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聖書 Part5
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「聖書」という言葉の原典となっている「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下の記述に基づけば、「聖書」とは
①聖人が書いた書物。
②叙勲などを司る記録官による、正式な記録作業によって編纂された書類。
③賢愚の分け隔てなく全ての評価対象者をおしなべて取り上げた書物。
④賢愚をおしなべて取り上げつつも、その格の上下に合わせた公正な評価が行き届いている書物。
⑤年功や等級の高低を重視し、分をわきまえない僭越などを十全に排している書物。
といった条件を満たしている書物のことであり、そのような書物の中でも、最も代表的かつ古典的であるのが四書五経。
①の条件は孔子の書いた「易経」繋辞伝や「春秋経」、曾子の書いた「大学」や子思子の書いた「中庸」などが満たしている。
②の条件は太古の正式な政治記録である「書経」が(ただしあまりにも太古過ぎるため、多少の修繕がなされている)、
③と④の条件は「詩経」の大雅小雅両篇や「春秋経」が、⑤の条件は身分秩序を重んじる「易経」「論語」「礼記」などが
満たしている。まさに四書五経こそは、「聖書」という言葉の厳密な条件を満たしきるために著されたような書物であり、
これほどにも聖書の名に値する書物は、他に存在しないと言えるほど。ここはその真正聖書たる四書五経などについて語るスレ。
(画像は「論語」の主人公孔子、「孟子」の主人公孟子、「大学」の著者曾子、「中庸」の著者子思子の四名。四書の各筆頭)

①聖人が書いた書物。
②叙勲などを司る記録官による、正式な記録作業によって編纂された書類。
③賢愚の分け隔てなく全ての評価対象者をおしなべて取り上げた書物。
④賢愚をおしなべて取り上げつつも、その格の上下に合わせた公正な評価が行き届いている書物。
⑤年功や等級の高低を重視し、分をわきまえない僭越などを十全に排している書物。
といった条件を満たしている書物のことであり、そのような書物の中でも、最も代表的かつ古典的であるのが四書五経。
①の条件は孔子の書いた「易経」繋辞伝や「春秋経」、曾子の書いた「大学」や子思子の書いた「中庸」などが満たしている。
②の条件は太古の正式な政治記録である「書経」が(ただしあまりにも太古過ぎるため、多少の修繕がなされている)、
③と④の条件は「詩経」の大雅小雅両篇や「春秋経」が、⑤の条件は身分秩序を重んじる「易経」「論語」「礼記」などが
満たしている。まさに四書五経こそは、「聖書」という言葉の厳密な条件を満たしきるために著されたような書物であり、
これほどにも聖書の名に値する書物は、他に存在しないと言えるほど。ここはその真正聖書たる四書五経などについて語るスレ。
(画像は「論語」の主人公孔子、「孟子」の主人公孟子、「大学」の著者曾子、「中庸」の著者子思子の四名。四書の各筆頭)

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1+1=5にしたい
そちらのほうが人間的だ
1+1=2にしたい
それで満足できるなら
それこそ人間的じゃない
現代では欲は人並みにあるのに1+1=2に充たない一般層が大勢いる
欲望を単に邪悪だと切って捨てることのほうが視野が狭いと思う
欲望は幸福を求める衝動であり、理性なんて単純な発想で抑え込めるものではない
欲望は万人が持つ生きる衝動である
政治経済や様々な観点で客観視された公平さ公正さという環境を整えなければ、道徳も理性も機能しない
まず理性からというのは誤りだ
それは支配層に求められるべきもので、一般層には先ずそれを体現する環境こそが必要なのだ
そちらのほうが人間的だ
1+1=2にしたい
それで満足できるなら
それこそ人間的じゃない
現代では欲は人並みにあるのに1+1=2に充たない一般層が大勢いる
欲望を単に邪悪だと切って捨てることのほうが視野が狭いと思う
欲望は幸福を求める衝動であり、理性なんて単純な発想で抑え込めるものではない
欲望は万人が持つ生きる衝動である
政治経済や様々な観点で客観視された公平さ公正さという環境を整えなければ、道徳も理性も機能しない
まず理性からというのは誤りだ
それは支配層に求められるべきもので、一般層には先ずそれを体現する環境こそが必要なのだ
1+1の答えを2だと定義しているのは、神でも仏でもない、われわれ人間自身だ。
その人間が自分たち自身の取り決めを守ろうとすることが、最も人間的であるのは当然のことで、
それを後から1+1=3や4や5にしようってほうが、本当に禽獣並みに知能を低下させる精神障害ってもんだ。
その、重度精神障害のほうが世界標準であって、1+1=2を堅持するほうが異端であるとしたところで、
1億円+1億円を2億円と計算したり、1兆ドル+1兆ドルを2兆ドルと計算したりする理性のほうが
主体であり、1兆ドル+1兆ドルを5兆ドルや6兆ドルと計算する精神障害のほうが副体でないことには、
世の中のほうが立ち行かない。1+1を5にも6にもする精神障害の放蕩も、一定以上1+1=2を堅持する
理性があって初めて許されるのであり、精神障害が主体であって理性が副体だなんてほうがあり得ない。
「まず理性」が求められるべきなのは確かに支配層であって、しかも「まず支配層」であるべきでもある。
支配層が1+1=2の理性を堅持することが十分に尊重されて、「花は桜木、人は武士」というほどにも
理性に適った為政への優遇が行き届いたその上で、一般庶民の側がある程度の理性からの逸脱を認められたり
するというのが、本来の人間社会のあり方であり、それは今とて根本の部分から覆っているところではない。
1兆ドル+1兆ドルを5兆ドルにも6兆ドルにもしているような贋金作りどもが、どんなに虚栄を謳歌したところで、
そいつらのほうが世の中にとっての有害無益ながん細胞格であることには変わりなく、たとえどんなに貧乏であろうとも、
1+1=2のシラフの計算を尽くしている人間のほうが、有益無害な人類社会の模範的構成員であることが、一切劣悪の今
という世の中においてですら根本的に覆ったりはしておらず、ただ覆っているように見せかけられていることが虚妄なだけだ。
その人間が自分たち自身の取り決めを守ろうとすることが、最も人間的であるのは当然のことで、
それを後から1+1=3や4や5にしようってほうが、本当に禽獣並みに知能を低下させる精神障害ってもんだ。
その、重度精神障害のほうが世界標準であって、1+1=2を堅持するほうが異端であるとしたところで、
1億円+1億円を2億円と計算したり、1兆ドル+1兆ドルを2兆ドルと計算したりする理性のほうが
主体であり、1兆ドル+1兆ドルを5兆ドルや6兆ドルと計算する精神障害のほうが副体でないことには、
世の中のほうが立ち行かない。1+1を5にも6にもする精神障害の放蕩も、一定以上1+1=2を堅持する
理性があって初めて許されるのであり、精神障害が主体であって理性が副体だなんてほうがあり得ない。
「まず理性」が求められるべきなのは確かに支配層であって、しかも「まず支配層」であるべきでもある。
支配層が1+1=2の理性を堅持することが十分に尊重されて、「花は桜木、人は武士」というほどにも
理性に適った為政への優遇が行き届いたその上で、一般庶民の側がある程度の理性からの逸脱を認められたり
するというのが、本来の人間社会のあり方であり、それは今とて根本の部分から覆っているところではない。
1兆ドル+1兆ドルを5兆ドルにも6兆ドルにもしているような贋金作りどもが、どんなに虚栄を謳歌したところで、
そいつらのほうが世の中にとっての有害無益ながん細胞格であることには変わりなく、たとえどんなに貧乏であろうとも、
1+1=2のシラフの計算を尽くしている人間のほうが、有益無害な人類社会の模範的構成員であることが、一切劣悪の今
という世の中においてですら根本的に覆ったりはしておらず、ただ覆っているように見せかけられていることが虚妄なだけだ。
アナタの云われる精神障害や有害無益と思われる状態になることこそ人間の幸福です
悪いと理解していても求める
1+1=2以上を求めるのが人間本来の自然な在り方
社会に住むからこそ罪や罰という規範が生まれるが、それは本来的には不自然でしょう
暴力はさらに強大な暴力で治めているというのが現実
理性や道徳心くらいで諫めようというほうこそ愚かで単純です
先に環境を整備されなければ理性や道徳心を発揮する道理がない
悪いと理解していても求める
1+1=2以上を求めるのが人間本来の自然な在り方
社会に住むからこそ罪や罰という規範が生まれるが、それは本来的には不自然でしょう
暴力はさらに強大な暴力で治めているというのが現実
理性や道徳心くらいで諫めようというほうこそ愚かで単純です
先に環境を整備されなければ理性や道徳心を発揮する道理がない
「人類社会のがん細胞格」である連中はそう考えるだろうし、
そのような連中を無意識に羨望させられているカルト洗脳被害者たちも、そう考えるだろうな。
それが人間のダークサイドであって、それはそれで相当に大きな規模を擁しているのも知っている。
しかし、理性や道徳によって、人間社会を平穏無事に運営していこうとする派閥の規模のほうが、さらに大きい。
質でも量でも古さでも、有害無益な精神障害を上回る有益無害な精神健常が、実際に実在しており、
だからこそ人間社会もまだ存続を保ててもいる。信じるまいが支持するまいが、そうでしかない現実だ。
「私たちは有害無益ながん細胞格の精神障害に甘んじます」と宣言するのは別に結構だが、
そのようなゴミ同然の身分に甘んじることが、地球人類にとっての真の幸福であるなどということもないし、
そんな卑賤の身に満足する輩のほうが、人類という生物にとっての主体や根本であるなどということもない。
矮小でかりそめな、虚構の満足に浸り続けようとする人間などよりも、雄大かつ普遍的な、
実物の満足にこそ満悦な人々のほうが多数であることに、疑問を呈するほうがおかしい。
そのような連中を無意識に羨望させられているカルト洗脳被害者たちも、そう考えるだろうな。
それが人間のダークサイドであって、それはそれで相当に大きな規模を擁しているのも知っている。
しかし、理性や道徳によって、人間社会を平穏無事に運営していこうとする派閥の規模のほうが、さらに大きい。
質でも量でも古さでも、有害無益な精神障害を上回る有益無害な精神健常が、実際に実在しており、
だからこそ人間社会もまだ存続を保ててもいる。信じるまいが支持するまいが、そうでしかない現実だ。
「私たちは有害無益ながん細胞格の精神障害に甘んじます」と宣言するのは別に結構だが、
そのようなゴミ同然の身分に甘んじることが、地球人類にとっての真の幸福であるなどということもないし、
そんな卑賤の身に満足する輩のほうが、人類という生物にとっての主体や根本であるなどということもない。
矮小でかりそめな、虚構の満足に浸り続けようとする人間などよりも、雄大かつ普遍的な、
実物の満足にこそ満悦な人々のほうが多数であることに、疑問を呈するほうがおかしい。
大衆をトップダウンに扇情する気など、はじめからないからだ。
我こそは地の底から民を突き上げる、
人間社会のボトムアップこそは修己治人の本質でもある。
やり方のすり合わせからして、あり得ない。
我こそは地の底から民を突き上げる、
人間社会のボトムアップこそは修己治人の本質でもある。
やり方のすり合わせからして、あり得ない。
食わず嫌いもいいとこだな。
本物の道徳や理性なんて、その存在性すら未だ察知したこともないくせに。
「孝経」諫争篇における「父に不義があれば、子として諌め争わざるべからず」という孔子の言と、
「孟子」離婁章句下における「父子が善を責め合うは恩を損なうの大なるものだ」という孟子の言が
一見食い違っているように思われるのだが、これらの言葉の整合性をもう少し掘り下げてみるなら、
「親が致命的な過ちを犯しているときには、これ以上墓穴を掘り下げぬよう諫め争うのが孝となる一方で、
別段大きな過ちを犯しているわけでもない親に対して、さらなる積善を要求するのは不孝となる」
ということではないか。
立場上、子弟格にあたるものが、父兄格にあたる相手に対して、致命的な過ちの是正を諫言したりする
のまでは忠孝にもなるが、そこから先の積善までをも要求するのは、かえって恩を損なう不孝になるわけだから、
結局、今の自分よりはまだ先輩格に当たるだろう今の世の中心人物(仮)などに対して、過ちの責任をとっての
世の中からの退場を促すぐらいまでのことはするけれども、そこから先の積善は相手ではなく、こちら側こそが
自主的に試みていくべきことだから、別に相手との、今後からの二人三脚を前提としたような物言いもしない。
もう二度と社会のメインストリームを歩むこともないような人々に対して、下手に希望の光を当てたりする
ほうが絶望を助長させるのみだから、ただ「後は任せましょう」と言うのみが、忠孝という点でも最善なのだろう。
本物の道徳や理性なんて、その存在性すら未だ察知したこともないくせに。
「孝経」諫争篇における「父に不義があれば、子として諌め争わざるべからず」という孔子の言と、
「孟子」離婁章句下における「父子が善を責め合うは恩を損なうの大なるものだ」という孟子の言が
一見食い違っているように思われるのだが、これらの言葉の整合性をもう少し掘り下げてみるなら、
「親が致命的な過ちを犯しているときには、これ以上墓穴を掘り下げぬよう諫め争うのが孝となる一方で、
別段大きな過ちを犯しているわけでもない親に対して、さらなる積善を要求するのは不孝となる」
ということではないか。
立場上、子弟格にあたるものが、父兄格にあたる相手に対して、致命的な過ちの是正を諫言したりする
のまでは忠孝にもなるが、そこから先の積善までをも要求するのは、かえって恩を損なう不孝になるわけだから、
結局、今の自分よりはまだ先輩格に当たるだろう今の世の中心人物(仮)などに対して、過ちの責任をとっての
世の中からの退場を促すぐらいまでのことはするけれども、そこから先の積善は相手ではなく、こちら側こそが
自主的に試みていくべきことだから、別に相手との、今後からの二人三脚を前提としたような物言いもしない。
もう二度と社会のメインストリームを歩むこともないような人々に対して、下手に希望の光を当てたりする
ほうが絶望を助長させるのみだから、ただ「後は任せましょう」と言うのみが、忠孝という点でも最善なのだろう。
大罪を犯して退場を迫られている、重権力犯罪者などの眼鏡に適うような後継者であるほうが、
かえって世直しに努めていく上での不適合人物であるということにすらなるだろう。
世を破滅へと導く性向の持ち主に「こいつじゃいけない」と思われるぐらいで初めて、真の適合者であるともいえる。
「之れを愛して能く労すること勿らんや。忠にして能く誨うること勿らんや」
「愛しているからといって苦労させないのはいかがなものか。忠孝でありながら教誨に努めないのはいかがなものか」
(権力道徳聖書——通称史書五経——論語・憲問第十四・八より)
かえって世直しに努めていく上での不適合人物であるということにすらなるだろう。
世を破滅へと導く性向の持ち主に「こいつじゃいけない」と思われるぐらいで初めて、真の適合者であるともいえる。
「之れを愛して能く労すること勿らんや。忠にして能く誨うること勿らんや」
「愛しているからといって苦労させないのはいかがなものか。忠孝でありながら教誨に努めないのはいかがなものか」
(権力道徳聖書——通称史書五経——論語・憲問第十四・八より)
理性や道徳は社会性に対する知恵でなくては意味がない そういうことでしょう? それはずいぶんと前に書いてある
現代社会というのは
たとえば為政者一人を権力者とは言わない
現代特有の選挙形式から端を発し 献金や組織票を意識して関係性をつくらなければ為政者にはなれない
その関係性は、政治介入を余儀なくされるということ
すでに関係性ある企業の思惑や宗教団体の思惑 それらの都合を政治に反映しなくてはならない
そういった関係の積み重ねで社会規範もつくられている
庄屋とお代官くらいの単純な世界観じゃないのです
問題は孔子が考えていた以上に 相対的という以上…壮大に複雑化している
それが社会の都合
そこに理性や道徳心が入り込む余地がありますか?
社会の都合に沿った知恵こそが現代…現在求められる道徳なのですよ
それはやはり環境から カタチから入る以外には見出だせないでしょう
現代社会に根付いてしまった都合…これはもはや生活に則している
生活そのもの
過去の遺物のような道徳や理性では生活を…社会性を破綻させることになりませんか?
現代社会というのは
たとえば為政者一人を権力者とは言わない
現代特有の選挙形式から端を発し 献金や組織票を意識して関係性をつくらなければ為政者にはなれない
その関係性は、政治介入を余儀なくされるということ
すでに関係性ある企業の思惑や宗教団体の思惑 それらの都合を政治に反映しなくてはならない
そういった関係の積み重ねで社会規範もつくられている
庄屋とお代官くらいの単純な世界観じゃないのです
問題は孔子が考えていた以上に 相対的という以上…壮大に複雑化している
それが社会の都合
そこに理性や道徳心が入り込む余地がありますか?
社会の都合に沿った知恵こそが現代…現在求められる道徳なのですよ
それはやはり環境から カタチから入る以外には見出だせないでしょう
現代社会に根付いてしまった都合…これはもはや生活に則している
生活そのもの
過去の遺物のような道徳や理性では生活を…社会性を破綻させることになりませんか?
なにも複雑なことはない。
農夫や職人のような一人前の専門職としての、為政の価値が全面的に否定されて、
実際に権力道徳を実現する専門的な素養を蓄えた為政者までもが、
絶滅に追い込まれているというだけのこと。
たとえば、多くの人々を乗せた艦船があったとして、その艦船の乗客に過ぎない連中が、
船を操舵するための技能を持った船員を全て追い落として、操舵に関してはド素人に過ぎない
自分たちこそは「この船の船頭だ」などと宣言して、下手くそな操舵で山にすら乗り上げた、
その結果が>>355の惨状。ド素人の意見や私利私欲ばかりを国家運営に反映させた、当然の結末。
「無責任なド素人が国家を運営している」という実情を隠蔽するために、
事務手続きばかりは複雑化しているが、それが招いているものはただ一つ、
権力道徳に相反する権力犯罪の進行のみ。何も難しいところなどありゃしない。
農夫や職人のような一人前の専門職としての、為政の価値が全面的に否定されて、
実際に権力道徳を実現する専門的な素養を蓄えた為政者までもが、
絶滅に追い込まれているというだけのこと。
たとえば、多くの人々を乗せた艦船があったとして、その艦船の乗客に過ぎない連中が、
船を操舵するための技能を持った船員を全て追い落として、操舵に関してはド素人に過ぎない
自分たちこそは「この船の船頭だ」などと宣言して、下手くそな操舵で山にすら乗り上げた、
その結果が>>355の惨状。ド素人の意見や私利私欲ばかりを国家運営に反映させた、当然の結末。
「無責任なド素人が国家を運営している」という実情を隠蔽するために、
事務手続きばかりは複雑化しているが、それが招いているものはただ一つ、
権力道徳に相反する権力犯罪の進行のみ。何も難しいところなどありゃしない。
難しいのはね
それがすでに現代生活として機能してしまっているという現実ですよ
それを古くさい理性や道徳で扱うことは現代生活を破綻させることになる
文明や文化を失うことになるということ
文明文化こそ人間の関係性によって築き上げた粋であるということ
それに沿わない理性や道徳などより文明文化に則した在り方が本当の知恵 道徳になるべきなんだ
それがすでに現代生活として機能してしまっているという現実ですよ
それを古くさい理性や道徳で扱うことは現代生活を破綻させることになる
文明や文化を失うことになるということ
文明文化こそ人間の関係性によって築き上げた粋であるということ
それに沿わない理性や道徳などより文明文化に則した在り方が本当の知恵 道徳になるべきなんだ
道徳のために人間が在るわけじゃない
人間のために道徳が必要になるんだ
人間のために道徳が必要になるんだ
理性や道徳は文化文明じゃないってか?
重権力犯罪にまみれた総員禽獣化社会だけが、唯一の文化文明だってか?
ド素人の乗客が船頭と化した船が山に登ったことが、文化文明の唯一の成果だってか?
ただ、おまえの視野が極端に狭いせいで、ごくごく部分的な文化文明の片鱗に
過ぎないものを、唯一無二の文化文明だなどと思い込んでいるだけじゃないか。
金を操る商売人、物を作る職人、食い物を作る農夫や漁師、そして人間社会のあり方を総合的に切り盛りする士人、
これらの人種が全て合わせ集まることによってこそ、健全に機能するのが人間社会というものであり、
よく健全性が守られた社会においては、商売を含む産業への従事者以上にも為政者たる士人が尊重される一方で、
どこもかしこもが不健全と化した社会においては、士人や君子と呼べるほどにもまともな徳性を備えた
為政者が一人もいなくなって、ただ産業従事者の放辟邪侈がどこまでも放任されていくばかりとなる。
いずれにしろ、為政者と産業従事者とが並存する社会であることには代わりないが、
権力道徳の守られる社会においては君子士人が存在する一方で、権力犯罪にまみれた社会においては君子士人が存在しない。
君子士人の存在性が認められるか否かのみが両者の違う点であり、産業従事者たる庶民がいるかいないかなどということは論外。
庶民をいかに健全に統治支配するのかが為政者にとっての根本命題であり、その方向性がよく見据えられているのが
君子士人たる権力道徳者である一方で、全く見定められていないのが権力犯罪者であるのみ。
両者はコインの裏表のようなもので、権力犯罪者によって運営が保たれているような社会が、
権力道徳者によって運営されたなら、これ以上よくなることこそあれど、悪くなることなどは決してない。
重権力犯罪にまみれた総員禽獣化社会だけが、唯一の文化文明だってか?
ド素人の乗客が船頭と化した船が山に登ったことが、文化文明の唯一の成果だってか?
