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聖書 Part5
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「聖書」という言葉の原典となっている「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下の記述に基づけば、「聖書」とは
①聖人が書いた書物。
②叙勲などを司る記録官による、正式な記録作業によって編纂された書類。
③賢愚の分け隔てなく全ての評価対象者をおしなべて取り上げた書物。
④賢愚をおしなべて取り上げつつも、その格の上下に合わせた公正な評価が行き届いている書物。
⑤年功や等級の高低を重視し、分をわきまえない僭越などを十全に排している書物。
といった条件を満たしている書物のことであり、そのような書物の中でも、最も代表的かつ古典的であるのが四書五経。
①の条件は孔子の書いた「易経」繋辞伝や「春秋経」、曾子の書いた「大学」や子思子の書いた「中庸」などが満たしている。
②の条件は太古の正式な政治記録である「書経」が(ただしあまりにも太古過ぎるため、多少の修繕がなされている)、
③と④の条件は「詩経」の大雅小雅両篇や「春秋経」が、⑤の条件は身分秩序を重んじる「易経」「論語」「礼記」などが
満たしている。まさに四書五経こそは、「聖書」という言葉の厳密な条件を満たしきるために著されたような書物であり、
これほどにも聖書の名に値する書物は、他に存在しないと言えるほど。ここはその真正聖書たる四書五経などについて語るスレ。
(画像は「論語」の主人公孔子、「孟子」の主人公孟子、「大学」の著者曾子、「中庸」の著者子思子の四名。四書の各筆頭)

①聖人が書いた書物。
②叙勲などを司る記録官による、正式な記録作業によって編纂された書類。
③賢愚の分け隔てなく全ての評価対象者をおしなべて取り上げた書物。
④賢愚をおしなべて取り上げつつも、その格の上下に合わせた公正な評価が行き届いている書物。
⑤年功や等級の高低を重視し、分をわきまえない僭越などを十全に排している書物。
といった条件を満たしている書物のことであり、そのような書物の中でも、最も代表的かつ古典的であるのが四書五経。
①の条件は孔子の書いた「易経」繋辞伝や「春秋経」、曾子の書いた「大学」や子思子の書いた「中庸」などが満たしている。
②の条件は太古の正式な政治記録である「書経」が(ただしあまりにも太古過ぎるため、多少の修繕がなされている)、
③と④の条件は「詩経」の大雅小雅両篇や「春秋経」が、⑤の条件は身分秩序を重んじる「易経」「論語」「礼記」などが
満たしている。まさに四書五経こそは、「聖書」という言葉の厳密な条件を満たしきるために著されたような書物であり、
これほどにも聖書の名に値する書物は、他に存在しないと言えるほど。ここはその真正聖書たる四書五経などについて語るスレ。
(画像は「論語」の主人公孔子、「孟子」の主人公孟子、「大学」の著者曾子、「中庸」の著者子思子の四名。四書の各筆頭)

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なんで日に二回も引用するんだろうな。
そんなに焦り合う間柄でもなかろうに。
「哲夫は城を成し、哲婦は城を傾く」
「大夫にして透哲するものは持つべき城を成すが、
匹婦にして透哲するものはむしろ持つべき城すらも傾ける」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・讒仰より)
そんなに焦り合う間柄でもなかろうに。
「哲夫は城を成し、哲婦は城を傾く」
「大夫にして透哲するものは持つべき城を成すが、
匹婦にして透哲するものはむしろ持つべき城すらも傾ける」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・讒仰より)
削除(by投稿者)
人口分布と昇給を考えたらそれくらい普通だろ
今の日本人の価値観からすれば、当然のことだろうな。
封建制や世襲制を取っ払って、士農工商の位階に基づく正しい職業倫理のわきまえも、
老耄の手前で未然に次世代へと家督を譲り、自らは悠々自適の隠居生活を送る無為自然のわきまえも
疎かになりながら、旧来の序列志向だけは完全に払拭しきれないままに、稼げば稼ぐほど偉いような、
商人階級の内側だけでの序列が横行しているような今の日本社会においては、
年功序列が所得格差に直結するのも当たり前のことのように思われるのだろう。
巨万の富を持つことがかえって賤しまれていた本物の封建主義社会とは、
もはや位階が転覆してしまっているにも関わらず。
封建制や世襲制を取っ払って、士農工商の位階に基づく正しい職業倫理のわきまえも、
老耄の手前で未然に次世代へと家督を譲り、自らは悠々自適の隠居生活を送る無為自然のわきまえも
疎かになりながら、旧来の序列志向だけは完全に払拭しきれないままに、稼げば稼ぐほど偉いような、
商人階級の内側だけでの序列が横行しているような今の日本社会においては、
年功序列が所得格差に直結するのも当たり前のことのように思われるのだろう。
巨万の富を持つことがかえって賤しまれていた本物の封建主義社会とは、
もはや位階が転覆してしまっているにも関わらず。
キリスト教徒が人類史上未曾有の重権力犯罪に手を染めながら、
心の平穏を保っていられることにも、ちゃんと人知の範囲内における種や仕掛けがある。
恒常的に知能指数が低数値であり続けるのが知的障害者であるのに対し、恒常的に知能指数が高数値であり続けるのが
知的健常者かつ精神健常者。このような健常者をここでは「常人」と呼ぶことにするが、常人であってなおかつ知能指数が
120〜130程度以上であり続けられる「常人かつ秀才」が賢人と呼ばれ、知能指数が恒常的に150を上回るような
「常人かつ天才」が聖人と呼ばれる。しかし、このようなな人間はそうそうにはいるものではなく、巷で「天才」とか「秀才」とか
呼ばれているような人間の大部分は「精神障害者かつ天才」や「精神障害者かつ秀才」であるのみで、これらは聖賢には当たらない。
アインシュタインとか夏目漱石とかは天才や秀才であっても少なからず精神障害者でもあったのであり、弘法大師や林羅山のような
天才や秀才であってなおかつ聖人や賢人でもあったような人間とは全く別個の存在となっている。
それでは、「精神障害者」とは何かと言えば、瞬間的には凡才や秀才、さらには天才並みの知能指数をもはじき出せるものの、
それとは逆に、恒常的には常人並みの知能指数(IQ100前後)すら保てず、知的障害に当たるIQ70以下の低能となる場合がままある、
知能指数が時系列の発展に即して極端に不安定である者が「精神障害者」であるのであり、キリスト教徒はこの中でも最も重度な、
IQが最低だと20〜30程度にまで低下することのある「重度精神障害者」であり、知能テストでIQ100以上をはじき出すような
凡才や秀才や天才並みの瞬間的知能の持ち主であっても、信仰によって人工的に知能を重度知的障害レベルにまで落ち込ませてもいる。
そのため罪の意識に苛まれるような状況になれば、罪の何たるかを理解できない精神障害者に陥れるようになる。
心の平穏を保っていられることにも、ちゃんと人知の範囲内における種や仕掛けがある。
恒常的に知能指数が低数値であり続けるのが知的障害者であるのに対し、恒常的に知能指数が高数値であり続けるのが
知的健常者かつ精神健常者。このような健常者をここでは「常人」と呼ぶことにするが、常人であってなおかつ知能指数が
120〜130程度以上であり続けられる「常人かつ秀才」が賢人と呼ばれ、知能指数が恒常的に150を上回るような
「常人かつ天才」が聖人と呼ばれる。しかし、このようなな人間はそうそうにはいるものではなく、巷で「天才」とか「秀才」とか
呼ばれているような人間の大部分は「精神障害者かつ天才」や「精神障害者かつ秀才」であるのみで、これらは聖賢には当たらない。
アインシュタインとか夏目漱石とかは天才や秀才であっても少なからず精神障害者でもあったのであり、弘法大師や林羅山のような
天才や秀才であってなおかつ聖人や賢人でもあったような人間とは全く別個の存在となっている。
それでは、「精神障害者」とは何かと言えば、瞬間的には凡才や秀才、さらには天才並みの知能指数をもはじき出せるものの、
それとは逆に、恒常的には常人並みの知能指数(IQ100前後)すら保てず、知的障害に当たるIQ70以下の低能となる場合がままある、
知能指数が時系列の発展に即して極端に不安定である者が「精神障害者」であるのであり、キリスト教徒はこの中でも最も重度な、
IQが最低だと20〜30程度にまで低下することのある「重度精神障害者」であり、知能テストでIQ100以上をはじき出すような
凡才や秀才や天才並みの瞬間的知能の持ち主であっても、信仰によって人工的に知能を重度知的障害レベルにまで落ち込ませてもいる。
そのため罪の意識に苛まれるような状況になれば、罪の何たるかを理解できない精神障害者に陥れるようになる。

こんな連中を、檻の中や閉鎖病棟の中で厳重に保護管理しているのならまだしも、市井に野放し状態にしている世の中は、
それこそトラやライオンやクマなどの危険動物を野放し状態にしているよりも危険なもの。せめてでも一定区域に隔離して
人間さまに深刻な迷惑をかけないような措置を講ずるようにするのが、人としての常識的な選択であるといえる。
「悪む所死よりも甚だしき者あり。故に患いも辟けざる所あり。(ここまで既出の引用)
人の惡む所をして死よりも甚だしきこと莫らしめば、則ち凡そ以て生を得べき者は、何をか為さざらんや。(中略)
是れに由よらば則ち以て患いを辟くべきも、為さざることあり。是の故に(中略)惡む所死よりも甚だしき者あり。
獨り賢者のみ是の心有るにあらざるなり。人皆な之れ有り。賢者は能く喪うこと勿きのみ」
「人には不義のように、死よりも憎み嫌うことの甚だしいものがあり、そのために思い煩いを避けぬこともある。
人が憎み嫌うもののうちで死よりも甚だしいものがないとすれば、自分が生きるためだけにどんな悪事でもやってのけるだろう。
(カルト信仰による自己洗脳などの)ある種の手段によって思い煩いを避けることができるということもある、しかし、
あえてそのような手段に手を出さないこともある。だからこそ死以上にも憎み嫌うものがあるのだといえる。
なにも賢人ばかりにこのような心が備わっているのではない。万人にこのような道義心が備わっているが、
賢人ばかりがこの道義心を恒常的に保つことができ、大部分の人間は恒常的に保つことができないだけだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句上・一〇より)
今だって、“ある種”の思想が活かされている時代であるには違いない。
時系列の発展に伴う知能の変動を極端に不安定化し、チンパン以下にまで人間の判断力を低下させる
カルト教義が実地面で活かされていることにより、罪を罪とも思わぬ卑劣な悪人が量産されている時代。
それにより、常日ごろから一定の徳性を保ち続ける「庸徳」や「普賢」を旨とする正統な思想宗教が
活かされることが無くなってしまっている。知能不安定症の精神障害を排することこそは正統な思想宗教の
本分であるのだから、知能の不安定化を画策するようなカルト教義が横行してしまっている以上は、
そのぶんだけ、正統な思想宗教が現実社会において活かされることが不可能となってしまう。
「キリスト教は廃絶されてしかるべきだ」という部分だけを聞けば、随分と後退的な物言いに聞こえるだろうが、
それによって儒学や正統仏教のような、正統な思想宗教の活用を復興させることのほうが主であり、
そのための末節における手段として、聖書信仰の廃絶もまたある。勧善という目的のための、懲悪という手段。
どうしても懲悪という手段を先走りさせがちになってしまうが、あくまで勧善のほうが目的であると知らねばならない。
「(湯王の賢臣伊尹曰く)天の此の民を生ずるや、先知をして後知を覺さしめ、先覺をして後覺を覺さしむるなり。
予れは天民の先覺者なり。予れ將に斯の道を以て斯の民を覺らしむるなり。予れ之れを覺さしむるに非ずんば、而ち誰ぞや」
「天は先に道理を知った者によって後から知る者を覚らしめ、先に覚った者をして後から覚る者を覚らしめる。
私も民の内では先覚者のうちに入るが、一つこの道理によって民たちをも覚醒させてみよう。私がやらなければ、誰がやるものか。
(『覚る』とは『ただ起きている』ということではなく、『道理なり真理なりをわきまえている』ということを意味する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)
時系列の発展に伴う知能の変動を極端に不安定化し、チンパン以下にまで人間の判断力を低下させる
カルト教義が実地面で活かされていることにより、罪を罪とも思わぬ卑劣な悪人が量産されている時代。
それにより、常日ごろから一定の徳性を保ち続ける「庸徳」や「普賢」を旨とする正統な思想宗教が
活かされることが無くなってしまっている。知能不安定症の精神障害を排することこそは正統な思想宗教の
本分であるのだから、知能の不安定化を画策するようなカルト教義が横行してしまっている以上は、
そのぶんだけ、正統な思想宗教が現実社会において活かされることが不可能となってしまう。
「キリスト教は廃絶されてしかるべきだ」という部分だけを聞けば、随分と後退的な物言いに聞こえるだろうが、
それによって儒学や正統仏教のような、正統な思想宗教の活用を復興させることのほうが主であり、
そのための末節における手段として、聖書信仰の廃絶もまたある。勧善という目的のための、懲悪という手段。
どうしても懲悪という手段を先走りさせがちになってしまうが、あくまで勧善のほうが目的であると知らねばならない。
「(湯王の賢臣伊尹曰く)天の此の民を生ずるや、先知をして後知を覺さしめ、先覺をして後覺を覺さしむるなり。
予れは天民の先覺者なり。予れ將に斯の道を以て斯の民を覺らしむるなり。予れ之れを覺さしむるに非ずんば、而ち誰ぞや」
「天は先に道理を知った者によって後から知る者を覚らしめ、先に覚った者をして後から覚る者を覚らしめる。
私も民の内では先覚者のうちに入るが、一つこの道理によって民たちをも覚醒させてみよう。私がやらなければ、誰がやるものか。
(『覚る』とは『ただ起きている』ということではなく、『道理なり真理なりをわきまえている』ということを意味する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)
>>277の図では、煩雑になり過ぎるのであえて示さなかったが、「重度精神障害かつ凡才や秀才や天才」である場合の他にも、
「中度精神障害かつ凡才や秀才や天才」である場合もあれば、「軽度精神障害かつ凡才や秀才や天才」である場合もある。
完全なキリスト教徒やユダヤ教徒でもない限りは、必ずしも「重度精神障害である」とまで断定することはできないが、
聖書信仰者であることを自認しない今の大部分の日本人の中にも、間接的に聖書信仰の毒気に当てられたことで
中度や軽度の精神障害に罹患している人間は数多い。ルネサンスや啓蒙主義以降に生み出された、
表向きは非宗教的であることを取り繕っている聖書圏の文化文明に毒されて、未だ聖書を読んだこともなく、
聖書信者を自認するまでもいかない限りにおいて、聖書信仰に特有の精神障害を少なからず帯びてしまっている。
それらはもちろん「聖書信仰そのもの」ではないから、チンパン以下の知能退行を伴う重度精神障害に本当に罹患してしまう、
聖書中毒そのものほどの精神障害を帯びることは確かに少ない。しかし、特にプロテスタントやユダヤの連中が創作したような、
表向きは無宗教を決め込んでいる西洋文化のいずれもが、結局のところは聖書信仰に全てを還元する犯罪寓意の塊となっており、
自分自身でも気づかないうちから、知らず知らずのままで精神障害の進行を招くようになっている。
所詮は聖書から姓名を引用している連中が作り上げてきている文化文明、どうあがいたって聖書信仰の悪影響を
払拭しきれるはずはないのであり、自分たちから意識的に聖書信仰を破棄して、姓名も改易して無害な名詞に入れ替える
「易姓革命(元来はこういう意味で用いられる言葉ではない)」を率先して行うところからでないと、始めに毛筋ほどの過ちでも犯していれば、
のちのちに千里の過ちともなってしまう(礼記)、エントロピー増大則にも即した過ちの積み重ねの根絶はおろか、軽減すらも覚束ない。
「中度精神障害かつ凡才や秀才や天才」である場合もあれば、「軽度精神障害かつ凡才や秀才や天才」である場合もある。
完全なキリスト教徒やユダヤ教徒でもない限りは、必ずしも「重度精神障害である」とまで断定することはできないが、
聖書信仰者であることを自認しない今の大部分の日本人の中にも、間接的に聖書信仰の毒気に当てられたことで
中度や軽度の精神障害に罹患している人間は数多い。ルネサンスや啓蒙主義以降に生み出された、
表向きは非宗教的であることを取り繕っている聖書圏の文化文明に毒されて、未だ聖書を読んだこともなく、
聖書信者を自認するまでもいかない限りにおいて、聖書信仰に特有の精神障害を少なからず帯びてしまっている。
それらはもちろん「聖書信仰そのもの」ではないから、チンパン以下の知能退行を伴う重度精神障害に本当に罹患してしまう、
聖書中毒そのものほどの精神障害を帯びることは確かに少ない。しかし、特にプロテスタントやユダヤの連中が創作したような、
表向きは無宗教を決め込んでいる西洋文化のいずれもが、結局のところは聖書信仰に全てを還元する犯罪寓意の塊となっており、
自分自身でも気づかないうちから、知らず知らずのままで精神障害の進行を招くようになっている。
所詮は聖書から姓名を引用している連中が作り上げてきている文化文明、どうあがいたって聖書信仰の悪影響を
払拭しきれるはずはないのであり、自分たちから意識的に聖書信仰を破棄して、姓名も改易して無害な名詞に入れ替える
「易姓革命(元来はこういう意味で用いられる言葉ではない)」を率先して行うところからでないと、始めに毛筋ほどの過ちでも犯していれば、
のちのちに千里の過ちともなってしまう(礼記)、エントロピー増大則にも即した過ちの積み重ねの根絶はおろか、軽減すらも覚束ない。
口で言えたからって、そうそうにできるもんじゃない。
のみならず、そうそうにはできないからこそ、口に出したりもするわけだ。
儒学のうちでも、異端の学を排し、孔孟のような正統の学のみを重んじている朱子学では
主知主義的な傾向が強く、思慮をよく尽くした上で堅実な行動に臨むことを推奨するが、
禅宗などの異教との親和性の高い陽明学などでは、極端な知行合一が謳われる。
このような、知行のあり方に対する意見分裂の傾向は中国だけでなくインドにもあり、
ヴェーダーンタ学派などの主知主義的な教派と、ヨーガ学派のような実践主義的な教派に分かれている。
ただ、中国にしろインドにしろ、主知主義的な朱子学派やヴェーダーンタ学派のほうが歴史的に主流となり、
実践主義的な陽明学派やヨーガ学派のほうが傍流の扱いを受けてきてもいる。
言に訥にして、行いに敏ならんことを欲する。そしてそれを本当に実践できればそれに越したことはない。
しかし、陽明学に心酔した大塩平八郎が無謀な反乱を企てて失敗するなど、知行合一の至らなさも
歴史的に証明されてきており、十分な思慮の次に行いが付いてくることが事実上、王道ともなっている。
知行合一のほうが確かに純粋であり、見た目にも敏捷で快いわけだが、結局それは「ウブ」の域を出ない。
浮世の清濁を併せ呑む中には、思慮の行動に対する優先、文の武に対する心なしかの先行もまたあるのであり、
よく考えもせずに行いばかりが先行する、多動性障害状態が最悪の所業であるのはもちろんのこと、
思い立ったらすぐに行う知行合一でもまだ不足。せめてでも二度ぐらいは思い返すのが適当で、
三度や四度ともなれば今度は考えすぎであると、孔子も公冶長第五・二〇で言っている通り。
のみならず、そうそうにはできないからこそ、口に出したりもするわけだ。
儒学のうちでも、異端の学を排し、孔孟のような正統の学のみを重んじている朱子学では
主知主義的な傾向が強く、思慮をよく尽くした上で堅実な行動に臨むことを推奨するが、
禅宗などの異教との親和性の高い陽明学などでは、極端な知行合一が謳われる。
このような、知行のあり方に対する意見分裂の傾向は中国だけでなくインドにもあり、
ヴェーダーンタ学派などの主知主義的な教派と、ヨーガ学派のような実践主義的な教派に分かれている。
ただ、中国にしろインドにしろ、主知主義的な朱子学派やヴェーダーンタ学派のほうが歴史的に主流となり、
実践主義的な陽明学派やヨーガ学派のほうが傍流の扱いを受けてきてもいる。
言に訥にして、行いに敏ならんことを欲する。そしてそれを本当に実践できればそれに越したことはない。
しかし、陽明学に心酔した大塩平八郎が無謀な反乱を企てて失敗するなど、知行合一の至らなさも
歴史的に証明されてきており、十分な思慮の次に行いが付いてくることが事実上、王道ともなっている。
知行合一のほうが確かに純粋であり、見た目にも敏捷で快いわけだが、結局それは「ウブ」の域を出ない。
浮世の清濁を併せ呑む中には、思慮の行動に対する優先、文の武に対する心なしかの先行もまたあるのであり、
よく考えもせずに行いばかりが先行する、多動性障害状態が最悪の所業であるのはもちろんのこと、
思い立ったらすぐに行う知行合一でもまだ不足。せめてでも二度ぐらいは思い返すのが適当で、
三度や四度ともなれば今度は考えすぎであると、孔子も公冶長第五・二〇で言っている通り。
今はもう、三度や四度どころか、百度も千度も考え抜いた所。明らかに考えすぎなのは確かで、
もはや行動に移されてもいい所だ。考えがないのでも、考えた直後なのでもなく、考え抜いた後だからこそ
もう行動してもいい。未だ考えもなければ考えた直後でもない奴らの多動性障害は、却って中止されるべきだが。
「言えば必ず信、行なえば必ず果、硜硜然たる小人かな」
「言ったことは必ず守ろうとし、行なう時には必ず目的を果たそうとする。小石のように凝り固まった小人だ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——子路第十三・二〇より)
もはや行動に移されてもいい所だ。考えがないのでも、考えた直後なのでもなく、考え抜いた後だからこそ
もう行動してもいい。未だ考えもなければ考えた直後でもない奴らの多動性障害は、却って中止されるべきだが。
「言えば必ず信、行なえば必ず果、硜硜然たる小人かな」
「言ったことは必ず守ろうとし、行なう時には必ず目的を果たそうとする。小石のように凝り固まった小人だ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——子路第十三・二〇より)
孟子の発言など、孟子自身が活動した戦国時代はもちろんのこと、朱子学勃興まで本気で受け止められることもなく、
朱子が四書(論語、大学、中庸、孟子)の一書としてその権威を押し立てて後も、未だ十分な実践が叶えられず、
四書を正式な科挙試験科目とした明代にも、全くその内容の実践が追いつかなくて官僚腐敗を招き、
江戸時代の日本において、やっとその精神主義的な部分が抽出して実践に努められるようになったのみ。
孔子やその弟子たちの簡単な発言の詰め合わせとなっている「論語」などと比べて、「孟子」の内容はかなり体系的である上、
「大学」や「中庸」などよりも遥かにその分量も多く、その内容を実践することは愚か、全文を把握しておくことすら難しい。
そのため読み覚えておくまでで精一杯という人間がほとんどとなり、体系的な実践にまで達した人間は皆無に等しい。
これからその、儒者四聖(孔子、孟子、曾子、子思子)のうちでも最も実践が困難な孟子の学の実践が試みられていくようになれば、
今までの儒学享受以上にも発展した儒学の実践が努められていくようになるだろう。ただ儒学を復興するだけでなく、
未だ十分な実践が追いたことのない孟子の学などの新規の興隆も念頭に置いていけば、ただの復古主義よりも面白みが増すだろう。
朱子が四書(論語、大学、中庸、孟子)の一書としてその権威を押し立てて後も、未だ十分な実践が叶えられず、
四書を正式な科挙試験科目とした明代にも、全くその内容の実践が追いつかなくて官僚腐敗を招き、
江戸時代の日本において、やっとその精神主義的な部分が抽出して実践に努められるようになったのみ。
孔子やその弟子たちの簡単な発言の詰め合わせとなっている「論語」などと比べて、「孟子」の内容はかなり体系的である上、
「大学」や「中庸」などよりも遥かにその分量も多く、その内容を実践することは愚か、全文を把握しておくことすら難しい。
そのため読み覚えておくまでで精一杯という人間がほとんどとなり、体系的な実践にまで達した人間は皆無に等しい。
これからその、儒者四聖(孔子、孟子、曾子、子思子)のうちでも最も実践が困難な孟子の学の実践が試みられていくようになれば、
今までの儒学享受以上にも発展した儒学の実践が努められていくようになるだろう。ただ儒学を復興するだけでなく、
未だ十分な実践が追いたことのない孟子の学などの新規の興隆も念頭に置いていけば、ただの復古主義よりも面白みが増すだろう。
「公行子、子の喪あり。右師往きて弔す。門に入るや、進みて右師と言る者有り、
右師の位に就きて右師と言る者有り。孟子右師と言らず。右師酇ばずして曰く、
諸君子皆な驩と言るに、孟子獨り驩と言らざるは、是れ驩をあなどるなり。
孟子之れを聞きて曰く、禮に、朝廷では位を歴て相與に言らず、階を踰えて相揖せず。
我れ禮を行なわんと欲せるに、子敖は我れを以てあなどると為す、亦た異ならずや」
「斉の大夫である公行子が息子を亡くした。そこで右師(官命の一。右大臣のように右の座に就くことから)である
王驩が弔問にやってきた。右師は重役であるために、これに媚びへつらおうとして、わざわざ駆け寄って話す者もいれば、
下位の座に就きながら上席に上って話そうとする者もいた。しかし、孟子はその時そこにいながらも、右師とは話そうとしなかった。
右師はこれを不快に思い、『諸君がみなわしに言い寄ってくるのに、孟先生独りだけはわしに言い寄って来ないのは、
わしを侮っているのではあるまいか』 孟子はこれを聞いて言った。『礼法では、朝廷では位階を越えてまで共に語り合っては
