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聖書 Part5
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「聖書」という言葉の原典となっている「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下の記述に基づけば、「聖書」とは
①聖人が書いた書物。
②叙勲などを司る記録官による、正式な記録作業によって編纂された書類。
③賢愚の分け隔てなく全ての評価対象者をおしなべて取り上げた書物。
④賢愚をおしなべて取り上げつつも、その格の上下に合わせた公正な評価が行き届いている書物。
⑤年功や等級の高低を重視し、分をわきまえない僭越などを十全に排している書物。
といった条件を満たしている書物のことであり、そのような書物の中でも、最も代表的かつ古典的であるのが四書五経。
①の条件は孔子の書いた「易経」繋辞伝や「春秋経」、曾子の書いた「大学」や子思子の書いた「中庸」などが満たしている。
②の条件は太古の正式な政治記録である「書経」が(ただしあまりにも太古過ぎるため、多少の修繕がなされている)、
③と④の条件は「詩経」の大雅小雅両篇や「春秋経」が、⑤の条件は身分秩序を重んじる「易経」「論語」「礼記」などが
満たしている。まさに四書五経こそは、「聖書」という言葉の厳密な条件を満たしきるために著されたような書物であり、
これほどにも聖書の名に値する書物は、他に存在しないと言えるほど。ここはその真正聖書たる四書五経などについて語るスレ。
(画像は「論語」の主人公孔子、「孟子」の主人公孟子、「大学」の著者曾子、「中庸」の著者子思子の四名。四書の各筆頭)

①聖人が書いた書物。
②叙勲などを司る記録官による、正式な記録作業によって編纂された書類。
③賢愚の分け隔てなく全ての評価対象者をおしなべて取り上げた書物。
④賢愚をおしなべて取り上げつつも、その格の上下に合わせた公正な評価が行き届いている書物。
⑤年功や等級の高低を重視し、分をわきまえない僭越などを十全に排している書物。
といった条件を満たしている書物のことであり、そのような書物の中でも、最も代表的かつ古典的であるのが四書五経。
①の条件は孔子の書いた「易経」繋辞伝や「春秋経」、曾子の書いた「大学」や子思子の書いた「中庸」などが満たしている。
②の条件は太古の正式な政治記録である「書経」が(ただしあまりにも太古過ぎるため、多少の修繕がなされている)、
③と④の条件は「詩経」の大雅小雅両篇や「春秋経」が、⑤の条件は身分秩序を重んじる「易経」「論語」「礼記」などが
満たしている。まさに四書五経こそは、「聖書」という言葉の厳密な条件を満たしきるために著されたような書物であり、
これほどにも聖書の名に値する書物は、他に存在しないと言えるほど。ここはその真正聖書たる四書五経などについて語るスレ。
(画像は「論語」の主人公孔子、「孟子」の主人公孟子、「大学」の著者曾子、「中庸」の著者子思子の四名。四書の各筆頭)

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「種を撒く」という比喩が、大多数の民衆が従事する「産業」であることからも、
民衆のハートを鷲づかみにする魂胆までもが見え透いているわけだが、
政産一致を説く墨家の徒であったらしい許子の意見に対する孟子の反論として、
以下のようなものもある。(長いので原文は載せず、訳文を改行して二つに分ける)
「陳相が孟子に会い、許行の言葉を引き合いに出しつつ言った。
『滕の殿様はなかなかに賢いお方です。しかしながら、未だ真の道義を知っているとは言えません。
許氏の言うことには、賢者は民と共に並び耕して自ら育てた穀物を食し、朝晩の自炊も行いながら世を治めるものだといいます。
ところが、今の滕には米倉も金蔵もあり、これは要するに君主が民の労働に頼って自らを養ってもらっているということです。
どうしてこれが賢いなどと言えましょうか』
孟子は答えて言った。『許氏は必ず自ら穀物の種を撒いて育て、しかる後に自ら食するのか』
『そうです』
『許氏は必ず布を織ってからそれを着るのか』
『いえ、織って着るのではなく、毛皮の衣を着ています』
『許氏は(為政者の正装である)冠をかぶっているのか』
『はい』
『どんな冠をかぶっているのか』
『白絹の簡素なものをかぶっています』
『では、その白絹は自分で織っているのか』
『いえ、自分で織ってはいませんが、自ら耕し育てた穀物と白絹を物々交換しています』
『なぜ許氏は自分で白絹を織らないのか』
『農業の妨げになるからです』
『許氏は釜や甑で煮炊きし、鋤や鍬などの金物で耕しているのではないのか』
『そうです』
『ではそれらの道具を自分で作っているのだろうか』
『いえ、やはり自分で作ってはいませんが、自らの穀物と交換して得たものです』
民衆のハートを鷲づかみにする魂胆までもが見え透いているわけだが、
政産一致を説く墨家の徒であったらしい許子の意見に対する孟子の反論として、
以下のようなものもある。(長いので原文は載せず、訳文を改行して二つに分ける)
「陳相が孟子に会い、許行の言葉を引き合いに出しつつ言った。
『滕の殿様はなかなかに賢いお方です。しかしながら、未だ真の道義を知っているとは言えません。
許氏の言うことには、賢者は民と共に並び耕して自ら育てた穀物を食し、朝晩の自炊も行いながら世を治めるものだといいます。
ところが、今の滕には米倉も金蔵もあり、これは要するに君主が民の労働に頼って自らを養ってもらっているということです。
どうしてこれが賢いなどと言えましょうか』
孟子は答えて言った。『許氏は必ず自ら穀物の種を撒いて育て、しかる後に自ら食するのか』
『そうです』
『許氏は必ず布を織ってからそれを着るのか』
『いえ、織って着るのではなく、毛皮の衣を着ています』
『許氏は(為政者の正装である)冠をかぶっているのか』
『はい』
『どんな冠をかぶっているのか』
『白絹の簡素なものをかぶっています』
『では、その白絹は自分で織っているのか』
『いえ、自分で織ってはいませんが、自ら耕し育てた穀物と白絹を物々交換しています』
『なぜ許氏は自分で白絹を織らないのか』
『農業の妨げになるからです』
『許氏は釜や甑で煮炊きし、鋤や鍬などの金物で耕しているのではないのか』
『そうです』
『ではそれらの道具を自分で作っているのだろうか』
『いえ、やはり自分で作ってはいませんが、自らの穀物と交換して得たものです』
『穀物を道具と取り替えることが、道具の作り手に頼ることにはならないというのなら、道具の作り手たちが穀物を
交換で得ることも穀物の作り手に頼ることにはならないだろうな。それで、どうして許氏は自分で道具を作らないのだろう。
何もかもを自分で作って家の中に蓄えておき、必要なときに自由に持ち出せるようにしたほうが便利なはずなのに、
なぜわざわざ工民と交易などをするのだろうか。よくもまあ、許氏はそんな面倒なことをするものだな(皮肉気味)』
『道具を作るような高度な仕事は、とてもとても田畑を耕しながらできるものではありませんから』
『では、なぜ全世界を治めることばかりが、田畑を耕すことの片手間でもきるのか。
この世には大人の為すべき仕事もある一方で、小人の為すべき仕事もある。それでいてしかも、
職人の仕事などのように、片手間ではできないような専門職もある。もし何もかもの仕事をすべての人間に
課したならば、ただいたずらに誰しもを疲れさせるだけになってしまう。だからある者は心を労するような仕事をし、
ある者は力を労するような仕事をするといった、分業を行うことが適切であるとされる(左伝・襄公九年など参照)。
心を労するものは人を治める立場となり、力を労する者は人に治められる立場となる一方で、人に治められる者こそは
人々を食わせ、人を治める者こそは人々に食わされるようになる。これこそは全世界に共通の道義というものだ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・四より)
農工民の仕事などとも同じように、政治もまた片手間では覚束ない専門職だから、
為政者自身は政治業に専念するべきであって、そのために物をもらったり食わせてもらったりする立場ともなる。
商売人が本業である商売の片手間に、PHPの抄訳「論語」や抄訳「老子」なんか読みかじりながらできるほど、
政治も甘い仕事じゃないってことだ。(もちろん宗教家が片手間でできることでもない)
交換で得ることも穀物の作り手に頼ることにはならないだろうな。それで、どうして許氏は自分で道具を作らないのだろう。
何もかもを自分で作って家の中に蓄えておき、必要なときに自由に持ち出せるようにしたほうが便利なはずなのに、
なぜわざわざ工民と交易などをするのだろうか。よくもまあ、許氏はそんな面倒なことをするものだな(皮肉気味)』
『道具を作るような高度な仕事は、とてもとても田畑を耕しながらできるものではありませんから』
『では、なぜ全世界を治めることばかりが、田畑を耕すことの片手間でもきるのか。
この世には大人の為すべき仕事もある一方で、小人の為すべき仕事もある。それでいてしかも、
職人の仕事などのように、片手間ではできないような専門職もある。もし何もかもの仕事をすべての人間に
課したならば、ただいたずらに誰しもを疲れさせるだけになってしまう。だからある者は心を労するような仕事をし、
ある者は力を労するような仕事をするといった、分業を行うことが適切であるとされる(左伝・襄公九年など参照)。
心を労するものは人を治める立場となり、力を労する者は人に治められる立場となる一方で、人に治められる者こそは
人々を食わせ、人を治める者こそは人々に食わされるようになる。これこそは全世界に共通の道義というものだ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・四より)
農工民の仕事などとも同じように、政治もまた片手間では覚束ない専門職だから、
為政者自身は政治業に専念するべきであって、そのために物をもらったり食わせてもらったりする立場ともなる。
商売人が本業である商売の片手間に、PHPの抄訳「論語」や抄訳「老子」なんか読みかじりながらできるほど、
政治も甘い仕事じゃないってことだ。(もちろん宗教家が片手間でできることでもない)
こっちが原文。
「陳相孟子を見、許行の言を道いて曰く、滕君は則ち誠に賢君なり。然りと雖も未だ道を聞かざるなり。
賢者は民と與に並び耕して食し、饔飧して治む。今滕には倉廩も府庫も有り、則ち是れ民に りて以て自ら養うなり。
惡にか賢なるを得ん。孟子曰く、許子は必ず粟を種えて而る後に食するか。曰く、然り。許子は必ず布を織りて而る後に衣るか。
曰く、否、許子は褐を衣る。許子は冠するか。曰く、冠する。曰く、奚を冠するか。曰く、素を冠する。曰く、自ら之れを織るか。
曰く、否、粟を以て之れに易う。曰く、許子は奚為れぞ自ら織らざる。曰く、耕すに害あり。曰く、許子は釜甑を以て爨ぎ、
鐵を以て耕すか。曰く、然り。自ら之れを為るか。曰く、否、粟を以て之れに易う。粟を以て械器に易うる者を、
陶冶に りると為さずんば、陶冶も亦た其の械器を以て粟に易うる者も、豈に農夫に ると為さざるや。
且つ許子は何すれぞ陶冶を為さざる。皆な諸れを其の宮中に取りて之れを用いずして、何すれぞ紛紛然として
百工と與に交易を為す。何すれぞ許子の煩を之れ憚らざるは。曰く、百工の事は、固より耕し且つ為すべからざればなり。
然れば則ち天下を治むることのみ、独り耕し且つ為すべけんや。大人の事ありて、小人の事あり。且つ一人の身にして
百工の為す所備わる。如し必ず自ら為して後之を用いしめんとすれば、是れ天下を率いて路しむるなり。
故に或るものは心を労し、或るものは力を労すと曰うなり。心を労する者は人を治め、力を労する者は人に治めらる。
人に治めらるる者は人を食わせ、人を治むる者は人に食わさるるは、天下の通義なり」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・四より)
「陳相孟子を見、許行の言を道いて曰く、滕君は則ち誠に賢君なり。然りと雖も未だ道を聞かざるなり。
賢者は民と與に並び耕して食し、饔飧して治む。今滕には倉廩も府庫も有り、則ち是れ民に りて以て自ら養うなり。
惡にか賢なるを得ん。孟子曰く、許子は必ず粟を種えて而る後に食するか。曰く、然り。許子は必ず布を織りて而る後に衣るか。
曰く、否、許子は褐を衣る。許子は冠するか。曰く、冠する。曰く、奚を冠するか。曰く、素を冠する。曰く、自ら之れを織るか。
曰く、否、粟を以て之れに易う。曰く、許子は奚為れぞ自ら織らざる。曰く、耕すに害あり。曰く、許子は釜甑を以て爨ぎ、
鐵を以て耕すか。曰く、然り。自ら之れを為るか。曰く、否、粟を以て之れに易う。粟を以て械器に易うる者を、
陶冶に りると為さずんば、陶冶も亦た其の械器を以て粟に易うる者も、豈に農夫に ると為さざるや。
且つ許子は何すれぞ陶冶を為さざる。皆な諸れを其の宮中に取りて之れを用いずして、何すれぞ紛紛然として
百工と與に交易を為す。何すれぞ許子の煩を之れ憚らざるは。曰く、百工の事は、固より耕し且つ為すべからざればなり。
然れば則ち天下を治むることのみ、独り耕し且つ為すべけんや。大人の事ありて、小人の事あり。且つ一人の身にして
百工の為す所備わる。如し必ず自ら為して後之を用いしめんとすれば、是れ天下を率いて路しむるなり。
故に或るものは心を労し、或るものは力を労すと曰うなり。心を労する者は人を治め、力を労する者は人に治めらる。
人に治めらるる者は人を食わせ、人を治むる者は人に食わさるるは、天下の通義なり」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・四より)
思わず舌を巻くほどにも見事な、孟子の弁論術。
そこが孟子の凄い所でもあるし、また巧言令色に巧みであればこそ
「亜聖」止まりとなってしまった所以でもある。
「論語」はもう大概を引用し尽くした感があるが、「孟子」のほうはまだまだ在庫が有り余っている。
聖書信者のほうの信仰生命が尽きる前に、どしどし引用しとかなくちゃな。
そこが孟子の凄い所でもあるし、また巧言令色に巧みであればこそ
「亜聖」止まりとなってしまった所以でもある。
「論語」はもう大概を引用し尽くした感があるが、「孟子」のほうはまだまだ在庫が有り余っている。
聖書信者のほうの信仰生命が尽きる前に、どしどし引用しとかなくちゃな。
王侯が、決して「生贄」などであってはならないんだ。
為政がちゃんと一つの専門職として認められて、職分を果たすに相応の待遇も受けてこそ、
政治家の側も立派な国家や社会の統治を実現することができる。
王侯の側が、自分たち自身から貪欲で、民からも無制限に財物を奪い取るのでは「暴君」もいいとこだが、
それとは逆に、庶民の側が、王侯や為政者をけなし倒して、利権を掠め取る相手とばかり見なし、
挙句には断頭や十字架への磔などに処してしまうのでは、それこそ民の側が「暴民」であるというもの。
世の中が暴君と暴民の両極に振れきるような惨状を避けるためには、為政者はもちろん清貧や謙譲を
旨とするべきだが、民のほうもまた、為政者を自分たちの生贄と見なすような不埒さを捨てて、
王侯でもあろうような人々には、自分たちから進んで、大喜びで美食や名品を供するぐらいでなければならない。
それでこそ、民だけでなく為政者の側も、自分たちの職分を全うできるわけだから。
為政がちゃんと一つの専門職として認められて、職分を果たすに相応の待遇も受けてこそ、
政治家の側も立派な国家や社会の統治を実現することができる。
王侯の側が、自分たち自身から貪欲で、民からも無制限に財物を奪い取るのでは「暴君」もいいとこだが、
それとは逆に、庶民の側が、王侯や為政者をけなし倒して、利権を掠め取る相手とばかり見なし、
挙句には断頭や十字架への磔などに処してしまうのでは、それこそ民の側が「暴民」であるというもの。
世の中が暴君と暴民の両極に振れきるような惨状を避けるためには、為政者はもちろん清貧や謙譲を
旨とするべきだが、民のほうもまた、為政者を自分たちの生贄と見なすような不埒さを捨てて、
王侯でもあろうような人々には、自分たちから進んで、大喜びで美食や名品を供するぐらいでなければならない。
それでこそ、民だけでなく為政者の側も、自分たちの職分を全うできるわけだから。
幸せは、良くも悪しくも草花のようなもの。
一時に生い茂り、咲き誇って、ついには枯れ萎む。
そうであることを受け入れてはかない福徳を楽しむもよし。
それとは別に、禍福全般を超越した真理世界に赴くもよし。
果てしない災禍を幸福だなどと思い込むことだけは、なし。
「習習たる谷風、維れ風に雨。
將に恐れ將に懼る、維れ予れと女じと。
將に安んじ將に樂しみ、女じ轉じて予を棄つ。
習習たる谷風、維れ風に頽。
將に恐れ將に懼る、予れを懷に郈けり。
將に安んじ將に樂しみ、予を棄てて遺れたるが如し。
習習たる谷風、維れ山に崔嵬。
草も死れざるは無く、木も萎まざるは無し。
我が大鄹を忘れて、我が小怨を思う」
「シュウシュウと谷間から冷風が吹きすさび、風雨も甚だし。
何もかもを恐れていた頃に、あなたは私といてくれた。
今はもはや安楽のとき、あなたは一転して私を捨て去る。
シュウシュウと谷間から冷風が吹きすさび、つむじ風も巻き起こる。
何もかもを懼れていた頃に、あなたは私を懐に抱いてくれた。
今はもはや安楽のとき、もはや私を捨てて忘れ去ったかのよう。
シュウシュウと谷間から冷風が吹きすさび、山には嵐も吹き荒れる。
草も枯れないでいることがなく、花木も萎まないものはない(そのようにして幸せも吹っ飛んだ)。
私が与えた情けは忘れて、私への小さな恨みばかりを募らせて。(夫に棄てられた妻の歌)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・谷風)
一時に生い茂り、咲き誇って、ついには枯れ萎む。
そうであることを受け入れてはかない福徳を楽しむもよし。
それとは別に、禍福全般を超越した真理世界に赴くもよし。
果てしない災禍を幸福だなどと思い込むことだけは、なし。
「習習たる谷風、維れ風に雨。
將に恐れ將に懼る、維れ予れと女じと。
將に安んじ將に樂しみ、女じ轉じて予を棄つ。
習習たる谷風、維れ風に頽。
將に恐れ將に懼る、予れを懷に郈けり。
將に安んじ將に樂しみ、予を棄てて遺れたるが如し。
習習たる谷風、維れ山に崔嵬。
草も死れざるは無く、木も萎まざるは無し。
我が大鄹を忘れて、我が小怨を思う」
「シュウシュウと谷間から冷風が吹きすさび、風雨も甚だし。
何もかもを恐れていた頃に、あなたは私といてくれた。
今はもはや安楽のとき、あなたは一転して私を捨て去る。
シュウシュウと谷間から冷風が吹きすさび、つむじ風も巻き起こる。
何もかもを懼れていた頃に、あなたは私を懐に抱いてくれた。
今はもはや安楽のとき、もはや私を捨てて忘れ去ったかのよう。
シュウシュウと谷間から冷風が吹きすさび、山には嵐も吹き荒れる。
草も枯れないでいることがなく、花木も萎まないものはない(そのようにして幸せも吹っ飛んだ)。
私が与えた情けは忘れて、私への小さな恨みばかりを募らせて。(夫に棄てられた妻の歌)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・谷風)
いつかは枯れ萎む草花のように儚い存在に過ぎない小人が、偉大なる何者かの感化を受けて
無限の喜びを手に入れるという意見構造自体は、下の記述と犯罪聖書などとであまり変わりはしない。
ただ、小人を感化する「偉大なる何者か」が、犯罪聖書のほうは形而上の虚構神であるのに対し、
四書五経の場合は、堅実な勉学研鑽をやり抜いた現実上の聖人君子である点が、決定的に異なる。
人は、無限の源泉ほどにも果てしない聡明さや叡知さを自力で会得することができる生き物であり、
「そんなことは無理だ」と始めから決め付けたりすることが、すでに精神の不具ともなる。
そりゃあ、君子の保護を受ける小人止まりとなっても、全く仕方のない自業自得だ。
「唯だ天下の至聖のみ、能く聰明睿知にして以て臨むこと有るに足り、
𨛗裕温柔にして以て容るること有るに足り、發強剛毅にして以て執る有るに足り、
齊莊中正にして以て敬する有るに足り、文理密察にして以て別つ有るに足ると為す。
溥博淵泉として、而うして時に之れを出だす。溥博は天の如く、淵泉は淵の如し。
見えて民に敬せざる莫く、言いて民に信ぜざる莫く、行いて民に説ばざる莫し」
「ただ天下に冠たる聖者のみが、よく聡明さと叡知とを以てことに臨むことができ、
寛大さや温柔さを以て物事を容認することができ、頑強さや剛毅さによって処断することができ、
慎み深い荘重さや中正さを以て他者を敬うことができ、文理への明察によって分別を利かせることができる。
その姿は遍く広遠にして、深い深い源泉のようであり、それでいて臨機応変な出処すらもが可能である。
遍く広遠であることはまるで天のようであり、深き源泉からは無限に水が噴き出るかのようであり、
その姿を見て民が敬せざることはなく、その言葉を聞いて民が聞かないことはなく、行って民が喜ばないことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・三一より)
無限の喜びを手に入れるという意見構造自体は、下の記述と犯罪聖書などとであまり変わりはしない。
ただ、小人を感化する「偉大なる何者か」が、犯罪聖書のほうは形而上の虚構神であるのに対し、
四書五経の場合は、堅実な勉学研鑽をやり抜いた現実上の聖人君子である点が、決定的に異なる。
人は、無限の源泉ほどにも果てしない聡明さや叡知さを自力で会得することができる生き物であり、
