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聖書 Part5
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「聖書」という言葉の原典となっている「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下の記述に基づけば、「聖書」とは
①聖人が書いた書物。
②叙勲などを司る記録官による、正式な記録作業によって編纂された書類。
③賢愚の分け隔てなく全ての評価対象者をおしなべて取り上げた書物。
④賢愚をおしなべて取り上げつつも、その格の上下に合わせた公正な評価が行き届いている書物。
⑤年功や等級の高低を重視し、分をわきまえない僭越などを十全に排している書物。
といった条件を満たしている書物のことであり、そのような書物の中でも、最も代表的かつ古典的であるのが四書五経。
①の条件は孔子の書いた「易経」繋辞伝や「春秋経」、曾子の書いた「大学」や子思子の書いた「中庸」などが満たしている。
②の条件は太古の正式な政治記録である「書経」が(ただしあまりにも太古過ぎるため、多少の修繕がなされている)、
③と④の条件は「詩経」の大雅小雅両篇や「春秋経」が、⑤の条件は身分秩序を重んじる「易経」「論語」「礼記」などが
満たしている。まさに四書五経こそは、「聖書」という言葉の厳密な条件を満たしきるために著されたような書物であり、
これほどにも聖書の名に値する書物は、他に存在しないと言えるほど。ここはその真正聖書たる四書五経などについて語るスレ。
(画像は「論語」の主人公孔子、「孟子」の主人公孟子、「大学」の著者曾子、「中庸」の著者子思子の四名。四書の各筆頭)

①聖人が書いた書物。
②叙勲などを司る記録官による、正式な記録作業によって編纂された書類。
③賢愚の分け隔てなく全ての評価対象者をおしなべて取り上げた書物。
④賢愚をおしなべて取り上げつつも、その格の上下に合わせた公正な評価が行き届いている書物。
⑤年功や等級の高低を重視し、分をわきまえない僭越などを十全に排している書物。
といった条件を満たしている書物のことであり、そのような書物の中でも、最も代表的かつ古典的であるのが四書五経。
①の条件は孔子の書いた「易経」繋辞伝や「春秋経」、曾子の書いた「大学」や子思子の書いた「中庸」などが満たしている。
②の条件は太古の正式な政治記録である「書経」が(ただしあまりにも太古過ぎるため、多少の修繕がなされている)、
③と④の条件は「詩経」の大雅小雅両篇や「春秋経」が、⑤の条件は身分秩序を重んじる「易経」「論語」「礼記」などが
満たしている。まさに四書五経こそは、「聖書」という言葉の厳密な条件を満たしきるために著されたような書物であり、
これほどにも聖書の名に値する書物は、他に存在しないと言えるほど。ここはその真正聖書たる四書五経などについて語るスレ。
(画像は「論語」の主人公孔子、「孟子」の主人公孟子、「大学」の著者曾子、「中庸」の著者子思子の四名。四書の各筆頭)

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ことに、資本主義先進国の人間のうちでは、まだ偉大なほうのうちに入る我が親だ。
何をやったって外国人への強盗リンチ殺人行為にしかならないほどにも、物価も所得水準も桁外れな世の中で、
我が子がなるべく行為能力を行使せずに済ませようとしていることを支援してくれているのだから、
たとえ自分たち自身は強盗殺人級の犯罪行為に手を染め続けているのであっても、そこそこの罪滅ぼしにはなっている。
その功徳は、資本主義国の放辟邪侈がいよいよ行き詰って、ムスリムや中国に対して破産申請を申し立てようという時に、
中国人などによる本土占領込みの日本に対する実効支配という事態を回避できるなどといった形で現れることだろう。
わざわざ中国人やムスリムの手を直接に借りるまでもなく、自分たち日本人だけで国内の権力犯罪処分を行き届かせる。
行為能力の自主制限によって権力犯罪の自己責任を最低限に控えて来た俺などが、まさにその処分の執行人ともなるから、
日本本土の直接占領なども回避できる可能性が高い。なんと偉大な、我が両親の功徳であることか。
何をやったって外国人への強盗リンチ殺人行為にしかならないほどにも、物価も所得水準も桁外れな世の中で、
我が子がなるべく行為能力を行使せずに済ませようとしていることを支援してくれているのだから、
たとえ自分たち自身は強盗殺人級の犯罪行為に手を染め続けているのであっても、そこそこの罪滅ぼしにはなっている。
その功徳は、資本主義国の放辟邪侈がいよいよ行き詰って、ムスリムや中国に対して破産申請を申し立てようという時に、
中国人などによる本土占領込みの日本に対する実効支配という事態を回避できるなどといった形で現れることだろう。
わざわざ中国人やムスリムの手を直接に借りるまでもなく、自分たち日本人だけで国内の権力犯罪処分を行き届かせる。
