である武王や周公が天下を統一して文徳統治を敷く
偉業をもなし得たわけで、周の威徳は文王の代においてこそ極まり、武王や周公はその父親の威徳を継承して消費したのみ。
しかし、文王がそこまでの万民の支持を得たのも、元はといえば殷の紂王という大反面教師が、見本中の見本のような暴政を
敷くことで万民を苦しめ、水であれば泥水でも飛びつくような渇望者へと民を追い込んでいたからで、良くも悪しくもそのお陰で
文王の仁政が際立ち、誰しもが周への帰属を欲するまでとなった。これが「明夷は艱貞に利あり」の法則性の論証ともなっている。
今の世の中だって、欧米とブラックアフリカを合わせたキリスト教圏が、自分たちの中だけで1兆倍以上もの所得格差を広げ、
毎年何千万人もの餓死者をはじき出しているから、非キリスト教圏の比較的なマシさ加減が際立っているまでで、中国や
アラブやインドとて、決してそれほど優良な仁政を敷けているともいえない。文王や武王もそれなりに賢人だったとはされるが、
禅譲によって政権も交代させていた唐虞の堯舜には及ばないということを孔子も言っている(「論語」里仁第四・二五参照)。
聖賢にも色々と段階があり、聖性の重畳とでもいえるほどに良い所尽くめな場合もあれば、反面教師がいることによって、比較的
なマシさから聖性が際立つ場合もある。極大級の反面教師がいたから比較的偉大なもの扱いされたりするのは、普遍的な聖賢の
度合いとしては低劣な部類であり、反面教師すらいない中に聖性を高められるかどうかでこそ、聖賢としての真価をも問われるだろう。
「文王を待ちて後に興る者は、凡民なり。夫の豪傑の士の若きは、文王なしと雖も猶お興る」
「文王は偉大でも、文王のような聖人の登場を待ってからはじめて立ち上がる者などは、凡民である。
すぐれた豪傑の士であるならば、たとえ文王のような聖人の教化を待たずとも、自ら立ち上がるものだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・一〇より)
偉業をもなし得たわけで、周の威徳は文王の代においてこそ極まり、武王や周公はその父親の威徳を継承して消費したのみ。
しかし、文王がそこまでの万民の支持を得たのも、元はといえば殷の紂王という大反面教師が、見本中の見本のような暴政を
敷くことで万民を苦しめ、水であれば泥水でも飛びつくような渇望者へと民を追い込んでいたからで、良くも悪しくもそのお陰で
文王の仁政が際立ち、誰しもが周への帰属を欲するまでとなった。これが「明夷は艱貞に利あり」の法則性の論証ともなっている。
今の世の中だって、欧米とブラックアフリカを合わせたキリスト教圏が、自分たちの中だけで1兆倍以上もの所得格差を広げ、
毎年何千万人もの餓死者をはじき出しているから、非キリスト教圏の比較的なマシさ加減が際立っているまでで、中国や
アラブやインドとて、決してそれほど優良な仁政を敷けているともいえない。文王や武王もそれなりに賢人だったとはされるが、
禅譲によって政権も交代させていた唐虞の堯舜には及ばないということを孔子も言っている(「論語」里仁第四・二五参照)。
聖賢にも色々と段階があり、聖性の重畳とでもいえるほどに良い所尽くめな場合もあれば、反面教師がいることによって、比較的
なマシさから聖性が際立つ場合もある。極大級の反面教師がいたから比較的偉大なもの扱いされたりするのは、普遍的な聖賢の
度合いとしては低劣な部類であり、反面教師すらいない中に聖性を高められるかどうかでこそ、聖賢としての真価をも問われるだろう。
「文王を待ちて後に興る者は、凡民なり。夫の豪傑の士の若きは、文王なしと雖も猶お興る」
「文王は偉大でも、文王のような聖人の登場を待ってからはじめて立ち上がる者などは、凡民である。
すぐれた豪傑の士であるならば、たとえ文王のような聖人の教化を待たずとも、自ら立ち上がるものだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・一〇より)
オマエに聞いたのが間違いだったな スマン
俺だって、今の中国の支配層である共産党員などを支持しないし、
石油利権のおこぼれで甘い汁を吸っているアラブの富豪なども支持しない。
もちろん日本の政治家だって支持していないから、選挙にも行っていない。
その俺と同じように、(欧米への屈従も強いられる)今の暗黒社会への直接参加を
完全拒絶して、黙々と艱貞を貫いている隠者が、どこかにはいるかもしれない。
中国もアラブも13億人以上の大所帯なのだから、一人もいないほうがかえっておかしい。
もちろん日本ほどにも物質的に裕福でないので、完全に働かないのではなく、
山奥で完全な自給自足の生活を送るなどしているかもしれない。税金も払わず、住民登録などもせず。
日本では全く不可能でも、中国の奥地あたりならまだそれぐらいの融通が利くかもしれないから。
石油利権のおこぼれで甘い汁を吸っているアラブの富豪なども支持しない。
もちろん日本の政治家だって支持していないから、選挙にも行っていない。
その俺と同じように、(欧米への屈従も強いられる)今の暗黒社会への直接参加を
完全拒絶して、黙々と艱貞を貫いている隠者が、どこかにはいるかもしれない。
中国もアラブも13億人以上の大所帯なのだから、一人もいないほうがかえっておかしい。
もちろん日本ほどにも物質的に裕福でないので、完全に働かないのではなく、
山奥で完全な自給自足の生活を送るなどしているかもしれない。税金も払わず、住民登録などもせず。
日本では全く不可能でも、中国の奥地あたりならまだそれぐらいの融通が利くかもしれないから。
2000年もの間悪人を大量生産し、浄土信者のように被治者に甘んじさせるでもなく、政治の座にも上り詰めさせて来た、
その結果として絶え間ない殺戮の西洋史があり、現代における人類史上未曾有の西洋における数億人規模の大虐殺がある。
自分たちからはほとんど全く殺戮を行ってこなかったインドはもちろんのこと、戦乱も多少は来たしつつ、
最低限の善人統治によって数百年単位の泰平を連発してきた中国や日本にすらその安寧度で及ばない。
そのような連中が元々勝ってはいけないのであり、勝負以前の徳性の有無から見直さなければならない。
「善人、邦を為むること百年、亦た以て残に勝ちて殺を去るべしと。誠なるかな、是の言や」
「聖人や賢人と言わず、善人か悪人かのうちの善人程度であっても、政治を任せて国を治めさせる