「そんなことは無理だ」と始めから決め付けたりすることが、すでに精神の不具ともなる。
そりゃあ、君子の保護を受ける小人止まりとなっても、全く仕方のない自業自得だ。
「唯だ天下の至聖のみ、能く聰明睿知にして以て臨むこと有るに足り、
𨛗裕温柔にして以て容るること有るに足り、發強剛毅にして以て執る有るに足り、
齊莊中正にして以て敬する有るに足り、文理密察にして以て別つ有るに足ると為す。
溥博淵泉として、而うして時に之れを出だす。溥博は天の如く、淵泉は淵の如し。
見えて民に敬せざる莫く、言いて民に信ぜざる莫く、行いて民に説ばざる莫し」
「ただ天下に冠たる聖者のみが、よく聡明さと叡知とを以てことに臨むことができ、
寛大さや温柔さを以て物事を容認することができ、頑強さや剛毅さによって処断することができ、
慎み深い荘重さや中正さを以て他者を敬うことができ、文理への明察によって分別を利かせることができる。
その姿は遍く広遠にして、深い深い源泉のようであり、それでいて臨機応変な出処すらもが可能である。
遍く広遠であることはまるで天のようであり、深き源泉からは無限に水が噴き出るかのようであり、
その姿を見て民が敬せざることはなく、その言葉を聞いて民が聞かないことはなく、行って民が喜ばないことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・三一より)
浄土教とキリスト教も、他力本願の信仰主義であるところなどが共通しているが、
もちろん阿弥陀仏を信仰することと、キリストを信仰することも全く違う。
「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲ひて、
乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」
(「浄土真宗聖典」仏説無量寿経より)
伝統的に、阿弥陀様の本願とされる「無量寿経」法蔵発願四十八願のうちの第十八願は上記の如くであり、
五逆とは「殺父」「殺母」「殺阿羅漢」「出仏身血」「破和合僧」の五つであり、誹謗正法はそのまま仏法への誹謗に当たる。
親族兄弟での殺し合いや、諸行無常の仏法にも反する死者の復活を予言する教典を信じ、自分たちの教義以外を認めようとはしない
キリスト教徒のあり方は、弥陀の本願である十八願にも悖るものであるため、念仏によってキリスト教徒が救われることもない。
四書五経だけでなく、比較的程度の低い世俗志向の仏教宗派に当たる浄土教の教義とも、聖書教義は相反している。
それに願いを託したならば、四書五経や念仏に基づいて喜びに満たされることも、決して無い。
「其れ雨ふれ其れ雨ふれ、杲杲として出ずるの日あり。
願いて言に伯を思うて、首の疾いに甘心す。
焉んぞ諼草を得て、言に之れ背を樹えん。
願いて言に伯を思いて、我が心をして痗ましむ」
「雨雨降れ降れと願い乞うても、かんかんと日照りばかりが続く。
常に夫が帰ってくることを願い想っているのに、頭痛にばかり飽き足りる。
どこかで憂いを忘れる薬草でも手に入れて、家の裏庭にでも植えておきたいもの。
常に夫が帰ってくることばかりを願い想っていて、私の心ばかりが病み患う。
(願いをやたらと募らせること自体が、心を病ましめるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・衛風・伯兮より)
もちろん阿弥陀仏を信仰することと、キリストを信仰することも全く違う。
「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲ひて、
乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」
(「浄土真宗聖典」仏説無量寿経より)
伝統的に、阿弥陀様の本願とされる「無量寿経」法蔵発願四十八願のうちの第十八願は上記の如くであり、
五逆とは「殺父」「殺母」「殺阿羅漢」「出仏身血」「破和合僧」の五つであり、誹謗正法はそのまま仏法への誹謗に当たる。
親族兄弟での殺し合いや、諸行無常の仏法にも反する死者の復活を予言する教典を信じ、自分たちの教義以外を認めようとはしない
キリスト教徒のあり方は、弥陀の本願である十八願にも悖るものであるため、念仏によってキリスト教徒が救われることもない。
四書五経だけでなく、比較的程度の低い世俗志向の仏教宗派に当たる浄土教の教義とも、聖書教義は相反している。
それに願いを託したならば、四書五経や念仏に基づいて喜びに満たされることも、決して無い。
「其れ雨ふれ其れ雨ふれ、杲杲として出ずるの日あり。
願いて言に伯を思うて、首の疾いに甘心す。
焉んぞ諼草を得て、言に之れ背を樹えん。
願いて言に伯を思いて、我が心をして痗ましむ」
「雨雨降れ降れと願い乞うても、かんかんと日照りばかりが続く。
常に夫が帰ってくることを願い想っているのに、頭痛にばかり飽き足りる。
どこかで憂いを忘れる薬草でも手に入れて、家の裏庭にでも植えておきたいもの。
常に夫が帰ってくることばかりを願い想っていて、私の心ばかりが病み患う。
(願いをやたらと募らせること自体が、心を病ましめるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・衛風・伯兮より)
天下万民を救おうとする心持ちと、自分の気に入った相手ばかりを救おうとする心持ちとでは
相当な格差があるもので、四書五経は確かに、天下万民を救う場合に限っての心がけを説いている。
一方、犯罪聖書のほうはといえば、片や万民を救うようなことを言ったり、片や気に入った
相手だけを救うようなことを言ったりの二枚舌を使い分けている。ただそれだけでも、
天下万民を救うことに専念する心がけまでは備えられていないことが明白となっている。
「思れ天下の民、匹夫匹婦も堯舜の澤を被らざる者有れば、己れを推して之れを
溝の中に内るるが如し。其の自ら任ずるに天下の重きを以てすること此くの如し」
「殷湯王の重臣伊尹は、天下の民のうちで、たとえそれが最も賤しい匹夫匹婦の類いであろうとも、
堯舜時代におけるような治世の恩沢に与ることのできない者が一人でもいたならば、まるで自分こそは
その者を側溝の中に落とし込んで苦しませている張本人であるかのような自責の念にかられていた。
それほどもの心がけを以てして初めて、天下を統治する重任を委ねられることをも受け入れたのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)
相当な格差があるもので、四書五経は確かに、天下万民を救う場合に限っての心がけを説いている。
一方、犯罪聖書のほうはといえば、片や万民を救うようなことを言ったり、片や気に入った
相手だけを救うようなことを言ったりの二枚舌を使い分けている。ただそれだけでも、
天下万民を救うことに専念する心がけまでは備えられていないことが明白となっている。
「思れ天下の民、匹夫匹婦も堯舜の澤を被らざる者有れば、己れを推して之れを
溝の中に内るるが如し。其の自ら任ずるに天下の重きを以てすること此くの如し」
「殷湯王の重臣伊尹は、天下の民のうちで、たとえそれが最も賤しい匹夫匹婦の類いであろうとも、
堯舜時代におけるような治世の恩沢に与ることのできない者が一人でもいたならば、まるで自分こそは
その者を側溝の中に落とし込んで苦しませている張本人であるかのような自責の念にかられていた。
それほどもの心がけを以てして初めて、天下を統治する重任を委ねられることをも受け入れたのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)
権力犯罪者の跳梁跋扈を許すことで、権力道徳者の活躍の余地を奪い去るか、
権力道徳者の活躍を認めることで、権力犯罪者を絶滅させるかのいずれかでしかあり得ない。
権力犯罪者の跳梁跋扈をも許す世の中は、体裁上の最平等が謳われる一方で、
重権力犯罪者たちの放辟邪侈によって多くの人々が破滅に陥れられるのに対し、
権力道徳者の活躍が認められる世の中は、社会的序列が重んじられるようになる一方で、
権力犯罪者の根絶によって、最下級の匹夫匹婦ですらもが生活を保障されるようになる。
どちらもあり得る一方で、どちらかでしかあり得ない。
権力道徳者の活躍を認めることで、権力犯罪者を絶滅させるかのいずれかでしかあり得ない。
権力犯罪者の跳梁跋扈をも許す世の中は、体裁上の最平等が謳われる一方で、
重権力犯罪者たちの放辟邪侈によって多くの人々が破滅に陥れられるのに対し、
権力道徳者の活躍が認められる世の中は、社会的序列が重んじられるようになる一方で、
権力犯罪者の根絶によって、最下級の匹夫匹婦ですらもが生活を保障されるようになる。
どちらもあり得る一方で、どちらかでしかあり得ない。
俺の家自体が元々武家の家系で、詳細な系図や年譜も残っているから分かるんだが、
武士こそは、主君の命などによって転々と居住地を替えたりすることが多かったようだ。
百姓とかのほうが、むしろ土に根ざして耕作を行ったりすることからも、
一定の土地に執着することが多かったようで、自分の土地にやたらと執着する
今の日本人の性向なども、封建社会における武家の封土に対するこだわりなどとは無縁だ。
徳川将軍家からして、移封時には荒野原も同然だった江戸を、自力で開墾整備することで
世界最大の都市へとものし上げたわけで、既成上の土地の良し悪しに執着するのも、
やはり他力本願ばかりにもっぱらな、小人にとってこその性向であるといえる。
「溥天の下に、王土に非ざるは莫く、
率土の濱に、王臣に非ざるは莫し。
大夫の均しからずして、我れのみ事に從いて獨り賢なり」
「あまねく天下に、王君の土地でないものはなく、土の果てのほとりにいようとも、王君の臣下でないものはない。
にもかかわらず、部分の利権を貪るものが均衡の平等を破ってばかり。ただ私ばかりが為すべき事に従って独り賢くある」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・北山之什・北山より)
武士こそは、主君の命などによって転々と居住地を替えたりすることが多かったようだ。
百姓とかのほうが、むしろ土に根ざして耕作を行ったりすることからも、
一定の土地に執着することが多かったようで、自分の土地にやたらと執着する
今の日本人の性向なども、封建社会における武家の封土に対するこだわりなどとは無縁だ。
徳川将軍家からして、移封時には荒野原も同然だった江戸を、自力で開墾整備することで
世界最大の都市へとものし上げたわけで、既成上の土地の良し悪しに執着するのも、
やはり他力本願ばかりにもっぱらな、小人にとってこその性向であるといえる。
「溥天の下に、王土に非ざるは莫く、
率土の濱に、王臣に非ざるは莫し。
大夫の均しからずして、我れのみ事に從いて獨り賢なり」
「あまねく天下に、王君の土地でないものはなく、土の果てのほとりにいようとも、王君の臣下でないものはない。
にもかかわらず、部分の利権を貪るものが均衡の平等を破ってばかり。ただ私ばかりが為すべき事に従って独り賢くある」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・北山之什・北山より)
病を治療するところではなく、病にかからせるところから、
罪を浄化するところではなく、罪を犯させるところから、犯罪聖書の領分でこそある。
そもそも始めから罪を犯させず、病にもかからせないように努める、
それでこそ人としての最善が尽くされる。当たり前っちゃあ当たり前だが、
マッチポンプの火事場泥棒のうまみを覚えたならず者どもにはそれも分からず、
最善を尽くすどころか、人としての最悪の選択肢を尽くすようにすらなる。
下敷きのような薄手の平板を机の上などに直角に立てれば、必ず表か裏かのどちらかに倒れる。
マッチポンプを未然に排した徳性の堅持に努めることと、マッチポンプの積み重ねに陥ることとは、
この下敷きの表と裏のようなもので、どちらか一方でしかあり得ない上に、どちらかにこそ振れきるもの。
「どちらもあり」というようなみそくそ状態を保とうとするのも、相当に危ういこととなる。
「子、疾病す。子路禱を請う。子曰く、諸れ有るや。子路對えて曰く、
之れ有り。誄に曰く、爾じを上下の神祇に禱る。子曰く、丘の禱るや久し」
「先生が重病にかかられた。弟子の子路が快癒のための祈祷を申し出た。先生は言われた。『何かいい方法があるのか』
子路は答えた。『ございます。〔汝の快癒を天地上下の神祇に奉る〕と唱えるのです』 先生。『それはもう前からやっている』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・三四)
罪を浄化するところではなく、罪を犯させるところから、犯罪聖書の領分でこそある。
そもそも始めから罪を犯させず、病にもかからせないように努める、
それでこそ人としての最善が尽くされる。当たり前っちゃあ当たり前だが、
マッチポンプの火事場泥棒のうまみを覚えたならず者どもにはそれも分からず、
最善を尽くすどころか、人としての最悪の選択肢を尽くすようにすらなる。
下敷きのような薄手の平板を机の上などに直角に立てれば、必ず表か裏かのどちらかに倒れる。
マッチポンプを未然に排した徳性の堅持に努めることと、マッチポンプの積み重ねに陥ることとは、
この下敷きの表と裏のようなもので、どちらか一方でしかあり得ない上に、どちらかにこそ振れきるもの。
「どちらもあり」というようなみそくそ状態を保とうとするのも、相当に危ういこととなる。
「子、疾病す。子路禱を請う。子曰く、諸れ有るや。子路對えて曰く、
之れ有り。誄に曰く、爾じを上下の神祇に禱る。子曰く、丘の禱るや久し」
「先生が重病にかかられた。弟子の子路が快癒のための祈祷を申し出た。先生は言われた。『何かいい方法があるのか』
子路は答えた。『ございます。〔汝の快癒を天地上下の神祇に奉る〕と唱えるのです』 先生。『それはもう前からやっている』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・三四)
劣悪な犯罪寓意を美辞麗句で無理に虚飾しているから、犯罪聖書の記述はどれも遠まわしで分かりにくい。
逆に、真意をありのままに提示しても何ら疚しいところのない、道理に適った意図ばかりを込めているから、
四書五経の記述はどれも分かりやすく、分かりやすすぎてかえって侮られるほど。
妾腹の私生児という恵まれない境遇に生まれつきながらも、自らの立場を十分にわきまえて
経書の勉強や整理といった下働きに努めた孔子と、自らの不遇を受け入れられずに
自暴自棄となって、自らを「神の子」だなどと誇称し、世を破滅へと導くカルト教義を
方々に触れ回ったイエスと。境遇ではなく、本人たち自身の心がけこそが両者の雌雄を分けた。
「樂しき君子は、邦家の光なり」
「安らぎ楽しむ君子こそは、邦家の光である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・白華之什・南山有臺より。この引用は既出)
「既に君子に見えて、龍れあり光あり」
「今ここに君子にお目にかかることができて、私たち小人としても誉れ高く、光に照らされた思いです。
(生贄に捧げられたカルト神などではなく、安らぎ楽しむ現実上の君子こそは、小人をも照らし出す光となる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・白華之什・蓼蕭より)
逆に、真意をありのままに提示しても何ら疚しいところのない、道理に適った意図ばかりを込めているから、
四書五経の記述はどれも分かりやすく、分かりやすすぎてかえって侮られるほど。
妾腹の私生児という恵まれない境遇に生まれつきながらも、自らの立場を十分にわきまえて
経書の勉強や整理といった下働きに努めた孔子と、自らの不遇を受け入れられずに
自暴自棄となって、自らを「神の子」だなどと誇称し、世を破滅へと導くカルト教義を
方々に触れ回ったイエスと。境遇ではなく、本人たち自身の心がけこそが両者の雌雄を分けた。
「樂しき君子は、邦家の光なり」
「安らぎ楽しむ君子こそは、邦家の光である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・白華之什・南山有臺より。この引用は既出)
「既に君子に見えて、龍れあり光あり」
「今ここに君子にお目にかかることができて、私たち小人としても誉れ高く、光に照らされた思いです。
(生贄に捧げられたカルト神などではなく、安らぎ楽しむ現実上の君子こそは、小人をも照らし出す光となる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・白華之什・蓼蕭より)
「罪を犯させない」とか言いながら、その直後に「罪を犯したら弁護する」などとほざく論理破綻。
論理破綻自体も不義ならば、結局は罪を犯す体制を整えてやるのも不義にあたる。
罪を犯させないためには、あえて罪を許さない姿勢を貫く必要だって当然あるに決まっている。罪を犯しても
弁護してやるなんて甘いことをほざいてりゃあ、あえて罪を犯そうとする奴も現れるに決まってるじゃねえか。
過失犯などを、結局は許してやったりすることもあるにしろ、悪意をもっての故意犯などを未然に食い止めるためにも、
世を司ったりする側のほうがあえて「罪は許さない」という体裁を保っておくのが、道義的な最善措置ってもんだ。
さも犯罪マニュアルムックなどが、表向きだけ「悪用禁止」なんて掲げているぐらいに、白々しい。
そもそも犯罪マニュアルや、罪を勝手に許すカルト教義なんぞを流布するところから禁止してこそ、正義ってもんだ。
「有司に命じて法制を修め、囹圄を繕め、桎梏を具え、奸を禁止し、邪を慎み罪し、搏執を務む。理に命じて傷を瞻、創を察し、
折を視、審らかに獄訟を斷決して、必ず端平にし、有罪を戮し、斷刑を嚴にす。天地始めて肅すも、以て贏す可からず」
「資格を有する司法官に命じて法制を修め、牢屋を修繕し、桎梏を用意し、奸悪を禁止し、邪まを慎んで必ず罪と見なし、
罪ある者は必ず捕らえる。獄吏に命じて、皮肉骨髄の傷害をそれぞれ丹念に取り調べるようにして、審らかに訴えごとを取り決め、
有罪を誅戮し、刑の執行をも厳格にする。そこまでして初めて天地も静粛の気に満たされるが、もちろんやり過ぎも禁物である。
(そもそも弁護士制度のような、罪人を弁護する体裁を整えてやる所から従犯の一種であり、刑事といえば、本来は罪人への
一方的な処罰を第一の体面とすべきなのだ。その上で刑事が優秀であり、罪状の把握や酌量にも秀でているということは宜しい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
論理破綻自体も不義ならば、結局は罪を犯す体制を整えてやるのも不義にあたる。
罪を犯させないためには、あえて罪を許さない姿勢を貫く必要だって当然あるに決まっている。罪を犯しても
弁護してやるなんて甘いことをほざいてりゃあ、あえて罪を犯そうとする奴も現れるに決まってるじゃねえか。
過失犯などを、結局は許してやったりすることもあるにしろ、悪意をもっての故意犯などを未然に食い止めるためにも、
世を司ったりする側のほうがあえて「罪は許さない」という体裁を保っておくのが、道義的な最善措置ってもんだ。
さも犯罪マニュアルムックなどが、表向きだけ「悪用禁止」なんて掲げているぐらいに、白々しい。
そもそも犯罪マニュアルや、罪を勝手に許すカルト教義なんぞを流布するところから禁止してこそ、正義ってもんだ。
「有司に命じて法制を修め、囹圄を繕め、桎梏を具え、奸を禁止し、邪を慎み罪し、搏執を務む。理に命じて傷を瞻、創を察し、
折を視、審らかに獄訟を斷決して、必ず端平にし、有罪を戮し、斷刑を嚴にす。天地始めて肅すも、以て贏す可からず」
「資格を有する司法官に命じて法制を修め、牢屋を修繕し、桎梏を用意し、奸悪を禁止し、邪まを慎んで必ず罪と見なし、
罪ある者は必ず捕らえる。獄吏に命じて、皮肉骨髄の傷害をそれぞれ丹念に取り調べるようにして、審らかに訴えごとを取り決め、
有罪を誅戮し、刑の執行をも厳格にする。そこまでして初めて天地も静粛の気に満たされるが、もちろんやり過ぎも禁物である。
(そもそも弁護士制度のような、罪人を弁護する体裁を整えてやる所から従犯の一種であり、刑事といえば、本来は罪人への
一方的な処罰を第一の体面とすべきなのだ。その上で刑事が優秀であり、罪状の把握や酌量にも秀でているということは宜しい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
権力者や資本家に与えられたわずかな資本 飴玉に等しいものを善が云々悪は云々と元気に営んでいる
それが社会の現実
弱い存在は、より強い存在に尊厳を差しだして飴玉を得る
そういう小さな関係の積み重ねで社会は成り立っている
階級や階層は神の如き振る舞いを許容される(善悪を超越している)が、それは同時に人間の本性の顕在化でもある
階級や階層の差は、階級下、階層下の人間の喜びも哀しみも一願だにしない冷酷な人間をつくる
その本性は猿だか神だか分からないが、少なくとも人間的ではない
じつのところ
秩序などなかったのではないか?権力や資本に振り回されていただけなのではないか?
それが社会の現実
弱い存在は、より強い存在に尊厳を差しだして飴玉を得る
そういう小さな関係の積み重ねで社会は成り立っている
階級や階層は神の如き振る舞いを許容される(善悪を超越している)が、それは同時に人間の本性の顕在化でもある
階級や階層の差は、階級下、階層下の人間の喜びも哀しみも一願だにしない冷酷な人間をつくる
その本性は猿だか神だか分からないが、少なくとも人間的ではない
じつのところ
秩序などなかったのではないか?権力や資本に振り回されていただけなのではないか?