行為能力の自主制限によって権力犯罪の自己責任を最低限に控えて来た俺などが、まさにその処分の執行人ともなるから、
日本本土の直接占領なども回避できる可能性が高い。なんと偉大な、我が両親の功徳であることか。
昔、法然の門下で親鸞(当時の名は善信)を含む弟子たちがある問答を行った。
阿弥陀様への信仰と、信仰のための行ないのうちのいずれかを捨てなければならないとすれば、どちらを捨てるかと。
信仰を捨てる「行不退」の側にほぼ全ての弟子が付いた一方で、親鸞こと善信だけが行を捨てる「信不退」の側に付いた。
「私の行ないは法然さまに到底及ばないが、私の信仰だけは法然さまとも同じものだから、信は捨てられない」と。
法然もこの親鸞の言葉に納得し、信不退の側に賛同する立場を取った。
行いをも超えた信仰というものが本当に通せるんなら、それはそれで一つの「聖」ともなるのかも知れないが、
その場合には、あらゆる行いを超えなければならないから、善行も悪行も超えなければならない。
仁義や礼智の下に信を置く、自力の善行志向である儒家の行いも超えなければならない一方で、
行いが悪行に結びつくことを信で正当化したりしてもいけない。そんな不純な動機で嗜まれた信などは、
いざあらゆる悪行が禁止されて、我田引水が厳重に取り締まられるようになれば、あっという間に捨て去られる。
悪行を正当化するための信などは、悪行による利得に依存した信でしかないから、行を捨ててでも信不退で
あろうとした親鸞聖人のような純粋さには決して即していない。あくまでそれは、不純な信仰でしかない。
「昔者子貢、孔子に問うて曰く、夫子は聖なるか。孔子曰く、聖は則ち吾れ能わず、我れ學びて
厭わず、教えて倦まざるのみ。子貢曰く、學びて厭わざるは、智なり。教えて倦まざるは、仁なり。
仁にして且つ智ならば、夫子は既に聖なり。夫れ聖は、孔子も居たまわざるに、是れ何の言ぞや」
「昔子貢が孔子に問うた。『先生は聖人でありましょうか』 孔子は答えた。『なぜ聖人などであろうか。
私はただ学ぶことを厭わず、教えることを倦まないでいるのみだ』 子貢は言った。『学ぶことを厭わないのは
智者だからであり、教えて倦まないのは仁者だからです。智者にして仁者である先生はすでに聖人であります』
自分が聖人であるなどということは、孔子ですら自認しなかったのに、自らを聖なる者扱いするとは、何の言ぞや」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・二より)
阿弥陀様への信仰と、信仰のための行ないのうちのいずれかを捨てなければならないとすれば、どちらを捨てるかと。
信仰を捨てる「行不退」の側にほぼ全ての弟子が付いた一方で、親鸞こと善信だけが行を捨てる「信不退」の側に付いた。
「私の行ないは法然さまに到底及ばないが、私の信仰だけは法然さまとも同じものだから、信は捨てられない」と。
法然もこの親鸞の言葉に納得し、信不退の側に賛同する立場を取った。
行いをも超えた信仰というものが本当に通せるんなら、それはそれで一つの「聖」ともなるのかも知れないが、
その場合には、あらゆる行いを超えなければならないから、善行も悪行も超えなければならない。
仁義や礼智の下に信を置く、自力の善行志向である儒家の行いも超えなければならない一方で、
行いが悪行に結びつくことを信で正当化したりしてもいけない。そんな不純な動機で嗜まれた信などは、
いざあらゆる悪行が禁止されて、我田引水が厳重に取り締まられるようになれば、あっという間に捨て去られる。
悪行を正当化するための信などは、悪行による利得に依存した信でしかないから、行を捨ててでも信不退で
あろうとした親鸞聖人のような純粋さには決して即していない。あくまでそれは、不純な信仰でしかない。
「昔者子貢、孔子に問うて曰く、夫子は聖なるか。孔子曰く、聖は則ち吾れ能わず、我れ學びて
厭わず、教えて倦まざるのみ。子貢曰く、學びて厭わざるは、智なり。教えて倦まざるは、仁なり。
仁にして且つ智ならば、夫子は既に聖なり。夫れ聖は、孔子も居たまわざるに、是れ何の言ぞや」
「昔子貢が孔子に問うた。『先生は聖人でありましょうか』 孔子は答えた。『なぜ聖人などであろうか。
私はただ学ぶことを厭わず、教えることを倦まないでいるのみだ』 子貢は言った。『学ぶことを厭わないのは
智者だからであり、教えて倦まないのは仁者だからです。智者にして仁者である先生はすでに聖人であります』
自分が聖人であるなどということは、孔子ですら自認しなかったのに、自らを聖なる者扱いするとは、何の言ぞや」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・二より)
本人の主張とは相反して、孔子こそは聖人の第一として扱われている。
一方で、孔子と並ぶ儒家の雄である孟子は「亜聖」とされる。孔子がもはや聖人であるのに対し、
孔子よりも一歩引いた所にいるという意味での亜聖。ちょうど仏教の開祖である釈迦が仏として扱われるのに対し、
