レス数が 500 を超えています。残念ながら全部は表示しません。
聖書 Part5
▼ページ最下部
「聖書」という言葉の原典となっている「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下の記述に基づけば、「聖書」とは
①聖人が書いた書物。
②叙勲などを司る記録官による、正式な記録作業によって編纂された書類。
③賢愚の分け隔てなく全ての評価対象者をおしなべて取り上げた書物。
④賢愚をおしなべて取り上げつつも、その格の上下に合わせた公正な評価が行き届いている書物。
⑤年功や等級の高低を重視し、分をわきまえない僭越などを十全に排している書物。
といった条件を満たしている書物のことであり、そのような書物の中でも、最も代表的かつ古典的であるのが四書五経。
①の条件は孔子の書いた「易経」繋辞伝や「春秋経」、曾子の書いた「大学」や子思子の書いた「中庸」などが満たしている。
②の条件は太古の正式な政治記録である「書経」が(ただしあまりにも太古過ぎるため、多少の修繕がなされている)、
③と④の条件は「詩経」の大雅小雅両篇や「春秋経」が、⑤の条件は身分秩序を重んじる「易経」「論語」「礼記」などが
満たしている。まさに四書五経こそは、「聖書」という言葉の厳密な条件を満たしきるために著されたような書物であり、
これほどにも聖書の名に値する書物は、他に存在しないと言えるほど。ここはその真正聖書たる四書五経などについて語るスレ。
(画像は「論語」の主人公孔子、「孟子」の主人公孟子、「大学」の著者曾子、「中庸」の著者子思子の四名。四書の各筆頭)

①聖人が書いた書物。
②叙勲などを司る記録官による、正式な記録作業によって編纂された書類。
③賢愚の分け隔てなく全ての評価対象者をおしなべて取り上げた書物。
④賢愚をおしなべて取り上げつつも、その格の上下に合わせた公正な評価が行き届いている書物。
⑤年功や等級の高低を重視し、分をわきまえない僭越などを十全に排している書物。
といった条件を満たしている書物のことであり、そのような書物の中でも、最も代表的かつ古典的であるのが四書五経。
①の条件は孔子の書いた「易経」繋辞伝や「春秋経」、曾子の書いた「大学」や子思子の書いた「中庸」などが満たしている。
②の条件は太古の正式な政治記録である「書経」が(ただしあまりにも太古過ぎるため、多少の修繕がなされている)、
③と④の条件は「詩経」の大雅小雅両篇や「春秋経」が、⑤の条件は身分秩序を重んじる「易経」「論語」「礼記」などが
満たしている。まさに四書五経こそは、「聖書」という言葉の厳密な条件を満たしきるために著されたような書物であり、
これほどにも聖書の名に値する書物は、他に存在しないと言えるほど。ここはその真正聖書たる四書五経などについて語るスレ。
(画像は「論語」の主人公孔子、「孟子」の主人公孟子、「大学」の著者曾子、「中庸」の著者子思子の四名。四書の各筆頭)

※省略されてます すべて表示...
「我聞くに曰く、至治の馨香、神明を感ぜしむ。黍稷馨わしきに非ず。明鄹惟れ馨わしきなり。
爾じ尚わくは時の周公の猷を式いて訓えよ。惟れ日に孜孜として、敢えて逸豫する無かれ」
「私の聞くことには、善政徳治を極めたことによる香気は、天地神明をも感動させるという。お供えの黍や粟が芳しいのではなく、
その明徳こそは芳しさとなるのだ。(臣下の君陳へ)おまえこそは願わくは、この周公の教えを用いて民を教導してほしい。
日々を孜孜として勤め励み、決して自らの逸楽ばかりに耽ったりすることがないようにせよ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君陳より)
「わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。
滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者にとっては命から命に至らせる香りです」
(権力犯罪聖書——通称聖書——コリント人への第二の脅迫文2:15-16)
爾じ尚わくは時の周公の猷を式いて訓えよ。惟れ日に孜孜として、敢えて逸豫する無かれ」
「私の聞くことには、善政徳治を極めたことによる香気は、天地神明をも感動させるという。お供えの黍や粟が芳しいのではなく、
その明徳こそは芳しさとなるのだ。(臣下の君陳へ)おまえこそは願わくは、この周公の教えを用いて民を教導してほしい。
日々を孜孜として勤め励み、決して自らの逸楽ばかりに耽ったりすることがないようにせよ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君陳より)
「わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。
滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者にとっては命から命に至らせる香りです」
(権力犯罪聖書——通称聖書——コリント人への第二の脅迫文2:15-16)
果たして、どちらの「香気」が真実の香気なのであるのかということは一旦置いておいて、
香気に対して賛辞を現そうとする周公の姿勢と、コリント脅迫文の作者の姿勢との相違に注目されたい。
後世にも、その善政を評価され続けている歴史的名臣であるにもかかわらず、周公はあくまで「自分はこのように聞く」という形で、
まるで他人事のように徳治が匂わせる香気を提示する。その香気は、天地神明をも感動させるものであり、天下万民を厚生へと
導くものであるから、むしろ為政者たる自分たちはその香気を独り占めにしようとしたりせず、逸楽に耽るようなことも
ないようにと念を押す。対してコリント脅迫文の作者のほうは、ハナっから香気を自分たちで独り占めにしようとする体でいて、
その香気が自分たちにばかり利益をもたらして、他者にはかえって危害を加えるものであることも明示している。
どちらが真の正義であり、もう一方が偽りの正義であるかということを、その契約を付託している神明の真偽を頼りに
するまでもなく、その正義を享受しようとしている者の側の姿勢の真摯さ如何の面で、明らかに道徳聖書たる四書五経のほうが
優良であり、犯罪聖書たる新旧約聖書のほうが劣悪。片や天下万民に利する仁義を旨とし、片や自分たちだけを利する我田引水に
終始しており、その享受者の行状の優劣良悪如何によって、すでにそれらの学知や教義を推進していった場合の結果は見えている。
香気に対して賛辞を現そうとする周公の姿勢と、コリント脅迫文の作者の姿勢との相違に注目されたい。
後世にも、その善政を評価され続けている歴史的名臣であるにもかかわらず、周公はあくまで「自分はこのように聞く」という形で、
まるで他人事のように徳治が匂わせる香気を提示する。その香気は、天地神明をも感動させるものであり、天下万民を厚生へと
導くものであるから、むしろ為政者たる自分たちはその香気を独り占めにしようとしたりせず、逸楽に耽るようなことも
ないようにと念を押す。対してコリント脅迫文の作者のほうは、ハナっから香気を自分たちで独り占めにしようとする体でいて、
その香気が自分たちにばかり利益をもたらして、他者にはかえって危害を加えるものであることも明示している。
どちらが真の正義であり、もう一方が偽りの正義であるかということを、その契約を付託している神明の真偽を頼りに
するまでもなく、その正義を享受しようとしている者の側の姿勢の真摯さ如何の面で、明らかに道徳聖書たる四書五経のほうが
優良であり、犯罪聖書たる新旧約聖書のほうが劣悪。片や天下万民に利する仁義を旨とし、片や自分たちだけを利する我田引水に
終始しており、その享受者の行状の優劣良悪如何によって、すでにそれらの学知や教義を推進していった場合の結果は見えている。
徳治社会では「礼楽刑政」として、政治や刑務の上にすら置かれる「礼楽」の基本原理を示した以下の記述。
楽しみは内にあってそれが徳性の輝きとなり、外面は礼節によって正されることで理性の極みと化す。
内も外も楽しむのでもなければ、内も外も理性によって雁字搦めになるのでもない、調和と従順の中庸を行く徳治。
東洋文化は、外貌的には楚々としてド派手さなどを控えたものが多いが、それは内面の楽との調和を図ってのことであり、
内外共に理性で雁字搦めにされるニヒリスムの表れなどではない。西洋文化などは、内外ともどもお花畑状態の宗教文化と、
内外ともどもニヒリズム状態な無宗教文化の両極端に振れきっているが、内は楽しみ、外は礼に律されという中庸を保った
文化のあり方は未だかつて無く、太古の昔から根本的な部分での中庸をわきまえている、東洋文化の手堅さには感服させられる。
「樂は内に動くものなり、禮は外に動くものなり。樂は和を極め、禮は順を極む。
内和らぎて外順なるときは、則ち民其の顏色を瞻て與に爭わざるなり。其の容貌を望みて、民易慢を生ぜず。
故に鄹輝内に動きて、民承け聽きかざると莫く、理外に發して、民承け順わざるとなし」
「礼楽の楽は内面を躍動させ、礼は外面を制動させる。楽は調和を極める作用を持ち、礼は従順を極める作用を持つ。
内面に調和があって外面が従順であるときには、民はその顔色を見るだけでも共に争わぬようになる。
その容貌を見るだけで軽率な侮りを抱かぬようになり、徳性の輝きが内にこそ躍動して、
民は何事も聞き入れぬことがなく、理性の働きは外に発して、民はどんな命令にも聞き従わぬことがない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・樂記第十九より)
楽しみは内にあってそれが徳性の輝きとなり、外面は礼節によって正されることで理性の極みと化す。
内も外も楽しむのでもなければ、内も外も理性によって雁字搦めになるのでもない、調和と従順の中庸を行く徳治。
東洋文化は、外貌的には楚々としてド派手さなどを控えたものが多いが、それは内面の楽との調和を図ってのことであり、
内外共に理性で雁字搦めにされるニヒリスムの表れなどではない。西洋文化などは、内外ともどもお花畑状態の宗教文化と、
内外ともどもニヒリズム状態な無宗教文化の両極端に振れきっているが、内は楽しみ、外は礼に律されという中庸を保った
文化のあり方は未だかつて無く、太古の昔から根本的な部分での中庸をわきまえている、東洋文化の手堅さには感服させられる。
「樂は内に動くものなり、禮は外に動くものなり。樂は和を極め、禮は順を極む。
内和らぎて外順なるときは、則ち民其の顏色を瞻て與に爭わざるなり。其の容貌を望みて、民易慢を生ぜず。
故に鄹輝内に動きて、民承け聽きかざると莫く、理外に發して、民承け順わざるとなし」
「礼楽の楽は内面を躍動させ、礼は外面を制動させる。楽は調和を極める作用を持ち、礼は従順を極める作用を持つ。
内面に調和があって外面が従順であるときには、民はその顔色を見るだけでも共に争わぬようになる。
その容貌を見るだけで軽率な侮りを抱かぬようになり、徳性の輝きが内にこそ躍動して、
民は何事も聞き入れぬことがなく、理性の働きは外に発して、民はどんな命令にも聞き従わぬことがない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・樂記第十九より)
四書五経に頻出する「君子」という言葉は、元来は「君主の子弟」という意味であり、
商業を含む産業に従事する「小人」よりは上に当たるものの、君主には臣従する中間管理職的な存在。
儒家の祖である孔子もまた、「君臣侯公大夫士農工商」のうちの、ちょうど真ん中付近に当たる士大夫の身分であり、
一時的には魯国の宰相に抜擢されるなどして、魯侯に仕える公子となったこともあった。
それもただ、そうだったというだけではなく、士大夫や公子として謹厳な振る舞いに徹することが、
ありのままに「君子」としての理想的なあり方を体現していたからで、上位の王侯に対する悌順な忠節と、
下位の小人(農工商民など)に対する慈しみ深き厳格さとの両方を備えていることから、親に対して孝行な子供、
子に対して厳しくも情深き親である人間の模範にすらなったから、今でもその道徳性の高さが向学対象とされている。
とはいえ今の世の中は、民主制か、さもなくば軍事独裁制かという、独裁者か下民かのいずれかに大権が牛耳られるしか
選択肢がない、全く中庸を欠いた政治状態にあるため、君主と民衆の架け橋となる、士大夫のような中間管理職的な
人間の権限が一切認められず、よって士大夫こそが模範となる君子のあり方も十分に体現されることすらない。
商工民が経書をかじって実践などをしようとした所で、所詮はごっこ遊びにしかならず、ちゃんと政治的な責任を背負い、
万人を利して我が利ともする仁義道徳に根ざしてこそ君子たり得るものなので、我田引水こそは根本目的である
商工民が君子になろうとしたところで、たいまつを掲げながら消火活動を試みるようなざまとなる。
「邦に道あれば則ち仕え、邦に道なければ則ち巻きてこれを懐にすべし」
「天下国家に仁義道徳が通用している時には人に仕え、通用していない時にはその志しをくるんで懐に隠しておく。
(とにかく人に服して諂っていればそれでいい小人とは違い、君子には仕えるべきものとそうでないものがある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——衛霊公第十五・七より)
商業を含む産業に従事する「小人」よりは上に当たるものの、君主には臣従する中間管理職的な存在。
儒家の祖である孔子もまた、「君臣侯公大夫士農工商」のうちの、ちょうど真ん中付近に当たる士大夫の身分であり、
一時的には魯国の宰相に抜擢されるなどして、魯侯に仕える公子となったこともあった。
それもただ、そうだったというだけではなく、士大夫や公子として謹厳な振る舞いに徹することが、
ありのままに「君子」としての理想的なあり方を体現していたからで、上位の王侯に対する悌順な忠節と、
下位の小人(農工商民など)に対する慈しみ深き厳格さとの両方を備えていることから、親に対して孝行な子供、
子に対して厳しくも情深き親である人間の模範にすらなったから、今でもその道徳性の高さが向学対象とされている。
とはいえ今の世の中は、民主制か、さもなくば軍事独裁制かという、独裁者か下民かのいずれかに大権が牛耳られるしか
選択肢がない、全く中庸を欠いた政治状態にあるため、君主と民衆の架け橋となる、士大夫のような中間管理職的な
人間の権限が一切認められず、よって士大夫こそが模範となる君子のあり方も十分に体現されることすらない。
商工民が経書をかじって実践などをしようとした所で、所詮はごっこ遊びにしかならず、ちゃんと政治的な責任を背負い、
万人を利して我が利ともする仁義道徳に根ざしてこそ君子たり得るものなので、我田引水こそは根本目的である
商工民が君子になろうとしたところで、たいまつを掲げながら消火活動を試みるようなざまとなる。
「邦に道あれば則ち仕え、邦に道なければ則ち巻きてこれを懐にすべし」
「天下国家に仁義道徳が通用している時には人に仕え、通用していない時にはその志しをくるんで懐に隠しておく。
(とにかく人に服して諂っていればそれでいい小人とは違い、君子には仕えるべきものとそうでないものがある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——衛霊公第十五・七より)
なんと、「平和」という言葉の出典も四書五経の「礼記」。
聖徳太子が十七条憲法で引用した「和を以て貴しと為す」という名言も「礼記」儒行第四十一にあり、
真摯なる礼節のわきまえと共にこそ、平らかなる人々の調和が叶えられるのであると分かる。
親族兄弟での殺し合いすら予言しているようなカルト教祖に付いていって、
平和の徳が衰滅させられることこそあれ、隆盛することなどあるはずもなく。
「土敝ゆるときは則と草木を長ぜず、水煩しきときは則ち魚鼈大ならず、氣衰ふるときは則ち生物遂げず、世亂るるときは則ち
禮慝にして樂淫す。是の故に其の聲哀しんで莊そかならず、樂しんで安からず、慢易して以て節を犯し、流湎して以て本を忘る。
廣きときは則ち奸を容れ、狹きときは則ち欲を思う。條暢の氣を感ぜしめて平和の鄹を滅す。是を以て君子は之を賤しむなり」
「土壌が痩せている時には草木も長大には育たず、漁期も決めずに乱獲していれば魚介類も獲れなくなり、そうでなくても、
冬のように気候が寒冷となる頃には生物の活動も衰える。それと同じように、世が乱れているときには礼節も隠されて、
人々も礼楽には当たらないような淫らな快楽に耽るようになる。そのため人々の声はいつも哀しみを帯びて荘重さを失い、
無理に楽しもうとしたところでどこまでも安らかならぬ渇望に苛まれる。驕慢安易にして節度を侵し、だらしなさに溺れて
物事の根本を見失う。寛容であろうとする時には奸邪を受け入れ、狭量であろうとする時には私利私欲ばかりを守ろうとする。
(仁者なら、寛容であろうとする時には天下万民の利益を受け入れ、狭量であろうとする時には奸邪を排しようとするだろう)
天地に満たされた伸びやかなる気に不埒な感傷を与えて平和の徳を衰滅させる。君子はこのようなことこそを賤しむ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
礼楽が覆い隠されて、奸邪を受け入れて仁義に狭量な、驕慢さ安易さばかりはびこる現代は、まさに「人類の冬」だといえる。
聖徳太子が十七条憲法で引用した「和を以て貴しと為す」という名言も「礼記」儒行第四十一にあり、
真摯なる礼節のわきまえと共にこそ、平らかなる人々の調和が叶えられるのであると分かる。
親族兄弟での殺し合いすら予言しているようなカルト教祖に付いていって、
平和の徳が衰滅させられることこそあれ、隆盛することなどあるはずもなく。
「土敝ゆるときは則と草木を長ぜず、水煩しきときは則ち魚鼈大ならず、氣衰ふるときは則ち生物遂げず、世亂るるときは則ち
禮慝にして樂淫す。是の故に其の聲哀しんで莊そかならず、樂しんで安からず、慢易して以て節を犯し、流湎して以て本を忘る。
廣きときは則ち奸を容れ、狹きときは則ち欲を思う。條暢の氣を感ぜしめて平和の鄹を滅す。是を以て君子は之を賤しむなり」
「土壌が痩せている時には草木も長大には育たず、漁期も決めずに乱獲していれば魚介類も獲れなくなり、そうでなくても、
冬のように気候が寒冷となる頃には生物の活動も衰える。それと同じように、世が乱れているときには礼節も隠されて、
人々も礼楽には当たらないような淫らな快楽に耽るようになる。そのため人々の声はいつも哀しみを帯びて荘重さを失い、
無理に楽しもうとしたところでどこまでも安らかならぬ渇望に苛まれる。驕慢安易にして節度を侵し、だらしなさに溺れて
物事の根本を見失う。寛容であろうとする時には奸邪を受け入れ、狭量であろうとする時には私利私欲ばかりを守ろうとする。
(仁者なら、寛容であろうとする時には天下万民の利益を受け入れ、狭量であろうとする時には奸邪を排しようとするだろう)
天地に満たされた伸びやかなる気に不埒な感傷を与えて平和の徳を衰滅させる。君子はこのようなことこそを賤しむ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
礼楽が覆い隠されて、奸邪を受け入れて仁義に狭量な、驕慢さ安易さばかりはびこる現代は、まさに「人類の冬」だといえる。
「封神演義」などの小説にも見られる、酒池肉林や炮烙の刑といった、殷の紂王の悪行の数々、
中には事実であるものもあれば、創作であるものもあり、中国史上にも稀に見る悪玉の暴君として、
半ば誇張気味にすらその悪行が後世に伝えられることとなった。
そのあまりの悪評高さに、孔子の弟子の子貢も「噂ほどにはひどくなかっただろう(子張第十九・二〇)」
と述べており、誇張気味の悪評がすでに、孔子の生きた春秋時代末期にも定着していたことが分かる。
しかし、紂王の悪行三昧も全くの創作というわけではなく、酒池肉林や炮烙の刑も実際にやったようだし、
何よりも「詩経」や「書経」などに、文王や武王が紂王の悪行三昧に苦言を呈したり、ついに放伐せんという
時の誓いの言葉などにおいて、本当に紂王がやっていた中でも致命的だった悪行が事細かに述べられている。
すでにここでも何度も引用しているところだが、簡単に言えば「奸邪を受け入れて小利を貪る」、
具体的には、賢臣や君子を退け佞臣や小人ばかりを近づけ、挙句には盗賊集団とまでも手を組み、
無辜の市民を襲っては利益を奪い去り、君主の身でありながら私利私欲ばかりを貪るといったもの。
(>>174の「詩経」大雅からの引用や、>>196の「書経」周書からの引用を参照)
これこそは、典型的な権力犯罪者の姿であり、酒池肉林のような私的な享楽以上にも致命的に許されない部分。
「史記」貨殖列伝冒頭で司馬遷も「最低の為政者は民と争う」と言っているが、自らが治めるべき民を敵に回し、
権力を順当な統治のためではなく、民の虐げのために乱用するようになる。小利を貪ることも純粋な商売人であれば
そんなに大きな問題とはならず、奸邪に走ることですら純粋な盗賊であるのみならば、十分な村八分を受けて
そんなに大きな被害をもたらすこともない。しかし、人の上に立つ権力者こそは奸邪や小利と結びつき、
子供のようなわがままを権力の嵩にかかって押し通すようになった時には、その危害たるや半端なものではなく、
天下全土が「人類の冬」とでも言えるほどの荒廃に陥ってしまう。
中には事実であるものもあれば、創作であるものもあり、中国史上にも稀に見る悪玉の暴君として、
半ば誇張気味にすらその悪行が後世に伝えられることとなった。
そのあまりの悪評高さに、孔子の弟子の子貢も「噂ほどにはひどくなかっただろう(子張第十九・二〇)」
と述べており、誇張気味の悪評がすでに、孔子の生きた春秋時代末期にも定着していたことが分かる。
しかし、紂王の悪行三昧も全くの創作というわけではなく、酒池肉林や炮烙の刑も実際にやったようだし、
何よりも「詩経」や「書経」などに、文王や武王が紂王の悪行三昧に苦言を呈したり、ついに放伐せんという
時の誓いの言葉などにおいて、本当に紂王がやっていた中でも致命的だった悪行が事細かに述べられている。
すでにここでも何度も引用しているところだが、簡単に言えば「奸邪を受け入れて小利を貪る」、
具体的には、賢臣や君子を退け佞臣や小人ばかりを近づけ、挙句には盗賊集団とまでも手を組み、
無辜の市民を襲っては利益を奪い去り、君主の身でありながら私利私欲ばかりを貪るといったもの。
(>>174の「詩経」大雅からの引用や、>>196の「書経」周書からの引用を参照)
これこそは、典型的な権力犯罪者の姿であり、酒池肉林のような私的な享楽以上にも致命的に許されない部分。
「史記」貨殖列伝冒頭で司馬遷も「最低の為政者は民と争う」と言っているが、自らが治めるべき民を敵に回し、
権力を順当な統治のためではなく、民の虐げのために乱用するようになる。小利を貪ることも純粋な商売人であれば
そんなに大きな問題とはならず、奸邪に走ることですら純粋な盗賊であるのみならば、十分な村八分を受けて
そんなに大きな被害をもたらすこともない。しかし、人の上に立つ権力者こそは奸邪や小利と結びつき、
子供のようなわがままを権力の嵩にかかって押し通すようになった時には、その危害たるや半端なものではなく、
天下全土が「人類の冬」とでも言えるほどの荒廃に陥ってしまう。
殷の紂王よりもさらに以前にいたとされる夏の桀王も、同様な悪行三昧に走ったせいで湯王の放伐を被ったというし、
秦の始皇帝なども、法律万能主義という武器を盾にしてはいたものの、その内実は上記のような暴君とも
代わる所がなかった。そして今の、法律万能主義にさらに「民主主義」という盾を二重に重ねた現代社会の政治体制も、
結局は内面に夏桀殷紂のごとき、権力犯罪による暴虐三昧の種を宿したままでいることには代わりなく、君主の徳性が
根本のところから正されていく権力道徳の条件を満たせていない点は同じ。奸邪の受け入れは民主主義によって
高度に正当化され、小利の貪りは資本主義によって高度に正当化された上で延命を続けており、さも悪性のガンが