だから、権力犯罪聖書に支配された、一切劣悪な世の中に限っての惨状を、
さも人類社会のデフォルトみたいな捉え方をしてんじゃねえよ。
人の上に立つ権力者となったからといって、善悪をも超越したような
気になるのが、すでに「権力の魔性」に囚われた小人ならではの迷妄であり、
権力者であるなりに責任ある振る舞いを勤めることが、優良な権力道徳となる一方で、
もはややりたい放題となって世を破滅へと導くのが、劣悪な権力犯罪となる。
自分自身を超越神エホバか、さもなくばギリシャ神話のオリュンポス山の神々あたりに見立てて、
自分自身の気ままな処断によって、下民を適当に生かしたり殺したりしたとする。
それでもそのような権能を持っている権力者たち自身も、所詮は一介の人間でしかなく、
人の身でありながらそのような身勝手な振る舞いに及んだことが、ありのままに重権力犯罪ともなる。
概念の虚構によって塗り固められていた、一部の権力者の身勝手極まりない振る舞いは、
諸法実相の真理にも即して、ありのままに「単なる権力犯罪」でしかないことが露呈された。
>>324-326の孟子の発言にもあるとおり、政治もまた一つの専門職であるために、自分自身は
何も産み出さないながらも、為政者である以上は、世の中を最善の形で治めていくことに専念する
必要があり、その努力を怠るということは、さも農夫が田畑を耕さなかったり、職人が粗雑な産品しか
製作しなかったりするようなもので、為政者にあるまじき怠慢に尽きているというだけのことだ。
さも人類社会のデフォルトみたいな捉え方をしてんじゃねえよ。
人の上に立つ権力者となったからといって、善悪をも超越したような
気になるのが、すでに「権力の魔性」に囚われた小人ならではの迷妄であり、
権力者であるなりに責任ある振る舞いを勤めることが、優良な権力道徳となる一方で、
もはややりたい放題となって世を破滅へと導くのが、劣悪な権力犯罪となる。
自分自身を超越神エホバか、さもなくばギリシャ神話のオリュンポス山の神々あたりに見立てて、
自分自身の気ままな処断によって、下民を適当に生かしたり殺したりしたとする。
それでもそのような権能を持っている権力者たち自身も、所詮は一介の人間でしかなく、
人の身でありながらそのような身勝手な振る舞いに及んだことが、ありのままに重権力犯罪ともなる。
概念の虚構によって塗り固められていた、一部の権力者の身勝手極まりない振る舞いは、
諸法実相の真理にも即して、ありのままに「単なる権力犯罪」でしかないことが露呈された。
>>324-326の孟子の発言にもあるとおり、政治もまた一つの専門職であるために、自分自身は
何も産み出さないながらも、為政者である以上は、世の中を最善の形で治めていくことに専念する
必要があり、その努力を怠るということは、さも農夫が田畑を耕さなかったり、職人が粗雑な産品しか
製作しなかったりするようなもので、為政者にあるまじき怠慢に尽きているというだけのことだ。
孔子と孟子の区別も付かないのか。さすがWGIP世代。
漢和辞典で調べれば分かるが、
「魔」という字は、「人を惑わすもの」という意味を持つ。
善にしろ悪にしろ、何者かに惑わされることこそは「魔がさす」ということでもある。
しかし、善が人を惑わすなんてことはないから、「善魔」なんてものは基本ないが、
悪は人を惑わすことでこそ増長していくから、特定して「悪魔」などとも呼ばれる。
惑わし惑わされる、それは全て「悪」にとってこその領分であり、
悪魔に惑わされるのはすなわち、当人が何者かに惑わされる程度の小人に過ぎないから。
「四十不惑(為政第二・四)」という孔子の名言のとおり、人間は四十にもなれば、
あらゆる惑いを抜け出した一定の達観者になれるようにできているのであり、
未熟な若者が悪魔や美女などに惑わされるのはまだ仕方がない所があるにしろ、
権力者としての上層部付近にも立つ、四十以上の中高年が相も変わらず魔性に惑わされて
いるようなら、どこに権力犯罪への没入の不可避さを弁解する余地などがあろうか?
四十にもなって未だ魔性のとりこになってる奴らなんて、実際に見る影も
ないことからも、別に孔子の発言までもが理想論だなんてことがないのも明らか。
孟子の発言は相当に理想論も入っている所があるが、孔子の発言は至極無上な現実論。
「それはもう前からやっている」
漢和辞典で調べれば分かるが、
「魔」という字は、「人を惑わすもの」という意味を持つ。
善にしろ悪にしろ、何者かに惑わされることこそは「魔がさす」ということでもある。
しかし、善が人を惑わすなんてことはないから、「善魔」なんてものは基本ないが、
悪は人を惑わすことでこそ増長していくから、特定して「悪魔」などとも呼ばれる。
惑わし惑わされる、それは全て「悪」にとってこその領分であり、
悪魔に惑わされるのはすなわち、当人が何者かに惑わされる程度の小人に過ぎないから。
「四十不惑(為政第二・四)」という孔子の名言のとおり、人間は四十にもなれば、
あらゆる惑いを抜け出した一定の達観者になれるようにできているのであり、
未熟な若者が悪魔や美女などに惑わされるのはまだ仕方がない所があるにしろ、
権力者としての上層部付近にも立つ、四十以上の中高年が相も変わらず魔性に惑わされて
いるようなら、どこに権力犯罪への没入の不可避さを弁解する余地などがあろうか?
四十にもなって未だ魔性のとりこになってる奴らなんて、実際に見る影も
ないことからも、別に孔子の発言までもが理想論だなんてことがないのも明らか。
孟子の発言は相当に理想論も入っている所があるが、孔子の発言は至極無上な現実論。
「それはもう前からやっている」
ちっとも君子の養成なんかやっちゃおらず、むしろ重権力犯罪要員にもなる、
四十五十でも惑いまくりの小人ばかりが、意図的に量産されてもいる。
権力犯罪聖書——通称聖書を根本理念とするカルト洗脳操作によって。
そのようなカルト教義のひっきりなしな横行と、権力道徳の入念な頒布による
君子の養成も相容れるものではなく、どちらかを立てる以上はもう一方が立たない。
劣悪なものを棄てて優良なものの専修に努めなければ、一切劣悪な総員テロリスト社会となるのみ。
少しも儒学や正統仏教の受容を、民衆の側から積極的に追い求めようともせず、
言葉ばかり着飾って、聞こえだけはいいカルト教義のほうに流れていってしまっているのに、
なぜ儒学や仏教が、ほんの微塵たりともその効能を発揮することができようか?
良薬を口にすら含まずして、ただ毒薬ばかりを貪りながら、なぜ良薬の効能が発揮されようか?
「仁遠からんや。我れ仁を欲すれば、斯に仁至る」
「仁は得がたいものだろうか。もし自分から仁を欲したなら、仁はすぐに得られるだろうさ。
(そもそも世の誰しもが仁を欲しすらせず、ただ醜悪な私利私欲を延々と貪ってばかりいる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——述而第七・二九より)
四十五十でも惑いまくりの小人ばかりが、意図的に量産されてもいる。
権力犯罪聖書——通称聖書を根本理念とするカルト洗脳操作によって。
そのようなカルト教義のひっきりなしな横行と、権力道徳の入念な頒布による
君子の養成も相容れるものではなく、どちらかを立てる以上はもう一方が立たない。
劣悪なものを棄てて優良なものの専修に努めなければ、一切劣悪な総員テロリスト社会となるのみ。
少しも儒学や正統仏教の受容を、民衆の側から積極的に追い求めようともせず、
言葉ばかり着飾って、聞こえだけはいいカルト教義のほうに流れていってしまっているのに、
なぜ儒学や仏教が、ほんの微塵たりともその効能を発揮することができようか?
良薬を口にすら含まずして、ただ毒薬ばかりを貪りながら、なぜ良薬の効能が発揮されようか?
「仁遠からんや。我れ仁を欲すれば、斯に仁至る」
「仁は得がたいものだろうか。もし自分から仁を欲したなら、仁はすぐに得られるだろうさ。
(そもそも世の誰しもが仁を欲しすらせず、ただ醜悪な私利私欲を延々と貪ってばかりいる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——述而第七・二九より)
現在では無宗教の人間も大勢居ると思います
聖書の世界観というよりは、それが人間の本性であると考えたほうが納得できるヒトが多いと思います
聖書など子供騙し
それは同感ですが、こと影響力という点に於いては疑問符がつきますね
人間は猿から進化しているために行動原理は猿に似ている
権力支配者の行動原理が猿なのだから世界観はケモノの論理を越えることはできない
そちらのほうがよっぽど理解できる
聖書の世界観というよりは、それが人間の本性であると考えたほうが納得できるヒトが多いと思います
聖書など子供騙し
それは同感ですが、こと影響力という点に於いては疑問符がつきますね
人間は猿から進化しているために行動原理は猿に似ている
権力支配者の行動原理が猿なのだから世界観はケモノの論理を越えることはできない
そちらのほうがよっぽど理解できる
犯罪聖書のような強度の人間性悪・性獣論が人間の本性であるかのように思われてしまうことも、
仏教の唯識思想や朱子学の性即理説などによって、とっくの昔に看破されている。
人間には理性を司る「性」ないし「阿頼耶識」と呼ばれるような本性が備わっている一方で、
情念を司る「情」ないし「末那識」と呼ばれるような要素も備わっており、
性こそは理であって善良であるものの、情はそれなりの矯正に努めなければ濁って劣悪化してしまう。
そのため、何らの道徳的矯正も行われない人間が自然と、四十五十でも惑いまくりの小人にすらなってしまうため、
「人間の本性は悪である」とすら考えがちになるが(儒者の荀子ですらもがそう考えた)、
1+1を3にでも4にでも改変するような濁った情念を矯正させたなら、そこにはちゃんと1+1=2とする
理性もまた備わっていて、その理性こそは人間の本質をも司るより普遍的な同一性でもある。
とはいえ、何らの矯正も科されない人間が、惑いまくりな小人と化すのも確かなわけで、
それを以て「人間の本性は悪であり、犯罪聖書の記述性向にも合致する」と結論付けることが間違っているのみ。
人間が犯罪聖書の記述内容のごときであること、そうであることを不可避なる普遍性で
あるなどと思い込むこと自体が、すでに理性から逸脱した濁情による迷妄でしかない。
「父子兄弟も禮に非ざれば定まらず。(中略)夫れ惟だ禽獣は禮なし、故に父子麀を聚にす」
「父子兄弟の間柄といえども、礼儀がなければ定まらない。禽獣には礼儀はないから、父子が同じ雌に交わりもする。
(禽獣には限りのない情愛の貪りはできても、理性に正された礼儀をわきまえることなどはできないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
仏教の唯識思想や朱子学の性即理説などによって、とっくの昔に看破されている。
人間には理性を司る「性」ないし「阿頼耶識」と呼ばれるような本性が備わっている一方で、
情念を司る「情」ないし「末那識」と呼ばれるような要素も備わっており、
性こそは理であって善良であるものの、情はそれなりの矯正に努めなければ濁って劣悪化してしまう。
そのため、何らの道徳的矯正も行われない人間が自然と、四十五十でも惑いまくりの小人にすらなってしまうため、
「人間の本性は悪である」とすら考えがちになるが(儒者の荀子ですらもがそう考えた)、
1+1を3にでも4にでも改変するような濁った情念を矯正させたなら、そこにはちゃんと1+1=2とする
理性もまた備わっていて、その理性こそは人間の本質をも司るより普遍的な同一性でもある。
とはいえ、何らの矯正も科されない人間が、惑いまくりな小人と化すのも確かなわけで、
それを以て「人間の本性は悪であり、犯罪聖書の記述性向にも合致する」と結論付けることが間違っているのみ。
人間が犯罪聖書の記述内容のごときであること、そうであることを不可避なる普遍性で
あるなどと思い込むこと自体が、すでに理性から逸脱した濁情による迷妄でしかない。
「父子兄弟も禮に非ざれば定まらず。(中略)夫れ惟だ禽獣は禮なし、故に父子麀を聚にす」
「父子兄弟の間柄といえども、礼儀がなければ定まらない。禽獣には礼儀はないから、父子が同じ雌に交わりもする。
(禽獣には限りのない情愛の貪りはできても、理性に正された礼儀をわきまえることなどはできないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
理性 情念 「阿頼耶識」 矯正に努めなければ濁って劣悪化してしまう。 理性こそは人間の本質をも司るより普遍的な同一性でもある
こういった認識は何によって得られたのだろう?
それはとうぜん社会が存在し そこで生活を営み それら情報を自己で内省し 書きかえられ 流転していること
それが理性や情念などが必要だと情報を内省して学んで というか感じたりしている
そう…
理性なんて心情の働きは世情に沿って流転する知恵に過ぎない
社会に沿っている
社会を前提としている
社会は人間により営まれるために それこそ流動 流転してゆく
それに沿っている理性や情念が普遍というのは悟りが足らないのではないか?
こういった認識は何によって得られたのだろう?
それはとうぜん社会が存在し そこで生活を営み それら情報を自己で内省し 書きかえられ 流転していること
それが理性や情念などが必要だと情報を内省して学んで というか感じたりしている
そう…
理性なんて心情の働きは世情に沿って流転する知恵に過ぎない
社会に沿っている
社会を前提としている
社会は人間により営まれるために それこそ流動 流転してゆく
それに沿っている理性や情念が普遍というのは悟りが足らないのではないか?
1+1=2とする理性があって、なおかつ「1億円+1億円=2億円」とか、
「1兆円+1兆円=2兆円」とかの正確な経理に努めている人々がいるから、世の中も成り立つ。
誰も彼もが「1億円+1億円=3億円」にしたり、「1兆円+1兆円=4兆円」にしたりしていたなら、
あっという間に世の中は立ち行かなくなって亡びる。実際、今はその手前ぐらいの状態にある。
1+1=2とする理性の持ち主が、十分に多人数であってから初めて、
1+1を3にも4にもするような迷妄にかられた、重度精神障害者が生き延びる余地も生まれる。
社会というものはその運営上、根本的に理性を必要とするものであり、情念はあってもなくてもいい存在。
もちろん、全く情念の介在しない世の中も無味乾燥とし過ぎるので、多少は情念にかられて金儲けに
走る商売人などがいたっていいわけだが、そいつらが世の中の末端としての身の程のわきまえを逸して、
自分たちこそは世の主上だなどと勘違いし始めたなら、世の中が立ち行かなくなるに決まってる。
「1兆円+1兆円=2兆円」とかの正確な経理に努めている人々がいるから、世の中も成り立つ。
誰も彼もが「1億円+1億円=3億円」にしたり、「1兆円+1兆円=4兆円」にしたりしていたなら、
あっという間に世の中は立ち行かなくなって亡びる。実際、今はその手前ぐらいの状態にある。
1+1=2とする理性の持ち主が、十分に多人数であってから初めて、
1+1を3にも4にもするような迷妄にかられた、重度精神障害者が生き延びる余地も生まれる。
社会というものはその運営上、根本的に理性を必要とするものであり、情念はあってもなくてもいい存在。
もちろん、全く情念の介在しない世の中も無味乾燥とし過ぎるので、多少は情念にかられて金儲けに
走る商売人などがいたっていいわけだが、そいつらが世の中の末端としての身の程のわきまえを逸して、
自分たちこそは世の主上だなどと勘違いし始めたなら、世の中が立ち行かなくなるに決まってる。
1+1=5それが支配層です
1+1=1それが一般層です
支配層には宗教も道具と化しているというのが実情です
何らかの体裁を用意できるという計算に使われているだけですよ
逆の意味でアナタの話を捉えれば、何らかの原因を見出だせないから聖書に敵意を向けているということ
1+1=1それが一般層です
支配層には宗教も道具と化しているというのが実情です
何らかの体裁を用意できるという計算に使われているだけですよ
逆の意味でアナタの話を捉えれば、何らかの原因を見出だせないから聖書に敵意を向けているということ
1+1を3や4や5にするのは、決して本物の社会の支配層ではなく、
1+1=2の真面目な金銭計算にもよって実物からの堅実な経済社会を運営している
大部分の人々から一方的に利益を吸い取っている「社会のがん細胞格」だ。
さも農民が田畑を耕したり、職人が立派な産品を拵えたりするようにして、
立派な為政を司る君子なら、自らもまた1+1=2のシラフの計算によって世を司る。
その結果、自分たち自身がそんなに経済的に裕福にもなれなかったりするが、
そも経済的に裕福だから社会の支配層であり、経済的に貧困だから社会の被支配層だ
などというのもとんでもない思い違いであり、世の中の根本的な仕組みを
わきまえられていない、小人ばかりに特有の狭隘な迷妄だ。
金持ちですらあれば責任ある世の中の支配者であるなどという迷妄を、
金持ちと貧乏人とに関わらずあてがう道具となっているのもやはり犯罪聖書であり、
何らの社会的責任も負わずに、ただ金満だけを謳歌している金持ちたち自身もまた、
犯罪聖書への信仰に基づく自己洗脳によって、自分たちを社会の支配者だなどと思い込んでいる。
ちっとも宗教を傍観的な道具になどはできておらず、自分たち自身が中毒状態に陥るための
依存対象ともしているのであり、だからこそあらゆる害悪の元凶が犯罪聖書であるともいえる。
「人を責むるは斯れ難き無く、惟れ責めを受けて流れの如くならしむるは、是れ惟れ艱きかな」
「他人を責めることは簡単なだが、己れこそは率先して責めを受けることで
水の流れのように滞りなく自己を改めていくことは、これほどにも難しいことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓より)
1+1=2の真面目な金銭計算にもよって実物からの堅実な経済社会を運営している
大部分の人々から一方的に利益を吸い取っている「社会のがん細胞格」だ。
さも農民が田畑を耕したり、職人が立派な産品を拵えたりするようにして、
立派な為政を司る君子なら、自らもまた1+1=2のシラフの計算によって世を司る。
その結果、自分たち自身がそんなに経済的に裕福にもなれなかったりするが、
そも経済的に裕福だから社会の支配層であり、経済的に貧困だから社会の被支配層だ
などというのもとんでもない思い違いであり、世の中の根本的な仕組みを
わきまえられていない、小人ばかりに特有の狭隘な迷妄だ。
金持ちですらあれば責任ある世の中の支配者であるなどという迷妄を、
金持ちと貧乏人とに関わらずあてがう道具となっているのもやはり犯罪聖書であり、
何らの社会的責任も負わずに、ただ金満だけを謳歌している金持ちたち自身もまた、
犯罪聖書への信仰に基づく自己洗脳によって、自分たちを社会の支配者だなどと思い込んでいる。
ちっとも宗教を傍観的な道具になどはできておらず、自分たち自身が中毒状態に陥るための
依存対象ともしているのであり、だからこそあらゆる害悪の元凶が犯罪聖書であるともいえる。
「人を責むるは斯れ難き無く、惟れ責めを受けて流れの如くならしむるは、是れ惟れ艱きかな」
「他人を責めることは簡単なだが、己れこそは率先して責めを受けることで
水の流れのように滞りなく自己を改めていくことは、これほどにも難しいことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓より)
訂正:
「人を責むるは斯れ難き無く、惟れ責めを受けて流れの如くならしむるは、是れ惟れ艱きかな」
「他人を責めることは簡単なことだが、己れこそは率先して責めを受けることで
水の流れのように滞りなく自己を改めていくことは、これほどにも難しいことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓より)
自分のほうにこそ非があるのなら、それこそ本当に自分こそが率先して責めを受けて、
水の流れのように滞りなく自己を改めていこうと思うわけだが、残念だからそうではなく、
どちらかといえば自分のほうが正しくて他のほうが間違っているから、我れと我が心とに
責めを受けることから逃げまくるカルト信者たちのほうが、己れに責めを受けることを
受け入れて、水の流れのように滞りなく自分たちを改めていくように促す以外にはない。
他者の過ちを自分自身がひっかぶってあげたところで、「冤罪」という
より大きな過ちの積み重ねになるだけでしかないのも、自他の区別も付かない
鏡映認知障害の重度精神障害者でもない限りは、認めざるを得ないことだから。
「人を責むるは斯れ難き無く、惟れ責めを受けて流れの如くならしむるは、是れ惟れ艱きかな」
「他人を責めることは簡単なことだが、己れこそは率先して責めを受けることで
水の流れのように滞りなく自己を改めていくことは、これほどにも難しいことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓より)
自分のほうにこそ非があるのなら、それこそ本当に自分こそが率先して責めを受けて、
水の流れのように滞りなく自己を改めていこうと思うわけだが、残念だからそうではなく、
どちらかといえば自分のほうが正しくて他のほうが間違っているから、我れと我が心とに
責めを受けることから逃げまくるカルト信者たちのほうが、己れに責めを受けることを
受け入れて、水の流れのように滞りなく自分たちを改めていくように促す以外にはない。
他者の過ちを自分自身がひっかぶってあげたところで、「冤罪」という
より大きな過ちの積み重ねになるだけでしかないのも、自他の区別も付かない
鏡映認知障害の重度精神障害者でもない限りは、認めざるを得ないことだから。
1+1=5にしたい
そちらのほうが人間的だ
1+1=2にしたい
それで満足できるなら
それこそ人間的じゃない
現代では欲は人並みにあるのに1+1=2に充たない一般層が大勢いる
欲望を単に邪悪だと切って捨てることのほうが視野が狭いと思う
欲望は幸福を求める衝動であり、理性なんて単純な発想で抑え込めるものではない
欲望は万人が持つ生きる衝動である
政治経済や様々な観点で客観視された公平さ公正さという環境を整えなければ、道徳も理性も機能しない
まず理性からというのは誤りだ
それは支配層に求められるべきもので、一般層には先ずそれを体現する環境こそが必要なのだ
そちらのほうが人間的だ
1+1=2にしたい
それで満足できるなら
それこそ人間的じゃない
現代では欲は人並みにあるのに1+1=2に充たない一般層が大勢いる
欲望を単に邪悪だと切って捨てることのほうが視野が狭いと思う
欲望は幸福を求める衝動であり、理性なんて単純な発想で抑え込めるものではない
欲望は万人が持つ生きる衝動である
政治経済や様々な観点で客観視された公平さ公正さという環境を整えなければ、道徳も理性も機能しない
まず理性からというのは誤りだ
それは支配層に求められるべきもので、一般層には先ずそれを体現する環境こそが必要なのだ
1+1の答えを2だと定義しているのは、神でも仏でもない、われわれ人間自身だ。
その人間が自分たち自身の取り決めを守ろうとすることが、最も人間的であるのは当然のことで、
それを後から1+1=3や4や5にしようってほうが、本当に禽獣並みに知能を低下させる精神障害ってもんだ。