大乗仏教興隆の祖である龍樹が菩薩として扱われるのと同じ。菩薩もまた、仏に次ぐものとされているから。
しかし菩薩乗の聖典である般若経が、一仏乗の聖典である華厳経や法華経よりも莫大な分量に上るように、
孟子もまたその文言については、儒家の開祖である孔子自身以上にもより多くの発言や創作文を遺しており、
その弁証力も天下随一のものとなっている。にもかかわらず孟子は聖人孔子に次ぐ亜聖扱い。これはなぜかといえば、
一つには孔子のほうが儒家の開祖であり、孟子は二番煎じだったからというのがある。そしてもう一つは、
「若い頃から卑賤な境遇や苦境に置かれていたものこそは、文芸などで多大な功績を残す」という法則に孟子もまた即しているから。
「論語」子罕第九・六でも、孔子が多芸であることを指摘されて恥じ入り、「君子多ならんや、多ならざるなり」と自嘲気味に
述べる場面がある。その多芸さのおかげで、今にも孔子が編纂した五経などが遺されているわけだから、一概にその多芸さを否定する
わけにもいかない。ただ、孔子は多芸が卑賤の証拠であることを恥じて、五経の自作部分を「易経」繋辞伝などのごく一部に
止めたのに対し、孟子は相当に創作的な自己主張の発言などを多々残しており、孔子以上にも多芸さを披露し尽くしたきらいがある。
そこは確かに孟子が孔子よりも劣る部分であり、その文言が秀逸であればこそ、現実上の苦境もまた相当なものであっただろう
ことがうかがえる。孔子が生きた春秋時代後期よりもさらに世相が荒廃した戦国時代中期に、権力道徳学者たる儒者の雄であったこと、
その徒労さ加減たるや想像を絶するものだったに違いないが、孟子もまた天を怨まず、人を咎めぬ心境でいたのだろうか。
一方で、孔子と並ぶ儒家の雄である孟子は「亜聖」とされる。孔子がもはや聖人であるのに対し、
孔子よりも一歩引いた所にいるという意味での亜聖。ちょうど仏教の開祖である釈迦が仏として扱われるのに対し、
大乗仏教興隆の祖である龍樹が菩薩として扱われるのと同じ。菩薩もまた、仏に次ぐものとされているから。
しかし菩薩乗の聖典である般若経が、一仏乗の聖典である華厳経や法華経よりも莫大な分量に上るように、
孟子もまたその文言については、儒家の開祖である孔子自身以上にもより多くの発言や創作文を遺しており、
その弁証力も天下随一のものとなっている。にもかかわらず孟子は聖人孔子に次ぐ亜聖扱い。これはなぜかといえば、
一つには孔子のほうが儒家の開祖であり、孟子は二番煎じだったからというのがある。そしてもう一つは、
「若い頃から卑賤な境遇や苦境に置かれていたものこそは、文芸などで多大な功績を残す」という法則に孟子もまた即しているから。
「論語」子罕第九・六でも、孔子が多芸であることを指摘されて恥じ入り、「君子多ならんや、多ならざるなり」と自嘲気味に
述べる場面がある。その多芸さのおかげで、今にも孔子が編纂した五経などが遺されているわけだから、一概にその多芸さを否定する
わけにもいかない。ただ、孔子は多芸が卑賤の証拠であることを恥じて、五経の自作部分を「易経」繋辞伝などのごく一部に
止めたのに対し、孟子は相当に創作的な自己主張の発言などを多々残しており、孔子以上にも多芸さを披露し尽くしたきらいがある。
そこは確かに孟子が孔子よりも劣る部分であり、その文言が秀逸であればこそ、現実上の苦境もまた相当なものであっただろう
ことがうかがえる。孔子が生きた春秋時代後期よりもさらに世相が荒廃した戦国時代中期に、権力道徳学者たる儒者の雄であったこと、
その徒労さ加減たるや想像を絶するものだったに違いないが、孟子もまた天を怨まず、人を咎めぬ心境でいたのだろうか。
「匡章曰く、陳仲子は豈に誠の廉士ならずや。於陵に居り、三日食らわず、耳に聞こえる無く、目に見える無し。
井上に李有り、螬實を食らうこと半ばに過ぎたり、匍匐して往きて之を食らい、三くち咽みて、然る後に耳聞こえる有り、目見える有り。
孟子曰く、齊國の士に於いては、吾れ必ず仲子を以て巨擘と為さん。然れども、仲子惡んぞ能く廉ならん。仲子の操を充たさんとせば、
則ち蚓にして後可なる者なり。夫れ蚓は、上槁壤を食らい、下黄泉を飲む。仲子居る所の室は、伯夷の築ける所か、抑いは亦た
盜跖の築ける所か、食う所の粟は、伯夷の樹えたる所か、抑いは亦た盜跖の樹えたる所か、是れ未だ知るべからざるなり」
「斉国の匡章という者がいった。『まったく、陳仲子こそは真の清廉の士といえるものです。彼は名家に生まれながら、
実家の世話になることを嫌って家を飛び出し、於陵に至った頃には、三日食うものに与れず、もはや耳も聞こえず、目も見えなく
なっていたそうです。道端に半分ほども虫食いで欠けた李の実があったために、匍匐してその近くに寄り、その実にかぶりついて
三口味わった後にやっと耳も聞こえ、目も見えるようになったそうです』 これを聞いて孟子は言った。『確かに(戦乱状態の当時の)
斉国のうちで、陳仲子が清廉の部類に入ることは私も認めよう。しかし、その程度で真に清廉潔白の士であるなどとはまだ言えない。
仲子が本当に清廉を貫くのであれば、それこそミミズにでもなるべきだった。ミミズは土を食らい、泥水を飲んで生き延びる。