ことが百年も続けば、暴れ者に打ち勝って殺戮をなくさせるという。この言葉は確かに本当だ。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・九より)
その結果として絶え間ない殺戮の西洋史があり、現代における人類史上未曾有の西洋における数億人規模の大虐殺がある。
自分たちからはほとんど全く殺戮を行ってこなかったインドはもちろんのこと、戦乱も多少は来たしつつ、
最低限の善人統治によって数百年単位の泰平を連発してきた中国や日本にすらその安寧度で及ばない。
そのような連中が元々勝ってはいけないのであり、勝負以前の徳性の有無から見直さなければならない。
「善人、邦を為むること百年、亦た以て残に勝ちて殺を去るべしと。誠なるかな、是の言や」
「聖人や賢人と言わず、善人か悪人かのうちの善人程度であっても、政治を任せて国を治めさせる
ことが百年も続けば、暴れ者に打ち勝って殺戮をなくさせるという。この言葉は確かに本当だ。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・九より)
「滕文公問うて曰く、齊人將に薛を築かんとす。吾甚だ恐る。之を如何せば則ち可ならん。孟子對えて曰く、
昔、大王邠に居りしとき、狄人之れを侵す。去りて岐山の下に之きて居れり。擇びて之れを取れるに非ず。
已むを得ざりてなり。苟くも善を為さば、後世子孫必ず王者有らん。君子は業を創め統を垂れ、
繼ぐ可きことを為さんのみ。夫の成功の若きは、則ち天なり。君彼を如何にせんや。彊めて善を為さんのみ」
「滕の文公が孟子に問うた。『斉が隣国の薛を滅ぼしてそこに城塁を築こうとしている。私はそれを甚だ恐れているのだが、
これをいかにすればよかろうか』孟子は答えて言った。『昔、周の文王の祖父である古公亶父も、夷狄に国を侵されて
逃げ去り、岐山の麓で夫人と共に隠れ住んでいることがありました。決してそれを欲していたわけではなく、
あくまでやむを得なかったのです。しかしその古公亶父のように善を積んでいれば、後世には文王や武王のような
偉大な王者が現れることもきっとあります。君子はそのための事業を創始して系統を樹立し、後代にそれらを
受け継がせる布石となるように努めるのみです。もちろんそれによって実際に成功するかどうかは、結局は天命を待つ
所もあるわけですが、そんな自分たちではどうにもならない所にこだわる以上にも、君子はただ最善を尽くすのみです』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁惠王章句下・一四)
昔、大王邠に居りしとき、狄人之れを侵す。去りて岐山の下に之きて居れり。擇びて之れを取れるに非ず。
已むを得ざりてなり。苟くも善を為さば、後世子孫必ず王者有らん。君子は業を創め統を垂れ、
繼ぐ可きことを為さんのみ。夫の成功の若きは、則ち天なり。君彼を如何にせんや。彊めて善を為さんのみ」
「滕の文公が孟子に問うた。『斉が隣国の薛を滅ぼしてそこに城塁を築こうとしている。私はそれを甚だ恐れているのだが、
これをいかにすればよかろうか』孟子は答えて言った。『昔、周の文王の祖父である古公亶父も、夷狄に国を侵されて
逃げ去り、岐山の麓で夫人と共に隠れ住んでいることがありました。決してそれを欲していたわけではなく、
あくまでやむを得なかったのです。しかしその古公亶父のように善を積んでいれば、後世には文王や武王のような
偉大な王者が現れることもきっとあります。君子はそのための事業を創始して系統を樹立し、後代にそれらを
受け継がせる布石となるように努めるのみです。もちろんそれによって実際に成功するかどうかは、結局は天命を待つ
所もあるわけですが、そんな自分たちではどうにもならない所にこだわる以上にも、君子はただ最善を尽くすのみです』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁惠王章句下・一四)
「ああ、皇いなるかな武王は、無競なる維の烈。允文なる文王の、克く厥の後を開きたまいし。
あとを嗣ぎて之れを受け、殷に勝ちて劉を遏め、爾の功を耆定したまう」
「ああ、なんと武王は偉大なことだろう、限りなきその武勲は。文徳によって治世を始めた文王の、後にも続いてよく世を開き、
文王の位を継いでこれを受け、殷の紂王に勝ってからは矛を収め(武備を縮小し)、その功績を悠久のものとされた」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・武より)
「若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが強く、
神の言葉があなたがたの内にいつもあり、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである」
(権力犯罪聖書——通称聖書——ヨハネの第一の脅迫文2:14)
ただでさえロゴス信仰に侵されたおかしな構文となっている犯罪聖書の勝利宣言を、道徳聖書の勝利宣言と比較してみると、
さらにそのおかしさが際立ってくる。「詩経」武は武王でもその父親の文王でもない第三者の視点となっており(一説には周公の作とされる)、
文王の威徳を継承して王業を打ち立てた武王の勲功が叙事的に述べられている。これが第三者からの武王への賛美としては適切なものとなっており、
実の父親でもない第三者が、信者の勝利を叙情的に述べているヨハネの脅迫文の僭越さとは対照的なものとなっている。
あとを嗣ぎて之れを受け、殷に勝ちて劉を遏め、爾の功を耆定したまう」
「ああ、なんと武王は偉大なことだろう、限りなきその武勲は。文徳によって治世を始めた文王の、後にも続いてよく世を開き、
文王の位を継いでこれを受け、殷の紂王に勝ってからは矛を収め(武備を縮小し)、その功績を悠久のものとされた」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・武より)
「若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが強く、
神の言葉があなたがたの内にいつもあり、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである」
(権力犯罪聖書——通称聖書——ヨハネの第一の脅迫文2:14)
ただでさえロゴス信仰に侵されたおかしな構文となっている犯罪聖書の勝利宣言を、道徳聖書の勝利宣言と比較してみると、