その、重度精神障害のほうが世界標準であって、1+1=2を堅持するほうが異端であるとしたところで、
1億円+1億円を2億円と計算したり、1兆ドル+1兆ドルを2兆ドルと計算したりする理性のほうが
主体であり、1兆ドル+1兆ドルを5兆ドルや6兆ドルと計算する精神障害のほうが副体でないことには、
世の中のほうが立ち行かない。1+1を5にも6にもする精神障害の放蕩も、一定以上1+1=2を堅持する
理性があって初めて許されるのであり、精神障害が主体であって理性が副体だなんてほうがあり得ない。
「まず理性」が求められるべきなのは確かに支配層であって、しかも「まず支配層」であるべきでもある。
支配層が1+1=2の理性を堅持することが十分に尊重されて、「花は桜木、人は武士」というほどにも
理性に適った為政への優遇が行き届いたその上で、一般庶民の側がある程度の理性からの逸脱を認められたり
するというのが、本来の人間社会のあり方であり、それは今とて根本の部分から覆っているところではない。
1兆ドル+1兆ドルを5兆ドルにも6兆ドルにもしているような贋金作りどもが、どんなに虚栄を謳歌したところで、
そいつらのほうが世の中にとっての有害無益ながん細胞格であることには変わりなく、たとえどんなに貧乏であろうとも、
1+1=2のシラフの計算を尽くしている人間のほうが、有益無害な人類社会の模範的構成員であることが、一切劣悪の今
という世の中においてですら根本的に覆ったりはしておらず、ただ覆っているように見せかけられていることが虚妄なだけだ。
その人間が自分たち自身の取り決めを守ろうとすることが、最も人間的であるのは当然のことで、
それを後から1+1=3や4や5にしようってほうが、本当に禽獣並みに知能を低下させる精神障害ってもんだ。
その、重度精神障害のほうが世界標準であって、1+1=2を堅持するほうが異端であるとしたところで、
1億円+1億円を2億円と計算したり、1兆ドル+1兆ドルを2兆ドルと計算したりする理性のほうが
主体であり、1兆ドル+1兆ドルを5兆ドルや6兆ドルと計算する精神障害のほうが副体でないことには、
世の中のほうが立ち行かない。1+1を5にも6にもする精神障害の放蕩も、一定以上1+1=2を堅持する
理性があって初めて許されるのであり、精神障害が主体であって理性が副体だなんてほうがあり得ない。
「まず理性」が求められるべきなのは確かに支配層であって、しかも「まず支配層」であるべきでもある。
支配層が1+1=2の理性を堅持することが十分に尊重されて、「花は桜木、人は武士」というほどにも
理性に適った為政への優遇が行き届いたその上で、一般庶民の側がある程度の理性からの逸脱を認められたり
するというのが、本来の人間社会のあり方であり、それは今とて根本の部分から覆っているところではない。
1兆ドル+1兆ドルを5兆ドルにも6兆ドルにもしているような贋金作りどもが、どんなに虚栄を謳歌したところで、
そいつらのほうが世の中にとっての有害無益ながん細胞格であることには変わりなく、たとえどんなに貧乏であろうとも、
1+1=2のシラフの計算を尽くしている人間のほうが、有益無害な人類社会の模範的構成員であることが、一切劣悪の今
という世の中においてですら根本的に覆ったりはしておらず、ただ覆っているように見せかけられていることが虚妄なだけだ。
アナタの云われる精神障害や有害無益と思われる状態になることこそ人間の幸福です
悪いと理解していても求める
1+1=2以上を求めるのが人間本来の自然な在り方
社会に住むからこそ罪や罰という規範が生まれるが、それは本来的には不自然でしょう
暴力はさらに強大な暴力で治めているというのが現実
理性や道徳心くらいで諫めようというほうこそ愚かで単純です
先に環境を整備されなければ理性や道徳心を発揮する道理がない
悪いと理解していても求める
1+1=2以上を求めるのが人間本来の自然な在り方
社会に住むからこそ罪や罰という規範が生まれるが、それは本来的には不自然でしょう
暴力はさらに強大な暴力で治めているというのが現実
理性や道徳心くらいで諫めようというほうこそ愚かで単純です
先に環境を整備されなければ理性や道徳心を発揮する道理がない
「人類社会のがん細胞格」である連中はそう考えるだろうし、
そのような連中を無意識に羨望させられているカルト洗脳被害者たちも、そう考えるだろうな。
それが人間のダークサイドであって、それはそれで相当に大きな規模を擁しているのも知っている。
しかし、理性や道徳によって、人間社会を平穏無事に運営していこうとする派閥の規模のほうが、さらに大きい。
質でも量でも古さでも、有害無益な精神障害を上回る有益無害な精神健常が、実際に実在しており、
だからこそ人間社会もまだ存続を保ててもいる。信じるまいが支持するまいが、そうでしかない現実だ。
「私たちは有害無益ながん細胞格の精神障害に甘んじます」と宣言するのは別に結構だが、
そのようなゴミ同然の身分に甘んじることが、地球人類にとっての真の幸福であるなどということもないし、
そんな卑賤の身に満足する輩のほうが、人類という生物にとっての主体や根本であるなどということもない。
矮小でかりそめな、虚構の満足に浸り続けようとする人間などよりも、雄大かつ普遍的な、
実物の満足にこそ満悦な人々のほうが多数であることに、疑問を呈するほうがおかしい。
そのような連中を無意識に羨望させられているカルト洗脳被害者たちも、そう考えるだろうな。
それが人間のダークサイドであって、それはそれで相当に大きな規模を擁しているのも知っている。
しかし、理性や道徳によって、人間社会を平穏無事に運営していこうとする派閥の規模のほうが、さらに大きい。
質でも量でも古さでも、有害無益な精神障害を上回る有益無害な精神健常が、実際に実在しており、
だからこそ人間社会もまだ存続を保ててもいる。信じるまいが支持するまいが、そうでしかない現実だ。
「私たちは有害無益ながん細胞格の精神障害に甘んじます」と宣言するのは別に結構だが、
そのようなゴミ同然の身分に甘んじることが、地球人類にとっての真の幸福であるなどということもないし、
そんな卑賤の身に満足する輩のほうが、人類という生物にとっての主体や根本であるなどということもない。
矮小でかりそめな、虚構の満足に浸り続けようとする人間などよりも、雄大かつ普遍的な、
実物の満足にこそ満悦な人々のほうが多数であることに、疑問を呈するほうがおかしい。
大衆をトップダウンに扇情する気など、はじめからないからだ。
我こそは地の底から民を突き上げる、
人間社会のボトムアップこそは修己治人の本質でもある。
やり方のすり合わせからして、あり得ない。
我こそは地の底から民を突き上げる、
人間社会のボトムアップこそは修己治人の本質でもある。
やり方のすり合わせからして、あり得ない。
食わず嫌いもいいとこだな。
本物の道徳や理性なんて、その存在性すら未だ察知したこともないくせに。
「孝経」諫争篇における「父に不義があれば、子として諌め争わざるべからず」という孔子の言と、
「孟子」離婁章句下における「父子が善を責め合うは恩を損なうの大なるものだ」という孟子の言が
一見食い違っているように思われるのだが、これらの言葉の整合性をもう少し掘り下げてみるなら、
「親が致命的な過ちを犯しているときには、これ以上墓穴を掘り下げぬよう諫め争うのが孝となる一方で、
別段大きな過ちを犯しているわけでもない親に対して、さらなる積善を要求するのは不孝となる」
ということではないか。
立場上、子弟格にあたるものが、父兄格にあたる相手に対して、致命的な過ちの是正を諫言したりする
のまでは忠孝にもなるが、そこから先の積善までをも要求するのは、かえって恩を損なう不孝になるわけだから、
結局、今の自分よりはまだ先輩格に当たるだろう今の世の中心人物(仮)などに対して、過ちの責任をとっての
世の中からの退場を促すぐらいまでのことはするけれども、そこから先の積善は相手ではなく、こちら側こそが
自主的に試みていくべきことだから、別に相手との、今後からの二人三脚を前提としたような物言いもしない。
もう二度と社会のメインストリームを歩むこともないような人々に対して、下手に希望の光を当てたりする
ほうが絶望を助長させるのみだから、ただ「後は任せましょう」と言うのみが、忠孝という点でも最善なのだろう。
本物の道徳や理性なんて、その存在性すら未だ察知したこともないくせに。
「孝経」諫争篇における「父に不義があれば、子として諌め争わざるべからず」という孔子の言と、
「孟子」離婁章句下における「父子が善を責め合うは恩を損なうの大なるものだ」という孟子の言が
一見食い違っているように思われるのだが、これらの言葉の整合性をもう少し掘り下げてみるなら、
「親が致命的な過ちを犯しているときには、これ以上墓穴を掘り下げぬよう諫め争うのが孝となる一方で、
別段大きな過ちを犯しているわけでもない親に対して、さらなる積善を要求するのは不孝となる」
ということではないか。
立場上、子弟格にあたるものが、父兄格にあたる相手に対して、致命的な過ちの是正を諫言したりする
のまでは忠孝にもなるが、そこから先の積善までをも要求するのは、かえって恩を損なう不孝になるわけだから、
結局、今の自分よりはまだ先輩格に当たるだろう今の世の中心人物(仮)などに対して、過ちの責任をとっての
世の中からの退場を促すぐらいまでのことはするけれども、そこから先の積善は相手ではなく、こちら側こそが
自主的に試みていくべきことだから、別に相手との、今後からの二人三脚を前提としたような物言いもしない。
もう二度と社会のメインストリームを歩むこともないような人々に対して、下手に希望の光を当てたりする
ほうが絶望を助長させるのみだから、ただ「後は任せましょう」と言うのみが、忠孝という点でも最善なのだろう。
大罪を犯して退場を迫られている、重権力犯罪者などの眼鏡に適うような後継者であるほうが、
かえって世直しに努めていく上での不適合人物であるということにすらなるだろう。
世を破滅へと導く性向の持ち主に「こいつじゃいけない」と思われるぐらいで初めて、真の適合者であるともいえる。
「之れを愛して能く労すること勿らんや。忠にして能く誨うること勿らんや」
「愛しているからといって苦労させないのはいかがなものか。忠孝でありながら教誨に努めないのはいかがなものか」
(権力道徳聖書——通称史書五経——論語・憲問第十四・八より)
かえって世直しに努めていく上での不適合人物であるということにすらなるだろう。
世を破滅へと導く性向の持ち主に「こいつじゃいけない」と思われるぐらいで初めて、真の適合者であるともいえる。
「之れを愛して能く労すること勿らんや。忠にして能く誨うること勿らんや」
「愛しているからといって苦労させないのはいかがなものか。忠孝でありながら教誨に努めないのはいかがなものか」
(権力道徳聖書——通称史書五経——論語・憲問第十四・八より)
理性や道徳は社会性に対する知恵でなくては意味がない そういうことでしょう? それはずいぶんと前に書いてある
現代社会というのは
たとえば為政者一人を権力者とは言わない
現代特有の選挙形式から端を発し 献金や組織票を意識して関係性をつくらなければ為政者にはなれない
その関係性は、政治介入を余儀なくされるということ
すでに関係性ある企業の思惑や宗教団体の思惑 それらの都合を政治に反映しなくてはならない
そういった関係の積み重ねで社会規範もつくられている
庄屋とお代官くらいの単純な世界観じゃないのです
問題は孔子が考えていた以上に 相対的という以上…壮大に複雑化している
それが社会の都合
そこに理性や道徳心が入り込む余地がありますか?
社会の都合に沿った知恵こそが現代…現在求められる道徳なのですよ
それはやはり環境から カタチから入る以外には見出だせないでしょう
現代社会に根付いてしまった都合…これはもはや生活に則している
生活そのもの
過去の遺物のような道徳や理性では生活を…社会性を破綻させることになりませんか?
現代社会というのは
たとえば為政者一人を権力者とは言わない
現代特有の選挙形式から端を発し 献金や組織票を意識して関係性をつくらなければ為政者にはなれない
その関係性は、政治介入を余儀なくされるということ
すでに関係性ある企業の思惑や宗教団体の思惑 それらの都合を政治に反映しなくてはならない
そういった関係の積み重ねで社会規範もつくられている
庄屋とお代官くらいの単純な世界観じゃないのです
問題は孔子が考えていた以上に 相対的という以上…壮大に複雑化している
それが社会の都合
そこに理性や道徳心が入り込む余地がありますか?
社会の都合に沿った知恵こそが現代…現在求められる道徳なのですよ
それはやはり環境から カタチから入る以外には見出だせないでしょう
現代社会に根付いてしまった都合…これはもはや生活に則している
生活そのもの
過去の遺物のような道徳や理性では生活を…社会性を破綻させることになりませんか?
なにも複雑なことはない。
農夫や職人のような一人前の専門職としての、為政の価値が全面的に否定されて、
実際に権力道徳を実現する専門的な素養を蓄えた為政者までもが、
絶滅に追い込まれているというだけのこと。
たとえば、多くの人々を乗せた艦船があったとして、その艦船の乗客に過ぎない連中が、
船を操舵するための技能を持った船員を全て追い落として、操舵に関してはド素人に過ぎない
自分たちこそは「この船の船頭だ」などと宣言して、下手くそな操舵で山にすら乗り上げた、
その結果が>>355の惨状。ド素人の意見や私利私欲ばかりを国家運営に反映させた、当然の結末。
「無責任なド素人が国家を運営している」という実情を隠蔽するために、
事務手続きばかりは複雑化しているが、それが招いているものはただ一つ、
権力道徳に相反する権力犯罪の進行のみ。何も難しいところなどありゃしない。
農夫や職人のような一人前の専門職としての、為政の価値が全面的に否定されて、
実際に権力道徳を実現する専門的な素養を蓄えた為政者までもが、
絶滅に追い込まれているというだけのこと。
たとえば、多くの人々を乗せた艦船があったとして、その艦船の乗客に過ぎない連中が、
船を操舵するための技能を持った船員を全て追い落として、操舵に関してはド素人に過ぎない
自分たちこそは「この船の船頭だ」などと宣言して、下手くそな操舵で山にすら乗り上げた、
その結果が>>355の惨状。ド素人の意見や私利私欲ばかりを国家運営に反映させた、当然の結末。
「無責任なド素人が国家を運営している」という実情を隠蔽するために、
事務手続きばかりは複雑化しているが、それが招いているものはただ一つ、
権力道徳に相反する権力犯罪の進行のみ。何も難しいところなどありゃしない。
難しいのはね
それがすでに現代生活として機能してしまっているという現実ですよ
それを古くさい理性や道徳で扱うことは現代生活を破綻させることになる
文明や文化を失うことになるということ
文明文化こそ人間の関係性によって築き上げた粋であるということ
それに沿わない理性や道徳などより文明文化に則した在り方が本当の知恵 道徳になるべきなんだ
それがすでに現代生活として機能してしまっているという現実ですよ
それを古くさい理性や道徳で扱うことは現代生活を破綻させることになる
文明や文化を失うことになるということ
文明文化こそ人間の関係性によって築き上げた粋であるということ
それに沿わない理性や道徳などより文明文化に則した在り方が本当の知恵 道徳になるべきなんだ
道徳のために人間が在るわけじゃない
人間のために道徳が必要になるんだ
人間のために道徳が必要になるんだ
理性や道徳は文化文明じゃないってか?
重権力犯罪にまみれた総員禽獣化社会だけが、唯一の文化文明だってか?
ド素人の乗客が船頭と化した船が山に登ったことが、文化文明の唯一の成果だってか?
ただ、おまえの視野が極端に狭いせいで、ごくごく部分的な文化文明の片鱗に
過ぎないものを、唯一無二の文化文明だなどと思い込んでいるだけじゃないか。
金を操る商売人、物を作る職人、食い物を作る農夫や漁師、そして人間社会のあり方を総合的に切り盛りする士人、
これらの人種が全て合わせ集まることによってこそ、健全に機能するのが人間社会というものであり、
よく健全性が守られた社会においては、商売を含む産業への従事者以上にも為政者たる士人が尊重される一方で、
どこもかしこもが不健全と化した社会においては、士人や君子と呼べるほどにもまともな徳性を備えた
為政者が一人もいなくなって、ただ産業従事者の放辟邪侈がどこまでも放任されていくばかりとなる。
いずれにしろ、為政者と産業従事者とが並存する社会であることには代わりないが、
権力道徳の守られる社会においては君子士人が存在する一方で、権力犯罪にまみれた社会においては君子士人が存在しない。
君子士人の存在性が認められるか否かのみが両者の違う点であり、産業従事者たる庶民がいるかいないかなどということは論外。
庶民をいかに健全に統治支配するのかが為政者にとっての根本命題であり、その方向性がよく見据えられているのが
君子士人たる権力道徳者である一方で、全く見定められていないのが権力犯罪者であるのみ。
両者はコインの裏表のようなもので、権力犯罪者によって運営が保たれているような社会が、
権力道徳者によって運営されたなら、これ以上よくなることこそあれど、悪くなることなどは決してない。
重権力犯罪にまみれた総員禽獣化社会だけが、唯一の文化文明だってか?
ド素人の乗客が船頭と化した船が山に登ったことが、文化文明の唯一の成果だってか?
ただ、おまえの視野が極端に狭いせいで、ごくごく部分的な文化文明の片鱗に
過ぎないものを、唯一無二の文化文明だなどと思い込んでいるだけじゃないか。
金を操る商売人、物を作る職人、食い物を作る農夫や漁師、そして人間社会のあり方を総合的に切り盛りする士人、
これらの人種が全て合わせ集まることによってこそ、健全に機能するのが人間社会というものであり、
よく健全性が守られた社会においては、商売を含む産業への従事者以上にも為政者たる士人が尊重される一方で、
どこもかしこもが不健全と化した社会においては、士人や君子と呼べるほどにもまともな徳性を備えた
為政者が一人もいなくなって、ただ産業従事者の放辟邪侈がどこまでも放任されていくばかりとなる。
いずれにしろ、為政者と産業従事者とが並存する社会であることには代わりないが、
権力道徳の守られる社会においては君子士人が存在する一方で、権力犯罪にまみれた社会においては君子士人が存在しない。
君子士人の存在性が認められるか否かのみが両者の違う点であり、産業従事者たる庶民がいるかいないかなどということは論外。
庶民をいかに健全に統治支配するのかが為政者にとっての根本命題であり、その方向性がよく見据えられているのが
君子士人たる権力道徳者である一方で、全く見定められていないのが権力犯罪者であるのみ。
両者はコインの裏表のようなもので、権力犯罪者によって運営が保たれているような社会が、
権力道徳者によって運営されたなら、これ以上よくなることこそあれど、悪くなることなどは決してない。
なによりも恐ろしがられているのは、今すぐに、早急に世の中が変革されてしまうことで、そのせいで
無理をきたして破綻することであり、権力道徳によって世の中の平穏が保たれることへの普遍的な不信ではあるまい。
仮に、権力道徳が世の中を統治することなど絶対に不可能だなどと思い込んでいるのなら、
それこそは、歴史の勉強が足りなさ過ぎるだけの話でもあるしな。
「三年、父の道を改むること無きを、孝と謂うべし」
「父の死後、三年は父のやり方を改めないでおくことを、孝行と呼んでよかろう」
(権力道徳聖書——通称史書五経——論語・学而第一・一一より)
三年、最低でも三年は、降伏宣言の後にも、今の世の運営方法に大きな改変を加えるようなことは、決してするまい。
たとえ、それが明らかに改善になると認められる施策であっても、必ず三年間はその実施を保留する。
三年間のうちに、できる限り多くの人々とも打ち合わせを尽くして、人々の納得のいく政策がどれであり、
どうしたって支持を得られない政策はどれであるかなどを綿密に調査し抜いて、本当に大多数の人々による、
納得づくの支持や協力を得られる段になってから初めて、何らかの変革を実施するということもある。
あまりにも事務的な話であり、「全人類にとっての聖書」でもある四書五経を典拠にするのも卑俗に過ぎるかとも思うが、
「親の喪に最低でも三年は服すべきだ」とする孔子の意向にも、きっと何らかの具体的な意図が込められているのだろうから。
別に自分自身の親が死ぬなどという話でもないが、「前世代」という意味での、親の喪にも服すべきなのかもしれないな。
無理をきたして破綻することであり、権力道徳によって世の中の平穏が保たれることへの普遍的な不信ではあるまい。
仮に、権力道徳が世の中を統治することなど絶対に不可能だなどと思い込んでいるのなら、
それこそは、歴史の勉強が足りなさ過ぎるだけの話でもあるしな。
「三年、父の道を改むること無きを、孝と謂うべし」
「父の死後、三年は父のやり方を改めないでおくことを、孝行と呼んでよかろう」
(権力道徳聖書——通称史書五経——論語・学而第一・一一より)
三年、最低でも三年は、降伏宣言の後にも、今の世の運営方法に大きな改変を加えるようなことは、決してするまい。
たとえ、それが明らかに改善になると認められる施策であっても、必ず三年間はその実施を保留する。
三年間のうちに、できる限り多くの人々とも打ち合わせを尽くして、人々の納得のいく政策がどれであり、
どうしたって支持を得られない政策はどれであるかなどを綿密に調査し抜いて、本当に大多数の人々による、
納得づくの支持や協力を得られる段になってから初めて、何らかの変革を実施するということもある。
あまりにも事務的な話であり、「全人類にとっての聖書」でもある四書五経を典拠にするのも卑俗に過ぎるかとも思うが、
「親の喪に最低でも三年は服すべきだ」とする孔子の意向にも、きっと何らかの具体的な意図が込められているのだろうから。
別に自分自身の親が死ぬなどという話でもないが、「前世代」という意味での、親の喪にも服すべきなのかもしれないな。
人類の歴史は闘争のハズですよ?
道徳権力など一度も成し得なかったから現行の社会になったということですよ
一時の平和…だが次の局面では苦難に喘いでいる
そういった断続性が社会の移ろいの現実です
物語の歴史の中ならば恒久的な道徳への美意識があることでしょう
道徳権力など一度も成し得なかったから現行の社会になったということですよ
一時の平和…だが次の局面では苦難に喘いでいる
そういった断続性が社会の移ろいの現実です
物語の歴史の中ならば恒久的な道徳への美意識があることでしょう
だって2500年も経ってるうちに確実に大幅編集されてるよ?
分かりやすい言葉や矛盾っぽい言葉はすべて見直されて、孔子の言葉なんかもはや少ししか残ってないかもしれない
ありがたそうに読まれてはいるが現実なんかそんなもの
醜い部分は伏せられて編集につぐ編集を重ねられ もはや何の物語ですかね?
それに素直に心酔するなんて、道徳者ってのはまるで夢見る乙女のように無垢なものですね
分かりやすい言葉や矛盾っぽい言葉はすべて見直されて、孔子の言葉なんかもはや少ししか残ってないかもしれない
ありがたそうに読まれてはいるが現実なんかそんなもの
醜い部分は伏せられて編集につぐ編集を重ねられ もはや何の物語ですかね?