強力な抗ガン剤によって何とか進行を防がれているものの、ガンそのものの治療はほったらかしにされているかの如く。
「王の所に在る者、長幼卑尊、皆な薛居州ならば、王誰と與にか不善を為さん。
王の所に在る者、長幼卑尊、皆な薛居州に非ざれば也、王誰と與にか善を為さん」
「王君に近侍するものが、年齢の長幼や身分の貴賤を問わず、皆な薛居州のような賢人ならば、王は誰と共に不善をなし得ようか。
また王君に近侍するものが、年齢の長幼や身分の貴賤を問わず、皆な薛居州のような賢人でないとすれば、王は誰と共に善をなし得ようか。
(問題は年齢の長幼や身分の貴賤以上にも、各人の徳性が正されていることである。そのためには当然、長幼貴賤の序も必要となるが)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・六より)
秦の始皇帝なども、法律万能主義という武器を盾にしてはいたものの、その内実は上記のような暴君とも
代わる所がなかった。そして今の、法律万能主義にさらに「民主主義」という盾を二重に重ねた現代社会の政治体制も、
結局は内面に夏桀殷紂のごとき、権力犯罪による暴虐三昧の種を宿したままでいることには代わりなく、君主の徳性が
根本のところから正されていく権力道徳の条件を満たせていない点は同じ。奸邪の受け入れは民主主義によって
高度に正当化され、小利の貪りは資本主義によって高度に正当化された上で延命を続けており、さも悪性のガンが
強力な抗ガン剤によって何とか進行を防がれているものの、ガンそのものの治療はほったらかしにされているかの如く。
「王の所に在る者、長幼卑尊、皆な薛居州ならば、王誰と與にか不善を為さん。
王の所に在る者、長幼卑尊、皆な薛居州に非ざれば也、王誰と與にか善を為さん」
「王君に近侍するものが、年齢の長幼や身分の貴賤を問わず、皆な薛居州のような賢人ならば、王は誰と共に不善をなし得ようか。
また王君に近侍するものが、年齢の長幼や身分の貴賤を問わず、皆な薛居州のような賢人でないとすれば、王は誰と共に善をなし得ようか。
(問題は年齢の長幼や身分の貴賤以上にも、各人の徳性が正されていることである。そのためには当然、長幼貴賤の序も必要となるが)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・六より)
しかし、本当に充実した毎日を遅らせてもらっている。
毎日四書五経から短文を引いて寸評を加える、ただそれだけで
どこまでも精神の健全さを保ち、心の修養にも努められる。
科挙のエリートだと、四十過ぎまで経書の勉強を続けてもまだ半人前扱い
される場合があったそうだが、それほどにも漢学の度量は深いということだ。
願わくば、おまえら全員が檻の中に入って道徳労働が可能となってから、
俺もそれなりの仕事をしながら経書の勉強も続けていきたいものだ。
毎日四書五経から短文を引いて寸評を加える、ただそれだけで
どこまでも精神の健全さを保ち、心の修養にも努められる。
科挙のエリートだと、四十過ぎまで経書の勉強を続けてもまだ半人前扱い
される場合があったそうだが、それほどにも漢学の度量は深いということだ。
願わくば、おまえら全員が檻の中に入って道徳労働が可能となってから、
俺もそれなりの仕事をしながら経書の勉強も続けていきたいものだ。
四書五経はあくまで、世に出てバリバリ働くことを奨励している書物であり、
「老子」「荘子」「列子」のような隠遁志向に根ざした書物ではない。
俗世の世知辛さをも最大級に受け止めて、それを乗り越えるだけの徳性を蓄えつつ
世に打って出るための精神的な武器として有効である書物。その徳性も、あくまで
自己修養を旨としており、脳内超越神への依存などによって陶酔状態に陥ることで、
俗世の世知辛さを苦痛として感じることもないマヒ状態に陥ったりするわけでもない。
ただ、経書の勉強とそれによる自己修養によって養われた徳性が
全く活かされもしないような賤業に携わらされることは、絶対に非とまではしないまでも、
是とまでもしない。四書五経はあくまで勤労を「奨励」する書物であって、「義務化」
する書物ではないから、どんな仕事でもいいから働いとけば是、働かなければ非なんていう
蒙昧な主張はどこを読んでも見当たらない。二宮金次郎の報徳思想なども、このような
経書の記述などを参考に勤労を奨励しており、隠遁志向の道家の学なども多少は学んだ上で、
勤労を義務化はせずとも奨励する儒家などの教えを追認する形で奨励してもいる。
近現代の日本人は、特に小中学校の校庭などに飾られている金次郎像などから、
さも二宮金次郎こそは、現憲法の27条にも記載されている勤労の義務化を提唱した人間だ
などと思い込んでいる場合があるが、二宮金次郎はあくまで勤労を「奨励」したのみであり、
その思想哲学的な根拠も、四書五経のような立派な正学によっている。勤労を奨励するのではなく
義務化して、どんな仕事でもいいからとにかく働いとけというエコノミックアニマル志向を
日本人に植え付けたのは、現憲法を創案したGHQであり、その論拠は旧約犯罪聖書における
アダムとイブの楽園追放寓話などでこそある。決して二宮金次郎の報徳思想や、その論拠でもある
四書五経によってではなく、カルト宗教の邪義によってこそ、日本人は牛馬のようにこき使われている
「老子」「荘子」「列子」のような隠遁志向に根ざした書物ではない。
俗世の世知辛さをも最大級に受け止めて、それを乗り越えるだけの徳性を蓄えつつ
世に打って出るための精神的な武器として有効である書物。その徳性も、あくまで
自己修養を旨としており、脳内超越神への依存などによって陶酔状態に陥ることで、
俗世の世知辛さを苦痛として感じることもないマヒ状態に陥ったりするわけでもない。
ただ、経書の勉強とそれによる自己修養によって養われた徳性が
全く活かされもしないような賤業に携わらされることは、絶対に非とまではしないまでも、
是とまでもしない。四書五経はあくまで勤労を「奨励」する書物であって、「義務化」
する書物ではないから、どんな仕事でもいいから働いとけば是、働かなければ非なんていう
蒙昧な主張はどこを読んでも見当たらない。二宮金次郎の報徳思想なども、このような
経書の記述などを参考に勤労を奨励しており、隠遁志向の道家の学なども多少は学んだ上で、
勤労を義務化はせずとも奨励する儒家などの教えを追認する形で奨励してもいる。
近現代の日本人は、特に小中学校の校庭などに飾られている金次郎像などから、
さも二宮金次郎こそは、現憲法の27条にも記載されている勤労の義務化を提唱した人間だ
などと思い込んでいる場合があるが、二宮金次郎はあくまで勤労を「奨励」したのみであり、
その思想哲学的な根拠も、四書五経のような立派な正学によっている。勤労を奨励するのではなく
義務化して、どんな仕事でもいいからとにかく働いとけというエコノミックアニマル志向を
日本人に植え付けたのは、現憲法を創案したGHQであり、その論拠は旧約犯罪聖書における
アダムとイブの楽園追放寓話などでこそある。決して二宮金次郎の報徳思想や、その論拠でもある
四書五経によってではなく、カルト宗教の邪義によってこそ、日本人は牛馬のようにこき使われている
「景春曰く、公孫衍・張儀は豈に誠に大丈夫ならざるや。一たび怒れば而ち諸侯懼れ、安居すれば而ち天下熄う。
孟子曰く、是れ焉んぞ大丈たるを得んや・子未だ禮を學ばざるか。丈夫の冠するや、父之れを命じ、女子の嫁ぐや、母之れを命ず。
往きて之を門に送り、之れを戒めて曰く、往きて女の家に之き、必ず敬みて必ず戒め、夫子に違うこと無かれと。(以下の引用は既出)
順うを以て正しと為すは、妾婦の道なり。天下の廣居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行く。志を得れば民と與に之れに由り、
志を得ざれば獨り其の道を行う。富貴も淫する能わず、貧賤も移うる能わず、威武も屈する能わず。此れを之れ大丈夫と謂えり」
「景春がいった。『(外交家として名を馳せた)公孫衍や張儀こそは大丈夫と言えるのではないでしょうか。なにしろ彼らが怒れば、
諸侯の離間工作によって戦争を巻き起こすために諸侯は恐懼し、逆に彼らが安息して居れば、天下はみな平穏でいるのですから』
孟子はいった。『そんなことで、なぜ大丈夫だなどと言えようか。男子が元服するときには、父がこれに大人としての心得を教え、
女子が嫁ぐときには母が婦女としての心得を教える。女子を実家の門まで送っては之を戒めて、これからあなたの家ともなる夫の家に
嫁いでは、必ず慎み戒めて夫に逆らうようなことが無いようにと教える。このように、従うを以て正しいと為すは婦女においてのみ正しい
とされることであり、諸侯に媚びへつらって外交を引き受けることが仕事である、公孫衍や張儀などが大丈夫であるなどとは到底いえない。
諸侯に諂ったりすることもなく、天下全土をわが家として広く居住まい、天下全土において正しき位に立ち、天下全土に通ずる大道を歩む。
志を叶えられる仕事に与れば、民と共にその仕事に励み、志を叶えられる仕事に与れなければ、たった独りであろうとも道に即している。
富貴の誘惑も乱すことはできず、貧賤の苦しみも変節させるには足らず、武力による威嚇も屈させるに値しない、これをこそ大丈夫という』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・二)
孟子曰く、是れ焉んぞ大丈たるを得んや・子未だ禮を學ばざるか。丈夫の冠するや、父之れを命じ、女子の嫁ぐや、母之れを命ず。
往きて之を門に送り、之れを戒めて曰く、往きて女の家に之き、必ず敬みて必ず戒め、夫子に違うこと無かれと。(以下の引用は既出)
順うを以て正しと為すは、妾婦の道なり。天下の廣居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行く。志を得れば民と與に之れに由り、
志を得ざれば獨り其の道を行う。富貴も淫する能わず、貧賤も移うる能わず、威武も屈する能わず。此れを之れ大丈夫と謂えり」
「景春がいった。『(外交家として名を馳せた)公孫衍や張儀こそは大丈夫と言えるのではないでしょうか。なにしろ彼らが怒れば、
諸侯の離間工作によって戦争を巻き起こすために諸侯は恐懼し、逆に彼らが安息して居れば、天下はみな平穏でいるのですから』
孟子はいった。『そんなことで、なぜ大丈夫だなどと言えようか。男子が元服するときには、父がこれに大人としての心得を教え、
女子が嫁ぐときには母が婦女としての心得を教える。女子を実家の門まで送っては之を戒めて、これからあなたの家ともなる夫の家に
嫁いでは、必ず慎み戒めて夫に逆らうようなことが無いようにと教える。このように、従うを以て正しいと為すは婦女においてのみ正しい
とされることであり、諸侯に媚びへつらって外交を引き受けることが仕事である、公孫衍や張儀などが大丈夫であるなどとは到底いえない。
諸侯に諂ったりすることもなく、天下全土をわが家として広く居住まい、天下全土において正しき位に立ち、天下全土に通ずる大道を歩む。
志を叶えられる仕事に与れば、民と共にその仕事に励み、志を叶えられる仕事に与れなければ、たった独りであろうとも道に即している。
富貴の誘惑も乱すことはできず、貧賤の苦しみも変節させるには足らず、武力による威嚇も屈させるに値しない、これをこそ大丈夫という』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・二)
1日ネット三昧か・・・
「戸を出でずして以て天下を知り、まどをうかがわずして以て天道を見る」とは老子の言であり、
同様の引きこもり業を実践して大悟した話が「列子」にも出てくる。
確かにそれは行き過ぎなことで、四書五経でそんなひきこもり志向が賞賛されているわけでもなく、
治水事業などのために、家に帰る間もなく方々を駆け回り、すね毛をすり減らして晩年には跛足と化した
夏王朝の創始者禹王などが、道家では批判の対象とされる一方で、儒家では評価の対象とされる。
しかし、実際問題として、乱世において儒家が通用する機会は極めて少なく、
楚漢戦争中に劉邦直属の説客として諸国を駆け回った老儒者の酈食其も、
味方であった将軍韓信の妬み込みな追い落としによって、説得先の斉で煮殺されることとなった。
「儒者は進取を共にするは難く、守成を共にするは可なり」と、自身も儒者だった叔孫通までもが
言っており、ある程度情勢の落ち着いた世の中であるならともかく、乱世における非常的な
処世法としては、儒学は到底有効であるとは言えず、目的のために選ばれない手段としての兵家や、
一切何もせずに引きこもることでストライキ状態に入る道家などのほうが有効ではある。
天下統一後も、諸侯の反乱や匈奴の侵略などでしばらくは情勢が落ち着ききらなかった前漢の初期にも、
呂后や文帝といった劉邦の後継者までもが、無為自然か、さもなくば規制緩和かといったような、
民衆の抑え付けを極力排した道家的統治を実践することで、事態の平穏化と民力の温存に努め、
武帝の代に至ることでついにその隆盛も極まり、蛮族匈奴も滅亡するなどして泰平が確立されたため、
董仲舒などを用いて儒学を官学化し、道家的統治によってこそ進取された泰平を、儒家によって守成する目処が立った。
同様の引きこもり業を実践して大悟した話が「列子」にも出てくる。
確かにそれは行き過ぎなことで、四書五経でそんなひきこもり志向が賞賛されているわけでもなく、
治水事業などのために、家に帰る間もなく方々を駆け回り、すね毛をすり減らして晩年には跛足と化した
夏王朝の創始者禹王などが、道家では批判の対象とされる一方で、儒家では評価の対象とされる。
しかし、実際問題として、乱世において儒家が通用する機会は極めて少なく、
楚漢戦争中に劉邦直属の説客として諸国を駆け回った老儒者の酈食其も、
味方であった将軍韓信の妬み込みな追い落としによって、説得先の斉で煮殺されることとなった。
「儒者は進取を共にするは難く、守成を共にするは可なり」と、自身も儒者だった叔孫通までもが
言っており、ある程度情勢の落ち着いた世の中であるならともかく、乱世における非常的な
処世法としては、儒学は到底有効であるとは言えず、目的のために選ばれない手段としての兵家や、
一切何もせずに引きこもることでストライキ状態に入る道家などのほうが有効ではある。
天下統一後も、諸侯の反乱や匈奴の侵略などでしばらくは情勢が落ち着ききらなかった前漢の初期にも、
呂后や文帝といった劉邦の後継者までもが、無為自然か、さもなくば規制緩和かといったような、
民衆の抑え付けを極力排した道家的統治を実践することで、事態の平穏化と民力の温存に努め、
武帝の代に至ることでついにその隆盛も極まり、蛮族匈奴も滅亡するなどして泰平が確立されたため、
董仲舒などを用いて儒学を官学化し、道家的統治によってこそ進取された泰平を、儒家によって守成する目処が立った。
引きこもりすらも全肯定する、道家はあくまで非常手段であり、総員テロリスト状態と化しているような
乱世に冷や水をぶっかける、消火栓的な役割のみを担う。総員テロリスト状態の乱世の中でも、
特にその主導者であるような連中が、軒並み自滅して死ぬなり投獄されるなりした上で、元凶根絶後の世の中の
ほうの泰平も確立されてから初めて、儒家による守成的な泰平統治も確立されていく。今はまだ、儒家までもが
絵に描いた餅状態であり、実際の餅を作って食べるようになるのは、その餅を食べるに値しない奴らがいなくなってから。
「富にして求むべくんば、執鞭の士と雖も、吾れ亦た之れを為さん。如し求むべからずんば、吾が好む所に從わん」
「(邦に道が行われて労働即道徳ともなり、)富すらも求めていいようならば、鞭をもつ市場の監督のような、しがない仕事すら
やっても構わない。しかし、(邦に道が行われず行動即犯罪となって未だ)求めてはいけないようならば、好きなようにやっていよう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・術而第七・一一より)
乱世に冷や水をぶっかける、消火栓的な役割のみを担う。総員テロリスト状態の乱世の中でも、
特にその主導者であるような連中が、軒並み自滅して死ぬなり投獄されるなりした上で、元凶根絶後の世の中の
ほうの泰平も確立されてから初めて、儒家による守成的な泰平統治も確立されていく。今はまだ、儒家までもが
絵に描いた餅状態であり、実際の餅を作って食べるようになるのは、その餅を食べるに値しない奴らがいなくなってから。
「富にして求むべくんば、執鞭の士と雖も、吾れ亦た之れを為さん。如し求むべからずんば、吾が好む所に從わん」
「(邦に道が行われて労働即道徳ともなり、)富すらも求めていいようならば、鞭をもつ市場の監督のような、しがない仕事すら
やっても構わない。しかし、(邦に道が行われず行動即犯罪となって未だ)求めてはいけないようならば、好きなようにやっていよう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・術而第七・一一より)

キリスト教徒の脳内にもその映像が備わる。それによって「我が心のうちにイエスがいらっしゃる」ということになって、
どんなに悪いことをしても、脳内の十字架に張り付けられたおっさんが、自分の代わりに罪を償ってくれた気になる。
キリスト教徒は、「鏡映認知障害者」だということだ。
キリストの偶像なんかではなく、鏡をのぞき見すらすれば、そこには紛う方なき自分自身の鏡像が映る。
その自分自身に関しての鏡映認知は疎かにして、自分自身とは全く別個の存在でしかない、十字架にかけられたおっさんを
自分自身と同等の姿だと思い込み、利権を貪る重権力犯罪者などでいながら、自らの罪が磔によって償われた気になっている。
稚拙なもんだ。少しも上等な宗教信仰でないのはもちろんのこと、そのカラクリからして子供だましであり、
子供だって多少賢けりゃ騙されるとも限らない。鏡映認知能力は、高等生物である人類の大部分はもちろんのこと、
人間の3歳児相当の知能を持つチンパンジーですら備えているというから、まさにキリスト教徒はチンパンジー以下。
異人種をサル扱いしていた白人のキリスト教徒たちこそは、
そのサル以下の知能の持ち主であることが、自分たちの宗教信仰のお粗末さによってこそ明らか。
「賢を見ては斉しからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省みる」
「すぐれた人を見れば自分もあやかろうと思い、低能な輩を見ればわが心の内に帰り、自らを反省する。
(相手が賢者であるにしろ低能であるにしろ、自他の別個性を踏まえた上で、
自らがどうあるべきかを別におもんばかる。健全な鏡映認知に即した戒め)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・一七より)

鏡映認知障害者なら、たとえばこの聖母子像を見ただけでも、まるで自分が聖母マリアに愛されているような気分になれる。
実際には、本人自身は画中のイエスのように赤ん坊であるわけでもなければ、自分がそのイエスのように、
聖母マリアに愛されているわけでもない。それでも、自分が目視したものが何でも自分自身に見えてしまう
鏡映認知障害者ならば、まるで自分自身が画中の赤ん坊になって、自分自身が美人の母親に愛されているような気になれる。
人間の3歳児と同等の知能を持つとされる、チンパンジーの成獣よりもさらに低い知能しか持ち合わせていないのが
鏡映認知障害者なわけだから、自分自身が3歳以下の赤ん坊であると思わせられることにも、確かに納得がいく。
そしてその、3歳以下の赤ん坊が愛されるようにして、自分もまた聖母に愛されていると思い込んで悦に入る。
これが、キリスト教で「神の愛」とか「キリストの愛」とか言われているものの正体。
鏡映認知の不全によって、十字架にかけられたイエスを見ただけで、さもそれが自分自身の姿であるかのように思い込んだり、
マリアに抱きかかえられている赤ん坊のイエスを見ただけで、まるで自分がそのイエスのように愛されている気になったりする。
気のせいだ。
全くの「気のせい」で、キリストを信仰するキリスト教徒たち自身が、イエスのように十字架にかけられて刑死したわけでもなければ、
赤ん坊であるイエスのようにマリアに抱きかかえられているわけでもない。刑死して罪が償われたのも気のせいなら、聖母に抱きかかえられて
寵愛されているのも気のせい。贖罪も偽物なら、愛も偽物。単なる気のせいに過ぎないを贖罪や愛を、ただ執拗に信じ込んでいるのみ。
「愛すらも気のせい」ってのが、本当にイタイところだ。ラブゲーをやって、登場人物に愛されたつもりになってるオタク並みか、
それ以上にもイタイ。ラブゲーはまだ、愛されムードをそれなりに演出してるから、多少バカなぐらいでも感情移入できるだろうが、
磔刑像や聖母子像はその演出すらなく、ただ十字架にかけられたおっさんを見ただけで自分自身の罪が償われた気になったり、
仲睦まじい母子像を見ただけで、自分が母親に愛されている赤ん坊になった気でいたりしてるんだから、ラブゲー以上にも真性だ。
偽物の虚構を本物だと信じ込む病理にかけてこそ、聖書信仰はラブゲー以上にも真性の深刻さを帯びているといえる。
それ以上にもイタイ。ラブゲーはまだ、愛されムードをそれなりに演出してるから、多少バカなぐらいでも感情移入できるだろうが、
磔刑像や聖母子像はその演出すらなく、ただ十字架にかけられたおっさんを見ただけで自分自身の罪が償われた気になったり、
仲睦まじい母子像を見ただけで、自分が母親に愛されている赤ん坊になった気でいたりしてるんだから、ラブゲー以上にも真性だ。
偽物の虚構を本物だと信じ込む病理にかけてこそ、聖書信仰はラブゲー以上にも真性の深刻さを帯びているといえる。
削除(by投稿者)
ここで主に引用してるのは仏典ではなく四書五経だが。
漢籍と仏典の区別も付かないのだろうか?
浄土三部経中の「観無量寿経」は、サンスクリット原典が遺失して漢訳版しか残っていない。
「十住心論」や「教行信証」は原漢文で、「論語」や「左伝」などの漢籍からの引用もある。
「正法眼蔵」や「歎異抄」に至っては原文から和文。インドの土着宗教であるバラモン・ヒンズー教ならともかく、
仏教は古来からインドという国を超えた全世界的な広がりを見せており、宗祖の達磨から
中国で布教を行い始めた禅仏教など、インドには元から存在しない仏教宗派もある。
始祖の釈迦から言語に囚われない布教を重んじて、サンスクリットよりも権威性の劣るマガダ語やパーリ語での
布教も行った。サンスクリット原典での精査が必要なのは、仏典よりもむしろヴェーダやウパニシャッドのほうだ。
漢籍も、今はこうやって原文読み下しと訳文で精査している。白文や訓点のみで読めればなおのこと善いだろうが、
古代の純漢文は現代中国語ともずいぶん読み方が異なっているようだし、日本語独特の読み回しにも味わいがある。
日本語による注釈がまだ未遂状態な、中国正史や全唐詩、朱子語類などの大部分は、嫌でもそのまま読まなけりゃならないが、
すでに注釈の行き届いている漢籍は、無理して原典にこだわるよりは、読み下しや訳文からでも、その内容の吟味に
努めたほうがいいと思う。金科玉条に掲げる以上にも、実用書として有用なことが漢籍には多く書かれているから。
「爾と偕に老いんとせしに、老ゆれば我れを怨ましむ。淇には則ち岸有り、隰には則ち泮有り。
總角の宴げ、言笑も晏晏と。信を誓うも旦旦たり、其の反らんことを思わざる。反らんこと是れ思わざれば、亦た已ぬるかな」
「あなたと共に老いることを誓ったというのに、老いてはもはやあなたを怨むばかり。川には岸があり、沢には水際があるように、
何事にも必ず限界がある。揚巻髪を結うほどにも幼い少女だった頃には、笑い話すも愉快で、信仰を誓うも深沈たるものだったのに、
もはやあの頃が返ってくるなどとは想像もつかない。あの頃が返ってくることなど諦めて、もうこれまでにしましょうね」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・衛風・氓より)
漢籍と仏典の区別も付かないのだろうか?