ならないとされる。今ここには朝廷に匹敵するほども多くの重臣が列席しておられるので、朝廷での礼にならって
上席である右師と語り合うことを避けたのに、私が子敖(王驩のあざな)を侮ったなどとは、随分とおかしな話ではないか』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・二八)
右師の位に就きて右師と言る者有り。孟子右師と言らず。右師酇ばずして曰く、
諸君子皆な驩と言るに、孟子獨り驩と言らざるは、是れ驩をあなどるなり。
孟子之れを聞きて曰く、禮に、朝廷では位を歴て相與に言らず、階を踰えて相揖せず。
我れ禮を行なわんと欲せるに、子敖は我れを以てあなどると為す、亦た異ならずや」
「斉の大夫である公行子が息子を亡くした。そこで右師(官命の一。右大臣のように右の座に就くことから)である
王驩が弔問にやってきた。右師は重役であるために、これに媚びへつらおうとして、わざわざ駆け寄って話す者もいれば、
下位の座に就きながら上席に上って話そうとする者もいた。しかし、孟子はその時そこにいながらも、右師とは話そうとしなかった。
右師はこれを不快に思い、『諸君がみなわしに言い寄ってくるのに、孟先生独りだけはわしに言い寄って来ないのは、
わしを侮っているのではあるまいか』 孟子はこれを聞いて言った。『礼法では、朝廷では位階を越えてまで共に語り合っては
ならないとされる。今ここには朝廷に匹敵するほども多くの重臣が列席しておられるので、朝廷での礼にならって
上席である右師と語り合うことを避けたのに、私が子敖(王驩のあざな)を侮ったなどとは、随分とおかしな話ではないか』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・二八)
愛憎を全否定する自力仏教とは違って、儒家は愛憎を否定はせず、
「君子道を学べば則ち人を愛す(陽貨第十七・三)」でもあるし、「君子もまたにくむことあり(陽貨第十七・二一)」でもある。
ただ、その上で「愛してしかもその悪を知り、憎んでしかもその善を知る(礼記・曲礼上第一)」でもあるために、
愛憎に全てを還元して、人間の言動の最高規範にしたりはしない。「仁は人を愛すること(顔淵第十二・二二)」でもあるわけだが、
「仁を好みて学を好まざれば、その弊や愚(陽貨第十七・七)」でもあるわけで、五常において最高の徳とされる
仁愛ですらもが、ただそればかりに専らであればいいものとはされない。愛を専らであることの言い訳にしてはならず、
分別を行き届かせるための原動力として善用するぐらいでなければならない。
「之れを愛して能く労ること勿らんや。忠にして能く誨うること勿らんや」
「ただ愛するばかりで労わりに欠けるのはいかがなものか。忠義があっても諌め諭すことがなくてよいものか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・七より)
「君子道を学べば則ち人を愛す(陽貨第十七・三)」でもあるし、「君子もまたにくむことあり(陽貨第十七・二一)」でもある。
ただ、その上で「愛してしかもその悪を知り、憎んでしかもその善を知る(礼記・曲礼上第一)」でもあるために、
愛憎に全てを還元して、人間の言動の最高規範にしたりはしない。「仁は人を愛すること(顔淵第十二・二二)」でもあるわけだが、
「仁を好みて学を好まざれば、その弊や愚(陽貨第十七・七)」でもあるわけで、五常において最高の徳とされる
仁愛ですらもが、ただそればかりに専らであればいいものとはされない。愛を専らであることの言い訳にしてはならず、
分別を行き届かせるための原動力として善用するぐらいでなければならない。
「之れを愛して能く労ること勿らんや。忠にして能く誨うること勿らんや」
「ただ愛するばかりで労わりに欠けるのはいかがなものか。忠義があっても諌め諭すことがなくてよいものか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・七より)
重度精神障害者たちに敵対するというのではないし、虐待を加えようというのでもない。
ただ、「易経」の蒙卦にあるように、蒙昧な輩にはある程度手厳しい教導が必要でもあるわけだから、
ここでの権力道徳聖書こと四書五経からの引用は続けていく。自分たちに未だ病識がないのであるにしても、
聖書信仰を服用し続ける以上は精神障害の深刻化も免れ得ないので、井戸穴に落ちそうになっている赤ん坊を
救おうとするような「惻隠の情」に基づいて、最低限聖書信仰をやめさせようという試みは続けておく。
あと、四書五経を自分自身が勉強することが、より多くの精神障害者を治療していく「修己治人」のための
研鑽にもなるので、やらないでいるよりはやっていたほうがいいこととして、四書五経の勉強も続けていく。
やるよりやらないでいたほうがいいことばかりで溢れ返っている今の世の中で、確実にやらないよりは
やっていたほうがいいと断定できる数少ない活動の一つなので、できる限りはやっておくように勤める。
「孟武伯孝を問う。子曰く、父母には唯だ其の疾を之れ憂えよ」
「孟武伯が孝行について問うた。先生は言われた。『ただただ父母の病を憂えることだ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・為政第二・六より)
ただ、「易経」の蒙卦にあるように、蒙昧な輩にはある程度手厳しい教導が必要でもあるわけだから、
ここでの権力道徳聖書こと四書五経からの引用は続けていく。自分たちに未だ病識がないのであるにしても、
聖書信仰を服用し続ける以上は精神障害の深刻化も免れ得ないので、井戸穴に落ちそうになっている赤ん坊を
救おうとするような「惻隠の情」に基づいて、最低限聖書信仰をやめさせようという試みは続けておく。
あと、四書五経を自分自身が勉強することが、より多くの精神障害者を治療していく「修己治人」のための
研鑽にもなるので、やらないでいるよりはやっていたほうがいいこととして、四書五経の勉強も続けていく。
やるよりやらないでいたほうがいいことばかりで溢れ返っている今の世の中で、確実にやらないよりは
やっていたほうがいいと断定できる数少ない活動の一つなので、できる限りはやっておくように勤める。
「孟武伯孝を問う。子曰く、父母には唯だ其の疾を之れ憂えよ」
「孟武伯が孝行について問うた。先生は言われた。『ただただ父母の病を憂えることだ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・為政第二・六より)
聖書信仰の正体、それは、「人工的な重度精神障害への罹患」だった。
邪教にも、程がある。
本当に重度精神障害者ともなってしまっている、聖書信者たち自身を目の敵にしてはいけないし、
聖書教を創作した連中ですら、やはり重度精神障害者でもあっただろうから、
創作者たちに全ての責任を還元して、怨恨の対象にしたりするのもおかしい。
聖書教の興隆や存続という、劣悪現象それ自体を許してはならず、
やはり抑制や根絶の対象ともしなければならないが、聖書信仰に陥ってしまっている
人間たち自身は本物の重度精神障害者ともなっているのだから、邪険に扱っていい存在でもない。
決して一人前の人間として扱ってはならないからこそ、
一人前の人間に対するような罪責の追求姿勢であってもならない。
狂犬や狂牛なら殺処分の対象にしてもいいが、狂人は狂人であったって一応は人だから、
ちゃんと発狂状態を治療してあげて、それから人としての責任を問うていくことが筋だ。
邪教にも、程がある。
本当に重度精神障害者ともなってしまっている、聖書信者たち自身を目の敵にしてはいけないし、
聖書教を創作した連中ですら、やはり重度精神障害者でもあっただろうから、
創作者たちに全ての責任を還元して、怨恨の対象にしたりするのもおかしい。
聖書教の興隆や存続という、劣悪現象それ自体を許してはならず、
やはり抑制や根絶の対象ともしなければならないが、聖書信仰に陥ってしまっている
人間たち自身は本物の重度精神障害者ともなっているのだから、邪険に扱っていい存在でもない。
決して一人前の人間として扱ってはならないからこそ、
一人前の人間に対するような罪責の追求姿勢であってもならない。
狂犬や狂牛なら殺処分の対象にしてもいいが、狂人は狂人であったって一応は人だから、
ちゃんと発狂状態を治療してあげて、それから人としての責任を問うていくことが筋だ。
近ごろ日曜日が忙しいのか。
キリスト教徒なのに、日曜日にも重度知能退行ができなくて残念だな。
働くと働かざるとに関わらず、常時常人並みの知能を保ち続けることが
人としての最低限の勤めであることからわきまえ直さなければな。
「父母の年は知らざる可からず。一には則ち以て喜び、一には則ち以て懼る」
「父母の年齢は必ず覚えておきなさい。時には長寿であることを喜べ、時には老い先短いことを恐れられるから。
(喜びも憂いも恐れも、全て具備していられてこその常人である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・二一より)
キリスト教徒なのに、日曜日にも重度知能退行ができなくて残念だな。
働くと働かざるとに関わらず、常時常人並みの知能を保ち続けることが
人としての最低限の勤めであることからわきまえ直さなければな。
「父母の年は知らざる可からず。一には則ち以て喜び、一には則ち以て懼る」
「父母の年齢は必ず覚えておきなさい。時には長寿であることを喜べ、時には老い先短いことを恐れられるから。
(喜びも憂いも恐れも、全て具備していられてこその常人である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・二一より)
「従うを以て正しとなすは妾婦の道なり(孟子・滕文公章句下・二)」というのはすでに既出の引用だが、まさにその通りだ。
君臣の義が重んじられる中国でも、太公望や張良や諸葛亮といった名臣が、武王や劉邦や劉備のような名君に幅を利かすこともあった。
主人と奴隷ほどにも主従関係が絶対化されることがすでに醜悪なことであり、見るかにカッコ悪い。
社会秩序の堅持のために主従関係を嗜むことがあても、それぞれの自主性が尊重されている姿のほうがやはりカッコいい。
上記の孟子の発言もカッコいい一方で、犯罪聖書の絶対服従ばかりを促す女々しい記述のほうはカッコ悪い。
カッコ悪いから、そんなものに従うことがすでに幸福ではない不幸であり、正義ではない悪だ。
物事の根本から正義であり、故に幸せともなる、格好の良さから四書五経は備えている一方で、
見るかに格好が悪いために、不幸な罪悪の塊ともなることが、犯罪聖書にとっての自明な存在性だ。
「夫れ人幼にして之れを學び、壯にして之れを行なわんと欲す。王曰く、姑く女の學べる所を舎てて我れに從へと曰わば、則ち何如。
今此こに璞玉有るに於いて、萬鎰と雖も、必ず玉人をして之を彫琢せしめん。國家を治めるに至るに於いては、則ち曰く、
姑く女の學べる所を舎てて我に從えと曰わば、則ち何を以てか玉人に玉を彫琢することを教うるに異ならんや」
「仮にここに幼少から道を学んできた者がいて、壮年になって学んできたことを実行しようという段でいるのに対し、
王様のほうが『まあおまえの学んできたことはしばらく捨て置いて、わしの言うことに従え』と言えば、どうだろう。
仮にここにまだ磨かれていない宝玉があったとする。値万金の名宝であるにしても、やはり専門の職人にこそこれを磨かせる。
それなのに、国家を治めたりすることにかけては、急に王様ばかりが、多くを学んできた君子などに対しても『学んできたことは
すべて捨て置いて俺の言うとおりにしろ』というのでは、素人が玉磨きの職人に玉磨きを教えるも同然ではないか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁惠王章句下・九より)
君臣の義が重んじられる中国でも、太公望や張良や諸葛亮といった名臣が、武王や劉邦や劉備のような名君に幅を利かすこともあった。
主人と奴隷ほどにも主従関係が絶対化されることがすでに醜悪なことであり、見るかにカッコ悪い。
社会秩序の堅持のために主従関係を嗜むことがあても、それぞれの自主性が尊重されている姿のほうがやはりカッコいい。
上記の孟子の発言もカッコいい一方で、犯罪聖書の絶対服従ばかりを促す女々しい記述のほうはカッコ悪い。
カッコ悪いから、そんなものに従うことがすでに幸福ではない不幸であり、正義ではない悪だ。
物事の根本から正義であり、故に幸せともなる、格好の良さから四書五経は備えている一方で、
見るかに格好が悪いために、不幸な罪悪の塊ともなることが、犯罪聖書にとっての自明な存在性だ。
「夫れ人幼にして之れを學び、壯にして之れを行なわんと欲す。王曰く、姑く女の學べる所を舎てて我れに從へと曰わば、則ち何如。
今此こに璞玉有るに於いて、萬鎰と雖も、必ず玉人をして之を彫琢せしめん。國家を治めるに至るに於いては、則ち曰く、
姑く女の學べる所を舎てて我に從えと曰わば、則ち何を以てか玉人に玉を彫琢することを教うるに異ならんや」
「仮にここに幼少から道を学んできた者がいて、壮年になって学んできたことを実行しようという段でいるのに対し、
王様のほうが『まあおまえの学んできたことはしばらく捨て置いて、わしの言うことに従え』と言えば、どうだろう。
仮にここにまだ磨かれていない宝玉があったとする。値万金の名宝であるにしても、やはり専門の職人にこそこれを磨かせる。
それなのに、国家を治めたりすることにかけては、急に王様ばかりが、多くを学んできた君子などに対しても『学んできたことは
すべて捨て置いて俺の言うとおりにしろ』というのでは、素人が玉磨きの職人に玉磨きを教えるも同然ではないか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁惠王章句下・九より)
孟子は、とにかくカッコいい。
大将の貫禄が漂う孔子とは違って、大聖としての貫禄には欠ける一方で、
先陣を切っての突撃に長けた、本田忠勝のような猛将の如き強烈さを帯びている。
ただ、「孟子」冒頭の梁恵王章句からして、孟子が恵王の補佐を望みつつも叶わなかった逸話で、
存命中についぞ王侯に重用されなかったことから、社会的失敗者としての扱いを受ける場合もままある。
しかし、>>289の引用のような、大上段に構えての、王侯に対する一歩も引かない物言いがすでに、
孟子がただ者ではないあるがままの証拠となっており、正論尽くめの論及の数々を一つも取り入れられなかった当時の
王侯のほうが自動的に敗北者ともなってしまっている。春秋戦国時代の王侯の名を覚えている人間など今はほとんどいないが、
孟子の名は今でも誰もが知っている。しかも、孔子に次ぐ儒聖としての美名であり、たとえあげつらわれるにしても、
乱世の魑魅魍魎としての汚名と共にしか語られることのない当時の王侯などよりも、よっぽど丁重な扱いとなっている。
下民を疲弊させて憚らぬ乱世に狭隘な利権を貪り、個人的には相当な栄華も誇ったであろう当時の王侯も死後には、
ニート並みにすら社会的な功績を挙げることのなかった孟子にすら及ばない扱いとなっている。それが現実であり、
「言葉よりも行動」でどうにか動き回り続けていようとするような傾向のほうが、本当の現実からの逃避ともなっている。
大将の貫禄が漂う孔子とは違って、大聖としての貫禄には欠ける一方で、
先陣を切っての突撃に長けた、本田忠勝のような猛将の如き強烈さを帯びている。
ただ、「孟子」冒頭の梁恵王章句からして、孟子が恵王の補佐を望みつつも叶わなかった逸話で、
存命中についぞ王侯に重用されなかったことから、社会的失敗者としての扱いを受ける場合もままある。
しかし、>>289の引用のような、大上段に構えての、王侯に対する一歩も引かない物言いがすでに、
孟子がただ者ではないあるがままの証拠となっており、正論尽くめの論及の数々を一つも取り入れられなかった当時の
王侯のほうが自動的に敗北者ともなってしまっている。春秋戦国時代の王侯の名を覚えている人間など今はほとんどいないが、
孟子の名は今でも誰もが知っている。しかも、孔子に次ぐ儒聖としての美名であり、たとえあげつらわれるにしても、
乱世の魑魅魍魎としての汚名と共にしか語られることのない当時の王侯などよりも、よっぽど丁重な扱いとなっている。
下民を疲弊させて憚らぬ乱世に狭隘な利権を貪り、個人的には相当な栄華も誇ったであろう当時の王侯も死後には、
ニート並みにすら社会的な功績を挙げることのなかった孟子にすら及ばない扱いとなっている。それが現実であり、
「言葉よりも行動」でどうにか動き回り続けていようとするような傾向のほうが、本当の現実からの逃避ともなっている。
「史記」などの歴史書を読んでいると、重役に就いていた政治家などが大失態をやらかした場合などに、
死刑を宣告されながら、罪を償って庶民になるということが散見される。死刑が在野への降下によって償われる、
それほどにも中国において為政が高尚なものとして扱われていたとも言えるし、庶民が卑賤なものとして扱われていたとも言える。
一応、「史記」にも貨殖列伝という、在野の庶民が貨殖功利によって一大財産を成した記録が載っているが、
その扱いも紀伝中の最後尾であり、占い師の記録を扱った日者列伝や亀策列伝よりも後に置かれている。
(ただし現行「史記」の日者列伝や亀策列伝は後代の挿入であり、司馬遷自身の真筆は遺失してしまっている)
道家思想の万物斉同志向に基づいて書かれた「史記」においてですら、貨殖功利に没頭する庶民などは最下等に置かれ、
より儒学的な見地に即して書かれた「漢書」などでは、その貨殖功利に関する記録すらもが完全に省かれてしまっている。
いてもいなくてもどうでもいいような存在であることにかけては、貨殖功利に惑溺する人間も、ニート並みであるということだ。
「罪人は其の罪を以て降す」
「重職に就いていたような罪人は、その罪の軽重によって位の降格を高下させる。
(子産の言葉。罪に対して実刑を下す以前に、まず社会的な失脚が適用される。多くの人々に迷惑をかけた以上は、
塀の中に突き落とされるまではいかなかったとしても、社会上での制裁を加えられるぐらいのことは当然である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公七年より)
死刑を宣告されながら、罪を償って庶民になるということが散見される。死刑が在野への降下によって償われる、
それほどにも中国において為政が高尚なものとして扱われていたとも言えるし、庶民が卑賤なものとして扱われていたとも言える。
一応、「史記」にも貨殖列伝という、在野の庶民が貨殖功利によって一大財産を成した記録が載っているが、
その扱いも紀伝中の最後尾であり、占い師の記録を扱った日者列伝や亀策列伝よりも後に置かれている。
(ただし現行「史記」の日者列伝や亀策列伝は後代の挿入であり、司馬遷自身の真筆は遺失してしまっている)
道家思想の万物斉同志向に基づいて書かれた「史記」においてですら、貨殖功利に没頭する庶民などは最下等に置かれ、
より儒学的な見地に即して書かれた「漢書」などでは、その貨殖功利に関する記録すらもが完全に省かれてしまっている。
いてもいなくてもどうでもいいような存在であることにかけては、貨殖功利に惑溺する人間も、ニート並みであるということだ。
「罪人は其の罪を以て降す」
「重職に就いていたような罪人は、その罪の軽重によって位の降格を高下させる。
(子産の言葉。罪に対して実刑を下す以前に、まず社会的な失脚が適用される。多くの人々に迷惑をかけた以上は、
塀の中に突き落とされるまではいかなかったとしても、社会上での制裁を加えられるぐらいのことは当然である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公七年より)
今の小沢の汚職騒動なども、塀の中に突き落とすかどうかだけで、話が一律してしまっている。
悪いことをしたというのなら、刑事的に断罪される以前に、職務の降格や辞任を先に問題とするべきなんだ。
小沢やその秘書自身は罪状すらも否認しているから、断罪も、降格や辞任も受け入れやしないだろう。
でも、周りで見ている第三者が、当人を塀の中に突き落とすかどうかを失脚の第一基準にはしているわけで、
刑事罰を受けることに全てを還元しようとしていることがすでに、政治家の扱いとして根本的に間違っている。
降格や辞任すらすれば、政治家は死刑すら免れても構わないぐらいの重責を負っている。
逆に言えば、政治家にとって政治生命を絶たれることこそは、死刑や宮刑並みかそれ以上もの重罰となるのであり、
たとえ投獄されたところで、数年の服役やスズメの涙程度の保釈金で出てこられるような刑事罰によって、
政治家をも完全に失脚させられるようなことを期待するほうが間違っている。
何万人、何億人という人々の運命を左右する大権を手にした政治家を、政治家個人への刑事罰などで
どうにかできるなどと考えていることが、すでに「政治に対する見くびり」であり、自分自身は大権を持たず、
政治権力の何たるかも知らない庶民が、お茶の間から政治家をどうこうしてやろうなどと試みた挙句に、
ちっともどうにもできなくなっている。政治家を失脚させることは、当人の行いが権力犯罪として深刻であり、
権力犯罪としてこそ深刻であるが故に、政治生命をも絶たねばならないか否かにこそかかっているのであり、
そのための措置が単なる失脚で済めばそれでもいいし、刑事罰も科しておいたほうがよさそうなら科しもする。
政治生命を絶つか否かが根本であり、刑事罰を科すか否かは末節。そのわきまえがない状態だから、
万億の民の命運を左右してきた政治家の処分までもが、些細な刑事に還元されたりもする。罪に対する刑事罰を
赦すか否かに全てが還元され、刑事罰とまではいかない権力行使の制限などにまで頭が回っていないせいで、
政治家も深刻な刑事罰を受けない限りはやりたい放題でいる。罪を犯してしまった以上は、刑事罰を科されるか否か
のみが問題である、庶民の盲目さにも適ったカルト信仰が横行しているせいで、汚職政治家もやりたい放題でいる。
悪いことをしたというのなら、刑事的に断罪される以前に、職務の降格や辞任を先に問題とするべきなんだ。
小沢やその秘書自身は罪状すらも否認しているから、断罪も、降格や辞任も受け入れやしないだろう。
でも、周りで見ている第三者が、当人を塀の中に突き落とすかどうかを失脚の第一基準にはしているわけで、
刑事罰を受けることに全てを還元しようとしていることがすでに、政治家の扱いとして根本的に間違っている。
降格や辞任すらすれば、政治家は死刑すら免れても構わないぐらいの重責を負っている。
逆に言えば、政治家にとって政治生命を絶たれることこそは、死刑や宮刑並みかそれ以上もの重罰となるのであり、
たとえ投獄されたところで、数年の服役やスズメの涙程度の保釈金で出てこられるような刑事罰によって、
政治家をも完全に失脚させられるようなことを期待するほうが間違っている。
何万人、何億人という人々の運命を左右する大権を手にした政治家を、政治家個人への刑事罰などで
どうにかできるなどと考えていることが、すでに「政治に対する見くびり」であり、自分自身は大権を持たず、
政治権力の何たるかも知らない庶民が、お茶の間から政治家をどうこうしてやろうなどと試みた挙句に、
ちっともどうにもできなくなっている。政治家を失脚させることは、当人の行いが権力犯罪として深刻であり、
権力犯罪としてこそ深刻であるが故に、政治生命をも絶たねばならないか否かにこそかかっているのであり、
そのための措置が単なる失脚で済めばそれでもいいし、刑事罰も科しておいたほうがよさそうなら科しもする。
政治生命を絶つか否かが根本であり、刑事罰を科すか否かは末節。そのわきまえがない状態だから、
万億の民の命運を左右してきた政治家の処分までもが、些細な刑事に還元されたりもする。罪に対する刑事罰を
赦すか否かに全てが還元され、刑事罰とまではいかない権力行使の制限などにまで頭が回っていないせいで、
政治家も深刻な刑事罰を受けない限りはやりたい放題でいる。罪を犯してしまった以上は、刑事罰を科されるか否か
のみが問題である、庶民の盲目さにも適ったカルト信仰が横行しているせいで、汚職政治家もやりたい放題でいる。
削除(by投稿者)
権力道徳者が実現した、どこもかしこも平穏である泰平社会は、
殊更に技巧を凝らした淫らな音楽などによって美化せずとも、ただあるがままにその全てを謳歌できるもの。
救いようのない悲劇や、狂いきった破滅状態こそは、美術や芸術といったもので美化される必要も出てくる。
極東社会には、伝統的には、美術などというものは存在しない。
芸術センスに優れた仏像や器物、刀剣などもあるにはあるが、
あくまでそれ相応の用途を持った道具であり、ただ美しさを象徴化しただけの模型であったりはしない。
美術それ自体が独り歩きをして、肝心の現実の実物が破滅状態に陥るようなことは赦されなかったために、
孔子も魯の宰相を勤めていたときに、魯公と斉公の面会中に挑発目的で淫らな音楽を奏でた夷狄の莱夷を、
役人に命じて逮捕し、処刑している。「礼楽刑政」という言葉の通り、儒家は音楽にも造詣が深かった上で、その有害さ無害さ、
有益さ無益さについてもよく考え抜いており、ただ音楽が甘美ですらあればよいものではないこともわきまえている。
「子韶を謂わく、美を盡くせり、又た善を盡くせり。武を謂わく、美を盡くせり、未だ善を盡くさざるなり(下の句は既出)」
「先生が堯舜の禅譲を題材にした韶の音楽を聴いて言われた。『美を尽くしているし、善も尽くしている』
武王による紂王の放伐を題材にした武の音楽を聴いて言われた。『美を尽くしてはいるが、未だ善を尽くしているとは言えない』
(虚飾の甘美さに囚われるあまり、内実の劣悪さを善だなどと倒錯することも儒家では排される)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・二五より)
殊更に技巧を凝らした淫らな音楽などによって美化せずとも、ただあるがままにその全てを謳歌できるもの。
救いようのない悲劇や、狂いきった破滅状態こそは、美術や芸術といったもので美化される必要も出てくる。
極東社会には、伝統的には、美術などというものは存在しない。
芸術センスに優れた仏像や器物、刀剣などもあるにはあるが、
あくまでそれ相応の用途を持った道具であり、ただ美しさを象徴化しただけの模型であったりはしない。