さらにそのおかしさが際立ってくる。「詩経」武は武王でもその父親の文王でもない第三者の視点となっており(一説には周公の作とされる)、
文王の威徳を継承して王業を打ち立てた武王の勲功が叙事的に述べられている。これが第三者からの武王への賛美としては適切なものとなっており、
実の父親でもない第三者が、信者の勝利を叙情的に述べているヨハネの脅迫文の僭越さとは対照的なものとなっている。
父子の関係の睦まじさをよく踏まえつつ、第三者なりの抑制された感慨と共に殷紂への勝利なども挙げ連ねる。
ただそれだけの叙事的な描写でありながら感動的となるのも、暴君を放伐する正当な勝利でもあったからで、
脳内超越神に基づく自意識過剰が、父子の親すらも放伐する不当な勝利などではなかったから。
試しに「詩経」武の体裁を借りて、ヨハネの脅迫文を書き直してみよう。
「ああ、なんとあなたがた若者は偉大なことだろう、限りなきその武勲は。
あなた方の脳内に捏造された超越神の、後にも続いてよく世を侵略し、
脳内神の位を継いでこれを受け、実の親族関係に勝ってからも狂信を続け、その狂乱を悠久のものとされた」
意味は通るが、そのおそまつさがあらわになって熱が冷めてしまう。だから道徳聖書のような叙事的な表現は用いず、
実際上の物事をできる限り省略した、曖昧な表現ばかりで犯罪聖書の内容は埋め尽くされている。
ただそれだけの叙事的な描写でありながら感動的となるのも、暴君を放伐する正当な勝利でもあったからで、
脳内超越神に基づく自意識過剰が、父子の親すらも放伐する不当な勝利などではなかったから。
試しに「詩経」武の体裁を借りて、ヨハネの脅迫文を書き直してみよう。
「ああ、なんとあなたがた若者は偉大なことだろう、限りなきその武勲は。
あなた方の脳内に捏造された超越神の、後にも続いてよく世を侵略し、
脳内神の位を継いでこれを受け、実の親族関係に勝ってからも狂信を続け、その狂乱を悠久のものとされた」
意味は通るが、そのおそまつさがあらわになって熱が冷めてしまう。だから道徳聖書のような叙事的な表現は用いず、
実際上の物事をできる限り省略した、曖昧な表現ばかりで犯罪聖書の内容は埋め尽くされている。
権力道徳聖書こと四書五経の表現形式は、犯罪聖書と比べて文学的に素っ気ない場合も多いが、
事実を丹念に描写することで、事実におけるありのままの偉大さを忠実に記録しようとする姿勢に長けている。
事実をありのままに記録しようとするが故の堅苦しさを乗り越えて、記録の先に実在しているものの偉大さを慮れたなら、
それが他の何物にも変えがたい含蓄の宝庫であり、俗世に直接適用する限りでは、仏典や道蔵以上もの有用性を
発揮することが分かる。その有用性の度合いは、一般的に言えば権力犯罪聖書並みかそれ以上だが、
権力道徳を重んじる限りにおいては、四書五経が無限大であり犯罪聖書が零である一方、
権力犯罪をやらかす限りにおいては、犯罪聖書が無限大であり四書五経が零である。
扱い方が全く異なるだけで、権力道徳という一方面においては無限大に有用なのが四書五経である一方、
権力犯罪という一方面においてのみ無限大に有用なのが犯罪聖書こと新旧約聖書。
それが無限大に有用であればとて、人類の側はどこまでも無限大なわけではなく、
現時点の人口増大率でもすでに、地球上のキャパシティを遥かに上回っている。
有用性が無限大だったり零だったりすること以前に、自分たちにとって有用なものを見直す冷静さを。
事実を丹念に描写することで、事実におけるありのままの偉大さを忠実に記録しようとする姿勢に長けている。
事実をありのままに記録しようとするが故の堅苦しさを乗り越えて、記録の先に実在しているものの偉大さを慮れたなら、
それが他の何物にも変えがたい含蓄の宝庫であり、俗世に直接適用する限りでは、仏典や道蔵以上もの有用性を
発揮することが分かる。その有用性の度合いは、一般的に言えば権力犯罪聖書並みかそれ以上だが、
権力道徳を重んじる限りにおいては、四書五経が無限大であり犯罪聖書が零である一方、
権力犯罪をやらかす限りにおいては、犯罪聖書が無限大であり四書五経が零である。
扱い方が全く異なるだけで、権力道徳という一方面においては無限大に有用なのが四書五経である一方、
権力犯罪という一方面においてのみ無限大に有用なのが犯罪聖書こと新旧約聖書。
それが無限大に有用であればとて、人類の側はどこまでも無限大なわけではなく、
現時点の人口増大率でもすでに、地球上のキャパシティを遥かに上回っている。
有用性が無限大だったり零だったりすること以前に、自分たちにとって有用なものを見直す冷静さを。
四書五経を始めとする、漢籍全般に一貫して共通しているのが、事実関係の徹底的な把握やその細密な描写に努めていること。
たとえば「史記」では、兄の家に居候して自堕落な生活を送っていたために、兄嫁に「こんな義弟ならいなければいいのに」
とまで侮辱された陳平が、楚漢戦争では漢軍のスパイ工作者として大活躍し、天下平定後にも高祖劉邦に称えられ、宰相も歴任し、
高祖の死後にも呂氏の専横を陸賈などと共に征討して孝文帝を擁立するなどの、大活躍を果たしたことがありのままに描かれている。
これだけだと「最初は自堕落だったのが、一念発起して大活躍した」というものぐさ太郎的な美談としても取り扱えるわけだが、
一方で、陳平と同じように若い頃には食客として自堕落な生活を送り、脅しかけてきた若者の股をくぐって居候先からすらも
追い出されていた韓信が、楚漢戦争では漢軍方として最大級の武功を挙げ、斉王や楚王にすらなる大成功を一旦は遂げたが、
韓信個人の武備が膨張し過ぎたことから高祖の警戒を被り、挙句には自分から謀反を起こして九族皆殺しの刑に処せられたことも
「史記」ではありのままに述べられている。獄中に七年間も幽閉されながらも、殷紂への臣従を続けた文王のように、人事を
尽くして天命を待ったわけでもなく、時宜を見計らいもせずに謀反を企てて誅殺された間抜けさまでもがありのままに記されており、
「自堕落者が一念発起したからといって必ずしも成功するわけではなく、間抜けさを持ち越せば自業自得で失敗する場合もある」
という見本にもなっている。こんな入り組んだ教訓は、創作寓話などで思いつける代物ではなく、小説より奇なる事実をありのままに
記録することによってのみ述べ伝えられるもの。自堕落者が成功したり、大成功してまた大失敗したりの極例も挙げた上で、「史記」
貨殖列伝においては、「自堕落者は一生そのままでいる限りにおいては、そこそこの庶民からすら蔑まれる」という世間一般的な