浄土三部経中の「観無量寿経」は、サンスクリット原典が遺失して漢訳版しか残っていない。
「十住心論」や「教行信証」は原漢文で、「論語」や「左伝」などの漢籍からの引用もある。
「正法眼蔵」や「歎異抄」に至っては原文から和文。インドの土着宗教であるバラモン・ヒンズー教ならともかく、
仏教は古来からインドという国を超えた全世界的な広がりを見せており、宗祖の達磨から
中国で布教を行い始めた禅仏教など、インドには元から存在しない仏教宗派もある。
始祖の釈迦から言語に囚われない布教を重んじて、サンスクリットよりも権威性の劣るマガダ語やパーリ語での
布教も行った。サンスクリット原典での精査が必要なのは、仏典よりもむしろヴェーダやウパニシャッドのほうだ。
漢籍も、今はこうやって原文読み下しと訳文で精査している。白文や訓点のみで読めればなおのこと善いだろうが、
古代の純漢文は現代中国語ともずいぶん読み方が異なっているようだし、日本語独特の読み回しにも味わいがある。
日本語による注釈がまだ未遂状態な、中国正史や全唐詩、朱子語類などの大部分は、嫌でもそのまま読まなけりゃならないが、
すでに注釈の行き届いている漢籍は、無理して原典にこだわるよりは、読み下しや訳文からでも、その内容の吟味に
努めたほうがいいと思う。金科玉条に掲げる以上にも、実用書として有用なことが漢籍には多く書かれているから。
「爾と偕に老いんとせしに、老ゆれば我れを怨ましむ。淇には則ち岸有り、隰には則ち泮有り。
總角の宴げ、言笑も晏晏と。信を誓うも旦旦たり、其の反らんことを思わざる。反らんこと是れ思わざれば、亦た已ぬるかな」
「あなたと共に老いることを誓ったというのに、老いてはもはやあなたを怨むばかり。川には岸があり、沢には水際があるように、
何事にも必ず限界がある。揚巻髪を結うほどにも幼い少女だった頃には、笑い話すも愉快で、信仰を誓うも深沈たるものだったのに、
もはやあの頃が返ってくるなどとは想像もつかない。あの頃が返ってくることなど諦めて、もうこれまでにしましょうね」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・衛風・氓より)
削除(by投稿者)
キリスト教徒こそは渇望の塊であり、七つの海を駆け回ってまでの世界侵略に及んだこともその現れでこそある。
最終的な世界侵略の優位者となったのはイギリスなどのプロテスタント勢力だったが、日本の戦国時代あたりまでは
スペインやポルトガルなどのカトリック勢力の侵略行為も活発で、日本に初めてキリスト教を伝染させたザビエルも
ポルトガルの宣教屋だった。今ではオカルト扱いされている南アメリカのマヤ文明なども、早い話がカトリック勢力からの
ホロコースト被害に遭っただけで、イギリス人によるタスマニア原住民のホロコーストとも並んで、
人類が“完遂”させた民族浄化の数少ない実例となっている。
ここ2、30年におけるキリスト教勢力による地球規模での人類史上未曾有の大虐殺も、その温床はといえば
遥か以前にまで遡り、コロンブスがアメリカ大陸を発見した1492年あたりから、キリスト教勢力による外界侵略の
魔の手はすでに伸ばされ始めており、しかもホロコーストのような大権力犯罪をも古来からずっと伴いつつある。
>>104図中の資本主義先進国による虐殺被害も、あくまでここ2、30年の被害だけに限っており、100年前や200年前にも、
ここまで数的には多くないにしろ、同じような蛮行をキリスト教徒は繰り返してきており、七つの海すら飲み干さんとする、
重大犯罪行為への際限ない渇望を根絶させるためには、もはやキリスト教全体の破棄が免れ得ないことが明らかとなっている。
「衡門の下、以て棲遲す可し。泌の洋洋たる、以て飢えを樂す可し」
「かやぶきの粗末な家でも、のどかな暮らしはできる。したたる程の泉水だけでも、飢渇を癒すには十分だ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・陳風・衡門より)
最終的な世界侵略の優位者となったのはイギリスなどのプロテスタント勢力だったが、日本の戦国時代あたりまでは
スペインやポルトガルなどのカトリック勢力の侵略行為も活発で、日本に初めてキリスト教を伝染させたザビエルも
ポルトガルの宣教屋だった。今ではオカルト扱いされている南アメリカのマヤ文明なども、早い話がカトリック勢力からの
ホロコースト被害に遭っただけで、イギリス人によるタスマニア原住民のホロコーストとも並んで、
人類が“完遂”させた民族浄化の数少ない実例となっている。
ここ2、30年におけるキリスト教勢力による地球規模での人類史上未曾有の大虐殺も、その温床はといえば
遥か以前にまで遡り、コロンブスがアメリカ大陸を発見した1492年あたりから、キリスト教勢力による外界侵略の
魔の手はすでに伸ばされ始めており、しかもホロコーストのような大権力犯罪をも古来からずっと伴いつつある。
>>104図中の資本主義先進国による虐殺被害も、あくまでここ2、30年の被害だけに限っており、100年前や200年前にも、
ここまで数的には多くないにしろ、同じような蛮行をキリスト教徒は繰り返してきており、七つの海すら飲み干さんとする、
重大犯罪行為への際限ない渇望を根絶させるためには、もはやキリスト教全体の破棄が免れ得ないことが明らかとなっている。
「衡門の下、以て棲遲す可し。泌の洋洋たる、以て飢えを樂す可し」
「かやぶきの粗末な家でも、のどかな暮らしはできる。したたる程の泉水だけでも、飢渇を癒すには十分だ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・陳風・衡門より)
罪があったり無かったりする程度の世の中では、罪の有無が有罪と無罪を分け、
誰しもに罪がある乱世においては、罪の軽重が有罪と無罪を分ける。
誰しもが贋金作りに奔走していた武帝期の漢において、その首謀者や責任者にこそ重罰が科され、
大多数の従犯民は恩赦で赦免されたように(「史記」平準書参照)、どこもかしこもが
罪で溢れ返っている世の中における、相応の断罪方法もまたちゃんと用意されている。
今ならば、金融犯罪の主導者や、その重大共犯である各界の権力者などが、実際に断罪される人間となる。
一方で、罪で溢れ返る世の中を根本から画策していく、聖書信仰のようなカルト信教もまた、
人としてではなく文化として断罪され、18禁メディア並みに村八分を受けた扱いとなる。
中国や日本の大部分では今もそうだが、全世界地球人類誰しもが、カルト信仰依存から卒業する。
「悠悠たる昊天、曰く父母なり。罪無く辜無きに、亂此くの如く憮いなり。
昊天已なはだ威あり、予れ慎に罪無し。昊天泰だ憮いなり、予れ慎に辜無し」
「雄大にして見晴るかす上天よ、わが父母よ。我こそは無罪にして無辜なれるも、世の乱れはかくのごとく痛ましい。
さりとて上天の畏怖も甚だしく、かつ我に真に罪は無し。上天もまた世の乱れを悼むも、我に真に罪は無し」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)
誰しもに罪がある乱世においては、罪の軽重が有罪と無罪を分ける。
誰しもが贋金作りに奔走していた武帝期の漢において、その首謀者や責任者にこそ重罰が科され、
大多数の従犯民は恩赦で赦免されたように(「史記」平準書参照)、どこもかしこもが
罪で溢れ返っている世の中における、相応の断罪方法もまたちゃんと用意されている。
今ならば、金融犯罪の主導者や、その重大共犯である各界の権力者などが、実際に断罪される人間となる。
一方で、罪で溢れ返る世の中を根本から画策していく、聖書信仰のようなカルト信教もまた、
人としてではなく文化として断罪され、18禁メディア並みに村八分を受けた扱いとなる。
中国や日本の大部分では今もそうだが、全世界地球人類誰しもが、カルト信仰依存から卒業する。
「悠悠たる昊天、曰く父母なり。罪無く辜無きに、亂此くの如く憮いなり。
昊天已なはだ威あり、予れ慎に罪無し。昊天泰だ憮いなり、予れ慎に辜無し」
「雄大にして見晴るかす上天よ、わが父母よ。我こそは無罪にして無辜なれるも、世の乱れはかくのごとく痛ましい。
さりとて上天の畏怖も甚だしく、かつ我に真に罪は無し。上天もまた世の乱れを悼むも、我に真に罪は無し」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)
中国で管仲や子産などによって初めて体系化され、それより少し後に古代ローマなどでも提唱された法律万能主義、
法家それ自体は、すでに子産の代において批判の対象とされ、「左伝」昭公六年に、成文法を公布した子産を
書簡を通じて大批判する叔向の弁が載せられている。儒家の正典である「左伝」にあえてそのような
史実が記録されているあたり、儒家もまた反法家であるかのように思われかねないが、別に儒家は法家を
完全否定するのではなく、法律よりもより積極的な修善志向としての道徳を、法律にさらに上乗せしているのみ。
ちょうど、仏教よりも100年ほど早くザラスシュトラによって提唱された拝火教(ゾロアスター教)における、
最高神アフラ・マズダーに付託しながらの善徳信仰が、より積極的な善徳の自力修習に努める仏教よりも
程度の低いものとはされながらも、密教の一部や浄土教などにおいて参考にされているのと同じ。
法律で罪悪を禁止すること、善徳を他力信仰に付託することなどは、それらもまた修善であるには違いないが、
あくまで消極的な修善であるが故に、より積極的な修善に努める儒家や自力仏教と比べれば、程度が低い。
別に法律や他力信仰を敵に回すわけではないが、道徳や真理修得はさらにそれらの上にあるということ。
法律を敵に回して罪悪への他力信仰に没入するカルト教義などは、道義上の敵に回すことにもなるだろうが、
法律や善徳への他力信仰に対しては、あまり頼りにはならないが、道義上相反するという所まではいかない。
悪法によって善悪がみそくそにされるようなことに対しても、悪法を特定して非難するのみであり、
善法の遵守にかけては、儒家は単なる法家以上にも積極的ですらあるのだ。
「君子は法を行いて、以て命を俟つのみ」
「君子は人としての法度にかなった行いに努めた上で、後は天命を待つのみである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三三より)
法家それ自体は、すでに子産の代において批判の対象とされ、「左伝」昭公六年に、成文法を公布した子産を
書簡を通じて大批判する叔向の弁が載せられている。儒家の正典である「左伝」にあえてそのような
史実が記録されているあたり、儒家もまた反法家であるかのように思われかねないが、別に儒家は法家を
完全否定するのではなく、法律よりもより積極的な修善志向としての道徳を、法律にさらに上乗せしているのみ。
ちょうど、仏教よりも100年ほど早くザラスシュトラによって提唱された拝火教(ゾロアスター教)における、
最高神アフラ・マズダーに付託しながらの善徳信仰が、より積極的な善徳の自力修習に努める仏教よりも
程度の低いものとはされながらも、密教の一部や浄土教などにおいて参考にされているのと同じ。
法律で罪悪を禁止すること、善徳を他力信仰に付託することなどは、それらもまた修善であるには違いないが、
あくまで消極的な修善であるが故に、より積極的な修善に努める儒家や自力仏教と比べれば、程度が低い。
別に法律や他力信仰を敵に回すわけではないが、道徳や真理修得はさらにそれらの上にあるということ。
法律を敵に回して罪悪への他力信仰に没入するカルト教義などは、道義上の敵に回すことにもなるだろうが、
法律や善徳への他力信仰に対しては、あまり頼りにはならないが、道義上相反するという所まではいかない。
悪法によって善悪がみそくそにされるようなことに対しても、悪法を特定して非難するのみであり、
善法の遵守にかけては、儒家は単なる法家以上にも積極的ですらあるのだ。
「君子は法を行いて、以て命を俟つのみ」
「君子は人としての法度にかなった行いに努めた上で、後は天命を待つのみである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三三より)

知能指数も、全体平均の100前後もあれば十分に理解できるような、平易な表現が尽くされている。
しかし、常時IQ100前後はないと、さすがに分からない。
たとえ一時的にであろうとも、知能指数をチンパンジーよりも低い40以下、
20や30といった重度の知的障害者レベルにまで引き落とすカルト教義などに陥っていたのなら、
たとえIQ180や200の天才であろうとも、四書五経の内容を理解することはできない。
極端な低能にも高知能にもぶれない、人としてのまっとうな知能を堅持し続けられている「庸徳」の持ち主だけが、
四書五経の内容も理解することができ、まさに知能の高低からの中庸を儒学は守り通しているといえる。
IQ100程度のまともな知能を堅持した上で、さらに高い知能を目指すのは全く構わないことで、
大乗仏教の密教や禅などが特に、高い知能と徳性を共に要求される内容になっているので、それらに「進学」してもいい。
ただ、知的障害レベルの低能から、急に天才や秀才を目指すのは全くの手順の取り違えであり、
まずは凡人並みの品性を修得することが先決。常にIQ100程度ではい続けることだ。
「凡そ我れの造れる邦、彝ならざるに從うこと無かれ。慆淫に即す無かれ。各おの爾の典を守りて、以て天の休を承けよ」
「私の創造した国家においては、中庸を欠いた常ならぬことどもに従ってはならぬ。驕りに任せて極端なことをしてはならぬ。
各々がそれぞれの身分に即した法度を守ることで、天の定められた大いなる命を請け従うのだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・湯誥)
キリスト教徒は、当然のこととして“常時”キリスト教徒でもある。
仮りに知能テストを受けて人並みのIQだと認定されたり、一流大学に合格したり一流企業に入社したりしたとしても、
やっぱり当人は常時キリスト教徒でいる。聖書から洗礼名をもらってたり、西洋人だと実名から聖書の引用だったりもし、
常日ごろいつでもキリスト者でいるように心がける。
それはつまり、いつでも必ず自らの知能指数を20〜30程度の重度知的障害レベルにまで引き落とす
用意ができているということで、チンパンジー級の鏡映認知能力すらも失った迷妄によって自らをキリストだなどと思い込み、
磔刑を受けて生き返った気になることで、どんなに重い罪を犯してもすでにその罪が償われたような気になる。
知的障害者が必ずしも犯罪者であるわけではないし、心神喪失をいいことに罪を犯して回る素養を蓄えているわけでもない。
しかし、キリスト教徒こそは、社会活動を行える程度の器質的な知能も備えながら、社会人にあるまじき犯罪行為などに
手を染めた時には、キリスト信仰によって知能を重度知的障害レベルにまで退行させて、自分自身が檻の中に入って
ちゃんと刑罰を受けたわけでもないのに、すでに自分自身の罪が償われたようなつもりになっている。
キリスト教徒こそは、人工的な知的障害の悪用者であり、IQ20〜30程度の重度知的障害レベルへの知能退行が、
罪を罪として認識し、罪悪感を抱くこともできなくなることを逆手にとって、その部分だけを宗教信仰として祭り上げることで、
どんな罪を犯しても罪悪感のかけらも抱かない精神薄弱者にすら社会的な延命の余地を与えたのがキリスト教でもある。
仮りに知能テストを受けて人並みのIQだと認定されたり、一流大学に合格したり一流企業に入社したりしたとしても、
やっぱり当人は常時キリスト教徒でいる。聖書から洗礼名をもらってたり、西洋人だと実名から聖書の引用だったりもし、
常日ごろいつでもキリスト者でいるように心がける。
それはつまり、いつでも必ず自らの知能指数を20〜30程度の重度知的障害レベルにまで引き落とす
用意ができているということで、チンパンジー級の鏡映認知能力すらも失った迷妄によって自らをキリストだなどと思い込み、
磔刑を受けて生き返った気になることで、どんなに重い罪を犯してもすでにその罪が償われたような気になる。
知的障害者が必ずしも犯罪者であるわけではないし、心神喪失をいいことに罪を犯して回る素養を蓄えているわけでもない。
しかし、キリスト教徒こそは、社会活動を行える程度の器質的な知能も備えながら、社会人にあるまじき犯罪行為などに
手を染めた時には、キリスト信仰によって知能を重度知的障害レベルにまで退行させて、自分自身が檻の中に入って
ちゃんと刑罰を受けたわけでもないのに、すでに自分自身の罪が償われたようなつもりになっている。
キリスト教徒こそは、人工的な知的障害の悪用者であり、IQ20〜30程度の重度知的障害レベルへの知能退行が、
罪を罪として認識し、罪悪感を抱くこともできなくなることを逆手にとって、その部分だけを宗教信仰として祭り上げることで、
どんな罪を犯しても罪悪感のかけらも抱かない精神薄弱者にすら社会的な延命の余地を与えたのがキリスト教でもある。
キリスト教徒すなわち器質からの知的障害者ではなく、IQ100を超えるような常人レベルの知能の持ち主でもあり得る。
しかし、連中がキリストを信仰している限りにおいては、少なからず重度知的障害レベルにまで知能退行している部分がある。
人としてそれなりの社会活動を行う知能と、重度知的障害級の低能とを同時に持ち合わせた精神分裂病患者でもあり、
重度知的障害であるのみならず、重度精神障害でもあるため、あらゆる行為能力を剥奪された禁治産者であることが適当。
IQ100程度の、人としての当たり前な品性を保ち続けることが「庸徳(中庸)」であり、これもまた君子の徳目であるから、
部分的にでも知能を重度知的障害レベルに引き落とすようなことすらあってはならず、もちろんそのような知能退行と、
人並みの知能や高知能の両刀使いである分裂病者であったりしてもいけない。別にIQが180や200でなくてもいいから、
常にIQ100程度ではあり続けること。IQ20〜30などにわざと知能を退行させるような薄徳には絶対に及ばぬこと。
「孰れか微生高を直と謂わん。或るひと醯を乞う、諸れを其の鄰りに乞いて之れを與う」
「誰が微生高のことを正直だなどと言ったのか。あやつの所に酢をもらいに行ったら、
自分も隣人から酢をもらって来てそれを与え、うわべだけを取り繕ったという。どこが正直なものか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・二四より)
しかし、連中がキリストを信仰している限りにおいては、少なからず重度知的障害レベルにまで知能退行している部分がある。
人としてそれなりの社会活動を行う知能と、重度知的障害級の低能とを同時に持ち合わせた精神分裂病患者でもあり、
重度知的障害であるのみならず、重度精神障害でもあるため、あらゆる行為能力を剥奪された禁治産者であることが適当。
IQ100程度の、人としての当たり前な品性を保ち続けることが「庸徳(中庸)」であり、これもまた君子の徳目であるから、
部分的にでも知能を重度知的障害レベルに引き落とすようなことすらあってはならず、もちろんそのような知能退行と、
人並みの知能や高知能の両刀使いである分裂病者であったりしてもいけない。別にIQが180や200でなくてもいいから、
常にIQ100程度ではあり続けること。IQ20〜30などにわざと知能を退行させるような薄徳には絶対に及ばぬこと。
「孰れか微生高を直と謂わん。或るひと醯を乞う、諸れを其の鄰りに乞いて之れを與う」
「誰が微生高のことを正直だなどと言ったのか。あやつの所に酢をもらいに行ったら、
自分も隣人から酢をもらって来てそれを与え、うわべだけを取り繕ったという。どこが正直なものか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・二四より)
中には器質からの知的障害であるキリスト教徒もいるだろうが、大部分のキリスト教徒は、
脳構造からの器質的な欠陥によって物理的に知能が低下している、完全な知的障害者(脳機能障害者)ではない。
ただ、劣悪なカルト信仰によって、人工的に自らの知能を重度知的障害レベルにまで低下させることで、
実害を伴う罪を犯した場合などにおける、罪悪感が全く抱けない状態に自分たちを追い込んでいる。
常時IQ20〜30程度である脳機能障害者であれば、全く法律行為などを行う能力も持たないため、
自力で金融詐欺のような知能犯罪に及ぶこともできない。しかし、キリスト教徒やユダヤ教徒の場合は
器質的な脳機能障害ではないので、法律行為や商業行為などを行う上での必要な能力を持てないこともない。
しかし、それらの行為能力の濫用によって他者に実害を加えた場合などに、IQ100程度の常識的な知能を
持つ人間であれば当然抱くような罪悪感を、IQ20〜30程度の低能状態に自らを追い込むカルト信仰によって
かなぐり捨てるために、聖書信者は、罪悪感を捨て去るための便宜的手段として知能退行を悪用しているといえる。
脳構造からの器質的な欠陥によって物理的に知能が低下している、完全な知的障害者(脳機能障害者)ではない。
ただ、劣悪なカルト信仰によって、人工的に自らの知能を重度知的障害レベルにまで低下させることで、
実害を伴う罪を犯した場合などにおける、罪悪感が全く抱けない状態に自分たちを追い込んでいる。
常時IQ20〜30程度である脳機能障害者であれば、全く法律行為などを行う能力も持たないため、
自力で金融詐欺のような知能犯罪に及ぶこともできない。しかし、キリスト教徒やユダヤ教徒の場合は
器質的な脳機能障害ではないので、法律行為や商業行為などを行う上での必要な能力を持てないこともない。
しかし、それらの行為能力の濫用によって他者に実害を加えた場合などに、IQ100程度の常識的な知能を
持つ人間であれば当然抱くような罪悪感を、IQ20〜30程度の低能状態に自らを追い込むカルト信仰によって
かなぐり捨てるために、聖書信者は、罪悪感を捨て去るための便宜的手段として知能退行を悪用しているといえる。
IQ100程度の知的健常者でい続けることもできなくはないため、聖書信者は完全な知的障害者としての
条件を満たしているとはいえない。しかし、犯罪行為に手を染めたりしても全く罪悪感を抱かないような
サイコパス状態に自らを追い込むために、重度知的障害レベルへの知能退行を実現するカルト信仰を
悪用していることは、「重度精神障害」の条件を満たしてはいるといえる。
それどころか、犯罪行為による罪悪感の払拭のために、重度知的障害レベルへの知能退行を悪用することは、
あらゆる精神障害の中でも最も深刻かつ重度な障害であるといえ、ただ自分自身が何もできない、
働くことも悪いこともできないというような症状を伴う精神障害以上にも、最も危険極まりない障害だといえる。
ただ何もできなくなるだけの精神障害ならば、別に人さまに迷惑をかけることもなく、最悪でも自分自身が
貧窮して餓死したりするだけでしかない。しかし、犯罪行為に伴う罪悪感を、人工的な知能退行によって払拭することで
際限のない犯罪行為に手を染めるような症状を伴う精神障害こそは、人さまに迷惑をかけて死傷にも追い込むものだから、
これこそは最も厳重な行為能力制限下に置かれる必要があるといえ、あらゆる法律行為の自力での行使を剥奪される
成年被後見人などの、最重度の禁治産者として扱われることが適切かつ急務であるといえる。
「君子野に在り、小人位に在り。民棄てて保んぜず。天之に咎を降す」
「賢明な君子は野に放擲され、低能な小人ばかりが位について栄華を誇る。そのために天も災いを下して咎めている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・大禹謨より)
条件を満たしているとはいえない。しかし、犯罪行為に手を染めたりしても全く罪悪感を抱かないような
サイコパス状態に自らを追い込むために、重度知的障害レベルへの知能退行を実現するカルト信仰を
悪用していることは、「重度精神障害」の条件を満たしてはいるといえる。
それどころか、犯罪行為による罪悪感の払拭のために、重度知的障害レベルへの知能退行を悪用することは、
あらゆる精神障害の中でも最も深刻かつ重度な障害であるといえ、ただ自分自身が何もできない、
働くことも悪いこともできないというような症状を伴う精神障害以上にも、最も危険極まりない障害だといえる。
ただ何もできなくなるだけの精神障害ならば、別に人さまに迷惑をかけることもなく、最悪でも自分自身が
貧窮して餓死したりするだけでしかない。しかし、犯罪行為に伴う罪悪感を、人工的な知能退行によって払拭することで
際限のない犯罪行為に手を染めるような症状を伴う精神障害こそは、人さまに迷惑をかけて死傷にも追い込むものだから、
これこそは最も厳重な行為能力制限下に置かれる必要があるといえ、あらゆる法律行為の自力での行使を剥奪される
成年被後見人などの、最重度の禁治産者として扱われることが適切かつ急務であるといえる。
「君子野に在り、小人位に在り。民棄てて保んぜず。天之に咎を降す」
「賢明な君子は野に放擲され、低能な小人ばかりが位について栄華を誇る。そのために天も災いを下して咎めている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・大禹謨より)
たまには外の空気吸えよ
孔子孟子老子荘氏荀子列子墨子韓非子鬼谷子恵子公孫龍子・・・
中国諸子百家にあてられている「子」という文字は、今の「師」という意味で、
「子曰く」とは「先生は仰った」という意味にあたる。
今の日本だと、女子の名に用いられる「〜子(こ)」とも混同されかねないため、
ここで「論語」などからの引用を行う時には、「子曰」をあえて省いたり、
文脈上省けない場合にも「孔先生は言った」などと置き換えたりしている。
ただ、論語の大部分の格言が「子曰」に始まっているのは周知のことで、
あらゆる師の中でも最高の師にあたる孔子の格言であることから、
固有名詞である「孔」も抜きにして、「子曰」とのみ冠した上で言葉が述べられている。
「墨子」だと「子墨子曰」になっているし、「孟子」でも「孟子曰」になっている。
固有名詞抜きの「子曰」といえば、なんといっても孔子の専売特許であり、
孔子こそは、全世界全人類にとっての代表中の代表たる師であるといえる。
ところで、孔子は何の「師」かといえば、教学の師だ。教師中の教師であり、学師中の学師。
別に、奇術師中の奇術師でもなければ、ペテン師中のペテン師でもないから、
奇術師やペテン師にこそ特有の奇を衒った言行などはどこにも見当たらない。
むしろ、模範的な教師たらんとするあまり、堅物すぎるような言行すら見られ、
有名進学塾の名物教師などのような、サービス精神にも乏しいところがある。
善くも悪しくも、それが模範的な教師としてのあり方であり、
生徒を善い方向に教導するためにこそ、己れの研鑽に対して真摯であろうとする。
それでこそ教師としては理想的なのであり、奇術師やペテン師や詐欺師などとは違う。
「堅物だから教師に相応しくなく、奇を衒うサービス精神が旺盛だから教師に相応しい」
などというのは、学問の本分を取り違えた根本からの過ちであり、奇術やサービスのほうが
大事だというのなら、それを学問への志しなどと混同するべきではない。奇術に関して、
サービスやペテンに関して興味があるというのなら、別に思想哲学板にいるべきでもない。
中国諸子百家にあてられている「子」という文字は、今の「師」という意味で、
「子曰く」とは「先生は仰った」という意味にあたる。
今の日本だと、女子の名に用いられる「〜子(こ)」とも混同されかねないため、
ここで「論語」などからの引用を行う時には、「子曰」をあえて省いたり、