仲子が李を食べた場所は、伯夷のような聖人の開いた所だったか、それとも盗跖のような悪人の開いた所だったか。食べていた
ものは伯夷のような聖人の作物だったか、盗跖のような悪人の作物だったか、それもまだ分からないではないか』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・一〇より)
井上に李有り、螬實を食らうこと半ばに過ぎたり、匍匐して往きて之を食らい、三くち咽みて、然る後に耳聞こえる有り、目見える有り。
孟子曰く、齊國の士に於いては、吾れ必ず仲子を以て巨擘と為さん。然れども、仲子惡んぞ能く廉ならん。仲子の操を充たさんとせば、
則ち蚓にして後可なる者なり。夫れ蚓は、上槁壤を食らい、下黄泉を飲む。仲子居る所の室は、伯夷の築ける所か、抑いは亦た
盜跖の築ける所か、食う所の粟は、伯夷の樹えたる所か、抑いは亦た盜跖の樹えたる所か、是れ未だ知るべからざるなり」
「斉国の匡章という者がいった。『まったく、陳仲子こそは真の清廉の士といえるものです。彼は名家に生まれながら、
実家の世話になることを嫌って家を飛び出し、於陵に至った頃には、三日食うものに与れず、もはや耳も聞こえず、目も見えなく
なっていたそうです。道端に半分ほども虫食いで欠けた李の実があったために、匍匐してその近くに寄り、その実にかぶりついて
三口味わった後にやっと耳も聞こえ、目も見えるようになったそうです』 これを聞いて孟子は言った。『確かに(戦乱状態の当時の)
斉国のうちで、陳仲子が清廉の部類に入ることは私も認めよう。しかし、その程度で真に清廉潔白の士であるなどとはまだ言えない。
仲子が本当に清廉を貫くのであれば、それこそミミズにでもなるべきだった。ミミズは土を食らい、泥水を飲んで生き延びる。
仲子が李を食べた場所は、伯夷のような聖人の開いた所だったか、それとも盗跖のような悪人の開いた所だったか。食べていた
ものは伯夷のような聖人の作物だったか、盗跖のような悪人の作物だったか、それもまだ分からないではないか』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・一〇より)
キリシタンは表向きは他力本願なようでいて、その実全く他力本願ではなく、
自力の悪行によって莫大な富を収奪し、自分たちこそは世界を滅亡に追いやる規模の
過剰軍備を敷いて、全世界を恫喝によって脅かすテロリスト集団とも化している。
だからこそ今の所、裕福ともなっている。自力の悪行によって、多大なる人々を貧窮や餓死や
戦乱や戦死に追いやりつつ、自分たちだけで地球上の八割以上の資源を独占し続けているから。
それは全くキリシタンどもの自己責任であり、自業自得によって懲罰を被るべきものでもある。
ただ、その懲罰を科す側がキリシタンの自己流ペースに取り込まれて、感情にかられた刑罰などに
及んではならない。書経に「慎みて天の罰を行なう(甘誓)」ともある通り、あくまで天罰を代行する
心持ちで、謹んで権力犯罪カルトへの懲罰を執行する。ほんの少しでも自己流の裁決や懲罰を行なったなら、
罪も病も自己判断であったことやなかったことにしてしまうカルト信者の側の、思う壺となる。
「戎いなる毒を遠邇に畏れず。惰農自から安んじ、作勞を昏めず、田畝に服せざれば、越に其れ黍稷有ること罔けん」
「後々大きな災いに遭うことも恐れぬ。ちょうど怠惰な農夫が安楽ばかりを貪って農作に労苦せず、田畑にも出よう
とすらしないでいれば、何らの穀物も収穫できないように。(農作にも根ざした大社会の自業自得性のわきまえ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚上より)
自力の悪行によって莫大な富を収奪し、自分たちこそは世界を滅亡に追いやる規模の
過剰軍備を敷いて、全世界を恫喝によって脅かすテロリスト集団とも化している。
だからこそ今の所、裕福ともなっている。自力の悪行によって、多大なる人々を貧窮や餓死や
戦乱や戦死に追いやりつつ、自分たちだけで地球上の八割以上の資源を独占し続けているから。
それは全くキリシタンどもの自己責任であり、自業自得によって懲罰を被るべきものでもある。
ただ、その懲罰を科す側がキリシタンの自己流ペースに取り込まれて、感情にかられた刑罰などに
及んではならない。書経に「慎みて天の罰を行なう(甘誓)」ともある通り、あくまで天罰を代行する
心持ちで、謹んで権力犯罪カルトへの懲罰を執行する。ほんの少しでも自己流の裁決や懲罰を行なったなら、
罪も病も自己判断であったことやなかったことにしてしまうカルト信者の側の、思う壺となる。
「戎いなる毒を遠邇に畏れず。惰農自から安んじ、作勞を昏めず、田畝に服せざれば、越に其れ黍稷有ること罔けん」
「後々大きな災いに遭うことも恐れぬ。ちょうど怠惰な農夫が安楽ばかりを貪って農作に労苦せず、田畑にも出よう