事実も冷酷に述べており、とにかく事実をありのままに記録した結果、場合によっては相反するような記述すらもが併載されている。
たとえば「史記」では、兄の家に居候して自堕落な生活を送っていたために、兄嫁に「こんな義弟ならいなければいいのに」
とまで侮辱された陳平が、楚漢戦争では漢軍のスパイ工作者として大活躍し、天下平定後にも高祖劉邦に称えられ、宰相も歴任し、
高祖の死後にも呂氏の専横を陸賈などと共に征討して孝文帝を擁立するなどの、大活躍を果たしたことがありのままに描かれている。
これだけだと「最初は自堕落だったのが、一念発起して大活躍した」というものぐさ太郎的な美談としても取り扱えるわけだが、
一方で、陳平と同じように若い頃には食客として自堕落な生活を送り、脅しかけてきた若者の股をくぐって居候先からすらも
追い出されていた韓信が、楚漢戦争では漢軍方として最大級の武功を挙げ、斉王や楚王にすらなる大成功を一旦は遂げたが、
韓信個人の武備が膨張し過ぎたことから高祖の警戒を被り、挙句には自分から謀反を起こして九族皆殺しの刑に処せられたことも
「史記」ではありのままに述べられている。獄中に七年間も幽閉されながらも、殷紂への臣従を続けた文王のように、人事を
尽くして天命を待ったわけでもなく、時宜を見計らいもせずに謀反を企てて誅殺された間抜けさまでもがありのままに記されており、
「自堕落者が一念発起したからといって必ずしも成功するわけではなく、間抜けさを持ち越せば自業自得で失敗する場合もある」
という見本にもなっている。こんな入り組んだ教訓は、創作寓話などで思いつける代物ではなく、小説より奇なる事実をありのままに
記録することによってのみ述べ伝えられるもの。自堕落者が成功したり、大成功してまた大失敗したりの極例も挙げた上で、「史記」
貨殖列伝においては、「自堕落者は一生そのままでいる限りにおいては、そこそこの庶民からすら蔑まれる」という世間一般的な
事実も冷酷に述べており、とにかく事実をありのままに記録した結果、場合によっては相反するような記述すらもが併載されている。
確かに「史記」は、漢籍の中でも特にその描写が冷徹なことで知られており、孔子が勧善懲悪の意図も込めて編纂した「春秋」や、
「史記」以上にも儒学的な影響の色濃い「漢書」などでは、もう少し編纂者の恣意が介在していたりもするわけだが、とはいえ漢籍は、
全体的に事実関係の忠実な描写に長けており、不埒な文飾などは「経史子集」の最下位に当たる「集(文芸集)」だけに丸投げしている。
創作的な文芸もないことはないが、単なる文芸とそれ以上であるものの区別が厳重になされており、あらゆる西洋文献中でも最高位と
される新旧約聖書からして創作文芸の塊であることにより、「全文創作文芸」状態と化している西洋典籍の場合のような無秩序さはない。
「経(経書)」や「史(史書)」や「子(諸子百家)」ならば、単なる創作文芸以上の重みが必ず伴っており、中でも最高位である
「経」の代表たる四書五経は、創作文芸以上の正確さと、史書以上の誠実さとを併せ持った、書き物としての聖性の究極点にある。
言語で表しきれない絶対真理を便宜的に記録しただけである仏典など以上にも、四書五経こそは「文書記録」としての模範になっている。
「沔と彼の流るる水は、海に朝宗するに。鳥穴と彼の飛ぶ隼は、また飛びてまた止まるに。
嗟我、兄弟よ、邦人、諸友よ、肯えて亂を念うるもの莫き、誰かは父母無からんや」
「川の水は浪々と流れ行きて海に注ぎ込み、隼も颯爽と飛び上がってはまたどこかに止まる。
ああ、兄弟よ、邦人にわが友よ、なぜ乱世を憂うことすらないのか。あなた方にも実の父母があるではないか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・彤弓之什・沔水より)
「史記」以上にも儒学的な影響の色濃い「漢書」などでは、もう少し編纂者の恣意が介在していたりもするわけだが、とはいえ漢籍は、
全体的に事実関係の忠実な描写に長けており、不埒な文飾などは「経史子集」の最下位に当たる「集(文芸集)」だけに丸投げしている。
創作的な文芸もないことはないが、単なる文芸とそれ以上であるものの区別が厳重になされており、あらゆる西洋文献中でも最高位と
される新旧約聖書からして創作文芸の塊であることにより、「全文創作文芸」状態と化している西洋典籍の場合のような無秩序さはない。
「経(経書)」や「史(史書)」や「子(諸子百家)」ならば、単なる創作文芸以上の重みが必ず伴っており、中でも最高位である
「経」の代表たる四書五経は、創作文芸以上の正確さと、史書以上の誠実さとを併せ持った、書き物としての聖性の究極点にある。
言語で表しきれない絶対真理を便宜的に記録しただけである仏典など以上にも、四書五経こそは「文書記録」としての模範になっている。
「沔と彼の流るる水は、海に朝宗するに。鳥穴と彼の飛ぶ隼は、また飛びてまた止まるに。
嗟我、兄弟よ、邦人、諸友よ、肯えて亂を念うるもの莫き、誰かは父母無からんや」
「川の水は浪々と流れ行きて海に注ぎ込み、隼も颯爽と飛び上がってはまたどこかに止まる。
ああ、兄弟よ、邦人にわが友よ、なぜ乱世を憂うことすらないのか。あなた方にも実の父母があるではないか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・彤弓之什・沔水より)
自分自身、政治顧問などと共に儒学の教師も務めていた孟子からして、
「人の患いは、好んで人の師と為りたがるに在り(離婁章句上・二三)」と言っている。
さしたる知見もなくただ教えようとばかりすることが、相手にとってためにならないだけでなく、
自分自身の成長すらをも妨げる愚行となることを見抜いての言。とはいえ実際、孟子も教師であったわけだし、
人に教えてもらって学ぶということも当然ある。それは、教える側が真に優秀な知見の持ち主であることが大前提となっている。
自らの知識を人に教えることで、教えられた側もためになり、教える側も自らの知識を整理する一石二鳥となる。
そうなるためには、教えられる側だけでなく、教える側にも絶え間ない向学心が必要であり、自らも学んでいく過程において
相手にも教えるという向上心がなくてはならない。自分はもう試験にも受かって学校も卒業したから、これ以上勉強はしなくていい、
あくまで君たちには仕事として教えるだけなどというような態度や姿勢では、自他にとってためにならない。