文脈上省けない場合にも「孔先生は言った」などと置き換えたりしている。
ただ、論語の大部分の格言が「子曰」に始まっているのは周知のことで、
あらゆる師の中でも最高の師にあたる孔子の格言であることから、
固有名詞である「孔」も抜きにして、「子曰」とのみ冠した上で言葉が述べられている。
「墨子」だと「子墨子曰」になっているし、「孟子」でも「孟子曰」になっている。
固有名詞抜きの「子曰」といえば、なんといっても孔子の専売特許であり、
孔子こそは、全世界全人類にとっての代表中の代表たる師であるといえる。
ところで、孔子は何の「師」かといえば、教学の師だ。教師中の教師であり、学師中の学師。
別に、奇術師中の奇術師でもなければ、ペテン師中のペテン師でもないから、
奇術師やペテン師にこそ特有の奇を衒った言行などはどこにも見当たらない。
むしろ、模範的な教師たらんとするあまり、堅物すぎるような言行すら見られ、
有名進学塾の名物教師などのような、サービス精神にも乏しいところがある。
善くも悪しくも、それが模範的な教師としてのあり方であり、
生徒を善い方向に教導するためにこそ、己れの研鑽に対して真摯であろうとする。
それでこそ教師としては理想的なのであり、奇術師やペテン師や詐欺師などとは違う。
「堅物だから教師に相応しくなく、奇を衒うサービス精神が旺盛だから教師に相応しい」
などというのは、学問の本分を取り違えた根本からの過ちであり、奇術やサービスのほうが
大事だというのなら、それを学問への志しなどと混同するべきではない。奇術に関して、
サービスやペテンに関して興味があるというのなら、別に思想哲学板にいるべきでもない。
などということを説明したところで、今まさに重度知的障害レベルにまで知能が退行している
キリスト教徒たち自身からまず、自分たちの過ちに気づいて改悛反省するなどということはあるまい。
まずはキリスト教徒でもないような第三者が、キリスト教徒たちの真性の重度精神障害を切にわきまえて、
もう一人前の思想哲学宗教の享受者などではないことを正式に認めた上で、好悪や支持不支持などを排した
切実な事務処理としての、重度精神障害罹患型カルト宗教の廃絶に努めていかなければならない。
「子貢問うて曰く、孔文子は何を以てか之れを文と謂うや。
子曰く、敏にして學を好み、下問を恥じず、是れを以て文と謂うなり」
「子貢が問うた。『衛の大夫の孔文子は、なぜ文という贈り名(死後におくられる名)なのでしょうか』
先生(もちろん孔子)は答えた。『敏腕でありながら学問好きでもあり、目下の者にすら教えを乞うことを
恥じないほどにも向学心が豊かであったために、文聖としての偉大さを評価されて文と贈り名されたのだ』
(『史記』仲尼列伝にも、孔子が万人を師とするほどもの向学心の持ち主であったことが記録されている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一五)
キリスト教徒たち自身からまず、自分たちの過ちに気づいて改悛反省するなどということはあるまい。
まずはキリスト教徒でもないような第三者が、キリスト教徒たちの真性の重度精神障害を切にわきまえて、
もう一人前の思想哲学宗教の享受者などではないことを正式に認めた上で、好悪や支持不支持などを排した
切実な事務処理としての、重度精神障害罹患型カルト宗教の廃絶に努めていかなければならない。
「子貢問うて曰く、孔文子は何を以てか之れを文と謂うや。
子曰く、敏にして學を好み、下問を恥じず、是れを以て文と謂うなり」
「子貢が問うた。『衛の大夫の孔文子は、なぜ文という贈り名(死後におくられる名)なのでしょうか』
先生(もちろん孔子)は答えた。『敏腕でありながら学問好きでもあり、目下の者にすら教えを乞うことを
恥じないほどにも向学心が豊かであったために、文聖としての偉大さを評価されて文と贈り名されたのだ』
(『史記』仲尼列伝にも、孔子が万人を師とするほどもの向学心の持ち主であったことが記録されている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一五)
[YouTubeで再生]
母子家庭の末弟のノータリン息子が、
「お兄ちゃんたちには将来があるけど、あんたには将来がないから勉強しなくてもいいの」と言われ、
三人の兄たちが勉強している中で一人だけほっとかれる。つまんないから暇つぶしに色々といたずらをやってみて、
最後にはお兄ちゃんやお母さんまで巻き込んでのてんてこ舞い状態にしてしまう。
本当に勉強をしようとしている兄たちのように、ノータリンの末弟も遊ぶことが勉強だと
思っているのかもしれないが、あんまりことお遊びが行き過ぎたせいで、兄たちの勉強までをも阻害してしまう。
まさに、今の地球人類社会の縮図。誰が三人の兄で、誰がノータリンの末弟なのかは、もうあえて指摘もするまい。
「大夫強くして君之れを殺すは義なり」
「一部の派閥内の主であるような者が強くなりすぎた場合などに、天下全土を司る君主がこれを殺すのは義である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)

「お兄ちゃんたちには将来があるけど、あんたには将来がないから勉強しなくてもいいの」と言われ、
三人の兄たちが勉強している中で一人だけほっとかれる。つまんないから暇つぶしに色々といたずらをやってみて、
最後にはお兄ちゃんやお母さんまで巻き込んでのてんてこ舞い状態にしてしまう。
本当に勉強をしようとしている兄たちのように、ノータリンの末弟も遊ぶことが勉強だと
思っているのかもしれないが、あんまりことお遊びが行き過ぎたせいで、兄たちの勉強までをも阻害してしまう。
まさに、今の地球人類社会の縮図。誰が三人の兄で、誰がノータリンの末弟なのかは、もうあえて指摘もするまい。
「大夫強くして君之れを殺すは義なり」
「一部の派閥内の主であるような者が強くなりすぎた場合などに、天下全土を司る君主がこれを殺すのは義である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)
削除(by投稿者)
「子貢、告朔の餼羊を去らんと欲す。子曰く、賜や、爾は其の羊を愛む、我は其の禮を愛む」
「子貢が、魯の国での告朔の礼が形骸化し、羊を生贄にする慣習ばかりしか残されていないのを見て、
その生贄もやめさせようとした。それを見て孔子は言われた。『賜(子貢)よ、おまえはその羊を惜しがって
いるようだが、私はその羊の生贄すらなくなることで、礼の風習が完全に途絶えてしまうことのほうが惜しい』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・一七より)
儀礼が形骸化して最後に羊の生贄だけが残ったのは、当然祭りの後に羊の肉を食うからだ。
その物質主義的な傾向を子貢は卑しんだが、孔子は「それでもまだないよりはマシだ」とした。
でも、子貢のほうが実は貨殖功利でいち財産を気づいていたり、孔子のほうが野に放擲されて貧窮したりしている。
高祖劉邦の重臣で陰険な戦略家だった張良も、穀物すら口にしない菜食主義者だったというが、かえって世知辛い
浮世に精通して嫌気がさしたような人間のほうが、その罪滅ぼしとでもいわんかのような極端な浄行に努めようとする。
梁の恵王にまみえた孟子も、祭りの生贄になる牛を見た恵王が、牛を不憫に思ってより小さな羊に替えさせたことを
惻隠の情の表れとして称えるなど、恵王本人ですら気づかなかったような仔細にまで配慮を行き届かせている。
こういう細かな部分の緩急を読み取れるのは、孟子が苦学者でもあった現れであるといえ、極端から極端に
走ったりしない中正も、やはり極端な乱行や浄行を避けるところで育まれるものであるのだろう。
「子貢が、魯の国での告朔の礼が形骸化し、羊を生贄にする慣習ばかりしか残されていないのを見て、
その生贄もやめさせようとした。それを見て孔子は言われた。『賜(子貢)よ、おまえはその羊を惜しがって
いるようだが、私はその羊の生贄すらなくなることで、礼の風習が完全に途絶えてしまうことのほうが惜しい』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・一七より)
儀礼が形骸化して最後に羊の生贄だけが残ったのは、当然祭りの後に羊の肉を食うからだ。
その物質主義的な傾向を子貢は卑しんだが、孔子は「それでもまだないよりはマシだ」とした。
でも、子貢のほうが実は貨殖功利でいち財産を気づいていたり、孔子のほうが野に放擲されて貧窮したりしている。
高祖劉邦の重臣で陰険な戦略家だった張良も、穀物すら口にしない菜食主義者だったというが、かえって世知辛い
浮世に精通して嫌気がさしたような人間のほうが、その罪滅ぼしとでもいわんかのような極端な浄行に努めようとする。
梁の恵王にまみえた孟子も、祭りの生贄になる牛を見た恵王が、牛を不憫に思ってより小さな羊に替えさせたことを
惻隠の情の表れとして称えるなど、恵王本人ですら気づかなかったような仔細にまで配慮を行き届かせている。
こういう細かな部分の緩急を読み取れるのは、孟子が苦学者でもあった現れであるといえ、極端から極端に
走ったりしない中正も、やはり極端な乱行や浄行を避けるところで育まれるものであるのだろう。
削除(by投稿者)
状況が悪くなってるとしても、それは俺ではなくおまえらのせいだ。
俺は自分自身にできる限りにおいての、最もマシな選択の限りを尽くしている。
野放し状態の重権力犯罪者や重度精神障害者=現代人の大部分との付き合いも避けて、
今の世の中においては最もマシな部類の人間であることに勤めている。
その俺が今の状況をより悪くしている張本人などであるはずがなく、
事態をより悪くしていったり、少なくとも善くしたりマシにしようともしていない
おまえらのほうがよっぽど、今という劣悪な状況の責任者であるに違いない。
野放し状態の重権力犯罪者や重度精神障害者でもあるおまえらが、
性懲りもなく今の社会の最高責任者でもあり続けることで、世の中全体が破滅へと追い込まれ、
ちょうど今でも何千万人と餓死して行っているアフリカの飢餓民などのように、
俺もおまえらの重権力犯罪の犠牲になって、他業自得によって殺害されてしまう。
それは、決して俺の本望ではないが、少なくとも、おまえらとつるんで
今の世の中での重権力犯罪に加担したりするよりは、まだ望むところだ。
もちろんおまえらを檻の中や閉鎖病棟の中に閉じ込めて、俺のほうが世の中を
健全な状態へと持っていく道徳労働に励むほうがより善いに決まっているが、
それがかなわない限りにおいて、おまえらとの友愛を受け入れさせられて共犯と化せられるのと、
おまえらとの友愛を拒んだ挙句に野垂れ死にに追い込まれるのと、いずれかでしか
あり得ないというのなら、当然のこととして後者を選ぶ。別に武王や周公ほどの
徳性を備えているわけでもないおまえらへの協力など、伯夷や叔斉級の聖人でなくたって断る。
俺は自分自身にできる限りにおいての、最もマシな選択の限りを尽くしている。
野放し状態の重権力犯罪者や重度精神障害者=現代人の大部分との付き合いも避けて、
今の世の中においては最もマシな部類の人間であることに勤めている。
その俺が今の状況をより悪くしている張本人などであるはずがなく、
事態をより悪くしていったり、少なくとも善くしたりマシにしようともしていない
おまえらのほうがよっぽど、今という劣悪な状況の責任者であるに違いない。
野放し状態の重権力犯罪者や重度精神障害者でもあるおまえらが、
性懲りもなく今の社会の最高責任者でもあり続けることで、世の中全体が破滅へと追い込まれ、
ちょうど今でも何千万人と餓死して行っているアフリカの飢餓民などのように、
俺もおまえらの重権力犯罪の犠牲になって、他業自得によって殺害されてしまう。
それは、決して俺の本望ではないが、少なくとも、おまえらとつるんで
今の世の中での重権力犯罪に加担したりするよりは、まだ望むところだ。
もちろんおまえらを檻の中や閉鎖病棟の中に閉じ込めて、俺のほうが世の中を
健全な状態へと持っていく道徳労働に励むほうがより善いに決まっているが、
それがかなわない限りにおいて、おまえらとの友愛を受け入れさせられて共犯と化せられるのと、
おまえらとの友愛を拒んだ挙句に野垂れ死にに追い込まれるのと、いずれかでしか
あり得ないというのなら、当然のこととして後者を選ぶ。別に武王や周公ほどの
徳性を備えているわけでもないおまえらへの協力など、伯夷や叔斉級の聖人でなくたって断る。
富貴も得るに値するほどマシな世の中なら得たって構わないが、得るに値しないなら得ないまでのこと。
おまえらと共に得るに値する富貴など、この世界この宇宙どこを探したって一つも見当たらない。
「豐年黍多なり稌多なる。亦た高き廩有り、萬億に及ぶ秭。
酒を為り醴を為りて、祖妣に烝め畀え、以に百禮を洽せまつるに。降福は孔と皆たき」
今年は豊年で餅黍も餅稲もたくさん獲れた。米倉に蓄える稲束も高々と、万億の量に及ぶ。
酒を造り甘酒も造り、祖先の神様にお供えもして、百礼を尽くして祭ることの、なんとめでたさこの上ない。
(富貴豊作を素直に喜ぶ気持ちも、人としての精神の健全さの現れの一つだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・臣工之什・豐年より)
おまえらと共に得るに値する富貴など、この世界この宇宙どこを探したって一つも見当たらない。
「豐年黍多なり稌多なる。亦た高き廩有り、萬億に及ぶ秭。
酒を為り醴を為りて、祖妣に烝め畀え、以に百禮を洽せまつるに。降福は孔と皆たき」
今年は豊年で餅黍も餅稲もたくさん獲れた。米倉に蓄える稲束も高々と、万億の量に及ぶ。
酒を造り甘酒も造り、祖先の神様にお供えもして、百礼を尽くして祭ることの、なんとめでたさこの上ない。
(富貴豊作を素直に喜ぶ気持ちも、人としての精神の健全さの現れの一つだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・臣工之什・豐年より)
誰の責任かは問題じゃない、状況が悪くなっていくという事自体が一番問題だ。
世の中を責めてみても、その世の中に存在している以上は絶対そこから逃げられない。
いくら長大な論文という形で悲鳴をあげ続けても、誰もお前を助ける事はできない。
世の中を責めてみても、その世の中に存在している以上は絶対そこから逃げられない。
いくら長大な論文という形で悲鳴をあげ続けても、誰もお前を助ける事はできない。
いつ、誰が助けを頼んだよ?
ただ檻の中や閉鎖病棟の中でじっとしてろって言ってるだけじゃねえか?
ただ何もしないでいるだけで、世の中に与える害悪の度合いが遥かに引き下がるような、
有害かつ無益な行為能力濫用者どもの自業他得によって、やむを得ないわけでもないのに
受動的な破滅に追い込まれている人々が何万何億にも上っている。そこに対して俺なんかが
何らかの作為を加えて救ってあげたりするだなんてこともなければ、作為を加えることで
救ってもらうだなんてこともない。ただ何もしなくなればいいだけのこと。
世の中が積極的に善くなる以前に、まず殊更に悪くはならないこと。
そのために誰かが誰かに助けられる必要なんて少しもなく、ただ害悪の元凶にもなっている、
野放し状態の重権力犯罪者やサイコパス患者が積極的な活動をやめればいいだけのこと。
そしたらわざわざ助けられなくたって、俺だって俺なりの自力によって相応の生活も営んでいく。
否が応もなく、多くの人々が重権力犯罪によって、やむを得ないわけでもないのに命を落として
いっている今の世の中で、自分ばかりが助かりたいだなんて選民志向も、俺にはない。そんな
志向を宿していることはかえって卑しいことだとも思うから、進んでかなぐり捨てすらもする。
つまり、俺が権力犯罪被害によってのたれ死ぬことが、選別的に救われることは断じて拒む。
それだったらまだのたれ死んだほうがマシ。ただ、のたれ死ぬでもなく、のたれ死ぬところを
選別的に救われるでもなく、権力犯罪者どもが一網打尽となって誰しもが活路を開かれる中に、
自分もまた生き延びるをつてを模索していくというのなら、それが最高であるに違いない。
俺が個人的に救われる<俺が天下万民と共にのたれ死ぬ<天下万民と共に俺も生き延びる。
ただ檻の中や閉鎖病棟の中でじっとしてろって言ってるだけじゃねえか?
ただ何もしないでいるだけで、世の中に与える害悪の度合いが遥かに引き下がるような、
有害かつ無益な行為能力濫用者どもの自業他得によって、やむを得ないわけでもないのに
受動的な破滅に追い込まれている人々が何万何億にも上っている。そこに対して俺なんかが
何らかの作為を加えて救ってあげたりするだなんてこともなければ、作為を加えることで
救ってもらうだなんてこともない。ただ何もしなくなればいいだけのこと。
世の中が積極的に善くなる以前に、まず殊更に悪くはならないこと。
そのために誰かが誰かに助けられる必要なんて少しもなく、ただ害悪の元凶にもなっている、
野放し状態の重権力犯罪者やサイコパス患者が積極的な活動をやめればいいだけのこと。
そしたらわざわざ助けられなくたって、俺だって俺なりの自力によって相応の生活も営んでいく。
否が応もなく、多くの人々が重権力犯罪によって、やむを得ないわけでもないのに命を落として
いっている今の世の中で、自分ばかりが助かりたいだなんて選民志向も、俺にはない。そんな
志向を宿していることはかえって卑しいことだとも思うから、進んでかなぐり捨てすらもする。
つまり、俺が権力犯罪被害によってのたれ死ぬことが、選別的に救われることは断じて拒む。
それだったらまだのたれ死んだほうがマシ。ただ、のたれ死ぬでもなく、のたれ死ぬところを
選別的に救われるでもなく、権力犯罪者どもが一網打尽となって誰しもが活路を開かれる中に、
自分もまた生き延びるをつてを模索していくというのなら、それが最高であるに違いない。
俺が個人的に救われる<俺が天下万民と共にのたれ死ぬ<天下万民と共に俺も生き延びる。
元号事典をパラパラとめくっていて気づいたが、
明和水産の語源になっている「明和(1764-1772)」も、実は「書経」からの引用なんだな。
虞書・堯典の「百姓を昭明し、萬邦を協和せしむ」という部分。
これは「昭和」の引用元でもあり、「平成」の出典も「書経」の虞書・大禹謨。
禁中並公家諸法度で、幕府も「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」と取り決めるなどしていたが、
確かに朝廷は古来から学問を重んじていて、その最大の学問対象はなんといっても四書五経、
次いで史書、詩歌の順となっている。日本文化の通奏低音ともなっている儒学。
あまりにも常時響き渡り続けているために、誰もそれをそれと意識することすらない。
「子、磬を衛に撃つ。蕢を荷ないて孔氏の門を過ぐる者あり。曰く、心有るかな、磬を撃つこと。
既にして曰く、鄙しきかな。硜硜乎たり。己れを知ること莫くんば、斯れ己まんのみ。
深ければ則ち﨤し、淺ければ則ち掲す。子曰く、果なるかな。難きこと末きなり矣」
「先生が衛で磬という打楽器を演奏されていたとき、もっこを荷なって家の門を通り過ぎようとする者がいた。
一聴して『心ある音だな、この磬の音色は』と言った。しかししばらくしてまた言った。
『しかし卑俗なものだ。自分を分かってもらいたいあまりの緊張感をも帯びている。
誰も自分のことを分かってくれないのなら、ただ活動を控えていればいいだけのこと。
深い川では着物を脱ぎ、浅い川では裾を上げる(詩経・匏有苦葉からの引用)。
そのようにして、世の乱れに対しても適当に対応すればいいだけのことさ』
先生は言った。『思い切りのいい人だね。しかし、別に難しいことでもないさ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・四一)
明和水産の語源になっている「明和(1764-1772)」も、実は「書経」からの引用なんだな。
虞書・堯典の「百姓を昭明し、萬邦を協和せしむ」という部分。
これは「昭和」の引用元でもあり、「平成」の出典も「書経」の虞書・大禹謨。
禁中並公家諸法度で、幕府も「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」と取り決めるなどしていたが、
確かに朝廷は古来から学問を重んじていて、その最大の学問対象はなんといっても四書五経、
次いで史書、詩歌の順となっている。日本文化の通奏低音ともなっている儒学。
あまりにも常時響き渡り続けているために、誰もそれをそれと意識することすらない。
「子、磬を衛に撃つ。蕢を荷ないて孔氏の門を過ぐる者あり。曰く、心有るかな、磬を撃つこと。
既にして曰く、鄙しきかな。硜硜乎たり。己れを知ること莫くんば、斯れ己まんのみ。
深ければ則ち﨤し、淺ければ則ち掲す。子曰く、果なるかな。難きこと末きなり矣」
「先生が衛で磬という打楽器を演奏されていたとき、もっこを荷なって家の門を通り過ぎようとする者がいた。
一聴して『心ある音だな、この磬の音色は』と言った。しかししばらくしてまた言った。
『しかし卑俗なものだ。自分を分かってもらいたいあまりの緊張感をも帯びている。
誰も自分のことを分かってくれないのなら、ただ活動を控えていればいいだけのこと。
深い川では着物を脱ぎ、浅い川では裾を上げる(詩経・匏有苦葉からの引用)。
そのようにして、世の乱れに対しても適当に対応すればいいだけのことさ』
先生は言った。『思い切りのいい人だね。しかし、別に難しいことでもないさ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・四一)
論語に菜食をすすめる記述や
仏教も菜食を進めてるのに
(ただしブッダ自体は肉をたべていたと思われる)
菜食を実行しないだろうなこの人はww
たぶんよく味付けされたステーキなんかを舌鳴らしながら食べてるんだろうw。
別に俺も菜食してるわけじゃないけどな。
一度だけ一年ぐらい肉と魚をやめたことがあったが。
だが君は論語や仏典を読み込んでるなら菜食を実践するべきだw
孔子も実践を重んじるだろう?
子曰、君子欲訥於言、而敏於行、
仏教も菜食を進めてるのに
(ただしブッダ自体は肉をたべていたと思われる)
菜食を実行しないだろうなこの人はww
たぶんよく味付けされたステーキなんかを舌鳴らしながら食べてるんだろうw。
別に俺も菜食してるわけじゃないけどな。
一度だけ一年ぐらい肉と魚をやめたことがあったが。
だが君は論語や仏典を読み込んでるなら菜食を実践するべきだw
孔子も実践を重んじるだろう?
子曰、君子欲訥於言、而敏於行、
肉も食うさ。食うことは食うが、食い過ぎも禁物だ。
古来から、牛やら羊やらの家畜が神への生贄として捧げられた上で屠られていたのは、
人間自身が肉を食うために、自分たちと同じ高等動物を殺害する後ろめたさを払拭するためだった。
だからこそ、神に捧げるわけでもないのに、ただ肉を売りさばくためだけに家畜を殺す
屠殺業者などへの差別が生じたりもしていた。孟子も「君子は包厨を遠ざく」といい、
生贄の牛をより小さな羊に替えさせた恵王の情け深さを褒め称えたりするなど、
ただ欲望のままに肉食を欲したりすることが、確かに儒家でも控えるべきものとされている。
しかし、実際のところ儒家は牛羊豚鶏などを生贄にする儀式を礼節上、推奨してもいる。
生贄に捧げた畜獣を当然あとで食うわけで、「喪に服している間は中年までは肉を食わず、
高齢者だけは食べてもいい」などの記述が「礼記」にもあるなど、肉食に関しての取り決めも細密。
年寄りが死者の後追いなどをしないように、栄養ある肉食を絶やさぬようにとの配慮から、
服喪中の肉食すらも認めているように、肉食の効用も十分に推し量った上で、節度を保った上での肉食を認めている。
もちろん、人間までは食うべきでないとしている。生きとし生けるものは何でも食う中国では、
本当に人間を神の生贄に捧げて、その肉を食うところまでやっていたことがある。
もちろんその人間も重犯罪者であったりしたわけだけれども、人肉食も「礼記」や「左伝」では非難されている。
本当に生贄に捧げて、本当に食った上で、やっぱりいけないことだと再認しているわけだから、
御伽噺上の人間の生贄を称えているアレなどよりも、よく経験を積んだ上で正しい判断を下しているといえる。
古来から、牛やら羊やらの家畜が神への生贄として捧げられた上で屠られていたのは、
人間自身が肉を食うために、自分たちと同じ高等動物を殺害する後ろめたさを払拭するためだった。
だからこそ、神に捧げるわけでもないのに、ただ肉を売りさばくためだけに家畜を殺す
屠殺業者などへの差別が生じたりもしていた。孟子も「君子は包厨を遠ざく」といい、
生贄の牛をより小さな羊に替えさせた恵王の情け深さを褒め称えたりするなど、
ただ欲望のままに肉食を欲したりすることが、確かに儒家でも控えるべきものとされている。
しかし、実際のところ儒家は牛羊豚鶏などを生贄にする儀式を礼節上、推奨してもいる。
生贄に捧げた畜獣を当然あとで食うわけで、「喪に服している間は中年までは肉を食わず、
高齢者だけは食べてもいい」などの記述が「礼記」にもあるなど、肉食に関しての取り決めも細密。
年寄りが死者の後追いなどをしないように、栄養ある肉食を絶やさぬようにとの配慮から、
服喪中の肉食すらも認めているように、肉食の効用も十分に推し量った上で、節度を保った上での肉食を認めている。
もちろん、人間までは食うべきでないとしている。生きとし生けるものは何でも食う中国では、
本当に人間を神の生贄に捧げて、その肉を食うところまでやっていたことがある。
もちろんその人間も重犯罪者であったりしたわけだけれども、人肉食も「礼記」や「左伝」では非難されている。
本当に生贄に捧げて、本当に食った上で、やっぱりいけないことだと再認しているわけだから、
御伽噺上の人間の生贄を称えているアレなどよりも、よく経験を積んだ上で正しい判断を下しているといえる。
削除(by投稿者)
礼儀は純粋道徳と現実活動の中庸だ。
正式な礼法に基づいて執り行われる儀式などが、道徳性に根ざしていなければ
ならないのはもちろんだが、逆に現実上の利害得失から極端にかけ離れたものとなってもいけない。
豪華なお供え物などを祖神にお供えしたとしても、ご先祖さまはとっくの昔に亡くなってるわけだから、
最後には自分たちでお供え物を食べることになる、そのような儀式外のことを考慮に入れないよりは、
考慮に入れた上で礼法を構築していったほうが、四六時中いつであっても通用する礼法ともなる。
悟りを得た坊さんでもないから、もちろん性欲はある。
性欲はあっても稼ぎはないから遊べもしない。これまた故出精戒まで守らされる
坊さんではないから自慰だってしないことはない。ただ、もちろんそれが本望ではなく、
一人前の稼ぎによって妻子も養っていく立場になることのほうが望みだ。
しかし、それは「重権力犯罪者や重度精神障害者として」ではないから、
そのような人間のクズに成り下がりながらでしか稼ぐことができないような状態である
今の世の中で稼いだりはできないので、やむやむなくなく自制状態を保っているわけだ。
欲望はあっても、それを自制することによって社会的な害悪を最小限に食い止めもする、
それは、礼儀の理念にも即していることなので、儒学を志すものとしては当然のたしなみであるといえる。
食欲にしろ性欲にしろ、欲はほしいままにするべからず(礼記・曲礼上第一)。
ほしいままにすらしなければ欲望すらも認められるのが礼儀なのだから、
仏教の戒律などよりもよっぽど融通が利いているといえる。
正式な礼法に基づいて執り行われる儀式などが、道徳性に根ざしていなければ
ならないのはもちろんだが、逆に現実上の利害得失から極端にかけ離れたものとなってもいけない。