ただ、おまえの視野が極端に狭いせいで、ごくごく部分的な文化文明の片鱗に
過ぎないものを、唯一無二の文化文明だなどと思い込んでいるだけじゃないか。
金を操る商売人、物を作る職人、食い物を作る農夫や漁師、そして人間社会のあり方を総合的に切り盛りする士人、
これらの人種が全て合わせ集まることによってこそ、健全に機能するのが人間社会というものであり、
よく健全性が守られた社会においては、商売を含む産業への従事者以上にも為政者たる士人が尊重される一方で、
どこもかしこもが不健全と化した社会においては、士人や君子と呼べるほどにもまともな徳性を備えた
為政者が一人もいなくなって、ただ産業従事者の放辟邪侈がどこまでも放任されていくばかりとなる。
いずれにしろ、為政者と産業従事者とが並存する社会であることには代わりないが、
権力道徳の守られる社会においては君子士人が存在する一方で、権力犯罪にまみれた社会においては君子士人が存在しない。
君子士人の存在性が認められるか否かのみが両者の違う点であり、産業従事者たる庶民がいるかいないかなどということは論外。
庶民をいかに健全に統治支配するのかが為政者にとっての根本命題であり、その方向性がよく見据えられているのが
君子士人たる権力道徳者である一方で、全く見定められていないのが権力犯罪者であるのみ。
両者はコインの裏表のようなもので、権力犯罪者によって運営が保たれているような社会が、
権力道徳者によって運営されたなら、これ以上よくなることこそあれど、悪くなることなどは決してない。
なによりも恐ろしがられているのは、今すぐに、早急に世の中が変革されてしまうことで、そのせいで
無理をきたして破綻することであり、権力道徳によって世の中の平穏が保たれることへの普遍的な不信ではあるまい。
仮に、権力道徳が世の中を統治することなど絶対に不可能だなどと思い込んでいるのなら、
それこそは、歴史の勉強が足りなさ過ぎるだけの話でもあるしな。
「三年、父の道を改むること無きを、孝と謂うべし」
「父の死後、三年は父のやり方を改めないでおくことを、孝行と呼んでよかろう」
(権力道徳聖書——通称史書五経——論語・学而第一・一一より)
三年、最低でも三年は、降伏宣言の後にも、今の世の運営方法に大きな改変を加えるようなことは、決してするまい。
たとえ、それが明らかに改善になると認められる施策であっても、必ず三年間はその実施を保留する。
三年間のうちに、できる限り多くの人々とも打ち合わせを尽くして、人々の納得のいく政策がどれであり、
どうしたって支持を得られない政策はどれであるかなどを綿密に調査し抜いて、本当に大多数の人々による、
納得づくの支持や協力を得られる段になってから初めて、何らかの変革を実施するということもある。
あまりにも事務的な話であり、「全人類にとっての聖書」でもある四書五経を典拠にするのも卑俗に過ぎるかとも思うが、
「親の喪に最低でも三年は服すべきだ」とする孔子の意向にも、きっと何らかの具体的な意図が込められているのだろうから。
別に自分自身の親が死ぬなどという話でもないが、「前世代」という意味での、親の喪にも服すべきなのかもしれないな。
無理をきたして破綻することであり、権力道徳によって世の中の平穏が保たれることへの普遍的な不信ではあるまい。
仮に、権力道徳が世の中を統治することなど絶対に不可能だなどと思い込んでいるのなら、
それこそは、歴史の勉強が足りなさ過ぎるだけの話でもあるしな。
「三年、父の道を改むること無きを、孝と謂うべし」
「父の死後、三年は父のやり方を改めないでおくことを、孝行と呼んでよかろう」
(権力道徳聖書——通称史書五経——論語・学而第一・一一より)
三年、最低でも三年は、降伏宣言の後にも、今の世の運営方法に大きな改変を加えるようなことは、決してするまい。
たとえ、それが明らかに改善になると認められる施策であっても、必ず三年間はその実施を保留する。
三年間のうちに、できる限り多くの人々とも打ち合わせを尽くして、人々の納得のいく政策がどれであり、
どうしたって支持を得られない政策はどれであるかなどを綿密に調査し抜いて、本当に大多数の人々による、
納得づくの支持や協力を得られる段になってから初めて、何らかの変革を実施するということもある。
あまりにも事務的な話であり、「全人類にとっての聖書」でもある四書五経を典拠にするのも卑俗に過ぎるかとも思うが、
「親の喪に最低でも三年は服すべきだ」とする孔子の意向にも、きっと何らかの具体的な意図が込められているのだろうから。
別に自分自身の親が死ぬなどという話でもないが、「前世代」という意味での、親の喪にも服すべきなのかもしれないな。
人類の歴史は闘争のハズですよ?
道徳権力など一度も成し得なかったから現行の社会になったということですよ
一時の平和…だが次の局面では苦難に喘いでいる
そういった断続性が社会の移ろいの現実です
物語の歴史の中ならば恒久的な道徳への美意識があることでしょう
道徳権力など一度も成し得なかったから現行の社会になったということですよ
一時の平和…だが次の局面では苦難に喘いでいる
そういった断続性が社会の移ろいの現実です
物語の歴史の中ならば恒久的な道徳への美意識があることでしょう
だって2500年も経ってるうちに確実に大幅編集されてるよ?
分かりやすい言葉や矛盾っぽい言葉はすべて見直されて、孔子の言葉なんかもはや少ししか残ってないかもしれない
ありがたそうに読まれてはいるが現実なんかそんなもの
醜い部分は伏せられて編集につぐ編集を重ねられ もはや何の物語ですかね?
それに素直に心酔するなんて、道徳者ってのはまるで夢見る乙女のように無垢なものですね
分かりやすい言葉や矛盾っぽい言葉はすべて見直されて、孔子の言葉なんかもはや少ししか残ってないかもしれない
ありがたそうに読まれてはいるが現実なんかそんなもの
醜い部分は伏せられて編集につぐ編集を重ねられ もはや何の物語ですかね?
それに素直に心酔するなんて、道徳者ってのはまるで夢見る乙女のように無垢なものですね
>>371
まず、現人類のうちの12億人にあたるインドの歴史が、外界からの侵略を除けば
戦乱皆無の万年泰平の歴史だ。「インドには歴史がない」と言われるのもそのため。
そして、中国や日本などのの極東社会現15億人の歴史は、一時の戦乱と長期の泰平を繰り返す歴史。
戦国時代のような戦乱の時代もあれば、周代や漢代や唐代、平安時代や江戸時代のように
最悪の戦乱ぐらいは廃絶した泰平の時代もあり、概ね泰平3:戦乱1程度の配分を貫いている。
東南アジアやアフリカなどに住まう現14億人程度の人々も、それほど高度な文化文明を築き上げて
いたわけではないが、ことに西洋からの侵略被害に遭うまでは、きわめて平穏な歴史を保っていた。
万年戦乱の闘争状態に陥っているのは、全人類の半分以下に過ぎない西洋のみであり、
中でも自分たちからの侵略をも積極的に行っている、戦乱の元凶中の元凶とまでいえるのは、
アレクサンドロス東征や十字軍遠征によって中東社会をも侵略してきた現聖書圏のみ。
「人類の歴史は引っ切り無しの闘争の歴史」などというのが、西洋中心主義の偏見に
根ざした全くの思い違いであり、質でも量でも古さでも、戦乱以上にも泰平を重んじて、
実際に泰平優位戦乱劣位の歴史を積み重ねてきた派閥のほうが、遥かに優位であり続けている。
まず、現人類のうちの12億人にあたるインドの歴史が、外界からの侵略を除けば
戦乱皆無の万年泰平の歴史だ。「インドには歴史がない」と言われるのもそのため。
そして、中国や日本などのの極東社会現15億人の歴史は、一時の戦乱と長期の泰平を繰り返す歴史。
戦国時代のような戦乱の時代もあれば、周代や漢代や唐代、平安時代や江戸時代のように
最悪の戦乱ぐらいは廃絶した泰平の時代もあり、概ね泰平3:戦乱1程度の配分を貫いている。
東南アジアやアフリカなどに住まう現14億人程度の人々も、それほど高度な文化文明を築き上げて
いたわけではないが、ことに西洋からの侵略被害に遭うまでは、きわめて平穏な歴史を保っていた。
万年戦乱の闘争状態に陥っているのは、全人類の半分以下に過ぎない西洋のみであり、
中でも自分たちからの侵略をも積極的に行っている、戦乱の元凶中の元凶とまでいえるのは、
アレクサンドロス東征や十字軍遠征によって中東社会をも侵略してきた現聖書圏のみ。
「人類の歴史は引っ切り無しの闘争の歴史」などというのが、西洋中心主義の偏見に
根ざした全くの思い違いであり、質でも量でも古さでも、戦乱以上にも泰平を重んじて、
実際に泰平優位戦乱劣位の歴史を積み重ねてきた派閥のほうが、遥かに優位であり続けている。
そうやって一部地域に限定して視野狭く考えれば整合化も楽ですからね
人間の本性的に対抗心を抱く道徳者かな
道徳者が争いも辞さぬとたゆまぬ努力をすることは戦乱や 社会的混乱とどうちがうのか?
武力を持たなければいいのか?
それは小人とかいうヤツらとどれほどのちがいがあると言うんだ?
物語の中でしか達成できない道徳にすがって自分を慰めているのか?
人間の本性的に対抗心を抱く道徳者かな
道徳者が争いも辞さぬとたゆまぬ努力をすることは戦乱や 社会的混乱とどうちがうのか?
武力を持たなければいいのか?
それは小人とかいうヤツらとどれほどのちがいがあると言うんだ?
物語の中でしか達成できない道徳にすがって自分を慰めているのか?

中国湖北省荊門市の郭店第一号楚墓から発見された、今から約2300年前の竹簡には、
「老子」の原型にあたる文書と共に、「論語」や「書経」「詩経」に類似する文書が散見され、
しかも「礼記」の緇衣第三十三とほぼ同一の文書までもが確認されている。
他にも「詩・書・礼・楽・易・春秋」などの、今の経書分類に即する文字列も認められ、
四書五経にあたる文書文化が、犯罪聖書が成立したとされる今から約1900年前よりも
遥かに先んじていたことすらもが確認されている。
世界最古の犯罪聖書の原文である死海文書も、最古の部分ですら今から約2100年前のもので、
その内容も今の犯罪聖書とは随分な異同があり、犯罪聖書のほうもまた、今の形に
成型されたのは随分と後代であることが分かる。
五経が今の形に定型化されたのは、今から約2147年前の武帝による五経博士の設置時であると
「史記」の儒林列伝などからも確認でき、七十人訳によって旧約聖書が今の形に定型化された
とする紀元前一世紀代よりも先んじている。今の形に定型化されてからの古さでも、
四書五経は明らかに犯罪聖書よりも先んじている。
「震來虩虩たるに、恐れて福を致すなり。笑言唖唖たりて、後には則有るなり。(中略)君子もって恐懼修省す」
「激震のような衝撃が来るに及べば、素直に戒慎恐懼する。それは恐れ慎むことによってこそを福を招くためだ。そして
事後に秩序が保たれてから、初めて安らかに笑いつつ物も言う。そのために君子は恐れ慎みつつの修養や反省を欠かさない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・震・彖伝−象伝より)

一部地域に限定して、狭い視野だけに即してものを考える、
それも、どちらかといえば、四書五経よりも犯罪聖書のほうにこそ特定して深刻な凶状だ。
戦うということ、それだけなら六道輪廻のうちの三善趣にも「修羅道」として組み込まれている。
しかし、純粋な修羅道と、犯罪まみれの「地獄道」を混同して、戦いを泰平という目的のための手段で
あるとすらわきまえず、戦いのための戦い、引っ切り無しの戦乱状態を画策まではしない点が、
四書五経などに基づく純正道徳学が、犯罪聖書に基づく犯罪カルトなどとは違う点。
密教や禅などの高等仏教に即したなら、道徳学とて六道輪廻の範疇にとどまる卑俗学であるにも違いないが、
卑俗な中にも勧善懲悪ではあろうとする点において、卑俗であってしかも悪逆非道ですらあろうとする
犯罪カルトなどよりは、確実にマシなほうであるということがいえる。
十住心論のうちの最底辺である異生羝羊住心第一が犯罪カルトである一方で、下から二番目にあたる
愚童持斎住心第二が道徳者の境地。道徳者とてさして高尚な境地にあるわけではないが、最低最悪の限りを尽くす
犯罪カルトから上に登っていくためには、犯罪カルトよりも一段だけ上の存在であるに過ぎない道徳学あたりから
始めていくしかない。より高尚な境地に今すぐに至れるほど、自分たち自身が高い地位にいるわけでもないから。
犯罪聖書とかヨソの書を批判しても自分のところを正当化できないだろ
バカよりアホのがマシで嬉しいのか?
だいたい書き手自体が本人が死んでから弟子とか訪れた場所を巡って整理したということだぞ
小人の記憶力をどれだけ信じてるんだよ?小人を蚊帳の外扱いする書なのに
まったくメルヘンチックな物語だよ
現代道徳の動力源は欲望に則しているの!
己の欲望を満たさなければ他人には優しくなれないの!誰もが
支配層はともかく一般層はそれで変わる
世の中に道徳を体現したいなら金をバラまけ
満足感を動力に小人の道徳が少しは機能しはじめる
そうやって満ち足りた人間が増えることで支配層も何らかの転換をする可能性がある
財源がなければ日銀から盗ってこい
それが現代道徳だ
バカよりアホのがマシで嬉しいのか?
だいたい書き手自体が本人が死んでから弟子とか訪れた場所を巡って整理したということだぞ
小人の記憶力をどれだけ信じてるんだよ?小人を蚊帳の外扱いする書なのに
まったくメルヘンチックな物語だよ
現代道徳の動力源は欲望に則しているの!
己の欲望を満たさなければ他人には優しくなれないの!誰もが
支配層はともかく一般層はそれで変わる
世の中に道徳を体現したいなら金をバラまけ
満足感を動力に小人の道徳が少しは機能しはじめる
そうやって満ち足りた人間が増えることで支配層も何らかの転換をする可能性がある
財源がなければ日銀から盗ってこい
それが現代道徳だ
「現代道徳は犯罪主義である」
ただそれだけのことだな。
犯罪をしないことを道徳とし、道徳に反することを犯罪とするのが真の道徳。
一方で、犯罪こそは道徳であるとするのが偽の道徳。
真の道徳を諾うのが愚童持斎心以上、偽の道徳に溺れるのが異生羝羊心以下。
「犯罪は道徳である」という考えが確実に偽となるのは、
道徳もまた「犯罪の防止」を目的に定義された理念でしかないからだ。
犯罪すら懲罰し尽くして防止し尽くせたなら、それで道徳の役割は果たされるのであり、
重権力犯罪ぐらいは根絶された後における、四書五経以上の豊潤な精神文化文明の
繁栄のほうが、本当は真骨頂。権力道徳による権力犯罪の駆逐なんて、
真打ちの究極文化の興隆などと比べれば、前座の前座の前座でしかない。
ただそれだけのことだな。
犯罪をしないことを道徳とし、道徳に反することを犯罪とするのが真の道徳。
一方で、犯罪こそは道徳であるとするのが偽の道徳。
真の道徳を諾うのが愚童持斎心以上、偽の道徳に溺れるのが異生羝羊心以下。
「犯罪は道徳である」という考えが確実に偽となるのは、
道徳もまた「犯罪の防止」を目的に定義された理念でしかないからだ。
犯罪すら懲罰し尽くして防止し尽くせたなら、それで道徳の役割は果たされるのであり、
重権力犯罪ぐらいは根絶された後における、四書五経以上の豊潤な精神文化文明の
繁栄のほうが、本当は真骨頂。権力道徳による権力犯罪の駆逐なんて、
真打ちの究極文化の興隆などと比べれば、前座の前座の前座でしかない。
あと、儒家も欲望を否定はしない。否定はしないが
「君子は〜欲すれども貪らず」
「君子は人として生きる上での最低限の欲求ぐらいは持つが、それ以上の過大な貪欲は捨てる」
(権力道徳聖書——通称史書五経——論語・堯曰第二十・四より)
であり、他者を虐殺被害にまで陥れつつ、自らの生の虚栄を貪るような、
単なる生存欲の発露を逸脱した放辟邪侈の実現をこそのみ、認めないだけだ。
あまりにも程度が低すぎて、最低最悪の犯罪主義とすら未だ十分な区別が付けられずにいて、
そのせいでミッション系の大学が「論語」を典拠にした「上智大学」なんて大学名を名乗ってたりもするが、
欲すれども貪りはしない節度をわきまえた世俗志向と、欲する以上は必ずといっていいほど貪ろうとする
善悪みそくその犯罪主義込みな世俗志向との間には、相反性をも伴う断絶を来たした、厳然たる相違がある。
「君子は〜欲すれども貪らず」
「君子は人として生きる上での最低限の欲求ぐらいは持つが、それ以上の過大な貪欲は捨てる」
(権力道徳聖書——通称史書五経——論語・堯曰第二十・四より)
であり、他者を虐殺被害にまで陥れつつ、自らの生の虚栄を貪るような、
単なる生存欲の発露を逸脱した放辟邪侈の実現をこそのみ、認めないだけだ。
あまりにも程度が低すぎて、最低最悪の犯罪主義とすら未だ十分な区別が付けられずにいて、
そのせいでミッション系の大学が「論語」を典拠にした「上智大学」なんて大学名を名乗ってたりもするが、
欲すれども貪りはしない節度をわきまえた世俗志向と、欲する以上は必ずといっていいほど貪ろうとする
善悪みそくその犯罪主義込みな世俗志向との間には、相反性をも伴う断絶を来たした、厳然たる相違がある。
だいたい善悪自体が産まれた瞬間に判別できるわけじゃない
善悪は
人間の文明文化や生活に沿うことが営みの都合に善く 生活に沿わないことを悪いと経験から学ぶ後天的概念だ
だから互いに表裏的というか相対的な概念であり
ヒトの許容量によって認識はばらつきがある
そこに絶対性などはない
善悪は経験から学ぶ後天的概念という事実が、そのまま人間の獣性を証明しているんだ
精神性を重視するというのも道徳心も理性も後付けの社会性に対応する知恵に等しい
道徳者はちょっとだけ賢いというだけのこと
人間の本性を覆す道徳も思い付かない 他人任せのような理性に期待する メルヘンチックな愚か者
なまじ賢いだけに理想ばかり追い求め現実がみえない
精神性は現実の欲求を満たせば付いてくる これが現代の知恵 道徳になる
理想に期待するのではなく必然的にそれを達成しようという現実に沿った導きが必要なのだ
日銀から金を盗んでバラまけ
偽造してもいいぞ
平和になるなら少しぐらいの犯罪に目を向けるな
むしろ道徳者こそ時代の犠牲者となり、ねずみ小僧を演じるべきだ
善悪は
人間の文明文化や生活に沿うことが営みの都合に善く 生活に沿わないことを悪いと経験から学ぶ後天的概念だ
だから互いに表裏的というか相対的な概念であり
ヒトの許容量によって認識はばらつきがある
そこに絶対性などはない
善悪は経験から学ぶ後天的概念という事実が、そのまま人間の獣性を証明しているんだ
精神性を重視するというのも道徳心も理性も後付けの社会性に対応する知恵に等しい
道徳者はちょっとだけ賢いというだけのこと
人間の本性を覆す道徳も思い付かない 他人任せのような理性に期待する メルヘンチックな愚か者
なまじ賢いだけに理想ばかり追い求め現実がみえない
精神性は現実の欲求を満たせば付いてくる これが現代の知恵 道徳になる
理想に期待するのではなく必然的にそれを達成しようという現実に沿った導きが必要なのだ
日銀から金を盗んでバラまけ
偽造してもいいぞ
平和になるなら少しぐらいの犯罪に目を向けるな
むしろ道徳者こそ時代の犠牲者となり、ねずみ小僧を演じるべきだ
「1+1=5だ」と始めから決め付けてかかってくる相手に、1+1=2を大前提とした
シラフ文化の豊潤な体系構築の価値を知らせようってほうが、無理なものだよね。
だから1+1=2であることを堅持することに終始する、道徳学止まりの論及しか行っていない。
そうすることが最高に楽しい自分自身の姿を見せつけることで、
罪悪の辛苦に喘いでいる賤人としての惨めさを味わわせるまでしか。
この傾向は、まあ今後2、30年程度は変わるまい。たとえ今すぐに降伏宣言が発令されたとて。
シラフ文化の豊潤な体系構築の価値を知らせようってほうが、無理なものだよね。
だから1+1=2であることを堅持することに終始する、道徳学止まりの論及しか行っていない。
そうすることが最高に楽しい自分自身の姿を見せつけることで、
罪悪の辛苦に喘いでいる賤人としての惨めさを味わわせるまでしか。
この傾向は、まあ今後2、30年程度は変わるまい。たとえ今すぐに降伏宣言が発令されたとて。
ちゃんと犯罪聖書中で、自分たちが反社会勢力であることも豪語してるんだな。
やっぱり旧約冒頭の「創世記」からして、本当は「損世記」だったわけだ。
そりゃあ、世の中の多数派からの支持も得られなくて当然の話。
天下万民を安らかならしめる仁政の実現に協力することだって、当然できない。
「昔、周公大公、周室に股肱として、成王を夾輔せり。
成王之れを勞いて、之れに盟いを賜いて曰く、世世子孫、相害するこ無かれと」
「昔、魯の周公と斉の太公望とが、周王室の股肱耳目となって、成王を補佐しました。
成王はこれをねぎらって盟書を賜りました。そこにはこう書かれていました。
『世世代代の子子孫孫に至るまで、互いに害しあうことがないように』と」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十六年より)
やっぱり旧約冒頭の「創世記」からして、本当は「損世記」だったわけだ。
そりゃあ、世の中の多数派からの支持も得られなくて当然の話。
天下万民を安らかならしめる仁政の実現に協力することだって、当然できない。
「昔、周公大公、周室に股肱として、成王を夾輔せり。
成王之れを勞いて、之れに盟いを賜いて曰く、世世子孫、相害するこ無かれと」
「昔、魯の周公と斉の太公望とが、周王室の股肱耳目となって、成王を補佐しました。
成王はこれをねぎらって盟書を賜りました。そこにはこう書かれていました。
『世世代代の子子孫孫に至るまで、互いに害しあうことがないように』と」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十六年より)
世の中の多数派だから2000以上の言語に翻訳されて3000億冊以上が出版されてるのとちがうのか?
なんだそれ
次に書きたいことの煽りなのか?
少なくとも互いに理想を掲げているだけで、目くそ鼻くそを笑うというレベルじゃないか?
なんだそれ
次に書きたいことの煽りなのか?