これから勉学の重荷を背負っていく学生たちと共に、自分もまたどこまでも重荷を背負っていく覚悟で。
「人の一生は重き荷を背負うて遠き道を行くが如し」という、家康公の言葉にも倣う勢いで、教える側もいなければならない。
「其の父薪を析くに、其の子負荷すること克わず」
「父親が材木を砕いて焚き木を作ったのに、その子は荷として背負うこともできない。
(父祖が労苦して家を興したのに、息子がその家を背負えもしない、世襲断絶の嘆き)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公七年より)
「人の患いは、好んで人の師と為りたがるに在り(離婁章句上・二三)」と言っている。
さしたる知見もなくただ教えようとばかりすることが、相手にとってためにならないだけでなく、
自分自身の成長すらをも妨げる愚行となることを見抜いての言。とはいえ実際、孟子も教師であったわけだし、
人に教えてもらって学ぶということも当然ある。それは、教える側が真に優秀な知見の持ち主であることが大前提となっている。
自らの知識を人に教えることで、教えられた側もためになり、教える側も自らの知識を整理する一石二鳥となる。
そうなるためには、教えられる側だけでなく、教える側にも絶え間ない向学心が必要であり、自らも学んでいく過程において
相手にも教えるという向上心がなくてはならない。自分はもう試験にも受かって学校も卒業したから、これ以上勉強はしなくていい、
あくまで君たちには仕事として教えるだけなどというような態度や姿勢では、自他にとってためにならない。
これから勉学の重荷を背負っていく学生たちと共に、自分もまたどこまでも重荷を背負っていく覚悟で。
「人の一生は重き荷を背負うて遠き道を行くが如し」という、家康公の言葉にも倣う勢いで、教える側もいなければならない。
「其の父薪を析くに、其の子負荷すること克わず」
「父親が材木を砕いて焚き木を作ったのに、その子は荷として背負うこともできない。
(父祖が労苦して家を興したのに、息子がその家を背負えもしない、世襲断絶の嘆き)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公七年より)
教える側も、自分が試験合格者や学校卒業者であれば完全に仕事然となるし、
教えられる側も、試験に通って入学卒業するためというような動機がないことには勉強しない。
学問が何らかの利益に結びつかないことには一切顧みられない、不純な勉学だけが通用している学問不遇の時代。
それは、目先の利益に結びつくことだけを勉強の対象とする洋学からの悪影響にもよっているし、
誰しもが利得のために動くことしか奨励されない、資本主義社会に特有の悪癖でもある。
むしろ、働いて金を得たりするのを辞めてでも勉強すべきなのであり、
勉学それ自体に利殖以上もの価値があることに気づくべきだ。それでこそ、
行為能力を全否定まではせずとも劣後する、立派な士人としての素養も身に付くのだから。
そのような士人を養成するために、第一の勉学対象として挙げられるのが、何といっても儒学。
場合によっては仏教や道家なども認められるが、古来から日常的に学ばれてきたのはむしろ儒学のほう。
利欲に結びつきがちな人間の欲求を、むしろ向学心へと振り向けて、権力犯罪込みの我田引水活動などよりは
よっぽど世の中にとって無害で有益な人間で居させる。儒学などの行為能力劣後主義的な学問を勉強させることは、
それだけでも世の乱脈を招くことを抑制する上での大きな効果があるのであり、学んだ結果何かが得られるなどという
打算にすらわざわざこだわる必要はない。学べば禄はその内にあり。学ぶことすなわち社会貢献ともなっているから。
教えられる側も、試験に通って入学卒業するためというような動機がないことには勉強しない。
学問が何らかの利益に結びつかないことには一切顧みられない、不純な勉学だけが通用している学問不遇の時代。
それは、目先の利益に結びつくことだけを勉強の対象とする洋学からの悪影響にもよっているし、
誰しもが利得のために動くことしか奨励されない、資本主義社会に特有の悪癖でもある。
むしろ、働いて金を得たりするのを辞めてでも勉強すべきなのであり、
勉学それ自体に利殖以上もの価値があることに気づくべきだ。それでこそ、
行為能力を全否定まではせずとも劣後する、立派な士人としての素養も身に付くのだから。
そのような士人を養成するために、第一の勉学対象として挙げられるのが、何といっても儒学。
場合によっては仏教や道家なども認められるが、古来から日常的に学ばれてきたのはむしろ儒学のほう。
利欲に結びつきがちな人間の欲求を、むしろ向学心へと振り向けて、権力犯罪込みの我田引水活動などよりは
よっぽど世の中にとって無害で有益な人間で居させる。儒学などの行為能力劣後主義的な学問を勉強させることは、
それだけでも世の乱脈を招くことを抑制する上での大きな効果があるのであり、学んだ結果何かが得られるなどという
打算にすらわざわざこだわる必要はない。学べば禄はその内にあり。学ぶことすなわち社会貢献ともなっているから。
儒家が形式主義的であることは、古来から批判の的となっているところだが、それは確信犯でもある。
聖人でも賢人でもない、「育ちの悪い草木」としての凡人たちにも、正学の初歩中の初歩としての儒学を教えるために、
身のこなしの礼節などの、本末の末に過ぎないような部分を優先して教えることもある。それでこそ、大部分は
見込みのない凡人に過ぎない一般大衆への教化の量も稼げるから。一部の有志だけが募りあって高みを目指す、
自力の仏道や芸道などと比べれば、明らかに程度は低いが、それはそれで一つの領分をわきまえた姿勢でもある。
「子游曰く、子夏の門人小子、洒掃應對進退当たりては、則ち可なり。抑そも末なり。之れを本とすれば則ち無し。
之れ如何。子夏之れを聞きて曰く、噫、言游過てり。君子の道は孰れをか先に傳え、孰れをか後に倦まん。
譬えば諸もろの草木は、以て區別す。君子の道は焉んぞ誣う可けんや。始め有り卒り有る者は、其れ惟だ聖人か」
「孔子の弟子の子游が言った。『(同じく孔子の弟子の)子夏の門下の若者たちは、酒宴の用意や掃除や、客の受け答えや
起居動作などの礼節は行き届いている。しかし、そういったことは末節であり、根本扱いするとよくないのではないか』
子夏はそれに答えた。『ああ、游は間違っている。君子の道はどれを優先して教え、どれを後に教えるとかいったものではない。