豪華なお供え物などを祖神にお供えしたとしても、ご先祖さまはとっくの昔に亡くなってるわけだから、
最後には自分たちでお供え物を食べることになる、そのような儀式外のことを考慮に入れないよりは、
考慮に入れた上で礼法を構築していったほうが、四六時中いつであっても通用する礼法ともなる。
悟りを得た坊さんでもないから、もちろん性欲はある。
性欲はあっても稼ぎはないから遊べもしない。これまた故出精戒まで守らされる
坊さんではないから自慰だってしないことはない。ただ、もちろんそれが本望ではなく、
一人前の稼ぎによって妻子も養っていく立場になることのほうが望みだ。
しかし、それは「重権力犯罪者や重度精神障害者として」ではないから、
そのような人間のクズに成り下がりながらでしか稼ぐことができないような状態である
今の世の中で稼いだりはできないので、やむやむなくなく自制状態を保っているわけだ。
欲望はあっても、それを自制することによって社会的な害悪を最小限に食い止めもする、
それは、礼儀の理念にも即していることなので、儒学を志すものとしては当然のたしなみであるといえる。
食欲にしろ性欲にしろ、欲はほしいままにするべからず(礼記・曲礼上第一)。
ほしいままにすらしなければ欲望すらも認められるのが礼儀なのだから、
仏教の戒律などよりもよっぽど融通が利いているといえる。
まだやってたのか。早く病院に行ったほうが良いんだけど
周りの家族とかは諦めてるのかねえ・・・。可哀相に。
周りの家族とかは諦めてるのかねえ・・・。可哀相に。
四書は今でも人口に膾炙しているし、「詩経」や「書経」や「易経」も、元号への引用や占いなどを通じてそれなりに流布されている。
「春秋左氏伝」は純粋な歴史書であり、「史記」などでその記録が焼き直されているところもあるし、乱世の卑俗な為政者どもの
劣悪な行状に対する懲罰的な意図も込められているため、万人が模範とすべき名言や格言の引用先としての利用価値は低い。
四書五経中でも「礼記」こそは、模範とすべき名言や格言の宝庫であり、その具体的な実践手段を事細かに記録した実用書でもあるという、
極めて高い利用価値を備えながらも、未だ十全な活用の果たされてきたことのない不遇の書(「不具の書」ではない)となっている。
「古代中国の礼法を今の人間がそのまま用いる必要はない」ということは、佐藤一斎も「言志四録」で述べており、
実際、日本には日本特有の礼法を精選した「延喜式」などの格式集があるので、日本人がそっくりそのまま参考にする上で適切なのは
むしろ礼記よりも延喜式などのほうなわけだが、結局、礼法というものがどのような根拠に基づいて構築されているのかという
理論的な原典となっているのはやはり礼記のほうであり、単なる堅苦しい形式主義としてのみ礼儀作法を嗜むよりは、それぞれの礼法が
いかなる根拠に即してて成立して来たのかを、礼記などを参考にして理解しながら礼儀作法も嗜んでいくほうが、意味不明な礼式に
辟易を抱いたりすることもなく、よくよく納得しながらの充実した道徳活動が推進していけるようになるだろう。
「春秋左氏伝」は純粋な歴史書であり、「史記」などでその記録が焼き直されているところもあるし、乱世の卑俗な為政者どもの
劣悪な行状に対する懲罰的な意図も込められているため、万人が模範とすべき名言や格言の引用先としての利用価値は低い。
四書五経中でも「礼記」こそは、模範とすべき名言や格言の宝庫であり、その具体的な実践手段を事細かに記録した実用書でもあるという、
極めて高い利用価値を備えながらも、未だ十全な活用の果たされてきたことのない不遇の書(「不具の書」ではない)となっている。
「古代中国の礼法を今の人間がそのまま用いる必要はない」ということは、佐藤一斎も「言志四録」で述べており、
実際、日本には日本特有の礼法を精選した「延喜式」などの格式集があるので、日本人がそっくりそのまま参考にする上で適切なのは
むしろ礼記よりも延喜式などのほうなわけだが、結局、礼法というものがどのような根拠に基づいて構築されているのかという
理論的な原典となっているのはやはり礼記のほうであり、単なる堅苦しい形式主義としてのみ礼儀作法を嗜むよりは、それぞれの礼法が
いかなる根拠に即してて成立して来たのかを、礼記などを参考にして理解しながら礼儀作法も嗜んでいくほうが、意味不明な礼式に
辟易を抱いたりすることもなく、よくよく納得しながらの充実した道徳活動が推進していけるようになるだろう。
>>257の引用に関連しての話だが、何もしないでじっとしているのなんて、簡単なことだ。
今だとマッカーサー憲法の27条に違反する関係などで、働かないことが非人も同然の扱いを受けるが、
何のことはない、何もしないだけなのだから、害もなければ益もない、恬淡寂寞とした安穏たる存在であるのみ。
人間ってのは、そういう風にできている。別に牛馬のようにこき使われることで
精神の安定を得たりするのではなく、何もしないでじっとしている中にこそ、最高の安定を得ることができる。
その安定をあえて選択せずに、あたかも孔子や二宮尊徳のように、熱心な勤労に励むということは、これまた結構なことだ。
しかし、何もしないでいることが苦しみであり、何かをしていることが精神の安定に繋がるなどという間違った見識に即して、
多動性障害も同然の奴隷使役に没頭したりするのでは、無為自然の徳も計り知った上で、あえて積極的な労役に勤めようとする、
真っ当な勤労道徳にすら反することとなる。無為自然の徳を否定しているのみならず、健全な勤労道徳をも共に否定しており、
行動と不動のいずれにおいても、人として誤ったあり方ばかりを尽くすことになる。
何もしないところに最高の安定を保証するのは、何も俺に始まったことではなく、老荘列などの道家思想や、
仏教思想の一部などが、無為自然の手堅さを明確に是認してもいる。にもかかわらず「何もしないことが悪」だなどという
風説ばかりがまかり通っているのは、旧約犯罪聖書におけるアダムとイブの楽園追放寓話の流布のせいであったりする。
このようなカルト教義が正式なものとして触れ回られることで、何もしないでいることへの罪悪感が人工的に生み出されもし、
本当に何もしないでいることが苦しくもなる。そもそも、そのようなカルト教義の正当性を認めず、「何もしないことが悪」だ
などという観念を脳内から取っ払った上で何もしないでいれば、奴隷使役などに没頭するよりも遥かに安定した精神が得られる。
今だとマッカーサー憲法の27条に違反する関係などで、働かないことが非人も同然の扱いを受けるが、
何のことはない、何もしないだけなのだから、害もなければ益もない、恬淡寂寞とした安穏たる存在であるのみ。
人間ってのは、そういう風にできている。別に牛馬のようにこき使われることで
精神の安定を得たりするのではなく、何もしないでじっとしている中にこそ、最高の安定を得ることができる。
その安定をあえて選択せずに、あたかも孔子や二宮尊徳のように、熱心な勤労に励むということは、これまた結構なことだ。
しかし、何もしないでいることが苦しみであり、何かをしていることが精神の安定に繋がるなどという間違った見識に即して、
多動性障害も同然の奴隷使役に没頭したりするのでは、無為自然の徳も計り知った上で、あえて積極的な労役に勤めようとする、
真っ当な勤労道徳にすら反することとなる。無為自然の徳を否定しているのみならず、健全な勤労道徳をも共に否定しており、
行動と不動のいずれにおいても、人として誤ったあり方ばかりを尽くすことになる。
何もしないところに最高の安定を保証するのは、何も俺に始まったことではなく、老荘列などの道家思想や、
仏教思想の一部などが、無為自然の手堅さを明確に是認してもいる。にもかかわらず「何もしないことが悪」だなどという
風説ばかりがまかり通っているのは、旧約犯罪聖書におけるアダムとイブの楽園追放寓話の流布のせいであったりする。
このようなカルト教義が正式なものとして触れ回られることで、何もしないでいることへの罪悪感が人工的に生み出されもし、
本当に何もしないでいることが苦しくもなる。そもそも、そのようなカルト教義の正当性を認めず、「何もしないことが悪」だ
などという観念を脳内から取っ払った上で何もしないでいれば、奴隷使役などに没頭するよりも遥かに安定した精神が得られる。
おまえらはまだ、カルト教義に脳内を蝕まれているせいで、何もしないでいることを確かに苦しみだと感じてもいる。
しかし、俺はもうすでに脳内からカルト教義による洗脳を払拭して、無為自然の徳こそは真正であるとわきまえているから、
何もしないでいることに心からの安定を感じ取ってもいる。もちろん安穏としてばかりいたいというのではなく、
孔子や二宮尊徳のように、健全な勤労道徳に即して働きたいという気持ちもあるが、別にそれはおまえらのように、
カルト教義に蝕まれて、無為自然を苦であると感じているから働きたかったりするのではない。心から、世のため人のために
挺身していきたいという、仁徳ないし菩提心の発露によって働きたいと思っているのであり、別に働かなくたって、
何もしないでいたって、それが苦であるだなどということはなく、むしろ自分ばかりが安穏とし過ぎていることが後ろめたいほどだ。
「(憲問うて曰く)克、伐、怨、欲行われざるを以て仁と為すべし。子曰く、以て難しと為すべし。仁は則ち吾れ知らざるなり」
「孔子の弟子の原憲が問うた。『勝ち気と自慢げと怨恨と欲望が完全に捨て去れたなら仁と言えましょう』
先生は言った。『それらは確かに難しいことだ。しかし、それだけで仁と言っていいのかは分からない』
(無為の易行と戒律厳守の難行のどちらも仁には当たらず、克伐怨欲の自然な抑制が仁ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・二より)
しかし、俺はもうすでに脳内からカルト教義による洗脳を払拭して、無為自然の徳こそは真正であるとわきまえているから、
何もしないでいることに心からの安定を感じ取ってもいる。もちろん安穏としてばかりいたいというのではなく、
孔子や二宮尊徳のように、健全な勤労道徳に即して働きたいという気持ちもあるが、別にそれはおまえらのように、
カルト教義に蝕まれて、無為自然を苦であると感じているから働きたかったりするのではない。心から、世のため人のために
挺身していきたいという、仁徳ないし菩提心の発露によって働きたいと思っているのであり、別に働かなくたって、
何もしないでいたって、それが苦であるだなどということはなく、むしろ自分ばかりが安穏とし過ぎていることが後ろめたいほどだ。
「(憲問うて曰く)克、伐、怨、欲行われざるを以て仁と為すべし。子曰く、以て難しと為すべし。仁は則ち吾れ知らざるなり」
「孔子の弟子の原憲が問うた。『勝ち気と自慢げと怨恨と欲望が完全に捨て去れたなら仁と言えましょう』
先生は言った。『それらは確かに難しいことだ。しかし、それだけで仁と言っていいのかは分からない』
(無為の易行と戒律厳守の難行のどちらも仁には当たらず、克伐怨欲の自然な抑制が仁ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・二より)
削除(by投稿者)
食っていかない
削除(by投稿者)
貧窮してネット環境が維持できなくなれば個人的な手記に切り替え、
パソコンすら使えなくなればチラシの裏などへの手書きに切り替え、
食費が無くなるか、筆記具代が無くなるか辺りの所で自分も亡くなる。
それまでのことだ。
「克く俊徳を明らかにして、以て九族を親しませしむ。九族すでに睦まじみ、百姓を平章せしむ。
百姓昭明にして万邦を協和せしむ。黎民ここに変じ、これ雍らぐ。」
「徳性に優れた者をよく引き立てて、九世代以上にも渡って人々を親睦させる。
九世代以上にも親睦させた結果、家系をあまり重んじない百姓町人の間柄までもが和らげられる。
百姓町人すらもが昭明であることにより、天下全土の万国が仲良くなり、
民衆たちも十分に教化されて、誰しもが和らぐようになる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・堯典より)
パソコンすら使えなくなればチラシの裏などへの手書きに切り替え、
食費が無くなるか、筆記具代が無くなるか辺りの所で自分も亡くなる。
それまでのことだ。
「克く俊徳を明らかにして、以て九族を親しませしむ。九族すでに睦まじみ、百姓を平章せしむ。
百姓昭明にして万邦を協和せしむ。黎民ここに変じ、これ雍らぐ。」
「徳性に優れた者をよく引き立てて、九世代以上にも渡って人々を親睦させる。
九世代以上にも親睦させた結果、家系をあまり重んじない百姓町人の間柄までもが和らげられる。
百姓町人すらもが昭明であることにより、天下全土の万国が仲良くなり、
民衆たちも十分に教化されて、誰しもが和らぐようになる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・堯典より)
何のことはない。
資本主義先進国の重権力犯罪者や重度精神障害者が
世界中に撒き散らし続けている多大なる迷惑を、自分もまた被ることを避けないだけだ。
明治以降の日本は、欧米勢力による外界侵略の危害を自分たちだけでも避けるために、
帝国主義や資本主義といった、欧米流のイデオロギーに自分たちも与する「同じ穴の狢」となったわけだが、
案の定、それは重権力犯罪の被害者ではなく加害者になっただけのことであり、
罪も他愛もない平穏な存在であることを守り通したりしたのではなかった。
中国のように、国際権力犯罪の加害者側になることなく欧米に抵抗する国もあるが、
インドのように、抵抗も服従もすることなく乞食を量産している国もある。
俺が今ここで引用しているのは、中国原産である四書五経のほうだが、
実践面はむしろ、非抵抗・不服従というインドのやり方に近似している。
乞食と化してまで重権力犯罪者への協力を拒否する、中国人などからは清濁併せ呑む
度量にも欠けているように思われても仕方のないやり方に倣っているわけで、
清濁併せ呑み過ぎたせいで、時には欧米並みにも凶悪であることのある中国文化の内での、
日本人も取り入れるぐらいに優良さの保てている部類に入る儒学の実践こそが
可能となった時に初めて、行動面から中国文化にも倣うことがある。
さんざん漢学を引き合いに出しておきながら、肝心の俺自身は、
漢学を積極的に実践したことはまだない。ただひたすら行動の消極化を促す、
道家の無為自然の実践ぐらいはできているかもしれないにしろ。
「仁者は難を先にし獲るを後にす」
「仁者は苦難を先に受け止めた上で、その後に何らかの収穫を得ようとするものだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・二二より)
資本主義先進国の重権力犯罪者や重度精神障害者が
世界中に撒き散らし続けている多大なる迷惑を、自分もまた被ることを避けないだけだ。
明治以降の日本は、欧米勢力による外界侵略の危害を自分たちだけでも避けるために、
帝国主義や資本主義といった、欧米流のイデオロギーに自分たちも与する「同じ穴の狢」となったわけだが、
案の定、それは重権力犯罪の被害者ではなく加害者になっただけのことであり、
罪も他愛もない平穏な存在であることを守り通したりしたのではなかった。
中国のように、国際権力犯罪の加害者側になることなく欧米に抵抗する国もあるが、
インドのように、抵抗も服従もすることなく乞食を量産している国もある。
俺が今ここで引用しているのは、中国原産である四書五経のほうだが、
実践面はむしろ、非抵抗・不服従というインドのやり方に近似している。
乞食と化してまで重権力犯罪者への協力を拒否する、中国人などからは清濁併せ呑む
度量にも欠けているように思われても仕方のないやり方に倣っているわけで、
清濁併せ呑み過ぎたせいで、時には欧米並みにも凶悪であることのある中国文化の内での、
日本人も取り入れるぐらいに優良さの保てている部類に入る儒学の実践こそが
可能となった時に初めて、行動面から中国文化にも倣うことがある。
さんざん漢学を引き合いに出しておきながら、肝心の俺自身は、
漢学を積極的に実践したことはまだない。ただひたすら行動の消極化を促す、
道家の無為自然の実践ぐらいはできているかもしれないにしろ。
「仁者は難を先にし獲るを後にす」
「仁者は苦難を先に受け止めた上で、その後に何らかの収穫を得ようとするものだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・二二より)
なんで日に二回も引用するんだろうな。
そんなに焦り合う間柄でもなかろうに。
「哲夫は城を成し、哲婦は城を傾く」
「大夫にして透哲するものは持つべき城を成すが、
匹婦にして透哲するものはむしろ持つべき城すらも傾ける」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・讒仰より)
そんなに焦り合う間柄でもなかろうに。
「哲夫は城を成し、哲婦は城を傾く」
「大夫にして透哲するものは持つべき城を成すが、
匹婦にして透哲するものはむしろ持つべき城すらも傾ける」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・讒仰より)
削除(by投稿者)
人口分布と昇給を考えたらそれくらい普通だろ
今の日本人の価値観からすれば、当然のことだろうな。
封建制や世襲制を取っ払って、士農工商の位階に基づく正しい職業倫理のわきまえも、
老耄の手前で未然に次世代へと家督を譲り、自らは悠々自適の隠居生活を送る無為自然のわきまえも
疎かになりながら、旧来の序列志向だけは完全に払拭しきれないままに、稼げば稼ぐほど偉いような、
商人階級の内側だけでの序列が横行しているような今の日本社会においては、
年功序列が所得格差に直結するのも当たり前のことのように思われるのだろう。
巨万の富を持つことがかえって賤しまれていた本物の封建主義社会とは、
もはや位階が転覆してしまっているにも関わらず。
封建制や世襲制を取っ払って、士農工商の位階に基づく正しい職業倫理のわきまえも、
老耄の手前で未然に次世代へと家督を譲り、自らは悠々自適の隠居生活を送る無為自然のわきまえも
疎かになりながら、旧来の序列志向だけは完全に払拭しきれないままに、稼げば稼ぐほど偉いような、
商人階級の内側だけでの序列が横行しているような今の日本社会においては、
年功序列が所得格差に直結するのも当たり前のことのように思われるのだろう。
巨万の富を持つことがかえって賤しまれていた本物の封建主義社会とは、
もはや位階が転覆してしまっているにも関わらず。
キリスト教徒が人類史上未曾有の重権力犯罪に手を染めながら、
心の平穏を保っていられることにも、ちゃんと人知の範囲内における種や仕掛けがある。
恒常的に知能指数が低数値であり続けるのが知的障害者であるのに対し、恒常的に知能指数が高数値であり続けるのが
知的健常者かつ精神健常者。このような健常者をここでは「常人」と呼ぶことにするが、常人であってなおかつ知能指数が
120〜130程度以上であり続けられる「常人かつ秀才」が賢人と呼ばれ、知能指数が恒常的に150を上回るような
「常人かつ天才」が聖人と呼ばれる。しかし、このようなな人間はそうそうにはいるものではなく、巷で「天才」とか「秀才」とか
呼ばれているような人間の大部分は「精神障害者かつ天才」や「精神障害者かつ秀才」であるのみで、これらは聖賢には当たらない。
アインシュタインとか夏目漱石とかは天才や秀才であっても少なからず精神障害者でもあったのであり、弘法大師や林羅山のような
天才や秀才であってなおかつ聖人や賢人でもあったような人間とは全く別個の存在となっている。
それでは、「精神障害者」とは何かと言えば、瞬間的には凡才や秀才、さらには天才並みの知能指数をもはじき出せるものの、
それとは逆に、恒常的には常人並みの知能指数(IQ100前後)すら保てず、知的障害に当たるIQ70以下の低能となる場合がままある、
知能指数が時系列の発展に即して極端に不安定である者が「精神障害者」であるのであり、キリスト教徒はこの中でも最も重度な、
IQが最低だと20〜30程度にまで低下することのある「重度精神障害者」であり、知能テストでIQ100以上をはじき出すような
凡才や秀才や天才並みの瞬間的知能の持ち主であっても、信仰によって人工的に知能を重度知的障害レベルにまで落ち込ませてもいる。
そのため罪の意識に苛まれるような状況になれば、罪の何たるかを理解できない精神障害者に陥れるようになる。
心の平穏を保っていられることにも、ちゃんと人知の範囲内における種や仕掛けがある。
恒常的に知能指数が低数値であり続けるのが知的障害者であるのに対し、恒常的に知能指数が高数値であり続けるのが
知的健常者かつ精神健常者。このような健常者をここでは「常人」と呼ぶことにするが、常人であってなおかつ知能指数が
120〜130程度以上であり続けられる「常人かつ秀才」が賢人と呼ばれ、知能指数が恒常的に150を上回るような
「常人かつ天才」が聖人と呼ばれる。しかし、このようなな人間はそうそうにはいるものではなく、巷で「天才」とか「秀才」とか
呼ばれているような人間の大部分は「精神障害者かつ天才」や「精神障害者かつ秀才」であるのみで、これらは聖賢には当たらない。
アインシュタインとか夏目漱石とかは天才や秀才であっても少なからず精神障害者でもあったのであり、弘法大師や林羅山のような
天才や秀才であってなおかつ聖人や賢人でもあったような人間とは全く別個の存在となっている。
それでは、「精神障害者」とは何かと言えば、瞬間的には凡才や秀才、さらには天才並みの知能指数をもはじき出せるものの、
それとは逆に、恒常的には常人並みの知能指数(IQ100前後)すら保てず、知的障害に当たるIQ70以下の低能となる場合がままある、
知能指数が時系列の発展に即して極端に不安定である者が「精神障害者」であるのであり、キリスト教徒はこの中でも最も重度な、
IQが最低だと20〜30程度にまで低下することのある「重度精神障害者」であり、知能テストでIQ100以上をはじき出すような
凡才や秀才や天才並みの瞬間的知能の持ち主であっても、信仰によって人工的に知能を重度知的障害レベルにまで落ち込ませてもいる。
そのため罪の意識に苛まれるような状況になれば、罪の何たるかを理解できない精神障害者に陥れるようになる。

こんな連中を、檻の中や閉鎖病棟の中で厳重に保護管理しているのならまだしも、市井に野放し状態にしている世の中は、
それこそトラやライオンやクマなどの危険動物を野放し状態にしているよりも危険なもの。せめてでも一定区域に隔離して
人間さまに深刻な迷惑をかけないような措置を講ずるようにするのが、人としての常識的な選択であるといえる。
「悪む所死よりも甚だしき者あり。故に患いも辟けざる所あり。(ここまで既出の引用)
人の惡む所をして死よりも甚だしきこと莫らしめば、則ち凡そ以て生を得べき者は、何をか為さざらんや。(中略)
是れに由よらば則ち以て患いを辟くべきも、為さざることあり。是の故に(中略)惡む所死よりも甚だしき者あり。
獨り賢者のみ是の心有るにあらざるなり。人皆な之れ有り。賢者は能く喪うこと勿きのみ」
「人には不義のように、死よりも憎み嫌うことの甚だしいものがあり、そのために思い煩いを避けぬこともある。
人が憎み嫌うもののうちで死よりも甚だしいものがないとすれば、自分が生きるためだけにどんな悪事でもやってのけるだろう。
(カルト信仰による自己洗脳などの)ある種の手段によって思い煩いを避けることができるということもある、しかし、
あえてそのような手段に手を出さないこともある。だからこそ死以上にも憎み嫌うものがあるのだといえる。
なにも賢人ばかりにこのような心が備わっているのではない。万人にこのような道義心が備わっているが、
賢人ばかりがこの道義心を恒常的に保つことができ、大部分の人間は恒常的に保つことができないだけだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句上・一〇より)
今だって、“ある種”の思想が活かされている時代であるには違いない。
時系列の発展に伴う知能の変動を極端に不安定化し、チンパン以下にまで人間の判断力を低下させる
カルト教義が実地面で活かされていることにより、罪を罪とも思わぬ卑劣な悪人が量産されている時代。
それにより、常日ごろから一定の徳性を保ち続ける「庸徳」や「普賢」を旨とする正統な思想宗教が
活かされることが無くなってしまっている。知能不安定症の精神障害を排することこそは正統な思想宗教の
本分であるのだから、知能の不安定化を画策するようなカルト教義が横行してしまっている以上は、
そのぶんだけ、正統な思想宗教が現実社会において活かされることが不可能となってしまう。
「キリスト教は廃絶されてしかるべきだ」という部分だけを聞けば、随分と後退的な物言いに聞こえるだろうが、
それによって儒学や正統仏教のような、正統な思想宗教の活用を復興させることのほうが主であり、
そのための末節における手段として、聖書信仰の廃絶もまたある。勧善という目的のための、懲悪という手段。
どうしても懲悪という手段を先走りさせがちになってしまうが、あくまで勧善のほうが目的であると知らねばならない。
「(湯王の賢臣伊尹曰く)天の此の民を生ずるや、先知をして後知を覺さしめ、先覺をして後覺を覺さしむるなり。
予れは天民の先覺者なり。予れ將に斯の道を以て斯の民を覺らしむるなり。予れ之れを覺さしむるに非ずんば、而ち誰ぞや」
「天は先に道理を知った者によって後から知る者を覚らしめ、先に覚った者をして後から覚る者を覚らしめる。
私も民の内では先覚者のうちに入るが、一つこの道理によって民たちをも覚醒させてみよう。私がやらなければ、誰がやるものか。
(『覚る』とは『ただ起きている』ということではなく、『道理なり真理なりをわきまえている』ということを意味する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)
時系列の発展に伴う知能の変動を極端に不安定化し、チンパン以下にまで人間の判断力を低下させる
カルト教義が実地面で活かされていることにより、罪を罪とも思わぬ卑劣な悪人が量産されている時代。
それにより、常日ごろから一定の徳性を保ち続ける「庸徳」や「普賢」を旨とする正統な思想宗教が
活かされることが無くなってしまっている。知能不安定症の精神障害を排することこそは正統な思想宗教の
本分であるのだから、知能の不安定化を画策するようなカルト教義が横行してしまっている以上は、
そのぶんだけ、正統な思想宗教が現実社会において活かされることが不可能となってしまう。
「キリスト教は廃絶されてしかるべきだ」という部分だけを聞けば、随分と後退的な物言いに聞こえるだろうが、
それによって儒学や正統仏教のような、正統な思想宗教の活用を復興させることのほうが主であり、
そのための末節における手段として、聖書信仰の廃絶もまたある。勧善という目的のための、懲悪という手段。
どうしても懲悪という手段を先走りさせがちになってしまうが、あくまで勧善のほうが目的であると知らねばならない。
「(湯王の賢臣伊尹曰く)天の此の民を生ずるや、先知をして後知を覺さしめ、先覺をして後覺を覺さしむるなり。
予れは天民の先覺者なり。予れ將に斯の道を以て斯の民を覺らしむるなり。予れ之れを覺さしむるに非ずんば、而ち誰ぞや」
「天は先に道理を知った者によって後から知る者を覚らしめ、先に覚った者をして後から覚る者を覚らしめる。
私も民の内では先覚者のうちに入るが、一つこの道理によって民たちをも覚醒させてみよう。私がやらなければ、誰がやるものか。