美術それ自体が独り歩きをして、肝心の現実の実物が破滅状態に陥るようなことは赦されなかったために、
孔子も魯の宰相を勤めていたときに、魯公と斉公の面会中に挑発目的で淫らな音楽を奏でた夷狄の莱夷を、
役人に命じて逮捕し、処刑している。「礼楽刑政」という言葉の通り、儒家は音楽にも造詣が深かった上で、その有害さ無害さ、
有益さ無益さについてもよく考え抜いており、ただ音楽が甘美ですらあればよいものではないこともわきまえている。
「子韶を謂わく、美を盡くせり、又た善を盡くせり。武を謂わく、美を盡くせり、未だ善を盡くさざるなり(下の句は既出)」
「先生が堯舜の禅譲を題材にした韶の音楽を聴いて言われた。『美を尽くしているし、善も尽くしている』
武王による紂王の放伐を題材にした武の音楽を聴いて言われた。『美を尽くしてはいるが、未だ善を尽くしているとは言えない』
(虚飾の甘美さに囚われるあまり、内実の劣悪さを善だなどと倒錯することも儒家では排される)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・二五より)
「思慮」とは臆病さの善用のことだ。
恐れ慎んで物事をよく慮ることが、すなわち思慮深いということ。
物事をよく恐れ慎む臆病さが欠けていれば、そのぶんだけ思慮も浅くなる。
恐れは当然憂いともなるわけで、孝行の実践者にとっては、父母の健康への憂いなどが必須ともなる。
臆病さも捨て去って、憂いも全く捨て去るなら、親子兄弟での殺し合いだって免れ得ない。
そんなことがあってはならないから、やはり恐れや憂いも一定以上は必要なものだといえる。
もちろん臆病さばかりに囚われるのも行き過ぎで、恐れるべきものを恐れて恐れるべきでないものを恐れない
分別もまた必要であり、その方面に長けていることこそは、思慮分別の能力が高いことにもなるわけだ。
「愨善身を違らず、耳目心を違らず、思慮親を違らず。諸れを心に結び、諸れを色に形わし、之れを術省す、孝子の志しなり」
「恐れ慎んで善から身を離さず、耳目が心から離れ(て鏡映認知障害になり、善悪の分別が付かなくなっ)たりもせず、
思慮は親の健康から離れることもない。これをしっかと心に結び、顔色などにも現し、毎度よく反省もするのが、孝子の志しである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十五より)
恐れ慎んで物事をよく慮ることが、すなわち思慮深いということ。
物事をよく恐れ慎む臆病さが欠けていれば、そのぶんだけ思慮も浅くなる。
恐れは当然憂いともなるわけで、孝行の実践者にとっては、父母の健康への憂いなどが必須ともなる。
臆病さも捨て去って、憂いも全く捨て去るなら、親子兄弟での殺し合いだって免れ得ない。
そんなことがあってはならないから、やはり恐れや憂いも一定以上は必要なものだといえる。
もちろん臆病さばかりに囚われるのも行き過ぎで、恐れるべきものを恐れて恐れるべきでないものを恐れない
分別もまた必要であり、その方面に長けていることこそは、思慮分別の能力が高いことにもなるわけだ。
「愨善身を違らず、耳目心を違らず、思慮親を違らず。諸れを心に結び、諸れを色に形わし、之れを術省す、孝子の志しなり」
「恐れ慎んで善から身を離さず、耳目が心から離れ(て鏡映認知障害になり、善悪の分別が付かなくなっ)たりもせず、
思慮は親の健康から離れることもない。これをしっかと心に結び、顔色などにも現し、毎度よく反省もするのが、孝子の志しである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十五より)
現実上の君父でもないものが、「主」を名乗って絶対服従を要求してくる、
他力信仰のあり方全般が自主性を欠くものであり、己れこそを主として、
そこから自力の修習に努めるあり方よりも確実に低劣なものだ。
それは、仏教における他力信仰である浄土教ですら同じことで、他力信仰に帰依するものはあくまで、
自らが自力作善も覚束ない煩悩愚縛の凡夫であることを自認するわけだ。そして、自力作善を試みるものは
禅や密教などの本格的な宗派においての修行に努め、他力信仰に帰依するものは、そのような聖道門の求道者に
一目も二目も置く。「誰にも自力作善など不可能だ」などとの決め付けによって、誰しもに他力信仰を強要
するようなことは許されず、一向一揆による体制転覆を図った真宗の信者たちも、同じ浄土門(浄土宗)の
信者でありながら、儒学などに基づく自力修習にも努めていた家康公に鎮圧されている。
あまり敬虔でもない聖書信者などは、もうキリストやエホバなどが実在しないことも察してるだろうが、
他力信仰にすべてを還元して、現実の君父への忠信などを疎かにするのなら、もう偉そうな面をしてはいけない。
君臣の義を守り、父母への恩愛を絶やさないぐらいの自力修習が、実際に人間には可能なのだから、
たとえ自らが他力本願でい続けるのだとしても、そればかりが人間にとっての唯一の選択肢なのではなく、
儒学にも基づくような、最低限の自修に努めるものがいて、そのような人間のほうが自分たちよりも
ずっと高等な存在であるのだという、現実上の事実ぐらいは了解しておかなければならない。
「内には則ち父子、外には則ち君臣あるは、人の大倫なり。父子は恩を主とし、君臣は敬を主とす」
「内では父子の序をわきまえ、外では君臣の関係をわきまえるのが人の大倫である。
父子の関係では恩愛を主とし、君臣の関係では畏敬を主とする。(景子の言葉。この文面自体には孟子も
賛同するが、景子の「畏敬」に対する解釈が、自主性を欠いた絶対服従的なものであることに孟子は反論する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・二より)
他力信仰のあり方全般が自主性を欠くものであり、己れこそを主として、
そこから自力の修習に努めるあり方よりも確実に低劣なものだ。
それは、仏教における他力信仰である浄土教ですら同じことで、他力信仰に帰依するものはあくまで、
自らが自力作善も覚束ない煩悩愚縛の凡夫であることを自認するわけだ。そして、自力作善を試みるものは
禅や密教などの本格的な宗派においての修行に努め、他力信仰に帰依するものは、そのような聖道門の求道者に
一目も二目も置く。「誰にも自力作善など不可能だ」などとの決め付けによって、誰しもに他力信仰を強要
するようなことは許されず、一向一揆による体制転覆を図った真宗の信者たちも、同じ浄土門(浄土宗)の
信者でありながら、儒学などに基づく自力修習にも努めていた家康公に鎮圧されている。
あまり敬虔でもない聖書信者などは、もうキリストやエホバなどが実在しないことも察してるだろうが、
他力信仰にすべてを還元して、現実の君父への忠信などを疎かにするのなら、もう偉そうな面をしてはいけない。
君臣の義を守り、父母への恩愛を絶やさないぐらいの自力修習が、実際に人間には可能なのだから、
たとえ自らが他力本願でい続けるのだとしても、そればかりが人間にとっての唯一の選択肢なのではなく、
儒学にも基づくような、最低限の自修に努めるものがいて、そのような人間のほうが自分たちよりも
ずっと高等な存在であるのだという、現実上の事実ぐらいは了解しておかなければならない。
「内には則ち父子、外には則ち君臣あるは、人の大倫なり。父子は恩を主とし、君臣は敬を主とす」
「内では父子の序をわきまえ、外では君臣の関係をわきまえるのが人の大倫である。
父子の関係では恩愛を主とし、君臣の関係では畏敬を主とする。(景子の言葉。この文面自体には孟子も
賛同するが、景子の「畏敬」に対する解釈が、自主性を欠いた絶対服従的なものであることに孟子は反論する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・二より)
聖書信仰者の知識は、精神障害者同士で寄せ集めた致命的な勘違いだらけになっているし、
勘違いの知識ばかりを信じようとするあまり、その信仰姿勢も暴力的に狂信的なものとなっている。
知識や信仰とて全否定されるべきものではないが、それ以上にも重要な理念が仁義や礼儀として存在し、
仁義や礼儀による適切な矯正があって初めて、知識も勘違いなどの小知を排して大知を選別することができ、
信仰や信頼も暴力的な狂信を排して正信のみを抽出することができるようになる。
「信は豚魚に及ぶ(易経)」との言葉の通り、信だけは豚や魚、IQ20〜30程度の重度知的障害者
などにまでわきまえることのできる理念。ただし、それはえさを与えてくれる飼い主への信用も同然の
ものであり、到底高尚な精神性などを伴っているとは言えない。儒学であれば「仁義」などと呼ばれ、
仏教では「菩提」などと呼ばれるような、高尚な精神性を伴った理念は、豚や魚や知的障害者、そして
精神障害者などに到底わきまえられるものではなく、IQ100程度の人並みの知能を常時保ち続けて
いられる程度には、人としての品性を守っている人間のみが、仁義や菩提のような高尚な精神性を
わきまえるだけの最低限の条件を得る。さらにそこからより堅固なわきまえに臨んでいくこともできる一方で、
さすがにIQ100程度の恒常知能がないことには、信か、さもなくば知か程度の低劣なわきまえに終始する。
勘違いの知識ばかりを信じようとするあまり、その信仰姿勢も暴力的に狂信的なものとなっている。
知識や信仰とて全否定されるべきものではないが、それ以上にも重要な理念が仁義や礼儀として存在し、
仁義や礼儀による適切な矯正があって初めて、知識も勘違いなどの小知を排して大知を選別することができ、
信仰や信頼も暴力的な狂信を排して正信のみを抽出することができるようになる。
「信は豚魚に及ぶ(易経)」との言葉の通り、信だけは豚や魚、IQ20〜30程度の重度知的障害者
などにまでわきまえることのできる理念。ただし、それはえさを与えてくれる飼い主への信用も同然の
ものであり、到底高尚な精神性などを伴っているとは言えない。儒学であれば「仁義」などと呼ばれ、
仏教では「菩提」などと呼ばれるような、高尚な精神性を伴った理念は、豚や魚や知的障害者、そして
精神障害者などに到底わきまえられるものではなく、IQ100程度の人並みの知能を常時保ち続けて
いられる程度には、人としての品性を守っている人間のみが、仁義や菩提のような高尚な精神性を
わきまえるだけの最低限の条件を得る。さらにそこからより堅固なわきまえに臨んでいくこともできる一方で、
さすがにIQ100程度の恒常知能がないことには、信か、さもなくば知か程度の低劣なわきまえに終始する。
「樊遲仁を問う。子曰く、人を愛す。知を問う。子曰く、人を知る。樊遲未だ達せず。子曰く、直きを舉げて諸れを枉れるに錯けば、
能く枉れる者をして直からしむ。樊遲退く、子夏に見えて曰、さきに吾れ夫子に見えて知を問う、子曰く、直きを舉げて諸れを
枉れるに錯けば、能く枉れる者をして直からしむと、何の謂いぞや。子夏曰く、富める言かな。舜の天下に有るや、
衆より選びて、皋陶を舉げ、不仁者遠ざかる。湯の天下に有るや、衆より選びて伊尹を舉げ、不仁者遠ざかる」
「樊遲が仁についてお尋ねした。先生は言われた。『人を愛することだ』 次に知恵についてお尋ねした。先生は言われた。
『人を知ることだ』 樊遲は先生の言うことの意味がまだよく分からなかった。そこで先生は言われた。『正直なものを取り立てて
屈折したものの上に置くようにすれば、屈折したものまでをも正すことができる』 樊遲は先生の前を退いて、子夏に会って言った。
『さっき私は先生に知恵についてお尋ねしました。すると先生はかくかくしかじかと答えられました。どういう意味でしょうか』
子夏は言った。『それは素晴らしい言葉だ。舜帝が天下に君臨した時にも、大衆の中から皋陶のような賢人を取り立てて、
不仁者の専横を遠ざけた。湯王が天下に君臨した時にも、大衆の中から伊尹のような賢人を取り立てて、不仁者の専横を遠ざけた』
(人をよく知って、罪の救いばかりを欲するような小人の上に、仁義に長けた君子を置くことこそは大知にもあたる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・二二)
能く枉れる者をして直からしむ。樊遲退く、子夏に見えて曰、さきに吾れ夫子に見えて知を問う、子曰く、直きを舉げて諸れを
枉れるに錯けば、能く枉れる者をして直からしむと、何の謂いぞや。子夏曰く、富める言かな。舜の天下に有るや、
衆より選びて、皋陶を舉げ、不仁者遠ざかる。湯の天下に有るや、衆より選びて伊尹を舉げ、不仁者遠ざかる」
「樊遲が仁についてお尋ねした。先生は言われた。『人を愛することだ』 次に知恵についてお尋ねした。先生は言われた。
『人を知ることだ』 樊遲は先生の言うことの意味がまだよく分からなかった。そこで先生は言われた。『正直なものを取り立てて
屈折したものの上に置くようにすれば、屈折したものまでをも正すことができる』 樊遲は先生の前を退いて、子夏に会って言った。
『さっき私は先生に知恵についてお尋ねしました。すると先生はかくかくしかじかと答えられました。どういう意味でしょうか』
子夏は言った。『それは素晴らしい言葉だ。舜帝が天下に君臨した時にも、大衆の中から皋陶のような賢人を取り立てて、
不仁者の専横を遠ざけた。湯王が天下に君臨した時にも、大衆の中から伊尹のような賢人を取り立てて、不仁者の専横を遠ざけた』
(人をよく知って、罪の救いばかりを欲するような小人の上に、仁義に長けた君子を置くことこそは大知にもあたる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・二二)
梵我一如とか物我一理とかいった、天地万物に永劫普遍の道理なり真理なりと
自己の統合による、悟りなり浩然の気なりを得られるということが、
確かに東洋の哲学宗教などにおいても掲げられている。
しかし、それは知能が人並みかそれ以上の恒常的な健全さを保ち続けている中にこそ
得られるとされるものであり、飼い主からの餌を待つ豚や魚並みの低能に
陥ることによって得られるものなどとされてはいない。
俗世の濁悪さなどを理解できない重度精神障害に陥るのではなく、
濁悪さの苦しみも十分に受け止めて、その苦しみをも超える天理に与る。
麻薬による狂気への陥りによって痛みを和らげるのではなく、
痛みをも超えるほどもの涅槃静寂を正気のままに得る。
似ているようで、全く違う、痛み苦しみに対する処方の正誤。
「蓍の鄹は圓にして神なり。卦の鄹は方をて知なり。六爻の義は易を以て貢ぐ。
聖人此れを以て心を洗い、退きて密に藏れ、吉凶民と患いを同じくす」
「(易占の道具である)蓍の働きは円のように角がなくて神妙であり、三爻八卦の働きは方形のように
よく定まっていて明知であり、六爻六十四卦の道義は神明の変易を通じて吉凶を人に伝える。
聖人はこの易の徳義によって心の濁りを洗い清め、躍起であることから退いて冷静な神秘に同化し、
(下劣な選民志向なども洗い清めているために)吉凶への憂患を万民と同じくするように勤める」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
自己の統合による、悟りなり浩然の気なりを得られるということが、
確かに東洋の哲学宗教などにおいても掲げられている。
しかし、それは知能が人並みかそれ以上の恒常的な健全さを保ち続けている中にこそ
得られるとされるものであり、飼い主からの餌を待つ豚や魚並みの低能に
陥ることによって得られるものなどとされてはいない。
俗世の濁悪さなどを理解できない重度精神障害に陥るのではなく、
濁悪さの苦しみも十分に受け止めて、その苦しみをも超える天理に与る。
麻薬による狂気への陥りによって痛みを和らげるのではなく、
痛みをも超えるほどもの涅槃静寂を正気のままに得る。
似ているようで、全く違う、痛み苦しみに対する処方の正誤。
「蓍の鄹は圓にして神なり。卦の鄹は方をて知なり。六爻の義は易を以て貢ぐ。
聖人此れを以て心を洗い、退きて密に藏れ、吉凶民と患いを同じくす」
「(易占の道具である)蓍の働きは円のように角がなくて神妙であり、三爻八卦の働きは方形のように
よく定まっていて明知であり、六爻六十四卦の道義は神明の変易を通じて吉凶を人に伝える。
聖人はこの易の徳義によって心の濁りを洗い清め、躍起であることから退いて冷静な神秘に同化し、
(下劣な選民志向なども洗い清めているために)吉凶への憂患を万民と同じくするように勤める」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
まあ、子貢の場合は本人自身が以下のようにも謙っているので、まだマシなほうだといえる。
貨殖功利などに奔走して狭隘な利権を貪る賤人でいて、天下全土を我が物であるかのように
ほざくやからなどのほうが、君子に導かれることもかなわない、致命的な小人とも化すのだ。
「陳子禽子貢に謂いて曰く、子は恭を為すなり。仲尼、豈に賢らんや。子貢曰く、君子は一言を以て知と為し、
一言を以て不知と為す。言は慎まざるべからざるなり。夫子の及ぶべからざるや、猶を天の階して升るべからざるがごとし。
夫子の邦家を得る者は、所謂之れを立つれば斯に立ち、之れを道びけば斯に立ち、之れを綏んずれば斯に來たり、
之れを動かせば斯に和す。其の生くるや榮え、其の死するや哀しむ。之に如何ぞ其れ及ぶべけんや」
「(下級貴族に過ぎなかった孔子は、投機で金を得た弟子の子貢の支援にもよって王侯などと面会してもいたことから)
陳子禽が子貢に言った。『あなたは謙りすぎているのです。仲尼(孔子)ごときがあなたよりも優れているはずがありません』
(ただ子貢のほうが孔子よりも富裕だったことを根拠にこのような発言をしたあたり、陳子禽も大した人間ではなかっただろう)
子貢は言った。『君子はただの一言で相手の知力を見抜くものです。言葉は慎まなければなりません。孔先生にわれわれが
及ばないことは、さも天に向かって階段をかけて上ろうかというようなもの。孔先生がもし国家を治めることになれば、
誰しもが立たせれば立ち、導けば歩き、安んずればなつき、働かせれば和するようにもなる。
生きている限りにおいては誰しもが栄え、死すれば誰しもが悲しむ。どうして我々ごときが及べようか』
(私利私欲に走る小人は、誰しもを栄えさせることかなわず、かえって多くの人々を貧窮にも追い込む。
さすればこそ当人が死んだときに、誰しもが悲しむどころか、誰しもが喜ぶことにすらなりかねない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・二五)
貨殖功利などに奔走して狭隘な利権を貪る賤人でいて、天下全土を我が物であるかのように
ほざくやからなどのほうが、君子に導かれることもかなわない、致命的な小人とも化すのだ。
「陳子禽子貢に謂いて曰く、子は恭を為すなり。仲尼、豈に賢らんや。子貢曰く、君子は一言を以て知と為し、
一言を以て不知と為す。言は慎まざるべからざるなり。夫子の及ぶべからざるや、猶を天の階して升るべからざるがごとし。
夫子の邦家を得る者は、所謂之れを立つれば斯に立ち、之れを道びけば斯に立ち、之れを綏んずれば斯に來たり、
之れを動かせば斯に和す。其の生くるや榮え、其の死するや哀しむ。之に如何ぞ其れ及ぶべけんや」
「(下級貴族に過ぎなかった孔子は、投機で金を得た弟子の子貢の支援にもよって王侯などと面会してもいたことから)
陳子禽が子貢に言った。『あなたは謙りすぎているのです。仲尼(孔子)ごときがあなたよりも優れているはずがありません』
(ただ子貢のほうが孔子よりも富裕だったことを根拠にこのような発言をしたあたり、陳子禽も大した人間ではなかっただろう)
子貢は言った。『君子はただの一言で相手の知力を見抜くものです。言葉は慎まなければなりません。孔先生にわれわれが
及ばないことは、さも天に向かって階段をかけて上ろうかというようなもの。孔先生がもし国家を治めることになれば、
誰しもが立たせれば立ち、導けば歩き、安んずればなつき、働かせれば和するようにもなる。
生きている限りにおいては誰しもが栄え、死すれば誰しもが悲しむ。どうして我々ごときが及べようか』
(私利私欲に走る小人は、誰しもを栄えさせることかなわず、かえって多くの人々を貧窮にも追い込む。
さすればこそ当人が死んだときに、誰しもが悲しむどころか、誰しもが喜ぶことにすらなりかねない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・二五)
刃物は人類最古の文化であり、まだ人類が猿人や原人だった頃から、石斧などの形で用いられてきた。
つる草や木の枝などを道具として用いることは、鳥や猿などの動物にも見られ、
「道具を用いること」すなわち人類文化の始まりであるとはいえないが、
道具を加工して高度な仕事に用いることが、人類文化の始まりであるとはいえるため、
石を削って斧にするなどの、刃物加工が人類文化の始まりとしていいだろうと思われる。
その、刃物のもっとも高度な扱い方をわきまえてきたのも、やはり極東人であり、
刀剣や槍、薙刀、弓矢などの扱いを研鑽する日本の武術がその代表的なもの。
ただ、日本の武術は礼儀作法にも多大な影響を受けており、規矩準縄のごとく正確な礼法の動きが
一つ一つの身体の扱いの参考にもされているために、刀剣のような武器を扱う体術でありながら、
単なる暴力行為などでは決してない、洗練された身体の扱いともなっている。
そしてもちろん、礼儀作法の原典「礼記」にも、以下のような刃物の扱い方が目白押しとなっている。
ただ「刃物はうちが起源ニダ」などというような、専売特許ばかりを主張する下劣さも帯びることなく。
「刀は刃を卻けて穎を授く。削をば拊を授く。凡そ刺刃ある者は、以て人に授くるときは則ち刃を辟く。
兵車に乘りて出ずるときは刃を先にす。入るときは刃を後にす。軍には左を尚にす。卒には右を尚にす」
「刀剣は刃を退けて鍔のほうから人に授ける。曲刀の場合は柄のほうから授ける。おおよそ刃物を人に渡すときには、
刃が相手のほうに向かないようにしながら渡す。戦車に乗って出陣するときには刃を先にし、帰り着く時には刃を後にする。
上位の将軍の前では謙りを意味して左側に刃物を持ち、下位の兵卒の前では叱咤を意味して右側に刃物を持つ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・少儀第十七より)
つる草や木の枝などを道具として用いることは、鳥や猿などの動物にも見られ、
「道具を用いること」すなわち人類文化の始まりであるとはいえないが、
道具を加工して高度な仕事に用いることが、人類文化の始まりであるとはいえるため、
石を削って斧にするなどの、刃物加工が人類文化の始まりとしていいだろうと思われる。
その、刃物のもっとも高度な扱い方をわきまえてきたのも、やはり極東人であり、
刀剣や槍、薙刀、弓矢などの扱いを研鑽する日本の武術がその代表的なもの。
ただ、日本の武術は礼儀作法にも多大な影響を受けており、規矩準縄のごとく正確な礼法の動きが
一つ一つの身体の扱いの参考にもされているために、刀剣のような武器を扱う体術でありながら、
単なる暴力行為などでは決してない、洗練された身体の扱いともなっている。
そしてもちろん、礼儀作法の原典「礼記」にも、以下のような刃物の扱い方が目白押しとなっている。
ただ「刃物はうちが起源ニダ」などというような、専売特許ばかりを主張する下劣さも帯びることなく。
「刀は刃を卻けて穎を授く。削をば拊を授く。凡そ刺刃ある者は、以て人に授くるときは則ち刃を辟く。
兵車に乘りて出ずるときは刃を先にす。入るときは刃を後にす。軍には左を尚にす。卒には右を尚にす」
「刀剣は刃を退けて鍔のほうから人に授ける。曲刀の場合は柄のほうから授ける。おおよそ刃物を人に渡すときには、
刃が相手のほうに向かないようにしながら渡す。戦車に乗って出陣するときには刃を先にし、帰り着く時には刃を後にする。
上位の将軍の前では謙りを意味して左側に刃物を持ち、下位の兵卒の前では叱咤を意味して右側に刃物を持つ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・少儀第十七より)
短命でも悔いのない人生ならば本望だし、長命でも悔いだらけの人生ではしょうもない。
「たら」「れば」がタブー扱いされるほどにも後悔だらけの西洋史などではなく、
それら自体が徳治史として立派に成立しているほどにも完成度が高く、そのために
「史記」の編纂者である司馬遷などからして、注釈でも「たら」「れば」を連発している、
古代中国史や、江戸時代までの日本史のような立派な人生すら遅れたならば、
寿命の長短、存命中に限っての厚遇不遇などは、大して気にかけるまでもない。
「天は高く、星辰は遠く、苟くも其の故を求めば、千歳の日至も、坐ながらにして致るべきなり」
「天は高く、星々は遠い彼方にある、その所以ともなる理を究明したならば、千年後の冬至すら座して察することもできる。
(天地万物に永久不変の道理の前では、千年や二千年ごときの光陰は矢にも等しい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・二七より)
「たら」「れば」がタブー扱いされるほどにも後悔だらけの西洋史などではなく、
それら自体が徳治史として立派に成立しているほどにも完成度が高く、そのために
「史記」の編纂者である司馬遷などからして、注釈でも「たら」「れば」を連発している、
古代中国史や、江戸時代までの日本史のような立派な人生すら遅れたならば、
寿命の長短、存命中に限っての厚遇不遇などは、大して気にかけるまでもない。
「天は高く、星辰は遠く、苟くも其の故を求めば、千歳の日至も、坐ながらにして致るべきなり」
「天は高く、星々は遠い彼方にある、その所以ともなる理を究明したならば、千年後の冬至すら座して察することもできる。
(天地万物に永久不変の道理の前では、千年や二千年ごときの光陰は矢にも等しい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・二七より)
クリスマスには休んでも、正月には休まないのか。
一生休み続けていてもいいほどの病状なのにな。
「哀しきかな言るに能わず、匪れ舌より是れ出ずれば、維ち躬に是れ瘁しむ。
しかも能言のやからの、巧言の流るるが如きは、躬を俾て休きに處らしむ」
「虚しいものだ、語るに値しないことばかり、舌より出ずれば出ずるだけ、その身を苦しましむのみ。