諸々の草木だって、その育ち具合によって育て方まで区別する。(あまり素養のないものにまで、形式以上にも高尚な精神面などの)
君子の道を強いて教えたところで、なぜ体得できようか。始めから終わりまで、全てを体得できるのは、聖人ぐらいのものだろう』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・一二)
聖人でも賢人でもない、「育ちの悪い草木」としての凡人たちにも、正学の初歩中の初歩としての儒学を教えるために、
身のこなしの礼節などの、本末の末に過ぎないような部分を優先して教えることもある。それでこそ、大部分は
見込みのない凡人に過ぎない一般大衆への教化の量も稼げるから。一部の有志だけが募りあって高みを目指す、
自力の仏道や芸道などと比べれば、明らかに程度は低いが、それはそれで一つの領分をわきまえた姿勢でもある。
「子游曰く、子夏の門人小子、洒掃應對進退当たりては、則ち可なり。抑そも末なり。之れを本とすれば則ち無し。
之れ如何。子夏之れを聞きて曰く、噫、言游過てり。君子の道は孰れをか先に傳え、孰れをか後に倦まん。
譬えば諸もろの草木は、以て區別す。君子の道は焉んぞ誣う可けんや。始め有り卒り有る者は、其れ惟だ聖人か」
「孔子の弟子の子游が言った。『(同じく孔子の弟子の)子夏の門下の若者たちは、酒宴の用意や掃除や、客の受け答えや
起居動作などの礼節は行き届いている。しかし、そういったことは末節であり、根本扱いするとよくないのではないか』
子夏はそれに答えた。『ああ、游は間違っている。君子の道はどれを優先して教え、どれを後に教えるとかいったものではない。
諸々の草木だって、その育ち具合によって育て方まで区別する。(あまり素養のないものにまで、形式以上にも高尚な精神面などの)
君子の道を強いて教えたところで、なぜ体得できようか。始めから終わりまで、全てを体得できるのは、聖人ぐらいのものだろう』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・一二)
その医者を閉鎖病棟に入れてやった時のことも考えといてやらないとな。
おまえらを刑務所に入れてやった後のことまで考慮するのと一緒に。
「民の仁に於けるや、水火よりも甚だし。水火は吾れ蹈みて死する者を見る。未だ仁を蹈みて死する者を見ざるなり」
「民にとって仁徳が必要とされていることは、それこそ水火を必要とする以上にも甚だしい。大水や大火に踏み入って
死んだ者は私も見たことがあるが、未だ仁徳に踏み入って死んだ者を見たことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三五より)
この引用の中で引き合いに出されている「水火」は、物質的現象の代表格であり、大水や大火こそは確かに莫大な
物質エネルギーの表出となっている。そのような物質性よりも、人としての精神性である仁徳のほうが重要であるのは
もちろんだし、言語やそれによって概念化される知識などよりも重要である。そして知識とか言語とかいった概念的な
現象を物質的な現象へと転化するための社会的手段——カネよりももちろん重要なもの。水火も言語も知識もカネも、
実際問題として俗世には介在するが、それらよりも仁徳のほうがさらに重要。一方を排してもう一方を採るのではなく、
劣悪なほうの上にさらに優良なものが重畳されるのみ。貶め合いではなく、偉大さの重畳の先にこそ仁がある。
おまえらを刑務所に入れてやった後のことまで考慮するのと一緒に。
「民の仁に於けるや、水火よりも甚だし。水火は吾れ蹈みて死する者を見る。未だ仁を蹈みて死する者を見ざるなり」
「民にとって仁徳が必要とされていることは、それこそ水火を必要とする以上にも甚だしい。大水や大火に踏み入って
死んだ者は私も見たことがあるが、未だ仁徳に踏み入って死んだ者を見たことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三五より)
この引用の中で引き合いに出されている「水火」は、物質的現象の代表格であり、大水や大火こそは確かに莫大な
物質エネルギーの表出となっている。そのような物質性よりも、人としての精神性である仁徳のほうが重要であるのは
もちろんだし、言語やそれによって概念化される知識などよりも重要である。そして知識とか言語とかいった概念的な
現象を物質的な現象へと転化するための社会的手段——カネよりももちろん重要なもの。水火も言語も知識もカネも、
実際問題として俗世には介在するが、それらよりも仁徳のほうがさらに重要。一方を排してもう一方を採るのではなく、
劣悪なほうの上にさらに優良なものが重畳されるのみ。貶め合いではなく、偉大さの重畳の先にこそ仁がある。
「仏陀は歴史上の人物であり、したがって人間にとって理解しやすい。
キリストは歴史上の人間であるとともに神であり、そのために遥かに捉え難い」
(みすず書房「ユング自伝」より)
ユングが全ての洋学者の代表でもなければ、唯一の近代精神医学の祖であるわけでもないが、
(精神科医は今でもフロイト派とユング派に分かれているらしい)
一応はそこそこの洋学的権威であると認められているユングからして、キリストの奇跡を信じ込み続けていた
プロテスタントのスイス人だった。精神病の元凶である新旧約信仰を、精神科医からして持ち越してるんだから、
それこそ、精神科医が精神病を治すなんてのは、伝染病患者に病人の看病をさせようってなもんだ。
まだそんな看病を受けないほうが健康でいられるのであり、全世界に蔓延している病の解消のためにも、
病の元凶となっているプロテスタント洋学の駆逐が急務だ。
「身を修むれば則ち道立ち、賢を尊べば則ち惑わず、親に親しめば則ち諸父昆弟怨みず、
大臣を敬すれば則ち眩せず、群臣を體すれば則ち士の報禮重く、庶民を子とすれば則ち百姓勸み、
百工來せば則ち財用足り、遠人を柔らげれば則ち四方に歸し、諸侯を懷くれば則ち天下之を畏る」
「君主が己の一身を修めれば天下国家をも治める道が開け、賢人を尊べば惑うことがなく、親族に親しめば父兄も怨むことがなく、
大臣を敬えば体制の転覆が起こらず、群臣を我が股肱耳目とも見なせば恩に報いようとする道義心が生まれ、
庶民を我が子とも見なせば百姓たちはみな勤しみ、工業技術者を厚遇すれば財物の器用も十分となり、