少なくとも互いに理想を掲げているだけで、目くそ鼻くそを笑うというレベルじゃないか?
獣性を現代道徳という言い方も誤りだった
右の頬を打たれたら左の頬を出す 貧困層なら逃げ場がなければ、そういった無抵抗による抵抗しかできない
一般層なら袖の下 賄賂を渡して見逃してもらう
それらは方法的な差でしかない
一方
そういった欲求を満たしたい衝動のほうは
富裕層なら賄賂や袖の下と同じ手法で欲求を満たそうとする
貧困層なら強奪 せいぜい恵んでもらうといったところ
これも方向性は同じもので、真実は階層によって善悪は覆されてしまうということ
それは物事は必然的である 理想や奇蹟などないということを示している
まあ
実際、道徳心や理性は大切だろう
だが人間の本性を無視して理想に期待する そういう方法的失策が偉人数多の過ち 知恵のなさだっだのだ
右の頬を打たれたら左の頬を出す 貧困層なら逃げ場がなければ、そういった無抵抗による抵抗しかできない
一般層なら袖の下 賄賂を渡して見逃してもらう
それらは方法的な差でしかない
一方
そういった欲求を満たしたい衝動のほうは
富裕層なら賄賂や袖の下と同じ手法で欲求を満たそうとする
貧困層なら強奪 せいぜい恵んでもらうといったところ
これも方向性は同じもので、真実は階層によって善悪は覆されてしまうということ
それは物事は必然的である 理想や奇蹟などないということを示している
まあ
実際、道徳心や理性は大切だろう
だが人間の本性を無視して理想に期待する そういう方法的失策が偉人数多の過ち 知恵のなさだっだのだ
>>384
「3000億」というのは、全文を印刷した「聖書」という本の
発行部数ではなく、ほんの一部分の句だけでも引用されたことのある回数。
四書五経は犯罪聖書と違って、一冊の本として捉えられることは少ないが、
「論語」が「宇宙第一の書」として広く人口に膾炙しているのはもちろんのこと、
「書経」や「詩経」や「易経」などの文言が元号などとして数多く引用されており、
「昭和」や「平成」などの「書経」から引用された言葉が日本の新聞や雑誌などにも
ほぼ必ず日時表記などで引用されているため、その引用回数もン兆回を下らない。
「そんなのは発行部数じゃない」というのも確かだが、犯罪聖書の「3000億」という
数も発行部数ではなく引用回数だから。引用回数でも四書五経は犯罪聖書を桁外れに上回る。
まさにこれも、万人に広く文言の高邁さを触れ回るに値する上での、格の違いだといえる。
「不正な富で友達を作る23年」なんて、絶対に使えないからな。
>>385
うん、まったく本物の道徳や理性について語っているわけじゃない。
人間の本性にも根ざすことで、善因楽果悪因苦果の罪福にすら完全に一致するために、
その道徳に適うことが、すなわち人としての最大級の安楽をも呼び込み、その道徳に
反する犯罪を行うことが、すなわち人としての最大級の辛苦をも呼び込むことに直結する、
「性即理」というほどもの自明な完全性に即した道徳や理性といったものが実在する。
しかしそれは、儒学や朱子学、唯識思想やウパニシャッド哲学などが掲示する本物の道徳や
理性に限っての話であり、プラトンだのアリストテレスだのカントだのヘーゲルだのが
適当に概念をこねくり回して捏造しただけの道徳や理性とは全く異なるものだ。
未だかつて、西洋精神に根ざしての権力犯罪主義を進行させてきた連中が、本物の理性や
道徳を把握したことすらないのはもちろんのこと、その存在性を察知したことすら未だない。
明治以降には儒学も仏教も捨て去って、洋学教育に染まりきってしまった近現代の日本人も、
本物の道徳や理性を把握や察知できていることは極めてまれであり、近ごろ能弁豊かな
Jpfnq/KdHも、本物の道徳や理性の実在性を未だ察知すらできていない部類の人間に入る。
「3000億」というのは、全文を印刷した「聖書」という本の
発行部数ではなく、ほんの一部分の句だけでも引用されたことのある回数。
四書五経は犯罪聖書と違って、一冊の本として捉えられることは少ないが、
「論語」が「宇宙第一の書」として広く人口に膾炙しているのはもちろんのこと、
「書経」や「詩経」や「易経」などの文言が元号などとして数多く引用されており、
「昭和」や「平成」などの「書経」から引用された言葉が日本の新聞や雑誌などにも
ほぼ必ず日時表記などで引用されているため、その引用回数もン兆回を下らない。
「そんなのは発行部数じゃない」というのも確かだが、犯罪聖書の「3000億」という
数も発行部数ではなく引用回数だから。引用回数でも四書五経は犯罪聖書を桁外れに上回る。
まさにこれも、万人に広く文言の高邁さを触れ回るに値する上での、格の違いだといえる。
「不正な富で友達を作る23年」なんて、絶対に使えないからな。
>>385
うん、まったく本物の道徳や理性について語っているわけじゃない。
人間の本性にも根ざすことで、善因楽果悪因苦果の罪福にすら完全に一致するために、
その道徳に適うことが、すなわち人としての最大級の安楽をも呼び込み、その道徳に
反する犯罪を行うことが、すなわち人としての最大級の辛苦をも呼び込むことに直結する、
「性即理」というほどもの自明な完全性に即した道徳や理性といったものが実在する。
しかしそれは、儒学や朱子学、唯識思想やウパニシャッド哲学などが掲示する本物の道徳や
理性に限っての話であり、プラトンだのアリストテレスだのカントだのヘーゲルだのが
適当に概念をこねくり回して捏造しただけの道徳や理性とは全く異なるものだ。
未だかつて、西洋精神に根ざしての権力犯罪主義を進行させてきた連中が、本物の理性や
道徳を把握したことすらないのはもちろんのこと、その存在性を察知したことすら未だない。
明治以降には儒学も仏教も捨て去って、洋学教育に染まりきってしまった近現代の日本人も、
本物の道徳や理性を把握や察知できていることは極めてまれであり、近ごろ能弁豊かな
Jpfnq/KdHも、本物の道徳や理性の実在性を未だ察知すらできていない部類の人間に入る。
残念ながらそうではない、としか言えない。
こちらは、理性も獣性もどちらも、察知して把握して理解して味わっているが、
そちらは、理性を、察知したことも把握したことも理解したことも味わったこともない。
経験を尽くせているのはこちら。尽くせていないのがそちら。
食わず嫌いに幾千万遍の説明を重ねたところで、実際に味わわないことには分かるまい。
こちらは、理性も獣性もどちらも、察知して把握して理解して味わっているが、
そちらは、理性を、察知したことも把握したことも理解したことも味わったこともない。
経験を尽くせているのはこちら。尽くせていないのがそちら。
食わず嫌いに幾千万遍の説明を重ねたところで、実際に味わわないことには分かるまい。
ボクは、理性も道徳も知恵だということから本質を理解しているのは明らかだ
何度も言っただろう?
それは社会性 人間関係に対応するための一手だと
たとえそれが、まるで絶対に当たる宝くじのようなものだったとして
運営する人間や売る人間など様々な人間関係が社会を営んでいるのだ
人間がいるから 人間関係への対応術
そういった後付けである知恵 道徳 理性は、人間の本質や本性を発揮するのを防ぐというカタチで機能するのだ
創始者は、もしかすると人間の本質や本性を理解していたかもしれないが、アナタはそれを読み取れなかったのだよ
何度も言っただろう?
それは社会性 人間関係に対応するための一手だと
たとえそれが、まるで絶対に当たる宝くじのようなものだったとして
運営する人間や売る人間など様々な人間関係が社会を営んでいるのだ
人間がいるから 人間関係への対応術
そういった後付けである知恵 道徳 理性は、人間の本質や本性を発揮するのを防ぐというカタチで機能するのだ
創始者は、もしかすると人間の本質や本性を理解していたかもしれないが、アナタはそれを読み取れなかったのだよ
知恵こそは理性や道徳だなんて、とんでもない。
知識にだって誤謬もあれば、不正な富で友達を作るための悪知恵だってある。
総体的には、知識とは善悪みそくそなものであり、知識自体を勧善懲悪のふるいにかけた上で
仁義や礼儀によって統制していって初めて、本物の道徳や理性にもたどり着く。
だから儒家の五常では「仁義礼智信」という序列で、智を仁義や礼儀の下に置き、
「信仰は愛、愛は信仰」だなんてトートロジーに陥る信も最低位に置く。
知識や信仰ばかりに終始する、ものの考え方からして、極めてのっぺりとした一面的な
ものに過ぎず、単なる知識で割り切ることもできず、一概な狂信で逃げ切ることもできない、
諸法実相の実情ってもんが、ちゃんとあるもんだ。未熟なお子ちゃまにはまだ分かるまいが。
「凡そ五刑の聽を聴くには、必ず父子の親に原き、君臣の義を立て、以て之れを權り、
意いて輕重の序を論じ、慎みて淺深の量を測り、以之れを別ち、其の聰明を悉くし、其の忠愛を致して、以て之れを盡くす」
「五刑(いれずみ、はなそぎ、あしきり、去勢、死刑の五つ)を科すような重罪を裁く上では、
必ず父子の親に基づき、君臣の義を立てて、その罪状を量る。その上で罪の軽重の序列を論じ、
慎んでその深浅の度量を測り、それぞれの刑に罪人を割り当て、聡明さを尽くし、忠愛の至りでいて、これらの業務を尽くす。
(カルト信者の『信愛』にも近似する『忠愛』も致すわけだが、刑を科す側はただそれだけでは済まない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
知識にだって誤謬もあれば、不正な富で友達を作るための悪知恵だってある。
総体的には、知識とは善悪みそくそなものであり、知識自体を勧善懲悪のふるいにかけた上で
仁義や礼儀によって統制していって初めて、本物の道徳や理性にもたどり着く。
だから儒家の五常では「仁義礼智信」という序列で、智を仁義や礼儀の下に置き、
「信仰は愛、愛は信仰」だなんてトートロジーに陥る信も最低位に置く。
知識や信仰ばかりに終始する、ものの考え方からして、極めてのっぺりとした一面的な
ものに過ぎず、単なる知識で割り切ることもできず、一概な狂信で逃げ切ることもできない、
諸法実相の実情ってもんが、ちゃんとあるもんだ。未熟なお子ちゃまにはまだ分かるまいが。
「凡そ五刑の聽を聴くには、必ず父子の親に原き、君臣の義を立て、以て之れを權り、
意いて輕重の序を論じ、慎みて淺深の量を測り、以之れを別ち、其の聰明を悉くし、其の忠愛を致して、以て之れを盡くす」
「五刑(いれずみ、はなそぎ、あしきり、去勢、死刑の五つ)を科すような重罪を裁く上では、
必ず父子の親に基づき、君臣の義を立てて、その罪状を量る。その上で罪の軽重の序列を論じ、
慎んでその深浅の度量を測り、それぞれの刑に罪人を割り当て、聡明さを尽くし、忠愛の至りでいて、これらの業務を尽くす。
(カルト信者の『信愛』にも近似する『忠愛』も致すわけだが、刑を科す側はただそれだけでは済まない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
それは道徳を発揮するための手段 方法的解釈に過ぎないでしょう
社会がある 人間関係があるから必要とされる後天的に編み出された知恵に等しいんだよ 分類としてはね
考えることができる人間が居なければ成立しない平和への方法論の一説に過ぎない 道徳は
人間関係がある
それへの対処術に過ぎないの
言語教育されて、学問や教養をある程度理解した人間にしか通用しない
限定的な方法論なんだよ
つまり人間関係だ
教育されてない人間には通用しない
社会があることを前提にして考えているから、本性なんて考えに及ばないだけだ
社会がある 人間関係があるから必要とされる後天的に編み出された知恵に等しいんだよ 分類としてはね
考えることができる人間が居なければ成立しない平和への方法論の一説に過ぎない 道徳は
人間関係がある
それへの対処術に過ぎないの
言語教育されて、学問や教養をある程度理解した人間にしか通用しない
限定的な方法論なんだよ
つまり人間関係だ
教育されてない人間には通用しない
社会があることを前提にして考えているから、本性なんて考えに及ばないだけだ
カテゴリーわけが「知者か無知」かの両極端ばかりに止まっていて、それ以上に進むことがない。
無知でも賢者であるものは賢者だし、知者でも悪人であるものは悪人。
不正な富で友達を作る知識にかけては豊富であっても、道義に基づかなければ富を得ない
心構えにかけては脆弱な人間などは、知者であるにも関わらず悪人となり、なまじ不当利得の
具体的な得方などを知っているぶんだけ、全くの無知よりもさらに有害無益な存在となる。
上記の事例を参考にするなら、「不正な富で友達を作る」という知識はあっても、
そのような知識は絶対に実用しないという心構えがあって、実際に実用せず、かえって
不当利得を得る詐欺師どもを捕縛して懲罰する材料にすら転用できるようになれた場合に限って、
初めて「不正な富で友達を作る」という知識までもが善用されることになるのであり、
そこまでのことは、ただ「不正な富で友達を作る」という知識を得ただけでは、到底実現し得ない。
「富貴は道義に基づかなければ得ない」という知識もまた別に得て、不正な富で友達を作る
知識などよりも、道義に基づかない限りは富貴を得ない心構えのほうが重要であることを十分に
わきまえなければ、「不正な富で友達を作る」という知識が善用されることなど、絶対にない。
知識それ自体は、善用も悪用も可能な諸刃の剣であり、もしも悪用一辺倒に偏ってしまったりしたなら、
それこそ何も知らない人間以上にも有害無益で劣悪な非道徳者=犯罪者となることが必定。
知識を悪用せずに善用するという、知識全般の制御方法にかけて手堅い人間であることでのみ、
何も知らない人間以上にも有益無害で優良な非犯罪者=道徳者となることができるのだ。
無知でも賢者であるものは賢者だし、知者でも悪人であるものは悪人。
不正な富で友達を作る知識にかけては豊富であっても、道義に基づかなければ富を得ない
心構えにかけては脆弱な人間などは、知者であるにも関わらず悪人となり、なまじ不当利得の
具体的な得方などを知っているぶんだけ、全くの無知よりもさらに有害無益な存在となる。
上記の事例を参考にするなら、「不正な富で友達を作る」という知識はあっても、
そのような知識は絶対に実用しないという心構えがあって、実際に実用せず、かえって
不当利得を得る詐欺師どもを捕縛して懲罰する材料にすら転用できるようになれた場合に限って、
初めて「不正な富で友達を作る」という知識までもが善用されることになるのであり、
そこまでのことは、ただ「不正な富で友達を作る」という知識を得ただけでは、到底実現し得ない。
「富貴は道義に基づかなければ得ない」という知識もまた別に得て、不正な富で友達を作る
知識などよりも、道義に基づかない限りは富貴を得ない心構えのほうが重要であることを十分に
わきまえなければ、「不正な富で友達を作る」という知識が善用されることなど、絶対にない。
知識それ自体は、善用も悪用も可能な諸刃の剣であり、もしも悪用一辺倒に偏ってしまったりしたなら、
それこそ何も知らない人間以上にも有害無益で劣悪な非道徳者=犯罪者となることが必定。
知識を悪用せずに善用するという、知識全般の制御方法にかけて手堅い人間であることでのみ、
何も知らない人間以上にも有益無害で優良な非犯罪者=道徳者となることができるのだ。
知識を悪用と言うが、それが生きることそのものなのだ
道徳者が養ってくれる期待などないし、生活の糧を得るためなら何でもする
窃盗や売春などは犯罪とか言われているが、実際には生存戦略に過ぎないだろう
道徳で生きるのが物事は相互作用するために正解だとかは理想だが、現代社会はすでに生活自体が犯罪的なものだ
物事は必然的だ
貧しかろうが盗ってでも殺してでも生きる
それが生命の本質だ
また、権力者がさらなる支配欲を抱くことも必然だ
人間一人ひとりの言動が作用して世情はつくられる
理想など掲げて立ち止まっている道徳者に何ができるんだ?
欲望と道徳が並んで売られたら道徳は売れ残る
というか売れない
魅力がないからだ
無料で配っても受け取ってもらえない
邪魔にしかならないから
必然である現在に異を唱えても何も変化はしない
結果的な善で妥協できない 苦難も見えていないフリをしてきた
それが道徳者の歴史だ
犯罪であっても革命を遂げた結果的な善でいいのだ
自分のためではない崇高な目的意識が罪を贖うだろう
道徳者が養ってくれる期待などないし、生活の糧を得るためなら何でもする
窃盗や売春などは犯罪とか言われているが、実際には生存戦略に過ぎないだろう
道徳で生きるのが物事は相互作用するために正解だとかは理想だが、現代社会はすでに生活自体が犯罪的なものだ
物事は必然的だ
貧しかろうが盗ってでも殺してでも生きる
それが生命の本質だ
また、権力者がさらなる支配欲を抱くことも必然だ
人間一人ひとりの言動が作用して世情はつくられる
理想など掲げて立ち止まっている道徳者に何ができるんだ?
欲望と道徳が並んで売られたら道徳は売れ残る
というか売れない
魅力がないからだ
無料で配っても受け取ってもらえない
邪魔にしかならないから
必然である現在に異を唱えても何も変化はしない
結果的な善で妥協できない 苦難も見えていないフリをしてきた
それが道徳者の歴史だ
犯罪であっても革命を遂げた結果的な善でいいのだ
自分のためではない崇高な目的意識が罪を贖うだろう
知識 知能 知恵 そんなものは個性に過ぎないんだよ
道徳や理性も発想が社会性に対処する目的なのだから個性に等しいってものだ
そんなていどの個性差は決定的な個人差にはならないぞ 格 尽 自惚れるな
道徳や理性も発想が社会性に対処する目的なのだから個性に等しいってものだ
そんなていどの個性差は決定的な個人差にはならないぞ 格 尽 自惚れるな
私の趣味は道徳ですって言ってるだけだろ
他者を害して自分が栄える犯罪的知識が、一応は生存目的で存在するのと同じように、
万人を利して我が利ともする道徳的知識もまた、人が生きることを目的として存在する。
しかも、世を破滅に陥れて結局は己れの破滅をも導く犯罪的知識とは違って、
道徳的知識は誰しもの利益を守ることによって、結局は犯罪的知識以上もの
普遍的な繁栄を、自らを含む誰しもにもたらす。
万人を害して我をも害する犯罪的知識が、むしろ何も知らないでいるほうがマシなぐらいに劣悪なものであるのに対し、
万人を利して我が利ともする道徳的知識は、何も知らないでいる以上にも有益無害であるほどにも優良なものですらある。
犯罪的知識<全くの無知<道徳的知識
ですらあり、この優劣は確実に人類社会や自分自身の栄枯盛衰の如何にも直結している。
信じるまいが支持するまいが、ただ事実であるというだけの事実だ。
犯罪的知識を排して道徳的知識のみを賞揚すれば、無知無学以上もの人間や社会にすらなることができる。
それなのに「知識すなわち犯罪的知識」などというほどにも蒙昧な迷妄の内側に閉じこもって出てこない。
だったらもう、その狭隘な見識だけでなく、自分自身の全身から、閉鎖病棟にでも閉じこもらせておくべきだな。
万人を利して我が利ともする道徳的知識もまた、人が生きることを目的として存在する。
しかも、世を破滅に陥れて結局は己れの破滅をも導く犯罪的知識とは違って、
道徳的知識は誰しもの利益を守ることによって、結局は犯罪的知識以上もの
普遍的な繁栄を、自らを含む誰しもにもたらす。
万人を害して我をも害する犯罪的知識が、むしろ何も知らないでいるほうがマシなぐらいに劣悪なものであるのに対し、
万人を利して我が利ともする道徳的知識は、何も知らないでいる以上にも有益無害であるほどにも優良なものですらある。
犯罪的知識<全くの無知<道徳的知識
ですらあり、この優劣は確実に人類社会や自分自身の栄枯盛衰の如何にも直結している。
信じるまいが支持するまいが、ただ事実であるというだけの事実だ。
犯罪的知識を排して道徳的知識のみを賞揚すれば、無知無学以上もの人間や社会にすらなることができる。
それなのに「知識すなわち犯罪的知識」などというほどにも蒙昧な迷妄の内側に閉じこもって出てこない。
だったらもう、その狭隘な見識だけでなく、自分自身の全身から、閉鎖病棟にでも閉じこもらせておくべきだな。
諦めずにってのは守ってるようだけど、己が無能なのだと律する度量はないのね
無能の、何が悪いよ?