それに素直に心酔するなんて、道徳者ってのはまるで夢見る乙女のように無垢なものですね
>>371
まず、現人類のうちの12億人にあたるインドの歴史が、外界からの侵略を除けば
戦乱皆無の万年泰平の歴史だ。「インドには歴史がない」と言われるのもそのため。
そして、中国や日本などのの極東社会現15億人の歴史は、一時の戦乱と長期の泰平を繰り返す歴史。
戦国時代のような戦乱の時代もあれば、周代や漢代や唐代、平安時代や江戸時代のように
最悪の戦乱ぐらいは廃絶した泰平の時代もあり、概ね泰平3:戦乱1程度の配分を貫いている。
東南アジアやアフリカなどに住まう現14億人程度の人々も、それほど高度な文化文明を築き上げて
いたわけではないが、ことに西洋からの侵略被害に遭うまでは、きわめて平穏な歴史を保っていた。
万年戦乱の闘争状態に陥っているのは、全人類の半分以下に過ぎない西洋のみであり、
中でも自分たちからの侵略をも積極的に行っている、戦乱の元凶中の元凶とまでいえるのは、
アレクサンドロス東征や十字軍遠征によって中東社会をも侵略してきた現聖書圏のみ。
「人類の歴史は引っ切り無しの闘争の歴史」などというのが、西洋中心主義の偏見に
根ざした全くの思い違いであり、質でも量でも古さでも、戦乱以上にも泰平を重んじて、
実際に泰平優位戦乱劣位の歴史を積み重ねてきた派閥のほうが、遥かに優位であり続けている。
まず、現人類のうちの12億人にあたるインドの歴史が、外界からの侵略を除けば
戦乱皆無の万年泰平の歴史だ。「インドには歴史がない」と言われるのもそのため。
そして、中国や日本などのの極東社会現15億人の歴史は、一時の戦乱と長期の泰平を繰り返す歴史。
戦国時代のような戦乱の時代もあれば、周代や漢代や唐代、平安時代や江戸時代のように
最悪の戦乱ぐらいは廃絶した泰平の時代もあり、概ね泰平3:戦乱1程度の配分を貫いている。
東南アジアやアフリカなどに住まう現14億人程度の人々も、それほど高度な文化文明を築き上げて
いたわけではないが、ことに西洋からの侵略被害に遭うまでは、きわめて平穏な歴史を保っていた。
万年戦乱の闘争状態に陥っているのは、全人類の半分以下に過ぎない西洋のみであり、
中でも自分たちからの侵略をも積極的に行っている、戦乱の元凶中の元凶とまでいえるのは、
アレクサンドロス東征や十字軍遠征によって中東社会をも侵略してきた現聖書圏のみ。
「人類の歴史は引っ切り無しの闘争の歴史」などというのが、西洋中心主義の偏見に
根ざした全くの思い違いであり、質でも量でも古さでも、戦乱以上にも泰平を重んじて、
実際に泰平優位戦乱劣位の歴史を積み重ねてきた派閥のほうが、遥かに優位であり続けている。
そうやって一部地域に限定して視野狭く考えれば整合化も楽ですからね
人間の本性的に対抗心を抱く道徳者かな
道徳者が争いも辞さぬとたゆまぬ努力をすることは戦乱や 社会的混乱とどうちがうのか?
武力を持たなければいいのか?
それは小人とかいうヤツらとどれほどのちがいがあると言うんだ?
物語の中でしか達成できない道徳にすがって自分を慰めているのか?
人間の本性的に対抗心を抱く道徳者かな
道徳者が争いも辞さぬとたゆまぬ努力をすることは戦乱や 社会的混乱とどうちがうのか?
武力を持たなければいいのか?
それは小人とかいうヤツらとどれほどのちがいがあると言うんだ?
物語の中でしか達成できない道徳にすがって自分を慰めているのか?

中国湖北省荊門市の郭店第一号楚墓から発見された、今から約2300年前の竹簡には、
「老子」の原型にあたる文書と共に、「論語」や「書経」「詩経」に類似する文書が散見され、
しかも「礼記」の緇衣第三十三とほぼ同一の文書までもが確認されている。
他にも「詩・書・礼・楽・易・春秋」などの、今の経書分類に即する文字列も認められ、
四書五経にあたる文書文化が、犯罪聖書が成立したとされる今から約1900年前よりも
遥かに先んじていたことすらもが確認されている。
世界最古の犯罪聖書の原文である死海文書も、最古の部分ですら今から約2100年前のもので、
その内容も今の犯罪聖書とは随分な異同があり、犯罪聖書のほうもまた、今の形に
成型されたのは随分と後代であることが分かる。
五経が今の形に定型化されたのは、今から約2147年前の武帝による五経博士の設置時であると
「史記」の儒林列伝などからも確認でき、七十人訳によって旧約聖書が今の形に定型化された
とする紀元前一世紀代よりも先んじている。今の形に定型化されてからの古さでも、
四書五経は明らかに犯罪聖書よりも先んじている。
「震來虩虩たるに、恐れて福を致すなり。笑言唖唖たりて、後には則有るなり。(中略)君子もって恐懼修省す」
「激震のような衝撃が来るに及べば、素直に戒慎恐懼する。それは恐れ慎むことによってこそを福を招くためだ。そして
事後に秩序が保たれてから、初めて安らかに笑いつつ物も言う。そのために君子は恐れ慎みつつの修養や反省を欠かさない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・震・彖伝−象伝より)

一部地域に限定して、狭い視野だけに即してものを考える、
それも、どちらかといえば、四書五経よりも犯罪聖書のほうにこそ特定して深刻な凶状だ。
戦うということ、それだけなら六道輪廻のうちの三善趣にも「修羅道」として組み込まれている。
しかし、純粋な修羅道と、犯罪まみれの「地獄道」を混同して、戦いを泰平という目的のための手段で
あるとすらわきまえず、戦いのための戦い、引っ切り無しの戦乱状態を画策まではしない点が、
四書五経などに基づく純正道徳学が、犯罪聖書に基づく犯罪カルトなどとは違う点。
密教や禅などの高等仏教に即したなら、道徳学とて六道輪廻の範疇にとどまる卑俗学であるにも違いないが、
卑俗な中にも勧善懲悪ではあろうとする点において、卑俗であってしかも悪逆非道ですらあろうとする
犯罪カルトなどよりは、確実にマシなほうであるということがいえる。
十住心論のうちの最底辺である異生羝羊住心第一が犯罪カルトである一方で、下から二番目にあたる
愚童持斎住心第二が道徳者の境地。道徳者とてさして高尚な境地にあるわけではないが、最低最悪の限りを尽くす
犯罪カルトから上に登っていくためには、犯罪カルトよりも一段だけ上の存在であるに過ぎない道徳学あたりから
始めていくしかない。より高尚な境地に今すぐに至れるほど、自分たち自身が高い地位にいるわけでもないから。
犯罪聖書とかヨソの書を批判しても自分のところを正当化できないだろ
バカよりアホのがマシで嬉しいのか?
だいたい書き手自体が本人が死んでから弟子とか訪れた場所を巡って整理したということだぞ
小人の記憶力をどれだけ信じてるんだよ?小人を蚊帳の外扱いする書なのに
まったくメルヘンチックな物語だよ
現代道徳の動力源は欲望に則しているの!
己の欲望を満たさなければ他人には優しくなれないの!誰もが
支配層はともかく一般層はそれで変わる
世の中に道徳を体現したいなら金をバラまけ
満足感を動力に小人の道徳が少しは機能しはじめる
そうやって満ち足りた人間が増えることで支配層も何らかの転換をする可能性がある
財源がなければ日銀から盗ってこい
それが現代道徳だ
バカよりアホのがマシで嬉しいのか?
だいたい書き手自体が本人が死んでから弟子とか訪れた場所を巡って整理したということだぞ
小人の記憶力をどれだけ信じてるんだよ?小人を蚊帳の外扱いする書なのに
まったくメルヘンチックな物語だよ
現代道徳の動力源は欲望に則しているの!
己の欲望を満たさなければ他人には優しくなれないの!誰もが
支配層はともかく一般層はそれで変わる
世の中に道徳を体現したいなら金をバラまけ
満足感を動力に小人の道徳が少しは機能しはじめる
そうやって満ち足りた人間が増えることで支配層も何らかの転換をする可能性がある
財源がなければ日銀から盗ってこい
それが現代道徳だ
「現代道徳は犯罪主義である」
ただそれだけのことだな。
犯罪をしないことを道徳とし、道徳に反することを犯罪とするのが真の道徳。
一方で、犯罪こそは道徳であるとするのが偽の道徳。
真の道徳を諾うのが愚童持斎心以上、偽の道徳に溺れるのが異生羝羊心以下。
「犯罪は道徳である」という考えが確実に偽となるのは、
道徳もまた「犯罪の防止」を目的に定義された理念でしかないからだ。
犯罪すら懲罰し尽くして防止し尽くせたなら、それで道徳の役割は果たされるのであり、
重権力犯罪ぐらいは根絶された後における、四書五経以上の豊潤な精神文化文明の
繁栄のほうが、本当は真骨頂。権力道徳による権力犯罪の駆逐なんて、
真打ちの究極文化の興隆などと比べれば、前座の前座の前座でしかない。
ただそれだけのことだな。
犯罪をしないことを道徳とし、道徳に反することを犯罪とするのが真の道徳。
一方で、犯罪こそは道徳であるとするのが偽の道徳。
真の道徳を諾うのが愚童持斎心以上、偽の道徳に溺れるのが異生羝羊心以下。
「犯罪は道徳である」という考えが確実に偽となるのは、
道徳もまた「犯罪の防止」を目的に定義された理念でしかないからだ。
犯罪すら懲罰し尽くして防止し尽くせたなら、それで道徳の役割は果たされるのであり、
重権力犯罪ぐらいは根絶された後における、四書五経以上の豊潤な精神文化文明の
繁栄のほうが、本当は真骨頂。権力道徳による権力犯罪の駆逐なんて、
真打ちの究極文化の興隆などと比べれば、前座の前座の前座でしかない。
あと、儒家も欲望を否定はしない。否定はしないが
「君子は〜欲すれども貪らず」
「君子は人として生きる上での最低限の欲求ぐらいは持つが、それ以上の過大な貪欲は捨てる」
(権力道徳聖書——通称史書五経——論語・堯曰第二十・四より)
であり、他者を虐殺被害にまで陥れつつ、自らの生の虚栄を貪るような、
単なる生存欲の発露を逸脱した放辟邪侈の実現をこそのみ、認めないだけだ。
あまりにも程度が低すぎて、最低最悪の犯罪主義とすら未だ十分な区別が付けられずにいて、
そのせいでミッション系の大学が「論語」を典拠にした「上智大学」なんて大学名を名乗ってたりもするが、
欲すれども貪りはしない節度をわきまえた世俗志向と、欲する以上は必ずといっていいほど貪ろうとする
善悪みそくその犯罪主義込みな世俗志向との間には、相反性をも伴う断絶を来たした、厳然たる相違がある。
「君子は〜欲すれども貪らず」
「君子は人として生きる上での最低限の欲求ぐらいは持つが、それ以上の過大な貪欲は捨てる」
(権力道徳聖書——通称史書五経——論語・堯曰第二十・四より)
であり、他者を虐殺被害にまで陥れつつ、自らの生の虚栄を貪るような、
単なる生存欲の発露を逸脱した放辟邪侈の実現をこそのみ、認めないだけだ。
あまりにも程度が低すぎて、最低最悪の犯罪主義とすら未だ十分な区別が付けられずにいて、
そのせいでミッション系の大学が「論語」を典拠にした「上智大学」なんて大学名を名乗ってたりもするが、
欲すれども貪りはしない節度をわきまえた世俗志向と、欲する以上は必ずといっていいほど貪ろうとする
善悪みそくその犯罪主義込みな世俗志向との間には、相反性をも伴う断絶を来たした、厳然たる相違がある。
だいたい善悪自体が産まれた瞬間に判別できるわけじゃない
善悪は
人間の文明文化や生活に沿うことが営みの都合に善く 生活に沿わないことを悪いと経験から学ぶ後天的概念だ
だから互いに表裏的というか相対的な概念であり
ヒトの許容量によって認識はばらつきがある
そこに絶対性などはない
善悪は経験から学ぶ後天的概念という事実が、そのまま人間の獣性を証明しているんだ
精神性を重視するというのも道徳心も理性も後付けの社会性に対応する知恵に等しい
道徳者はちょっとだけ賢いというだけのこと
人間の本性を覆す道徳も思い付かない 他人任せのような理性に期待する メルヘンチックな愚か者
なまじ賢いだけに理想ばかり追い求め現実がみえない
精神性は現実の欲求を満たせば付いてくる これが現代の知恵 道徳になる
理想に期待するのではなく必然的にそれを達成しようという現実に沿った導きが必要なのだ
日銀から金を盗んでバラまけ
偽造してもいいぞ
平和になるなら少しぐらいの犯罪に目を向けるな
むしろ道徳者こそ時代の犠牲者となり、ねずみ小僧を演じるべきだ
善悪は
人間の文明文化や生活に沿うことが営みの都合に善く 生活に沿わないことを悪いと経験から学ぶ後天的概念だ
だから互いに表裏的というか相対的な概念であり
ヒトの許容量によって認識はばらつきがある
そこに絶対性などはない
善悪は経験から学ぶ後天的概念という事実が、そのまま人間の獣性を証明しているんだ
精神性を重視するというのも道徳心も理性も後付けの社会性に対応する知恵に等しい
道徳者はちょっとだけ賢いというだけのこと
人間の本性を覆す道徳も思い付かない 他人任せのような理性に期待する メルヘンチックな愚か者
なまじ賢いだけに理想ばかり追い求め現実がみえない
精神性は現実の欲求を満たせば付いてくる これが現代の知恵 道徳になる
理想に期待するのではなく必然的にそれを達成しようという現実に沿った導きが必要なのだ
日銀から金を盗んでバラまけ
偽造してもいいぞ
平和になるなら少しぐらいの犯罪に目を向けるな
むしろ道徳者こそ時代の犠牲者となり、ねずみ小僧を演じるべきだ
「1+1=5だ」と始めから決め付けてかかってくる相手に、1+1=2を大前提とした
シラフ文化の豊潤な体系構築の価値を知らせようってほうが、無理なものだよね。
だから1+1=2であることを堅持することに終始する、道徳学止まりの論及しか行っていない。
そうすることが最高に楽しい自分自身の姿を見せつけることで、
罪悪の辛苦に喘いでいる賤人としての惨めさを味わわせるまでしか。
この傾向は、まあ今後2、30年程度は変わるまい。たとえ今すぐに降伏宣言が発令されたとて。
シラフ文化の豊潤な体系構築の価値を知らせようってほうが、無理なものだよね。
だから1+1=2であることを堅持することに終始する、道徳学止まりの論及しか行っていない。
そうすることが最高に楽しい自分自身の姿を見せつけることで、
罪悪の辛苦に喘いでいる賤人としての惨めさを味わわせるまでしか。
この傾向は、まあ今後2、30年程度は変わるまい。たとえ今すぐに降伏宣言が発令されたとて。
ちゃんと犯罪聖書中で、自分たちが反社会勢力であることも豪語してるんだな。
やっぱり旧約冒頭の「創世記」からして、本当は「損世記」だったわけだ。
そりゃあ、世の中の多数派からの支持も得られなくて当然の話。
天下万民を安らかならしめる仁政の実現に協力することだって、当然できない。
「昔、周公大公、周室に股肱として、成王を夾輔せり。
成王之れを勞いて、之れに盟いを賜いて曰く、世世子孫、相害するこ無かれと」
「昔、魯の周公と斉の太公望とが、周王室の股肱耳目となって、成王を補佐しました。
成王はこれをねぎらって盟書を賜りました。そこにはこう書かれていました。
『世世代代の子子孫孫に至るまで、互いに害しあうことがないように』と」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十六年より)
やっぱり旧約冒頭の「創世記」からして、本当は「損世記」だったわけだ。
そりゃあ、世の中の多数派からの支持も得られなくて当然の話。
天下万民を安らかならしめる仁政の実現に協力することだって、当然できない。
「昔、周公大公、周室に股肱として、成王を夾輔せり。
成王之れを勞いて、之れに盟いを賜いて曰く、世世子孫、相害するこ無かれと」
「昔、魯の周公と斉の太公望とが、周王室の股肱耳目となって、成王を補佐しました。
成王はこれをねぎらって盟書を賜りました。そこにはこう書かれていました。
『世世代代の子子孫孫に至るまで、互いに害しあうことがないように』と」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十六年より)
世の中の多数派だから2000以上の言語に翻訳されて3000億冊以上が出版されてるのとちがうのか?
なんだそれ
次に書きたいことの煽りなのか?
少なくとも互いに理想を掲げているだけで、目くそ鼻くそを笑うというレベルじゃないか?
なんだそれ
次に書きたいことの煽りなのか?
少なくとも互いに理想を掲げているだけで、目くそ鼻くそを笑うというレベルじゃないか?
獣性を現代道徳という言い方も誤りだった
右の頬を打たれたら左の頬を出す 貧困層なら逃げ場がなければ、そういった無抵抗による抵抗しかできない
一般層なら袖の下 賄賂を渡して見逃してもらう
それらは方法的な差でしかない
一方
そういった欲求を満たしたい衝動のほうは
富裕層なら賄賂や袖の下と同じ手法で欲求を満たそうとする
貧困層なら強奪 せいぜい恵んでもらうといったところ
これも方向性は同じもので、真実は階層によって善悪は覆されてしまうということ
それは物事は必然的である 理想や奇蹟などないということを示している
まあ
実際、道徳心や理性は大切だろう
だが人間の本性を無視して理想に期待する そういう方法的失策が偉人数多の過ち 知恵のなさだっだのだ
右の頬を打たれたら左の頬を出す 貧困層なら逃げ場がなければ、そういった無抵抗による抵抗しかできない
一般層なら袖の下 賄賂を渡して見逃してもらう
それらは方法的な差でしかない
一方
そういった欲求を満たしたい衝動のほうは
富裕層なら賄賂や袖の下と同じ手法で欲求を満たそうとする
貧困層なら強奪 せいぜい恵んでもらうといったところ
これも方向性は同じもので、真実は階層によって善悪は覆されてしまうということ
それは物事は必然的である 理想や奇蹟などないということを示している
まあ
実際、道徳心や理性は大切だろう
だが人間の本性を無視して理想に期待する そういう方法的失策が偉人数多の過ち 知恵のなさだっだのだ
>>384
「3000億」というのは、全文を印刷した「聖書」という本の
発行部数ではなく、ほんの一部分の句だけでも引用されたことのある回数。
四書五経は犯罪聖書と違って、一冊の本として捉えられることは少ないが、
「論語」が「宇宙第一の書」として広く人口に膾炙しているのはもちろんのこと、
「書経」や「詩経」や「易経」などの文言が元号などとして数多く引用されており、
「昭和」や「平成」などの「書経」から引用された言葉が日本の新聞や雑誌などにも
ほぼ必ず日時表記などで引用されているため、その引用回数もン兆回を下らない。
「そんなのは発行部数じゃない」というのも確かだが、犯罪聖書の「3000億」という
数も発行部数ではなく引用回数だから。引用回数でも四書五経は犯罪聖書を桁外れに上回る。
まさにこれも、万人に広く文言の高邁さを触れ回るに値する上での、格の違いだといえる。
「不正な富で友達を作る23年」なんて、絶対に使えないからな。
>>385
うん、まったく本物の道徳や理性について語っているわけじゃない。
人間の本性にも根ざすことで、善因楽果悪因苦果の罪福にすら完全に一致するために、
その道徳に適うことが、すなわち人としての最大級の安楽をも呼び込み、その道徳に
反する犯罪を行うことが、すなわち人としての最大級の辛苦をも呼び込むことに直結する、
「性即理」というほどもの自明な完全性に即した道徳や理性といったものが実在する。
しかしそれは、儒学や朱子学、唯識思想やウパニシャッド哲学などが掲示する本物の道徳や
理性に限っての話であり、プラトンだのアリストテレスだのカントだのヘーゲルだのが
適当に概念をこねくり回して捏造しただけの道徳や理性とは全く異なるものだ。
未だかつて、西洋精神に根ざしての権力犯罪主義を進行させてきた連中が、本物の理性や
道徳を把握したことすらないのはもちろんのこと、その存在性を察知したことすら未だない。
明治以降には儒学も仏教も捨て去って、洋学教育に染まりきってしまった近現代の日本人も、
本物の道徳や理性を把握や察知できていることは極めてまれであり、近ごろ能弁豊かな
Jpfnq/KdHも、本物の道徳や理性の実在性を未だ察知すらできていない部類の人間に入る。
「3000億」というのは、全文を印刷した「聖書」という本の
発行部数ではなく、ほんの一部分の句だけでも引用されたことのある回数。
四書五経は犯罪聖書と違って、一冊の本として捉えられることは少ないが、
「論語」が「宇宙第一の書」として広く人口に膾炙しているのはもちろんのこと、
「書経」や「詩経」や「易経」などの文言が元号などとして数多く引用されており、
「昭和」や「平成」などの「書経」から引用された言葉が日本の新聞や雑誌などにも
ほぼ必ず日時表記などで引用されているため、その引用回数もン兆回を下らない。
「そんなのは発行部数じゃない」というのも確かだが、犯罪聖書の「3000億」という
数も発行部数ではなく引用回数だから。引用回数でも四書五経は犯罪聖書を桁外れに上回る。
まさにこれも、万人に広く文言の高邁さを触れ回るに値する上での、格の違いだといえる。
「不正な富で友達を作る23年」なんて、絶対に使えないからな。
>>385
うん、まったく本物の道徳や理性について語っているわけじゃない。
人間の本性にも根ざすことで、善因楽果悪因苦果の罪福にすら完全に一致するために、
その道徳に適うことが、すなわち人としての最大級の安楽をも呼び込み、その道徳に
反する犯罪を行うことが、すなわち人としての最大級の辛苦をも呼び込むことに直結する、
「性即理」というほどもの自明な完全性に即した道徳や理性といったものが実在する。
しかしそれは、儒学や朱子学、唯識思想やウパニシャッド哲学などが掲示する本物の道徳や
理性に限っての話であり、プラトンだのアリストテレスだのカントだのヘーゲルだのが
適当に概念をこねくり回して捏造しただけの道徳や理性とは全く異なるものだ。
未だかつて、西洋精神に根ざしての権力犯罪主義を進行させてきた連中が、本物の理性や
道徳を把握したことすらないのはもちろんのこと、その存在性を察知したことすら未だない。
明治以降には儒学も仏教も捨て去って、洋学教育に染まりきってしまった近現代の日本人も、
本物の道徳や理性を把握や察知できていることは極めてまれであり、近ごろ能弁豊かな
Jpfnq/KdHも、本物の道徳や理性の実在性を未だ察知すらできていない部類の人間に入る。
残念ながらそうではない、としか言えない。
こちらは、理性も獣性もどちらも、察知して把握して理解して味わっているが、
そちらは、理性を、察知したことも把握したことも理解したことも味わったこともない。
経験を尽くせているのはこちら。尽くせていないのがそちら。
食わず嫌いに幾千万遍の説明を重ねたところで、実際に味わわないことには分かるまい。
こちらは、理性も獣性もどちらも、察知して把握して理解して味わっているが、
そちらは、理性を、察知したことも把握したことも理解したことも味わったこともない。
経験を尽くせているのはこちら。尽くせていないのがそちら。
食わず嫌いに幾千万遍の説明を重ねたところで、実際に味わわないことには分かるまい。
ボクは、理性も道徳も知恵だということから本質を理解しているのは明らかだ
何度も言っただろう?