遠方の人間も和らげれば四方がわが国に帰し、各国群の諸侯をも懐ければ天下全土がこれを畏れる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二〇より)
キリストは歴史上の人間であるとともに神であり、そのために遥かに捉え難い」
(みすず書房「ユング自伝」より)
ユングが全ての洋学者の代表でもなければ、唯一の近代精神医学の祖であるわけでもないが、
(精神科医は今でもフロイト派とユング派に分かれているらしい)
一応はそこそこの洋学的権威であると認められているユングからして、キリストの奇跡を信じ込み続けていた
プロテスタントのスイス人だった。精神病の元凶である新旧約信仰を、精神科医からして持ち越してるんだから、
それこそ、精神科医が精神病を治すなんてのは、伝染病患者に病人の看病をさせようってなもんだ。
まだそんな看病を受けないほうが健康でいられるのであり、全世界に蔓延している病の解消のためにも、
病の元凶となっているプロテスタント洋学の駆逐が急務だ。
「身を修むれば則ち道立ち、賢を尊べば則ち惑わず、親に親しめば則ち諸父昆弟怨みず、
大臣を敬すれば則ち眩せず、群臣を體すれば則ち士の報禮重く、庶民を子とすれば則ち百姓勸み、
百工來せば則ち財用足り、遠人を柔らげれば則ち四方に歸し、諸侯を懷くれば則ち天下之を畏る」
「君主が己の一身を修めれば天下国家をも治める道が開け、賢人を尊べば惑うことがなく、親族に親しめば父兄も怨むことがなく、
大臣を敬えば体制の転覆が起こらず、群臣を我が股肱耳目とも見なせば恩に報いようとする道義心が生まれ、
庶民を我が子とも見なせば百姓たちはみな勤しみ、工業技術者を厚遇すれば財物の器用も十分となり、
遠方の人間も和らげれば四方がわが国に帰し、各国群の諸侯をも懐ければ天下全土がこれを畏れる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二〇より)
誰でも聞いたことぐらいはあるだろう「放辟邪侈」という言葉。
ここでもすでに引用済みの「孟子」梁惠王章句上・七が出典の言葉で、意味は「放りっぱなしでへんぱで邪までほしいまま」。
乱世を放りっぱなしに打ち棄てておいて、一部の神だけに帰依したり、一部の人間とだけ睦み合ったりの偏頗でいて、欲しい
まま好き勝手に振る舞うことこそは「邪ま」であり、邪悪な世の中から救われるどころか、邪悪な世の中の元凶になっている。
邪悪さから逃れようとして、かえって自分自身こそは邪悪さの元凶となる本末転倒。あるいは「毒喰わば皿まで」。
そういうおかしな悪癖を持つカルトが事実として存在しているのも確かだが、そんなものが人類文化の正統であるはずもなく、
異端中の異端中の異端程度に扱ってやっとちょうどいいぐらいのもの。すでに文化として実在してしまっている以上は、
完全なる根絶もなかなか難しいにしても、異端中の異端中の異端という、正式な扱いの下に置くぐらいのことはできる。
当面見込まれるのはその程度の措置の徹底であり、新旧約なんぞが人類文化の正統だなどと思い込んできた多くの人間に対して、
本物の正統文化である漢学などの啓蒙に努めていく。本当に正統であるのにかえって異端扱いされている漢学のほうを、
正統中の正統中の正統という正式な扱いに戻していく。何事にかけても、扱いを正していくのみであり、他意はない。
ここでもすでに引用済みの「孟子」梁惠王章句上・七が出典の言葉で、意味は「放りっぱなしでへんぱで邪までほしいまま」。
乱世を放りっぱなしに打ち棄てておいて、一部の神だけに帰依したり、一部の人間とだけ睦み合ったりの偏頗でいて、欲しい
まま好き勝手に振る舞うことこそは「邪ま」であり、邪悪な世の中から救われるどころか、邪悪な世の中の元凶になっている。
邪悪さから逃れようとして、かえって自分自身こそは邪悪さの元凶となる本末転倒。あるいは「毒喰わば皿まで」。
そういうおかしな悪癖を持つカルトが事実として存在しているのも確かだが、そんなものが人類文化の正統であるはずもなく、
異端中の異端中の異端程度に扱ってやっとちょうどいいぐらいのもの。すでに文化として実在してしまっている以上は、
完全なる根絶もなかなか難しいにしても、異端中の異端中の異端という、正式な扱いの下に置くぐらいのことはできる。
当面見込まれるのはその程度の措置の徹底であり、新旧約なんぞが人類文化の正統だなどと思い込んできた多くの人間に対して、
本物の正統文化である漢学などの啓蒙に努めていく。本当に正統であるのにかえって異端扱いされている漢学のほうを、
正統中の正統中の正統という正式な扱いに戻していく。何事にかけても、扱いを正していくのみであり、他意はない。
「(桀溺)曰く、滔滔たる者、天下皆な是れなり。而して誰をか以て之を易えん。且つ而其の人を辟くるのに士に
從わんよりは、豈に世を辟くるの士に若かんや。耰して輟まず。子路以て告ぐ。夫子憮然として曰く、鳥獸は與に群れを
同じくすべからず。吾れ斯の人の徒と與にするに非ずして誰と與にかせん。天下道あらば、丘は與に易えざるなり」
「隠者の桀溺が孔子の弟子の子路に言った。『河の流れのように滔滔と流れてせわしないのが天下の常、誰がこの乱世を
変えることなどができようか。理想の統治を欲して次々と諸侯に接触しては去っていく孔子などに従うよりは、わしらのように
乱世から根こそぎ隠遁した人間と共にいないかね』子路はこのことをありのままに孔子に伝えた。孔子は憮然としながら言った。
『世を避けたからといって鳥獣と共に群れをなして生きていくわけにもいくまい。人間同士の関係すら捨て去って、
一体誰との関係を重んじるというのか。天下に道が行われているのならば、私とてそれを改めようとはするまいに』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・微子第十八・六より)
從わんよりは、豈に世を辟くるの士に若かんや。耰して輟まず。子路以て告ぐ。夫子憮然として曰く、鳥獸は與に群れを
同じくすべからず。吾れ斯の人の徒と與にするに非ずして誰と與にかせん。天下道あらば、丘は與に易えざるなり」
「隠者の桀溺が孔子の弟子の子路に言った。『河の流れのように滔滔と流れてせわしないのが天下の常、誰がこの乱世を
変えることなどができようか。理想の統治を欲して次々と諸侯に接触しては去っていく孔子などに従うよりは、わしらのように
乱世から根こそぎ隠遁した人間と共にいないかね』子路はこのことをありのままに孔子に伝えた。孔子は憮然としながら言った。