犯罪行為にかけてばかり有能であるために、世の中に破滅級の害悪を加えている連中などよりも、
何の能もないような凡人であるほうが、遥かにマシであるに決まってるじゃないか。
実践的な道徳行為にかけて有能であるのならなおのことよいが、
別にいかなる行為にかけても無能であるだけの凡人だって、
犯罪行為や権力犯罪行為にかけて有能である賤人などよりも、
有害無益でない無害無益であるぶん、限りなくマシであるに決まってるじゃないか。
それだけでも、十分じゃないか。
重権力犯罪下の総員テロリスト化社会において、
紛れもなく「天下に雄」たる存在である根拠として、十分過ぎるにも程がある。
犯罪行為にかけてばかり有能であるために、世の中に破滅級の害悪を加えている連中などよりも、
何の能もないような凡人であるほうが、遥かにマシであるに決まってるじゃないか。
実践的な道徳行為にかけて有能であるのならなおのことよいが、
別にいかなる行為にかけても無能であるだけの凡人だって、
犯罪行為や権力犯罪行為にかけて有能である賤人などよりも、
有害無益でない無害無益であるぶん、限りなくマシであるに決まってるじゃないか。
それだけでも、十分じゃないか。
重権力犯罪下の総員テロリスト化社会において、
紛れもなく「天下に雄」たる存在である根拠として、十分過ぎるにも程がある。
道徳者の問題点は、そんな理想では現代生活はできないということだよ
独り者ならいざ知らず、妻帯者なら家族の糧も社会の中で得なくてはならない
その社会性に道徳などで向かっても太刀打ちできない
権力者などや富裕層の構築した社会性だから、権力者や富裕層に楯突けば糧を失う
一方
権力者や富裕層は、元々困ってもいないのに自らを狭める道徳など持つ必要性がない
これは必然なのだ
道徳者の歴史も妥協を余儀なくされるか、孤高のたわけ者としてしか存在していない
せいぜい権力を確固たるものにするための悪徳者の論理的根拠に成り下がるくらいか
悪法の味方として 小判鮫のように生き残るくらいしかできない
そんなヤツらが道徳を機能できる道理がない
まあ、中には厳しい社会で変化を恐れてマヌケな信念を貫く 貫き続けた無能な道徳者も居るだろうが
ボクは道徳者に結果的な善を勧めたが
これでは結果的な無能だな
たしかに悪ではないよ
しかし結果的には賢くもないし その頑なさはバカ徳に執着する 浅ましいケダモノのようだぞ
独り者ならいざ知らず、妻帯者なら家族の糧も社会の中で得なくてはならない
その社会性に道徳などで向かっても太刀打ちできない
権力者などや富裕層の構築した社会性だから、権力者や富裕層に楯突けば糧を失う
一方
権力者や富裕層は、元々困ってもいないのに自らを狭める道徳など持つ必要性がない
これは必然なのだ
道徳者の歴史も妥協を余儀なくされるか、孤高のたわけ者としてしか存在していない
せいぜい権力を確固たるものにするための悪徳者の論理的根拠に成り下がるくらいか
悪法の味方として 小判鮫のように生き残るくらいしかできない
そんなヤツらが道徳を機能できる道理がない
まあ、中には厳しい社会で変化を恐れてマヌケな信念を貫く 貫き続けた無能な道徳者も居るだろうが
ボクは道徳者に結果的な善を勧めたが
これでは結果的な無能だな
たしかに悪ではないよ
しかし結果的には賢くもないし その頑なさはバカ徳に執着する 浅ましいケダモノのようだぞ
本物の道徳や道徳者の実在を、未だ察知もしてないうちから、俺への反論を試みるんじゃねえよ。
別に、俺はおまえが言っている「道徳」だの「道徳者」だのを擁護しているわけでもないからな。
誰しもがただただ生存や家族ぐるみの生活を欲するあまり、自分たち以上もの人数の人間を
破滅や犠牲に追いやるのなら、そもそもそんな社会不適合者たちが生存欲や人並みの生活
すらをも欲するところからして間違っている。そんな連中全員が檻の中や閉鎖病棟の中に入るか、
最低でも後見人が付けられての、全ての行為能力が管理下におかれた被後見人になるべきだ。
それでこそ、より多くの人間が生存し、家族も十分に養いつつの生活すらをも実現できる。
他者に致命的な危害を加えつつの生存や家庭生活を試みて、実際に達成までしてしまうような人種が
ありのままに「社会のガン細胞」であり、そんな連中の自由な社会介入を微塵も許してはならない。
そこから初めて、権力道徳の実現も適うのであり、他者に危害を加えてでも自分が活きようとするような
重度精神障害者への適切な処分も行われないうちから、権力道徳を実現していこうだなんて考えるほうが
全くの絵空事であり、俺はそんなことはちっとも期待していない。そんなものを期待しているなどと
思い込んでるのも、そちらの全くの勘違いであり、何かにかけて俺と話す上での準備が整っていない。
別に、俺はおまえが言っている「道徳」だの「道徳者」だのを擁護しているわけでもないからな。
誰しもがただただ生存や家族ぐるみの生活を欲するあまり、自分たち以上もの人数の人間を
破滅や犠牲に追いやるのなら、そもそもそんな社会不適合者たちが生存欲や人並みの生活
すらをも欲するところからして間違っている。そんな連中全員が檻の中や閉鎖病棟の中に入るか、
最低でも後見人が付けられての、全ての行為能力が管理下におかれた被後見人になるべきだ。
それでこそ、より多くの人間が生存し、家族も十分に養いつつの生活すらをも実現できる。
他者に致命的な危害を加えつつの生存や家庭生活を試みて、実際に達成までしてしまうような人種が
ありのままに「社会のガン細胞」であり、そんな連中の自由な社会介入を微塵も許してはならない。
そこから初めて、権力道徳の実現も適うのであり、他者に危害を加えてでも自分が活きようとするような
重度精神障害者への適切な処分も行われないうちから、権力道徳を実現していこうだなんて考えるほうが
全くの絵空事であり、俺はそんなことはちっとも期待していない。そんなものを期待しているなどと
思い込んでるのも、そちらの全くの勘違いであり、何かにかけて俺と話す上での準備が整っていない。
ちがうね
大切なのは方法であり
方法も確立しているにもかかわらず何も成せない事実
時も人間もどんどん孔子の時代を追いやって内容的に書きかえられていくのに、方法は未だに同じく壁に向かってお経を唱えるが如く理想しか発しない
方法が間違ってるんだよ
大切なのは方法であり
方法も確立しているにもかかわらず何も成せない事実
時も人間もどんどん孔子の時代を追いやって内容的に書きかえられていくのに、方法は未だに同じく壁に向かってお経を唱えるが如く理想しか発しない
方法が間違ってるんだよ
何も成し遂げられていないどころか、最大級の成果を挙げてすらいる。
道理をわきまえた上で果敢に振る舞おうとする人々のうちでは、
現人類社会において最大級の成果を挙げているとすらいえる。
それほどにも、道理をわきまえつつ果敢に振る舞える「大勇」の持ち主が、
今の世の中にまったく欠乏しているというだけのことでもあるが。
「果敢にして窒がれる者を悪む」
「甚大な結果を出そうとして、勇敢に事に臨もうとはするものの、
そもそも道理すらわきまえられていないものを君子は憎む」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・陽貨第十七・二四より)
道理をわきまえた上で果敢に振る舞おうとする人々のうちでは、
現人類社会において最大級の成果を挙げているとすらいえる。
それほどにも、道理をわきまえつつ果敢に振る舞える「大勇」の持ち主が、
今の世の中にまったく欠乏しているというだけのことでもあるが。
「果敢にして窒がれる者を悪む」
「甚大な結果を出そうとして、勇敢に事に臨もうとはするものの、
そもそも道理すらわきまえられていないものを君子は憎む」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・陽貨第十七・二四より)
欠乏じゃなく存在しない
それは前に書いたように社会生活に反していて糧にならないからだ
即成果がなければ実用的ではないと判断される
それも必然
頭の中では完成したつもりでも、それは他人が思い通りに動くハズがないという現実を無視してきたからだ
後から結果はジワジワとやってくる
そんな詐欺みたいな主張を信じる道理はない
時間的な損は経済的な損に直結するんだ
そういった早い展開で成し得ることが生活なのだ
のんびり待つ人間はおいてけぼりになる
ジワジワやってくるのは後悔だけになる
産業革命を知らない孔子がスピードを意識してないのは仕方ない
即効力がないことをいくら考えても過ぎ去ったことに言い訳をしているようなものだ
それは前に書いたように社会生活に反していて糧にならないからだ
即成果がなければ実用的ではないと判断される
それも必然
頭の中では完成したつもりでも、それは他人が思い通りに動くハズがないという現実を無視してきたからだ
後から結果はジワジワとやってくる
そんな詐欺みたいな主張を信じる道理はない
時間的な損は経済的な損に直結するんだ
そういった早い展開で成し得ることが生活なのだ
のんびり待つ人間はおいてけぼりになる
ジワジワやってくるのは後悔だけになる
産業革命を知らない孔子がスピードを意識してないのは仕方ない
即効力がないことをいくら考えても過ぎ去ったことに言い訳をしているようなものだ
削除(by投稿者)
仁強なる壮士がこの世に存在しようがするまいが、
おまえらが他者に危害を加えることで自分たち自身の栄華を誇る、
社会の少数派のガン細胞格であることにも変わりはない。
そんな連中にとって得になるようなことほど、世の中にとって損になることは他にないのであり、
そもそもそんな連中が軒並みこの世から廃絶されて、後の世にもガンが再発することのないような
予防措置に努めるように画策していくのが、真に世のため人のためになるものの考え方ってものだ。
俺が要求しようがするまいが、世の中にとって有害無益なガン細胞格であるおまえらが
自分たちのみを増長させるペースを貫いて、世の中を破滅へと導き続けたなら、
もう数十年と世の中のほうがもたないから、イヤでもおまえら自身が自決するしかない。
そうでもなければ、おまえらごと世の中全体が滅亡するしかないのだから。
俺もまた、今がそういう時宜だから、都合よくその時宜に乗っかっているだけだ。
「五月斯螽股を動かし、六月莎鶏羽を振るう。七月野に在り、八月宇に在り、九月戸に在り。
十月蟋蟀、我が牀下に入る。穹窒して鼠を熏べ、向を塞ぎ戸を墐る」
「五月にはイナゴが股を動かして鳴き出し、六月にはクツワムシが羽を振って鳴き始める。
小虫たちが七月には野にあり、八月には家の軒下に近寄り、九月には戸口の前にやってくる。
外も寒気がさし始めた十月には、小虫たちはついには床の中にまで入ってこようとする。
そこで部屋のありとあらゆる穴を塞いで燻すことで元からいる鼠などを追い出し、
窓も塞いで戸口の隙間も塗り固めて、小虫たちが入ってこないようにする。
(キリストとは、大量発生したイナゴかクツワムシのようなものか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・豳風・七月より)
おまえらが他者に危害を加えることで自分たち自身の栄華を誇る、
社会の少数派のガン細胞格であることにも変わりはない。
そんな連中にとって得になるようなことほど、世の中にとって損になることは他にないのであり、
そもそもそんな連中が軒並みこの世から廃絶されて、後の世にもガンが再発することのないような
予防措置に努めるように画策していくのが、真に世のため人のためになるものの考え方ってものだ。
俺が要求しようがするまいが、世の中にとって有害無益なガン細胞格であるおまえらが
自分たちのみを増長させるペースを貫いて、世の中を破滅へと導き続けたなら、
もう数十年と世の中のほうがもたないから、イヤでもおまえら自身が自決するしかない。
そうでもなければ、おまえらごと世の中全体が滅亡するしかないのだから。
俺もまた、今がそういう時宜だから、都合よくその時宜に乗っかっているだけだ。
「五月斯螽股を動かし、六月莎鶏羽を振るう。七月野に在り、八月宇に在り、九月戸に在り。
十月蟋蟀、我が牀下に入る。穹窒して鼠を熏べ、向を塞ぎ戸を墐る」
「五月にはイナゴが股を動かして鳴き出し、六月にはクツワムシが羽を振って鳴き始める。
小虫たちが七月には野にあり、八月には家の軒下に近寄り、九月には戸口の前にやってくる。
外も寒気がさし始めた十月には、小虫たちはついには床の中にまで入ってこようとする。
そこで部屋のありとあらゆる穴を塞いで燻すことで元からいる鼠などを追い出し、
窓も塞いで戸口の隙間も塗り固めて、小虫たちが入ってこないようにする。
(キリストとは、大量発生したイナゴかクツワムシのようなものか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・豳風・七月より)
アナタの道徳心なんて実は郷土愛ていどのものなんじゃないのか?
愛国心を持つヤカラと同じく
自身に近しい土地柄や人物情景だけしか知らないのに、世の中を憂いでいる気になっただけじゃないのか?
同じく孔子のことも深く知る前に信じてしまって、周囲がみえなくなってしまった ちがうと言えるのか?
社会の物事は知識からなっている 人間の心と言い換えてもいいが
何がホンモノかなんてのは疑念(知恵)を以て注意深く捉えなければホンモノなんてみえないんだ
疑わなければホントウの真理には到達できないんだぞ
愛国心を持つヤカラと同じく
自身に近しい土地柄や人物情景だけしか知らないのに、世の中を憂いでいる気になっただけじゃないのか?
同じく孔子のことも深く知る前に信じてしまって、周囲がみえなくなってしまった ちがうと言えるのか?
社会の物事は知識からなっている 人間の心と言い換えてもいいが
何がホンモノかなんてのは疑念(知恵)を以て注意深く捉えなければホンモノなんてみえないんだ
疑わなければホントウの真理には到達できないんだぞ
ところでこの二つの引用を見てくれ。こいつをどう思う?
「見よ、わたし(イエス・キリスト)は戸口に立って、(自分の股を)たたいている。
だれかわたしの声(羽音)を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入って
その者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」
(権力犯罪聖書——通称聖書——ヨハネ譫妄録3:20)
「五月にはイナゴが股を動かして鳴き出し、六月にはクツワムシが羽を振って鳴き始める。
小虫たちが七月には野にあり、八月には家の軒下に近寄り、九月には戸口の前にやってくる。
外も寒気がさし始めた十月には、小虫たちはついには床の中にまで入ってこようとする。
そこで部屋のありとあらゆる穴を塞いで燻すことで元からいる鼠などを追い出し、
窓も塞いで戸口の隙間も塗り固めて、小虫たちが入ってこないようにする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・豳風・七月より)
他人の家にずうずうしくもあがり込んで、よそ様の飯を対等な立場で
食らおうとする、お下劣な強盗気質がよく表現されてんな。どちらも。
かたや作中の最重要人物でもあるメシア、かたやイナゴとクツワムシ、ではあるが。
「見よ、わたし(イエス・キリスト)は戸口に立って、(自分の股を)たたいている。
だれかわたしの声(羽音)を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入って
その者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」
(権力犯罪聖書——通称聖書——ヨハネ譫妄録3:20)
「五月にはイナゴが股を動かして鳴き出し、六月にはクツワムシが羽を振って鳴き始める。
小虫たちが七月には野にあり、八月には家の軒下に近寄り、九月には戸口の前にやってくる。
外も寒気がさし始めた十月には、小虫たちはついには床の中にまで入ってこようとする。
そこで部屋のありとあらゆる穴を塞いで燻すことで元からいる鼠などを追い出し、
窓も塞いで戸口の隙間も塗り固めて、小虫たちが入ってこないようにする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・豳風・七月より)
他人の家にずうずうしくもあがり込んで、よそ様の飯を対等な立場で
食らおうとする、お下劣な強盗気質がよく表現されてんな。どちらも。
かたや作中の最重要人物でもあるメシア、かたやイナゴとクツワムシ、ではあるが。
強盗も人間だ
行為は卑劣かもしれないが昨今の社会 とくに住む国や地域に照らして考えなければ真実とは言えない
日本だったとしたら最近になって餓死者が居ると
金もなく食料も尽きて電気ガス水道も止められ身内も居ない
そんな老人が餓死したとここ数年で聞くようになってきた
それに堪えることは美徳なのか?盗んででも食うのが己の本音のハズなのに
本音を隠して道徳的に振る舞うことで苦難に陥るくらいなら己の本音に従えばいい 自然の営みに身を任せてしまえば
それが窃盗や強盗だったとしたなら何が悪いんだ?
それは欲かも知れないが、自然の営みだ
原因が怠け者ということだとしても下品堕落もヒトのサガ
己の本音から目を背けて何を求めるというんだ?
幸せは本音の中にしかないんだ
しかし
己の欲ばかり満たしていたら社会性は成り立たない、が、必要以上に本音を抑制しても自分とはなんなんだろう?となる
そうやって知恵(疑念)で以て考えなければ真理には到達しない
餓死者が道徳的に他者を意識 配慮しての結果なら道徳なんか必要ないだろう
一人ひとりの本音に一人ひとりの幸福がある
その現実をシッカリと見据える 欲望を肯定する
その一方で
一人ひとりの幸福の根底である社会性にはみんなで配慮しなければならない
これは
ただの道徳者には荷が重いと思うね
行為は卑劣かもしれないが昨今の社会 とくに住む国や地域に照らして考えなければ真実とは言えない
日本だったとしたら最近になって餓死者が居ると
金もなく食料も尽きて電気ガス水道も止められ身内も居ない
そんな老人が餓死したとここ数年で聞くようになってきた
それに堪えることは美徳なのか?盗んででも食うのが己の本音のハズなのに
本音を隠して道徳的に振る舞うことで苦難に陥るくらいなら己の本音に従えばいい 自然の営みに身を任せてしまえば
それが窃盗や強盗だったとしたなら何が悪いんだ?
それは欲かも知れないが、自然の営みだ
原因が怠け者ということだとしても下品堕落もヒトのサガ
己の本音から目を背けて何を求めるというんだ?
幸せは本音の中にしかないんだ
しかし
己の欲ばかり満たしていたら社会性は成り立たない、が、必要以上に本音を抑制しても自分とはなんなんだろう?となる
そうやって知恵(疑念)で以て考えなければ真理には到達しない
餓死者が道徳的に他者を意識 配慮しての結果なら道徳なんか必要ないだろう
一人ひとりの本音に一人ひとりの幸福がある
その現実をシッカリと見据える 欲望を肯定する
その一方で
一人ひとりの幸福の根底である社会性にはみんなで配慮しなければならない
これは
ただの道徳者には荷が重いと思うね
人が最低限の生存を欲することと、
権力犯罪によって何億何兆ドルもの利権を貪ることとは、全く同一ではない。
むしろ、個人や少数派の分際で、ただ生きていく上では全く必要としないような
法外な暴利を貪る重権力犯罪者どもが跳梁跋扈しているからこそ、
最低限の生活すらも保証されない、件の老人のような犠牲者も生まれる。
(国外に目を向ければ、国全体がそんな状態のままの国すら多数ある)
少数の大悪人の限りない貪欲によって、多数の人々の最低限の生活すらもが蔑ろにされる、
そんな最悪の惨状だけは避けるために、最悪級の重権力犯罪者だけは檻の中や閉鎖病棟に完全に隔離し、
それによって、なるべく多くの人々に、最低限の生活ぐらいは保証してやるのが権力道徳というもの。
結局、世の中全体という大局に対して、最悪の権力犯罪ぐらいは駆逐する権力道徳を適用したほうが、
より多くの人々が福徳に与れる一方で、最悪の権力犯罪すら野放しにしたほうが、より多くの人々が
最低限の福徳にすら与れない、最悪の破滅にまで追い込まれるという法則が普遍性を帯びている。
最低限の生活すら保証されることなく、ひっそりと孤独死していった老人の場合などを鑑みて、
「人の本性は強盗だから最悪の権力犯罪すら認めるべきだ」などと主張するのも全くの欺瞞で、
むしろそのような荒廃社会の犠牲者を生まないためにこそ、最悪の権力犯罪ぐらいは完全に駆逐して、
「人の本性は強盗か大量発生したイナゴも同然である」というような、社会風紀をより
劣悪化させるような、積極的な暴言から未然に排していくようにしなければならない。
権力犯罪によって何億何兆ドルもの利権を貪ることとは、全く同一ではない。
むしろ、個人や少数派の分際で、ただ生きていく上では全く必要としないような
法外な暴利を貪る重権力犯罪者どもが跳梁跋扈しているからこそ、
最低限の生活すらも保証されない、件の老人のような犠牲者も生まれる。
(国外に目を向ければ、国全体がそんな状態のままの国すら多数ある)
少数の大悪人の限りない貪欲によって、多数の人々の最低限の生活すらもが蔑ろにされる、
そんな最悪の惨状だけは避けるために、最悪級の重権力犯罪者だけは檻の中や閉鎖病棟に完全に隔離し、
それによって、なるべく多くの人々に、最低限の生活ぐらいは保証してやるのが権力道徳というもの。
結局、世の中全体という大局に対して、最悪の権力犯罪ぐらいは駆逐する権力道徳を適用したほうが、
より多くの人々が福徳に与れる一方で、最悪の権力犯罪すら野放しにしたほうが、より多くの人々が
最低限の福徳にすら与れない、最悪の破滅にまで追い込まれるという法則が普遍性を帯びている。
最低限の生活すら保証されることなく、ひっそりと孤独死していった老人の場合などを鑑みて、
「人の本性は強盗だから最悪の権力犯罪すら認めるべきだ」などと主張するのも全くの欺瞞で、
むしろそのような荒廃社会の犠牲者を生まないためにこそ、最悪の権力犯罪ぐらいは完全に駆逐して、
「人の本性は強盗か大量発生したイナゴも同然である」というような、社会風紀をより
劣悪化させるような、積極的な暴言から未然に排していくようにしなければならない。
「屠られて」を「奢られて」と誤記しているようだが。
「屠殺」という、日本では最も下賤な部類とされてきた所業が、キリスト信仰の
本質であることを日本国内でひけらかすことには、さすがに躊躇を抱くのだろうか?
日本で屠殺業が特に賤しみの対象とされたのは、日本に魚食文化が豊富で、牛や豚などの肉から
タンパク源を摂取する必要があまりなかったからで、内陸国でもある中国などの場合には、
獣肉も重要なタンパク源だったから、屠殺業が「産業」だから差別されるということはあっても、
産業の中でも突出して差別の対象にされるということまではなかった。
ただ、産業階級はともかく、為政者たるものが血を見る仕事を好き好むようなことは
なるべく避けるべきであるため、孟子も斉の宣王に以下のような言葉を述べている。
「屠殺」という、日本では最も下賤な部類とされてきた所業が、キリスト信仰の
本質であることを日本国内でひけらかすことには、さすがに躊躇を抱くのだろうか?