うらやましいことよ(皮肉)、能弁に長けた佞人どもの巧言令色は、その身をさらに安からしめる。
(品性をさらに低俗ならしめることを、『やすからしめる』と皮肉ってもいる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・雨無正より)
一生休み続けていてもいいほどの病状なのにな。
「哀しきかな言るに能わず、匪れ舌より是れ出ずれば、維ち躬に是れ瘁しむ。
しかも能言のやからの、巧言の流るるが如きは、躬を俾て休きに處らしむ」
「虚しいものだ、語るに値しないことばかり、舌より出ずれば出ずるだけ、その身を苦しましむのみ。
うらやましいことよ(皮肉)、能弁に長けた佞人どもの巧言令色は、その身をさらに安からしめる。
(品性をさらに低俗ならしめることを、『やすからしめる』と皮肉ってもいる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・雨無正より)
奴隷としてつなぎ止められて自由を拘束されることこそは、何よりも望まないところ。
それが健全な精神を保った人間の当然の心持ち。
誰かの奴隷となることで望みが叶えられることを期待するのも、ひどい症状だ。
実際社会においても、仕事をする自由としない自由、仕官する自由と仕官しない自由とが
いずれも尊重されてきた伝統があるために、中国でも儒家と共に無為自然の道家が好まれていたし、
日本でも江戸時代などに浪人文化が花開きもした。誰かに仕えて仕事をするという、
拘束状態を個々人が選択したりしなかったりする自由がまずあって初めて、
悪い仕事をせずに良い仕事をしようと心がける余裕なども保たれ得る。
その程度の余裕すらないような状態こそは、まさにあるがままに精神的不衛生でもある。
「つなぐに徽纆を用い、叢棘に郈く、三歳まで得ず、凶なり」
「二筋三筋と頑丈により合わされた縄で縛り上げられてつながれ、
いばらで囲われた牢屋の中に押し込められ、三年以上も出てこられない、凶である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・習坎・上六)
それが健全な精神を保った人間の当然の心持ち。
誰かの奴隷となることで望みが叶えられることを期待するのも、ひどい症状だ。
実際社会においても、仕事をする自由としない自由、仕官する自由と仕官しない自由とが
いずれも尊重されてきた伝統があるために、中国でも儒家と共に無為自然の道家が好まれていたし、
日本でも江戸時代などに浪人文化が花開きもした。誰かに仕えて仕事をするという、
拘束状態を個々人が選択したりしなかったりする自由がまずあって初めて、
悪い仕事をせずに良い仕事をしようと心がける余裕なども保たれ得る。
その程度の余裕すらないような状態こそは、まさにあるがままに精神的不衛生でもある。
「つなぐに徽纆を用い、叢棘に郈く、三歳まで得ず、凶なり」
「二筋三筋と頑丈により合わされた縄で縛り上げられてつながれ、
いばらで囲われた牢屋の中に押し込められ、三年以上も出てこられない、凶である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・習坎・上六)
孔子の文章に独自のバカ解釈を加えた物を掲示板という出来るだけ人の目に触れづらく
バカが許され易い媒体を選んで投稿し続けて「何も出来ないのではなく、何もしないだけ」
を証明する挑戦をしていれば、怠惰な現状を維持する対価になると考えている。
アホの言い訳に利用されて孔子が草葉の陰で泣いてるぞ。
バカが許され易い媒体を選んで投稿し続けて「何も出来ないのではなく、何もしないだけ」
を証明する挑戦をしていれば、怠惰な現状を維持する対価になると考えている。
アホの言い訳に利用されて孔子が草葉の陰で泣いてるぞ。
何もしないだけじゃない。何もできないのでもある。
最低限の人としての道義を守ろうと勤めている挙句に、
社会的には何もできなくなっている。
それは、春秋戦国時代という乱世に生きた道徳者だった
孔子や孟子とて同じだった。諸侯への仕官を志しては失敗する、
青い鳥状態の就職活動の後に、文筆生活の中で人生を終えた。
でも、今では当時の諸侯などよりも、孔子や孟子の名のほうが
誰しもに知られている。千乗の馬車や大宮殿などを保有していた
当時の大諸侯などより、社会的には何もできなかった孔子や孟子のほうが、
歴史に名をとどめる大聖賢として、未だに畏敬の対象ともされている。
これこそは、決して目を逸らすべきでない、厳然たる現実だ。
最低限の人としての道義を守ろうと勤めている挙句に、
社会的には何もできなくなっている。
それは、春秋戦国時代という乱世に生きた道徳者だった
孔子や孟子とて同じだった。諸侯への仕官を志しては失敗する、
青い鳥状態の就職活動の後に、文筆生活の中で人生を終えた。
でも、今では当時の諸侯などよりも、孔子や孟子の名のほうが
誰しもに知られている。千乗の馬車や大宮殿などを保有していた
当時の大諸侯などより、社会的には何もできなかった孔子や孟子のほうが、
歴史に名をとどめる大聖賢として、未だに畏敬の対象ともされている。
これこそは、決して目を逸らすべきでない、厳然たる現実だ。
行動即犯罪の総員テロリスト化社会で、何をするよりも、
積極的に何もしないでいようとすることが偉大であるのはもちろんのこと、
何かをしようとしたところで、結局は何もできないでいることすらもが偉い。
それどころか、無為自然を積極的に実践しようとした道家の徒などよりも、
乱世には何もできないながらも、治世には存分にその能力を発揮する儒者のほうが、
さらに歴史的な評価が高かったりもする。道術者は世間への介入を完全に忌み、
儒者は乱世に限って半分ほど忌むのだから、当然社会的な活躍の余地は、
道術者よりも儒者のほうが多くなる。乱世には儒者も道術者と同じ
無為自然に甘んじてはいるものの、それに限らない点が儒者は違う。
治世ですらあれば身を挺して働く自己誓約が、儒者に不屈の信念を与えもする。
「其の君子は玄黄を匪に實たして以て其の君子を迎え、其の小人は箪食壺漿して
以て其の小人を迎えるは、民を水火の中から救いて其の残賊を討つのみなればなり」
「(周武王の軍が紂王を討つために殷の首都に入城したとき、)殷の役人たちは錦織を箱に
満たして周の役人たちを歓迎し、殷の庶民たちも飯を盛り酒を汲んで周の庶民たちを歓迎した。
武王が殷の民たちをマッチポンプの苦しみから救って残党を討ち滅ぼしてくれると察していたから」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・五より)
積極的に何もしないでいようとすることが偉大であるのはもちろんのこと、
何かをしようとしたところで、結局は何もできないでいることすらもが偉い。
それどころか、無為自然を積極的に実践しようとした道家の徒などよりも、
乱世には何もできないながらも、治世には存分にその能力を発揮する儒者のほうが、
さらに歴史的な評価が高かったりもする。道術者は世間への介入を完全に忌み、
儒者は乱世に限って半分ほど忌むのだから、当然社会的な活躍の余地は、
道術者よりも儒者のほうが多くなる。乱世には儒者も道術者と同じ
無為自然に甘んじてはいるものの、それに限らない点が儒者は違う。
治世ですらあれば身を挺して働く自己誓約が、儒者に不屈の信念を与えもする。
「其の君子は玄黄を匪に實たして以て其の君子を迎え、其の小人は箪食壺漿して
以て其の小人を迎えるは、民を水火の中から救いて其の残賊を討つのみなればなり」
「(周武王の軍が紂王を討つために殷の首都に入城したとき、)殷の役人たちは錦織を箱に
満たして周の役人たちを歓迎し、殷の庶民たちも飯を盛り酒を汲んで周の庶民たちを歓迎した。
武王が殷の民たちをマッチポンプの苦しみから救って残党を討ち滅ぼしてくれると察していたから」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・五より)
イスラエルやギリシャやローマにも先んずる優等文化としての、
中国文化やインド文化、オリエント文化などが実際に実在することがすでに、
聖書信仰や洋学が、人類文化のすべてを還元すべきような代物ではない何よりの証拠になっている。
超越神エホバが男の人間アダムを造った上で、そのあばらを取り出して女の人間イブを造った
などという創世神話からして、男も女もみな母親の胎内から産み出される先天的な法則に反している。
「男女ありて然る後に夫婦あり、夫婦ありて然る後に父子あり、父子ありて然る後に君臣あり、
君臣ありて然る後に上下あり、上下ありて然る後に礼儀の錯くところあり(易経・序卦伝)」という
上下関係の後天性すらをもわきまえた上で、人工的に男尊女卑を実施する正規の人間道徳からすれば、
先天的に女が男の後に造られたとすることが、いかに不健全な迷妄であるのかまでもが如実となる。
中国文化やインド文化、オリエント文化などが実際に実在することがすでに、
聖書信仰や洋学が、人類文化のすべてを還元すべきような代物ではない何よりの証拠になっている。
超越神エホバが男の人間アダムを造った上で、そのあばらを取り出して女の人間イブを造った
などという創世神話からして、男も女もみな母親の胎内から産み出される先天的な法則に反している。
「男女ありて然る後に夫婦あり、夫婦ありて然る後に父子あり、父子ありて然る後に君臣あり、
君臣ありて然る後に上下あり、上下ありて然る後に礼儀の錯くところあり(易経・序卦伝)」という
上下関係の後天性すらをもわきまえた上で、人工的に男尊女卑を実施する正規の人間道徳からすれば、
先天的に女が男の後に造られたとすることが、いかに不健全な迷妄であるのかまでもが如実となる。
「古え我が先后、既になんじの祖、なんじの父を勞り、汝共に我れと民を畜うことを作す。
汝戕うこと有るは、則ちなんじの心に在り。我が先后なんじの祖なんじの父を綏んじ、なんじの祖なんじの父、
乃ち汝を斷ち棄て、なんじの死を救わず。茲れ予れ亂政有りて位を同じうするも、なんじの貝玉を具う。なんじの祖
なんじの父も丕いに乃ち我が高后に次げて曰わん。丕いに刑を朕が孫に作せと。高后を迪きて、丕いに乃ち弗祥を崇め降さん」
「太古の昔、我が先君は汝らの父祖を労わったために、汝らも我れと共に民を養う仕事に携わっている。
しかし、汝らの心が邪悪であるために、汝らは民を損なう悪行ばかりに手を染める。我が先君は、汝らの父祖までをも
安んじてやったというのに、その恩に背いてばかりいるのだから、汝らの父祖もまた、汝らの系譜を断ち捨てて、
汝らの死滅を救うこともない。今はまだ乱世であるために、汝らも我れとくそみそに位を同じくするも、
汝らは汝ら自身の財物や財宝を集め守ることばかりに終始するのみ。汝らの父祖もまた、我が先君に告げて言うことだろう。
『我らの子孫に大いなる天罰を下してください』と。我が先君を導いて、大いなる禍を汝らに降す道を開かれるのだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚中より)
汝戕うこと有るは、則ちなんじの心に在り。我が先后なんじの祖なんじの父を綏んじ、なんじの祖なんじの父、
乃ち汝を斷ち棄て、なんじの死を救わず。茲れ予れ亂政有りて位を同じうするも、なんじの貝玉を具う。なんじの祖
なんじの父も丕いに乃ち我が高后に次げて曰わん。丕いに刑を朕が孫に作せと。高后を迪きて、丕いに乃ち弗祥を崇め降さん」
「太古の昔、我が先君は汝らの父祖を労わったために、汝らも我れと共に民を養う仕事に携わっている。
しかし、汝らの心が邪悪であるために、汝らは民を損なう悪行ばかりに手を染める。我が先君は、汝らの父祖までをも
安んじてやったというのに、その恩に背いてばかりいるのだから、汝らの父祖もまた、汝らの系譜を断ち捨てて、
汝らの死滅を救うこともない。今はまだ乱世であるために、汝らも我れとくそみそに位を同じくするも、
汝らは汝ら自身の財物や財宝を集め守ることばかりに終始するのみ。汝らの父祖もまた、我が先君に告げて言うことだろう。
『我らの子孫に大いなる天罰を下してください』と。我が先君を導いて、大いなる禍を汝らに降す道を開かれるのだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚中より)
ちょっと可哀想になるぐらいの、辛辣な破滅宣告。
古代中国と、イスラエル以西の古代社会に直接的な関係はないが、西方社会に多大なる文化文明的材料を
与えてやった古代オリエントや古代インドを「先君」として、古代イスラエルや古代ギリシャ・ローマなどを
「汝らの父祖」とすれば、極めてよく話が通る内容にもなっている。
半ばこじつけ気味な対照ではあるにしても、
(四書五経の勉強のほうが根本で、犯罪聖書の懲罰は末節なので、それでも別にかまわない)
犯罪聖書の記述にことごとく関連させられるような記事が、四書五経などに大量に載っていることも、
東洋文化が物量面で西洋文化を上回っていた証拠になっている。もちろん質も遥かによくて、
四書五経の編纂は犯罪聖書よりも500年以上先行しているから、古さでもさらなる先輩に当たる。
もしもアダムのあばら骨を用いてイブが造られたという寓話に当てはめるとしても、
四書五経のほうがアダムで犯罪聖書のほうがイブだったといえる。もちろんいずれも超越神エホバによる
被造物などではなく、男女夫婦父子君臣上下の関係が築かれて後における、人間自身の産物でしかない。
人間自身の産物としてまともだった四書五経、欺瞞の限りを尽くした犯罪聖書。それだけのこと。
古代中国と、イスラエル以西の古代社会に直接的な関係はないが、西方社会に多大なる文化文明的材料を
与えてやった古代オリエントや古代インドを「先君」として、古代イスラエルや古代ギリシャ・ローマなどを
「汝らの父祖」とすれば、極めてよく話が通る内容にもなっている。
半ばこじつけ気味な対照ではあるにしても、
(四書五経の勉強のほうが根本で、犯罪聖書の懲罰は末節なので、それでも別にかまわない)
犯罪聖書の記述にことごとく関連させられるような記事が、四書五経などに大量に載っていることも、
東洋文化が物量面で西洋文化を上回っていた証拠になっている。もちろん質も遥かによくて、
四書五経の編纂は犯罪聖書よりも500年以上先行しているから、古さでもさらなる先輩に当たる。
もしもアダムのあばら骨を用いてイブが造られたという寓話に当てはめるとしても、
四書五経のほうがアダムで犯罪聖書のほうがイブだったといえる。もちろんいずれも超越神エホバによる
被造物などではなく、男女夫婦父子君臣上下の関係が築かれて後における、人間自身の産物でしかない。
人間自身の産物としてまともだった四書五経、欺瞞の限りを尽くした犯罪聖書。それだけのこと。
1.徳を以て怨みに報う(老子)
2.直きを以て怨みに報う(論語)
3.目には目を、歯には歯を(ハムラビ法典)
4.右の頬を打たれれば左の頬を差し出せ(福音書)
人として正しいのは1か2であり、3と4はなるべくそうであってはいけないもの。
具体的には、犯罪者などに対して、1は不問の状態に置くことで自主的な贖罪を促し、
2は適正な懲罰も科した上で自らが犯罪の防止に努める積極的道徳者でもあろうとする。
3はただ罪人に杓子定規な罰を科すのみであり、4は罪人にやらせたい放題となる。
4のイエスの発言が無知者に美辞麗句として受け止められ、さも1と同等のものであるように
思い込まれている感があるが、全くそうではなく、最もそうであってはならないもの。
犯罪行為を支援しすらする、マゾヒズム的変態志向が、徳を以て怨みに報うことなどには決してならない。
「孟子鄒に居りしに、季任任の處守を為せり。幣を以て交わらんとせしも、之れを受けて報ぜず。平陸に處りしに、
儲子相を為せり、幣を以て交わらんとせしも、之れを受けて報ぜず。他日鄒より任に之きしとき、季子を見るも、
平陸より齊に之きしときは儲子を見ず。屋廬子喜びて曰く、連、 を得たりと。問うて曰く、夫子の任に之きて
季子を見るや、齊に之きて儲子を見ざるや、其の相を為せる為なるや。曰く、非なり。(書に)曰く、享は儀を多とす。
儀、物に及ばざるを不享と曰う。惟れ志しを享に役せざると曰う。其の享を成さざるが為なり。屋廬子 ぶ。
或ひと之れを問う。屋廬子曰く、季子は鄒に之くを得ざりしも、儲子は平陸に之くを得たればなり」
2.直きを以て怨みに報う(論語)
3.目には目を、歯には歯を(ハムラビ法典)
4.右の頬を打たれれば左の頬を差し出せ(福音書)
人として正しいのは1か2であり、3と4はなるべくそうであってはいけないもの。
具体的には、犯罪者などに対して、1は不問の状態に置くことで自主的な贖罪を促し、
2は適正な懲罰も科した上で自らが犯罪の防止に努める積極的道徳者でもあろうとする。
3はただ罪人に杓子定規な罰を科すのみであり、4は罪人にやらせたい放題となる。
4のイエスの発言が無知者に美辞麗句として受け止められ、さも1と同等のものであるように
思い込まれている感があるが、全くそうではなく、最もそうであってはならないもの。
犯罪行為を支援しすらする、マゾヒズム的変態志向が、徳を以て怨みに報うことなどには決してならない。
「孟子鄒に居りしに、季任任の處守を為せり。幣を以て交わらんとせしも、之れを受けて報ぜず。平陸に處りしに、
儲子相を為せり、幣を以て交わらんとせしも、之れを受けて報ぜず。他日鄒より任に之きしとき、季子を見るも、
平陸より齊に之きしときは儲子を見ず。屋廬子喜びて曰く、連、 を得たりと。問うて曰く、夫子の任に之きて
季子を見るや、齊に之きて儲子を見ざるや、其の相を為せる為なるや。曰く、非なり。(書に)曰く、享は儀を多とす。
儀、物に及ばざるを不享と曰う。惟れ志しを享に役せざると曰う。其の享を成さざるが為なり。屋廬子 ぶ。
或ひと之れを問う。屋廬子曰く、季子は鄒に之くを得ざりしも、儲子は平陸に之くを得たればなり」
「孟子が鄒にいたとき、西方の任という国の留守居役を務めていた季任という人物がいて、孟子に礼物を贈って
親交を試みたが、孟子は礼物を受け取りながらもこれに報いることがなかった。また、孟子が平陸にいたときに、
儲子という人物が斉国の宰相をしていて、これまた孟子に礼物を贈って親交を試みたが、これまた孟子は礼物を
受け取りながらも即座に報いることがなかった。後日鄒から任国に赴いたときに、初めて孟子は季任に答礼したが、
平陸から斉国に赴いた時に、儲子には答礼をしなかった。門弟の屋廬子はこれを見て『しめた、先生の落ち度を
見つけたぞ』と色めき立った。孟子に問うて言った。『先生は任国では季子に答礼されたのに、斉国では儲子に
答礼されませんでした。これは季子のほうが君主に準ずる重役であり、儲子のほうが宰相止まりだったからでしょうか』
孟子は答えた。『そんな理由ではない。書経にも〔贈答のためには礼儀を尽くす。礼儀が贈答に及ばなければ、
贈答しなかったも同然だ。贈答に全く気持ちが込められていないから(周書・洛誥)〕とある。儲子の場合は
贈答をしなかったも同然なほどにも礼儀が尽くされていなかったからだ』 これを聞いて屋廬子は『さすが先生だ』
とさらに喜んだ。後日某人がこのことを聞いた時に屋廬子は言った。『季子は任国の留守居役を勤めていたために
自ら鄒の先生の元に赴くことはできなかったが、儲子は宰相であったので自ら平陸の先生の元に赴くことができたのに、
贈答はしながらも赴くことを怠ったために、先生は季子には答礼をされても儲子には答礼されなかったのだ』
(直きを以て恩に報いた実例。儒者は徳を以て徳に報い、直きを以て恩や怨みに報う。報いにも色々とある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・五)
親交を試みたが、孟子は礼物を受け取りながらもこれに報いることがなかった。また、孟子が平陸にいたときに、
儲子という人物が斉国の宰相をしていて、これまた孟子に礼物を贈って親交を試みたが、これまた孟子は礼物を
受け取りながらも即座に報いることがなかった。後日鄒から任国に赴いたときに、初めて孟子は季任に答礼したが、
平陸から斉国に赴いた時に、儲子には答礼をしなかった。門弟の屋廬子はこれを見て『しめた、先生の落ち度を
見つけたぞ』と色めき立った。孟子に問うて言った。『先生は任国では季子に答礼されたのに、斉国では儲子に
答礼されませんでした。これは季子のほうが君主に準ずる重役であり、儲子のほうが宰相止まりだったからでしょうか』
孟子は答えた。『そんな理由ではない。書経にも〔贈答のためには礼儀を尽くす。礼儀が贈答に及ばなければ、
贈答しなかったも同然だ。贈答に全く気持ちが込められていないから(周書・洛誥)〕とある。儲子の場合は
贈答をしなかったも同然なほどにも礼儀が尽くされていなかったからだ』 これを聞いて屋廬子は『さすが先生だ』
とさらに喜んだ。後日某人がこのことを聞いた時に屋廬子は言った。『季子は任国の留守居役を勤めていたために
自ら鄒の先生の元に赴くことはできなかったが、儲子は宰相であったので自ら平陸の先生の元に赴くことができたのに、
贈答はしながらも赴くことを怠ったために、先生は季子には答礼をされても儲子には答礼されなかったのだ』
(直きを以て恩に報いた実例。儒者は徳を以て徳に報い、直きを以て恩や怨みに報う。報いにも色々とある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・五)
まだ前スレが埋まりきっていたわけでもないのに、なぜ削除したんだろうな。
スレ画を綺麗なお花に替えたところで、聖書信仰が重権力犯罪者たちも
ご用達の、重度精神障害カルトであることには変わりないのに。
「父の子を親しむや、賢を親しみて無能を下し、
母の子に親しむや、賢は則ち之れを親しみ、無能は則ち之れを憐む。
母は親しくして尊からず。父は尊くして親しからず」
「父親が子供に親しむときは、賢い子供に親しんで無能な子供を疎んじ、
母親が子に親しむときには、やはり賢い子供には親しむが、無能な子供をも憐れみの対象にする。
母親は親しめるが尊いとはいえず、父親は尊いが親しむのは難しい。
(ただただ無能を憐れむことなどが尊かったりはしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)
スレ画を綺麗なお花に替えたところで、聖書信仰が重権力犯罪者たちも
ご用達の、重度精神障害カルトであることには変わりないのに。
「父の子を親しむや、賢を親しみて無能を下し、
母の子に親しむや、賢は則ち之れを親しみ、無能は則ち之れを憐む。
母は親しくして尊からず。父は尊くして親しからず」
「父親が子供に親しむときは、賢い子供に親しんで無能な子供を疎んじ、
母親が子に親しむときには、やはり賢い子供には親しむが、無能な子供をも憐れみの対象にする。
母親は親しめるが尊いとはいえず、父親は尊いが親しむのは難しい。
(ただただ無能を憐れむことなどが尊かったりはしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)
「愛は自慢しない」といいながら、愛を自慢する自己矛盾。
犯罪聖書には奢り高ぶるような記述も多いし、非情な神からの仕打ちも多いし、
モーセも言うことを聞かない民にぶち切れて石板を叩き割っているし、
イエスの物言いもファリサイ派などへのねたみが丸出しだし。
忍耐強かったり、情け深かったり、人をねたまなかったり、
自慢しなかったり、高ぶらなかったりすることも、道理をわきまえた聖人君子には
可能だろうが、愛憎に溺れきった小人などが得意とするところではない。
気短さも薄情さも妬みも傲慢も高ぶりもたらたらなのが小人というものであり、
絶対にそうあるなとは言わないが、そうである以上は身の程を知れとは言える。
「君子尊讓すれば則ち爭わず、潔敬すれば則ち慢らず、慢らず爭わざれば、則ち闘辨に遠ざかる。
闘辨せざれば則ち暴亂の禍い無し。斯れ君子の人の禍いを免るる所以なり。故に聖人之れを制するに道を以てす」
「君子は尊び譲ることによって争いを防ぎ、潔く敬うことによって自慢による高ぶりを防ぐ。
自慢の高ぶりや争いが防止されれば、闘争的な弁舌から遠ざかり、闘弁がなくなることによって、
実行的な暴乱の禍いも遠ざけられるようになる。君子が人々を禍いから遠ざける所以は如何様であり、
聖人君子は道理に根ざした礼儀礼節によってこそ人間社会の乱脈をも抑制するのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郷飲酒義第四十五より)
犯罪聖書には奢り高ぶるような記述も多いし、非情な神からの仕打ちも多いし、
モーセも言うことを聞かない民にぶち切れて石板を叩き割っているし、
イエスの物言いもファリサイ派などへのねたみが丸出しだし。
忍耐強かったり、情け深かったり、人をねたまなかったり、
自慢しなかったり、高ぶらなかったりすることも、道理をわきまえた聖人君子には
可能だろうが、愛憎に溺れきった小人などが得意とするところではない。
気短さも薄情さも妬みも傲慢も高ぶりもたらたらなのが小人というものであり、
絶対にそうあるなとは言わないが、そうである以上は身の程を知れとは言える。
「君子尊讓すれば則ち爭わず、潔敬すれば則ち慢らず、慢らず爭わざれば、則ち闘辨に遠ざかる。
闘辨せざれば則ち暴亂の禍い無し。斯れ君子の人の禍いを免るる所以なり。故に聖人之れを制するに道を以てす」
「君子は尊び譲ることによって争いを防ぎ、潔く敬うことによって自慢による高ぶりを防ぐ。
自慢の高ぶりや争いが防止されれば、闘争的な弁舌から遠ざかり、闘弁がなくなることによって、
実行的な暴乱の禍いも遠ざけられるようになる。君子が人々を禍いから遠ざける所以は如何様であり、
聖人君子は道理に根ざした礼儀礼節によってこそ人間社会の乱脈をも抑制するのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郷飲酒義第四十五より)
「人の生くるは直ければなり、之れを罔いて生くるは、幸いにして免るるなり」
「人が生きていられるのは正直だからだ。それを歪めて生きているのは、まぐれで助かっているだけだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・十九より)
これはすでに既出の引用だが、「幸」であるってことは、「まぐれ当たり」であるってことだ。
万全を期しての安寧を企図する中には、まぐれ当たりを嬉しがって幸せぶるようなことすらない。