とすらしないでいれば、何らの穀物も収穫できないように。(農作にも根ざした大社会の自業自得性のわきまえ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚上より)
罪の軽重ではなく、絶対的な罪の有無を尺度にするのなら、誰しもを裁きにかけるか、誰も裁かないかの二つに一つにしかなり得ない。
どんな人間でも多少の罪は犯しているが、特にその程度がひどい者を裁くという、罪の軽重を尺度とした裁決が現実的なものとなり、
性懲りもなく絶対的な罪の有無ばかりを尺度として押し通そうとするようなピューリタンは、全員閉鎖病棟に入ってもらおう。
「誰しもに少なからず罪はあるのだから、誰にも他者を裁く権利はない」の論理を押し通すことによって、かえって世の中を無秩序化して、
それぞれの罪に相応の罰を科す場合以上にも、戦乱や飢餓にまみれた地獄をもたらしている奴ら。潔癖症と不潔症とは紙一重であり、
両極に振れきって中正を欠くことこそは世の中を荒廃に導くのだから、不潔症と共に潔癖症もまた両成敗されなければならない。
「天子將に出征せんとすれば、上帝に類し、社に宜し、禰に造し、征する所の地に禡す。
命を祖に受け、成を學に受く。出征して有罪を執え反るときは、學に釋奠して、訊馘を以て告ぐ」
「天子が出征せんとする時には、必ず上帝の意向に沿い、社稷霊廟を設置して神祇を整え、出征地において軍法の神を祭る。
天命を父祖に受け、謀計は学知に受ける。出征後に罪ある者どもを捕らえ返ったならば、天命や学知を
与えてくださった先聖先師に崇敬の意を表し、討ち取った敵から切り取った耳の数を報告する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
どんな人間でも多少の罪は犯しているが、特にその程度がひどい者を裁くという、罪の軽重を尺度とした裁決が現実的なものとなり、
性懲りもなく絶対的な罪の有無ばかりを尺度として押し通そうとするようなピューリタンは、全員閉鎖病棟に入ってもらおう。
「誰しもに少なからず罪はあるのだから、誰にも他者を裁く権利はない」の論理を押し通すことによって、かえって世の中を無秩序化して、
それぞれの罪に相応の罰を科す場合以上にも、戦乱や飢餓にまみれた地獄をもたらしている奴ら。潔癖症と不潔症とは紙一重であり、
両極に振れきって中正を欠くことこそは世の中を荒廃に導くのだから、不潔症と共に潔癖症もまた両成敗されなければならない。
「天子將に出征せんとすれば、上帝に類し、社に宜し、禰に造し、征する所の地に禡す。
命を祖に受け、成を學に受く。出征して有罪を執え反るときは、學に釋奠して、訊馘を以て告ぐ」
「天子が出征せんとする時には、必ず上帝の意向に沿い、社稷霊廟を設置して神祇を整え、出征地において軍法の神を祭る。
天命を父祖に受け、謀計は学知に受ける。出征後に罪ある者どもを捕らえ返ったならば、天命や学知を
与えてくださった先聖先師に崇敬の意を表し、討ち取った敵から切り取った耳の数を報告する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
今だと中学一年の数学で最初に習う負数(マイナス符号の付いた数。-3とか-5とか)の扱い、
これを初めて考案したのが中国人らしいが、確かに中国人は、陰陽五行などにも即した
物事の正負を抽象的に捉える思考に長けている。たとえば
善いことをする>0
悪いことをする<0
何もしない=0
偉大である∝数が大きくなる
卑小である∝数が小さくなる
(∝は「比例する」の意)
とした場合、善いことはすればするほど大きな数となるから偉大となる一方で、悪いことはすればするほど
「大きな負数」、つまりより小さな数となるから卑小となる。何もしないことすら0であり、負数よりは
大きいから、一概に悪いことをして大きな負数=より小さな数を溜め込む場合よりは比較的、偉大となる。
こういった、中学数学程度の数理理解が普遍的に備わっているから、中国人なら、乱世には妄動を避ける
ことが賢明であることが十分にわきまえられる。一方で、西洋人や今の日本人などは、この程度の簡単な
数理理解すらも実践性に落とし込んで考えることができないために、善いことでも悪いことでもとにかく
何か大きなことすらやっていれば偉大になれるだなどという、数理に反した思い込みに陥っている。
とんでもなく高度な抽象数学などを構築してきている割には、実践面では中学数学程度の把握すら
伴っていない。実践性を完全に排除した洋学の弊害が、こんなところにも現れている。
「齊める大任、文王の母なる、周姜を媚みて、京室の婦なる。大姒徽音を嗣ぎ、斯に百の男をうむ。
宗公に恵いて、神も怨むところ罔く、神も恫むところ罔き。寡妻を刑して、兄弟に至り、以って家邦を御む」
「慎み深い任氏は、文王の母なる。姑の周姜をも慈しみ、宮廷の主婦となる。文王の后の大姒もその美音を継いで、
百をも数えるほど多くの男子を産んだ。宗廟の先公の意向にも従ったことであったために、神もこれを怨んだり、