それは社会性 人間関係に対応するための一手だと
たとえそれが、まるで絶対に当たる宝くじのようなものだったとして
運営する人間や売る人間など様々な人間関係が社会を営んでいるのだ
人間がいるから 人間関係への対応術
そういった後付けである知恵 道徳 理性は、人間の本質や本性を発揮するのを防ぐというカタチで機能するのだ
創始者は、もしかすると人間の本質や本性を理解していたかもしれないが、アナタはそれを読み取れなかったのだよ
何度も言っただろう?
それは社会性 人間関係に対応するための一手だと
たとえそれが、まるで絶対に当たる宝くじのようなものだったとして
運営する人間や売る人間など様々な人間関係が社会を営んでいるのだ
人間がいるから 人間関係への対応術
そういった後付けである知恵 道徳 理性は、人間の本質や本性を発揮するのを防ぐというカタチで機能するのだ
創始者は、もしかすると人間の本質や本性を理解していたかもしれないが、アナタはそれを読み取れなかったのだよ
知恵こそは理性や道徳だなんて、とんでもない。
知識にだって誤謬もあれば、不正な富で友達を作るための悪知恵だってある。
総体的には、知識とは善悪みそくそなものであり、知識自体を勧善懲悪のふるいにかけた上で
仁義や礼儀によって統制していって初めて、本物の道徳や理性にもたどり着く。
だから儒家の五常では「仁義礼智信」という序列で、智を仁義や礼儀の下に置き、
「信仰は愛、愛は信仰」だなんてトートロジーに陥る信も最低位に置く。
知識や信仰ばかりに終始する、ものの考え方からして、極めてのっぺりとした一面的な
ものに過ぎず、単なる知識で割り切ることもできず、一概な狂信で逃げ切ることもできない、
諸法実相の実情ってもんが、ちゃんとあるもんだ。未熟なお子ちゃまにはまだ分かるまいが。
「凡そ五刑の聽を聴くには、必ず父子の親に原き、君臣の義を立て、以て之れを權り、
意いて輕重の序を論じ、慎みて淺深の量を測り、以之れを別ち、其の聰明を悉くし、其の忠愛を致して、以て之れを盡くす」
「五刑(いれずみ、はなそぎ、あしきり、去勢、死刑の五つ)を科すような重罪を裁く上では、
必ず父子の親に基づき、君臣の義を立てて、その罪状を量る。その上で罪の軽重の序列を論じ、
慎んでその深浅の度量を測り、それぞれの刑に罪人を割り当て、聡明さを尽くし、忠愛の至りでいて、これらの業務を尽くす。
(カルト信者の『信愛』にも近似する『忠愛』も致すわけだが、刑を科す側はただそれだけでは済まない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
知識にだって誤謬もあれば、不正な富で友達を作るための悪知恵だってある。
総体的には、知識とは善悪みそくそなものであり、知識自体を勧善懲悪のふるいにかけた上で
仁義や礼儀によって統制していって初めて、本物の道徳や理性にもたどり着く。
だから儒家の五常では「仁義礼智信」という序列で、智を仁義や礼儀の下に置き、
「信仰は愛、愛は信仰」だなんてトートロジーに陥る信も最低位に置く。
知識や信仰ばかりに終始する、ものの考え方からして、極めてのっぺりとした一面的な
ものに過ぎず、単なる知識で割り切ることもできず、一概な狂信で逃げ切ることもできない、
諸法実相の実情ってもんが、ちゃんとあるもんだ。未熟なお子ちゃまにはまだ分かるまいが。
「凡そ五刑の聽を聴くには、必ず父子の親に原き、君臣の義を立て、以て之れを權り、
意いて輕重の序を論じ、慎みて淺深の量を測り、以之れを別ち、其の聰明を悉くし、其の忠愛を致して、以て之れを盡くす」
「五刑(いれずみ、はなそぎ、あしきり、去勢、死刑の五つ)を科すような重罪を裁く上では、
必ず父子の親に基づき、君臣の義を立てて、その罪状を量る。その上で罪の軽重の序列を論じ、
慎んでその深浅の度量を測り、それぞれの刑に罪人を割り当て、聡明さを尽くし、忠愛の至りでいて、これらの業務を尽くす。
(カルト信者の『信愛』にも近似する『忠愛』も致すわけだが、刑を科す側はただそれだけでは済まない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
それは道徳を発揮するための手段 方法的解釈に過ぎないでしょう
社会がある 人間関係があるから必要とされる後天的に編み出された知恵に等しいんだよ 分類としてはね
考えることができる人間が居なければ成立しない平和への方法論の一説に過ぎない 道徳は
人間関係がある
それへの対処術に過ぎないの
言語教育されて、学問や教養をある程度理解した人間にしか通用しない
限定的な方法論なんだよ
つまり人間関係だ
教育されてない人間には通用しない
社会があることを前提にして考えているから、本性なんて考えに及ばないだけだ
社会がある 人間関係があるから必要とされる後天的に編み出された知恵に等しいんだよ 分類としてはね
考えることができる人間が居なければ成立しない平和への方法論の一説に過ぎない 道徳は
人間関係がある
それへの対処術に過ぎないの
言語教育されて、学問や教養をある程度理解した人間にしか通用しない
限定的な方法論なんだよ
つまり人間関係だ
教育されてない人間には通用しない
社会があることを前提にして考えているから、本性なんて考えに及ばないだけだ
カテゴリーわけが「知者か無知」かの両極端ばかりに止まっていて、それ以上に進むことがない。
無知でも賢者であるものは賢者だし、知者でも悪人であるものは悪人。
不正な富で友達を作る知識にかけては豊富であっても、道義に基づかなければ富を得ない
心構えにかけては脆弱な人間などは、知者であるにも関わらず悪人となり、なまじ不当利得の
具体的な得方などを知っているぶんだけ、全くの無知よりもさらに有害無益な存在となる。
上記の事例を参考にするなら、「不正な富で友達を作る」という知識はあっても、
そのような知識は絶対に実用しないという心構えがあって、実際に実用せず、かえって
不当利得を得る詐欺師どもを捕縛して懲罰する材料にすら転用できるようになれた場合に限って、
初めて「不正な富で友達を作る」という知識までもが善用されることになるのであり、
そこまでのことは、ただ「不正な富で友達を作る」という知識を得ただけでは、到底実現し得ない。
「富貴は道義に基づかなければ得ない」という知識もまた別に得て、不正な富で友達を作る
知識などよりも、道義に基づかない限りは富貴を得ない心構えのほうが重要であることを十分に
わきまえなければ、「不正な富で友達を作る」という知識が善用されることなど、絶対にない。
知識それ自体は、善用も悪用も可能な諸刃の剣であり、もしも悪用一辺倒に偏ってしまったりしたなら、
それこそ何も知らない人間以上にも有害無益で劣悪な非道徳者=犯罪者となることが必定。
知識を悪用せずに善用するという、知識全般の制御方法にかけて手堅い人間であることでのみ、
何も知らない人間以上にも有益無害で優良な非犯罪者=道徳者となることができるのだ。
無知でも賢者であるものは賢者だし、知者でも悪人であるものは悪人。
不正な富で友達を作る知識にかけては豊富であっても、道義に基づかなければ富を得ない
心構えにかけては脆弱な人間などは、知者であるにも関わらず悪人となり、なまじ不当利得の
具体的な得方などを知っているぶんだけ、全くの無知よりもさらに有害無益な存在となる。
上記の事例を参考にするなら、「不正な富で友達を作る」という知識はあっても、
そのような知識は絶対に実用しないという心構えがあって、実際に実用せず、かえって
不当利得を得る詐欺師どもを捕縛して懲罰する材料にすら転用できるようになれた場合に限って、
初めて「不正な富で友達を作る」という知識までもが善用されることになるのであり、
そこまでのことは、ただ「不正な富で友達を作る」という知識を得ただけでは、到底実現し得ない。
「富貴は道義に基づかなければ得ない」という知識もまた別に得て、不正な富で友達を作る
知識などよりも、道義に基づかない限りは富貴を得ない心構えのほうが重要であることを十分に
わきまえなければ、「不正な富で友達を作る」という知識が善用されることなど、絶対にない。
知識それ自体は、善用も悪用も可能な諸刃の剣であり、もしも悪用一辺倒に偏ってしまったりしたなら、
それこそ何も知らない人間以上にも有害無益で劣悪な非道徳者=犯罪者となることが必定。
知識を悪用せずに善用するという、知識全般の制御方法にかけて手堅い人間であることでのみ、
何も知らない人間以上にも有益無害で優良な非犯罪者=道徳者となることができるのだ。
知識を悪用と言うが、それが生きることそのものなのだ
道徳者が養ってくれる期待などないし、生活の糧を得るためなら何でもする
窃盗や売春などは犯罪とか言われているが、実際には生存戦略に過ぎないだろう
道徳で生きるのが物事は相互作用するために正解だとかは理想だが、現代社会はすでに生活自体が犯罪的なものだ
物事は必然的だ
貧しかろうが盗ってでも殺してでも生きる
それが生命の本質だ
また、権力者がさらなる支配欲を抱くことも必然だ
人間一人ひとりの言動が作用して世情はつくられる
理想など掲げて立ち止まっている道徳者に何ができるんだ?
欲望と道徳が並んで売られたら道徳は売れ残る
というか売れない
魅力がないからだ
無料で配っても受け取ってもらえない
邪魔にしかならないから
必然である現在に異を唱えても何も変化はしない
結果的な善で妥協できない 苦難も見えていないフリをしてきた
それが道徳者の歴史だ
犯罪であっても革命を遂げた結果的な善でいいのだ
自分のためではない崇高な目的意識が罪を贖うだろう
道徳者が養ってくれる期待などないし、生活の糧を得るためなら何でもする
窃盗や売春などは犯罪とか言われているが、実際には生存戦略に過ぎないだろう
道徳で生きるのが物事は相互作用するために正解だとかは理想だが、現代社会はすでに生活自体が犯罪的なものだ
物事は必然的だ
貧しかろうが盗ってでも殺してでも生きる
それが生命の本質だ
また、権力者がさらなる支配欲を抱くことも必然だ
人間一人ひとりの言動が作用して世情はつくられる
理想など掲げて立ち止まっている道徳者に何ができるんだ?
欲望と道徳が並んで売られたら道徳は売れ残る
というか売れない
魅力がないからだ
無料で配っても受け取ってもらえない
邪魔にしかならないから
必然である現在に異を唱えても何も変化はしない
結果的な善で妥協できない 苦難も見えていないフリをしてきた
それが道徳者の歴史だ
犯罪であっても革命を遂げた結果的な善でいいのだ
自分のためではない崇高な目的意識が罪を贖うだろう
知識 知能 知恵 そんなものは個性に過ぎないんだよ
道徳や理性も発想が社会性に対処する目的なのだから個性に等しいってものだ
そんなていどの個性差は決定的な個人差にはならないぞ 格 尽 自惚れるな
道徳や理性も発想が社会性に対処する目的なのだから個性に等しいってものだ
そんなていどの個性差は決定的な個人差にはならないぞ 格 尽 自惚れるな
私の趣味は道徳ですって言ってるだけだろ
他者を害して自分が栄える犯罪的知識が、一応は生存目的で存在するのと同じように、
万人を利して我が利ともする道徳的知識もまた、人が生きることを目的として存在する。
しかも、世を破滅に陥れて結局は己れの破滅をも導く犯罪的知識とは違って、
道徳的知識は誰しもの利益を守ることによって、結局は犯罪的知識以上もの
普遍的な繁栄を、自らを含む誰しもにもたらす。
万人を害して我をも害する犯罪的知識が、むしろ何も知らないでいるほうがマシなぐらいに劣悪なものであるのに対し、
万人を利して我が利ともする道徳的知識は、何も知らないでいる以上にも有益無害であるほどにも優良なものですらある。
犯罪的知識<全くの無知<道徳的知識
ですらあり、この優劣は確実に人類社会や自分自身の栄枯盛衰の如何にも直結している。
信じるまいが支持するまいが、ただ事実であるというだけの事実だ。
犯罪的知識を排して道徳的知識のみを賞揚すれば、無知無学以上もの人間や社会にすらなることができる。
それなのに「知識すなわち犯罪的知識」などというほどにも蒙昧な迷妄の内側に閉じこもって出てこない。
だったらもう、その狭隘な見識だけでなく、自分自身の全身から、閉鎖病棟にでも閉じこもらせておくべきだな。
万人を利して我が利ともする道徳的知識もまた、人が生きることを目的として存在する。
しかも、世を破滅に陥れて結局は己れの破滅をも導く犯罪的知識とは違って、
道徳的知識は誰しもの利益を守ることによって、結局は犯罪的知識以上もの
普遍的な繁栄を、自らを含む誰しもにもたらす。
万人を害して我をも害する犯罪的知識が、むしろ何も知らないでいるほうがマシなぐらいに劣悪なものであるのに対し、
万人を利して我が利ともする道徳的知識は、何も知らないでいる以上にも有益無害であるほどにも優良なものですらある。
犯罪的知識<全くの無知<道徳的知識
ですらあり、この優劣は確実に人類社会や自分自身の栄枯盛衰の如何にも直結している。
信じるまいが支持するまいが、ただ事実であるというだけの事実だ。
犯罪的知識を排して道徳的知識のみを賞揚すれば、無知無学以上もの人間や社会にすらなることができる。
それなのに「知識すなわち犯罪的知識」などというほどにも蒙昧な迷妄の内側に閉じこもって出てこない。
だったらもう、その狭隘な見識だけでなく、自分自身の全身から、閉鎖病棟にでも閉じこもらせておくべきだな。
諦めずにってのは守ってるようだけど、己が無能なのだと律する度量はないのね
無能の、何が悪いよ?
犯罪行為にかけてばかり有能であるために、世の中に破滅級の害悪を加えている連中などよりも、
何の能もないような凡人であるほうが、遥かにマシであるに決まってるじゃないか。
実践的な道徳行為にかけて有能であるのならなおのことよいが、
別にいかなる行為にかけても無能であるだけの凡人だって、
犯罪行為や権力犯罪行為にかけて有能である賤人などよりも、
有害無益でない無害無益であるぶん、限りなくマシであるに決まってるじゃないか。
それだけでも、十分じゃないか。
重権力犯罪下の総員テロリスト化社会において、
紛れもなく「天下に雄」たる存在である根拠として、十分過ぎるにも程がある。
犯罪行為にかけてばかり有能であるために、世の中に破滅級の害悪を加えている連中などよりも、
何の能もないような凡人であるほうが、遥かにマシであるに決まってるじゃないか。
実践的な道徳行為にかけて有能であるのならなおのことよいが、
別にいかなる行為にかけても無能であるだけの凡人だって、
犯罪行為や権力犯罪行為にかけて有能である賤人などよりも、
有害無益でない無害無益であるぶん、限りなくマシであるに決まってるじゃないか。
それだけでも、十分じゃないか。
重権力犯罪下の総員テロリスト化社会において、
紛れもなく「天下に雄」たる存在である根拠として、十分過ぎるにも程がある。
道徳者の問題点は、そんな理想では現代生活はできないということだよ
独り者ならいざ知らず、妻帯者なら家族の糧も社会の中で得なくてはならない
その社会性に道徳などで向かっても太刀打ちできない
権力者などや富裕層の構築した社会性だから、権力者や富裕層に楯突けば糧を失う
一方
権力者や富裕層は、元々困ってもいないのに自らを狭める道徳など持つ必要性がない
これは必然なのだ
道徳者の歴史も妥協を余儀なくされるか、孤高のたわけ者としてしか存在していない
せいぜい権力を確固たるものにするための悪徳者の論理的根拠に成り下がるくらいか
悪法の味方として 小判鮫のように生き残るくらいしかできない
そんなヤツらが道徳を機能できる道理がない
まあ、中には厳しい社会で変化を恐れてマヌケな信念を貫く 貫き続けた無能な道徳者も居るだろうが
ボクは道徳者に結果的な善を勧めたが
これでは結果的な無能だな
たしかに悪ではないよ
しかし結果的には賢くもないし その頑なさはバカ徳に執着する 浅ましいケダモノのようだぞ
独り者ならいざ知らず、妻帯者なら家族の糧も社会の中で得なくてはならない
その社会性に道徳などで向かっても太刀打ちできない
権力者などや富裕層の構築した社会性だから、権力者や富裕層に楯突けば糧を失う
一方
権力者や富裕層は、元々困ってもいないのに自らを狭める道徳など持つ必要性がない
これは必然なのだ
道徳者の歴史も妥協を余儀なくされるか、孤高のたわけ者としてしか存在していない
せいぜい権力を確固たるものにするための悪徳者の論理的根拠に成り下がるくらいか
悪法の味方として 小判鮫のように生き残るくらいしかできない
そんなヤツらが道徳を機能できる道理がない
まあ、中には厳しい社会で変化を恐れてマヌケな信念を貫く 貫き続けた無能な道徳者も居るだろうが
ボクは道徳者に結果的な善を勧めたが
これでは結果的な無能だな
たしかに悪ではないよ
しかし結果的には賢くもないし その頑なさはバカ徳に執着する 浅ましいケダモノのようだぞ
本物の道徳や道徳者の実在を、未だ察知もしてないうちから、俺への反論を試みるんじゃねえよ。
別に、俺はおまえが言っている「道徳」だの「道徳者」だのを擁護しているわけでもないからな。
誰しもがただただ生存や家族ぐるみの生活を欲するあまり、自分たち以上もの人数の人間を
破滅や犠牲に追いやるのなら、そもそもそんな社会不適合者たちが生存欲や人並みの生活
すらをも欲するところからして間違っている。そんな連中全員が檻の中や閉鎖病棟の中に入るか、
最低でも後見人が付けられての、全ての行為能力が管理下におかれた被後見人になるべきだ。
それでこそ、より多くの人間が生存し、家族も十分に養いつつの生活すらをも実現できる。
他者に致命的な危害を加えつつの生存や家庭生活を試みて、実際に達成までしてしまうような人種が
ありのままに「社会のガン細胞」であり、そんな連中の自由な社会介入を微塵も許してはならない。
そこから初めて、権力道徳の実現も適うのであり、他者に危害を加えてでも自分が活きようとするような
重度精神障害者への適切な処分も行われないうちから、権力道徳を実現していこうだなんて考えるほうが
全くの絵空事であり、俺はそんなことはちっとも期待していない。そんなものを期待しているなどと
思い込んでるのも、そちらの全くの勘違いであり、何かにかけて俺と話す上での準備が整っていない。
別に、俺はおまえが言っている「道徳」だの「道徳者」だのを擁護しているわけでもないからな。
誰しもがただただ生存や家族ぐるみの生活を欲するあまり、自分たち以上もの人数の人間を
破滅や犠牲に追いやるのなら、そもそもそんな社会不適合者たちが生存欲や人並みの生活
すらをも欲するところからして間違っている。そんな連中全員が檻の中や閉鎖病棟の中に入るか、
最低でも後見人が付けられての、全ての行為能力が管理下におかれた被後見人になるべきだ。
それでこそ、より多くの人間が生存し、家族も十分に養いつつの生活すらをも実現できる。
他者に致命的な危害を加えつつの生存や家庭生活を試みて、実際に達成までしてしまうような人種が
ありのままに「社会のガン細胞」であり、そんな連中の自由な社会介入を微塵も許してはならない。
そこから初めて、権力道徳の実現も適うのであり、他者に危害を加えてでも自分が活きようとするような
重度精神障害者への適切な処分も行われないうちから、権力道徳を実現していこうだなんて考えるほうが
全くの絵空事であり、俺はそんなことはちっとも期待していない。そんなものを期待しているなどと
思い込んでるのも、そちらの全くの勘違いであり、何かにかけて俺と話す上での準備が整っていない。
ちがうね
大切なのは方法であり
方法も確立しているにもかかわらず何も成せない事実
時も人間もどんどん孔子の時代を追いやって内容的に書きかえられていくのに、方法は未だに同じく壁に向かってお経を唱えるが如く理想しか発しない
方法が間違ってるんだよ
大切なのは方法であり
方法も確立しているにもかかわらず何も成せない事実
時も人間もどんどん孔子の時代を追いやって内容的に書きかえられていくのに、方法は未だに同じく壁に向かってお経を唱えるが如く理想しか発しない
方法が間違ってるんだよ
何も成し遂げられていないどころか、最大級の成果を挙げてすらいる。
道理をわきまえた上で果敢に振る舞おうとする人々のうちでは、
現人類社会において最大級の成果を挙げているとすらいえる。
それほどにも、道理をわきまえつつ果敢に振る舞える「大勇」の持ち主が、
今の世の中にまったく欠乏しているというだけのことでもあるが。
「果敢にして窒がれる者を悪む」
「甚大な結果を出そうとして、勇敢に事に臨もうとはするものの、
そもそも道理すらわきまえられていないものを君子は憎む」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・陽貨第十七・二四より)
道理をわきまえた上で果敢に振る舞おうとする人々のうちでは、
現人類社会において最大級の成果を挙げているとすらいえる。
それほどにも、道理をわきまえつつ果敢に振る舞える「大勇」の持ち主が、
今の世の中にまったく欠乏しているというだけのことでもあるが。
「果敢にして窒がれる者を悪む」
「甚大な結果を出そうとして、勇敢に事に臨もうとはするものの、
そもそも道理すらわきまえられていないものを君子は憎む」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・陽貨第十七・二四より)
欠乏じゃなく存在しない
それは前に書いたように社会生活に反していて糧にならないからだ
即成果がなければ実用的ではないと判断される
それも必然
頭の中では完成したつもりでも、それは他人が思い通りに動くハズがないという現実を無視してきたからだ
後から結果はジワジワとやってくる
そんな詐欺みたいな主張を信じる道理はない
時間的な損は経済的な損に直結するんだ
そういった早い展開で成し得ることが生活なのだ
のんびり待つ人間はおいてけぼりになる
ジワジワやってくるのは後悔だけになる
産業革命を知らない孔子がスピードを意識してないのは仕方ない
即効力がないことをいくら考えても過ぎ去ったことに言い訳をしているようなものだ
それは前に書いたように社会生活に反していて糧にならないからだ
即成果がなければ実用的ではないと判断される
それも必然
頭の中では完成したつもりでも、それは他人が思い通りに動くハズがないという現実を無視してきたからだ
後から結果はジワジワとやってくる
そんな詐欺みたいな主張を信じる道理はない
時間的な損は経済的な損に直結するんだ
そういった早い展開で成し得ることが生活なのだ
のんびり待つ人間はおいてけぼりになる
ジワジワやってくるのは後悔だけになる
産業革命を知らない孔子がスピードを意識してないのは仕方ない
即効力がないことをいくら考えても過ぎ去ったことに言い訳をしているようなものだ
削除(by投稿者)
仁強なる壮士がこの世に存在しようがするまいが、
おまえらが他者に危害を加えることで自分たち自身の栄華を誇る、
社会の少数派のガン細胞格であることにも変わりはない。
そんな連中にとって得になるようなことほど、世の中にとって損になることは他にないのであり、
そもそもそんな連中が軒並みこの世から廃絶されて、後の世にもガンが再発することのないような
予防措置に努めるように画策していくのが、真に世のため人のためになるものの考え方ってものだ。
俺が要求しようがするまいが、世の中にとって有害無益なガン細胞格であるおまえらが
自分たちのみを増長させるペースを貫いて、世の中を破滅へと導き続けたなら、
もう数十年と世の中のほうがもたないから、イヤでもおまえら自身が自決するしかない。
そうでもなければ、おまえらごと世の中全体が滅亡するしかないのだから。
俺もまた、今がそういう時宜だから、都合よくその時宜に乗っかっているだけだ。
「五月斯螽股を動かし、六月莎鶏羽を振るう。七月野に在り、八月宇に在り、九月戸に在り。
十月蟋蟀、我が牀下に入る。穹窒して鼠を熏べ、向を塞ぎ戸を墐る」
「五月にはイナゴが股を動かして鳴き出し、六月にはクツワムシが羽を振って鳴き始める。
小虫たちが七月には野にあり、八月には家の軒下に近寄り、九月には戸口の前にやってくる。
外も寒気がさし始めた十月には、小虫たちはついには床の中にまで入ってこようとする。
そこで部屋のありとあらゆる穴を塞いで燻すことで元からいる鼠などを追い出し、
窓も塞いで戸口の隙間も塗り固めて、小虫たちが入ってこないようにする。
(キリストとは、大量発生したイナゴかクツワムシのようなものか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・豳風・七月より)
おまえらが他者に危害を加えることで自分たち自身の栄華を誇る、
社会の少数派のガン細胞格であることにも変わりはない。
そんな連中にとって得になるようなことほど、世の中にとって損になることは他にないのであり、
そもそもそんな連中が軒並みこの世から廃絶されて、後の世にもガンが再発することのないような
予防措置に努めるように画策していくのが、真に世のため人のためになるものの考え方ってものだ。
俺が要求しようがするまいが、世の中にとって有害無益なガン細胞格であるおまえらが
自分たちのみを増長させるペースを貫いて、世の中を破滅へと導き続けたなら、
もう数十年と世の中のほうがもたないから、イヤでもおまえら自身が自決するしかない。
そうでもなければ、おまえらごと世の中全体が滅亡するしかないのだから。
俺もまた、今がそういう時宜だから、都合よくその時宜に乗っかっているだけだ。
「五月斯螽股を動かし、六月莎鶏羽を振るう。七月野に在り、八月宇に在り、九月戸に在り。
十月蟋蟀、我が牀下に入る。穹窒して鼠を熏べ、向を塞ぎ戸を墐る」
「五月にはイナゴが股を動かして鳴き出し、六月にはクツワムシが羽を振って鳴き始める。
小虫たちが七月には野にあり、八月には家の軒下に近寄り、九月には戸口の前にやってくる。
外も寒気がさし始めた十月には、小虫たちはついには床の中にまで入ってこようとする。
そこで部屋のありとあらゆる穴を塞いで燻すことで元からいる鼠などを追い出し、
窓も塞いで戸口の隙間も塗り固めて、小虫たちが入ってこないようにする。
(キリストとは、大量発生したイナゴかクツワムシのようなものか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・豳風・七月より)
アナタの道徳心なんて実は郷土愛ていどのものなんじゃないのか?