日本で屠殺業が特に賤しみの対象とされたのは、日本に魚食文化が豊富で、牛や豚などの肉から
タンパク源を摂取する必要があまりなかったからで、内陸国でもある中国などの場合には、
獣肉も重要なタンパク源だったから、屠殺業が「産業」だから差別されるということはあっても、
産業の中でも突出して差別の対象にされるということまではなかった。
ただ、産業階級はともかく、為政者たるものが血を見る仕事を好き好むようなことは
なるべく避けるべきであるため、孟子も斉の宣王に以下のような言葉を述べている。

王之れを見て曰く、牛之れ何するぞ。對えて曰く、將に以て鐘に釁んとす。王曰く、之れを舍け。
吾れ其の觳觫の若く罪無くして死地に就くに忍びざるなり。對えて曰く、然れば則ち鐘に釁んことを廃めんか。
曰く、何ぞ廃む可けんや。羊を以て之れに易えよと。諸れ識らず有るや。曰く、之れ有り。曰く、是の心以て王たるに足れり」
「私(孟子)は家臣の胡齕氏からこのようなことを聞きました。王様が以前殿堂上に座して居られましたときに、
牛を牽きつつ堂下を通り過ぎる者があったそうです。王様はこれを見て言われました。『おい、その牛をどうするつもりだ』
すると牛を牽く者は『今度新しく作られました鐘に、この牛の血を塗ってお祈りをするのです』と正直に答えました。
すると王様は言われました。『やめるのだ。わしはその牛のようにおどおどしながら、罪もなく刑死に向かおうと
している者を見るのに忍びんのだ』 『それでは今回の血塗りの儀式は取り止めにいたしましょうか』と牽牛者が答えますと、
『なぜ大切な儀式を取り止めにできようか。羊に替えて行え』と言われたそうです。これはまことのことでしょうか。
(王は『本当のことだ』と答えた。それに対して孟子)これこそは、王たるに相応しい慈悲心の表れに他なりません」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・七より)
キリストがイナゴも同然の品性の持ち主であることは>>407の引用からも明らかだが、
本当に、イナゴぐらいぐらいにしとくべきなんだ。人々にとっての犠牲なんてのは。
聖書は都合よく書きかえらて、さらに都合よく読み間違えられているということだと思います
たとえば
キリストが救世主だろうと腹が減ったなら食料を分けてもらえばいいし
釈迦も孔子も同じく分けてもらえばいい
そんなことぐらいで己のスタンスが変わるハズがない
救世主だとか権力者だとか一般市民だとか
そんなものは役割に過ぎないものでミソもクソもない
エラくなんかない
救世主だろうと
欲求を抑制ばかりしていても、それは本音から目を背けているだけでしかない
クソミソの中にある真なる己の在り方を見いだすことが真理なんだ
なによりも本音を隠しているのが悪いんだ
救世主と逆の悪なる存在がいたとしても同じこと
悪いことをしているというのは理解しているのにやってしまう
本音を出せばいいんだ
ホントウは傷付けたくないのに他の手段を見いだすことができない
世の中の厳しさは正邪に関係なく誰もが知るところで、道徳律(やってはいけないこと)を理解してはいるんだ
権力者もホントウは色々と思いやっているハズなんだ
それらすべての人間の本性を 本音を発揮させてやる
たとえば
キリストが救世主だろうと腹が減ったなら食料を分けてもらえばいいし
釈迦も孔子も同じく分けてもらえばいい
そんなことぐらいで己のスタンスが変わるハズがない
救世主だとか権力者だとか一般市民だとか
そんなものは役割に過ぎないものでミソもクソもない
エラくなんかない
救世主だろうと
欲求を抑制ばかりしていても、それは本音から目を背けているだけでしかない
クソミソの中にある真なる己の在り方を見いだすことが真理なんだ
なによりも本音を隠しているのが悪いんだ
救世主と逆の悪なる存在がいたとしても同じこと
悪いことをしているというのは理解しているのにやってしまう
本音を出せばいいんだ
ホントウは傷付けたくないのに他の手段を見いだすことができない
世の中の厳しさは正邪に関係なく誰もが知るところで、道徳律(やってはいけないこと)を理解してはいるんだ
権力者もホントウは色々と思いやっているハズなんだ
それらすべての人間の本性を 本音を発揮させてやる
ねえ、ヨハネ譫妄録にもちゃんと予言されているねえ。
人間の獣性や悪性の増長ばかりに専らであったカルト狂信者たちが、
カルト教義の種も仕掛けもばれるに及んで、労苦からも解き放たれて
永遠の「大人の幼稚園児」としての人生に与れるって。
間違ってるのは、それが人間にとっての「幸せ」だなどと断じられていた点であり、
人の本性ないし本音こそは理であり、善だから、理という体にとっての用であるに過ぎない
情が濁されることによって悪性や獣性を増長させてきたことは、幸せや安らぎではなく、
最大級の不幸や禍いばかりにのみ見舞われるという事実が分かっていなかったところだ。
善も悪も、人も鬼畜も混在しているみそくそな世界において、
「諸悪莫作衆善奉行(法句経)」であり、「破邪顕正(三論玄義)」であり、
「厭離穢土欣求浄土(往生要集)」であることがとにもかくにも真理であり、真理でもあるから、
真理とまではいかない道理の範囲で務められる「勧善懲悪(左伝)」もまた、人々の心を打つ快挙ともなる。
どんな悲劇や喜劇や惨劇よりも、勧善懲悪こそは最高に面白い、痛快無比なる歴史上の伝説ともなる。
人間の獣性や悪性の増長ばかりに専らであったカルト狂信者たちが、
カルト教義の種も仕掛けもばれるに及んで、労苦からも解き放たれて
永遠の「大人の幼稚園児」としての人生に与れるって。
間違ってるのは、それが人間にとっての「幸せ」だなどと断じられていた点であり、
人の本性ないし本音こそは理であり、善だから、理という体にとっての用であるに過ぎない
情が濁されることによって悪性や獣性を増長させてきたことは、幸せや安らぎではなく、
最大級の不幸や禍いばかりにのみ見舞われるという事実が分かっていなかったところだ。
善も悪も、人も鬼畜も混在しているみそくそな世界において、
「諸悪莫作衆善奉行(法句経)」であり、「破邪顕正(三論玄義)」であり、
「厭離穢土欣求浄土(往生要集)」であることがとにもかくにも真理であり、真理でもあるから、
真理とまではいかない道理の範囲で務められる「勧善懲悪(左伝)」もまた、人々の心を打つ快挙ともなる。
どんな悲劇や喜劇や惨劇よりも、勧善懲悪こそは最高に面白い、痛快無比なる歴史上の伝説ともなる。
「春秋の稱は微にして顯われ、志にして晦く、婉にして章を成し、
盡にして汙ならず、懲惡にして勸善なる。聖人に非ずして誰か能く之れを脩めん」
「(五経の一書であり、孔子の真作である)『春秋経』の筆法は、字数は少ないがその意味は明らかであり、
明確に言うときにも露骨になることを避け、遠回しに言うときにも筋道を通し、実際のところを直言して事実を曲げず、
どこもかしこもが勧善懲悪で貫かれている。(孔子のような)聖人でなければ誰かこれを書けようか。
(春秋“経”本文ではなく、孔子の弟子だった左丘明の注釈である“伝”の文であるため、自画自賛ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公十四年より)
上記の「勧善懲悪」の本来の定義に基づくなら、「勧善懲悪にもとる筆法」とは、
・字数がやたら多いくせにその意味は不明である。
・明確にものを言うときにはやたらと露骨に言う。
・遠回しに言うときにはその意味が筋道立てられていない。
・実際のところを直言せずに真実を捻じ曲げる。
といったもの。まさに犯罪聖書の筆法そのものだといえる。
ちなみに俺の筆法は
・字数はやたらと多いが、その意味は明らかである。
・明確に言うときは露骨でも温厚でもなく、なるべく素っ気なく言う。
・遠回しに言うときには最低限の筋道を通す。
・実際のところはやはり直言して真実も捻じ曲げない。
前三つは、勧善懲悪である春秋の筆法と、悪逆非道な犯罪聖書の筆法の折衷になっていて、
最後の「直言して事実を捻じ曲げない」だけは完全に春秋の筆法に準拠している。
これは、孔子ではなく孟子や司馬遷の筆法により近似しているところであり、
最大級の勧善懲悪である孔子の筆法には、今一歩及んでいないところだといえる
盡にして汙ならず、懲惡にして勸善なる。聖人に非ずして誰か能く之れを脩めん」
「(五経の一書であり、孔子の真作である)『春秋経』の筆法は、字数は少ないがその意味は明らかであり、
明確に言うときにも露骨になることを避け、遠回しに言うときにも筋道を通し、実際のところを直言して事実を曲げず、
どこもかしこもが勧善懲悪で貫かれている。(孔子のような)聖人でなければ誰かこれを書けようか。
(春秋“経”本文ではなく、孔子の弟子だった左丘明の注釈である“伝”の文であるため、自画自賛ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公十四年より)
上記の「勧善懲悪」の本来の定義に基づくなら、「勧善懲悪にもとる筆法」とは、
・字数がやたら多いくせにその意味は不明である。
・明確にものを言うときにはやたらと露骨に言う。
・遠回しに言うときにはその意味が筋道立てられていない。
・実際のところを直言せずに真実を捻じ曲げる。
といったもの。まさに犯罪聖書の筆法そのものだといえる。
ちなみに俺の筆法は
・字数はやたらと多いが、その意味は明らかである。
・明確に言うときは露骨でも温厚でもなく、なるべく素っ気なく言う。
・遠回しに言うときには最低限の筋道を通す。
・実際のところはやはり直言して真実も捻じ曲げない。
前三つは、勧善懲悪である春秋の筆法と、悪逆非道な犯罪聖書の筆法の折衷になっていて、
最後の「直言して事実を捻じ曲げない」だけは完全に春秋の筆法に準拠している。
これは、孔子ではなく孟子や司馬遷の筆法により近似しているところであり、
最大級の勧善懲悪である孔子の筆法には、今一歩及んでいないところだといえる
ボクも他人のことは言えないが、アナタの言説は
字数がやたら多いくせにその意味は不明である。が当てはまると思います
引用が多すぎるためかも知れませんが
また
明確にものを言うときにはやたらと露骨に言う
にも当てはまってる
重度精神障害者 犯罪聖書 入獄しろ などいずれもストレートでとても分りやすく とても遠回しな表現とは思えませんよ
また
実際のところを直言せずに真実を捻じ曲げる。
にも過去の文献にしがみついているところに感じます
構造主義などの哲学のほうが必然的な善を成すのははやいと思います
人間の行動や思想は社会構造によって決まってくる
脱構築することで善悪感さえ変化する可能性がある
字数がやたら多いくせにその意味は不明である。が当てはまると思います
引用が多すぎるためかも知れませんが
また
明確にものを言うときにはやたらと露骨に言う
にも当てはまってる
重度精神障害者 犯罪聖書 入獄しろ などいずれもストレートでとても分りやすく とても遠回しな表現とは思えませんよ
また
実際のところを直言せずに真実を捻じ曲げる。
にも過去の文献にしがみついているところに感じます
構造主義などの哲学のほうが必然的な善を成すのははやいと思います
人間の行動や思想は社会構造によって決まってくる
脱構築することで善悪感さえ変化する可能性がある
「感じる」とか「思う」とか「思わない」とか、そんなことはどうでもいいんだ。
問題は事実としてそうか否かであり、事実であるが故に現実もその物言い通りになったり、
事実ではないが故に現実が物言い通りにはならなかったりすることのほうだ。
ただでさえ、聖人君子の言葉は厳しく、カルト教祖の物言いのような美辞麗句も排しての、
ことさらに実直な言行に努められているのだから、自分たち自身こそは不誠実さの極みにある
小人や精神病質者や犯罪者が、その言行を好ましく思えないのも当たり前のことだ。
だから孔子も「善人には好まれ、悪人には嫌われるのが最善だ(子路第十三・二四)」とも言っている。
あからさまに悪人そのものである君らに嫌われるのは、かえって名誉なことですらあり、
どちらかといえば自分の言行のほうが正しく、正しいが故に現実を見定められている証拠ともなる。
「君子に三變有り。之れを望めば儼然たり、之れに即けば温なり、其の言を聽けば﨤し」
「おおよそ君子に接しようとすると、接する側は君子の姿が三つに変転するのを体験する。
遠くからその姿をうかがっている間は厳然として近寄りがたく、にもかかわらず近づいて
接すれば極めて温厚であり、それでいてその言葉を聞けば、やはり厳しくて容赦がない。
(孔子に生涯付き添い続けた弟子の子夏の言葉。孔子などの君子の側には態度を変えようと
する気はないが、周りには自然と、接し方によってその姿が大きく変化するように見える。
巧言令色に巧みな佞者こそは、いつも変わらずヘラヘラしてるようにも見えるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・九より)
問題は事実としてそうか否かであり、事実であるが故に現実もその物言い通りになったり、
事実ではないが故に現実が物言い通りにはならなかったりすることのほうだ。
ただでさえ、聖人君子の言葉は厳しく、カルト教祖の物言いのような美辞麗句も排しての、
ことさらに実直な言行に努められているのだから、自分たち自身こそは不誠実さの極みにある
小人や精神病質者や犯罪者が、その言行を好ましく思えないのも当たり前のことだ。
だから孔子も「善人には好まれ、悪人には嫌われるのが最善だ(子路第十三・二四)」とも言っている。
あからさまに悪人そのものである君らに嫌われるのは、かえって名誉なことですらあり、
どちらかといえば自分の言行のほうが正しく、正しいが故に現実を見定められている証拠ともなる。
「君子に三變有り。之れを望めば儼然たり、之れに即けば温なり、其の言を聽けば﨤し」
「おおよそ君子に接しようとすると、接する側は君子の姿が三つに変転するのを体験する。
遠くからその姿をうかがっている間は厳然として近寄りがたく、にもかかわらず近づいて
接すれば極めて温厚であり、それでいてその言葉を聞けば、やはり厳しくて容赦がない。
(孔子に生涯付き添い続けた弟子の子夏の言葉。孔子などの君子の側には態度を変えようと
する気はないが、周りには自然と、接し方によってその姿が大きく変化するように見える。
巧言令色に巧みな佞者こそは、いつも変わらずヘラヘラしてるようにも見えるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・九より)
感じる 思う にしたのはせめてもの配慮ですよ
小人から聖人に道徳的な配慮をしただけのことです
つい、本音を隠してしまった
本音では、胡散臭え坊主がワケわからん文献を引用ばっかりしやがって解りづれエ
こんなの誰も読むわけねえだろう たわけ者が と、とてもハッキリしています
そしてホントウのところを、疑念によって暴いてやろうとしてます
現在の認識は、本人が死んだ後におバカ達の頼りない記憶を寄せ集めて、それを真に受けて信じた道楽者が壁に向かって嘆いている
小人から聖人に道徳的な配慮をしただけのことです
つい、本音を隠してしまった
本音では、胡散臭え坊主がワケわからん文献を引用ばっかりしやがって解りづれエ
こんなの誰も読むわけねえだろう たわけ者が と、とてもハッキリしています
そしてホントウのところを、疑念によって暴いてやろうとしてます
現在の認識は、本人が死んだ後におバカ達の頼りない記憶を寄せ集めて、それを真に受けて信じた道楽者が壁に向かって嘆いている
中国人は、為政を志す限りにおいては毅然とするのに、ことに産業に手を出した途端に腐敗する。
欧米人も、産業に従事している限りでは優秀なのに、政治に手を出せば途端に腐敗する。
男が女の領分に手を出したり、女が男の領分に手を出したりした結果、致命的な腐敗を招いている。
「左伝」荘公二十四年では、乱世に特有の症例として、礼節などの社会規範に、
男女の区別が付けられなくなることが挙げられ、「男女の別は國の大節なり」とも指摘されている。
男と女、君主と臣下、君子と小人など、それぞれがそれぞれの領分を守るように努めたならば、
上に立つものだけでなく、下に控えるものまでもが、相応に清廉な人生を送れるというのに。
「仲弓仁を問う。子曰く、門を出でては大賓に見えるが如くし、民を使うには大祭を承るが如くす。
己れの欲せざる所は、人に施すことなかれ。
邦に在りては怨み無く、家に在りては怨み無し。仲弓曰く、雍、不敏と雖も、請いし斯の語を事とせん」
「仲弓が仁についてお聞きした。先生は言われた。『家の門を出て仕事に従事する以上は、
常に大賓に応対するほどにも恭しい態度でいて、自分が人を使う場合にも、
大祭の催しを任されたほどにも厳かな態度でいるようにする。
そして、自分がされたくないと思うことは、人に対しても決してしない。
それでこそ仁の実践姿勢であるといえ、ちゃんと仁が実践できたならば、
国や社会においても怨みがなくなり、家の中にも怨みはなくなるであろう』
仲弓はそれを聞いて言った。『私もふつつかながらも、そのお言葉を忘れぬように致します』
(『己所不欲、勿施於人』は論語中にも重複して述べられており、こちらは既出の引用ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・二)
欧米人も、産業に従事している限りでは優秀なのに、政治に手を出せば途端に腐敗する。
男が女の領分に手を出したり、女が男の領分に手を出したりした結果、致命的な腐敗を招いている。
「左伝」荘公二十四年では、乱世に特有の症例として、礼節などの社会規範に、
男女の区別が付けられなくなることが挙げられ、「男女の別は國の大節なり」とも指摘されている。
男と女、君主と臣下、君子と小人など、それぞれがそれぞれの領分を守るように努めたならば、
上に立つものだけでなく、下に控えるものまでもが、相応に清廉な人生を送れるというのに。
「仲弓仁を問う。子曰く、門を出でては大賓に見えるが如くし、民を使うには大祭を承るが如くす。
己れの欲せざる所は、人に施すことなかれ。
邦に在りては怨み無く、家に在りては怨み無し。仲弓曰く、雍、不敏と雖も、請いし斯の語を事とせん」
「仲弓が仁についてお聞きした。先生は言われた。『家の門を出て仕事に従事する以上は、
常に大賓に応対するほどにも恭しい態度でいて、自分が人を使う場合にも、
大祭の催しを任されたほどにも厳かな態度でいるようにする。
そして、自分がされたくないと思うことは、人に対しても決してしない。
それでこそ仁の実践姿勢であるといえ、ちゃんと仁が実践できたならば、
国や社会においても怨みがなくなり、家の中にも怨みはなくなるであろう』
仲弓はそれを聞いて言った。『私もふつつかながらも、そのお言葉を忘れぬように致します』
(『己所不欲、勿施於人』は論語中にも重複して述べられており、こちらは既出の引用ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・二)
女や子供はバカだとかよく言われるが、実は心理的に単純な力関係を意識しているから慎重なだけだ
男女や年齢層で分けるのも把握できないものをカテゴリに押し込んでいるだけで、何ら解決にはならない
男女や年齢層に適材適所を当てはめるのは大雑把なお役所仕事だ
女にも子供にも有能な人物は居るし、男盛りだとしても無能な人物も居る
アンタたちの適材適所は、天下り先を探している老人の身の置き場を、正当化しようとすることじゃないか?
本人の気持ちを汲んでから、それが適材適所かを計るべきなんだ
男女に関係なく願望はあるし、それを認めることができるのは人間だけだ
人間であろうとすることが人間の美点なんだ
男女や年齢層で分けるのも把握できないものをカテゴリに押し込んでいるだけで、何ら解決にはならない
男女や年齢層に適材適所を当てはめるのは大雑把なお役所仕事だ
女にも子供にも有能な人物は居るし、男盛りだとしても無能な人物も居る
アンタたちの適材適所は、天下り先を探している老人の身の置き場を、正当化しようとすることじゃないか?