咎めたりすることなかった。文王の法度はまず妻子に及び、兄弟に至って、ついには天下国家へと広がっていった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・思齊より)
これを初めて考案したのが中国人らしいが、確かに中国人は、陰陽五行などにも即した
物事の正負を抽象的に捉える思考に長けている。たとえば
善いことをする>0
悪いことをする<0
何もしない=0
偉大である∝数が大きくなる
卑小である∝数が小さくなる
(∝は「比例する」の意)
とした場合、善いことはすればするほど大きな数となるから偉大となる一方で、悪いことはすればするほど
「大きな負数」、つまりより小さな数となるから卑小となる。何もしないことすら0であり、負数よりは
大きいから、一概に悪いことをして大きな負数=より小さな数を溜め込む場合よりは比較的、偉大となる。
こういった、中学数学程度の数理理解が普遍的に備わっているから、中国人なら、乱世には妄動を避ける
ことが賢明であることが十分にわきまえられる。一方で、西洋人や今の日本人などは、この程度の簡単な
数理理解すらも実践性に落とし込んで考えることができないために、善いことでも悪いことでもとにかく
何か大きなことすらやっていれば偉大になれるだなどという、数理に反した思い込みに陥っている。
とんでもなく高度な抽象数学などを構築してきている割には、実践面では中学数学程度の把握すら
伴っていない。実践性を完全に排除した洋学の弊害が、こんなところにも現れている。
「齊める大任、文王の母なる、周姜を媚みて、京室の婦なる。大姒徽音を嗣ぎ、斯に百の男をうむ。
宗公に恵いて、神も怨むところ罔く、神も恫むところ罔き。寡妻を刑して、兄弟に至り、以って家邦を御む」
「慎み深い任氏は、文王の母なる。姑の周姜をも慈しみ、宮廷の主婦となる。文王の后の大姒もその美音を継いで、
百をも数えるほど多くの男子を産んだ。宗廟の先公の意向にも従ったことであったために、神もこれを怨んだり、
咎めたりすることなかった。文王の法度はまず妻子に及び、兄弟に至って、ついには天下国家へと広がっていった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・思齊より)
向こうは引用の重複が3巡目に入りつつあるな。
そろそろ連続コピペ荒らし認定も妥当なところだ。
こちらも既出の短文の引用を、長文の引用の一部分として再利用することなどはある。
単なる格言集からの引用に過ぎなかったようなものを、全文に渡って学び直している成長の現れなので、
それはまあ、よしとしてくれ。切れ切れの格言にも、全文の流れにも味わいがあるのが四書五経だから。
「文王曰く、ああ女(なんじ)殷商よ。而(なんじ)義類を秉い、彊禦して懟み多し。
流言には以て對え、寇攘は式て内る。侯れ作(詛)い侯れ祝(呪)い、屆み靡く究まり靡し」
「文王は言った。『ああ、殷の紂王よ。あなたは邪義を以て勝ち誇り、多くの怨みを買っている。
流言飛語にすら耳を貸し、火付盗賊すら仲間に入れる。呪詛されることどこまでも極まりない。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・蕩より)
そろそろ連続コピペ荒らし認定も妥当なところだ。
こちらも既出の短文の引用を、長文の引用の一部分として再利用することなどはある。
単なる格言集からの引用に過ぎなかったようなものを、全文に渡って学び直している成長の現れなので、
それはまあ、よしとしてくれ。切れ切れの格言にも、全文の流れにも味わいがあるのが四書五経だから。
「文王曰く、ああ女(なんじ)殷商よ。而(なんじ)義類を秉い、彊禦して懟み多し。
流言には以て對え、寇攘は式て内る。侯れ作(詛)い侯れ祝(呪)い、屆み靡く究まり靡し」
「文王は言った。『ああ、殷の紂王よ。あなたは邪義を以て勝ち誇り、多くの怨みを買っている。
流言飛語にすら耳を貸し、火付盗賊すら仲間に入れる。呪詛されることどこまでも極まりない。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・蕩より)
まあ、俺にもまだ出来ていないことだが、悪を誇るよりは善を誇り、
最終的には誇張全般を差し控える恭しさにまで達することを目的としている。
実質に反した賛美よりは即した賛美のほうが適当だが、賛美全般を控える所に真の恭しさがある。
「庸言之れ信にし、庸行之れ謹しみ、邪を閑ぎて其の誠を存し、世に善くして伐らず、鄹博くして化す」
「常日ごろの言葉から信実であり、常日ごろの行いから謹んで、邪義を防いで誠心を保ち続け、
世に善行を行ないながら誇ることがなく、その徳は天下万人を教化して余りある」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・乾卦より)
最終的には誇張全般を差し控える恭しさにまで達することを目的としている。
実質に反した賛美よりは即した賛美のほうが適当だが、賛美全般を控える所に真の恭しさがある。
「庸言之れ信にし、庸行之れ謹しみ、邪を閑ぎて其の誠を存し、世に善くして伐らず、鄹博くして化す」