愛国心を持つヤカラと同じく
自身に近しい土地柄や人物情景だけしか知らないのに、世の中を憂いでいる気になっただけじゃないのか?
同じく孔子のことも深く知る前に信じてしまって、周囲がみえなくなってしまった ちがうと言えるのか?
社会の物事は知識からなっている 人間の心と言い換えてもいいが
何がホンモノかなんてのは疑念(知恵)を以て注意深く捉えなければホンモノなんてみえないんだ
疑わなければホントウの真理には到達できないんだぞ
愛国心を持つヤカラと同じく
自身に近しい土地柄や人物情景だけしか知らないのに、世の中を憂いでいる気になっただけじゃないのか?
同じく孔子のことも深く知る前に信じてしまって、周囲がみえなくなってしまった ちがうと言えるのか?
社会の物事は知識からなっている 人間の心と言い換えてもいいが
何がホンモノかなんてのは疑念(知恵)を以て注意深く捉えなければホンモノなんてみえないんだ
疑わなければホントウの真理には到達できないんだぞ
ところでこの二つの引用を見てくれ。こいつをどう思う?
「見よ、わたし(イエス・キリスト)は戸口に立って、(自分の股を)たたいている。
だれかわたしの声(羽音)を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入って
その者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」
(権力犯罪聖書——通称聖書——ヨハネ譫妄録3:20)
「五月にはイナゴが股を動かして鳴き出し、六月にはクツワムシが羽を振って鳴き始める。
小虫たちが七月には野にあり、八月には家の軒下に近寄り、九月には戸口の前にやってくる。
外も寒気がさし始めた十月には、小虫たちはついには床の中にまで入ってこようとする。
そこで部屋のありとあらゆる穴を塞いで燻すことで元からいる鼠などを追い出し、
窓も塞いで戸口の隙間も塗り固めて、小虫たちが入ってこないようにする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・豳風・七月より)
他人の家にずうずうしくもあがり込んで、よそ様の飯を対等な立場で
食らおうとする、お下劣な強盗気質がよく表現されてんな。どちらも。
かたや作中の最重要人物でもあるメシア、かたやイナゴとクツワムシ、ではあるが。
「見よ、わたし(イエス・キリスト)は戸口に立って、(自分の股を)たたいている。
だれかわたしの声(羽音)を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入って
その者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」
(権力犯罪聖書——通称聖書——ヨハネ譫妄録3:20)
「五月にはイナゴが股を動かして鳴き出し、六月にはクツワムシが羽を振って鳴き始める。
小虫たちが七月には野にあり、八月には家の軒下に近寄り、九月には戸口の前にやってくる。
外も寒気がさし始めた十月には、小虫たちはついには床の中にまで入ってこようとする。
そこで部屋のありとあらゆる穴を塞いで燻すことで元からいる鼠などを追い出し、
窓も塞いで戸口の隙間も塗り固めて、小虫たちが入ってこないようにする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・豳風・七月より)
他人の家にずうずうしくもあがり込んで、よそ様の飯を対等な立場で
食らおうとする、お下劣な強盗気質がよく表現されてんな。どちらも。
かたや作中の最重要人物でもあるメシア、かたやイナゴとクツワムシ、ではあるが。
強盗も人間だ
行為は卑劣かもしれないが昨今の社会 とくに住む国や地域に照らして考えなければ真実とは言えない
日本だったとしたら最近になって餓死者が居ると
金もなく食料も尽きて電気ガス水道も止められ身内も居ない
そんな老人が餓死したとここ数年で聞くようになってきた
それに堪えることは美徳なのか?盗んででも食うのが己の本音のハズなのに
本音を隠して道徳的に振る舞うことで苦難に陥るくらいなら己の本音に従えばいい 自然の営みに身を任せてしまえば
それが窃盗や強盗だったとしたなら何が悪いんだ?
それは欲かも知れないが、自然の営みだ
原因が怠け者ということだとしても下品堕落もヒトのサガ
己の本音から目を背けて何を求めるというんだ?
幸せは本音の中にしかないんだ
しかし
己の欲ばかり満たしていたら社会性は成り立たない、が、必要以上に本音を抑制しても自分とはなんなんだろう?となる
そうやって知恵(疑念)で以て考えなければ真理には到達しない
餓死者が道徳的に他者を意識 配慮しての結果なら道徳なんか必要ないだろう
一人ひとりの本音に一人ひとりの幸福がある
その現実をシッカリと見据える 欲望を肯定する
その一方で
一人ひとりの幸福の根底である社会性にはみんなで配慮しなければならない
これは
ただの道徳者には荷が重いと思うね
行為は卑劣かもしれないが昨今の社会 とくに住む国や地域に照らして考えなければ真実とは言えない
日本だったとしたら最近になって餓死者が居ると
金もなく食料も尽きて電気ガス水道も止められ身内も居ない
そんな老人が餓死したとここ数年で聞くようになってきた
それに堪えることは美徳なのか?盗んででも食うのが己の本音のハズなのに
本音を隠して道徳的に振る舞うことで苦難に陥るくらいなら己の本音に従えばいい 自然の営みに身を任せてしまえば
それが窃盗や強盗だったとしたなら何が悪いんだ?
それは欲かも知れないが、自然の営みだ
原因が怠け者ということだとしても下品堕落もヒトのサガ
己の本音から目を背けて何を求めるというんだ?
幸せは本音の中にしかないんだ
しかし
己の欲ばかり満たしていたら社会性は成り立たない、が、必要以上に本音を抑制しても自分とはなんなんだろう?となる
そうやって知恵(疑念)で以て考えなければ真理には到達しない
餓死者が道徳的に他者を意識 配慮しての結果なら道徳なんか必要ないだろう
一人ひとりの本音に一人ひとりの幸福がある
その現実をシッカリと見据える 欲望を肯定する
その一方で
一人ひとりの幸福の根底である社会性にはみんなで配慮しなければならない
これは
ただの道徳者には荷が重いと思うね
人が最低限の生存を欲することと、
権力犯罪によって何億何兆ドルもの利権を貪ることとは、全く同一ではない。
むしろ、個人や少数派の分際で、ただ生きていく上では全く必要としないような
法外な暴利を貪る重権力犯罪者どもが跳梁跋扈しているからこそ、
最低限の生活すらも保証されない、件の老人のような犠牲者も生まれる。
(国外に目を向ければ、国全体がそんな状態のままの国すら多数ある)
少数の大悪人の限りない貪欲によって、多数の人々の最低限の生活すらもが蔑ろにされる、
そんな最悪の惨状だけは避けるために、最悪級の重権力犯罪者だけは檻の中や閉鎖病棟に完全に隔離し、
それによって、なるべく多くの人々に、最低限の生活ぐらいは保証してやるのが権力道徳というもの。
結局、世の中全体という大局に対して、最悪の権力犯罪ぐらいは駆逐する権力道徳を適用したほうが、
より多くの人々が福徳に与れる一方で、最悪の権力犯罪すら野放しにしたほうが、より多くの人々が
最低限の福徳にすら与れない、最悪の破滅にまで追い込まれるという法則が普遍性を帯びている。
最低限の生活すら保証されることなく、ひっそりと孤独死していった老人の場合などを鑑みて、
「人の本性は強盗だから最悪の権力犯罪すら認めるべきだ」などと主張するのも全くの欺瞞で、
むしろそのような荒廃社会の犠牲者を生まないためにこそ、最悪の権力犯罪ぐらいは完全に駆逐して、
「人の本性は強盗か大量発生したイナゴも同然である」というような、社会風紀をより
劣悪化させるような、積極的な暴言から未然に排していくようにしなければならない。
権力犯罪によって何億何兆ドルもの利権を貪ることとは、全く同一ではない。
むしろ、個人や少数派の分際で、ただ生きていく上では全く必要としないような
法外な暴利を貪る重権力犯罪者どもが跳梁跋扈しているからこそ、
最低限の生活すらも保証されない、件の老人のような犠牲者も生まれる。
(国外に目を向ければ、国全体がそんな状態のままの国すら多数ある)
少数の大悪人の限りない貪欲によって、多数の人々の最低限の生活すらもが蔑ろにされる、
そんな最悪の惨状だけは避けるために、最悪級の重権力犯罪者だけは檻の中や閉鎖病棟に完全に隔離し、
それによって、なるべく多くの人々に、最低限の生活ぐらいは保証してやるのが権力道徳というもの。
結局、世の中全体という大局に対して、最悪の権力犯罪ぐらいは駆逐する権力道徳を適用したほうが、
より多くの人々が福徳に与れる一方で、最悪の権力犯罪すら野放しにしたほうが、より多くの人々が
最低限の福徳にすら与れない、最悪の破滅にまで追い込まれるという法則が普遍性を帯びている。
最低限の生活すら保証されることなく、ひっそりと孤独死していった老人の場合などを鑑みて、
「人の本性は強盗だから最悪の権力犯罪すら認めるべきだ」などと主張するのも全くの欺瞞で、
むしろそのような荒廃社会の犠牲者を生まないためにこそ、最悪の権力犯罪ぐらいは完全に駆逐して、
「人の本性は強盗か大量発生したイナゴも同然である」というような、社会風紀をより
劣悪化させるような、積極的な暴言から未然に排していくようにしなければならない。
「屠られて」を「奢られて」と誤記しているようだが。
「屠殺」という、日本では最も下賤な部類とされてきた所業が、キリスト信仰の
本質であることを日本国内でひけらかすことには、さすがに躊躇を抱くのだろうか?
日本で屠殺業が特に賤しみの対象とされたのは、日本に魚食文化が豊富で、牛や豚などの肉から
タンパク源を摂取する必要があまりなかったからで、内陸国でもある中国などの場合には、
獣肉も重要なタンパク源だったから、屠殺業が「産業」だから差別されるということはあっても、
産業の中でも突出して差別の対象にされるということまではなかった。
ただ、産業階級はともかく、為政者たるものが血を見る仕事を好き好むようなことは
なるべく避けるべきであるため、孟子も斉の宣王に以下のような言葉を述べている。
「屠殺」という、日本では最も下賤な部類とされてきた所業が、キリスト信仰の
本質であることを日本国内でひけらかすことには、さすがに躊躇を抱くのだろうか?