本人の気持ちを汲んでから、それが適材適所かを計るべきなんだ
男女に関係なく願望はあるし、それを認めることができるのは人間だけだ
人間であろうとすることが人間の美点なんだ
道徳は、あくまで社会性に対応するための知識の分類にあり、目的に応じた知識を、一般人の知り得ない仮定の情報Xとの組み合わせて知恵として応用される。
応用される知識は、一人ひとりの知恵が発展性という志向性もって命といっしょに循環しているので、知識を得ること自体でヒトを聖人たらしめることはない。仮定の情報Xも人間関係から必要性が生じるためです。
人間は人間である
孔子も釈迦もキリストも一般人も権力犯罪者も、知識や知恵に差があったとしても本質的には些かのちがいもない。
老若男女古今東西南北
みな平等
生きている人間+知識=道徳の必然という答え
どんな乱れた世も これが歴史を成り立たせてきた。
なぜなら、オマエは生きている 考えている
それが道徳律があることを証明している。
哲学のほうが、道徳を純化させた倫理を取り入れているぶん、世界の指導・誘導に適している。
聖人のみが知っている仮定の情報Xなど必要ない。
応用される知識は、一人ひとりの知恵が発展性という志向性もって命といっしょに循環しているので、知識を得ること自体でヒトを聖人たらしめることはない。仮定の情報Xも人間関係から必要性が生じるためです。
人間は人間である
孔子も釈迦もキリストも一般人も権力犯罪者も、知識や知恵に差があったとしても本質的には些かのちがいもない。
老若男女古今東西南北
みな平等
生きている人間+知識=道徳の必然という答え
どんな乱れた世も これが歴史を成り立たせてきた。
なぜなら、オマエは生きている 考えている
それが道徳律があることを証明している。
哲学のほうが、道徳を純化させた倫理を取り入れているぶん、世界の指導・誘導に適している。
聖人のみが知っている仮定の情報Xなど必要ない。
「知識に適正な取捨選択や、身を挺した実践が伴うことが道徳だ」と言っているのに、
そちらで勝手に「道徳は知識情報そのものだ」などと決め付けて、
「知識が人を聖人君子たらしめることはあり得ない」という論及を経由して、
「道徳によって人が聖人君子になれたりはしない」と結論付ける、典型的な三段論法の詭弁論。
そもそも、始めから「道徳」という言葉の定義が彼我において決定的に断裂しているのであり、
1+1=2を前提とした議論をしようとしているところに、1+1=3や4を前提とした自論をあてこすろうとするその
態度姿勢は、人と人との正常な話し合いを妨害して不全化させることを目的とした「言論テロ」にしかなっていない。
強大な軍事力や経済力だけでなく、詭弁を駆使した情報操作力までをも駆使しての強圧が横行するのが
乱世でもあるために、乱世である春秋後期に「政治を任せられれば何をまず行いますか」と弟子の子路に
問われた孔子も、「まずは一つ一つの言葉の定義(名辞)から正していこう」と答えた(子路第十三・三参照)。
武力や財力の乱用以上にも、言葉の定義から勝手に挿げ替えつつの不実な詭弁によって、
あらゆる有意義な論議をも不全化することで、ことの是非善悪までをも煙に巻いてしまうことこそは、
限りのない乱世をもたらす元凶中の元凶ともなるのであり、仮に、誰しもが言葉の定義ぐらいは一致させた中に、
最低限でもの正常で有意義な論議を心がけたなら、自然と是非善悪までもが誰しもに判然とするようになり、
それ故に自ずから、莫大な軍事力や経済力を振りかざしつつの、強権の乱用も立ち消えにならざるを得なくなる。
人間という生き物は、本来そのような用途のためにこそ、言葉という道具を開発して用いるように努めて来ているのだから。
「孝子は闇きに服せず、危うきに登らず。親を辱めんことを懼るればなり」
「孝子は闇の中でことを図ることはせず、そのような危うい派閥に取り入ることもしない。
それによって親をも辱しめるような恥を晒してしまうことを危惧するからだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
そちらで勝手に「道徳は知識情報そのものだ」などと決め付けて、
「知識が人を聖人君子たらしめることはあり得ない」という論及を経由して、
「道徳によって人が聖人君子になれたりはしない」と結論付ける、典型的な三段論法の詭弁論。
そもそも、始めから「道徳」という言葉の定義が彼我において決定的に断裂しているのであり、
1+1=2を前提とした議論をしようとしているところに、1+1=3や4を前提とした自論をあてこすろうとするその
態度姿勢は、人と人との正常な話し合いを妨害して不全化させることを目的とした「言論テロ」にしかなっていない。
強大な軍事力や経済力だけでなく、詭弁を駆使した情報操作力までをも駆使しての強圧が横行するのが
乱世でもあるために、乱世である春秋後期に「政治を任せられれば何をまず行いますか」と弟子の子路に
問われた孔子も、「まずは一つ一つの言葉の定義(名辞)から正していこう」と答えた(子路第十三・三参照)。
武力や財力の乱用以上にも、言葉の定義から勝手に挿げ替えつつの不実な詭弁によって、
あらゆる有意義な論議をも不全化することで、ことの是非善悪までをも煙に巻いてしまうことこそは、
限りのない乱世をもたらす元凶中の元凶ともなるのであり、仮に、誰しもが言葉の定義ぐらいは一致させた中に、
最低限でもの正常で有意義な論議を心がけたなら、自然と是非善悪までもが誰しもに判然とするようになり、
それ故に自ずから、莫大な軍事力や経済力を振りかざしつつの、強権の乱用も立ち消えにならざるを得なくなる。
人間という生き物は、本来そのような用途のためにこそ、言葉という道具を開発して用いるように努めて来ているのだから。
「孝子は闇きに服せず、危うきに登らず。親を辱めんことを懼るればなり」
「孝子は闇の中でことを図ることはせず、そのような危うい派閥に取り入ることもしない。
それによって親をも辱しめるような恥を晒してしまうことを危惧するからだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
女子供が、成人の男以上にも生存本能に長けているのも確かだが、
それも自分や我が子を守るための、独我的な本能止まりであり、
天下万人を生き残らしめる大局的な観点などには全く即していない。
天下万人を活かさしめる上で、当然より多くの女子供の生存や福徳をも企図し、
その中にはもちろん「あなた」という女、あなたという女の子供の生存や福徳までもが
含まれているというのに、「ただ私だけを見て」の論理で、天下の運命を担う士人にまで、
独善的な「婦人の仁」への迎合を要求するというのなら、それこそは国家転覆級の悪女というもの。
家康公の正室だった築山殿なども、そのような性向を宿した悪女だったから、
武田方に加担する謀反を画策したことにもことかけて、我が正妻であるにもかかわらず謀殺せざるを得なかった。
そりゃあ、天下人の妻としての貞順さにも欠けていた、築山殿の側の全くの自業自得であり、
家康公とて、匈奴王の冒頓単于のように好き好んで妻を殺したわけではなかった。
瑣末な産業や商売などに従事する平民階級の男ならともかく、天下の命運を左右する君子階級たる男の
妻子である以上は、下手に夫や父親をけしかけて、邪魔をかけることも徹底して避けねばならない。
でないと、妻子である自分たち自身こそは、国家転覆級の罪をも犯すことにすらなりかねないから。
それも自分や我が子を守るための、独我的な本能止まりであり、
天下万人を生き残らしめる大局的な観点などには全く即していない。
天下万人を活かさしめる上で、当然より多くの女子供の生存や福徳をも企図し、
その中にはもちろん「あなた」という女、あなたという女の子供の生存や福徳までもが
含まれているというのに、「ただ私だけを見て」の論理で、天下の運命を担う士人にまで、
独善的な「婦人の仁」への迎合を要求するというのなら、それこそは国家転覆級の悪女というもの。
家康公の正室だった築山殿なども、そのような性向を宿した悪女だったから、
武田方に加担する謀反を画策したことにもことかけて、我が正妻であるにもかかわらず謀殺せざるを得なかった。
そりゃあ、天下人の妻としての貞順さにも欠けていた、築山殿の側の全くの自業自得であり、
家康公とて、匈奴王の冒頓単于のように好き好んで妻を殺したわけではなかった。
瑣末な産業や商売などに従事する平民階級の男ならともかく、天下の命運を左右する君子階級たる男の
妻子である以上は、下手に夫や父親をけしかけて、邪魔をかけることも徹底して避けねばならない。
でないと、妻子である自分たち自身こそは、国家転覆級の罪をも犯すことにすらなりかねないから。
とりあえずデートいてくる
「知識に適正な取捨選択や、身を挺した実践が伴うことが道徳だ」という時点で歴史をみればすでに破綻している
実践をしたつもりかもしれないが、それは何一つ成し遂げることはできていない
それは深く考えるまでもなく、テレビや新聞程度を観ていれば理解できる
社会は犯罪で満ちている
実践の失敗
これが「知識が人を聖人君子たらしめることはあり得ない」という根拠でもあります
しょせんは知識の範囲に過ぎず何ら特別なことはない
他の宗教と同じく無能だ
実践を宣言して仮想の世界の空想をするばかり
実践をしたつもりかもしれないが、それは何一つ成し遂げることはできていない
それは深く考えるまでもなく、テレビや新聞程度を観ていれば理解できる
社会は犯罪で満ちている
実践の失敗
これが「知識が人を聖人君子たらしめることはあり得ない」という根拠でもあります
しょせんは知識の範囲に過ぎず何ら特別なことはない
他の宗教と同じく無能だ
実践を宣言して仮想の世界の空想をするばかり
相撲の八百長問題
なんか八百長が問題らしく膿を出しきるとか豪語しとる
しかし問題点の背景の大きな一つに給料格差があるらしい
それはそうだろう
ちゃんこ鍋を食って稽古するだけの毎日に堪えることを善人というのか?
めちゃくちゃ稼ぐ横綱が品行方正であることが善人というのか?
八百長という問題
単純に当事者だけを処罰すれば終わるわけがないのに、生け贄のように吊し上げられている、としか思えない
相撲協会をはじめ、当事者の気持ちをわかるハズの力士 マスコミ 世間
何が悪いのか なんにもわかってない
なんか八百長が問題らしく膿を出しきるとか豪語しとる
しかし問題点の背景の大きな一つに給料格差があるらしい
それはそうだろう
ちゃんこ鍋を食って稽古するだけの毎日に堪えることを善人というのか?
めちゃくちゃ稼ぐ横綱が品行方正であることが善人というのか?
八百長という問題
単純に当事者だけを処罰すれば終わるわけがないのに、生け贄のように吊し上げられている、としか思えない
相撲協会をはじめ、当事者の気持ちをわかるハズの力士 マスコミ 世間
何が悪いのか なんにもわかってない
破綻しているものかよ。
インドの万年泰平状態に、中国の周代や漢代や唐代、日本の平安時代や江戸時代における
数百年規模の泰平統治など、すべて、理性がみそくそな知識を適正に取捨選択して、
劣悪なワル知恵を排した、優良な叡知のみの専らな実践によって実現されたものだ。
知識を適正に取捨選択することも覚束ず、かえって劣悪なワル知恵の選別ばかりに努め、以て
引っ切り無しの戦乱状態を続けてきたのも、「欧米」という極めて矮小な部落社会のみであり、
その欧米が政治的主導権を握って、世界を破滅に陥れ始めたのも、ここ2、300年に限っての話。
人類は、引っ切り無しの戦乱などよりも、数百年規模から半永久的規模に渡る泰平のほうを
あえて選択してきた分量のほうが遥かに多く、その歴史も遥かに古く、現時点においてですら、
悪逆非道な戦乱状態よりも、勧善懲悪にも根ざした泰平状態を望んでいる人間のほうが、遥かに多い。
世界史を、「西洋主導」の色眼鏡を抜きにして勉強すれば、誰にでも分かることだが、今の国定の
世界史の教科書ですら、質でも量でも古さでも遥かに劣悪なギリシャ・ローマ文明の勃興のほうが、
質でも量でも古さでも遥かに優秀なインド文明や中国文明の勃興よりも先に記載されたりの、
明らかな「事実改ざん」が、公的規模においてですらまかり通っている昨今、たとえ学校で
学ぶとおりに世界史を勉強したところで、本当のところをわきまえることは難しかろうな。
インドの万年泰平状態に、中国の周代や漢代や唐代、日本の平安時代や江戸時代における
数百年規模の泰平統治など、すべて、理性がみそくそな知識を適正に取捨選択して、
劣悪なワル知恵を排した、優良な叡知のみの専らな実践によって実現されたものだ。
知識を適正に取捨選択することも覚束ず、かえって劣悪なワル知恵の選別ばかりに努め、以て
引っ切り無しの戦乱状態を続けてきたのも、「欧米」という極めて矮小な部落社会のみであり、
その欧米が政治的主導権を握って、世界を破滅に陥れ始めたのも、ここ2、300年に限っての話。
人類は、引っ切り無しの戦乱などよりも、数百年規模から半永久的規模に渡る泰平のほうを
あえて選択してきた分量のほうが遥かに多く、その歴史も遥かに古く、現時点においてですら、
悪逆非道な戦乱状態よりも、勧善懲悪にも根ざした泰平状態を望んでいる人間のほうが、遥かに多い。
世界史を、「西洋主導」の色眼鏡を抜きにして勉強すれば、誰にでも分かることだが、今の国定の
世界史の教科書ですら、質でも量でも古さでも遥かに劣悪なギリシャ・ローマ文明の勃興のほうが、
質でも量でも古さでも遥かに優秀なインド文明や中国文明の勃興よりも先に記載されたりの、
明らかな「事実改ざん」が、公的規模においてですらまかり通っている昨今、たとえ学校で
学ぶとおりに世界史を勉強したところで、本当のところをわきまえることは難しかろうな。
相撲も元来はお祭りの興行の一種であり、
江戸時代などには一種の芸能として楽しまれていたもの。
スポーツのように、勝ち負けや記録ばかりにこだわるものではなく、
プロレスのような劇場型の興行として楽しむのが本来のあり方。
世の中のほうが引っ切り無しの戦乱状態でもあるから、八百長交じりこそは本来の姿でも
あった大相撲に、今の規約に即しての不正があったことなどにいちいち目くじらを立てる。
戦いに勝つことこそは全てである自分たちの姿を投影できるものこそを求めているわけだが、
それを芸能的興行にすぎない相撲に求めるのは、本来の相撲のあり方に基づけば間違っている。
あるいは、あの「八百長」こそは、今の不正まみれな自分たちの実社会での
あり方に投影されて、そのせいで、いたたまれない気持ちにでもなっているのだろうか。
「季康子政を孔子に問う。孔子對えて曰く、政は正なり。子帥いるに正を以てすれば、孰か敢えて不正ならざらん」
「魯国の実力者である季康氏が、孔先生に『政治とは何か』と聞かれた。孔先生は答えられた。(目上なので敬語で)
『(中国語でも日本語でも、政と正の発音が同じであることにかけて)政とは“正”であります。貴公のような
上位に居ます方が、正しきを以て世の中を率いましたならば、いったい誰があえて不正などをおこないましょうや』
(万民の中に不正をなす者がいたり、その不正を放任したりするのは、紛れもなく権力者自身が不正だからだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・十七)
江戸時代などには一種の芸能として楽しまれていたもの。
スポーツのように、勝ち負けや記録ばかりにこだわるものではなく、
プロレスのような劇場型の興行として楽しむのが本来のあり方。
世の中のほうが引っ切り無しの戦乱状態でもあるから、八百長交じりこそは本来の姿でも
あった大相撲に、今の規約に即しての不正があったことなどにいちいち目くじらを立てる。
戦いに勝つことこそは全てである自分たちの姿を投影できるものこそを求めているわけだが、
それを芸能的興行にすぎない相撲に求めるのは、本来の相撲のあり方に基づけば間違っている。
あるいは、あの「八百長」こそは、今の不正まみれな自分たちの実社会での
あり方に投影されて、そのせいで、いたたまれない気持ちにでもなっているのだろうか。
「季康子政を孔子に問う。孔子對えて曰く、政は正なり。子帥いるに正を以てすれば、孰か敢えて不正ならざらん」
「魯国の実力者である季康氏が、孔先生に『政治とは何か』と聞かれた。孔先生は答えられた。(目上なので敬語で)
『(中国語でも日本語でも、政と正の発音が同じであることにかけて)政とは“正”であります。貴公のような
上位に居ます方が、正しきを以て世の中を率いましたならば、いったい誰があえて不正などをおこないましょうや』
(万民の中に不正をなす者がいたり、その不正を放任したりするのは、紛れもなく権力者自身が不正だからだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・十七)
やっぱり道徳者は冷たいな
今回吊し上げられた人間は、本来的な八百長問題とはまるでちがう
十両から幕下に落ちると給料が無しになる
だから八百長をしてでも生活を守りたいという普通の欲求なのてすよ
つまり必然的に道徳を破らなければならない という道徳者なら簡単に捨て置けない事例のハズなのですがね
横綱や大関が行うものとは別の視点にならなければ分からない
今回吊し上げられた人間は、本来的な八百長問題とはまるでちがう
十両から幕下に落ちると給料が無しになる
だから八百長をしてでも生活を守りたいという普通の欲求なのてすよ
つまり必然的に道徳を破らなければならない という道徳者なら簡単に捨て置けない事例のハズなのですがね
横綱や大関が行うものとは別の視点にならなければ分からない

尽力していた封建社会において、丸々と肥え太った力士たちは、それこそ
庶民の不満のガス抜きも兼ねた、あえての不道徳的な興行だったわけだが?
ただし、人に危害を加えることで自分が肥え太る、実罪(実質的な犯罪)
にまでは至らない範囲での、面白がれる範囲での不道徳として。
仁義道徳が国学も同然の扱いとなっている中国の人々には、
相撲は甚だしい嫌悪の対象とされてもいるようだが、清濁併せ呑んだ上で
ことをよきに計らう神道のワンクッションがあるから、日本では相撲のような、
ワクチン的な効能を持つ不道徳遊びが容認されているわけだ。
江戸時代における三井住友などの商業権力の肥大化も、その部類だ。
俺もまた、道徳と犯罪の取組を見守る行司の一人に過ぎない。
まあ、今のところ「道徳の山」四書五経と、「犯罪の海」イスラエル聖書との取組は、
四書五経こと道徳の山の側の常勝無敗で一貫し続けているわけだが。
別に俺が四書五経を贔屓しようとしなくたって、四書五経の本文がありのままに、
犯罪聖書の本文よりも質・量・古さの全てにおいて上回っているんだから仕方がない。
別に俺自身がことさらな“アンチキリスト”などにならずとも、“善悪の彼岸”という
公正な土俵上で、半ば自動的に、道徳の山が犯罪の海をすっ転ばし続けてくれているだけだから。
俺もまた、両力士を冷静に対照比較する、行司に徹しているだけでも十分に面白い。
「條理を始むるは智の事なり。條理を終うるは聖の事なり。
智は譬えば則ち巧みなり。聖は譬えば則ち力なり。由お百歩の外に射るなり。
其の至るは爾じの力なり。其の中れるは、爾じの力に非ざるなり」
「筋道が立って乱れがない状態は、智を始めとして聖を終わりとする。智は譬えるなら技巧のようなもので、
聖は譬えるなら力のようなもの。仮に最遠方の百歩離れたところから弓を射て、それが的に命中したとする。
的にまで矢が届いたのは弓を射る力が足りていたからだが、矢が的に命中したのは、力ではなく的に当てる技巧があったからだ。
(力ばかりがあって、めくらめっぽうに弓を射たりしたなら、その矢が『重権力犯罪実現の的』に命中してしまうことだってある。
『権力道徳実現』などの適切な的に命中させるためには、弓を射る力だけでなく、的を選別して命中させる技巧もまた必要なのだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・一より)
四書五経こと道徳の山の側の常勝無敗で一貫し続けているわけだが。
別に俺が四書五経を贔屓しようとしなくたって、四書五経の本文がありのままに、
犯罪聖書の本文よりも質・量・古さの全てにおいて上回っているんだから仕方がない。
別に俺自身がことさらな“アンチキリスト”などにならずとも、“善悪の彼岸”という
公正な土俵上で、半ば自動的に、道徳の山が犯罪の海をすっ転ばし続けてくれているだけだから。
俺もまた、両力士を冷静に対照比較する、行司に徹しているだけでも十分に面白い。
「條理を始むるは智の事なり。條理を終うるは聖の事なり。
智は譬えば則ち巧みなり。聖は譬えば則ち力なり。由お百歩の外に射るなり。
其の至るは爾じの力なり。其の中れるは、爾じの力に非ざるなり」
「筋道が立って乱れがない状態は、智を始めとして聖を終わりとする。智は譬えるなら技巧のようなもので、
聖は譬えるなら力のようなもの。仮に最遠方の百歩離れたところから弓を射て、それが的に命中したとする。
的にまで矢が届いたのは弓を射る力が足りていたからだが、矢が的に命中したのは、力ではなく的に当てる技巧があったからだ。
(力ばかりがあって、めくらめっぽうに弓を射たりしたなら、その矢が『重権力犯罪実現の的』に命中してしまうことだってある。
『権力道徳実現』などの適切な的に命中させるためには、弓を射る力だけでなく、的を選別して命中させる技巧もまた必要なのだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・一より)
道徳が犯罪に負けることは、原理的にできない。
犯罪よりも優良なのが道徳であり、道徳よりも劣悪なのが犯罪であるという風に、
われわれ人間自身が「道徳」とか「犯罪」とかいった言葉を定義しているために、
道徳とみなしたものが自然と犯罪よりも優良なものとなり、
犯罪とみなしたものも自然と道徳より劣悪ものとなってしまっている。
平たくいえば、道徳とは「善徳の実践」のことであり、犯罪とは「罪悪の実践」なわけだが、
理念上に定義されている善徳とか罪悪とかいった要素もやはり、善徳が罪悪よりも
自然と優良なものとなり、罪悪も自然と善徳よりも劣悪なものとなっている。
では、善徳とは具体的にどんなものかといえば、「富貴は道義に基づかなければ得ない(里仁第四・五)」
とかであり、逆に罪悪とは具体的になんなのかといえば、「不正な富で友達を作る(ルカ16:9)」とかだ。
ここにおよんで、善徳の具体例である「富貴は道義に基づかなければ得ない」を聞かされることで、
誰しもが「ああ、それは優良なことだなあ」と納得せざるを得ないし、逆に罪悪の具体例のほうの「不正な富で
友達を作る」と聞かされることで、これまた「ああ、それは劣悪なことだなあ」と納得せざるを得ない。ここにこそ、
善徳と罪悪、その実践である道徳と犯罪との、絶対的な優劣を誰しもが認めざるを得ない理由までもが集約されている。
犯罪よりも優良なのが道徳であり、道徳よりも劣悪なのが犯罪であるという風に、
われわれ人間自身が「道徳」とか「犯罪」とかいった言葉を定義しているために、
道徳とみなしたものが自然と犯罪よりも優良なものとなり、
犯罪とみなしたものも自然と道徳より劣悪ものとなってしまっている。
平たくいえば、道徳とは「善徳の実践」のことであり、犯罪とは「罪悪の実践」なわけだが、
理念上に定義されている善徳とか罪悪とかいった要素もやはり、善徳が罪悪よりも
自然と優良なものとなり、罪悪も自然と善徳よりも劣悪なものとなっている。
では、善徳とは具体的にどんなものかといえば、「富貴は道義に基づかなければ得ない(里仁第四・五)」
とかであり、逆に罪悪とは具体的になんなのかといえば、「不正な富で友達を作る(ルカ16:9)」とかだ。
ここにおよんで、善徳の具体例である「富貴は道義に基づかなければ得ない」を聞かされることで、
誰しもが「ああ、それは優良なことだなあ」と納得せざるを得ないし、逆に罪悪の具体例のほうの「不正な富で
友達を作る」と聞かされることで、これまた「ああ、それは劣悪なことだなあ」と納得せざるを得ない。ここにこそ、
善徳と罪悪、その実践である道徳と犯罪との、絶対的な優劣を誰しもが認めざるを得ない理由までもが集約されている。
では、なぜ人は「富貴は道義に基づかなければ得ない」と聞けば「優良なことだ」と納得せざるを得ず、
「不正な富で友達を作る」と聞けば「劣悪なことだ」と納得せざるを得ないのかといえば、
これまたちゃんと、切実で具体的な意味が必ず備わっている。
誰しもが富を得るときに道義性を念頭に置いたなら、限りのない貪りによって富を寡占するようなこともなくなり、
天下の万人が相応の富に与れるようになる一方で、逆に不正な富で友達を作ることばかりが横行したなら、
誰しもに満遍なく行き届かせたなら決して不足したりしないような分量の富までもが、不正な寡占によって誰しもには
行き渡らなくなり、最悪の場合には、地球人類の二割以下の人員で地球資源の八割以上を独占するような
ことにまでなって、天下の万人のうちの大部分が相応の富に与ることができなくなってしまったりするから。
「富貴は道義に基づかなければ得ない」のような善徳、その善徳の実践である道徳行為などは、
確かにそれが地球人類、天下万人の繁栄に直結しているから「優良だ」と見もなされる一方で、
「不正な富で友達を作る」のような罪悪、その罪悪の実践である犯罪行為などもまた同じく、
確かにそれが人類の破滅、地球人類の衰亡に直結しているから「劣悪だ」とも見なされるのだ。
ことの優劣ってのも、確かに人類の存亡にまで直結するところで判定されているのであり、
けっして個々人の無根拠な主観などに即してはいない。仮に無根拠な主観などに即しているとすれば、
そのよな優劣の判定がありのままに不当なものであり、正当な優劣判定の場合と比べて、劣悪なだけのこと。
不当で劣悪な優劣判定などとはまた別に、正当で優良な優劣判定もまたあるのであり、そのような判定のほうが
人間にとっての本性にも根ざした根本的なものである上に、人類の存亡にすら直結してもいるのだ。
人間もまた、根本のところでは、動物的な生存本能にも根ざした、堅実な文化構築に努めている。
「不正な富で友達を作る」と聞けば「劣悪なことだ」と納得せざるを得ないのかといえば、
これまたちゃんと、切実で具体的な意味が必ず備わっている。
誰しもが富を得るときに道義性を念頭に置いたなら、限りのない貪りによって富を寡占するようなこともなくなり、
天下の万人が相応の富に与れるようになる一方で、逆に不正な富で友達を作ることばかりが横行したなら、
誰しもに満遍なく行き届かせたなら決して不足したりしないような分量の富までもが、不正な寡占によって誰しもには