(『覚る』とは『ただ起きている』ということではなく、『道理なり真理なりをわきまえている』ということを意味する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)
>>277の図では、煩雑になり過ぎるのであえて示さなかったが、「重度精神障害かつ凡才や秀才や天才」である場合の他にも、
「中度精神障害かつ凡才や秀才や天才」である場合もあれば、「軽度精神障害かつ凡才や秀才や天才」である場合もある。
完全なキリスト教徒やユダヤ教徒でもない限りは、必ずしも「重度精神障害である」とまで断定することはできないが、
聖書信仰者であることを自認しない今の大部分の日本人の中にも、間接的に聖書信仰の毒気に当てられたことで
中度や軽度の精神障害に罹患している人間は数多い。ルネサンスや啓蒙主義以降に生み出された、
表向きは非宗教的であることを取り繕っている聖書圏の文化文明に毒されて、未だ聖書を読んだこともなく、
聖書信者を自認するまでもいかない限りにおいて、聖書信仰に特有の精神障害を少なからず帯びてしまっている。
それらはもちろん「聖書信仰そのもの」ではないから、チンパン以下の知能退行を伴う重度精神障害に本当に罹患してしまう、
聖書中毒そのものほどの精神障害を帯びることは確かに少ない。しかし、特にプロテスタントやユダヤの連中が創作したような、
表向きは無宗教を決め込んでいる西洋文化のいずれもが、結局のところは聖書信仰に全てを還元する犯罪寓意の塊となっており、
自分自身でも気づかないうちから、知らず知らずのままで精神障害の進行を招くようになっている。
所詮は聖書から姓名を引用している連中が作り上げてきている文化文明、どうあがいたって聖書信仰の悪影響を
払拭しきれるはずはないのであり、自分たちから意識的に聖書信仰を破棄して、姓名も改易して無害な名詞に入れ替える
「易姓革命(元来はこういう意味で用いられる言葉ではない)」を率先して行うところからでないと、始めに毛筋ほどの過ちでも犯していれば、
のちのちに千里の過ちともなってしまう(礼記)、エントロピー増大則にも即した過ちの積み重ねの根絶はおろか、軽減すらも覚束ない。
「中度精神障害かつ凡才や秀才や天才」である場合もあれば、「軽度精神障害かつ凡才や秀才や天才」である場合もある。
完全なキリスト教徒やユダヤ教徒でもない限りは、必ずしも「重度精神障害である」とまで断定することはできないが、
聖書信仰者であることを自認しない今の大部分の日本人の中にも、間接的に聖書信仰の毒気に当てられたことで
中度や軽度の精神障害に罹患している人間は数多い。ルネサンスや啓蒙主義以降に生み出された、
表向きは非宗教的であることを取り繕っている聖書圏の文化文明に毒されて、未だ聖書を読んだこともなく、
聖書信者を自認するまでもいかない限りにおいて、聖書信仰に特有の精神障害を少なからず帯びてしまっている。
それらはもちろん「聖書信仰そのもの」ではないから、チンパン以下の知能退行を伴う重度精神障害に本当に罹患してしまう、
聖書中毒そのものほどの精神障害を帯びることは確かに少ない。しかし、特にプロテスタントやユダヤの連中が創作したような、
表向きは無宗教を決め込んでいる西洋文化のいずれもが、結局のところは聖書信仰に全てを還元する犯罪寓意の塊となっており、
自分自身でも気づかないうちから、知らず知らずのままで精神障害の進行を招くようになっている。
所詮は聖書から姓名を引用している連中が作り上げてきている文化文明、どうあがいたって聖書信仰の悪影響を
払拭しきれるはずはないのであり、自分たちから意識的に聖書信仰を破棄して、姓名も改易して無害な名詞に入れ替える
「易姓革命(元来はこういう意味で用いられる言葉ではない)」を率先して行うところからでないと、始めに毛筋ほどの過ちでも犯していれば、
のちのちに千里の過ちともなってしまう(礼記)、エントロピー増大則にも即した過ちの積み重ねの根絶はおろか、軽減すらも覚束ない。
口で言えたからって、そうそうにできるもんじゃない。
のみならず、そうそうにはできないからこそ、口に出したりもするわけだ。
儒学のうちでも、異端の学を排し、孔孟のような正統の学のみを重んじている朱子学では
主知主義的な傾向が強く、思慮をよく尽くした上で堅実な行動に臨むことを推奨するが、
禅宗などの異教との親和性の高い陽明学などでは、極端な知行合一が謳われる。
このような、知行のあり方に対する意見分裂の傾向は中国だけでなくインドにもあり、
ヴェーダーンタ学派などの主知主義的な教派と、ヨーガ学派のような実践主義的な教派に分かれている。
ただ、中国にしろインドにしろ、主知主義的な朱子学派やヴェーダーンタ学派のほうが歴史的に主流となり、
実践主義的な陽明学派やヨーガ学派のほうが傍流の扱いを受けてきてもいる。
言に訥にして、行いに敏ならんことを欲する。そしてそれを本当に実践できればそれに越したことはない。
しかし、陽明学に心酔した大塩平八郎が無謀な反乱を企てて失敗するなど、知行合一の至らなさも
歴史的に証明されてきており、十分な思慮の次に行いが付いてくることが事実上、王道ともなっている。
知行合一のほうが確かに純粋であり、見た目にも敏捷で快いわけだが、結局それは「ウブ」の域を出ない。
浮世の清濁を併せ呑む中には、思慮の行動に対する優先、文の武に対する心なしかの先行もまたあるのであり、
よく考えもせずに行いばかりが先行する、多動性障害状態が最悪の所業であるのはもちろんのこと、
思い立ったらすぐに行う知行合一でもまだ不足。せめてでも二度ぐらいは思い返すのが適当で、
三度や四度ともなれば今度は考えすぎであると、孔子も公冶長第五・二〇で言っている通り。
のみならず、そうそうにはできないからこそ、口に出したりもするわけだ。
儒学のうちでも、異端の学を排し、孔孟のような正統の学のみを重んじている朱子学では
主知主義的な傾向が強く、思慮をよく尽くした上で堅実な行動に臨むことを推奨するが、
禅宗などの異教との親和性の高い陽明学などでは、極端な知行合一が謳われる。
このような、知行のあり方に対する意見分裂の傾向は中国だけでなくインドにもあり、
ヴェーダーンタ学派などの主知主義的な教派と、ヨーガ学派のような実践主義的な教派に分かれている。
ただ、中国にしろインドにしろ、主知主義的な朱子学派やヴェーダーンタ学派のほうが歴史的に主流となり、
実践主義的な陽明学派やヨーガ学派のほうが傍流の扱いを受けてきてもいる。
言に訥にして、行いに敏ならんことを欲する。そしてそれを本当に実践できればそれに越したことはない。
しかし、陽明学に心酔した大塩平八郎が無謀な反乱を企てて失敗するなど、知行合一の至らなさも
歴史的に証明されてきており、十分な思慮の次に行いが付いてくることが事実上、王道ともなっている。
知行合一のほうが確かに純粋であり、見た目にも敏捷で快いわけだが、結局それは「ウブ」の域を出ない。
浮世の清濁を併せ呑む中には、思慮の行動に対する優先、文の武に対する心なしかの先行もまたあるのであり、
よく考えもせずに行いばかりが先行する、多動性障害状態が最悪の所業であるのはもちろんのこと、
思い立ったらすぐに行う知行合一でもまだ不足。せめてでも二度ぐらいは思い返すのが適当で、
三度や四度ともなれば今度は考えすぎであると、孔子も公冶長第五・二〇で言っている通り。
今はもう、三度や四度どころか、百度も千度も考え抜いた所。明らかに考えすぎなのは確かで、
もはや行動に移されてもいい所だ。考えがないのでも、考えた直後なのでもなく、考え抜いた後だからこそ
もう行動してもいい。未だ考えもなければ考えた直後でもない奴らの多動性障害は、却って中止されるべきだが。
「言えば必ず信、行なえば必ず果、硜硜然たる小人かな」
「言ったことは必ず守ろうとし、行なう時には必ず目的を果たそうとする。小石のように凝り固まった小人だ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——子路第十三・二〇より)
もはや行動に移されてもいい所だ。考えがないのでも、考えた直後なのでもなく、考え抜いた後だからこそ
もう行動してもいい。未だ考えもなければ考えた直後でもない奴らの多動性障害は、却って中止されるべきだが。
「言えば必ず信、行なえば必ず果、硜硜然たる小人かな」
「言ったことは必ず守ろうとし、行なう時には必ず目的を果たそうとする。小石のように凝り固まった小人だ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——子路第十三・二〇より)
孟子の発言など、孟子自身が活動した戦国時代はもちろんのこと、朱子学勃興まで本気で受け止められることもなく、
朱子が四書(論語、大学、中庸、孟子)の一書としてその権威を押し立てて後も、未だ十分な実践が叶えられず、
四書を正式な科挙試験科目とした明代にも、全くその内容の実践が追いつかなくて官僚腐敗を招き、
江戸時代の日本において、やっとその精神主義的な部分が抽出して実践に努められるようになったのみ。
孔子やその弟子たちの簡単な発言の詰め合わせとなっている「論語」などと比べて、「孟子」の内容はかなり体系的である上、
「大学」や「中庸」などよりも遥かにその分量も多く、その内容を実践することは愚か、全文を把握しておくことすら難しい。
そのため読み覚えておくまでで精一杯という人間がほとんどとなり、体系的な実践にまで達した人間は皆無に等しい。
これからその、儒者四聖(孔子、孟子、曾子、子思子)のうちでも最も実践が困難な孟子の学の実践が試みられていくようになれば、
今までの儒学享受以上にも発展した儒学の実践が努められていくようになるだろう。ただ儒学を復興するだけでなく、
未だ十分な実践が追いたことのない孟子の学などの新規の興隆も念頭に置いていけば、ただの復古主義よりも面白みが増すだろう。
朱子が四書(論語、大学、中庸、孟子)の一書としてその権威を押し立てて後も、未だ十分な実践が叶えられず、
四書を正式な科挙試験科目とした明代にも、全くその内容の実践が追いつかなくて官僚腐敗を招き、
江戸時代の日本において、やっとその精神主義的な部分が抽出して実践に努められるようになったのみ。
孔子やその弟子たちの簡単な発言の詰め合わせとなっている「論語」などと比べて、「孟子」の内容はかなり体系的である上、
「大学」や「中庸」などよりも遥かにその分量も多く、その内容を実践することは愚か、全文を把握しておくことすら難しい。
そのため読み覚えておくまでで精一杯という人間がほとんどとなり、体系的な実践にまで達した人間は皆無に等しい。
これからその、儒者四聖(孔子、孟子、曾子、子思子)のうちでも最も実践が困難な孟子の学の実践が試みられていくようになれば、
今までの儒学享受以上にも発展した儒学の実践が努められていくようになるだろう。ただ儒学を復興するだけでなく、
未だ十分な実践が追いたことのない孟子の学などの新規の興隆も念頭に置いていけば、ただの復古主義よりも面白みが増すだろう。
「公行子、子の喪あり。右師往きて弔す。門に入るや、進みて右師と言る者有り、
右師の位に就きて右師と言る者有り。孟子右師と言らず。右師酇ばずして曰く、
諸君子皆な驩と言るに、孟子獨り驩と言らざるは、是れ驩をあなどるなり。
孟子之れを聞きて曰く、禮に、朝廷では位を歴て相與に言らず、階を踰えて相揖せず。
我れ禮を行なわんと欲せるに、子敖は我れを以てあなどると為す、亦た異ならずや」
「斉の大夫である公行子が息子を亡くした。そこで右師(官命の一。右大臣のように右の座に就くことから)である
王驩が弔問にやってきた。右師は重役であるために、これに媚びへつらおうとして、わざわざ駆け寄って話す者もいれば、
下位の座に就きながら上席に上って話そうとする者もいた。しかし、孟子はその時そこにいながらも、右師とは話そうとしなかった。
右師はこれを不快に思い、『諸君がみなわしに言い寄ってくるのに、孟先生独りだけはわしに言い寄って来ないのは、
わしを侮っているのではあるまいか』 孟子はこれを聞いて言った。『礼法では、朝廷では位階を越えてまで共に語り合っては
ならないとされる。今ここには朝廷に匹敵するほども多くの重臣が列席しておられるので、朝廷での礼にならって
上席である右師と語り合うことを避けたのに、私が子敖(王驩のあざな)を侮ったなどとは、随分とおかしな話ではないか』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・二八)
右師の位に就きて右師と言る者有り。孟子右師と言らず。右師酇ばずして曰く、
諸君子皆な驩と言るに、孟子獨り驩と言らざるは、是れ驩をあなどるなり。
孟子之れを聞きて曰く、禮に、朝廷では位を歴て相與に言らず、階を踰えて相揖せず。
我れ禮を行なわんと欲せるに、子敖は我れを以てあなどると為す、亦た異ならずや」
「斉の大夫である公行子が息子を亡くした。そこで右師(官命の一。右大臣のように右の座に就くことから)である
王驩が弔問にやってきた。右師は重役であるために、これに媚びへつらおうとして、わざわざ駆け寄って話す者もいれば、
下位の座に就きながら上席に上って話そうとする者もいた。しかし、孟子はその時そこにいながらも、右師とは話そうとしなかった。
右師はこれを不快に思い、『諸君がみなわしに言い寄ってくるのに、孟先生独りだけはわしに言い寄って来ないのは、
わしを侮っているのではあるまいか』 孟子はこれを聞いて言った。『礼法では、朝廷では位階を越えてまで共に語り合っては
ならないとされる。今ここには朝廷に匹敵するほども多くの重臣が列席しておられるので、朝廷での礼にならって
上席である右師と語り合うことを避けたのに、私が子敖(王驩のあざな)を侮ったなどとは、随分とおかしな話ではないか』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・二八)
愛憎を全否定する自力仏教とは違って、儒家は愛憎を否定はせず、
「君子道を学べば則ち人を愛す(陽貨第十七・三)」でもあるし、「君子もまたにくむことあり(陽貨第十七・二一)」でもある。
ただ、その上で「愛してしかもその悪を知り、憎んでしかもその善を知る(礼記・曲礼上第一)」でもあるために、
愛憎に全てを還元して、人間の言動の最高規範にしたりはしない。「仁は人を愛すること(顔淵第十二・二二)」でもあるわけだが、
「仁を好みて学を好まざれば、その弊や愚(陽貨第十七・七)」でもあるわけで、五常において最高の徳とされる
仁愛ですらもが、ただそればかりに専らであればいいものとはされない。愛を専らであることの言い訳にしてはならず、
分別を行き届かせるための原動力として善用するぐらいでなければならない。
「之れを愛して能く労ること勿らんや。忠にして能く誨うること勿らんや」
「ただ愛するばかりで労わりに欠けるのはいかがなものか。忠義があっても諌め諭すことがなくてよいものか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・七より)
「君子道を学べば則ち人を愛す(陽貨第十七・三)」でもあるし、「君子もまたにくむことあり(陽貨第十七・二一)」でもある。
ただ、その上で「愛してしかもその悪を知り、憎んでしかもその善を知る(礼記・曲礼上第一)」でもあるために、
愛憎に全てを還元して、人間の言動の最高規範にしたりはしない。「仁は人を愛すること(顔淵第十二・二二)」でもあるわけだが、
「仁を好みて学を好まざれば、その弊や愚(陽貨第十七・七)」でもあるわけで、五常において最高の徳とされる
仁愛ですらもが、ただそればかりに専らであればいいものとはされない。愛を専らであることの言い訳にしてはならず、
分別を行き届かせるための原動力として善用するぐらいでなければならない。
「之れを愛して能く労ること勿らんや。忠にして能く誨うること勿らんや」
「ただ愛するばかりで労わりに欠けるのはいかがなものか。忠義があっても諌め諭すことがなくてよいものか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・七より)
重度精神障害者たちに敵対するというのではないし、虐待を加えようというのでもない。
ただ、「易経」の蒙卦にあるように、蒙昧な輩にはある程度手厳しい教導が必要でもあるわけだから、
ここでの権力道徳聖書こと四書五経からの引用は続けていく。自分たちに未だ病識がないのであるにしても、
聖書信仰を服用し続ける以上は精神障害の深刻化も免れ得ないので、井戸穴に落ちそうになっている赤ん坊を
救おうとするような「惻隠の情」に基づいて、最低限聖書信仰をやめさせようという試みは続けておく。
あと、四書五経を自分自身が勉強することが、より多くの精神障害者を治療していく「修己治人」のための
研鑽にもなるので、やらないでいるよりはやっていたほうがいいこととして、四書五経の勉強も続けていく。
やるよりやらないでいたほうがいいことばかりで溢れ返っている今の世の中で、確実にやらないよりは
やっていたほうがいいと断定できる数少ない活動の一つなので、できる限りはやっておくように勤める。
「孟武伯孝を問う。子曰く、父母には唯だ其の疾を之れ憂えよ」
「孟武伯が孝行について問うた。先生は言われた。『ただただ父母の病を憂えることだ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・為政第二・六より)
ただ、「易経」の蒙卦にあるように、蒙昧な輩にはある程度手厳しい教導が必要でもあるわけだから、
ここでの権力道徳聖書こと四書五経からの引用は続けていく。自分たちに未だ病識がないのであるにしても、
聖書信仰を服用し続ける以上は精神障害の深刻化も免れ得ないので、井戸穴に落ちそうになっている赤ん坊を
救おうとするような「惻隠の情」に基づいて、最低限聖書信仰をやめさせようという試みは続けておく。
あと、四書五経を自分自身が勉強することが、より多くの精神障害者を治療していく「修己治人」のための
研鑽にもなるので、やらないでいるよりはやっていたほうがいいこととして、四書五経の勉強も続けていく。
やるよりやらないでいたほうがいいことばかりで溢れ返っている今の世の中で、確実にやらないよりは
やっていたほうがいいと断定できる数少ない活動の一つなので、できる限りはやっておくように勤める。
「孟武伯孝を問う。子曰く、父母には唯だ其の疾を之れ憂えよ」
「孟武伯が孝行について問うた。先生は言われた。『ただただ父母の病を憂えることだ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・為政第二・六より)
聖書信仰の正体、それは、「人工的な重度精神障害への罹患」だった。
邪教にも、程がある。
本当に重度精神障害者ともなってしまっている、聖書信者たち自身を目の敵にしてはいけないし、
聖書教を創作した連中ですら、やはり重度精神障害者でもあっただろうから、
創作者たちに全ての責任を還元して、怨恨の対象にしたりするのもおかしい。
聖書教の興隆や存続という、劣悪現象それ自体を許してはならず、
やはり抑制や根絶の対象ともしなければならないが、聖書信仰に陥ってしまっている
人間たち自身は本物の重度精神障害者ともなっているのだから、邪険に扱っていい存在でもない。
決して一人前の人間として扱ってはならないからこそ、
一人前の人間に対するような罪責の追求姿勢であってもならない。
狂犬や狂牛なら殺処分の対象にしてもいいが、狂人は狂人であったって一応は人だから、
ちゃんと発狂状態を治療してあげて、それから人としての責任を問うていくことが筋だ。
邪教にも、程がある。
本当に重度精神障害者ともなってしまっている、聖書信者たち自身を目の敵にしてはいけないし、
聖書教を創作した連中ですら、やはり重度精神障害者でもあっただろうから、
創作者たちに全ての責任を還元して、怨恨の対象にしたりするのもおかしい。
聖書教の興隆や存続という、劣悪現象それ自体を許してはならず、
やはり抑制や根絶の対象ともしなければならないが、聖書信仰に陥ってしまっている
人間たち自身は本物の重度精神障害者ともなっているのだから、邪険に扱っていい存在でもない。
決して一人前の人間として扱ってはならないからこそ、
一人前の人間に対するような罪責の追求姿勢であってもならない。
狂犬や狂牛なら殺処分の対象にしてもいいが、狂人は狂人であったって一応は人だから、
ちゃんと発狂状態を治療してあげて、それから人としての責任を問うていくことが筋だ。
近ごろ日曜日が忙しいのか。
キリスト教徒なのに、日曜日にも重度知能退行ができなくて残念だな。
働くと働かざるとに関わらず、常時常人並みの知能を保ち続けることが
人としての最低限の勤めであることからわきまえ直さなければな。
「父母の年は知らざる可からず。一には則ち以て喜び、一には則ち以て懼る」
「父母の年齢は必ず覚えておきなさい。時には長寿であることを喜べ、時には老い先短いことを恐れられるから。
(喜びも憂いも恐れも、全て具備していられてこその常人である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・二一より)
キリスト教徒なのに、日曜日にも重度知能退行ができなくて残念だな。
働くと働かざるとに関わらず、常時常人並みの知能を保ち続けることが
人としての最低限の勤めであることからわきまえ直さなければな。
「父母の年は知らざる可からず。一には則ち以て喜び、一には則ち以て懼る」
「父母の年齢は必ず覚えておきなさい。時には長寿であることを喜べ、時には老い先短いことを恐れられるから。
(喜びも憂いも恐れも、全て具備していられてこその常人である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・二一より)
「従うを以て正しとなすは妾婦の道なり(孟子・滕文公章句下・二)」というのはすでに既出の引用だが、まさにその通りだ。
君臣の義が重んじられる中国でも、太公望や張良や諸葛亮といった名臣が、武王や劉邦や劉備のような名君に幅を利かすこともあった。
主人と奴隷ほどにも主従関係が絶対化されることがすでに醜悪なことであり、見るかにカッコ悪い。
社会秩序の堅持のために主従関係を嗜むことがあても、それぞれの自主性が尊重されている姿のほうがやはりカッコいい。
上記の孟子の発言もカッコいい一方で、犯罪聖書の絶対服従ばかりを促す女々しい記述のほうはカッコ悪い。
カッコ悪いから、そんなものに従うことがすでに幸福ではない不幸であり、正義ではない悪だ。
物事の根本から正義であり、故に幸せともなる、格好の良さから四書五経は備えている一方で、
見るかに格好が悪いために、不幸な罪悪の塊ともなることが、犯罪聖書にとっての自明な存在性だ。
「夫れ人幼にして之れを學び、壯にして之れを行なわんと欲す。王曰く、姑く女の學べる所を舎てて我れに從へと曰わば、則ち何如。
今此こに璞玉有るに於いて、萬鎰と雖も、必ず玉人をして之を彫琢せしめん。國家を治めるに至るに於いては、則ち曰く、
姑く女の學べる所を舎てて我に從えと曰わば、則ち何を以てか玉人に玉を彫琢することを教うるに異ならんや」
「仮にここに幼少から道を学んできた者がいて、壮年になって学んできたことを実行しようという段でいるのに対し、
王様のほうが『まあおまえの学んできたことはしばらく捨て置いて、わしの言うことに従え』と言えば、どうだろう。
仮にここにまだ磨かれていない宝玉があったとする。値万金の名宝であるにしても、やはり専門の職人にこそこれを磨かせる。
それなのに、国家を治めたりすることにかけては、急に王様ばかりが、多くを学んできた君子などに対しても『学んできたことは
すべて捨て置いて俺の言うとおりにしろ』というのでは、素人が玉磨きの職人に玉磨きを教えるも同然ではないか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁惠王章句下・九より)
君臣の義が重んじられる中国でも、太公望や張良や諸葛亮といった名臣が、武王や劉邦や劉備のような名君に幅を利かすこともあった。
主人と奴隷ほどにも主従関係が絶対化されることがすでに醜悪なことであり、見るかにカッコ悪い。
社会秩序の堅持のために主従関係を嗜むことがあても、それぞれの自主性が尊重されている姿のほうがやはりカッコいい。
上記の孟子の発言もカッコいい一方で、犯罪聖書の絶対服従ばかりを促す女々しい記述のほうはカッコ悪い。
カッコ悪いから、そんなものに従うことがすでに幸福ではない不幸であり、正義ではない悪だ。
物事の根本から正義であり、故に幸せともなる、格好の良さから四書五経は備えている一方で、
見るかに格好が悪いために、不幸な罪悪の塊ともなることが、犯罪聖書にとっての自明な存在性だ。
「夫れ人幼にして之れを學び、壯にして之れを行なわんと欲す。王曰く、姑く女の學べる所を舎てて我れに從へと曰わば、則ち何如。
今此こに璞玉有るに於いて、萬鎰と雖も、必ず玉人をして之を彫琢せしめん。國家を治めるに至るに於いては、則ち曰く、
姑く女の學べる所を舎てて我に從えと曰わば、則ち何を以てか玉人に玉を彫琢することを教うるに異ならんや」
「仮にここに幼少から道を学んできた者がいて、壮年になって学んできたことを実行しようという段でいるのに対し、
王様のほうが『まあおまえの学んできたことはしばらく捨て置いて、わしの言うことに従え』と言えば、どうだろう。
仮にここにまだ磨かれていない宝玉があったとする。値万金の名宝であるにしても、やはり専門の職人にこそこれを磨かせる。
それなのに、国家を治めたりすることにかけては、急に王様ばかりが、多くを学んできた君子などに対しても『学んできたことは
すべて捨て置いて俺の言うとおりにしろ』というのでは、素人が玉磨きの職人に玉磨きを教えるも同然ではないか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁惠王章句下・九より)
孟子は、とにかくカッコいい。
大将の貫禄が漂う孔子とは違って、大聖としての貫禄には欠ける一方で、
先陣を切っての突撃に長けた、本田忠勝のような猛将の如き強烈さを帯びている。
ただ、「孟子」冒頭の梁恵王章句からして、孟子が恵王の補佐を望みつつも叶わなかった逸話で、
存命中についぞ王侯に重用されなかったことから、社会的失敗者としての扱いを受ける場合もままある。
しかし、>>289の引用のような、大上段に構えての、王侯に対する一歩も引かない物言いがすでに、
孟子がただ者ではないあるがままの証拠となっており、正論尽くめの論及の数々を一つも取り入れられなかった当時の
王侯のほうが自動的に敗北者ともなってしまっている。春秋戦国時代の王侯の名を覚えている人間など今はほとんどいないが、
孟子の名は今でも誰もが知っている。しかも、孔子に次ぐ儒聖としての美名であり、たとえあげつらわれるにしても、
乱世の魑魅魍魎としての汚名と共にしか語られることのない当時の王侯などよりも、よっぽど丁重な扱いとなっている。
下民を疲弊させて憚らぬ乱世に狭隘な利権を貪り、個人的には相当な栄華も誇ったであろう当時の王侯も死後には、
ニート並みにすら社会的な功績を挙げることのなかった孟子にすら及ばない扱いとなっている。それが現実であり、
「言葉よりも行動」でどうにか動き回り続けていようとするような傾向のほうが、本当の現実からの逃避ともなっている。
大将の貫禄が漂う孔子とは違って、大聖としての貫禄には欠ける一方で、
先陣を切っての突撃に長けた、本田忠勝のような猛将の如き強烈さを帯びている。
ただ、「孟子」冒頭の梁恵王章句からして、孟子が恵王の補佐を望みつつも叶わなかった逸話で、
存命中についぞ王侯に重用されなかったことから、社会的失敗者としての扱いを受ける場合もままある。