穴に落ちてそこから引き上げられる、マッチポンプからの救いこそは幸せと呼ばれたりするのであり、
そもそもいちいち幸せがらなくてもいいぐらいに常時幸せであることが、真の幸せでもあるのだ。
「上は道を揆ること無く、下は法を守ることなく、朝は道を信ぜず、
工は度を信ぜず、君子は義を犯し、小人は刑を犯し、國の存する所在る者は幸いなり」
「上に立つ人君は道に則って判断することがなく、下にある臣下も法を守ろうとはせず、朝廷の役人も
みな道を信じようとはせず、民間の職人も法度の価値を信じたりはせず、上位にある君子は道義を侵し、
下位にある民も罪を犯す。それでもなお国家が保たれているとすれば、それこそは幸せもんというものだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・一より)
「人が生きていられるのは正直だからだ。それを歪めて生きているのは、まぐれで助かっているだけだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・十九より)
これはすでに既出の引用だが、「幸」であるってことは、「まぐれ当たり」であるってことだ。
万全を期しての安寧を企図する中には、まぐれ当たりを嬉しがって幸せぶるようなことすらない。
穴に落ちてそこから引き上げられる、マッチポンプからの救いこそは幸せと呼ばれたりするのであり、
そもそもいちいち幸せがらなくてもいいぐらいに常時幸せであることが、真の幸せでもあるのだ。
「上は道を揆ること無く、下は法を守ることなく、朝は道を信ぜず、
工は度を信ぜず、君子は義を犯し、小人は刑を犯し、國の存する所在る者は幸いなり」
「上に立つ人君は道に則って判断することがなく、下にある臣下も法を守ろうとはせず、朝廷の役人も
みな道を信じようとはせず、民間の職人も法度の価値を信じたりはせず、上位にある君子は道義を侵し、
下位にある民も罪を犯す。それでもなお国家が保たれているとすれば、それこそは幸せもんというものだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・一より)
まるで自分こそは世界を司る唯一の存在であり、自分が死んだ途端に世も終わるような思い上がり。
世世代代へと堅実に世を継いで行く男系社会ではなく、どこの家も一代限りのお祭り騒ぎに終始する
女系社会においてこそふきだまる悪念。自分を措いて世が勝手に進んでいくことに対して極端な
心細さを抱くのも、自分が世に悪影響ばかりを及ぼしている犯罪集団の一味に過ぎないから。
真に世のため人のためとなる事業に専念していたのなら、死後にも決してただ打ち捨てられることもなく、
その業績に対する畏敬が、子々孫々代々まで受け継がれていく。
だからこそ「君父の尊位(史記)」などというものも貴ばれるようになるのであり、
君父の尊位が重んじられるのは、あくまで士人階級以上であり、産業に従事する小人などにまで
父祖への畏敬があてがわれていたわけではないことが、士人としての仕事こそは真に有益無害であり、
小人の仕事は有害無益だったり、害益くそみそだったりする経験論上の証拠ともなっている。
「子張問う、十世知るべきや。子曰く、殷は夏の禮に因る、損益の所知るべきなり。
周は殷の禮に因る、損益の所知るべきなり。其れ或いは周を繼ぐ者は、百世と雖も知るべきなり」
「子張が問うた。『十世代先の王朝のことが分かりましょうか』 先生は答えられた。
『殷王朝は夏王朝の礼式を参考とした上で、そこに換骨奪胎を加えたことが分かる。
周もまた殷の礼式を参考とした上でに、そこに換骨奪胎を加えている。周王朝の
後を継ぐものは、たとえ百世代の後までもその様相を察知ことができるする』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・為政第二・二三より)
世世代代へと堅実に世を継いで行く男系社会ではなく、どこの家も一代限りのお祭り騒ぎに終始する
女系社会においてこそふきだまる悪念。自分を措いて世が勝手に進んでいくことに対して極端な
心細さを抱くのも、自分が世に悪影響ばかりを及ぼしている犯罪集団の一味に過ぎないから。
真に世のため人のためとなる事業に専念していたのなら、死後にも決してただ打ち捨てられることもなく、
その業績に対する畏敬が、子々孫々代々まで受け継がれていく。
だからこそ「君父の尊位(史記)」などというものも貴ばれるようになるのであり、
君父の尊位が重んじられるのは、あくまで士人階級以上であり、産業に従事する小人などにまで
父祖への畏敬があてがわれていたわけではないことが、士人としての仕事こそは真に有益無害であり、
小人の仕事は有害無益だったり、害益くそみそだったりする経験論上の証拠ともなっている。
「子張問う、十世知るべきや。子曰く、殷は夏の禮に因る、損益の所知るべきなり。
周は殷の禮に因る、損益の所知るべきなり。其れ或いは周を繼ぐ者は、百世と雖も知るべきなり」
「子張が問うた。『十世代先の王朝のことが分かりましょうか』 先生は答えられた。
『殷王朝は夏王朝の礼式を参考とした上で、そこに換骨奪胎を加えたことが分かる。
周もまた殷の礼式を参考とした上でに、そこに換骨奪胎を加えている。周王朝の
後を継ぐものは、たとえ百世代の後までもその様相を察知ことができるする』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・為政第二・二三より)
「民を殃する者は、堯舜の世に於いては容れられず」
「民にわざわいをもたらすようなやからは、堯舜のような聖王が
治められる世においては、当人やその言葉が受け入れられることもない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・八より)
「民にわざわいをもたらすようなやからは、堯舜のような聖王が
治められる世においては、当人やその言葉が受け入れられることもない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・八より)
神的なもの、霊的なものに実用性を求めることからして、下衆だろう。
実務は人が為すものであり、神霊はただそれを見守るのみ。
日月星辰の運行のように恒久不変なるものとしての神霊への畏敬により、
われわれ人間自身が妄動を排した清廉な振る舞いを守るということはあっても。
「皇天上帝名山大川四方の神に共し、以って宋廟社稷の靈を祠り、以て民の為めに福を祈る」
「皇天の上帝や名山大川四方の神に供え物をすることで社稷宋廟の霊を祭り、天下万民に福徳を賜れるよう祈る。
(山水のような実物の世界と神霊を同等のものとして扱い、福徳を祈りはするものの努力は自分たちで行う)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
実務は人が為すものであり、神霊はただそれを見守るのみ。
日月星辰の運行のように恒久不変なるものとしての神霊への畏敬により、
われわれ人間自身が妄動を排した清廉な振る舞いを守るということはあっても。
「皇天上帝名山大川四方の神に共し、以って宋廟社稷の靈を祠り、以て民の為めに福を祈る」
「皇天の上帝や名山大川四方の神に供え物をすることで社稷宋廟の霊を祭り、天下万民に福徳を賜れるよう祈る。
(山水のような実物の世界と神霊を同等のものとして扱い、福徳を祈りはするものの努力は自分たちで行う)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
人間の欲望を全肯定して、その無制限な進行を鼓舞する聖書教からすれば、
欲望も愛も否定し尽くしての涅槃静寂を掲げる本格仏教などのほうが、精神面で対蹠関係にあるといえ、
愛や欲望を全否定はしないものの、よく矯正された仁義などとしてのみ認める儒学が、
精神面の方向性においてまで、聖書教との対蹠関係にあるとはいえない。
にもかかわらず、仏典ではなく儒学の正典である四書五経こそは、
聖書教のドグマである犯罪聖書と決定的に相反する記述の結集となっている。
それは、仏教が基本はあくまで出家主義の超俗志向であるのに対し、儒学は在家主義の世俗志向であり、
俗世において人々がどうあるべきかこそを主要に述べているからで、形而上の超越神などを
あげつらいながらも、あくまでその超越神が俗世を創世したという説を犯罪聖書も主題としているから。
俗世において人々がどうあるべきかという点において、犯罪聖書は「犯罪に手を染めてでもいいから
とにかく欲望のおもむくままでいろ」とするのに対し、四書五経は「犯罪ぐらいには手を染めない
最低限の品性を保った道徳的な人間でいなさい」とする。だから両者の記述はことごとく相反し、
どちらかを立てる以上はもう一方が必ず立たない。環境分けということが、これら同士にはあり得ないから。
「逸欲を教うること無きは、有邦なり」
「人々に放逸や貪欲をけしかけないのが、邦を保っていく上での肝要である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・皋陶謨より)
欲望も愛も否定し尽くしての涅槃静寂を掲げる本格仏教などのほうが、精神面で対蹠関係にあるといえ、
愛や欲望を全否定はしないものの、よく矯正された仁義などとしてのみ認める儒学が、
精神面の方向性においてまで、聖書教との対蹠関係にあるとはいえない。
にもかかわらず、仏典ではなく儒学の正典である四書五経こそは、
聖書教のドグマである犯罪聖書と決定的に相反する記述の結集となっている。
それは、仏教が基本はあくまで出家主義の超俗志向であるのに対し、儒学は在家主義の世俗志向であり、
俗世において人々がどうあるべきかこそを主要に述べているからで、形而上の超越神などを
あげつらいながらも、あくまでその超越神が俗世を創世したという説を犯罪聖書も主題としているから。
俗世において人々がどうあるべきかという点において、犯罪聖書は「犯罪に手を染めてでもいいから
とにかく欲望のおもむくままでいろ」とするのに対し、四書五経は「犯罪ぐらいには手を染めない
最低限の品性を保った道徳的な人間でいなさい」とする。だから両者の記述はことごとく相反し、
どちらかを立てる以上はもう一方が必ず立たない。環境分けということが、これら同士にはあり得ないから。
「逸欲を教うること無きは、有邦なり」
「人々に放逸や貪欲をけしかけないのが、邦を保っていく上での肝要である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・皋陶謨より)
農業に、豊作と凶作の違いがあることも聖書作者は知らなかったのか。
世間知らずとかいう以前に、根本的なところで無知な奴らだったんだ。
「富歳には子弟に韡多く、凶歳には子弟に暴多し。天の才を降すこと爾くのごとく殊なるに非ざるなり。
其の心を陷溺せしむる所以の者の然れるなり。今夫れ麰麥、種を播きて之れを耰わんに、
其の地同じく、之れを樹うるの時も同じなれば、浡然として生じ、日至の時に至りて皆な熟せん。
雖し同じからざる有れば、則ち地に肥磽有り、雨露の養い、人事の齊しからざればなり」
「作物が豊作の年には、若者にも善良で頼もしい者が多く、凶作の年には乱暴で悪事を働く者が多い。
しかしこれは、先天的な才覚に極端な差異があったりするからではなく、彼らの心を惑わせるような環境の違いがあるからだ。
たとえば、大麦の種を撒いてその上に土をかけたとする。撒いた土地も一緒で、その時期も同じであるなら、
しばらくすると芽を出し、夏至の頃にはみな熟するようになる。もし実の熟し方などに差異があるとすれば、
それは土地の肥え方や雨露による潤い方、農作者の労務などに均しからざる点があったからだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句上・七より)
世間知らずとかいう以前に、根本的なところで無知な奴らだったんだ。
「富歳には子弟に韡多く、凶歳には子弟に暴多し。天の才を降すこと爾くのごとく殊なるに非ざるなり。
其の心を陷溺せしむる所以の者の然れるなり。今夫れ麰麥、種を播きて之れを耰わんに、
其の地同じく、之れを樹うるの時も同じなれば、浡然として生じ、日至の時に至りて皆な熟せん。
雖し同じからざる有れば、則ち地に肥磽有り、雨露の養い、人事の齊しからざればなり」
「作物が豊作の年には、若者にも善良で頼もしい者が多く、凶作の年には乱暴で悪事を働く者が多い。
しかしこれは、先天的な才覚に極端な差異があったりするからではなく、彼らの心を惑わせるような環境の違いがあるからだ。
たとえば、大麦の種を撒いてその上に土をかけたとする。撒いた土地も一緒で、その時期も同じであるなら、
しばらくすると芽を出し、夏至の頃にはみな熟するようになる。もし実の熟し方などに差異があるとすれば、
それは土地の肥え方や雨露による潤い方、農作者の労務などに均しからざる点があったからだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句上・七より)
「種を撒く」という比喩が、大多数の民衆が従事する「産業」であることからも、
民衆のハートを鷲づかみにする魂胆までもが見え透いているわけだが、
政産一致を説く墨家の徒であったらしい許子の意見に対する孟子の反論として、
以下のようなものもある。(長いので原文は載せず、訳文を改行して二つに分ける)
「陳相が孟子に会い、許行の言葉を引き合いに出しつつ言った。
『滕の殿様はなかなかに賢いお方です。しかしながら、未だ真の道義を知っているとは言えません。
許氏の言うことには、賢者は民と共に並び耕して自ら育てた穀物を食し、朝晩の自炊も行いながら世を治めるものだといいます。
ところが、今の滕には米倉も金蔵もあり、これは要するに君主が民の労働に頼って自らを養ってもらっているということです。
どうしてこれが賢いなどと言えましょうか』
孟子は答えて言った。『許氏は必ず自ら穀物の種を撒いて育て、しかる後に自ら食するのか』
『そうです』
『許氏は必ず布を織ってからそれを着るのか』
『いえ、織って着るのではなく、毛皮の衣を着ています』
『許氏は(為政者の正装である)冠をかぶっているのか』
『はい』
『どんな冠をかぶっているのか』
『白絹の簡素なものをかぶっています』
『では、その白絹は自分で織っているのか』
『いえ、自分で織ってはいませんが、自ら耕し育てた穀物と白絹を物々交換しています』
『なぜ許氏は自分で白絹を織らないのか』
『農業の妨げになるからです』
『許氏は釜や甑で煮炊きし、鋤や鍬などの金物で耕しているのではないのか』
『そうです』
『ではそれらの道具を自分で作っているのだろうか』
『いえ、やはり自分で作ってはいませんが、自らの穀物と交換して得たものです』
民衆のハートを鷲づかみにする魂胆までもが見え透いているわけだが、
政産一致を説く墨家の徒であったらしい許子の意見に対する孟子の反論として、
以下のようなものもある。(長いので原文は載せず、訳文を改行して二つに分ける)
「陳相が孟子に会い、許行の言葉を引き合いに出しつつ言った。
『滕の殿様はなかなかに賢いお方です。しかしながら、未だ真の道義を知っているとは言えません。
許氏の言うことには、賢者は民と共に並び耕して自ら育てた穀物を食し、朝晩の自炊も行いながら世を治めるものだといいます。
ところが、今の滕には米倉も金蔵もあり、これは要するに君主が民の労働に頼って自らを養ってもらっているということです。
どうしてこれが賢いなどと言えましょうか』
孟子は答えて言った。『許氏は必ず自ら穀物の種を撒いて育て、しかる後に自ら食するのか』
『そうです』
『許氏は必ず布を織ってからそれを着るのか』
『いえ、織って着るのではなく、毛皮の衣を着ています』
『許氏は(為政者の正装である)冠をかぶっているのか』
『はい』
『どんな冠をかぶっているのか』
『白絹の簡素なものをかぶっています』
『では、その白絹は自分で織っているのか』
『いえ、自分で織ってはいませんが、自ら耕し育てた穀物と白絹を物々交換しています』
『なぜ許氏は自分で白絹を織らないのか』
『農業の妨げになるからです』
『許氏は釜や甑で煮炊きし、鋤や鍬などの金物で耕しているのではないのか』
『そうです』
『ではそれらの道具を自分で作っているのだろうか』
『いえ、やはり自分で作ってはいませんが、自らの穀物と交換して得たものです』
『穀物を道具と取り替えることが、道具の作り手に頼ることにはならないというのなら、道具の作り手たちが穀物を
交換で得ることも穀物の作り手に頼ることにはならないだろうな。それで、どうして許氏は自分で道具を作らないのだろう。
何もかもを自分で作って家の中に蓄えておき、必要なときに自由に持ち出せるようにしたほうが便利なはずなのに、
なぜわざわざ工民と交易などをするのだろうか。よくもまあ、許氏はそんな面倒なことをするものだな(皮肉気味)』
『道具を作るような高度な仕事は、とてもとても田畑を耕しながらできるものではありませんから』
『では、なぜ全世界を治めることばかりが、田畑を耕すことの片手間でもきるのか。
この世には大人の為すべき仕事もある一方で、小人の為すべき仕事もある。それでいてしかも、
職人の仕事などのように、片手間ではできないような専門職もある。もし何もかもの仕事をすべての人間に
課したならば、ただいたずらに誰しもを疲れさせるだけになってしまう。だからある者は心を労するような仕事をし、
ある者は力を労するような仕事をするといった、分業を行うことが適切であるとされる(左伝・襄公九年など参照)。
心を労するものは人を治める立場となり、力を労する者は人に治められる立場となる一方で、人に治められる者こそは
人々を食わせ、人を治める者こそは人々に食わされるようになる。これこそは全世界に共通の道義というものだ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・四より)
農工民の仕事などとも同じように、政治もまた片手間では覚束ない専門職だから、
為政者自身は政治業に専念するべきであって、そのために物をもらったり食わせてもらったりする立場ともなる。
商売人が本業である商売の片手間に、PHPの抄訳「論語」や抄訳「老子」なんか読みかじりながらできるほど、
政治も甘い仕事じゃないってことだ。(もちろん宗教家が片手間でできることでもない)
交換で得ることも穀物の作り手に頼ることにはならないだろうな。それで、どうして許氏は自分で道具を作らないのだろう。
何もかもを自分で作って家の中に蓄えておき、必要なときに自由に持ち出せるようにしたほうが便利なはずなのに、
なぜわざわざ工民と交易などをするのだろうか。よくもまあ、許氏はそんな面倒なことをするものだな(皮肉気味)』
『道具を作るような高度な仕事は、とてもとても田畑を耕しながらできるものではありませんから』
『では、なぜ全世界を治めることばかりが、田畑を耕すことの片手間でもきるのか。
この世には大人の為すべき仕事もある一方で、小人の為すべき仕事もある。それでいてしかも、
職人の仕事などのように、片手間ではできないような専門職もある。もし何もかもの仕事をすべての人間に
課したならば、ただいたずらに誰しもを疲れさせるだけになってしまう。だからある者は心を労するような仕事をし、
ある者は力を労するような仕事をするといった、分業を行うことが適切であるとされる(左伝・襄公九年など参照)。
心を労するものは人を治める立場となり、力を労する者は人に治められる立場となる一方で、人に治められる者こそは
人々を食わせ、人を治める者こそは人々に食わされるようになる。これこそは全世界に共通の道義というものだ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・四より)
農工民の仕事などとも同じように、政治もまた片手間では覚束ない専門職だから、
為政者自身は政治業に専念するべきであって、そのために物をもらったり食わせてもらったりする立場ともなる。
商売人が本業である商売の片手間に、PHPの抄訳「論語」や抄訳「老子」なんか読みかじりながらできるほど、
政治も甘い仕事じゃないってことだ。(もちろん宗教家が片手間でできることでもない)
こっちが原文。
「陳相孟子を見、許行の言を道いて曰く、滕君は則ち誠に賢君なり。然りと雖も未だ道を聞かざるなり。
賢者は民と與に並び耕して食し、饔飧して治む。今滕には倉廩も府庫も有り、則ち是れ民に りて以て自ら養うなり。
惡にか賢なるを得ん。孟子曰く、許子は必ず粟を種えて而る後に食するか。曰く、然り。許子は必ず布を織りて而る後に衣るか。
曰く、否、許子は褐を衣る。許子は冠するか。曰く、冠する。曰く、奚を冠するか。曰く、素を冠する。曰く、自ら之れを織るか。
曰く、否、粟を以て之れに易う。曰く、許子は奚為れぞ自ら織らざる。曰く、耕すに害あり。曰く、許子は釜甑を以て爨ぎ、
鐵を以て耕すか。曰く、然り。自ら之れを為るか。曰く、否、粟を以て之れに易う。粟を以て械器に易うる者を、
陶冶に りると為さずんば、陶冶も亦た其の械器を以て粟に易うる者も、豈に農夫に ると為さざるや。
且つ許子は何すれぞ陶冶を為さざる。皆な諸れを其の宮中に取りて之れを用いずして、何すれぞ紛紛然として
百工と與に交易を為す。何すれぞ許子の煩を之れ憚らざるは。曰く、百工の事は、固より耕し且つ為すべからざればなり。
然れば則ち天下を治むることのみ、独り耕し且つ為すべけんや。大人の事ありて、小人の事あり。且つ一人の身にして
百工の為す所備わる。如し必ず自ら為して後之を用いしめんとすれば、是れ天下を率いて路しむるなり。
故に或るものは心を労し、或るものは力を労すと曰うなり。心を労する者は人を治め、力を労する者は人に治めらる。
人に治めらるる者は人を食わせ、人を治むる者は人に食わさるるは、天下の通義なり」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・四より)
「陳相孟子を見、許行の言を道いて曰く、滕君は則ち誠に賢君なり。然りと雖も未だ道を聞かざるなり。
賢者は民と與に並び耕して食し、饔飧して治む。今滕には倉廩も府庫も有り、則ち是れ民に りて以て自ら養うなり。
惡にか賢なるを得ん。孟子曰く、許子は必ず粟を種えて而る後に食するか。曰く、然り。許子は必ず布を織りて而る後に衣るか。
曰く、否、許子は褐を衣る。許子は冠するか。曰く、冠する。曰く、奚を冠するか。曰く、素を冠する。曰く、自ら之れを織るか。
曰く、否、粟を以て之れに易う。曰く、許子は奚為れぞ自ら織らざる。曰く、耕すに害あり。曰く、許子は釜甑を以て爨ぎ、
鐵を以て耕すか。曰く、然り。自ら之れを為るか。曰く、否、粟を以て之れに易う。粟を以て械器に易うる者を、
陶冶に りると為さずんば、陶冶も亦た其の械器を以て粟に易うる者も、豈に農夫に ると為さざるや。
且つ許子は何すれぞ陶冶を為さざる。皆な諸れを其の宮中に取りて之れを用いずして、何すれぞ紛紛然として
百工と與に交易を為す。何すれぞ許子の煩を之れ憚らざるは。曰く、百工の事は、固より耕し且つ為すべからざればなり。
然れば則ち天下を治むることのみ、独り耕し且つ為すべけんや。大人の事ありて、小人の事あり。且つ一人の身にして
百工の為す所備わる。如し必ず自ら為して後之を用いしめんとすれば、是れ天下を率いて路しむるなり。
故に或るものは心を労し、或るものは力を労すと曰うなり。心を労する者は人を治め、力を労する者は人に治めらる。
人に治めらるる者は人を食わせ、人を治むる者は人に食わさるるは、天下の通義なり」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・四より)
思わず舌を巻くほどにも見事な、孟子の弁論術。
そこが孟子の凄い所でもあるし、また巧言令色に巧みであればこそ
「亜聖」止まりとなってしまった所以でもある。
「論語」はもう大概を引用し尽くした感があるが、「孟子」のほうはまだまだ在庫が有り余っている。
聖書信者のほうの信仰生命が尽きる前に、どしどし引用しとかなくちゃな。
そこが孟子の凄い所でもあるし、また巧言令色に巧みであればこそ
「亜聖」止まりとなってしまった所以でもある。
「論語」はもう大概を引用し尽くした感があるが、「孟子」のほうはまだまだ在庫が有り余っている。
聖書信者のほうの信仰生命が尽きる前に、どしどし引用しとかなくちゃな。
王侯が、決して「生贄」などであってはならないんだ。
為政がちゃんと一つの専門職として認められて、職分を果たすに相応の待遇も受けてこそ、
政治家の側も立派な国家や社会の統治を実現することができる。
王侯の側が、自分たち自身から貪欲で、民からも無制限に財物を奪い取るのでは「暴君」もいいとこだが、
それとは逆に、庶民の側が、王侯や為政者をけなし倒して、利権を掠め取る相手とばかり見なし、
挙句には断頭や十字架への磔などに処してしまうのでは、それこそ民の側が「暴民」であるというもの。
世の中が暴君と暴民の両極に振れきるような惨状を避けるためには、為政者はもちろん清貧や謙譲を
旨とするべきだが、民のほうもまた、為政者を自分たちの生贄と見なすような不埒さを捨てて、
王侯でもあろうような人々には、自分たちから進んで、大喜びで美食や名品を供するぐらいでなければならない。
それでこそ、民だけでなく為政者の側も、自分たちの職分を全うできるわけだから。
為政がちゃんと一つの専門職として認められて、職分を果たすに相応の待遇も受けてこそ、
政治家の側も立派な国家や社会の統治を実現することができる。
王侯の側が、自分たち自身から貪欲で、民からも無制限に財物を奪い取るのでは「暴君」もいいとこだが、
それとは逆に、庶民の側が、王侯や為政者をけなし倒して、利権を掠め取る相手とばかり見なし、
挙句には断頭や十字架への磔などに処してしまうのでは、それこそ民の側が「暴民」であるというもの。
世の中が暴君と暴民の両極に振れきるような惨状を避けるためには、為政者はもちろん清貧や謙譲を
旨とするべきだが、民のほうもまた、為政者を自分たちの生贄と見なすような不埒さを捨てて、
王侯でもあろうような人々には、自分たちから進んで、大喜びで美食や名品を供するぐらいでなければならない。
それでこそ、民だけでなく為政者の側も、自分たちの職分を全うできるわけだから。
幸せは、良くも悪しくも草花のようなもの。
一時に生い茂り、咲き誇って、ついには枯れ萎む。
そうであることを受け入れてはかない福徳を楽しむもよし。