日本で屠殺業が特に賤しみの対象とされたのは、日本に魚食文化が豊富で、牛や豚などの肉から
タンパク源を摂取する必要があまりなかったからで、内陸国でもある中国などの場合には、
獣肉も重要なタンパク源だったから、屠殺業が「産業」だから差別されるということはあっても、
産業の中でも突出して差別の対象にされるということまではなかった。
ただ、産業階級はともかく、為政者たるものが血を見る仕事を好き好むようなことは
なるべく避けるべきであるため、孟子も斉の宣王に以下のような言葉を述べている。

王之れを見て曰く、牛之れ何するぞ。對えて曰く、將に以て鐘に釁んとす。王曰く、之れを舍け。
吾れ其の觳觫の若く罪無くして死地に就くに忍びざるなり。對えて曰く、然れば則ち鐘に釁んことを廃めんか。
曰く、何ぞ廃む可けんや。羊を以て之れに易えよと。諸れ識らず有るや。曰く、之れ有り。曰く、是の心以て王たるに足れり」
「私(孟子)は家臣の胡齕氏からこのようなことを聞きました。王様が以前殿堂上に座して居られましたときに、
牛を牽きつつ堂下を通り過ぎる者があったそうです。王様はこれを見て言われました。『おい、その牛をどうするつもりだ』
すると牛を牽く者は『今度新しく作られました鐘に、この牛の血を塗ってお祈りをするのです』と正直に答えました。
すると王様は言われました。『やめるのだ。わしはその牛のようにおどおどしながら、罪もなく刑死に向かおうと
している者を見るのに忍びんのだ』 『それでは今回の血塗りの儀式は取り止めにいたしましょうか』と牽牛者が答えますと、
『なぜ大切な儀式を取り止めにできようか。羊に替えて行え』と言われたそうです。これはまことのことでしょうか。
(王は『本当のことだ』と答えた。それに対して孟子)これこそは、王たるに相応しい慈悲心の表れに他なりません」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・七より)
キリストがイナゴも同然の品性の持ち主であることは>>407の引用からも明らかだが、
本当に、イナゴぐらいぐらいにしとくべきなんだ。人々にとっての犠牲なんてのは。
聖書は都合よく書きかえらて、さらに都合よく読み間違えられているということだと思います
たとえば
キリストが救世主だろうと腹が減ったなら食料を分けてもらえばいいし
釈迦も孔子も同じく分けてもらえばいい
そんなことぐらいで己のスタンスが変わるハズがない
救世主だとか権力者だとか一般市民だとか
そんなものは役割に過ぎないものでミソもクソもない
エラくなんかない
救世主だろうと
欲求を抑制ばかりしていても、それは本音から目を背けているだけでしかない
クソミソの中にある真なる己の在り方を見いだすことが真理なんだ
なによりも本音を隠しているのが悪いんだ
救世主と逆の悪なる存在がいたとしても同じこと
悪いことをしているというのは理解しているのにやってしまう
本音を出せばいいんだ
ホントウは傷付けたくないのに他の手段を見いだすことができない
世の中の厳しさは正邪に関係なく誰もが知るところで、道徳律(やってはいけないこと)を理解してはいるんだ
権力者もホントウは色々と思いやっているハズなんだ
それらすべての人間の本性を 本音を発揮させてやる
たとえば
キリストが救世主だろうと腹が減ったなら食料を分けてもらえばいいし
釈迦も孔子も同じく分けてもらえばいい
そんなことぐらいで己のスタンスが変わるハズがない
救世主だとか権力者だとか一般市民だとか
そんなものは役割に過ぎないものでミソもクソもない
エラくなんかない
救世主だろうと
欲求を抑制ばかりしていても、それは本音から目を背けているだけでしかない
クソミソの中にある真なる己の在り方を見いだすことが真理なんだ
なによりも本音を隠しているのが悪いんだ
救世主と逆の悪なる存在がいたとしても同じこと
悪いことをしているというのは理解しているのにやってしまう
本音を出せばいいんだ
ホントウは傷付けたくないのに他の手段を見いだすことができない
世の中の厳しさは正邪に関係なく誰もが知るところで、道徳律(やってはいけないこと)を理解してはいるんだ
権力者もホントウは色々と思いやっているハズなんだ
それらすべての人間の本性を 本音を発揮させてやる
ねえ、ヨハネ譫妄録にもちゃんと予言されているねえ。
人間の獣性や悪性の増長ばかりに専らであったカルト狂信者たちが、
カルト教義の種も仕掛けもばれるに及んで、労苦からも解き放たれて
永遠の「大人の幼稚園児」としての人生に与れるって。
間違ってるのは、それが人間にとっての「幸せ」だなどと断じられていた点であり、
人の本性ないし本音こそは理であり、善だから、理という体にとっての用であるに過ぎない
情が濁されることによって悪性や獣性を増長させてきたことは、幸せや安らぎではなく、
最大級の不幸や禍いばかりにのみ見舞われるという事実が分かっていなかったところだ。
善も悪も、人も鬼畜も混在しているみそくそな世界において、
「諸悪莫作衆善奉行(法句経)」であり、「破邪顕正(三論玄義)」であり、
「厭離穢土欣求浄土(往生要集)」であることがとにもかくにも真理であり、真理でもあるから、
真理とまではいかない道理の範囲で務められる「勧善懲悪(左伝)」もまた、人々の心を打つ快挙ともなる。
どんな悲劇や喜劇や惨劇よりも、勧善懲悪こそは最高に面白い、痛快無比なる歴史上の伝説ともなる。
人間の獣性や悪性の増長ばかりに専らであったカルト狂信者たちが、
カルト教義の種も仕掛けもばれるに及んで、労苦からも解き放たれて
永遠の「大人の幼稚園児」としての人生に与れるって。
間違ってるのは、それが人間にとっての「幸せ」だなどと断じられていた点であり、
人の本性ないし本音こそは理であり、善だから、理という体にとっての用であるに過ぎない
情が濁されることによって悪性や獣性を増長させてきたことは、幸せや安らぎではなく、
最大級の不幸や禍いばかりにのみ見舞われるという事実が分かっていなかったところだ。
善も悪も、人も鬼畜も混在しているみそくそな世界において、
「諸悪莫作衆善奉行(法句経)」であり、「破邪顕正(三論玄義)」であり、
「厭離穢土欣求浄土(往生要集)」であることがとにもかくにも真理であり、真理でもあるから、
真理とまではいかない道理の範囲で務められる「勧善懲悪(左伝)」もまた、人々の心を打つ快挙ともなる。
どんな悲劇や喜劇や惨劇よりも、勧善懲悪こそは最高に面白い、痛快無比なる歴史上の伝説ともなる。
「春秋の稱は微にして顯われ、志にして晦く、婉にして章を成し、
盡にして汙ならず、懲惡にして勸善なる。聖人に非ずして誰か能く之れを脩めん」
「(五経の一書であり、孔子の真作である)『春秋経』の筆法は、字数は少ないがその意味は明らかであり、
明確に言うときにも露骨になることを避け、遠回しに言うときにも筋道を通し、実際のところを直言して事実を曲げず、
どこもかしこもが勧善懲悪で貫かれている。(孔子のような)聖人でなければ誰かこれを書けようか。
(春秋“経”本文ではなく、孔子の弟子だった左丘明の注釈である“伝”の文であるため、自画自賛ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公十四年より)
上記の「勧善懲悪」の本来の定義に基づくなら、「勧善懲悪にもとる筆法」とは、
・字数がやたら多いくせにその意味は不明である。
・明確にものを言うときにはやたらと露骨に言う。
・遠回しに言うときにはその意味が筋道立てられていない。
・実際のところを直言せずに真実を捻じ曲げる。
といったもの。まさに犯罪聖書の筆法そのものだといえる。
ちなみに俺の筆法は
・字数はやたらと多いが、その意味は明らかである。
・明確に言うときは露骨でも温厚でもなく、なるべく素っ気なく言う。
・遠回しに言うときには最低限の筋道を通す。
・実際のところはやはり直言して真実も捻じ曲げない。
前三つは、勧善懲悪である春秋の筆法と、悪逆非道な犯罪聖書の筆法の折衷になっていて、
最後の「直言して事実を捻じ曲げない」だけは完全に春秋の筆法に準拠している。
これは、孔子ではなく孟子や司馬遷の筆法により近似しているところであり、
最大級の勧善懲悪である孔子の筆法には、今一歩及んでいないところだといえる
盡にして汙ならず、懲惡にして勸善なる。聖人に非ずして誰か能く之れを脩めん」
「(五経の一書であり、孔子の真作である)『春秋経』の筆法は、字数は少ないがその意味は明らかであり、
明確に言うときにも露骨になることを避け、遠回しに言うときにも筋道を通し、実際のところを直言して事実を曲げず、
どこもかしこもが勧善懲悪で貫かれている。(孔子のような)聖人でなければ誰かこれを書けようか。
(春秋“経”本文ではなく、孔子の弟子だった左丘明の注釈である“伝”の文であるため、自画自賛ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公十四年より)
上記の「勧善懲悪」の本来の定義に基づくなら、「勧善懲悪にもとる筆法」とは、
・字数がやたら多いくせにその意味は不明である。
・明確にものを言うときにはやたらと露骨に言う。
・遠回しに言うときにはその意味が筋道立てられていない。
・実際のところを直言せずに真実を捻じ曲げる。
といったもの。まさに犯罪聖書の筆法そのものだといえる。
ちなみに俺の筆法は
・字数はやたらと多いが、その意味は明らかである。
・明確に言うときは露骨でも温厚でもなく、なるべく素っ気なく言う。
・遠回しに言うときには最低限の筋道を通す。
・実際のところはやはり直言して真実も捻じ曲げない。
前三つは、勧善懲悪である春秋の筆法と、悪逆非道な犯罪聖書の筆法の折衷になっていて、
最後の「直言して事実を捻じ曲げない」だけは完全に春秋の筆法に準拠している。
これは、孔子ではなく孟子や司馬遷の筆法により近似しているところであり、
最大級の勧善懲悪である孔子の筆法には、今一歩及んでいないところだといえる
ボクも他人のことは言えないが、アナタの言説は
字数がやたら多いくせにその意味は不明である。が当てはまると思います
引用が多すぎるためかも知れませんが
また
明確にものを言うときにはやたらと露骨に言う
にも当てはまってる
重度精神障害者 犯罪聖書 入獄しろ などいずれもストレートでとても分りやすく とても遠回しな表現とは思えませんよ
また
実際のところを直言せずに真実を捻じ曲げる。
にも過去の文献にしがみついているところに感じます
構造主義などの哲学のほうが必然的な善を成すのははやいと思います
人間の行動や思想は社会構造によって決まってくる
脱構築することで善悪感さえ変化する可能性がある
字数がやたら多いくせにその意味は不明である。が当てはまると思います
引用が多すぎるためかも知れませんが
また
明確にものを言うときにはやたらと露骨に言う
にも当てはまってる
重度精神障害者 犯罪聖書 入獄しろ などいずれもストレートでとても分りやすく とても遠回しな表現とは思えませんよ
また
実際のところを直言せずに真実を捻じ曲げる。
にも過去の文献にしがみついているところに感じます
構造主義などの哲学のほうが必然的な善を成すのははやいと思います
人間の行動や思想は社会構造によって決まってくる
脱構築することで善悪感さえ変化する可能性がある
「感じる」とか「思う」とか「思わない」とか、そんなことはどうでもいいんだ。
問題は事実としてそうか否かであり、事実であるが故に現実もその物言い通りになったり、
事実ではないが故に現実が物言い通りにはならなかったりすることのほうだ。
ただでさえ、聖人君子の言葉は厳しく、カルト教祖の物言いのような美辞麗句も排しての、
ことさらに実直な言行に努められているのだから、自分たち自身こそは不誠実さの極みにある
小人や精神病質者や犯罪者が、その言行を好ましく思えないのも当たり前のことだ。
だから孔子も「善人には好まれ、悪人には嫌われるのが最善だ(子路第十三・二四)」とも言っている。
あからさまに悪人そのものである君らに嫌われるのは、かえって名誉なことですらあり、
どちらかといえば自分の言行のほうが正しく、正しいが故に現実を見定められている証拠ともなる。
「君子に三變有り。之れを望めば儼然たり、之れに即けば温なり、其の言を聽けば﨤し」
「おおよそ君子に接しようとすると、接する側は君子の姿が三つに変転するのを体験する。
遠くからその姿をうかがっている間は厳然として近寄りがたく、にもかかわらず近づいて
接すれば極めて温厚であり、それでいてその言葉を聞けば、やはり厳しくて容赦がない。
(孔子に生涯付き添い続けた弟子の子夏の言葉。孔子などの君子の側には態度を変えようと
する気はないが、周りには自然と、接し方によってその姿が大きく変化するように見える。
巧言令色に巧みな佞者こそは、いつも変わらずヘラヘラしてるようにも見えるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・九より)
問題は事実としてそうか否かであり、事実であるが故に現実もその物言い通りになったり、
事実ではないが故に現実が物言い通りにはならなかったりすることのほうだ。
ただでさえ、聖人君子の言葉は厳しく、カルト教祖の物言いのような美辞麗句も排しての、
ことさらに実直な言行に努められているのだから、自分たち自身こそは不誠実さの極みにある
小人や精神病質者や犯罪者が、その言行を好ましく思えないのも当たり前のことだ。
だから孔子も「善人には好まれ、悪人には嫌われるのが最善だ(子路第十三・二四)」とも言っている。
あからさまに悪人そのものである君らに嫌われるのは、かえって名誉なことですらあり、
どちらかといえば自分の言行のほうが正しく、正しいが故に現実を見定められている証拠ともなる。
「君子に三變有り。之れを望めば儼然たり、之れに即けば温なり、其の言を聽けば﨤し」
「おおよそ君子に接しようとすると、接する側は君子の姿が三つに変転するのを体験する。
遠くからその姿をうかがっている間は厳然として近寄りがたく、にもかかわらず近づいて
接すれば極めて温厚であり、それでいてその言葉を聞けば、やはり厳しくて容赦がない。
(孔子に生涯付き添い続けた弟子の子夏の言葉。孔子などの君子の側には態度を変えようと
する気はないが、周りには自然と、接し方によってその姿が大きく変化するように見える。
巧言令色に巧みな佞者こそは、いつも変わらずヘラヘラしてるようにも見えるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・九より)
感じる 思う にしたのはせめてもの配慮ですよ
小人から聖人に道徳的な配慮をしただけのことです
つい、本音を隠してしまった
本音では、胡散臭え坊主がワケわからん文献を引用ばっかりしやがって解りづれエ
こんなの誰も読むわけねえだろう たわけ者が と、とてもハッキリしています
そしてホントウのところを、疑念によって暴いてやろうとしてます
現在の認識は、本人が死んだ後におバカ達の頼りない記憶を寄せ集めて、それを真に受けて信じた道楽者が壁に向かって嘆いている
小人から聖人に道徳的な配慮をしただけのことです
つい、本音を隠してしまった
本音では、胡散臭え坊主がワケわからん文献を引用ばっかりしやがって解りづれエ
こんなの誰も読むわけねえだろう たわけ者が と、とてもハッキリしています
そしてホントウのところを、疑念によって暴いてやろうとしてます
現在の認識は、本人が死んだ後におバカ達の頼りない記憶を寄せ集めて、それを真に受けて信じた道楽者が壁に向かって嘆いている
中国人は、為政を志す限りにおいては毅然とするのに、ことに産業に手を出した途端に腐敗する。
欧米人も、産業に従事している限りでは優秀なのに、政治に手を出せば途端に腐敗する。
男が女の領分に手を出したり、女が男の領分に手を出したりした結果、致命的な腐敗を招いている。
「左伝」荘公二十四年では、乱世に特有の症例として、礼節などの社会規範に、
男女の区別が付けられなくなることが挙げられ、「男女の別は國の大節なり」とも指摘されている。
男と女、君主と臣下、君子と小人など、それぞれがそれぞれの領分を守るように努めたならば、
上に立つものだけでなく、下に控えるものまでもが、相応に清廉な人生を送れるというのに。
「仲弓仁を問う。子曰く、門を出でては大賓に見えるが如くし、民を使うには大祭を承るが如くす。
己れの欲せざる所は、人に施すことなかれ。
邦に在りては怨み無く、家に在りては怨み無し。仲弓曰く、雍、不敏と雖も、請いし斯の語を事とせん」
「仲弓が仁についてお聞きした。先生は言われた。『家の門を出て仕事に従事する以上は、
常に大賓に応対するほどにも恭しい態度でいて、自分が人を使う場合にも、
大祭の催しを任されたほどにも厳かな態度でいるようにする。
そして、自分がされたくないと思うことは、人に対しても決してしない。
それでこそ仁の実践姿勢であるといえ、ちゃんと仁が実践できたならば、
国や社会においても怨みがなくなり、家の中にも怨みはなくなるであろう』
仲弓はそれを聞いて言った。『私もふつつかながらも、そのお言葉を忘れぬように致します』
(『己所不欲、勿施於人』は論語中にも重複して述べられており、こちらは既出の引用ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・二)
欧米人も、産業に従事している限りでは優秀なのに、政治に手を出せば途端に腐敗する。
男が女の領分に手を出したり、女が男の領分に手を出したりした結果、致命的な腐敗を招いている。
「左伝」荘公二十四年では、乱世に特有の症例として、礼節などの社会規範に、
男女の区別が付けられなくなることが挙げられ、「男女の別は國の大節なり」とも指摘されている。
男と女、君主と臣下、君子と小人など、それぞれがそれぞれの領分を守るように努めたならば、
上に立つものだけでなく、下に控えるものまでもが、相応に清廉な人生を送れるというのに。
「仲弓仁を問う。子曰く、門を出でては大賓に見えるが如くし、民を使うには大祭を承るが如くす。
己れの欲せざる所は、人に施すことなかれ。
邦に在りては怨み無く、家に在りては怨み無し。仲弓曰く、雍、不敏と雖も、請いし斯の語を事とせん」
「仲弓が仁についてお聞きした。先生は言われた。『家の門を出て仕事に従事する以上は、
常に大賓に応対するほどにも恭しい態度でいて、自分が人を使う場合にも、
大祭の催しを任されたほどにも厳かな態度でいるようにする。
そして、自分がされたくないと思うことは、人に対しても決してしない。
それでこそ仁の実践姿勢であるといえ、ちゃんと仁が実践できたならば、
国や社会においても怨みがなくなり、家の中にも怨みはなくなるであろう』
仲弓はそれを聞いて言った。『私もふつつかながらも、そのお言葉を忘れぬように致します』
(『己所不欲、勿施於人』は論語中にも重複して述べられており、こちらは既出の引用ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・二)
女や子供はバカだとかよく言われるが、実は心理的に単純な力関係を意識しているから慎重なだけだ
男女や年齢層で分けるのも把握できないものをカテゴリに押し込んでいるだけで、何ら解決にはならない
男女や年齢層に適材適所を当てはめるのは大雑把なお役所仕事だ
女にも子供にも有能な人物は居るし、男盛りだとしても無能な人物も居る
アンタたちの適材適所は、天下り先を探している老人の身の置き場を、正当化しようとすることじゃないか?
本人の気持ちを汲んでから、それが適材適所かを計るべきなんだ
男女に関係なく願望はあるし、それを認めることができるのは人間だけだ
人間であろうとすることが人間の美点なんだ
男女や年齢層で分けるのも把握できないものをカテゴリに押し込んでいるだけで、何ら解決にはならない
男女や年齢層に適材適所を当てはめるのは大雑把なお役所仕事だ
女にも子供にも有能な人物は居るし、男盛りだとしても無能な人物も居る
アンタたちの適材適所は、天下り先を探している老人の身の置き場を、正当化しようとすることじゃないか?
本人の気持ちを汲んでから、それが適材適所かを計るべきなんだ
男女に関係なく願望はあるし、それを認めることができるのは人間だけだ
人間であろうとすることが人間の美点なんだ
道徳は、あくまで社会性に対応するための知識の分類にあり、目的に応じた知識を、一般人の知り得ない仮定の情報Xとの組み合わせて知恵として応用される。
応用される知識は、一人ひとりの知恵が発展性という志向性もって命といっしょに循環しているので、知識を得ること自体でヒトを聖人たらしめることはない。仮定の情報Xも人間関係から必要性が生じるためです。
人間は人間である
孔子も釈迦もキリストも一般人も権力犯罪者も、知識や知恵に差があったとしても本質的には些かのちがいもない。
老若男女古今東西南北
みな平等
生きている人間+知識=道徳の必然という答え
どんな乱れた世も これが歴史を成り立たせてきた。
なぜなら、オマエは生きている 考えている
それが道徳律があることを証明している。
哲学のほうが、道徳を純化させた倫理を取り入れているぶん、世界の指導・誘導に適している。
聖人のみが知っている仮定の情報Xなど必要ない。
応用される知識は、一人ひとりの知恵が発展性という志向性もって命といっしょに循環しているので、知識を得ること自体でヒトを聖人たらしめることはない。仮定の情報Xも人間関係から必要性が生じるためです。
人間は人間である
孔子も釈迦もキリストも一般人も権力犯罪者も、知識や知恵に差があったとしても本質的には些かのちがいもない。
老若男女古今東西南北
みな平等
生きている人間+知識=道徳の必然という答え
どんな乱れた世も これが歴史を成り立たせてきた。
なぜなら、オマエは生きている 考えている
それが道徳律があることを証明している。
哲学のほうが、道徳を純化させた倫理を取り入れているぶん、世界の指導・誘導に適している。
聖人のみが知っている仮定の情報Xなど必要ない。
「知識に適正な取捨選択や、身を挺した実践が伴うことが道徳だ」と言っているのに、
そちらで勝手に「道徳は知識情報そのものだ」などと決め付けて、
「知識が人を聖人君子たらしめることはあり得ない」という論及を経由して、
「道徳によって人が聖人君子になれたりはしない」と結論付ける、典型的な三段論法の詭弁論。
そもそも、始めから「道徳」という言葉の定義が彼我において決定的に断裂しているのであり、
1+1=2を前提とした議論をしようとしているところに、1+1=3や4を前提とした自論をあてこすろうとするその
態度姿勢は、人と人との正常な話し合いを妨害して不全化させることを目的とした「言論テロ」にしかなっていない。
強大な軍事力や経済力だけでなく、詭弁を駆使した情報操作力までをも駆使しての強圧が横行するのが
乱世でもあるために、乱世である春秋後期に「政治を任せられれば何をまず行いますか」と弟子の子路に
問われた孔子も、「まずは一つ一つの言葉の定義(名辞)から正していこう」と答えた(子路第十三・三参照)。
武力や財力の乱用以上にも、言葉の定義から勝手に挿げ替えつつの不実な詭弁によって、
あらゆる有意義な論議をも不全化することで、ことの是非善悪までをも煙に巻いてしまうことこそは、
限りのない乱世をもたらす元凶中の元凶ともなるのであり、仮に、誰しもが言葉の定義ぐらいは一致させた中に、
最低限でもの正常で有意義な論議を心がけたなら、自然と是非善悪までもが誰しもに判然とするようになり、
それ故に自ずから、莫大な軍事力や経済力を振りかざしつつの、強権の乱用も立ち消えにならざるを得なくなる。
人間という生き物は、本来そのような用途のためにこそ、言葉という道具を開発して用いるように努めて来ているのだから。
「孝子は闇きに服せず、危うきに登らず。親を辱めんことを懼るればなり」
「孝子は闇の中でことを図ることはせず、そのような危うい派閥に取り入ることもしない。
それによって親をも辱しめるような恥を晒してしまうことを危惧するからだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
そちらで勝手に「道徳は知識情報そのものだ」などと決め付けて、
「知識が人を聖人君子たらしめることはあり得ない」という論及を経由して、
「道徳によって人が聖人君子になれたりはしない」と結論付ける、典型的な三段論法の詭弁論。
そもそも、始めから「道徳」という言葉の定義が彼我において決定的に断裂しているのであり、
1+1=2を前提とした議論をしようとしているところに、1+1=3や4を前提とした自論をあてこすろうとするその
態度姿勢は、人と人との正常な話し合いを妨害して不全化させることを目的とした「言論テロ」にしかなっていない。
強大な軍事力や経済力だけでなく、詭弁を駆使した情報操作力までをも駆使しての強圧が横行するのが
乱世でもあるために、乱世である春秋後期に「政治を任せられれば何をまず行いますか」と弟子の子路に
問われた孔子も、「まずは一つ一つの言葉の定義(名辞)から正していこう」と答えた(子路第十三・三参照)。
武力や財力の乱用以上にも、言葉の定義から勝手に挿げ替えつつの不実な詭弁によって、
あらゆる有意義な論議をも不全化することで、ことの是非善悪までをも煙に巻いてしまうことこそは、
限りのない乱世をもたらす元凶中の元凶ともなるのであり、仮に、誰しもが言葉の定義ぐらいは一致させた中に、
最低限でもの正常で有意義な論議を心がけたなら、自然と是非善悪までもが誰しもに判然とするようになり、
それ故に自ずから、莫大な軍事力や経済力を振りかざしつつの、強権の乱用も立ち消えにならざるを得なくなる。
人間という生き物は、本来そのような用途のためにこそ、言葉という道具を開発して用いるように努めて来ているのだから。
「孝子は闇きに服せず、危うきに登らず。親を辱めんことを懼るればなり」
「孝子は闇の中でことを図ることはせず、そのような危うい派閥に取り入ることもしない。
それによって親をも辱しめるような恥を晒してしまうことを危惧するからだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
女子供が、成人の男以上にも生存本能に長けているのも確かだが、
それも自分や我が子を守るための、独我的な本能止まりであり、
天下万人を生き残らしめる大局的な観点などには全く即していない。
天下万人を活かさしめる上で、当然より多くの女子供の生存や福徳をも企図し、
その中にはもちろん「あなた」という女、あなたという女の子供の生存や福徳までもが
含まれているというのに、「ただ私だけを見て」の論理で、天下の運命を担う士人にまで、
独善的な「婦人の仁」への迎合を要求するというのなら、それこそは国家転覆級の悪女というもの。
家康公の正室だった築山殿なども、そのような性向を宿した悪女だったから、
武田方に加担する謀反を画策したことにもことかけて、我が正妻であるにもかかわらず謀殺せざるを得なかった。
そりゃあ、天下人の妻としての貞順さにも欠けていた、築山殿の側の全くの自業自得であり、
家康公とて、匈奴王の冒頓単于のように好き好んで妻を殺したわけではなかった。
瑣末な産業や商売などに従事する平民階級の男ならともかく、天下の命運を左右する君子階級たる男の
妻子である以上は、下手に夫や父親をけしかけて、邪魔をかけることも徹底して避けねばならない。
でないと、妻子である自分たち自身こそは、国家転覆級の罪をも犯すことにすらなりかねないから。
それも自分や我が子を守るための、独我的な本能止まりであり、
天下万人を生き残らしめる大局的な観点などには全く即していない。
天下万人を活かさしめる上で、当然より多くの女子供の生存や福徳をも企図し、
その中にはもちろん「あなた」という女、あなたという女の子供の生存や福徳までもが
含まれているというのに、「ただ私だけを見て」の論理で、天下の運命を担う士人にまで、
独善的な「婦人の仁」への迎合を要求するというのなら、それこそは国家転覆級の悪女というもの。
家康公の正室だった築山殿なども、そのような性向を宿した悪女だったから、
武田方に加担する謀反を画策したことにもことかけて、我が正妻であるにもかかわらず謀殺せざるを得なかった。
そりゃあ、天下人の妻としての貞順さにも欠けていた、築山殿の側の全くの自業自得であり、
家康公とて、匈奴王の冒頓単于のように好き好んで妻を殺したわけではなかった。
瑣末な産業や商売などに従事する平民階級の男ならともかく、天下の命運を左右する君子階級たる男の
妻子である以上は、下手に夫や父親をけしかけて、邪魔をかけることも徹底して避けねばならない。
でないと、妻子である自分たち自身こそは、国家転覆級の罪をも犯すことにすらなりかねないから。
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