しかし、>>289の引用のような、大上段に構えての、王侯に対する一歩も引かない物言いがすでに、
孟子がただ者ではないあるがままの証拠となっており、正論尽くめの論及の数々を一つも取り入れられなかった当時の
王侯のほうが自動的に敗北者ともなってしまっている。春秋戦国時代の王侯の名を覚えている人間など今はほとんどいないが、
孟子の名は今でも誰もが知っている。しかも、孔子に次ぐ儒聖としての美名であり、たとえあげつらわれるにしても、
乱世の魑魅魍魎としての汚名と共にしか語られることのない当時の王侯などよりも、よっぽど丁重な扱いとなっている。
下民を疲弊させて憚らぬ乱世に狭隘な利権を貪り、個人的には相当な栄華も誇ったであろう当時の王侯も死後には、
ニート並みにすら社会的な功績を挙げることのなかった孟子にすら及ばない扱いとなっている。それが現実であり、
「言葉よりも行動」でどうにか動き回り続けていようとするような傾向のほうが、本当の現実からの逃避ともなっている。
「史記」などの歴史書を読んでいると、重役に就いていた政治家などが大失態をやらかした場合などに、
死刑を宣告されながら、罪を償って庶民になるということが散見される。死刑が在野への降下によって償われる、
それほどにも中国において為政が高尚なものとして扱われていたとも言えるし、庶民が卑賤なものとして扱われていたとも言える。
一応、「史記」にも貨殖列伝という、在野の庶民が貨殖功利によって一大財産を成した記録が載っているが、
その扱いも紀伝中の最後尾であり、占い師の記録を扱った日者列伝や亀策列伝よりも後に置かれている。
(ただし現行「史記」の日者列伝や亀策列伝は後代の挿入であり、司馬遷自身の真筆は遺失してしまっている)
道家思想の万物斉同志向に基づいて書かれた「史記」においてですら、貨殖功利に没頭する庶民などは最下等に置かれ、
より儒学的な見地に即して書かれた「漢書」などでは、その貨殖功利に関する記録すらもが完全に省かれてしまっている。
いてもいなくてもどうでもいいような存在であることにかけては、貨殖功利に惑溺する人間も、ニート並みであるということだ。
「罪人は其の罪を以て降す」
「重職に就いていたような罪人は、その罪の軽重によって位の降格を高下させる。
(子産の言葉。罪に対して実刑を下す以前に、まず社会的な失脚が適用される。多くの人々に迷惑をかけた以上は、
塀の中に突き落とされるまではいかなかったとしても、社会上での制裁を加えられるぐらいのことは当然である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公七年より)
死刑を宣告されながら、罪を償って庶民になるということが散見される。死刑が在野への降下によって償われる、
それほどにも中国において為政が高尚なものとして扱われていたとも言えるし、庶民が卑賤なものとして扱われていたとも言える。
一応、「史記」にも貨殖列伝という、在野の庶民が貨殖功利によって一大財産を成した記録が載っているが、
その扱いも紀伝中の最後尾であり、占い師の記録を扱った日者列伝や亀策列伝よりも後に置かれている。
(ただし現行「史記」の日者列伝や亀策列伝は後代の挿入であり、司馬遷自身の真筆は遺失してしまっている)
道家思想の万物斉同志向に基づいて書かれた「史記」においてですら、貨殖功利に没頭する庶民などは最下等に置かれ、
より儒学的な見地に即して書かれた「漢書」などでは、その貨殖功利に関する記録すらもが完全に省かれてしまっている。
いてもいなくてもどうでもいいような存在であることにかけては、貨殖功利に惑溺する人間も、ニート並みであるということだ。
「罪人は其の罪を以て降す」
「重職に就いていたような罪人は、その罪の軽重によって位の降格を高下させる。
(子産の言葉。罪に対して実刑を下す以前に、まず社会的な失脚が適用される。多くの人々に迷惑をかけた以上は、
塀の中に突き落とされるまではいかなかったとしても、社会上での制裁を加えられるぐらいのことは当然である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公七年より)
今の小沢の汚職騒動なども、塀の中に突き落とすかどうかだけで、話が一律してしまっている。
悪いことをしたというのなら、刑事的に断罪される以前に、職務の降格や辞任を先に問題とするべきなんだ。
小沢やその秘書自身は罪状すらも否認しているから、断罪も、降格や辞任も受け入れやしないだろう。
でも、周りで見ている第三者が、当人を塀の中に突き落とすかどうかを失脚の第一基準にはしているわけで、
刑事罰を受けることに全てを還元しようとしていることがすでに、政治家の扱いとして根本的に間違っている。
降格や辞任すらすれば、政治家は死刑すら免れても構わないぐらいの重責を負っている。
逆に言えば、政治家にとって政治生命を絶たれることこそは、死刑や宮刑並みかそれ以上もの重罰となるのであり、
たとえ投獄されたところで、数年の服役やスズメの涙程度の保釈金で出てこられるような刑事罰によって、
政治家をも完全に失脚させられるようなことを期待するほうが間違っている。
何万人、何億人という人々の運命を左右する大権を手にした政治家を、政治家個人への刑事罰などで
どうにかできるなどと考えていることが、すでに「政治に対する見くびり」であり、自分自身は大権を持たず、
政治権力の何たるかも知らない庶民が、お茶の間から政治家をどうこうしてやろうなどと試みた挙句に、
ちっともどうにもできなくなっている。政治家を失脚させることは、当人の行いが権力犯罪として深刻であり、
権力犯罪としてこそ深刻であるが故に、政治生命をも絶たねばならないか否かにこそかかっているのであり、
そのための措置が単なる失脚で済めばそれでもいいし、刑事罰も科しておいたほうがよさそうなら科しもする。
政治生命を絶つか否かが根本であり、刑事罰を科すか否かは末節。そのわきまえがない状態だから、
万億の民の命運を左右してきた政治家の処分までもが、些細な刑事に還元されたりもする。罪に対する刑事罰を
赦すか否かに全てが還元され、刑事罰とまではいかない権力行使の制限などにまで頭が回っていないせいで、
政治家も深刻な刑事罰を受けない限りはやりたい放題でいる。罪を犯してしまった以上は、刑事罰を科されるか否か
のみが問題である、庶民の盲目さにも適ったカルト信仰が横行しているせいで、汚職政治家もやりたい放題でいる。
悪いことをしたというのなら、刑事的に断罪される以前に、職務の降格や辞任を先に問題とするべきなんだ。
小沢やその秘書自身は罪状すらも否認しているから、断罪も、降格や辞任も受け入れやしないだろう。
でも、周りで見ている第三者が、当人を塀の中に突き落とすかどうかを失脚の第一基準にはしているわけで、
刑事罰を受けることに全てを還元しようとしていることがすでに、政治家の扱いとして根本的に間違っている。
降格や辞任すらすれば、政治家は死刑すら免れても構わないぐらいの重責を負っている。
逆に言えば、政治家にとって政治生命を絶たれることこそは、死刑や宮刑並みかそれ以上もの重罰となるのであり、
たとえ投獄されたところで、数年の服役やスズメの涙程度の保釈金で出てこられるような刑事罰によって、
政治家をも完全に失脚させられるようなことを期待するほうが間違っている。
何万人、何億人という人々の運命を左右する大権を手にした政治家を、政治家個人への刑事罰などで
どうにかできるなどと考えていることが、すでに「政治に対する見くびり」であり、自分自身は大権を持たず、
政治権力の何たるかも知らない庶民が、お茶の間から政治家をどうこうしてやろうなどと試みた挙句に、
ちっともどうにもできなくなっている。政治家を失脚させることは、当人の行いが権力犯罪として深刻であり、
権力犯罪としてこそ深刻であるが故に、政治生命をも絶たねばならないか否かにこそかかっているのであり、
そのための措置が単なる失脚で済めばそれでもいいし、刑事罰も科しておいたほうがよさそうなら科しもする。
政治生命を絶つか否かが根本であり、刑事罰を科すか否かは末節。そのわきまえがない状態だから、
万億の民の命運を左右してきた政治家の処分までもが、些細な刑事に還元されたりもする。罪に対する刑事罰を
赦すか否かに全てが還元され、刑事罰とまではいかない権力行使の制限などにまで頭が回っていないせいで、
政治家も深刻な刑事罰を受けない限りはやりたい放題でいる。罪を犯してしまった以上は、刑事罰を科されるか否か
のみが問題である、庶民の盲目さにも適ったカルト信仰が横行しているせいで、汚職政治家もやりたい放題でいる。
削除(by投稿者)
権力道徳者が実現した、どこもかしこも平穏である泰平社会は、
殊更に技巧を凝らした淫らな音楽などによって美化せずとも、ただあるがままにその全てを謳歌できるもの。
救いようのない悲劇や、狂いきった破滅状態こそは、美術や芸術といったもので美化される必要も出てくる。
極東社会には、伝統的には、美術などというものは存在しない。
芸術センスに優れた仏像や器物、刀剣などもあるにはあるが、
あくまでそれ相応の用途を持った道具であり、ただ美しさを象徴化しただけの模型であったりはしない。
美術それ自体が独り歩きをして、肝心の現実の実物が破滅状態に陥るようなことは赦されなかったために、
孔子も魯の宰相を勤めていたときに、魯公と斉公の面会中に挑発目的で淫らな音楽を奏でた夷狄の莱夷を、
役人に命じて逮捕し、処刑している。「礼楽刑政」という言葉の通り、儒家は音楽にも造詣が深かった上で、その有害さ無害さ、
有益さ無益さについてもよく考え抜いており、ただ音楽が甘美ですらあればよいものではないこともわきまえている。
「子韶を謂わく、美を盡くせり、又た善を盡くせり。武を謂わく、美を盡くせり、未だ善を盡くさざるなり(下の句は既出)」
「先生が堯舜の禅譲を題材にした韶の音楽を聴いて言われた。『美を尽くしているし、善も尽くしている』
武王による紂王の放伐を題材にした武の音楽を聴いて言われた。『美を尽くしてはいるが、未だ善を尽くしているとは言えない』
(虚飾の甘美さに囚われるあまり、内実の劣悪さを善だなどと倒錯することも儒家では排される)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・二五より)
殊更に技巧を凝らした淫らな音楽などによって美化せずとも、ただあるがままにその全てを謳歌できるもの。
救いようのない悲劇や、狂いきった破滅状態こそは、美術や芸術といったもので美化される必要も出てくる。
極東社会には、伝統的には、美術などというものは存在しない。
芸術センスに優れた仏像や器物、刀剣などもあるにはあるが、
あくまでそれ相応の用途を持った道具であり、ただ美しさを象徴化しただけの模型であったりはしない。
美術それ自体が独り歩きをして、肝心の現実の実物が破滅状態に陥るようなことは赦されなかったために、
孔子も魯の宰相を勤めていたときに、魯公と斉公の面会中に挑発目的で淫らな音楽を奏でた夷狄の莱夷を、
役人に命じて逮捕し、処刑している。「礼楽刑政」という言葉の通り、儒家は音楽にも造詣が深かった上で、その有害さ無害さ、
有益さ無益さについてもよく考え抜いており、ただ音楽が甘美ですらあればよいものではないこともわきまえている。
「子韶を謂わく、美を盡くせり、又た善を盡くせり。武を謂わく、美を盡くせり、未だ善を盡くさざるなり(下の句は既出)」
「先生が堯舜の禅譲を題材にした韶の音楽を聴いて言われた。『美を尽くしているし、善も尽くしている』
武王による紂王の放伐を題材にした武の音楽を聴いて言われた。『美を尽くしてはいるが、未だ善を尽くしているとは言えない』
(虚飾の甘美さに囚われるあまり、内実の劣悪さを善だなどと倒錯することも儒家では排される)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・二五より)
「思慮」とは臆病さの善用のことだ。
恐れ慎んで物事をよく慮ることが、すなわち思慮深いということ。
物事をよく恐れ慎む臆病さが欠けていれば、そのぶんだけ思慮も浅くなる。
恐れは当然憂いともなるわけで、孝行の実践者にとっては、父母の健康への憂いなどが必須ともなる。
臆病さも捨て去って、憂いも全く捨て去るなら、親子兄弟での殺し合いだって免れ得ない。
そんなことがあってはならないから、やはり恐れや憂いも一定以上は必要なものだといえる。
もちろん臆病さばかりに囚われるのも行き過ぎで、恐れるべきものを恐れて恐れるべきでないものを恐れない
分別もまた必要であり、その方面に長けていることこそは、思慮分別の能力が高いことにもなるわけだ。
「愨善身を違らず、耳目心を違らず、思慮親を違らず。諸れを心に結び、諸れを色に形わし、之れを術省す、孝子の志しなり」
「恐れ慎んで善から身を離さず、耳目が心から離れ(て鏡映認知障害になり、善悪の分別が付かなくなっ)たりもせず、
思慮は親の健康から離れることもない。これをしっかと心に結び、顔色などにも現し、毎度よく反省もするのが、孝子の志しである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十五より)
恐れ慎んで物事をよく慮ることが、すなわち思慮深いということ。
物事をよく恐れ慎む臆病さが欠けていれば、そのぶんだけ思慮も浅くなる。
恐れは当然憂いともなるわけで、孝行の実践者にとっては、父母の健康への憂いなどが必須ともなる。
臆病さも捨て去って、憂いも全く捨て去るなら、親子兄弟での殺し合いだって免れ得ない。
そんなことがあってはならないから、やはり恐れや憂いも一定以上は必要なものだといえる。
もちろん臆病さばかりに囚われるのも行き過ぎで、恐れるべきものを恐れて恐れるべきでないものを恐れない
分別もまた必要であり、その方面に長けていることこそは、思慮分別の能力が高いことにもなるわけだ。
「愨善身を違らず、耳目心を違らず、思慮親を違らず。諸れを心に結び、諸れを色に形わし、之れを術省す、孝子の志しなり」
「恐れ慎んで善から身を離さず、耳目が心から離れ(て鏡映認知障害になり、善悪の分別が付かなくなっ)たりもせず、
思慮は親の健康から離れることもない。これをしっかと心に結び、顔色などにも現し、毎度よく反省もするのが、孝子の志しである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十五より)
現実上の君父でもないものが、「主」を名乗って絶対服従を要求してくる、
他力信仰のあり方全般が自主性を欠くものであり、己れこそを主として、
そこから自力の修習に努めるあり方よりも確実に低劣なものだ。
それは、仏教における他力信仰である浄土教ですら同じことで、他力信仰に帰依するものはあくまで、
自らが自力作善も覚束ない煩悩愚縛の凡夫であることを自認するわけだ。そして、自力作善を試みるものは
禅や密教などの本格的な宗派においての修行に努め、他力信仰に帰依するものは、そのような聖道門の求道者に
一目も二目も置く。「誰にも自力作善など不可能だ」などとの決め付けによって、誰しもに他力信仰を強要
するようなことは許されず、一向一揆による体制転覆を図った真宗の信者たちも、同じ浄土門(浄土宗)の
信者でありながら、儒学などに基づく自力修習にも努めていた家康公に鎮圧されている。
あまり敬虔でもない聖書信者などは、もうキリストやエホバなどが実在しないことも察してるだろうが、
他力信仰にすべてを還元して、現実の君父への忠信などを疎かにするのなら、もう偉そうな面をしてはいけない。
君臣の義を守り、父母への恩愛を絶やさないぐらいの自力修習が、実際に人間には可能なのだから、
たとえ自らが他力本願でい続けるのだとしても、そればかりが人間にとっての唯一の選択肢なのではなく、
儒学にも基づくような、最低限の自修に努めるものがいて、そのような人間のほうが自分たちよりも
ずっと高等な存在であるのだという、現実上の事実ぐらいは了解しておかなければならない。
「内には則ち父子、外には則ち君臣あるは、人の大倫なり。父子は恩を主とし、君臣は敬を主とす」
「内では父子の序をわきまえ、外では君臣の関係をわきまえるのが人の大倫である。
父子の関係では恩愛を主とし、君臣の関係では畏敬を主とする。(景子の言葉。この文面自体には孟子も
賛同するが、景子の「畏敬」に対する解釈が、自主性を欠いた絶対服従的なものであることに孟子は反論する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・二より)
他力信仰のあり方全般が自主性を欠くものであり、己れこそを主として、
そこから自力の修習に努めるあり方よりも確実に低劣なものだ。
それは、仏教における他力信仰である浄土教ですら同じことで、他力信仰に帰依するものはあくまで、
自らが自力作善も覚束ない煩悩愚縛の凡夫であることを自認するわけだ。そして、自力作善を試みるものは
禅や密教などの本格的な宗派においての修行に努め、他力信仰に帰依するものは、そのような聖道門の求道者に
一目も二目も置く。「誰にも自力作善など不可能だ」などとの決め付けによって、誰しもに他力信仰を強要
するようなことは許されず、一向一揆による体制転覆を図った真宗の信者たちも、同じ浄土門(浄土宗)の
信者でありながら、儒学などに基づく自力修習にも努めていた家康公に鎮圧されている。
あまり敬虔でもない聖書信者などは、もうキリストやエホバなどが実在しないことも察してるだろうが、
他力信仰にすべてを還元して、現実の君父への忠信などを疎かにするのなら、もう偉そうな面をしてはいけない。
君臣の義を守り、父母への恩愛を絶やさないぐらいの自力修習が、実際に人間には可能なのだから、
たとえ自らが他力本願でい続けるのだとしても、そればかりが人間にとっての唯一の選択肢なのではなく、
儒学にも基づくような、最低限の自修に努めるものがいて、そのような人間のほうが自分たちよりも
ずっと高等な存在であるのだという、現実上の事実ぐらいは了解しておかなければならない。
「内には則ち父子、外には則ち君臣あるは、人の大倫なり。父子は恩を主とし、君臣は敬を主とす」
「内では父子の序をわきまえ、外では君臣の関係をわきまえるのが人の大倫である。
父子の関係では恩愛を主とし、君臣の関係では畏敬を主とする。(景子の言葉。この文面自体には孟子も
賛同するが、景子の「畏敬」に対する解釈が、自主性を欠いた絶対服従的なものであることに孟子は反論する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・二より)
聖書信仰者の知識は、精神障害者同士で寄せ集めた致命的な勘違いだらけになっているし、
勘違いの知識ばかりを信じようとするあまり、その信仰姿勢も暴力的に狂信的なものとなっている。
知識や信仰とて全否定されるべきものではないが、それ以上にも重要な理念が仁義や礼儀として存在し、
仁義や礼儀による適切な矯正があって初めて、知識も勘違いなどの小知を排して大知を選別することができ、
信仰や信頼も暴力的な狂信を排して正信のみを抽出することができるようになる。
「信は豚魚に及ぶ(易経)」との言葉の通り、信だけは豚や魚、IQ20〜30程度の重度知的障害者
などにまでわきまえることのできる理念。ただし、それはえさを与えてくれる飼い主への信用も同然の
ものであり、到底高尚な精神性などを伴っているとは言えない。儒学であれば「仁義」などと呼ばれ、
仏教では「菩提」などと呼ばれるような、高尚な精神性を伴った理念は、豚や魚や知的障害者、そして
精神障害者などに到底わきまえられるものではなく、IQ100程度の人並みの知能を常時保ち続けて
いられる程度には、人としての品性を守っている人間のみが、仁義や菩提のような高尚な精神性を
わきまえるだけの最低限の条件を得る。さらにそこからより堅固なわきまえに臨んでいくこともできる一方で、
さすがにIQ100程度の恒常知能がないことには、信か、さもなくば知か程度の低劣なわきまえに終始する。
勘違いの知識ばかりを信じようとするあまり、その信仰姿勢も暴力的に狂信的なものとなっている。
知識や信仰とて全否定されるべきものではないが、それ以上にも重要な理念が仁義や礼儀として存在し、
仁義や礼儀による適切な矯正があって初めて、知識も勘違いなどの小知を排して大知を選別することができ、
信仰や信頼も暴力的な狂信を排して正信のみを抽出することができるようになる。
「信は豚魚に及ぶ(易経)」との言葉の通り、信だけは豚や魚、IQ20〜30程度の重度知的障害者
などにまでわきまえることのできる理念。ただし、それはえさを与えてくれる飼い主への信用も同然の
ものであり、到底高尚な精神性などを伴っているとは言えない。儒学であれば「仁義」などと呼ばれ、
仏教では「菩提」などと呼ばれるような、高尚な精神性を伴った理念は、豚や魚や知的障害者、そして
精神障害者などに到底わきまえられるものではなく、IQ100程度の人並みの知能を常時保ち続けて
いられる程度には、人としての品性を守っている人間のみが、仁義や菩提のような高尚な精神性を
わきまえるだけの最低限の条件を得る。さらにそこからより堅固なわきまえに臨んでいくこともできる一方で、
さすがにIQ100程度の恒常知能がないことには、信か、さもなくば知か程度の低劣なわきまえに終始する。
「樊遲仁を問う。子曰く、人を愛す。知を問う。子曰く、人を知る。樊遲未だ達せず。子曰く、直きを舉げて諸れを枉れるに錯けば、
能く枉れる者をして直からしむ。樊遲退く、子夏に見えて曰、さきに吾れ夫子に見えて知を問う、子曰く、直きを舉げて諸れを
枉れるに錯けば、能く枉れる者をして直からしむと、何の謂いぞや。子夏曰く、富める言かな。舜の天下に有るや、
衆より選びて、皋陶を舉げ、不仁者遠ざかる。湯の天下に有るや、衆より選びて伊尹を舉げ、不仁者遠ざかる」
「樊遲が仁についてお尋ねした。先生は言われた。『人を愛することだ』 次に知恵についてお尋ねした。先生は言われた。
『人を知ることだ』 樊遲は先生の言うことの意味がまだよく分からなかった。そこで先生は言われた。『正直なものを取り立てて
屈折したものの上に置くようにすれば、屈折したものまでをも正すことができる』 樊遲は先生の前を退いて、子夏に会って言った。
『さっき私は先生に知恵についてお尋ねしました。すると先生はかくかくしかじかと答えられました。どういう意味でしょうか』
子夏は言った。『それは素晴らしい言葉だ。舜帝が天下に君臨した時にも、大衆の中から皋陶のような賢人を取り立てて、
不仁者の専横を遠ざけた。湯王が天下に君臨した時にも、大衆の中から伊尹のような賢人を取り立てて、不仁者の専横を遠ざけた』
(人をよく知って、罪の救いばかりを欲するような小人の上に、仁義に長けた君子を置くことこそは大知にもあたる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・二二)
能く枉れる者をして直からしむ。樊遲退く、子夏に見えて曰、さきに吾れ夫子に見えて知を問う、子曰く、直きを舉げて諸れを
枉れるに錯けば、能く枉れる者をして直からしむと、何の謂いぞや。子夏曰く、富める言かな。舜の天下に有るや、
衆より選びて、皋陶を舉げ、不仁者遠ざかる。湯の天下に有るや、衆より選びて伊尹を舉げ、不仁者遠ざかる」
「樊遲が仁についてお尋ねした。先生は言われた。『人を愛することだ』 次に知恵についてお尋ねした。先生は言われた。
『人を知ることだ』 樊遲は先生の言うことの意味がまだよく分からなかった。そこで先生は言われた。『正直なものを取り立てて
屈折したものの上に置くようにすれば、屈折したものまでをも正すことができる』 樊遲は先生の前を退いて、子夏に会って言った。
『さっき私は先生に知恵についてお尋ねしました。すると先生はかくかくしかじかと答えられました。どういう意味でしょうか』
子夏は言った。『それは素晴らしい言葉だ。舜帝が天下に君臨した時にも、大衆の中から皋陶のような賢人を取り立てて、
不仁者の専横を遠ざけた。湯王が天下に君臨した時にも、大衆の中から伊尹のような賢人を取り立てて、不仁者の専横を遠ざけた』
(人をよく知って、罪の救いばかりを欲するような小人の上に、仁義に長けた君子を置くことこそは大知にもあたる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・二二)
梵我一如とか物我一理とかいった、天地万物に永劫普遍の道理なり真理なりと
自己の統合による、悟りなり浩然の気なりを得られるということが、
確かに東洋の哲学宗教などにおいても掲げられている。
しかし、それは知能が人並みかそれ以上の恒常的な健全さを保ち続けている中にこそ
得られるとされるものであり、飼い主からの餌を待つ豚や魚並みの低能に
陥ることによって得られるものなどとされてはいない。
俗世の濁悪さなどを理解できない重度精神障害に陥るのではなく、
濁悪さの苦しみも十分に受け止めて、その苦しみをも超える天理に与る。
麻薬による狂気への陥りによって痛みを和らげるのではなく、
痛みをも超えるほどもの涅槃静寂を正気のままに得る。
似ているようで、全く違う、痛み苦しみに対する処方の正誤。
「蓍の鄹は圓にして神なり。卦の鄹は方をて知なり。六爻の義は易を以て貢ぐ。
聖人此れを以て心を洗い、退きて密に藏れ、吉凶民と患いを同じくす」
「(易占の道具である)蓍の働きは円のように角がなくて神妙であり、三爻八卦の働きは方形のように
よく定まっていて明知であり、六爻六十四卦の道義は神明の変易を通じて吉凶を人に伝える。
聖人はこの易の徳義によって心の濁りを洗い清め、躍起であることから退いて冷静な神秘に同化し、
(下劣な選民志向なども洗い清めているために)吉凶への憂患を万民と同じくするように勤める」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
自己の統合による、悟りなり浩然の気なりを得られるということが、
確かに東洋の哲学宗教などにおいても掲げられている。
しかし、それは知能が人並みかそれ以上の恒常的な健全さを保ち続けている中にこそ
得られるとされるものであり、飼い主からの餌を待つ豚や魚並みの低能に
陥ることによって得られるものなどとされてはいない。
俗世の濁悪さなどを理解できない重度精神障害に陥るのではなく、
濁悪さの苦しみも十分に受け止めて、その苦しみをも超える天理に与る。
麻薬による狂気への陥りによって痛みを和らげるのではなく、
痛みをも超えるほどもの涅槃静寂を正気のままに得る。
似ているようで、全く違う、痛み苦しみに対する処方の正誤。
「蓍の鄹は圓にして神なり。卦の鄹は方をて知なり。六爻の義は易を以て貢ぐ。
聖人此れを以て心を洗い、退きて密に藏れ、吉凶民と患いを同じくす」
「(易占の道具である)蓍の働きは円のように角がなくて神妙であり、三爻八卦の働きは方形のように
よく定まっていて明知であり、六爻六十四卦の道義は神明の変易を通じて吉凶を人に伝える。
聖人はこの易の徳義によって心の濁りを洗い清め、躍起であることから退いて冷静な神秘に同化し、
(下劣な選民志向なども洗い清めているために)吉凶への憂患を万民と同じくするように勤める」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
まあ、子貢の場合は本人自身が以下のようにも謙っているので、まだマシなほうだといえる。
貨殖功利などに奔走して狭隘な利権を貪る賤人でいて、天下全土を我が物であるかのように
ほざくやからなどのほうが、君子に導かれることもかなわない、致命的な小人とも化すのだ。
「陳子禽子貢に謂いて曰く、子は恭を為すなり。仲尼、豈に賢らんや。子貢曰く、君子は一言を以て知と為し、