行き渡らなくなり、最悪の場合には、地球人類の二割以下の人員で地球資源の八割以上を独占するような
ことにまでなって、天下の万人のうちの大部分が相応の富に与ることができなくなってしまったりするから。
「富貴は道義に基づかなければ得ない」のような善徳、その善徳の実践である道徳行為などは、
確かにそれが地球人類、天下万人の繁栄に直結しているから「優良だ」と見もなされる一方で、
「不正な富で友達を作る」のような罪悪、その罪悪の実践である犯罪行為などもまた同じく、
確かにそれが人類の破滅、地球人類の衰亡に直結しているから「劣悪だ」とも見なされるのだ。
ことの優劣ってのも、確かに人類の存亡にまで直結するところで判定されているのであり、
けっして個々人の無根拠な主観などに即してはいない。仮に無根拠な主観などに即しているとすれば、
そのよな優劣の判定がありのままに不当なものであり、正当な優劣判定の場合と比べて、劣悪なだけのこと。
不当で劣悪な優劣判定などとはまた別に、正当で優良な優劣判定もまたあるのであり、そのような判定のほうが
人間にとっての本性にも根ざした根本的なものである上に、人類の存亡にすら直結してもいるのだ。
人間もまた、根本のところでは、動物的な生存本能にも根ざした、堅実な文化構築に努めている。
現在の民主党
理念は理想としては素晴らしいが、政権交代した後は公約を守らないで国民に総スカンを喰らいかけている
共産主義も資本主義も理念は理想として素晴らしくあるもので、結果からしか判断できない人間が理念そのものにもケチをつけている
これらと同じく、四書五経とやらも理想としては素晴らしいが、達せられていないのは早々に民衆に見限られているからであり、現実性に乏しく映るからだ
普通の人間は
理想と現実はべつものであるということが理解できないので、結果的な判断しかしないのですね
四書五経とやらよりも釈迦のほうが世の中に受け入れられているのも、現実性ゆえのことでしょう
信じることからはじめる道徳心に現実性はない
疑うことから信用は成り立つんだ
四書五経は疑われて現実性がないために排除されたという歴史に、未だにすがっているだけですね
理念は理想としては素晴らしいが、政権交代した後は公約を守らないで国民に総スカンを喰らいかけている
共産主義も資本主義も理念は理想として素晴らしくあるもので、結果からしか判断できない人間が理念そのものにもケチをつけている
これらと同じく、四書五経とやらも理想としては素晴らしいが、達せられていないのは早々に民衆に見限られているからであり、現実性に乏しく映るからだ
普通の人間は
理想と現実はべつものであるということが理解できないので、結果的な判断しかしないのですね
四書五経とやらよりも釈迦のほうが世の中に受け入れられているのも、現実性ゆえのことでしょう
信じることからはじめる道徳心に現実性はない
疑うことから信用は成り立つんだ
四書五経は疑われて現実性がないために排除されたという歴史に、未だにすがっているだけですね
四書五経を正典とする儒学が、実権統治の手段から廃絶されたのなんて、ここ百数十年だけの話。
そしてその百数十年の間にこそ、人類は致命的な過ちをも立て続けに犯し続け、
現代に至っては犠牲者数億人という、全人類史上にも未曾有の大虐殺にすら及んでいる。
中国や日本などにおいて、数百年規模の泰平社会を立て続けに成功させてきた儒家統治と比べて、
犯罪聖書を根本理念としたここ百数十年の人類社会の荒廃といったら、目も当てられないほど。
まさに、実権統治における業績の大小や巧拙の面においてこそ、儒学に基づく道徳的統治と、
聖書信仰に基づく権力犯罪支配とは、天と地ほどもの開きが生じているのであり、
あまりにも儒学統治のほうが優秀であり過ぎ、犯罪聖書による支配のほうが劣悪であり過ぎるために、
両者による統治支配がまともな比較対照をされたことすら、未だない。
まあ、比較対照してしまった時点で、二度と犯罪聖書などを嗜好の対象になんかできなくなるからでも
あるのだろうが。年寄りはどんなに優良な変革であろうとも、とにかく変革そのものを嫌がる生き物だからな。
「工師に命じ、百工に令して、五庫の量、金鐵、皮革筋、角齒、羽箭干、脂膠丹漆を審らかにし、良からざる或る
毋からしむ。百工咸な理むるや、監工日に號すらく、時に悖る毋く、淫巧を作為して以て上の心を蕩むる或る毋れと」
「工業を司る長官に命じて、工業従事者たちに、五庫に保管された貴金属や鉄鋼、皮革や筋、角や牙、羽毛や矢がら、
油脂や膠や赤漆などの量を調べてその管理を徹底させ、悪いことに用いたりすることがないようにさせる。
工業従事者を全員十分な管理下に置いた上で、工業監督官が以下のような号令を期日に必ず行う。
『割り当てられた労働時間に過不足なく働き、無駄な奇巧を作為してお上を誘惑したりするな』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
そしてその百数十年の間にこそ、人類は致命的な過ちをも立て続けに犯し続け、
現代に至っては犠牲者数億人という、全人類史上にも未曾有の大虐殺にすら及んでいる。
中国や日本などにおいて、数百年規模の泰平社会を立て続けに成功させてきた儒家統治と比べて、
犯罪聖書を根本理念としたここ百数十年の人類社会の荒廃といったら、目も当てられないほど。
まさに、実権統治における業績の大小や巧拙の面においてこそ、儒学に基づく道徳的統治と、
聖書信仰に基づく権力犯罪支配とは、天と地ほどもの開きが生じているのであり、
あまりにも儒学統治のほうが優秀であり過ぎ、犯罪聖書による支配のほうが劣悪であり過ぎるために、
両者による統治支配がまともな比較対照をされたことすら、未だない。
まあ、比較対照してしまった時点で、二度と犯罪聖書などを嗜好の対象になんかできなくなるからでも
あるのだろうが。年寄りはどんなに優良な変革であろうとも、とにかく変革そのものを嫌がる生き物だからな。
「工師に命じ、百工に令して、五庫の量、金鐵、皮革筋、角齒、羽箭干、脂膠丹漆を審らかにし、良からざる或る
毋からしむ。百工咸な理むるや、監工日に號すらく、時に悖る毋く、淫巧を作為して以て上の心を蕩むる或る毋れと」
「工業を司る長官に命じて、工業従事者たちに、五庫に保管された貴金属や鉄鋼、皮革や筋、角や牙、羽毛や矢がら、
油脂や膠や赤漆などの量を調べてその管理を徹底させ、悪いことに用いたりすることがないようにさせる。
工業従事者を全員十分な管理下に置いた上で、工業監督官が以下のような号令を期日に必ず行う。
『割り当てられた労働時間に過不足なく働き、無駄な奇巧を作為してお上を誘惑したりするな』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
仏教は、万年泰平状態のインドで生み出されたものであり、
インド本国で仏教が隆盛していたのも、今から約1500〜2000年前の、インド文化の
最盛期でもあったのだから、「儒学は仏教以上だ」などということは決して言えない。しかし、
◎万年泰平状態をも実現する仏教統治・・・とてつもなく素晴らしい。
○長期の泰平と一時の乱世との順繰りに持ち込む儒学・・・まだマシなほう。
×世の中を引っ切り無しの戦乱状態に陥れるカルト支配・・・目の当て所もない。
であり、犯罪聖書を根本理念とする権力犯罪支配と比べれは、
仏教統治とまでいかずとも、儒学統治ですらまだマシな部類に入る。
「統治」という言葉には、ある程度は「世の乱れを収拾する」という意味も込められているから、
ある程度は世の中を収拾できる、仏教や儒学による支配の場合は「統治」とも呼ぶことができるが、
犯罪聖書によるカルト支配の場合は、世の中を最悪の乱世に陥れているばかりなので、「統治」と
呼ぶことはできず、ただただ強権を濫用してでかい顔をするだけの「支配」どまりともなっている。
インド本国で仏教が隆盛していたのも、今から約1500〜2000年前の、インド文化の
最盛期でもあったのだから、「儒学は仏教以上だ」などということは決して言えない。しかし、
◎万年泰平状態をも実現する仏教統治・・・とてつもなく素晴らしい。
○長期の泰平と一時の乱世との順繰りに持ち込む儒学・・・まだマシなほう。
×世の中を引っ切り無しの戦乱状態に陥れるカルト支配・・・目の当て所もない。
であり、犯罪聖書を根本理念とする権力犯罪支配と比べれは、
仏教統治とまでいかずとも、儒学統治ですらまだマシな部類に入る。
「統治」という言葉には、ある程度は「世の乱れを収拾する」という意味も込められているから、
ある程度は世の中を収拾できる、仏教や儒学による支配の場合は「統治」とも呼ぶことができるが、
犯罪聖書によるカルト支配の場合は、世の中を最悪の乱世に陥れているばかりなので、「統治」と
呼ぶことはできず、ただただ強権を濫用してでかい顔をするだけの「支配」どまりともなっている。
なんで一部分しか顧みないんだ?記憶の改竄をしているのか?
過去においても決して平和ではなかったし、この数百年で社会は飛躍的に進歩を遂げている。
それによる印刷技術や現在の携帯やパソコンがなければ、アナタは一介のオッチャンでしょう。
何にしても他人の労働力を軽視しているとしか思えない。
現存在も知識を受け継いできたからこその知恵や思考であり、己そのものによって成り立つものなど一つとしてない。
そういった発展性の上にふんぞり返った考え方だ。物事には反動があり、一面だけを見ても真実とは言えない。道徳者はそんなことも知らないのか?
便利になっても尚欲望をもっている。カタチは少しちがっても、それと同じことだろう?アナタが指摘した積善や積徳の要求と同じものだよ。
己にとって都合よいことを節度とのたまう道徳者。
過去においても決して平和ではなかったし、この数百年で社会は飛躍的に進歩を遂げている。
それによる印刷技術や現在の携帯やパソコンがなければ、アナタは一介のオッチャンでしょう。
何にしても他人の労働力を軽視しているとしか思えない。
現存在も知識を受け継いできたからこその知恵や思考であり、己そのものによって成り立つものなど一つとしてない。
そういった発展性の上にふんぞり返った考え方だ。物事には反動があり、一面だけを見ても真実とは言えない。道徳者はそんなことも知らないのか?
便利になっても尚欲望をもっている。カタチは少しちがっても、それと同じことだろう?アナタが指摘した積善や積徳の要求と同じものだよ。
己にとって都合よいことを節度とのたまう道徳者。
こちとら、生活水準が江戸時代にまで戻るのも覚悟の上で書いてるんだもの。
パソコンも携帯も自動車も飛行機も使えなくなる一方で、
俺のほうとはといえば、定職に就いて妻子も養い、和本に原漢文だけの四書五経で勉強し、
うまくいきゃ二本差しの上級武士として、誰しもからの尊敬の的ともなっている。
完全に江戸時代に戻るってことも、実際のところまずないだろうが、
最悪の場合にはそうなることすら、覚悟の上で書いてもいる。
人として、最低限の品位ある生活を営む上で必要不可欠なものは、
江戸時代の時点ですべて用意されていたのであり、近現代文明の発展などは、
余計なものばかりの付け足しもいいとこ。確かにそれで楽しめることもあるが、
別にそれでなくたっていいものばかりで、しかも何億人もの人々の犠牲によってのみ
成り立っているものばかり。そんなものばかりの環境に安住しようってほうが、
安からざるところに安らぎ、楽しからざるところを楽しむ「狂生(荀子)」というものだ。
パソコンも携帯も自動車も飛行機も使えなくなる一方で、
俺のほうとはといえば、定職に就いて妻子も養い、和本に原漢文だけの四書五経で勉強し、
うまくいきゃ二本差しの上級武士として、誰しもからの尊敬の的ともなっている。
完全に江戸時代に戻るってことも、実際のところまずないだろうが、
最悪の場合にはそうなることすら、覚悟の上で書いてもいる。
人として、最低限の品位ある生活を営む上で必要不可欠なものは、
江戸時代の時点ですべて用意されていたのであり、近現代文明の発展などは、
余計なものばかりの付け足しもいいとこ。確かにそれで楽しめることもあるが、
別にそれでなくたっていいものばかりで、しかも何億人もの人々の犠牲によってのみ
成り立っているものばかり。そんなものばかりの環境に安住しようってほうが、
安からざるところに安らぎ、楽しからざるところを楽しむ「狂生(荀子)」というものだ。
近現代を支配する精神原理である犯罪聖書よりも、江戸時代までの日本などを統治する精神原理だった
四書五経のほうが一つ一つの文言からして優良であり、その実践によって最悪の戦乱状態ぐらいは確かに
免れられてもいたわけだから、どう考えたって江戸時代までの日本のほうが今よりもマシだったといえる。
どんなに膨大な金や技術や暴力などで取り繕ったところで、肝心の精神性の部分が
決定的に脆弱であり、常敗無勝の状態であるわけだから、どんなに文明構造は簡素であったところで、
その精神性については常に必ずそれ以上であるもののほうが、総合的にもより優良なものであり続ける。
物質や技術や力などは、所詮は精神という根本に対する末節でしかないのだから。
「君食を賜へば、必ず席を正して之れを先に嘗む。君腥を賜へば、必ず熟して之れを薦む。君生を賜へば、必ず之れを畜う」
「孔先生は、君公から賜物として料理を頂いたときには、必ず自ら味見をしてから一族のものに分け与えられた。
生肉を頂いたときには、よく煮て調理した上で先祖への供物とされた。家畜などの生き物を頂いたときには、
お祭りの際の生け贄にするまで責任をもって飼育された(賜物は決して私物にはしなかった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・一二より)
四書五経のほうが一つ一つの文言からして優良であり、その実践によって最悪の戦乱状態ぐらいは確かに
免れられてもいたわけだから、どう考えたって江戸時代までの日本のほうが今よりもマシだったといえる。
どんなに膨大な金や技術や暴力などで取り繕ったところで、肝心の精神性の部分が
決定的に脆弱であり、常敗無勝の状態であるわけだから、どんなに文明構造は簡素であったところで、
その精神性については常に必ずそれ以上であるもののほうが、総合的にもより優良なものであり続ける。
物質や技術や力などは、所詮は精神という根本に対する末節でしかないのだから。
「君食を賜へば、必ず席を正して之れを先に嘗む。君腥を賜へば、必ず熟して之れを薦む。君生を賜へば、必ず之れを畜う」
「孔先生は、君公から賜物として料理を頂いたときには、必ず自ら味見をしてから一族のものに分け与えられた。
生肉を頂いたときには、よく煮て調理した上で先祖への供物とされた。家畜などの生き物を頂いたときには、
お祭りの際の生け贄にするまで責任をもって飼育された(賜物は決して私物にはしなかった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・一二より)
アナタは欧米を毛嫌いしているが、実際に日本を潰そうとしているのは、在日を操ったり情報操作しようとする反日などの勢力のほうではないのか?
アナタの好きな某アジアの人間が日本に入り込み、欧米文化の都合よい部分だけを取り入れ、テレビなどをはじめとしてメディアで統制しようと利用しているのだろう?
その結果が現在ではないのか?
日本人には合わないであろう韓流などのTVドラマやKARAや少女時代などを放送して、徐々に浸透させているのではないのか?アナタも売国屋の一員なのか?
欧米と反日が反発してるのか組んでいるのかは知らないが
日本に対しては、どちらかと言えばアジアの人間のほうが直接的に関与しているよ
アナタの得た情報も改竄-編集-統制されてるよ
とうぜん手にすることができるものはすべてがそういったものだ
ネットワークは混濁しているようだが、唯一統制が行き届かない聖域だ
アナタの好きな某アジアの人間が日本に入り込み、欧米文化の都合よい部分だけを取り入れ、テレビなどをはじめとしてメディアで統制しようと利用しているのだろう?
その結果が現在ではないのか?
日本人には合わないであろう韓流などのTVドラマやKARAや少女時代などを放送して、徐々に浸透させているのではないのか?アナタも売国屋の一員なのか?
欧米と反日が反発してるのか組んでいるのかは知らないが
日本に対しては、どちらかと言えばアジアの人間のほうが直接的に関与しているよ
アナタの得た情報も改竄-編集-統制されてるよ
とうぜん手にすることができるものはすべてがそういったものだ
ネットワークは混濁しているようだが、唯一統制が行き届かない聖域だ
中朝の共産主義者と韓国のキリスト教徒が、日本の資本主義者に攻撃を仕掛ける。
どこにも正義のない、ゴミとゴミとゴミとゴミの争いだね。
そもそものゴミ争いの元凶であるゴミそのもの、欧米聖書圏が崩壊すれば一発解決。
どこにも正義のない、ゴミとゴミとゴミとゴミの争いだね。
そもそものゴミ争いの元凶であるゴミそのもの、欧米聖書圏が崩壊すれば一発解決。
好きだとか嫌いだとかの、女子供にとってばかり絶対的な
価値基準にすべてを還元してしまっていい話でもない。
ここ百数十年の、極東社会における諸々のいざこざですら、
帝国主義だの軍国主義だの資本主義だの共産主義だのキリスト教だのの
欧米原産のイデオロギーや宗教信仰によって引き起こされたものばかり。
戦前の日本の国家神道ですら、平田篤胤がキリスト教のドグマ志向を神道に取り入れた
代物で、儒学のような正統な東洋の学問はもちろんのこと、神社神道や沙門仏教などの
正統な東洋宗教が、近代以降の国際社会で活躍の場を得たような事実すらない。
今の、多くの中国人やインド人の、風体の薄汚さやみすぼらしさだって、
たった二割以下の地球資源で、十億人以上もの人々の生活を切り盛りする無理がたたって
いるからこそものであり、欧米人のように重権力犯罪によって八割以上の地球資源を独占する
ような罪業には及んでいないから、そうなってしまっているもの。逆に、欧米人のほうの
体格の良さや物質的繁栄などは、当該の重権力犯罪によってこそ獲得されたものなのだから、
たとえそれが魅力的に見えたとしても、魅力的だからといって決して善なのではなく、
最悪の罪業の実行者だからこそそうなっていることが明らか。
好きだから善だ、嫌いだから悪だ、そんな蒙昧が普遍的に通用するわけもなく、
悪だからこそ好きになれる、善だからこそ好きになれないなんてことはいくらでもある。
「巧言令色すくなきは仁なり」であり、巧言令色のやり手こそは人気をも得るのだから。
「今商王受、無道にして、天物を暴殄し、烝民を害虐す。天下に逋逃の主となり、萃淵藪となる」
「いま殷の紂王は、大逆無道にして、天地の万物を強奪によって損壊せしめ、無辜の市民たちに
危害を加える暴虐を働いている。それでいて天下に遍く指名手配された逃亡犯どもを囲い、
逃亡犯どもはまるで穴ぐらや淵や沼の茂みに逃げ込むように、紂王の傍を救いの場としている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・武成より)
価値基準にすべてを還元してしまっていい話でもない。
ここ百数十年の、極東社会における諸々のいざこざですら、
帝国主義だの軍国主義だの資本主義だの共産主義だのキリスト教だのの
欧米原産のイデオロギーや宗教信仰によって引き起こされたものばかり。
戦前の日本の国家神道ですら、平田篤胤がキリスト教のドグマ志向を神道に取り入れた
代物で、儒学のような正統な東洋の学問はもちろんのこと、神社神道や沙門仏教などの
正統な東洋宗教が、近代以降の国際社会で活躍の場を得たような事実すらない。
今の、多くの中国人やインド人の、風体の薄汚さやみすぼらしさだって、
たった二割以下の地球資源で、十億人以上もの人々の生活を切り盛りする無理がたたって
いるからこそものであり、欧米人のように重権力犯罪によって八割以上の地球資源を独占する
ような罪業には及んでいないから、そうなってしまっているもの。逆に、欧米人のほうの
体格の良さや物質的繁栄などは、当該の重権力犯罪によってこそ獲得されたものなのだから、
たとえそれが魅力的に見えたとしても、魅力的だからといって決して善なのではなく、
最悪の罪業の実行者だからこそそうなっていることが明らか。
好きだから善だ、嫌いだから悪だ、そんな蒙昧が普遍的に通用するわけもなく、
悪だからこそ好きになれる、善だからこそ好きになれないなんてことはいくらでもある。
「巧言令色すくなきは仁なり」であり、巧言令色のやり手こそは人気をも得るのだから。
「今商王受、無道にして、天物を暴殄し、烝民を害虐す。天下に逋逃の主となり、萃淵藪となる」
「いま殷の紂王は、大逆無道にして、天地の万物を強奪によって損壊せしめ、無辜の市民たちに
危害を加える暴虐を働いている。それでいて天下に遍く指名手配された逃亡犯どもを囲い、
逃亡犯どもはまるで穴ぐらや淵や沼の茂みに逃げ込むように、紂王の傍を救いの場としている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・武成より)
>>444の引用と直接関係があるわけではないが、逃亡犯でもあるような盗人どもの甘言に、
為政者たる君子(「道徳者」という意味での「君子」ではない)までもがたぶらかされて、
国家や社会ぐるみでの重権力犯罪が横行することが、戦乱状態の元凶中の元凶となると、
3000年以上前の中国でも明確に指摘されている。
犯罪聖書の全文が成立したのはたかだか1900年前やそこらだから、人類文明が発祥した
太古の昔から延々と、犯罪聖書が重権力犯罪の元凶中の元凶であり続けているわけでは決してないが、
犯罪聖書成立以降の約1900年、特にここ数百年当たりにおける地球規模での重権力犯罪は、
その全てがことごとく、犯罪聖書中の虚言甘言讒言放言巧言を、精神原理からの元凶としている。
巧言令色こそは確かに戦乱の元凶ともなるのであり、詐欺同然の虚言すらもが
言論の自由の名の下に容認されていることもまた、戦乱を助長する原因となっている。
「我々は限りのない戦乱を欲している」と明言するのならまだしも、戦乱を助長する過程で
「我々は平和を欲している」かのような虚言をも織り交ぜることで、社会的な反発をも避けている。
それが虚言家の常套手段であるのも確かだが、責任ある為政者の側までもがそのような虚言に
いつまでもたぶらかされているのであれば、ただただ自他共々の破滅が待っているのみだ。
為政者たる君子(「道徳者」という意味での「君子」ではない)までもがたぶらかされて、
国家や社会ぐるみでの重権力犯罪が横行することが、戦乱状態の元凶中の元凶となると、
3000年以上前の中国でも明確に指摘されている。
犯罪聖書の全文が成立したのはたかだか1900年前やそこらだから、人類文明が発祥した
太古の昔から延々と、犯罪聖書が重権力犯罪の元凶中の元凶であり続けているわけでは決してないが、
犯罪聖書成立以降の約1900年、特にここ数百年当たりにおける地球規模での重権力犯罪は、
その全てがことごとく、犯罪聖書中の虚言甘言讒言放言巧言を、精神原理からの元凶としている。
巧言令色こそは確かに戦乱の元凶ともなるのであり、詐欺同然の虚言すらもが
言論の自由の名の下に容認されていることもまた、戦乱を助長する原因となっている。
「我々は限りのない戦乱を欲している」と明言するのならまだしも、戦乱を助長する過程で
「我々は平和を欲している」かのような虚言をも織り交ぜることで、社会的な反発をも避けている。
それが虚言家の常套手段であるのも確かだが、責任ある為政者の側までもがそのような虚言に
いつまでもたぶらかされているのであれば、ただただ自他共々の破滅が待っているのみだ。
「亂の初め生ずるも、僭の始めに既に涵るればなり。
亂の又た生ずるも、君子の讒を信ずればなり。
君子如し怒れば、亂も庶わば遄かに沮みなん。
君子如し祉べば、亂も庶わば遄かに已みなん。
君子の屢ばしば盟うや、亂も是の用えに長きに。
君子の盜を信ずるや、亂も是の用えに暴しき。
盜言の孔だ甘し、亂も是の用えに餤む」
「戦乱もその発端はといえば、必ず僭越な虚言が横行し始めたことによる。
戦乱が絶え間なく繰り返されることもまた、君子から不埒な讒言を信じ込んでいることによる。
君子がもしこのような惨状を心から憤怒すれば、戦乱もその願いどおり速やかに止むであろう。
君子が惨劇の終焉を心から喜べば、戦乱も願いどおりに終息しつづけて止まない。
しかし実際はといえば、守れもしないような空手形の誓約ばかりが横行して、戦乱もこの故に収まることがない。
盗人の詐欺目的の虚言ばかりが信ぜられて、戦乱もこの上なくその激しさを増していく。
盗人どもの虚言の甘美さばかりに惑わされ、戦乱もどこまでも進行し続ける」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)
亂の又た生ずるも、君子の讒を信ずればなり。
君子如し怒れば、亂も庶わば遄かに沮みなん。
君子如し祉べば、亂も庶わば遄かに已みなん。
君子の屢ばしば盟うや、亂も是の用えに長きに。
君子の盜を信ずるや、亂も是の用えに暴しき。
盜言の孔だ甘し、亂も是の用えに餤む」
「戦乱もその発端はといえば、必ず僭越な虚言が横行し始めたことによる。
戦乱が絶え間なく繰り返されることもまた、君子から不埒な讒言を信じ込んでいることによる。
君子がもしこのような惨状を心から憤怒すれば、戦乱もその願いどおり速やかに止むであろう。
君子が惨劇の終焉を心から喜べば、戦乱も願いどおりに終息しつづけて止まない。
しかし実際はといえば、守れもしないような空手形の誓約ばかりが横行して、戦乱もこの故に収まることがない。
盗人の詐欺目的の虚言ばかりが信ぜられて、戦乱もこの上なくその激しさを増していく。
盗人どもの虚言の甘美さばかりに惑わされ、戦乱もどこまでも進行し続ける」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)
誰でも、現在の目的は遠い理想にはなく、目の前の現実にある。理想や建て前と比較して、その現実を受け入れられない人間が、たとえば天皇や相撲取りや政党などに、結果的な部分だけで理想ごと否定します。原因は、生来の人間性を無視して高尚さを掲げているからです。
できるわけがないのに宣言したりするのは何故か?それはチャンスを得るための建て前だからです。社会は、そういった理想や建て前を掲げて統率しようとしていますが、現実は武器を取り上げて戦場に放り込むが如くです。
前にも似たような内容のものは書きましたが、四書五経は建て前を語っているだけだよ。できもしない-己にしかできない素晴らしい生き方を説いてどうする?