『世を避けたからといって鳥獣と共に群れをなして生きていくわけにもいくまい。人間同士の関係すら捨て去って、
一体誰との関係を重んじるというのか。天下に道が行われているのならば、私とてそれを改めようとはするまいに』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・微子第十八・六より)
スレ違い気味になるが、虫除けのためにあえて書いとけば、
①「他者に危害を加えてでも自分が利益を得よう」とする劣悪な犯罪意志がある。
②犯罪意志を己れの思考に帯びてしまった人間が「精神異常者」となる。
③自らの精神異常によるストレスを、犯罪行為の実行によって解消した人間が「犯罪者」となる。
④精神以上によるストレスを解消できないままに溜め込んだ人間が「精神病者」となる。
⑤上記のような意味の「精神異常」や「犯罪」や「精神病」といった言葉の定義に基づくほうが、人間社会の利益にもかなっている。
犯罪者や権力犯罪者こそは最大級の精神異常者であり、実際の犯罪行為によって精神異常のストレスを
解消してもいないぶんだけ、精神病者のほうがまだマシな存在ですらある。精神的に苦痛であるか否かでは、
確かに精神病患者のほうが苦痛であり、犯罪者のほうが苦痛すらも忘れ去っているわけだが、いずれも精神異常で
あるには変わりなく、図に乗ってどこまでも異常さを増大させ続けている点からして、犯罪者のほうがより劣悪。
カルト信者でもある今の精神科医の診断などに拠るよりも、上記のような定義に即したほうが、人間社会にとっての要求にもかなう。
「仁を為すこと己れに由る。而して人に由らんや」
「仁を為すことはどこまでも己れの分別研鑽による。どうして人に拠り頼むことができようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・一より)
①「他者に危害を加えてでも自分が利益を得よう」とする劣悪な犯罪意志がある。
②犯罪意志を己れの思考に帯びてしまった人間が「精神異常者」となる。
③自らの精神異常によるストレスを、犯罪行為の実行によって解消した人間が「犯罪者」となる。
④精神以上によるストレスを解消できないままに溜め込んだ人間が「精神病者」となる。
⑤上記のような意味の「精神異常」や「犯罪」や「精神病」といった言葉の定義に基づくほうが、人間社会の利益にもかなっている。
犯罪者や権力犯罪者こそは最大級の精神異常者であり、実際の犯罪行為によって精神異常のストレスを
解消してもいないぶんだけ、精神病者のほうがまだマシな存在ですらある。精神的に苦痛であるか否かでは、
確かに精神病患者のほうが苦痛であり、犯罪者のほうが苦痛すらも忘れ去っているわけだが、いずれも精神異常で
あるには変わりなく、図に乗ってどこまでも異常さを増大させ続けている点からして、犯罪者のほうがより劣悪。
カルト信者でもある今の精神科医の診断などに拠るよりも、上記のような定義に即したほうが、人間社会にとっての要求にもかなう。
「仁を為すこと己れに由る。而して人に由らんや」
「仁を為すことはどこまでも己れの分別研鑽による。どうして人に拠り頼むことができようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・一より)
なんかお前イジるの飽きてきたなぁ
>>152の①〜⑤で最も注目すべきなのは、⑤だ。
①人間が「他者を侵害してでも利益を得よう」とする共食いの意志=犯罪意志を抱き、
②思考が犯罪意志を帯びることで、精神を蝕まれて精神異常となり、
③実際の犯罪行為に及んだ場合には、思考と行動の統合失調が避けられて苦痛が緩和されるが、
④実際の犯罪に及べない場合には、思考と行動の統合失調を来たして苦痛を溜め込み、精神病となる。
⑤というような場合に限っての「精神異常」や「犯罪行為」や「精神病」こそは、
世の中にとって真に有害無益であり、世の中全体が総力を挙げて排除に努めるべきものであるからして、
人間社会が切実に「精神異常」や「犯罪行為」や「精神病」といった言葉の意味を定義するのであれば、
上記のような意味にのみ基づくべきであり、他の意味に基づく必要はなく、また基づいてはいけないのだ。
ちょっと言行が奇異だとか、自分とって相手の意見が気に入らないだとかいっただけの理由で
「精神異常」だとか「精神病」だとかいった言葉を下手に使い回すことは、それだけでも真の精神異常や
精神病を撹乱隠蔽して、その矯正や根絶を滞らせるものであるために、禁止すべきものですらある。
未だ精神科医ですらその全貌が把握できていない精神病や精神異常、その定義を一旦、全くの白紙状態に
戻した上で、最も切実な要求に基づいて定義し直すならば、上記のような定義に基づくのが最も適切であり、
上記以外の定義に基づいて、身勝手に「精神病」などといった言葉を用いるのは、もうやめさせるべきなのだ。
①人間が「他者を侵害してでも利益を得よう」とする共食いの意志=犯罪意志を抱き、
②思考が犯罪意志を帯びることで、精神を蝕まれて精神異常となり、
③実際の犯罪行為に及んだ場合には、思考と行動の統合失調が避けられて苦痛が緩和されるが、
④実際の犯罪に及べない場合には、思考と行動の統合失調を来たして苦痛を溜め込み、精神病となる。
⑤というような場合に限っての「精神異常」や「犯罪行為」や「精神病」こそは、
世の中にとって真に有害無益であり、世の中全体が総力を挙げて排除に努めるべきものであるからして、
人間社会が切実に「精神異常」や「犯罪行為」や「精神病」といった言葉の意味を定義するのであれば、
上記のような意味にのみ基づくべきであり、他の意味に基づく必要はなく、また基づいてはいけないのだ。
ちょっと言行が奇異だとか、自分とって相手の意見が気に入らないだとかいっただけの理由で
「精神異常」だとか「精神病」だとかいった言葉を下手に使い回すことは、それだけでも真の精神異常や
精神病を撹乱隠蔽して、その矯正や根絶を滞らせるものであるために、禁止すべきものですらある。
未だ精神科医ですらその全貌が把握できていない精神病や精神異常、その定義を一旦、全くの白紙状態に
戻した上で、最も切実な要求に基づいて定義し直すならば、上記のような定義に基づくのが最も適切であり、
上記以外の定義に基づいて、身勝手に「精神病」などといった言葉を用いるのは、もうやめさせるべきなのだ。
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スレッドタイトル:聖書 Part5