それとは別に、禍福全般を超越した真理世界に赴くもよし。
果てしない災禍を幸福だなどと思い込むことだけは、なし。
「習習たる谷風、維れ風に雨。
將に恐れ將に懼る、維れ予れと女じと。
將に安んじ將に樂しみ、女じ轉じて予を棄つ。
習習たる谷風、維れ風に頽。
將に恐れ將に懼る、予れを懷に郈けり。
將に安んじ將に樂しみ、予を棄てて遺れたるが如し。
習習たる谷風、維れ山に崔嵬。
草も死れざるは無く、木も萎まざるは無し。
我が大鄹を忘れて、我が小怨を思う」
「シュウシュウと谷間から冷風が吹きすさび、風雨も甚だし。
何もかもを恐れていた頃に、あなたは私といてくれた。
今はもはや安楽のとき、あなたは一転して私を捨て去る。
シュウシュウと谷間から冷風が吹きすさび、つむじ風も巻き起こる。
何もかもを懼れていた頃に、あなたは私を懐に抱いてくれた。
今はもはや安楽のとき、もはや私を捨てて忘れ去ったかのよう。
シュウシュウと谷間から冷風が吹きすさび、山には嵐も吹き荒れる。
草も枯れないでいることがなく、花木も萎まないものはない(そのようにして幸せも吹っ飛んだ)。
私が与えた情けは忘れて、私への小さな恨みばかりを募らせて。(夫に棄てられた妻の歌)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・谷風)
一時に生い茂り、咲き誇って、ついには枯れ萎む。
そうであることを受け入れてはかない福徳を楽しむもよし。
それとは別に、禍福全般を超越した真理世界に赴くもよし。
果てしない災禍を幸福だなどと思い込むことだけは、なし。
「習習たる谷風、維れ風に雨。
將に恐れ將に懼る、維れ予れと女じと。
將に安んじ將に樂しみ、女じ轉じて予を棄つ。
習習たる谷風、維れ風に頽。
將に恐れ將に懼る、予れを懷に郈けり。
將に安んじ將に樂しみ、予を棄てて遺れたるが如し。
習習たる谷風、維れ山に崔嵬。
草も死れざるは無く、木も萎まざるは無し。
我が大鄹を忘れて、我が小怨を思う」
「シュウシュウと谷間から冷風が吹きすさび、風雨も甚だし。
何もかもを恐れていた頃に、あなたは私といてくれた。
今はもはや安楽のとき、あなたは一転して私を捨て去る。
シュウシュウと谷間から冷風が吹きすさび、つむじ風も巻き起こる。
何もかもを懼れていた頃に、あなたは私を懐に抱いてくれた。
今はもはや安楽のとき、もはや私を捨てて忘れ去ったかのよう。
シュウシュウと谷間から冷風が吹きすさび、山には嵐も吹き荒れる。
草も枯れないでいることがなく、花木も萎まないものはない(そのようにして幸せも吹っ飛んだ)。
私が与えた情けは忘れて、私への小さな恨みばかりを募らせて。(夫に棄てられた妻の歌)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・谷風)
いつかは枯れ萎む草花のように儚い存在に過ぎない小人が、偉大なる何者かの感化を受けて
無限の喜びを手に入れるという意見構造自体は、下の記述と犯罪聖書などとであまり変わりはしない。
ただ、小人を感化する「偉大なる何者か」が、犯罪聖書のほうは形而上の虚構神であるのに対し、
四書五経の場合は、堅実な勉学研鑽をやり抜いた現実上の聖人君子である点が、決定的に異なる。
人は、無限の源泉ほどにも果てしない聡明さや叡知さを自力で会得することができる生き物であり、
「そんなことは無理だ」と始めから決め付けたりすることが、すでに精神の不具ともなる。
そりゃあ、君子の保護を受ける小人止まりとなっても、全く仕方のない自業自得だ。
「唯だ天下の至聖のみ、能く聰明睿知にして以て臨むこと有るに足り、
𨛗裕温柔にして以て容るること有るに足り、發強剛毅にして以て執る有るに足り、
齊莊中正にして以て敬する有るに足り、文理密察にして以て別つ有るに足ると為す。
溥博淵泉として、而うして時に之れを出だす。溥博は天の如く、淵泉は淵の如し。
見えて民に敬せざる莫く、言いて民に信ぜざる莫く、行いて民に説ばざる莫し」
「ただ天下に冠たる聖者のみが、よく聡明さと叡知とを以てことに臨むことができ、
寛大さや温柔さを以て物事を容認することができ、頑強さや剛毅さによって処断することができ、
慎み深い荘重さや中正さを以て他者を敬うことができ、文理への明察によって分別を利かせることができる。
その姿は遍く広遠にして、深い深い源泉のようであり、それでいて臨機応変な出処すらもが可能である。
遍く広遠であることはまるで天のようであり、深き源泉からは無限に水が噴き出るかのようであり、
その姿を見て民が敬せざることはなく、その言葉を聞いて民が聞かないことはなく、行って民が喜ばないことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・三一より)
無限の喜びを手に入れるという意見構造自体は、下の記述と犯罪聖書などとであまり変わりはしない。
ただ、小人を感化する「偉大なる何者か」が、犯罪聖書のほうは形而上の虚構神であるのに対し、
四書五経の場合は、堅実な勉学研鑽をやり抜いた現実上の聖人君子である点が、決定的に異なる。
人は、無限の源泉ほどにも果てしない聡明さや叡知さを自力で会得することができる生き物であり、
「そんなことは無理だ」と始めから決め付けたりすることが、すでに精神の不具ともなる。
そりゃあ、君子の保護を受ける小人止まりとなっても、全く仕方のない自業自得だ。
「唯だ天下の至聖のみ、能く聰明睿知にして以て臨むこと有るに足り、
𨛗裕温柔にして以て容るること有るに足り、發強剛毅にして以て執る有るに足り、
齊莊中正にして以て敬する有るに足り、文理密察にして以て別つ有るに足ると為す。
溥博淵泉として、而うして時に之れを出だす。溥博は天の如く、淵泉は淵の如し。
見えて民に敬せざる莫く、言いて民に信ぜざる莫く、行いて民に説ばざる莫し」
「ただ天下に冠たる聖者のみが、よく聡明さと叡知とを以てことに臨むことができ、
寛大さや温柔さを以て物事を容認することができ、頑強さや剛毅さによって処断することができ、
慎み深い荘重さや中正さを以て他者を敬うことができ、文理への明察によって分別を利かせることができる。
その姿は遍く広遠にして、深い深い源泉のようであり、それでいて臨機応変な出処すらもが可能である。
遍く広遠であることはまるで天のようであり、深き源泉からは無限に水が噴き出るかのようであり、
その姿を見て民が敬せざることはなく、その言葉を聞いて民が聞かないことはなく、行って民が喜ばないことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・三一より)
浄土教とキリスト教も、他力本願の信仰主義であるところなどが共通しているが、
もちろん阿弥陀仏を信仰することと、キリストを信仰することも全く違う。
「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲ひて、
乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」
(「浄土真宗聖典」仏説無量寿経より)
伝統的に、阿弥陀様の本願とされる「無量寿経」法蔵発願四十八願のうちの第十八願は上記の如くであり、
五逆とは「殺父」「殺母」「殺阿羅漢」「出仏身血」「破和合僧」の五つであり、誹謗正法はそのまま仏法への誹謗に当たる。
親族兄弟での殺し合いや、諸行無常の仏法にも反する死者の復活を予言する教典を信じ、自分たちの教義以外を認めようとはしない
キリスト教徒のあり方は、弥陀の本願である十八願にも悖るものであるため、念仏によってキリスト教徒が救われることもない。
四書五経だけでなく、比較的程度の低い世俗志向の仏教宗派に当たる浄土教の教義とも、聖書教義は相反している。
それに願いを託したならば、四書五経や念仏に基づいて喜びに満たされることも、決して無い。
「其れ雨ふれ其れ雨ふれ、杲杲として出ずるの日あり。
願いて言に伯を思うて、首の疾いに甘心す。
焉んぞ諼草を得て、言に之れ背を樹えん。
願いて言に伯を思いて、我が心をして痗ましむ」
「雨雨降れ降れと願い乞うても、かんかんと日照りばかりが続く。
常に夫が帰ってくることを願い想っているのに、頭痛にばかり飽き足りる。
どこかで憂いを忘れる薬草でも手に入れて、家の裏庭にでも植えておきたいもの。
常に夫が帰ってくることばかりを願い想っていて、私の心ばかりが病み患う。
(願いをやたらと募らせること自体が、心を病ましめるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・衛風・伯兮より)
もちろん阿弥陀仏を信仰することと、キリストを信仰することも全く違う。
「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲ひて、
乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」
(「浄土真宗聖典」仏説無量寿経より)
伝統的に、阿弥陀様の本願とされる「無量寿経」法蔵発願四十八願のうちの第十八願は上記の如くであり、
五逆とは「殺父」「殺母」「殺阿羅漢」「出仏身血」「破和合僧」の五つであり、誹謗正法はそのまま仏法への誹謗に当たる。
親族兄弟での殺し合いや、諸行無常の仏法にも反する死者の復活を予言する教典を信じ、自分たちの教義以外を認めようとはしない
キリスト教徒のあり方は、弥陀の本願である十八願にも悖るものであるため、念仏によってキリスト教徒が救われることもない。
四書五経だけでなく、比較的程度の低い世俗志向の仏教宗派に当たる浄土教の教義とも、聖書教義は相反している。
それに願いを託したならば、四書五経や念仏に基づいて喜びに満たされることも、決して無い。
「其れ雨ふれ其れ雨ふれ、杲杲として出ずるの日あり。
願いて言に伯を思うて、首の疾いに甘心す。
焉んぞ諼草を得て、言に之れ背を樹えん。
願いて言に伯を思いて、我が心をして痗ましむ」
「雨雨降れ降れと願い乞うても、かんかんと日照りばかりが続く。
常に夫が帰ってくることを願い想っているのに、頭痛にばかり飽き足りる。
どこかで憂いを忘れる薬草でも手に入れて、家の裏庭にでも植えておきたいもの。
常に夫が帰ってくることばかりを願い想っていて、私の心ばかりが病み患う。
(願いをやたらと募らせること自体が、心を病ましめるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・衛風・伯兮より)
天下万民を救おうとする心持ちと、自分の気に入った相手ばかりを救おうとする心持ちとでは
相当な格差があるもので、四書五経は確かに、天下万民を救う場合に限っての心がけを説いている。
一方、犯罪聖書のほうはといえば、片や万民を救うようなことを言ったり、片や気に入った
相手だけを救うようなことを言ったりの二枚舌を使い分けている。ただそれだけでも、
天下万民を救うことに専念する心がけまでは備えられていないことが明白となっている。
「思れ天下の民、匹夫匹婦も堯舜の澤を被らざる者有れば、己れを推して之れを
溝の中に内るるが如し。其の自ら任ずるに天下の重きを以てすること此くの如し」
「殷湯王の重臣伊尹は、天下の民のうちで、たとえそれが最も賤しい匹夫匹婦の類いであろうとも、
堯舜時代におけるような治世の恩沢に与ることのできない者が一人でもいたならば、まるで自分こそは
その者を側溝の中に落とし込んで苦しませている張本人であるかのような自責の念にかられていた。
それほどもの心がけを以てして初めて、天下を統治する重任を委ねられることをも受け入れたのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)
相当な格差があるもので、四書五経は確かに、天下万民を救う場合に限っての心がけを説いている。
一方、犯罪聖書のほうはといえば、片や万民を救うようなことを言ったり、片や気に入った
相手だけを救うようなことを言ったりの二枚舌を使い分けている。ただそれだけでも、
天下万民を救うことに専念する心がけまでは備えられていないことが明白となっている。
「思れ天下の民、匹夫匹婦も堯舜の澤を被らざる者有れば、己れを推して之れを
溝の中に内るるが如し。其の自ら任ずるに天下の重きを以てすること此くの如し」
「殷湯王の重臣伊尹は、天下の民のうちで、たとえそれが最も賤しい匹夫匹婦の類いであろうとも、
堯舜時代におけるような治世の恩沢に与ることのできない者が一人でもいたならば、まるで自分こそは
その者を側溝の中に落とし込んで苦しませている張本人であるかのような自責の念にかられていた。
それほどもの心がけを以てして初めて、天下を統治する重任を委ねられることをも受け入れたのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)
権力犯罪者の跳梁跋扈を許すことで、権力道徳者の活躍の余地を奪い去るか、
権力道徳者の活躍を認めることで、権力犯罪者を絶滅させるかのいずれかでしかあり得ない。
権力犯罪者の跳梁跋扈をも許す世の中は、体裁上の最平等が謳われる一方で、
重権力犯罪者たちの放辟邪侈によって多くの人々が破滅に陥れられるのに対し、
権力道徳者の活躍が認められる世の中は、社会的序列が重んじられるようになる一方で、
権力犯罪者の根絶によって、最下級の匹夫匹婦ですらもが生活を保障されるようになる。
どちらもあり得る一方で、どちらかでしかあり得ない。
権力道徳者の活躍を認めることで、権力犯罪者を絶滅させるかのいずれかでしかあり得ない。
権力犯罪者の跳梁跋扈をも許す世の中は、体裁上の最平等が謳われる一方で、
重権力犯罪者たちの放辟邪侈によって多くの人々が破滅に陥れられるのに対し、
権力道徳者の活躍が認められる世の中は、社会的序列が重んじられるようになる一方で、
権力犯罪者の根絶によって、最下級の匹夫匹婦ですらもが生活を保障されるようになる。
どちらもあり得る一方で、どちらかでしかあり得ない。
俺の家自体が元々武家の家系で、詳細な系図や年譜も残っているから分かるんだが、
武士こそは、主君の命などによって転々と居住地を替えたりすることが多かったようだ。
百姓とかのほうが、むしろ土に根ざして耕作を行ったりすることからも、
一定の土地に執着することが多かったようで、自分の土地にやたらと執着する
今の日本人の性向なども、封建社会における武家の封土に対するこだわりなどとは無縁だ。
徳川将軍家からして、移封時には荒野原も同然だった江戸を、自力で開墾整備することで
世界最大の都市へとものし上げたわけで、既成上の土地の良し悪しに執着するのも、
やはり他力本願ばかりにもっぱらな、小人にとってこその性向であるといえる。
「溥天の下に、王土に非ざるは莫く、
率土の濱に、王臣に非ざるは莫し。
大夫の均しからずして、我れのみ事に從いて獨り賢なり」
「あまねく天下に、王君の土地でないものはなく、土の果てのほとりにいようとも、王君の臣下でないものはない。
にもかかわらず、部分の利権を貪るものが均衡の平等を破ってばかり。ただ私ばかりが為すべき事に従って独り賢くある」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・北山之什・北山より)
武士こそは、主君の命などによって転々と居住地を替えたりすることが多かったようだ。
百姓とかのほうが、むしろ土に根ざして耕作を行ったりすることからも、
一定の土地に執着することが多かったようで、自分の土地にやたらと執着する
今の日本人の性向なども、封建社会における武家の封土に対するこだわりなどとは無縁だ。
徳川将軍家からして、移封時には荒野原も同然だった江戸を、自力で開墾整備することで
世界最大の都市へとものし上げたわけで、既成上の土地の良し悪しに執着するのも、
やはり他力本願ばかりにもっぱらな、小人にとってこその性向であるといえる。
「溥天の下に、王土に非ざるは莫く、
率土の濱に、王臣に非ざるは莫し。
大夫の均しからずして、我れのみ事に從いて獨り賢なり」
「あまねく天下に、王君の土地でないものはなく、土の果てのほとりにいようとも、王君の臣下でないものはない。
にもかかわらず、部分の利権を貪るものが均衡の平等を破ってばかり。ただ私ばかりが為すべき事に従って独り賢くある」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・北山之什・北山より)
病を治療するところではなく、病にかからせるところから、
罪を浄化するところではなく、罪を犯させるところから、犯罪聖書の領分でこそある。
そもそも始めから罪を犯させず、病にもかからせないように努める、
それでこそ人としての最善が尽くされる。当たり前っちゃあ当たり前だが、
マッチポンプの火事場泥棒のうまみを覚えたならず者どもにはそれも分からず、
最善を尽くすどころか、人としての最悪の選択肢を尽くすようにすらなる。
下敷きのような薄手の平板を机の上などに直角に立てれば、必ず表か裏かのどちらかに倒れる。
マッチポンプを未然に排した徳性の堅持に努めることと、マッチポンプの積み重ねに陥ることとは、
この下敷きの表と裏のようなもので、どちらか一方でしかあり得ない上に、どちらかにこそ振れきるもの。
「どちらもあり」というようなみそくそ状態を保とうとするのも、相当に危ういこととなる。
「子、疾病す。子路禱を請う。子曰く、諸れ有るや。子路對えて曰く、
之れ有り。誄に曰く、爾じを上下の神祇に禱る。子曰く、丘の禱るや久し」
「先生が重病にかかられた。弟子の子路が快癒のための祈祷を申し出た。先生は言われた。『何かいい方法があるのか』
子路は答えた。『ございます。〔汝の快癒を天地上下の神祇に奉る〕と唱えるのです』 先生。『それはもう前からやっている』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・三四)
罪を浄化するところではなく、罪を犯させるところから、犯罪聖書の領分でこそある。
そもそも始めから罪を犯させず、病にもかからせないように努める、
それでこそ人としての最善が尽くされる。当たり前っちゃあ当たり前だが、
マッチポンプの火事場泥棒のうまみを覚えたならず者どもにはそれも分からず、
最善を尽くすどころか、人としての最悪の選択肢を尽くすようにすらなる。
下敷きのような薄手の平板を机の上などに直角に立てれば、必ず表か裏かのどちらかに倒れる。
マッチポンプを未然に排した徳性の堅持に努めることと、マッチポンプの積み重ねに陥ることとは、
この下敷きの表と裏のようなもので、どちらか一方でしかあり得ない上に、どちらかにこそ振れきるもの。
「どちらもあり」というようなみそくそ状態を保とうとするのも、相当に危ういこととなる。
「子、疾病す。子路禱を請う。子曰く、諸れ有るや。子路對えて曰く、
之れ有り。誄に曰く、爾じを上下の神祇に禱る。子曰く、丘の禱るや久し」
「先生が重病にかかられた。弟子の子路が快癒のための祈祷を申し出た。先生は言われた。『何かいい方法があるのか』
子路は答えた。『ございます。〔汝の快癒を天地上下の神祇に奉る〕と唱えるのです』 先生。『それはもう前からやっている』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・三四)
劣悪な犯罪寓意を美辞麗句で無理に虚飾しているから、犯罪聖書の記述はどれも遠まわしで分かりにくい。
逆に、真意をありのままに提示しても何ら疚しいところのない、道理に適った意図ばかりを込めているから、
四書五経の記述はどれも分かりやすく、分かりやすすぎてかえって侮られるほど。
妾腹の私生児という恵まれない境遇に生まれつきながらも、自らの立場を十分にわきまえて
経書の勉強や整理といった下働きに努めた孔子と、自らの不遇を受け入れられずに
自暴自棄となって、自らを「神の子」だなどと誇称し、世を破滅へと導くカルト教義を
方々に触れ回ったイエスと。境遇ではなく、本人たち自身の心がけこそが両者の雌雄を分けた。
「樂しき君子は、邦家の光なり」
「安らぎ楽しむ君子こそは、邦家の光である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・白華之什・南山有臺より。この引用は既出)
「既に君子に見えて、龍れあり光あり」
「今ここに君子にお目にかかることができて、私たち小人としても誉れ高く、光に照らされた思いです。
(生贄に捧げられたカルト神などではなく、安らぎ楽しむ現実上の君子こそは、小人をも照らし出す光となる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・白華之什・蓼蕭より)
逆に、真意をありのままに提示しても何ら疚しいところのない、道理に適った意図ばかりを込めているから、
四書五経の記述はどれも分かりやすく、分かりやすすぎてかえって侮られるほど。
妾腹の私生児という恵まれない境遇に生まれつきながらも、自らの立場を十分にわきまえて
経書の勉強や整理といった下働きに努めた孔子と、自らの不遇を受け入れられずに
自暴自棄となって、自らを「神の子」だなどと誇称し、世を破滅へと導くカルト教義を
方々に触れ回ったイエスと。境遇ではなく、本人たち自身の心がけこそが両者の雌雄を分けた。
「樂しき君子は、邦家の光なり」
「安らぎ楽しむ君子こそは、邦家の光である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・白華之什・南山有臺より。この引用は既出)
「既に君子に見えて、龍れあり光あり」
「今ここに君子にお目にかかることができて、私たち小人としても誉れ高く、光に照らされた思いです。
(生贄に捧げられたカルト神などではなく、安らぎ楽しむ現実上の君子こそは、小人をも照らし出す光となる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・白華之什・蓼蕭より)
「罪を犯させない」とか言いながら、その直後に「罪を犯したら弁護する」などとほざく論理破綻。
論理破綻自体も不義ならば、結局は罪を犯す体制を整えてやるのも不義にあたる。
罪を犯させないためには、あえて罪を許さない姿勢を貫く必要だって当然あるに決まっている。罪を犯しても
弁護してやるなんて甘いことをほざいてりゃあ、あえて罪を犯そうとする奴も現れるに決まってるじゃねえか。
過失犯などを、結局は許してやったりすることもあるにしろ、悪意をもっての故意犯などを未然に食い止めるためにも、
世を司ったりする側のほうがあえて「罪は許さない」という体裁を保っておくのが、道義的な最善措置ってもんだ。
さも犯罪マニュアルムックなどが、表向きだけ「悪用禁止」なんて掲げているぐらいに、白々しい。
そもそも犯罪マニュアルや、罪を勝手に許すカルト教義なんぞを流布するところから禁止してこそ、正義ってもんだ。
「有司に命じて法制を修め、囹圄を繕め、桎梏を具え、奸を禁止し、邪を慎み罪し、搏執を務む。理に命じて傷を瞻、創を察し、
折を視、審らかに獄訟を斷決して、必ず端平にし、有罪を戮し、斷刑を嚴にす。天地始めて肅すも、以て贏す可からず」
「資格を有する司法官に命じて法制を修め、牢屋を修繕し、桎梏を用意し、奸悪を禁止し、邪まを慎んで必ず罪と見なし、
罪ある者は必ず捕らえる。獄吏に命じて、皮肉骨髄の傷害をそれぞれ丹念に取り調べるようにして、審らかに訴えごとを取り決め、
有罪を誅戮し、刑の執行をも厳格にする。そこまでして初めて天地も静粛の気に満たされるが、もちろんやり過ぎも禁物である。
(そもそも弁護士制度のような、罪人を弁護する体裁を整えてやる所から従犯の一種であり、刑事といえば、本来は罪人への
一方的な処罰を第一の体面とすべきなのだ。その上で刑事が優秀であり、罪状の把握や酌量にも秀でているということは宜しい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
論理破綻自体も不義ならば、結局は罪を犯す体制を整えてやるのも不義にあたる。
罪を犯させないためには、あえて罪を許さない姿勢を貫く必要だって当然あるに決まっている。罪を犯しても
弁護してやるなんて甘いことをほざいてりゃあ、あえて罪を犯そうとする奴も現れるに決まってるじゃねえか。
過失犯などを、結局は許してやったりすることもあるにしろ、悪意をもっての故意犯などを未然に食い止めるためにも、
世を司ったりする側のほうがあえて「罪は許さない」という体裁を保っておくのが、道義的な最善措置ってもんだ。
さも犯罪マニュアルムックなどが、表向きだけ「悪用禁止」なんて掲げているぐらいに、白々しい。
そもそも犯罪マニュアルや、罪を勝手に許すカルト教義なんぞを流布するところから禁止してこそ、正義ってもんだ。
「有司に命じて法制を修め、囹圄を繕め、桎梏を具え、奸を禁止し、邪を慎み罪し、搏執を務む。理に命じて傷を瞻、創を察し、
折を視、審らかに獄訟を斷決して、必ず端平にし、有罪を戮し、斷刑を嚴にす。天地始めて肅すも、以て贏す可からず」
「資格を有する司法官に命じて法制を修め、牢屋を修繕し、桎梏を用意し、奸悪を禁止し、邪まを慎んで必ず罪と見なし、
罪ある者は必ず捕らえる。獄吏に命じて、皮肉骨髄の傷害をそれぞれ丹念に取り調べるようにして、審らかに訴えごとを取り決め、
有罪を誅戮し、刑の執行をも厳格にする。そこまでして初めて天地も静粛の気に満たされるが、もちろんやり過ぎも禁物である。
(そもそも弁護士制度のような、罪人を弁護する体裁を整えてやる所から従犯の一種であり、刑事といえば、本来は罪人への
一方的な処罰を第一の体面とすべきなのだ。その上で刑事が優秀であり、罪状の把握や酌量にも秀でているということは宜しい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
権力者や資本家に与えられたわずかな資本 飴玉に等しいものを善が云々悪は云々と元気に営んでいる
それが社会の現実
弱い存在は、より強い存在に尊厳を差しだして飴玉を得る
そういう小さな関係の積み重ねで社会は成り立っている
階級や階層は神の如き振る舞いを許容される(善悪を超越している)が、それは同時に人間の本性の顕在化でもある
階級や階層の差は、階級下、階層下の人間の喜びも哀しみも一願だにしない冷酷な人間をつくる
その本性は猿だか神だか分からないが、少なくとも人間的ではない
じつのところ
秩序などなかったのではないか?権力や資本に振り回されていただけなのではないか?