「常日ごろの言葉から信実であり、常日ごろの行いから謹んで、邪義を防いで誠心を保ち続け、
世に善行を行ないながら誇ることがなく、その徳は天下万人を教化して余りある」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・乾卦より)
また三巡目の引用
「もうあんな連続コピペ荒らしのキ○ガイなんか相手にするな」という声も聞こえてきそうだが、
こっちもこっちで四書五経という、そんなに程度の高すぎない「ブービー賞の聖書」を
扱っているだけなので、目くそ鼻くその争いとして冷ややかに見守ってくれればいい。
ことに「やめてくれ」というのであれば、あっちがやめればこっちもやめるので、あっちに言うように。
ブービー賞ですらないビリッケツの聖書、犯罪聖書からの洗脳文章を撒き散らしてるほうに。
「其の君に禮ある者を見ては、之れに事うること、孝子の父母を養うが如くし、
其の君に禮無き者を見ては、之れを誅すること、如鷹鸇の鳥雀を逐が如くせよ」
「主君に対しても礼節ある者を見れば、孝行な子が実の父母を養うが如く敬い、
無礼者を見たときには、鷹や隼が小鳥や雀を追うように仮借なく罰を加えよ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・文公十八年より)
「もうあんな連続コピペ荒らしのキ○ガイなんか相手にするな」という声も聞こえてきそうだが、
こっちもこっちで四書五経という、そんなに程度の高すぎない「ブービー賞の聖書」を
扱っているだけなので、目くそ鼻くその争いとして冷ややかに見守ってくれればいい。
ことに「やめてくれ」というのであれば、あっちがやめればこっちもやめるので、あっちに言うように。
ブービー賞ですらないビリッケツの聖書、犯罪聖書からの洗脳文章を撒き散らしてるほうに。
「其の君に禮ある者を見ては、之れに事うること、孝子の父母を養うが如くし、
其の君に禮無き者を見ては、之れを誅すること、如鷹鸇の鳥雀を逐が如くせよ」
「主君に対しても礼節ある者を見れば、孝行な子が実の父母を養うが如く敬い、
無礼者を見たときには、鷹や隼が小鳥や雀を追うように仮借なく罰を加えよ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・文公十八年より)
キリストやゼウス(エホバ)が全知全能でもなんでもないことは、
東洋学の初歩中の初歩である四書五経の内容すらわきまえられていないことからも明らかだが。
別に、個人個人が全知全能である必要などもないわけだが。
必要もないものを、その能力も満たせていないくせにうそぶいた。
下の発言を遺している周公のほうが、まだ全知全能でありそうなものだが、
至らないものこそは、必要もないものを欲した挙句に、そうであることまでをも豪語するのか。
「備わるを一人に求むること無かれ」
「何もかもが一人の人間に備わっているようなことを要求も期待もしてはいけない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・微子第十八より)
東洋学の初歩中の初歩である四書五経の内容すらわきまえられていないことからも明らかだが。
別に、個人個人が全知全能である必要などもないわけだが。
必要もないものを、その能力も満たせていないくせにうそぶいた。
下の発言を遺している周公のほうが、まだ全知全能でありそうなものだが、
至らないものこそは、必要もないものを欲した挙句に、そうであることまでをも豪語するのか。
「備わるを一人に求むること無かれ」
「何もかもが一人の人間に備わっているようなことを要求も期待もしてはいけない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・微子第十八より)
すでに部分は引用している孟子の四端説。仁義礼智信の五常のうちの始め四つ、仁義礼智の典拠であり、
この四つに儒家ではあまり重要視されていなかった信を、「春秋経」の研究者であり、司馬遷の師でも
あったとされる董仲舒が、荀子の意見などを借り受けつつ付け足したことで五常となった。
頭・胴・手・足を合わせて「四体」ということもあれば、胴体と両手両足を合わせて「五体」ともいうが、
要は人間の全身のことであり、身体が備わっているようにして仁義や礼智もまた人間に備わっていることが提されている。
耳目の欲求ばかりに囚われることを孟子もまた否定してはいるが(離婁章句下・三一参照)、人体が仁義礼智を育む上でも
重要な器官であることを肯んじ、曾子などとも同じように、わが身を大切にするようにして、義をも育んでいかなければ
ならないことを全世界に先んじて宣言している(「孟子」の成立も偽りの義を説く新約聖書などよりは早い)。
五体の感官全般が幻影であることを説く道家や仏教などの説も数多いが、そのような超俗的な主張の持ち主は
孟子が説くような切実な意味での「義」を問題にもしていないので、「義」を論ずる上での引き合いには出すべきでない。