一言を以て不知と為す。言は慎まざるべからざるなり。夫子の及ぶべからざるや、猶を天の階して升るべからざるがごとし。
夫子の邦家を得る者は、所謂之れを立つれば斯に立ち、之れを道びけば斯に立ち、之れを綏んずれば斯に來たり、
之れを動かせば斯に和す。其の生くるや榮え、其の死するや哀しむ。之に如何ぞ其れ及ぶべけんや」
「(下級貴族に過ぎなかった孔子は、投機で金を得た弟子の子貢の支援にもよって王侯などと面会してもいたことから)
陳子禽が子貢に言った。『あなたは謙りすぎているのです。仲尼(孔子)ごときがあなたよりも優れているはずがありません』
(ただ子貢のほうが孔子よりも富裕だったことを根拠にこのような発言をしたあたり、陳子禽も大した人間ではなかっただろう)
子貢は言った。『君子はただの一言で相手の知力を見抜くものです。言葉は慎まなければなりません。孔先生にわれわれが
及ばないことは、さも天に向かって階段をかけて上ろうかというようなもの。孔先生がもし国家を治めることになれば、
誰しもが立たせれば立ち、導けば歩き、安んずればなつき、働かせれば和するようにもなる。
生きている限りにおいては誰しもが栄え、死すれば誰しもが悲しむ。どうして我々ごときが及べようか』
(私利私欲に走る小人は、誰しもを栄えさせることかなわず、かえって多くの人々を貧窮にも追い込む。
さすればこそ当人が死んだときに、誰しもが悲しむどころか、誰しもが喜ぶことにすらなりかねない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・二五)
貨殖功利などに奔走して狭隘な利権を貪る賤人でいて、天下全土を我が物であるかのように
ほざくやからなどのほうが、君子に導かれることもかなわない、致命的な小人とも化すのだ。
「陳子禽子貢に謂いて曰く、子は恭を為すなり。仲尼、豈に賢らんや。子貢曰く、君子は一言を以て知と為し、
一言を以て不知と為す。言は慎まざるべからざるなり。夫子の及ぶべからざるや、猶を天の階して升るべからざるがごとし。
夫子の邦家を得る者は、所謂之れを立つれば斯に立ち、之れを道びけば斯に立ち、之れを綏んずれば斯に來たり、
之れを動かせば斯に和す。其の生くるや榮え、其の死するや哀しむ。之に如何ぞ其れ及ぶべけんや」
「(下級貴族に過ぎなかった孔子は、投機で金を得た弟子の子貢の支援にもよって王侯などと面会してもいたことから)
陳子禽が子貢に言った。『あなたは謙りすぎているのです。仲尼(孔子)ごときがあなたよりも優れているはずがありません』
(ただ子貢のほうが孔子よりも富裕だったことを根拠にこのような発言をしたあたり、陳子禽も大した人間ではなかっただろう)
子貢は言った。『君子はただの一言で相手の知力を見抜くものです。言葉は慎まなければなりません。孔先生にわれわれが
及ばないことは、さも天に向かって階段をかけて上ろうかというようなもの。孔先生がもし国家を治めることになれば、
誰しもが立たせれば立ち、導けば歩き、安んずればなつき、働かせれば和するようにもなる。
生きている限りにおいては誰しもが栄え、死すれば誰しもが悲しむ。どうして我々ごときが及べようか』
(私利私欲に走る小人は、誰しもを栄えさせることかなわず、かえって多くの人々を貧窮にも追い込む。
さすればこそ当人が死んだときに、誰しもが悲しむどころか、誰しもが喜ぶことにすらなりかねない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・二五)
刃物は人類最古の文化であり、まだ人類が猿人や原人だった頃から、石斧などの形で用いられてきた。
つる草や木の枝などを道具として用いることは、鳥や猿などの動物にも見られ、
「道具を用いること」すなわち人類文化の始まりであるとはいえないが、
道具を加工して高度な仕事に用いることが、人類文化の始まりであるとはいえるため、
石を削って斧にするなどの、刃物加工が人類文化の始まりとしていいだろうと思われる。
その、刃物のもっとも高度な扱い方をわきまえてきたのも、やはり極東人であり、
刀剣や槍、薙刀、弓矢などの扱いを研鑽する日本の武術がその代表的なもの。
ただ、日本の武術は礼儀作法にも多大な影響を受けており、規矩準縄のごとく正確な礼法の動きが
一つ一つの身体の扱いの参考にもされているために、刀剣のような武器を扱う体術でありながら、
単なる暴力行為などでは決してない、洗練された身体の扱いともなっている。
そしてもちろん、礼儀作法の原典「礼記」にも、以下のような刃物の扱い方が目白押しとなっている。
ただ「刃物はうちが起源ニダ」などというような、専売特許ばかりを主張する下劣さも帯びることなく。
「刀は刃を卻けて穎を授く。削をば拊を授く。凡そ刺刃ある者は、以て人に授くるときは則ち刃を辟く。
兵車に乘りて出ずるときは刃を先にす。入るときは刃を後にす。軍には左を尚にす。卒には右を尚にす」
「刀剣は刃を退けて鍔のほうから人に授ける。曲刀の場合は柄のほうから授ける。おおよそ刃物を人に渡すときには、
刃が相手のほうに向かないようにしながら渡す。戦車に乗って出陣するときには刃を先にし、帰り着く時には刃を後にする。
上位の将軍の前では謙りを意味して左側に刃物を持ち、下位の兵卒の前では叱咤を意味して右側に刃物を持つ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・少儀第十七より)
つる草や木の枝などを道具として用いることは、鳥や猿などの動物にも見られ、
「道具を用いること」すなわち人類文化の始まりであるとはいえないが、
道具を加工して高度な仕事に用いることが、人類文化の始まりであるとはいえるため、
石を削って斧にするなどの、刃物加工が人類文化の始まりとしていいだろうと思われる。
その、刃物のもっとも高度な扱い方をわきまえてきたのも、やはり極東人であり、
刀剣や槍、薙刀、弓矢などの扱いを研鑽する日本の武術がその代表的なもの。
ただ、日本の武術は礼儀作法にも多大な影響を受けており、規矩準縄のごとく正確な礼法の動きが
一つ一つの身体の扱いの参考にもされているために、刀剣のような武器を扱う体術でありながら、
単なる暴力行為などでは決してない、洗練された身体の扱いともなっている。
そしてもちろん、礼儀作法の原典「礼記」にも、以下のような刃物の扱い方が目白押しとなっている。
ただ「刃物はうちが起源ニダ」などというような、専売特許ばかりを主張する下劣さも帯びることなく。
「刀は刃を卻けて穎を授く。削をば拊を授く。凡そ刺刃ある者は、以て人に授くるときは則ち刃を辟く。
兵車に乘りて出ずるときは刃を先にす。入るときは刃を後にす。軍には左を尚にす。卒には右を尚にす」
「刀剣は刃を退けて鍔のほうから人に授ける。曲刀の場合は柄のほうから授ける。おおよそ刃物を人に渡すときには、
刃が相手のほうに向かないようにしながら渡す。戦車に乗って出陣するときには刃を先にし、帰り着く時には刃を後にする。
上位の将軍の前では謙りを意味して左側に刃物を持ち、下位の兵卒の前では叱咤を意味して右側に刃物を持つ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・少儀第十七より)
短命でも悔いのない人生ならば本望だし、長命でも悔いだらけの人生ではしょうもない。
「たら」「れば」がタブー扱いされるほどにも後悔だらけの西洋史などではなく、
それら自体が徳治史として立派に成立しているほどにも完成度が高く、そのために
「史記」の編纂者である司馬遷などからして、注釈でも「たら」「れば」を連発している、
古代中国史や、江戸時代までの日本史のような立派な人生すら遅れたならば、
寿命の長短、存命中に限っての厚遇不遇などは、大して気にかけるまでもない。
「天は高く、星辰は遠く、苟くも其の故を求めば、千歳の日至も、坐ながらにして致るべきなり」
「天は高く、星々は遠い彼方にある、その所以ともなる理を究明したならば、千年後の冬至すら座して察することもできる。
(天地万物に永久不変の道理の前では、千年や二千年ごときの光陰は矢にも等しい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・二七より)
「たら」「れば」がタブー扱いされるほどにも後悔だらけの西洋史などではなく、
それら自体が徳治史として立派に成立しているほどにも完成度が高く、そのために
「史記」の編纂者である司馬遷などからして、注釈でも「たら」「れば」を連発している、
古代中国史や、江戸時代までの日本史のような立派な人生すら遅れたならば、
寿命の長短、存命中に限っての厚遇不遇などは、大して気にかけるまでもない。
「天は高く、星辰は遠く、苟くも其の故を求めば、千歳の日至も、坐ながらにして致るべきなり」
「天は高く、星々は遠い彼方にある、その所以ともなる理を究明したならば、千年後の冬至すら座して察することもできる。
(天地万物に永久不変の道理の前では、千年や二千年ごときの光陰は矢にも等しい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・二七より)
クリスマスには休んでも、正月には休まないのか。
一生休み続けていてもいいほどの病状なのにな。
「哀しきかな言るに能わず、匪れ舌より是れ出ずれば、維ち躬に是れ瘁しむ。
しかも能言のやからの、巧言の流るるが如きは、躬を俾て休きに處らしむ」
「虚しいものだ、語るに値しないことばかり、舌より出ずれば出ずるだけ、その身を苦しましむのみ。
うらやましいことよ(皮肉)、能弁に長けた佞人どもの巧言令色は、その身をさらに安からしめる。
(品性をさらに低俗ならしめることを、『やすからしめる』と皮肉ってもいる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・雨無正より)
一生休み続けていてもいいほどの病状なのにな。
「哀しきかな言るに能わず、匪れ舌より是れ出ずれば、維ち躬に是れ瘁しむ。
しかも能言のやからの、巧言の流るるが如きは、躬を俾て休きに處らしむ」
「虚しいものだ、語るに値しないことばかり、舌より出ずれば出ずるだけ、その身を苦しましむのみ。
うらやましいことよ(皮肉)、能弁に長けた佞人どもの巧言令色は、その身をさらに安からしめる。
(品性をさらに低俗ならしめることを、『やすからしめる』と皮肉ってもいる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・雨無正より)
奴隷としてつなぎ止められて自由を拘束されることこそは、何よりも望まないところ。
それが健全な精神を保った人間の当然の心持ち。
誰かの奴隷となることで望みが叶えられることを期待するのも、ひどい症状だ。
実際社会においても、仕事をする自由としない自由、仕官する自由と仕官しない自由とが
いずれも尊重されてきた伝統があるために、中国でも儒家と共に無為自然の道家が好まれていたし、
日本でも江戸時代などに浪人文化が花開きもした。誰かに仕えて仕事をするという、
拘束状態を個々人が選択したりしなかったりする自由がまずあって初めて、
悪い仕事をせずに良い仕事をしようと心がける余裕なども保たれ得る。
その程度の余裕すらないような状態こそは、まさにあるがままに精神的不衛生でもある。
「つなぐに徽纆を用い、叢棘に郈く、三歳まで得ず、凶なり」
「二筋三筋と頑丈により合わされた縄で縛り上げられてつながれ、
いばらで囲われた牢屋の中に押し込められ、三年以上も出てこられない、凶である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・習坎・上六)
それが健全な精神を保った人間の当然の心持ち。
誰かの奴隷となることで望みが叶えられることを期待するのも、ひどい症状だ。
実際社会においても、仕事をする自由としない自由、仕官する自由と仕官しない自由とが
いずれも尊重されてきた伝統があるために、中国でも儒家と共に無為自然の道家が好まれていたし、
日本でも江戸時代などに浪人文化が花開きもした。誰かに仕えて仕事をするという、
拘束状態を個々人が選択したりしなかったりする自由がまずあって初めて、
悪い仕事をせずに良い仕事をしようと心がける余裕なども保たれ得る。
その程度の余裕すらないような状態こそは、まさにあるがままに精神的不衛生でもある。
「つなぐに徽纆を用い、叢棘に郈く、三歳まで得ず、凶なり」
「二筋三筋と頑丈により合わされた縄で縛り上げられてつながれ、
いばらで囲われた牢屋の中に押し込められ、三年以上も出てこられない、凶である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・習坎・上六)
孔子の文章に独自のバカ解釈を加えた物を掲示板という出来るだけ人の目に触れづらく
バカが許され易い媒体を選んで投稿し続けて「何も出来ないのではなく、何もしないだけ」
を証明する挑戦をしていれば、怠惰な現状を維持する対価になると考えている。
アホの言い訳に利用されて孔子が草葉の陰で泣いてるぞ。
バカが許され易い媒体を選んで投稿し続けて「何も出来ないのではなく、何もしないだけ」
を証明する挑戦をしていれば、怠惰な現状を維持する対価になると考えている。
アホの言い訳に利用されて孔子が草葉の陰で泣いてるぞ。
何もしないだけじゃない。何もできないのでもある。
最低限の人としての道義を守ろうと勤めている挙句に、
社会的には何もできなくなっている。
それは、春秋戦国時代という乱世に生きた道徳者だった
孔子や孟子とて同じだった。諸侯への仕官を志しては失敗する、
青い鳥状態の就職活動の後に、文筆生活の中で人生を終えた。
でも、今では当時の諸侯などよりも、孔子や孟子の名のほうが
誰しもに知られている。千乗の馬車や大宮殿などを保有していた
当時の大諸侯などより、社会的には何もできなかった孔子や孟子のほうが、
歴史に名をとどめる大聖賢として、未だに畏敬の対象ともされている。
これこそは、決して目を逸らすべきでない、厳然たる現実だ。
最低限の人としての道義を守ろうと勤めている挙句に、
社会的には何もできなくなっている。
それは、春秋戦国時代という乱世に生きた道徳者だった
孔子や孟子とて同じだった。諸侯への仕官を志しては失敗する、
青い鳥状態の就職活動の後に、文筆生活の中で人生を終えた。
でも、今では当時の諸侯などよりも、孔子や孟子の名のほうが
誰しもに知られている。千乗の馬車や大宮殿などを保有していた
当時の大諸侯などより、社会的には何もできなかった孔子や孟子のほうが、
歴史に名をとどめる大聖賢として、未だに畏敬の対象ともされている。
これこそは、決して目を逸らすべきでない、厳然たる現実だ。
行動即犯罪の総員テロリスト化社会で、何をするよりも、
積極的に何もしないでいようとすることが偉大であるのはもちろんのこと、
何かをしようとしたところで、結局は何もできないでいることすらもが偉い。
それどころか、無為自然を積極的に実践しようとした道家の徒などよりも、
乱世には何もできないながらも、治世には存分にその能力を発揮する儒者のほうが、
さらに歴史的な評価が高かったりもする。道術者は世間への介入を完全に忌み、
儒者は乱世に限って半分ほど忌むのだから、当然社会的な活躍の余地は、
道術者よりも儒者のほうが多くなる。乱世には儒者も道術者と同じ
無為自然に甘んじてはいるものの、それに限らない点が儒者は違う。
治世ですらあれば身を挺して働く自己誓約が、儒者に不屈の信念を与えもする。
「其の君子は玄黄を匪に實たして以て其の君子を迎え、其の小人は箪食壺漿して
以て其の小人を迎えるは、民を水火の中から救いて其の残賊を討つのみなればなり」
「(周武王の軍が紂王を討つために殷の首都に入城したとき、)殷の役人たちは錦織を箱に
満たして周の役人たちを歓迎し、殷の庶民たちも飯を盛り酒を汲んで周の庶民たちを歓迎した。
武王が殷の民たちをマッチポンプの苦しみから救って残党を討ち滅ぼしてくれると察していたから」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・五より)
積極的に何もしないでいようとすることが偉大であるのはもちろんのこと、
何かをしようとしたところで、結局は何もできないでいることすらもが偉い。
それどころか、無為自然を積極的に実践しようとした道家の徒などよりも、
乱世には何もできないながらも、治世には存分にその能力を発揮する儒者のほうが、
さらに歴史的な評価が高かったりもする。道術者は世間への介入を完全に忌み、
儒者は乱世に限って半分ほど忌むのだから、当然社会的な活躍の余地は、
道術者よりも儒者のほうが多くなる。乱世には儒者も道術者と同じ
無為自然に甘んじてはいるものの、それに限らない点が儒者は違う。
治世ですらあれば身を挺して働く自己誓約が、儒者に不屈の信念を与えもする。
「其の君子は玄黄を匪に實たして以て其の君子を迎え、其の小人は箪食壺漿して
以て其の小人を迎えるは、民を水火の中から救いて其の残賊を討つのみなればなり」
「(周武王の軍が紂王を討つために殷の首都に入城したとき、)殷の役人たちは錦織を箱に
満たして周の役人たちを歓迎し、殷の庶民たちも飯を盛り酒を汲んで周の庶民たちを歓迎した。
武王が殷の民たちをマッチポンプの苦しみから救って残党を討ち滅ぼしてくれると察していたから」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・五より)
イスラエルやギリシャやローマにも先んずる優等文化としての、
中国文化やインド文化、オリエント文化などが実際に実在することがすでに、
聖書信仰や洋学が、人類文化のすべてを還元すべきような代物ではない何よりの証拠になっている。
超越神エホバが男の人間アダムを造った上で、そのあばらを取り出して女の人間イブを造った
などという創世神話からして、男も女もみな母親の胎内から産み出される先天的な法則に反している。
「男女ありて然る後に夫婦あり、夫婦ありて然る後に父子あり、父子ありて然る後に君臣あり、
君臣ありて然る後に上下あり、上下ありて然る後に礼儀の錯くところあり(易経・序卦伝)」という
上下関係の後天性すらをもわきまえた上で、人工的に男尊女卑を実施する正規の人間道徳からすれば、
先天的に女が男の後に造られたとすることが、いかに不健全な迷妄であるのかまでもが如実となる。
中国文化やインド文化、オリエント文化などが実際に実在することがすでに、
聖書信仰や洋学が、人類文化のすべてを還元すべきような代物ではない何よりの証拠になっている。
超越神エホバが男の人間アダムを造った上で、そのあばらを取り出して女の人間イブを造った
などという創世神話からして、男も女もみな母親の胎内から産み出される先天的な法則に反している。
「男女ありて然る後に夫婦あり、夫婦ありて然る後に父子あり、父子ありて然る後に君臣あり、
君臣ありて然る後に上下あり、上下ありて然る後に礼儀の錯くところあり(易経・序卦伝)」という
上下関係の後天性すらをもわきまえた上で、人工的に男尊女卑を実施する正規の人間道徳からすれば、
先天的に女が男の後に造られたとすることが、いかに不健全な迷妄であるのかまでもが如実となる。
「古え我が先后、既になんじの祖、なんじの父を勞り、汝共に我れと民を畜うことを作す。
汝戕うこと有るは、則ちなんじの心に在り。我が先后なんじの祖なんじの父を綏んじ、なんじの祖なんじの父、
乃ち汝を斷ち棄て、なんじの死を救わず。茲れ予れ亂政有りて位を同じうするも、なんじの貝玉を具う。なんじの祖
なんじの父も丕いに乃ち我が高后に次げて曰わん。丕いに刑を朕が孫に作せと。高后を迪きて、丕いに乃ち弗祥を崇め降さん」
「太古の昔、我が先君は汝らの父祖を労わったために、汝らも我れと共に民を養う仕事に携わっている。
しかし、汝らの心が邪悪であるために、汝らは民を損なう悪行ばかりに手を染める。我が先君は、汝らの父祖までをも
安んじてやったというのに、その恩に背いてばかりいるのだから、汝らの父祖もまた、汝らの系譜を断ち捨てて、
汝らの死滅を救うこともない。今はまだ乱世であるために、汝らも我れとくそみそに位を同じくするも、
汝らは汝ら自身の財物や財宝を集め守ることばかりに終始するのみ。汝らの父祖もまた、我が先君に告げて言うことだろう。
『我らの子孫に大いなる天罰を下してください』と。我が先君を導いて、大いなる禍を汝らに降す道を開かれるのだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚中より)
汝戕うこと有るは、則ちなんじの心に在り。我が先后なんじの祖なんじの父を綏んじ、なんじの祖なんじの父、
乃ち汝を斷ち棄て、なんじの死を救わず。茲れ予れ亂政有りて位を同じうするも、なんじの貝玉を具う。なんじの祖
なんじの父も丕いに乃ち我が高后に次げて曰わん。丕いに刑を朕が孫に作せと。高后を迪きて、丕いに乃ち弗祥を崇め降さん」
「太古の昔、我が先君は汝らの父祖を労わったために、汝らも我れと共に民を養う仕事に携わっている。
しかし、汝らの心が邪悪であるために、汝らは民を損なう悪行ばかりに手を染める。我が先君は、汝らの父祖までをも
安んじてやったというのに、その恩に背いてばかりいるのだから、汝らの父祖もまた、汝らの系譜を断ち捨てて、
汝らの死滅を救うこともない。今はまだ乱世であるために、汝らも我れとくそみそに位を同じくするも、
汝らは汝ら自身の財物や財宝を集め守ることばかりに終始するのみ。汝らの父祖もまた、我が先君に告げて言うことだろう。
『我らの子孫に大いなる天罰を下してください』と。我が先君を導いて、大いなる禍を汝らに降す道を開かれるのだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚中より)
ちょっと可哀想になるぐらいの、辛辣な破滅宣告。
古代中国と、イスラエル以西の古代社会に直接的な関係はないが、西方社会に多大なる文化文明的材料を
与えてやった古代オリエントや古代インドを「先君」として、古代イスラエルや古代ギリシャ・ローマなどを
「汝らの父祖」とすれば、極めてよく話が通る内容にもなっている。
半ばこじつけ気味な対照ではあるにしても、
(四書五経の勉強のほうが根本で、犯罪聖書の懲罰は末節なので、それでも別にかまわない)
犯罪聖書の記述にことごとく関連させられるような記事が、四書五経などに大量に載っていることも、
東洋文化が物量面で西洋文化を上回っていた証拠になっている。もちろん質も遥かによくて、
四書五経の編纂は犯罪聖書よりも500年以上先行しているから、古さでもさらなる先輩に当たる。
もしもアダムのあばら骨を用いてイブが造られたという寓話に当てはめるとしても、
四書五経のほうがアダムで犯罪聖書のほうがイブだったといえる。もちろんいずれも超越神エホバによる
被造物などではなく、男女夫婦父子君臣上下の関係が築かれて後における、人間自身の産物でしかない。
人間自身の産物としてまともだった四書五経、欺瞞の限りを尽くした犯罪聖書。それだけのこと。
古代中国と、イスラエル以西の古代社会に直接的な関係はないが、西方社会に多大なる文化文明的材料を
与えてやった古代オリエントや古代インドを「先君」として、古代イスラエルや古代ギリシャ・ローマなどを
「汝らの父祖」とすれば、極めてよく話が通る内容にもなっている。
半ばこじつけ気味な対照ではあるにしても、
(四書五経の勉強のほうが根本で、犯罪聖書の懲罰は末節なので、それでも別にかまわない)
犯罪聖書の記述にことごとく関連させられるような記事が、四書五経などに大量に載っていることも、
東洋文化が物量面で西洋文化を上回っていた証拠になっている。もちろん質も遥かによくて、
四書五経の編纂は犯罪聖書よりも500年以上先行しているから、古さでもさらなる先輩に当たる。
もしもアダムのあばら骨を用いてイブが造られたという寓話に当てはめるとしても、
四書五経のほうがアダムで犯罪聖書のほうがイブだったといえる。もちろんいずれも超越神エホバによる
被造物などではなく、男女夫婦父子君臣上下の関係が築かれて後における、人間自身の産物でしかない。
人間自身の産物としてまともだった四書五経、欺瞞の限りを尽くした犯罪聖書。それだけのこと。
1.徳を以て怨みに報う(老子)
2.直きを以て怨みに報う(論語)
3.目には目を、歯には歯を(ハムラビ法典)
4.右の頬を打たれれば左の頬を差し出せ(福音書)
人として正しいのは1か2であり、3と4はなるべくそうであってはいけないもの。
具体的には、犯罪者などに対して、1は不問の状態に置くことで自主的な贖罪を促し、
2は適正な懲罰も科した上で自らが犯罪の防止に努める積極的道徳者でもあろうとする。
3はただ罪人に杓子定規な罰を科すのみであり、4は罪人にやらせたい放題となる。
4のイエスの発言が無知者に美辞麗句として受け止められ、さも1と同等のものであるように
思い込まれている感があるが、全くそうではなく、最もそうであってはならないもの。
犯罪行為を支援しすらする、マゾヒズム的変態志向が、徳を以て怨みに報うことなどには決してならない。
「孟子鄒に居りしに、季任任の處守を為せり。幣を以て交わらんとせしも、之れを受けて報ぜず。平陸に處りしに、
儲子相を為せり、幣を以て交わらんとせしも、之れを受けて報ぜず。他日鄒より任に之きしとき、季子を見るも、
平陸より齊に之きしときは儲子を見ず。屋廬子喜びて曰く、連、 を得たりと。問うて曰く、夫子の任に之きて
季子を見るや、齊に之きて儲子を見ざるや、其の相を為せる為なるや。曰く、非なり。(書に)曰く、享は儀を多とす。
儀、物に及ばざるを不享と曰う。惟れ志しを享に役せざると曰う。其の享を成さざるが為なり。屋廬子 ぶ。
或ひと之れを問う。屋廬子曰く、季子は鄒に之くを得ざりしも、儲子は平陸に之くを得たればなり」
2.直きを以て怨みに報う(論語)
3.目には目を、歯には歯を(ハムラビ法典)
4.右の頬を打たれれば左の頬を差し出せ(福音書)
人として正しいのは1か2であり、3と4はなるべくそうであってはいけないもの。
具体的には、犯罪者などに対して、1は不問の状態に置くことで自主的な贖罪を促し、
2は適正な懲罰も科した上で自らが犯罪の防止に努める積極的道徳者でもあろうとする。
3はただ罪人に杓子定規な罰を科すのみであり、4は罪人にやらせたい放題となる。
4のイエスの発言が無知者に美辞麗句として受け止められ、さも1と同等のものであるように
思い込まれている感があるが、全くそうではなく、最もそうであってはならないもの。
犯罪行為を支援しすらする、マゾヒズム的変態志向が、徳を以て怨みに報うことなどには決してならない。
「孟子鄒に居りしに、季任任の處守を為せり。幣を以て交わらんとせしも、之れを受けて報ぜず。平陸に處りしに、
儲子相を為せり、幣を以て交わらんとせしも、之れを受けて報ぜず。他日鄒より任に之きしとき、季子を見るも、
平陸より齊に之きしときは儲子を見ず。屋廬子喜びて曰く、連、 を得たりと。問うて曰く、夫子の任に之きて
季子を見るや、齊に之きて儲子を見ざるや、其の相を為せる為なるや。曰く、非なり。(書に)曰く、享は儀を多とす。
儀、物に及ばざるを不享と曰う。惟れ志しを享に役せざると曰う。其の享を成さざるが為なり。屋廬子 ぶ。
或ひと之れを問う。屋廬子曰く、季子は鄒に之くを得ざりしも、儲子は平陸に之くを得たればなり」
▲ページ最上部
ログサイズ:720 KB 有効レス数:501 削除レス数:0
不適切な書き込みやモラルに反する投稿を見つけた時は、書き込み右の マークをクリックしてサイト運営者までご連絡をお願いします。確認しだい削除いたします。
思想・哲学掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
スレッドタイトル:聖書 Part5