それが社会の現実
弱い存在は、より強い存在に尊厳を差しだして飴玉を得る
そういう小さな関係の積み重ねで社会は成り立っている
階級や階層は神の如き振る舞いを許容される(善悪を超越している)が、それは同時に人間の本性の顕在化でもある
階級や階層の差は、階級下、階層下の人間の喜びも哀しみも一願だにしない冷酷な人間をつくる
その本性は猿だか神だか分からないが、少なくとも人間的ではない
じつのところ
秩序などなかったのではないか?権力や資本に振り回されていただけなのではないか?
だから、権力犯罪聖書に支配された、一切劣悪な世の中に限っての惨状を、
さも人類社会のデフォルトみたいな捉え方をしてんじゃねえよ。
人の上に立つ権力者となったからといって、善悪をも超越したような
気になるのが、すでに「権力の魔性」に囚われた小人ならではの迷妄であり、
権力者であるなりに責任ある振る舞いを勤めることが、優良な権力道徳となる一方で、
もはややりたい放題となって世を破滅へと導くのが、劣悪な権力犯罪となる。
自分自身を超越神エホバか、さもなくばギリシャ神話のオリュンポス山の神々あたりに見立てて、
自分自身の気ままな処断によって、下民を適当に生かしたり殺したりしたとする。
それでもそのような権能を持っている権力者たち自身も、所詮は一介の人間でしかなく、
人の身でありながらそのような身勝手な振る舞いに及んだことが、ありのままに重権力犯罪ともなる。
概念の虚構によって塗り固められていた、一部の権力者の身勝手極まりない振る舞いは、
諸法実相の真理にも即して、ありのままに「単なる権力犯罪」でしかないことが露呈された。
>>324-326の孟子の発言にもあるとおり、政治もまた一つの専門職であるために、自分自身は
何も産み出さないながらも、為政者である以上は、世の中を最善の形で治めていくことに専念する
必要があり、その努力を怠るということは、さも農夫が田畑を耕さなかったり、職人が粗雑な産品しか
製作しなかったりするようなもので、為政者にあるまじき怠慢に尽きているというだけのことだ。
さも人類社会のデフォルトみたいな捉え方をしてんじゃねえよ。
人の上に立つ権力者となったからといって、善悪をも超越したような
気になるのが、すでに「権力の魔性」に囚われた小人ならではの迷妄であり、
権力者であるなりに責任ある振る舞いを勤めることが、優良な権力道徳となる一方で、
もはややりたい放題となって世を破滅へと導くのが、劣悪な権力犯罪となる。
自分自身を超越神エホバか、さもなくばギリシャ神話のオリュンポス山の神々あたりに見立てて、
自分自身の気ままな処断によって、下民を適当に生かしたり殺したりしたとする。
それでもそのような権能を持っている権力者たち自身も、所詮は一介の人間でしかなく、
人の身でありながらそのような身勝手な振る舞いに及んだことが、ありのままに重権力犯罪ともなる。
概念の虚構によって塗り固められていた、一部の権力者の身勝手極まりない振る舞いは、
諸法実相の真理にも即して、ありのままに「単なる権力犯罪」でしかないことが露呈された。
>>324-326の孟子の発言にもあるとおり、政治もまた一つの専門職であるために、自分自身は
何も産み出さないながらも、為政者である以上は、世の中を最善の形で治めていくことに専念する
必要があり、その努力を怠るということは、さも農夫が田畑を耕さなかったり、職人が粗雑な産品しか
製作しなかったりするようなもので、為政者にあるまじき怠慢に尽きているというだけのことだ。
孔子と孟子の区別も付かないのか。さすがWGIP世代。
漢和辞典で調べれば分かるが、
「魔」という字は、「人を惑わすもの」という意味を持つ。
善にしろ悪にしろ、何者かに惑わされることこそは「魔がさす」ということでもある。
しかし、善が人を惑わすなんてことはないから、「善魔」なんてものは基本ないが、
悪は人を惑わすことでこそ増長していくから、特定して「悪魔」などとも呼ばれる。
惑わし惑わされる、それは全て「悪」にとってこその領分であり、
悪魔に惑わされるのはすなわち、当人が何者かに惑わされる程度の小人に過ぎないから。
「四十不惑(為政第二・四)」という孔子の名言のとおり、人間は四十にもなれば、
あらゆる惑いを抜け出した一定の達観者になれるようにできているのであり、
未熟な若者が悪魔や美女などに惑わされるのはまだ仕方がない所があるにしろ、
権力者としての上層部付近にも立つ、四十以上の中高年が相も変わらず魔性に惑わされて
いるようなら、どこに権力犯罪への没入の不可避さを弁解する余地などがあろうか?
四十にもなって未だ魔性のとりこになってる奴らなんて、実際に見る影も
ないことからも、別に孔子の発言までもが理想論だなんてことがないのも明らか。
孟子の発言は相当に理想論も入っている所があるが、孔子の発言は至極無上な現実論。
「それはもう前からやっている」
漢和辞典で調べれば分かるが、
「魔」という字は、「人を惑わすもの」という意味を持つ。
善にしろ悪にしろ、何者かに惑わされることこそは「魔がさす」ということでもある。
しかし、善が人を惑わすなんてことはないから、「善魔」なんてものは基本ないが、
悪は人を惑わすことでこそ増長していくから、特定して「悪魔」などとも呼ばれる。
惑わし惑わされる、それは全て「悪」にとってこその領分であり、
悪魔に惑わされるのはすなわち、当人が何者かに惑わされる程度の小人に過ぎないから。
「四十不惑(為政第二・四)」という孔子の名言のとおり、人間は四十にもなれば、
あらゆる惑いを抜け出した一定の達観者になれるようにできているのであり、
未熟な若者が悪魔や美女などに惑わされるのはまだ仕方がない所があるにしろ、
権力者としての上層部付近にも立つ、四十以上の中高年が相も変わらず魔性に惑わされて
いるようなら、どこに権力犯罪への没入の不可避さを弁解する余地などがあろうか?
四十にもなって未だ魔性のとりこになってる奴らなんて、実際に見る影も
ないことからも、別に孔子の発言までもが理想論だなんてことがないのも明らか。
孟子の発言は相当に理想論も入っている所があるが、孔子の発言は至極無上な現実論。
「それはもう前からやっている」
ちっとも君子の養成なんかやっちゃおらず、むしろ重権力犯罪要員にもなる、
四十五十でも惑いまくりの小人ばかりが、意図的に量産されてもいる。
権力犯罪聖書——通称聖書を根本理念とするカルト洗脳操作によって。
そのようなカルト教義のひっきりなしな横行と、権力道徳の入念な頒布による
君子の養成も相容れるものではなく、どちらかを立てる以上はもう一方が立たない。
劣悪なものを棄てて優良なものの専修に努めなければ、一切劣悪な総員テロリスト社会となるのみ。
少しも儒学や正統仏教の受容を、民衆の側から積極的に追い求めようともせず、
言葉ばかり着飾って、聞こえだけはいいカルト教義のほうに流れていってしまっているのに、
なぜ儒学や仏教が、ほんの微塵たりともその効能を発揮することができようか?
良薬を口にすら含まずして、ただ毒薬ばかりを貪りながら、なぜ良薬の効能が発揮されようか?
「仁遠からんや。我れ仁を欲すれば、斯に仁至る」
「仁は得がたいものだろうか。もし自分から仁を欲したなら、仁はすぐに得られるだろうさ。
(そもそも世の誰しもが仁を欲しすらせず、ただ醜悪な私利私欲を延々と貪ってばかりいる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——述而第七・二九より)
四十五十でも惑いまくりの小人ばかりが、意図的に量産されてもいる。
権力犯罪聖書——通称聖書を根本理念とするカルト洗脳操作によって。
そのようなカルト教義のひっきりなしな横行と、権力道徳の入念な頒布による
君子の養成も相容れるものではなく、どちらかを立てる以上はもう一方が立たない。
劣悪なものを棄てて優良なものの専修に努めなければ、一切劣悪な総員テロリスト社会となるのみ。
少しも儒学や正統仏教の受容を、民衆の側から積極的に追い求めようともせず、
言葉ばかり着飾って、聞こえだけはいいカルト教義のほうに流れていってしまっているのに、
なぜ儒学や仏教が、ほんの微塵たりともその効能を発揮することができようか?
良薬を口にすら含まずして、ただ毒薬ばかりを貪りながら、なぜ良薬の効能が発揮されようか?
「仁遠からんや。我れ仁を欲すれば、斯に仁至る」
「仁は得がたいものだろうか。もし自分から仁を欲したなら、仁はすぐに得られるだろうさ。
(そもそも世の誰しもが仁を欲しすらせず、ただ醜悪な私利私欲を延々と貪ってばかりいる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——述而第七・二九より)
現在では無宗教の人間も大勢居ると思います
聖書の世界観というよりは、それが人間の本性であると考えたほうが納得できるヒトが多いと思います
聖書など子供騙し
それは同感ですが、こと影響力という点に於いては疑問符がつきますね
人間は猿から進化しているために行動原理は猿に似ている
権力支配者の行動原理が猿なのだから世界観はケモノの論理を越えることはできない
そちらのほうがよっぽど理解できる
聖書の世界観というよりは、それが人間の本性であると考えたほうが納得できるヒトが多いと思います
聖書など子供騙し
それは同感ですが、こと影響力という点に於いては疑問符がつきますね
人間は猿から進化しているために行動原理は猿に似ている
権力支配者の行動原理が猿なのだから世界観はケモノの論理を越えることはできない
そちらのほうがよっぽど理解できる
犯罪聖書のような強度の人間性悪・性獣論が人間の本性であるかのように思われてしまうことも、
仏教の唯識思想や朱子学の性即理説などによって、とっくの昔に看破されている。
人間には理性を司る「性」ないし「阿頼耶識」と呼ばれるような本性が備わっている一方で、
情念を司る「情」ないし「末那識」と呼ばれるような要素も備わっており、
性こそは理であって善良であるものの、情はそれなりの矯正に努めなければ濁って劣悪化してしまう。
そのため、何らの道徳的矯正も行われない人間が自然と、四十五十でも惑いまくりの小人にすらなってしまうため、
「人間の本性は悪である」とすら考えがちになるが(儒者の荀子ですらもがそう考えた)、
1+1を3にでも4にでも改変するような濁った情念を矯正させたなら、そこにはちゃんと1+1=2とする
理性もまた備わっていて、その理性こそは人間の本質をも司るより普遍的な同一性でもある。
とはいえ、何らの矯正も科されない人間が、惑いまくりな小人と化すのも確かなわけで、
それを以て「人間の本性は悪であり、犯罪聖書の記述性向にも合致する」と結論付けることが間違っているのみ。
人間が犯罪聖書の記述内容のごときであること、そうであることを不可避なる普遍性で
あるなどと思い込むこと自体が、すでに理性から逸脱した濁情による迷妄でしかない。
「父子兄弟も禮に非ざれば定まらず。(中略)夫れ惟だ禽獣は禮なし、故に父子麀を聚にす」
「父子兄弟の間柄といえども、礼儀がなければ定まらない。禽獣には礼儀はないから、父子が同じ雌に交わりもする。
(禽獣には限りのない情愛の貪りはできても、理性に正された礼儀をわきまえることなどはできないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
仏教の唯識思想や朱子学の性即理説などによって、とっくの昔に看破されている。
人間には理性を司る「性」ないし「阿頼耶識」と呼ばれるような本性が備わっている一方で、
情念を司る「情」ないし「末那識」と呼ばれるような要素も備わっており、
性こそは理であって善良であるものの、情はそれなりの矯正に努めなければ濁って劣悪化してしまう。
そのため、何らの道徳的矯正も行われない人間が自然と、四十五十でも惑いまくりの小人にすらなってしまうため、
「人間の本性は悪である」とすら考えがちになるが(儒者の荀子ですらもがそう考えた)、
1+1を3にでも4にでも改変するような濁った情念を矯正させたなら、そこにはちゃんと1+1=2とする
理性もまた備わっていて、その理性こそは人間の本質をも司るより普遍的な同一性でもある。
とはいえ、何らの矯正も科されない人間が、惑いまくりな小人と化すのも確かなわけで、
それを以て「人間の本性は悪であり、犯罪聖書の記述性向にも合致する」と結論付けることが間違っているのみ。
人間が犯罪聖書の記述内容のごときであること、そうであることを不可避なる普遍性で
あるなどと思い込むこと自体が、すでに理性から逸脱した濁情による迷妄でしかない。
「父子兄弟も禮に非ざれば定まらず。(中略)夫れ惟だ禽獣は禮なし、故に父子麀を聚にす」
「父子兄弟の間柄といえども、礼儀がなければ定まらない。禽獣には礼儀はないから、父子が同じ雌に交わりもする。
(禽獣には限りのない情愛の貪りはできても、理性に正された礼儀をわきまえることなどはできないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
理性 情念 「阿頼耶識」 矯正に努めなければ濁って劣悪化してしまう。 理性こそは人間の本質をも司るより普遍的な同一性でもある
こういった認識は何によって得られたのだろう?
それはとうぜん社会が存在し そこで生活を営み それら情報を自己で内省し 書きかえられ 流転していること
それが理性や情念などが必要だと情報を内省して学んで というか感じたりしている
そう…
理性なんて心情の働きは世情に沿って流転する知恵に過ぎない
社会に沿っている
社会を前提としている
社会は人間により営まれるために それこそ流動 流転してゆく
それに沿っている理性や情念が普遍というのは悟りが足らないのではないか?
こういった認識は何によって得られたのだろう?
それはとうぜん社会が存在し そこで生活を営み それら情報を自己で内省し 書きかえられ 流転していること
それが理性や情念などが必要だと情報を内省して学んで というか感じたりしている
そう…
理性なんて心情の働きは世情に沿って流転する知恵に過ぎない
社会に沿っている
社会を前提としている
社会は人間により営まれるために それこそ流動 流転してゆく
それに沿っている理性や情念が普遍というのは悟りが足らないのではないか?