自分さえよければ-というなら人里離れて山奥で暮らせばいいだけだろ
できるわけがないのに宣言したりするのは何故か?それはチャンスを得るための建て前だからです。社会は、そういった理想や建て前を掲げて統率しようとしていますが、現実は武器を取り上げて戦場に放り込むが如くです。
前にも似たような内容のものは書きましたが、四書五経は建て前を語っているだけだよ。できもしない-己にしかできない素晴らしい生き方を説いてどうする?
自分さえよければ-というなら人里離れて山奥で暮らせばいいだけだろ
四書五経の内容は「できないこと」じゃない。
頂点の君主から底辺の下民まで、誰にでもできる程度の
最低限の「庸徳」のみを列挙していっているものであり、
だからこそより高尚な仏門などの教義よりも程度の低いものともされている。
富貴も色情も戦意も憤怒も全否定はせず、ただそのようなあまり高尚とはされない理念が
最悪の重権力犯罪行為にだけは仕向けられないように、というのが儒家教学の要旨。
さらにここからもう一段下がれば、後はもう数億人規模の犠牲を伴う
最悪の重権力犯罪行為をも推進する、最劣等のカルト教学の実践があるのみ。
別にそこまでひどくなくたって、儒学程度の、最低限の分別をわきまえた生き方もまた、
全ての俗人が実践を試みて、実際に十分な実現が可能となるものであり、
むしろ最悪の重権力犯罪行為を誰しもに強要したりするほうが、かえって無理を来たすもの。
実際に致命的な無理を来たしてもいるから、このままでは人類もそう先は長くない。
「現実性に乏しい」という点でも、儒学以上にも聖書信仰のほうが適格な存在でもある。
頂点の君主から底辺の下民まで、誰にでもできる程度の
最低限の「庸徳」のみを列挙していっているものであり、
だからこそより高尚な仏門などの教義よりも程度の低いものともされている。
富貴も色情も戦意も憤怒も全否定はせず、ただそのようなあまり高尚とはされない理念が
最悪の重権力犯罪行為にだけは仕向けられないように、というのが儒家教学の要旨。
さらにここからもう一段下がれば、後はもう数億人規模の犠牲を伴う
最悪の重権力犯罪行為をも推進する、最劣等のカルト教学の実践があるのみ。
別にそこまでひどくなくたって、儒学程度の、最低限の分別をわきまえた生き方もまた、
全ての俗人が実践を試みて、実際に十分な実現が可能となるものであり、
むしろ最悪の重権力犯罪行為を誰しもに強要したりするほうが、かえって無理を来たすもの。
実際に致命的な無理を来たしてもいるから、このままでは人類もそう先は長くない。
「現実性に乏しい」という点でも、儒学以上にも聖書信仰のほうが適格な存在でもある。

グリームスヴォトン山などが立て続けに噴火して、全世界規模での冷害が発生した。
洋の東西を問わず歴史的な農作物の凶作に見舞われ、これが原因となって、
フランスでは王政を転覆させて共和政を敷くフランス革命が勃発したが、
日本のほうはといえば、これまた近世日本史上最悪の飢饉である天明の大飢饉に見舞われ、
90万人以上もの人々が餓死する大災害となっていた。そのためにやはり世相も乱れて
火付盗賊などが横行し、その火盗を取り締まる鬼平のような人物の活躍もあったわけだが、
それでもやはりフランスのように、天災被害の責任を体制に押し付けて、
王政を転覆させるような重権力犯罪にまでは至らなかった。それもやはり、
忠信を旨とする儒家教学の、民衆にまでもの教育が行き届いていたからで、
どんなに低劣な俗人だろうとも、社会ぐるみでの正学のわきまえによって、
体制崩壊級の権力犯罪ぐらいは思いとどまらせることが可能である証拠になっている。
この世で儒学ほど、「そうであるしか仕方がない」、
人としての不可避なるあり方を指し示したものも他にない。
結局は、自然災害の責任を体制に押し付ける暴挙にすぎなかったフランス革命も、
西洋社会を破滅級の狂乱へとけしかけるきっかけとなったばかりであり、「天災の恨みを
人に向けたりしてはいけない」という分別を保てていた日本以上にも、西洋社会を
最終的な衰亡へと追いやる原因になってしまったのみ。同時期に酷烈な飢餓にあえいでいた
日本の民衆なども、そんなにいい思いをしていたなどとは決していえないが、ただ、
天災の恨みを人に向けたりしたところでいいことは何もないというのも確かなことであったために、
最終的には西洋社会ほどもの恥辱を味わわされずに済むこととなった。いいこともあれば
悪いこともある世の中において、「そうであるしか仕方がない」という意味でも、
比較的マシな処世のあり方を天下万民に提供するのが、儒学であるのみだともいえる。
四書五経と犯罪聖書の記述はことごとく相反しているから、
もし四書五経などに基づいて儒学を実践するのであれば、犯罪聖書の記述の実践のほうを禁止しなければならない。
難しいのは、四書五経の実践以上にも、犯罪聖書の実践の禁止のほうであり、
犯罪聖書の実践すら禁止できたなら、四書五経のほうの実践のほうは、
それこそ幼稚園児にだってできるぐらいに簡単なもの。
あたかも麻薬中毒者が薬物中毒から脱け出すときのような禁断症状が、
聖書信仰から脱却する上での障壁ともなるわけだが、そこすら通り過ぎられたなら、
後は軽々と庸徳の実践もできるようになる。それこそ、犯罪聖書の実践などよりも遥かに簡単に。
○
「篤く信じて学を好み、死を守りて道を善くし、危邦には入らず、乱邦には居らず」
「心を尽くした信頼と共に、学問によって知識を得ることを好み、たとえ自らの命を犠牲にすることを認めながらでも、
知識を捨ててまでの絶対服従を強要するような劣悪な邪神に帰依したりはしない、人としての正しい道を守り抜き、
カルト犯罪者が支配しているような危険な国には入らず、体制転覆が横行するような乱れた国にも居つかない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・一三より)
×
「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。
すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」
(権力犯罪聖書——通称聖書——讒言3:5‐6)
もし四書五経などに基づいて儒学を実践するのであれば、犯罪聖書の記述の実践のほうを禁止しなければならない。
難しいのは、四書五経の実践以上にも、犯罪聖書の実践の禁止のほうであり、
犯罪聖書の実践すら禁止できたなら、四書五経のほうの実践のほうは、
それこそ幼稚園児にだってできるぐらいに簡単なもの。
あたかも麻薬中毒者が薬物中毒から脱け出すときのような禁断症状が、
聖書信仰から脱却する上での障壁ともなるわけだが、そこすら通り過ぎられたなら、
後は軽々と庸徳の実践もできるようになる。それこそ、犯罪聖書の実践などよりも遥かに簡単に。
○
「篤く信じて学を好み、死を守りて道を善くし、危邦には入らず、乱邦には居らず」
「心を尽くした信頼と共に、学問によって知識を得ることを好み、たとえ自らの命を犠牲にすることを認めながらでも、
知識を捨ててまでの絶対服従を強要するような劣悪な邪神に帰依したりはしない、人としての正しい道を守り抜き、
カルト犯罪者が支配しているような危険な国には入らず、体制転覆が横行するような乱れた国にも居つかない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・一三より)
×
「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。
すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」
(権力犯罪聖書——通称聖書——讒言3:5‐6)
噴火は革命の遠因に過ぎず階級社会への反発が発端だったはず
困窮に陥れば人間は本性をむき出しにする-それに情報(ルソー)を与えてやれば-現実的な行動を開始するというのが革命の真実
ほとんどの人間には主体性がない
日本の事例にしても強烈なリーダーなどが煽動すれば民衆はどうとでも動きます
民衆に教育が行き届いていたわけではなく-民衆にはどうすることもできなかった、が正しい
それに
諸説はあるが冷害は噴火より先にあったはず
モノは言い様というやつか…
打ちこわしにしろ革命にしろ四書五経はできないことだと現実で証明されている
困窮に陥れば人間は本性をむき出しにする-それに情報(ルソー)を与えてやれば-現実的な行動を開始するというのが革命の真実
ほとんどの人間には主体性がない
日本の事例にしても強烈なリーダーなどが煽動すれば民衆はどうとでも動きます
民衆に教育が行き届いていたわけではなく-民衆にはどうすることもできなかった、が正しい
それに
諸説はあるが冷害は噴火より先にあったはず
モノは言い様というやつか…
打ちこわしにしろ革命にしろ四書五経はできないことだと現実で証明されている
できないんじゃない、しないし、させないんだ。
天災による困窮の責任を、お上に全て押し付けようってほうが間違いであり、
実際そんな迷妄を礼賛して推進してきたから、昨今の地球社会における数億人規模もの餓死が発生してしまってもいる。
問題の解決法を根本的に取り違える過ちを、
230年前の日本人たちに犯させなかったことこそは四書五経の側の業績であり、
大天災があったからといって、フランス革命のような“人災”の惨事までをも
派生させたりはしなかったことこそは、評価されて然るべきところだ。
「体制への反発」なんてのも、所詮は蒙昧な大衆意志を美化するための言い訳に過ぎず、
忠信を貫く心意気にも長けていた、同時期の日本人などと比べれば劣位なものとして扱われるべきものだ。
天災による困窮の責任を、お上に全て押し付けようってほうが間違いであり、
実際そんな迷妄を礼賛して推進してきたから、昨今の地球社会における数億人規模もの餓死が発生してしまってもいる。
問題の解決法を根本的に取り違える過ちを、
230年前の日本人たちに犯させなかったことこそは四書五経の側の業績であり、
大天災があったからといって、フランス革命のような“人災”の惨事までをも
派生させたりはしなかったことこそは、評価されて然るべきところだ。
「体制への反発」なんてのも、所詮は蒙昧な大衆意志を美化するための言い訳に過ぎず、
忠信を貫く心意気にも長けていた、同時期の日本人などと比べれば劣位なものとして扱われるべきものだ。
単に民衆には何故困窮に陥っているのかを理解できず、問題点を自然の法則だと思うしかなかっただけだ。
その時代の民衆も情報統制されているため、ワケもわからずシッカリと取り立てられている。
一部分-聞こえのいい部分だけに業績だなどとこじつけもいいところだ。
しない-させない
これは現実的にできないということなんだよ
人間生来の本性は統制された安定を好む-これは生き物として当たり前の行動原理-知識で鑑みてもそれが有益であると分かる。
それは統制する側も同じで、より有益で安定を好むめに、どんどん搾取するための案をアメとムチのように使い分ける。
その中の気まぐれのような善意に『これこそは四書五経の業績』などと取り入ろうとする道徳者も、また、自然の営みであり欲の権化-一つの生き方であると言える。
そういった生活の術を、『四書五経こそは真の聖書』などと正当化するのも個人的な有益さであるから否定はしない。
ただ、己の獣性に気がついていないだけ-孔子も、また、小人なのだから仕方ない。
道徳者は様々な術を駆使して懸命に生き抜いてきたのだな…己の本性を素直に認めれば楽な生き方もあるというのに…
生きる術として-詐欺商法としての道徳者が在ったことは認めよう。現実性のない夢のように
これからも、矛盾ない詐欺を駆使して生きるのだぞ?ガンバレ!
その時代の民衆も情報統制されているため、ワケもわからずシッカリと取り立てられている。
一部分-聞こえのいい部分だけに業績だなどとこじつけもいいところだ。
しない-させない
これは現実的にできないということなんだよ
人間生来の本性は統制された安定を好む-これは生き物として当たり前の行動原理-知識で鑑みてもそれが有益であると分かる。
それは統制する側も同じで、より有益で安定を好むめに、どんどん搾取するための案をアメとムチのように使い分ける。
その中の気まぐれのような善意に『これこそは四書五経の業績』などと取り入ろうとする道徳者も、また、自然の営みであり欲の権化-一つの生き方であると言える。
そういった生活の術を、『四書五経こそは真の聖書』などと正当化するのも個人的な有益さであるから否定はしない。
ただ、己の獣性に気がついていないだけ-孔子も、また、小人なのだから仕方ない。
道徳者は様々な術を駆使して懸命に生き抜いてきたのだな…己の本性を素直に認めれば楽な生き方もあるというのに…
生きる術として-詐欺商法としての道徳者が在ったことは認めよう。現実性のない夢のように
これからも、矛盾ない詐欺を駆使して生きるのだぞ?ガンバレ!
カルト信仰に脳みそをやられてヘロヘロになっているところに、
さらに天災が襲ってきたもんだから、ついカッとなってやってしまったってのは、確かだろう。
でも、別にそれが「偉い」だなんてことはもちろんない。
むしろ民の側の道徳的研鑽によって、天災はともかく、人災のほうだけは、
最小限に控えられていたことのほうが、よっぽど偉かったというもの。
残念ながら起こってしまった凶事を、相応なものとして弔うのならともかく、
天災に不必要な人災が折り重なった「凶事の上塗り」を、
半ば吉事も同然のものとして取り扱ったりするのだから、目も当てられない。
天災に対して必死で耐えていた、道徳主義社会の人々が偉大だったという以上にも、
最悪の乱行を偉業だったなどと思い込んで悦に入る、犯罪主義社会の衆愚のほうが無様すぎただけのことだ。
劣悪で、しかも無様だった。
その、あまりにもの救いようのなさに我をも見失って、
まともな自己評価までもが追い付かなくなっているだけだ。
さらに天災が襲ってきたもんだから、ついカッとなってやってしまったってのは、確かだろう。
でも、別にそれが「偉い」だなんてことはもちろんない。
むしろ民の側の道徳的研鑽によって、天災はともかく、人災のほうだけは、
最小限に控えられていたことのほうが、よっぽど偉かったというもの。
残念ながら起こってしまった凶事を、相応なものとして弔うのならともかく、
天災に不必要な人災が折り重なった「凶事の上塗り」を、
半ば吉事も同然のものとして取り扱ったりするのだから、目も当てられない。
天災に対して必死で耐えていた、道徳主義社会の人々が偉大だったという以上にも、
最悪の乱行を偉業だったなどと思い込んで悦に入る、犯罪主義社会の衆愚のほうが無様すぎただけのことだ。
劣悪で、しかも無様だった。
その、あまりにもの救いようのなさに我をも見失って、
まともな自己評価までもが追い付かなくなっているだけだ。
IQ100程度の平均知能を持ち合わせている、人としての本性を最大限に引き伸ばしたなら、
それこそはまさに「道徳的研鑽」に至るのであり、むしろ人々のIQを20〜35の重度知的障害レベルにまで
落とし込んでの、チンパンジー以下の迷妄に陥れることのほうが、かえって無駄に作為的な試みというもの。
人間という生き物、人類社会や人類文明のあり方を、その根本的な存在性にかなう形で文言面から司ってきたのが、
全世界全地球人類にとっての聖書中の聖書であり、第一の聖書であり、第一に真正なる聖書でもある四書五経。
その成立も犯罪聖書などより遥かに古く、発行部数も桁外れに多く、その内容の上質さでも遥かに上回る。
「質で上回る」というのも、四書五経こそは人という生き物の素直な本性をありのままに、順当な形で捉えているからであり、
わざわざあえて必要もなく好き好んで、人間の本性を実際以上にも劣悪なものとして捉える、新旧約犯罪聖書のような余計
かつ有害無益な作為を排しているからこそのこと。人間という生き物の「本当の初期条件(デフォルト)」をありのままに
取り扱っているからこそ、犯罪聖書以上の内容の上質さをも恒常的に保てているのであり、その初期条件に対する扱いも、
書物として著す上では最低限の作為の介入と共にのみであるように努められている。その、楚々とした記述姿勢と比べれば、
むしろ犯罪聖書の記述姿勢のほうが全く不細工な作為の塊であるといえ、そのせいで極端に読みにくいものともなっている。
それこそはまさに「道徳的研鑽」に至るのであり、むしろ人々のIQを20〜35の重度知的障害レベルにまで
落とし込んでの、チンパンジー以下の迷妄に陥れることのほうが、かえって無駄に作為的な試みというもの。
人間という生き物、人類社会や人類文明のあり方を、その根本的な存在性にかなう形で文言面から司ってきたのが、
全世界全地球人類にとっての聖書中の聖書であり、第一の聖書であり、第一に真正なる聖書でもある四書五経。
その成立も犯罪聖書などより遥かに古く、発行部数も桁外れに多く、その内容の上質さでも遥かに上回る。
「質で上回る」というのも、四書五経こそは人という生き物の素直な本性をありのままに、順当な形で捉えているからであり、
わざわざあえて必要もなく好き好んで、人間の本性を実際以上にも劣悪なものとして捉える、新旧約犯罪聖書のような余計
かつ有害無益な作為を排しているからこそのこと。人間という生き物の「本当の初期条件(デフォルト)」をありのままに
取り扱っているからこそ、犯罪聖書以上の内容の上質さをも恒常的に保てているのであり、その初期条件に対する扱いも、
書物として著す上では最低限の作為の介入と共にのみであるように努められている。その、楚々とした記述姿勢と比べれば、
むしろ犯罪聖書の記述姿勢のほうが全く不細工な作為の塊であるといえ、そのせいで極端に読みにくいものともなっている。
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スレッドタイトル:聖書 Part5