1+1=2とする理性があって、なおかつ「1億円+1億円=2億円」とか、
「1兆円+1兆円=2兆円」とかの正確な経理に努めている人々がいるから、世の中も成り立つ。
誰も彼もが「1億円+1億円=3億円」にしたり、「1兆円+1兆円=4兆円」にしたりしていたなら、
あっという間に世の中は立ち行かなくなって亡びる。実際、今はその手前ぐらいの状態にある。
1+1=2とする理性の持ち主が、十分に多人数であってから初めて、
1+1を3にも4にもするような迷妄にかられた、重度精神障害者が生き延びる余地も生まれる。
社会というものはその運営上、根本的に理性を必要とするものであり、情念はあってもなくてもいい存在。
もちろん、全く情念の介在しない世の中も無味乾燥とし過ぎるので、多少は情念にかられて金儲けに
走る商売人などがいたっていいわけだが、そいつらが世の中の末端としての身の程のわきまえを逸して、
自分たちこそは世の主上だなどと勘違いし始めたなら、世の中が立ち行かなくなるに決まってる。
「1兆円+1兆円=2兆円」とかの正確な経理に努めている人々がいるから、世の中も成り立つ。
誰も彼もが「1億円+1億円=3億円」にしたり、「1兆円+1兆円=4兆円」にしたりしていたなら、
あっという間に世の中は立ち行かなくなって亡びる。実際、今はその手前ぐらいの状態にある。
1+1=2とする理性の持ち主が、十分に多人数であってから初めて、
1+1を3にも4にもするような迷妄にかられた、重度精神障害者が生き延びる余地も生まれる。
社会というものはその運営上、根本的に理性を必要とするものであり、情念はあってもなくてもいい存在。
もちろん、全く情念の介在しない世の中も無味乾燥とし過ぎるので、多少は情念にかられて金儲けに
走る商売人などがいたっていいわけだが、そいつらが世の中の末端としての身の程のわきまえを逸して、
自分たちこそは世の主上だなどと勘違いし始めたなら、世の中が立ち行かなくなるに決まってる。
1+1=5それが支配層です
1+1=1それが一般層です
支配層には宗教も道具と化しているというのが実情です
何らかの体裁を用意できるという計算に使われているだけですよ
逆の意味でアナタの話を捉えれば、何らかの原因を見出だせないから聖書に敵意を向けているということ
1+1=1それが一般層です
支配層には宗教も道具と化しているというのが実情です
何らかの体裁を用意できるという計算に使われているだけですよ
逆の意味でアナタの話を捉えれば、何らかの原因を見出だせないから聖書に敵意を向けているということ
1+1を3や4や5にするのは、決して本物の社会の支配層ではなく、
1+1=2の真面目な金銭計算にもよって実物からの堅実な経済社会を運営している
大部分の人々から一方的に利益を吸い取っている「社会のがん細胞格」だ。
さも農民が田畑を耕したり、職人が立派な産品を拵えたりするようにして、
立派な為政を司る君子なら、自らもまた1+1=2のシラフの計算によって世を司る。
その結果、自分たち自身がそんなに経済的に裕福にもなれなかったりするが、
そも経済的に裕福だから社会の支配層であり、経済的に貧困だから社会の被支配層だ
などというのもとんでもない思い違いであり、世の中の根本的な仕組みを
わきまえられていない、小人ばかりに特有の狭隘な迷妄だ。
金持ちですらあれば責任ある世の中の支配者であるなどという迷妄を、
金持ちと貧乏人とに関わらずあてがう道具となっているのもやはり犯罪聖書であり、
何らの社会的責任も負わずに、ただ金満だけを謳歌している金持ちたち自身もまた、
犯罪聖書への信仰に基づく自己洗脳によって、自分たちを社会の支配者だなどと思い込んでいる。
ちっとも宗教を傍観的な道具になどはできておらず、自分たち自身が中毒状態に陥るための
依存対象ともしているのであり、だからこそあらゆる害悪の元凶が犯罪聖書であるともいえる。
「人を責むるは斯れ難き無く、惟れ責めを受けて流れの如くならしむるは、是れ惟れ艱きかな」
「他人を責めることは簡単なだが、己れこそは率先して責めを受けることで
水の流れのように滞りなく自己を改めていくことは、これほどにも難しいことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓より)
1+1=2の真面目な金銭計算にもよって実物からの堅実な経済社会を運営している
大部分の人々から一方的に利益を吸い取っている「社会のがん細胞格」だ。
さも農民が田畑を耕したり、職人が立派な産品を拵えたりするようにして、
立派な為政を司る君子なら、自らもまた1+1=2のシラフの計算によって世を司る。
その結果、自分たち自身がそんなに経済的に裕福にもなれなかったりするが、
そも経済的に裕福だから社会の支配層であり、経済的に貧困だから社会の被支配層だ
などというのもとんでもない思い違いであり、世の中の根本的な仕組みを
わきまえられていない、小人ばかりに特有の狭隘な迷妄だ。
金持ちですらあれば責任ある世の中の支配者であるなどという迷妄を、
金持ちと貧乏人とに関わらずあてがう道具となっているのもやはり犯罪聖書であり、
何らの社会的責任も負わずに、ただ金満だけを謳歌している金持ちたち自身もまた、
犯罪聖書への信仰に基づく自己洗脳によって、自分たちを社会の支配者だなどと思い込んでいる。
ちっとも宗教を傍観的な道具になどはできておらず、自分たち自身が中毒状態に陥るための
依存対象ともしているのであり、だからこそあらゆる害悪の元凶が犯罪聖書であるともいえる。
「人を責むるは斯れ難き無く、惟れ責めを受けて流れの如くならしむるは、是れ惟れ艱きかな」
「他人を責めることは簡単なだが、己れこそは率先して責めを受けることで
水の流れのように滞りなく自己を改めていくことは、これほどにも難しいことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓より)
訂正:
「人を責むるは斯れ難き無く、惟れ責めを受けて流れの如くならしむるは、是れ惟れ艱きかな」
「他人を責めることは簡単なことだが、己れこそは率先して責めを受けることで
水の流れのように滞りなく自己を改めていくことは、これほどにも難しいことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓より)
自分のほうにこそ非があるのなら、それこそ本当に自分こそが率先して責めを受けて、
水の流れのように滞りなく自己を改めていこうと思うわけだが、残念だからそうではなく、
どちらかといえば自分のほうが正しくて他のほうが間違っているから、我れと我が心とに
責めを受けることから逃げまくるカルト信者たちのほうが、己れに責めを受けることを
受け入れて、水の流れのように滞りなく自分たちを改めていくように促す以外にはない。
他者の過ちを自分自身がひっかぶってあげたところで、「冤罪」という
より大きな過ちの積み重ねになるだけでしかないのも、自他の区別も付かない
鏡映認知障害の重度精神障害者でもない限りは、認めざるを得ないことだから。
「人を責むるは斯れ難き無く、惟れ責めを受けて流れの如くならしむるは、是れ惟れ艱きかな」
「他人を責めることは簡単なことだが、己れこそは率先して責めを受けることで
水の流れのように滞りなく自己を改めていくことは、これほどにも難しいことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓より)
自分のほうにこそ非があるのなら、それこそ本当に自分こそが率先して責めを受けて、
水の流れのように滞りなく自己を改めていこうと思うわけだが、残念だからそうではなく、
どちらかといえば自分のほうが正しくて他のほうが間違っているから、我れと我が心とに
責めを受けることから逃げまくるカルト信者たちのほうが、己れに責めを受けることを
受け入れて、水の流れのように滞りなく自分たちを改めていくように促す以外にはない。
他者の過ちを自分自身がひっかぶってあげたところで、「冤罪」という
より大きな過ちの積み重ねになるだけでしかないのも、自他の区別も付かない
鏡映認知障害の重度精神障害者でもない限りは、認めざるを得ないことだから。
1+1=5にしたい
そちらのほうが人間的だ
1+1=2にしたい
それで満足できるなら
それこそ人間的じゃない
現代では欲は人並みにあるのに1+1=2に充たない一般層が大勢いる
欲望を単に邪悪だと切って捨てることのほうが視野が狭いと思う
欲望は幸福を求める衝動であり、理性なんて単純な発想で抑え込めるものではない
欲望は万人が持つ生きる衝動である
政治経済や様々な観点で客観視された公平さ公正さという環境を整えなければ、道徳も理性も機能しない
まず理性からというのは誤りだ
それは支配層に求められるべきもので、一般層には先ずそれを体現する環境こそが必要なのだ
そちらのほうが人間的だ
1+1=2にしたい
それで満足できるなら
それこそ人間的じゃない
現代では欲は人並みにあるのに1+1=2に充たない一般層が大勢いる
欲望を単に邪悪だと切って捨てることのほうが視野が狭いと思う
欲望は幸福を求める衝動であり、理性なんて単純な発想で抑え込めるものではない
欲望は万人が持つ生きる衝動である
政治経済や様々な観点で客観視された公平さ公正さという環境を整えなければ、道徳も理性も機能しない
まず理性からというのは誤りだ
それは支配層に求められるべきもので、一般層には先ずそれを体現する環境こそが必要なのだ
1+1の答えを2だと定義しているのは、神でも仏でもない、われわれ人間自身だ。
その人間が自分たち自身の取り決めを守ろうとすることが、最も人間的であるのは当然のことで、
それを後から1+1=3や4や5にしようってほうが、本当に禽獣並みに知能を低下させる精神障害ってもんだ。
その、重度精神障害のほうが世界標準であって、1+1=2を堅持するほうが異端であるとしたところで、
1億円+1億円を2億円と計算したり、1兆ドル+1兆ドルを2兆ドルと計算したりする理性のほうが
主体であり、1兆ドル+1兆ドルを5兆ドルや6兆ドルと計算する精神障害のほうが副体でないことには、
世の中のほうが立ち行かない。1+1を5にも6にもする精神障害の放蕩も、一定以上1+1=2を堅持する
理性があって初めて許されるのであり、精神障害が主体であって理性が副体だなんてほうがあり得ない。
「まず理性」が求められるべきなのは確かに支配層であって、しかも「まず支配層」であるべきでもある。
支配層が1+1=2の理性を堅持することが十分に尊重されて、「花は桜木、人は武士」というほどにも
理性に適った為政への優遇が行き届いたその上で、一般庶民の側がある程度の理性からの逸脱を認められたり
するというのが、本来の人間社会のあり方であり、それは今とて根本の部分から覆っているところではない。
1兆ドル+1兆ドルを5兆ドルにも6兆ドルにもしているような贋金作りどもが、どんなに虚栄を謳歌したところで、
そいつらのほうが世の中にとっての有害無益ながん細胞格であることには変わりなく、たとえどんなに貧乏であろうとも、
1+1=2のシラフの計算を尽くしている人間のほうが、有益無害な人類社会の模範的構成員であることが、一切劣悪の今
という世の中においてですら根本的に覆ったりはしておらず、ただ覆っているように見せかけられていることが虚妄なだけだ。
その人間が自分たち自身の取り決めを守ろうとすることが、最も人間的であるのは当然のことで、
それを後から1+1=3や4や5にしようってほうが、本当に禽獣並みに知能を低下させる精神障害ってもんだ。
その、重度精神障害のほうが世界標準であって、1+1=2を堅持するほうが異端であるとしたところで、
1億円+1億円を2億円と計算したり、1兆ドル+1兆ドルを2兆ドルと計算したりする理性のほうが
主体であり、1兆ドル+1兆ドルを5兆ドルや6兆ドルと計算する精神障害のほうが副体でないことには、
世の中のほうが立ち行かない。1+1を5にも6にもする精神障害の放蕩も、一定以上1+1=2を堅持する
理性があって初めて許されるのであり、精神障害が主体であって理性が副体だなんてほうがあり得ない。
「まず理性」が求められるべきなのは確かに支配層であって、しかも「まず支配層」であるべきでもある。
支配層が1+1=2の理性を堅持することが十分に尊重されて、「花は桜木、人は武士」というほどにも
理性に適った為政への優遇が行き届いたその上で、一般庶民の側がある程度の理性からの逸脱を認められたり
するというのが、本来の人間社会のあり方であり、それは今とて根本の部分から覆っているところではない。
1兆ドル+1兆ドルを5兆ドルにも6兆ドルにもしているような贋金作りどもが、どんなに虚栄を謳歌したところで、
そいつらのほうが世の中にとっての有害無益ながん細胞格であることには変わりなく、たとえどんなに貧乏であろうとも、
1+1=2のシラフの計算を尽くしている人間のほうが、有益無害な人類社会の模範的構成員であることが、一切劣悪の今
という世の中においてですら根本的に覆ったりはしておらず、ただ覆っているように見せかけられていることが虚妄なだけだ。
アナタの云われる精神障害や有害無益と思われる状態になることこそ人間の幸福です
悪いと理解していても求める
1+1=2以上を求めるのが人間本来の自然な在り方
社会に住むからこそ罪や罰という規範が生まれるが、それは本来的には不自然でしょう
暴力はさらに強大な暴力で治めているというのが現実
理性や道徳心くらいで諫めようというほうこそ愚かで単純です
先に環境を整備されなければ理性や道徳心を発揮する道理がない
悪いと理解していても求める
1+1=2以上を求めるのが人間本来の自然な在り方
社会に住むからこそ罪や罰という規範が生まれるが、それは本来的には不自然でしょう
暴力はさらに強大な暴力で治めているというのが現実
理性や道徳心くらいで諫めようというほうこそ愚かで単純です
先に環境を整備されなければ理性や道徳心を発揮する道理がない
「人類社会のがん細胞格」である連中はそう考えるだろうし、
そのような連中を無意識に羨望させられているカルト洗脳被害者たちも、そう考えるだろうな。
それが人間のダークサイドであって、それはそれで相当に大きな規模を擁しているのも知っている。
しかし、理性や道徳によって、人間社会を平穏無事に運営していこうとする派閥の規模のほうが、さらに大きい。
質でも量でも古さでも、有害無益な精神障害を上回る有益無害な精神健常が、実際に実在しており、
だからこそ人間社会もまだ存続を保ててもいる。信じるまいが支持するまいが、そうでしかない現実だ。
「私たちは有害無益ながん細胞格の精神障害に甘んじます」と宣言するのは別に結構だが、
そのようなゴミ同然の身分に甘んじることが、地球人類にとっての真の幸福であるなどということもないし、
そんな卑賤の身に満足する輩のほうが、人類という生物にとっての主体や根本であるなどということもない。
矮小でかりそめな、虚構の満足に浸り続けようとする人間などよりも、雄大かつ普遍的な、
実物の満足にこそ満悦な人々のほうが多数であることに、疑問を呈するほうがおかしい。
そのような連中を無意識に羨望させられているカルト洗脳被害者たちも、そう考えるだろうな。
それが人間のダークサイドであって、それはそれで相当に大きな規模を擁しているのも知っている。
しかし、理性や道徳によって、人間社会を平穏無事に運営していこうとする派閥の規模のほうが、さらに大きい。
質でも量でも古さでも、有害無益な精神障害を上回る有益無害な精神健常が、実際に実在しており、
だからこそ人間社会もまだ存続を保ててもいる。信じるまいが支持するまいが、そうでしかない現実だ。
「私たちは有害無益ながん細胞格の精神障害に甘んじます」と宣言するのは別に結構だが、
そのようなゴミ同然の身分に甘んじることが、地球人類にとっての真の幸福であるなどということもないし、
そんな卑賤の身に満足する輩のほうが、人類という生物にとっての主体や根本であるなどということもない。
矮小でかりそめな、虚構の満足に浸り続けようとする人間などよりも、雄大かつ普遍的な、
実物の満足にこそ満悦な人々のほうが多数であることに、疑問を呈するほうがおかしい。
大衆をトップダウンに扇情する気など、はじめからないからだ。
我こそは地の底から民を突き上げる、
人間社会のボトムアップこそは修己治人の本質でもある。
やり方のすり合わせからして、あり得ない。
我こそは地の底から民を突き上げる、
人間社会のボトムアップこそは修己治人の本質でもある。
やり方のすり合わせからして、あり得ない。
食わず嫌いもいいとこだな。
本物の道徳や理性なんて、その存在性すら未だ察知したこともないくせに。
「孝経」諫争篇における「父に不義があれば、子として諌め争わざるべからず」という孔子の言と、
「孟子」離婁章句下における「父子が善を責め合うは恩を損なうの大なるものだ」という孟子の言が
一見食い違っているように思われるのだが、これらの言葉の整合性をもう少し掘り下げてみるなら、
「親が致命的な過ちを犯しているときには、これ以上墓穴を掘り下げぬよう諫め争うのが孝となる一方で、
別段大きな過ちを犯しているわけでもない親に対して、さらなる積善を要求するのは不孝となる」
ということではないか。
立場上、子弟格にあたるものが、父兄格にあたる相手に対して、致命的な過ちの是正を諫言したりする
のまでは忠孝にもなるが、そこから先の積善までをも要求するのは、かえって恩を損なう不孝になるわけだから、
結局、今の自分よりはまだ先輩格に当たるだろう今の世の中心人物(仮)などに対して、過ちの責任をとっての
世の中からの退場を促すぐらいまでのことはするけれども、そこから先の積善は相手ではなく、こちら側こそが
自主的に試みていくべきことだから、別に相手との、今後からの二人三脚を前提としたような物言いもしない。
もう二度と社会のメインストリームを歩むこともないような人々に対して、下手に希望の光を当てたりする
ほうが絶望を助長させるのみだから、ただ「後は任せましょう」と言うのみが、忠孝という点でも最善なのだろう。
本物の道徳や理性なんて、その存在性すら未だ察知したこともないくせに。
「孝経」諫争篇における「父に不義があれば、子として諌め争わざるべからず」という孔子の言と、
「孟子」離婁章句下における「父子が善を責め合うは恩を損なうの大なるものだ」という孟子の言が
一見食い違っているように思われるのだが、これらの言葉の整合性をもう少し掘り下げてみるなら、
「親が致命的な過ちを犯しているときには、これ以上墓穴を掘り下げぬよう諫め争うのが孝となる一方で、
別段大きな過ちを犯しているわけでもない親に対して、さらなる積善を要求するのは不孝となる」
ということではないか。
立場上、子弟格にあたるものが、父兄格にあたる相手に対して、致命的な過ちの是正を諫言したりする
のまでは忠孝にもなるが、そこから先の積善までをも要求するのは、かえって恩を損なう不孝になるわけだから、
結局、今の自分よりはまだ先輩格に当たるだろう今の世の中心人物(仮)などに対して、過ちの責任をとっての
世の中からの退場を促すぐらいまでのことはするけれども、そこから先の積善は相手ではなく、こちら側こそが
自主的に試みていくべきことだから、別に相手との、今後からの二人三脚を前提としたような物言いもしない。
もう二度と社会のメインストリームを歩むこともないような人々に対して、下手に希望の光を当てたりする
ほうが絶望を助長させるのみだから、ただ「後は任せましょう」と言うのみが、忠孝という点でも最善なのだろう。
大罪を犯して退場を迫られている、重権力犯罪者などの眼鏡に適うような後継者であるほうが、
かえって世直しに努めていく上での不適合人物であるということにすらなるだろう。
世を破滅へと導く性向の持ち主に「こいつじゃいけない」と思われるぐらいで初めて、真の適合者であるともいえる。
「之れを愛して能く労すること勿らんや。忠にして能く誨うること勿らんや」
「愛しているからといって苦労させないのはいかがなものか。忠孝でありながら教誨に努めないのはいかがなものか」
(権力道徳聖書——通称史書五経——論語・憲問第十四・八より)
かえって世直しに努めていく上での不適合人物であるということにすらなるだろう。
世を破滅へと導く性向の持ち主に「こいつじゃいけない」と思われるぐらいで初めて、真の適合者であるともいえる。
「之れを愛して能く労すること勿らんや。忠にして能く誨うること勿らんや」
「愛しているからといって苦労させないのはいかがなものか。忠孝でありながら教誨に努めないのはいかがなものか」
(権力道徳聖書——通称史書五経——論語・憲問第十四・八より)
理性や道徳は社会性に対する知恵でなくては意味がない そういうことでしょう? それはずいぶんと前に書いてある
現代社会というのは
たとえば為政者一人を権力者とは言わない
現代特有の選挙形式から端を発し 献金や組織票を意識して関係性をつくらなければ為政者にはなれない
その関係性は、政治介入を余儀なくされるということ
すでに関係性ある企業の思惑や宗教団体の思惑 それらの都合を政治に反映しなくてはならない
そういった関係の積み重ねで社会規範もつくられている
庄屋とお代官くらいの単純な世界観じゃないのです
問題は孔子が考えていた以上に 相対的という以上…壮大に複雑化している
それが社会の都合
そこに理性や道徳心が入り込む余地がありますか?
社会の都合に沿った知恵こそが現代…現在求められる道徳なのですよ
それはやはり環境から カタチから入る以外には見出だせないでしょう
現代社会に根付いてしまった都合…これはもはや生活に則している
生活そのもの
過去の遺物のような道徳や理性では生活を…社会性を破綻させることになりませんか?
現代社会というのは
たとえば為政者一人を権力者とは言わない
現代特有の選挙形式から端を発し 献金や組織票を意識して関係性をつくらなければ為政者にはなれない
その関係性は、政治介入を余儀なくされるということ
すでに関係性ある企業の思惑や宗教団体の思惑 それらの都合を政治に反映しなくてはならない
そういった関係の積み重ねで社会規範もつくられている
庄屋とお代官くらいの単純な世界観じゃないのです
問題は孔子が考えていた以上に 相対的という以上…壮大に複雑化している
それが社会の都合
そこに理性や道徳心が入り込む余地がありますか?
社会の都合に沿った知恵こそが現代…現在求められる道徳なのですよ
それはやはり環境から カタチから入る以外には見出だせないでしょう
現代社会に根付いてしまった都合…これはもはや生活に則している
生活そのもの
過去の遺物のような道徳や理性では生活を…社会性を破綻させることになりませんか?
なにも複雑なことはない。
農夫や職人のような一人前の専門職としての、為政の価値が全面的に否定されて、
実際に権力道徳を実現する専門的な素養を蓄えた為政者までもが、
絶滅に追い込まれているというだけのこと。
たとえば、多くの人々を乗せた艦船があったとして、その艦船の乗客に過ぎない連中が、
船を操舵するための技能を持った船員を全て追い落として、操舵に関してはド素人に過ぎない
自分たちこそは「この船の船頭だ」などと宣言して、下手くそな操舵で山にすら乗り上げた、
その結果が>>355の惨状。ド素人の意見や私利私欲ばかりを国家運営に反映させた、当然の結末。
「無責任なド素人が国家を運営している」という実情を隠蔽するために、
事務手続きばかりは複雑化しているが、それが招いているものはただ一つ、
権力道徳に相反する権力犯罪の進行のみ。何も難しいところなどありゃしない。
農夫や職人のような一人前の専門職としての、為政の価値が全面的に否定されて、
実際に権力道徳を実現する専門的な素養を蓄えた為政者までもが、
絶滅に追い込まれているというだけのこと。
たとえば、多くの人々を乗せた艦船があったとして、その艦船の乗客に過ぎない連中が、
船を操舵するための技能を持った船員を全て追い落として、操舵に関してはド素人に過ぎない
自分たちこそは「この船の船頭だ」などと宣言して、下手くそな操舵で山にすら乗り上げた、
その結果が>>355の惨状。ド素人の意見や私利私欲ばかりを国家運営に反映させた、当然の結末。
「無責任なド素人が国家を運営している」という実情を隠蔽するために、
事務手続きばかりは複雑化しているが、それが招いているものはただ一つ、
権力道徳に相反する権力犯罪の進行のみ。何も難しいところなどありゃしない。
難しいのはね
それがすでに現代生活として機能してしまっているという現実ですよ
それを古くさい理性や道徳で扱うことは現代生活を破綻させることになる
文明や文化を失うことになるということ
文明文化こそ人間の関係性によって築き上げた粋であるということ
それに沿わない理性や道徳などより文明文化に則した在り方が本当の知恵 道徳になるべきなんだ
それがすでに現代生活として機能してしまっているという現実ですよ
それを古くさい理性や道徳で扱うことは現代生活を破綻させることになる
文明や文化を失うことになるということ
文明文化こそ人間の関係性によって築き上げた粋であるということ
それに沿わない理性や道徳などより文明文化に則した在り方が本当の知恵 道徳になるべきなんだ
道徳のために人間が在るわけじゃない
人間のために道徳が必要になるんだ
人間のために道徳が必要になるんだ
理性や道徳は文化文明じゃないってか?
重権力犯罪にまみれた総員禽獣化社会だけが、唯一の文化文明だってか?
ド素人の乗客が船頭と化した船が山に登ったことが、文化文明の唯一の成果だってか?
ただ、おまえの視野が極端に狭いせいで、ごくごく部分的な文化文明の片鱗に
過ぎないものを、唯一無二の文化文明だなどと思い込んでいるだけじゃないか。
金を操る商売人、物を作る職人、食い物を作る農夫や漁師、そして人間社会のあり方を総合的に切り盛りする士人、
これらの人種が全て合わせ集まることによってこそ、健全に機能するのが人間社会というものであり、
よく健全性が守られた社会においては、商売を含む産業への従事者以上にも為政者たる士人が尊重される一方で、
どこもかしこもが不健全と化した社会においては、士人や君子と呼べるほどにもまともな徳性を備えた
為政者が一人もいなくなって、ただ産業従事者の放辟邪侈がどこまでも放任されていくばかりとなる。
いずれにしろ、為政者と産業従事者とが並存する社会であることには代わりないが、
権力道徳の守られる社会においては君子士人が存在する一方で、権力犯罪にまみれた社会においては君子士人が存在しない。
君子士人の存在性が認められるか否かのみが両者の違う点であり、産業従事者たる庶民がいるかいないかなどということは論外。
庶民をいかに健全に統治支配するのかが為政者にとっての根本命題であり、その方向性がよく見据えられているのが
君子士人たる権力道徳者である一方で、全く見定められていないのが権力犯罪者であるのみ。
両者はコインの裏表のようなもので、権力犯罪者によって運営が保たれているような社会が、
権力道徳者によって運営されたなら、これ以上よくなることこそあれど、悪くなることなどは決してない。
重権力犯罪にまみれた総員禽獣化社会だけが、唯一の文化文明だってか?
ド素人の乗客が船頭と化した船が山に登ったことが、文化文明の唯一の成果だってか?
ただ、おまえの視野が極端に狭いせいで、ごくごく部分的な文化文明の片鱗に
過ぎないものを、唯一無二の文化文明だなどと思い込んでいるだけじゃないか。
金を操る商売人、物を作る職人、食い物を作る農夫や漁師、そして人間社会のあり方を総合的に切り盛りする士人、
これらの人種が全て合わせ集まることによってこそ、健全に機能するのが人間社会というものであり、
よく健全性が守られた社会においては、商売を含む産業への従事者以上にも為政者たる士人が尊重される一方で、
どこもかしこもが不健全と化した社会においては、士人や君子と呼べるほどにもまともな徳性を備えた
為政者が一人もいなくなって、ただ産業従事者の放辟邪侈がどこまでも放任されていくばかりとなる。
いずれにしろ、為政者と産業従事者とが並存する社会であることには代わりないが、
権力道徳の守られる社会においては君子士人が存在する一方で、権力犯罪にまみれた社会においては君子士人が存在しない。
君子士人の存在性が認められるか否かのみが両者の違う点であり、産業従事者たる庶民がいるかいないかなどということは論外。
庶民をいかに健全に統治支配するのかが為政者にとっての根本命題であり、その方向性がよく見据えられているのが
君子士人たる権力道徳者である一方で、全く見定められていないのが権力犯罪者であるのみ。
両者はコインの裏表のようなもので、権力犯罪者によって運営が保たれているような社会が、
権力道徳者によって運営されたなら、これ以上よくなることこそあれど、悪くなることなどは決してない。
なによりも恐ろしがられているのは、今すぐに、早急に世の中が変革されてしまうことで、そのせいで
無理をきたして破綻することであり、権力道徳によって世の中の平穏が保たれることへの普遍的な不信ではあるまい。
仮に、権力道徳が世の中を統治することなど絶対に不可能だなどと思い込んでいるのなら、
それこそは、歴史の勉強が足りなさ過ぎるだけの話でもあるしな。
「三年、父の道を改むること無きを、孝と謂うべし」
「父の死後、三年は父のやり方を改めないでおくことを、孝行と呼んでよかろう」
(権力道徳聖書——通称史書五経——論語・学而第一・一一より)
三年、最低でも三年は、降伏宣言の後にも、今の世の運営方法に大きな改変を加えるようなことは、決してするまい。
たとえ、それが明らかに改善になると認められる施策であっても、必ず三年間はその実施を保留する。
三年間のうちに、できる限り多くの人々とも打ち合わせを尽くして、人々の納得のいく政策がどれであり、
どうしたって支持を得られない政策はどれであるかなどを綿密に調査し抜いて、本当に大多数の人々による、
納得づくの支持や協力を得られる段になってから初めて、何らかの変革を実施するということもある。
あまりにも事務的な話であり、「全人類にとっての聖書」でもある四書五経を典拠にするのも卑俗に過ぎるかとも思うが、
「親の喪に最低でも三年は服すべきだ」とする孔子の意向にも、きっと何らかの具体的な意図が込められているのだろうから。
別に自分自身の親が死ぬなどという話でもないが、「前世代」という意味での、親の喪にも服すべきなのかもしれないな。
無理をきたして破綻することであり、権力道徳によって世の中の平穏が保たれることへの普遍的な不信ではあるまい。
仮に、権力道徳が世の中を統治することなど絶対に不可能だなどと思い込んでいるのなら、
それこそは、歴史の勉強が足りなさ過ぎるだけの話でもあるしな。
「三年、父の道を改むること無きを、孝と謂うべし」
「父の死後、三年は父のやり方を改めないでおくことを、孝行と呼んでよかろう」
(権力道徳聖書——通称史書五経——論語・学而第一・一一より)
三年、最低でも三年は、降伏宣言の後にも、今の世の運営方法に大きな改変を加えるようなことは、決してするまい。
たとえ、それが明らかに改善になると認められる施策であっても、必ず三年間はその実施を保留する。
三年間のうちに、できる限り多くの人々とも打ち合わせを尽くして、人々の納得のいく政策がどれであり、
どうしたって支持を得られない政策はどれであるかなどを綿密に調査し抜いて、本当に大多数の人々による、
納得づくの支持や協力を得られる段になってから初めて、何らかの変革を実施するということもある。
あまりにも事務的な話であり、「全人類にとっての聖書」でもある四書五経を典拠にするのも卑俗に過ぎるかとも思うが、
「親の喪に最低でも三年は服すべきだ」とする孔子の意向にも、きっと何らかの具体的な意図が込められているのだろうから。
別に自分自身の親が死ぬなどという話でもないが、「前世代」という意味での、親の喪にも服すべきなのかもしれないな。
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スレッドタイトル:聖書 Part5