俗世でいかにあるべきかにおいてこそ問題となる「義」が、四体の養生に基づくか、かえって十字架に張り付けられる
ような四体の毀損に基づくか、その答えは、わが身が大切な人間に対しては今さら問い詰めるまでもない。
「惻隱の心は、仁の端なり。羞惡の心は、義の端なり。辭讓の心は、禮の端なり。是非の心、智の端めなり。
人の是の四端有るは、猶お其の四體有るがごときなり。是の四端有りて自ら能わずと謂う者は、自ら賊う者なり」
「他者をいつくしむ心は仁の端緒であり、悪を恥じ憎む心は義の端緒であり、譲り合いの心は礼の端緒であり、
是非善悪を分別する心は智の端緒である。人にこの四つの端緒が備わっていることは、ちょうど人間に両手両脚の四体が備わって
いるようなもので、これらが備わっていながら『自分にはその実践は不可能だ』などというのは、自らを見くびっている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・六より)
この四つに儒家ではあまり重要視されていなかった信を、「春秋経」の研究者であり、司馬遷の師でも
あったとされる董仲舒が、荀子の意見などを借り受けつつ付け足したことで五常となった。
頭・胴・手・足を合わせて「四体」ということもあれば、胴体と両手両足を合わせて「五体」ともいうが、
要は人間の全身のことであり、身体が備わっているようにして仁義や礼智もまた人間に備わっていることが提されている。
耳目の欲求ばかりに囚われることを孟子もまた否定してはいるが(離婁章句下・三一参照)、人体が仁義礼智を育む上でも
重要な器官であることを肯んじ、曾子などとも同じように、わが身を大切にするようにして、義をも育んでいかなければ
ならないことを全世界に先んじて宣言している(「孟子」の成立も偽りの義を説く新約聖書などよりは早い)。
五体の感官全般が幻影であることを説く道家や仏教などの説も数多いが、そのような超俗的な主張の持ち主は
孟子が説くような切実な意味での「義」を問題にもしていないので、「義」を論ずる上での引き合いには出すべきでない。
俗世でいかにあるべきかにおいてこそ問題となる「義」が、四体の養生に基づくか、かえって十字架に張り付けられる
ような四体の毀損に基づくか、その答えは、わが身が大切な人間に対しては今さら問い詰めるまでもない。
「惻隱の心は、仁の端なり。羞惡の心は、義の端なり。辭讓の心は、禮の端なり。是非の心、智の端めなり。
人の是の四端有るは、猶お其の四體有るがごときなり。是の四端有りて自ら能わずと謂う者は、自ら賊う者なり」
「他者をいつくしむ心は仁の端緒であり、悪を恥じ憎む心は義の端緒であり、譲り合いの心は礼の端緒であり、
是非善悪を分別する心は智の端緒である。人にこの四つの端緒が備わっていることは、ちょうど人間に両手両脚の四体が備わって
いるようなもので、これらが備わっていながら『自分にはその実践は不可能だ』などというのは、自らを見くびっている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・六より)
良くても悪くても奴隷止まりという、人類総奴隷化の元凶が新旧約聖書であることが文中で明示されてもいる。
封建社会にだって奴隷同然の下層階級(奴僕、奴婢など)がいないわけではなく、項羽の配下であり、楚漢戦争での
敗走後には奴僕に身をやつしてまで生き延び、劉邦の計らいもあって見事復帰を果たした季布のような著名人もいた。
ただ、誰しもが奴隷止まりの卑屈さに陥っていたのではなく、為政者や英雄的武将などとして、天下に冠たる
名士となった人々が山ほどにもいたわけで、彼らとて神仏への畏敬を完全に捨て去っていたわけではないが、
宗教信仰全般を敬遠して自力の徳行に専念し、実際に世の中を泰平へと導く偉業をも実現して来ている。
非宗教・無信仰の儒学において、まず五常のうちの始め四つ「仁義礼智」が孟子によって提唱され、最後の
「信」が荀子による覇道政治正当化の論弁に基づいて一応付け足された。諸侯が勢力を競い合う戦国時代において、
合従連衡などの契約面で信用が重要となることが多かったために、信が一応は意味を持つものとして認められていた。
しかし、自力の徳行者にとって信を金科玉条に掲げることは禁物であり、蒙昧な相手との破約が「礼記」や「左伝」
などでも好意的に載せられ、家康公もそのような儒学の信義論に即して、老耄状態の秀吉との約束を破ってもいる。
封建社会にだって奴隷同然の下層階級(奴僕、奴婢など)がいないわけではなく、項羽の配下であり、楚漢戦争での
敗走後には奴僕に身をやつしてまで生き延び、劉邦の計らいもあって見事復帰を果たした季布のような著名人もいた。
ただ、誰しもが奴隷止まりの卑屈さに陥っていたのではなく、為政者や英雄的武将などとして、天下に冠たる
名士となった人々が山ほどにもいたわけで、彼らとて神仏への畏敬を完全に捨て去っていたわけではないが、
宗教信仰全般を敬遠して自力の徳行に専念し、実際に世の中を泰平へと導く偉業をも実現して来ている。
非宗教・無信仰の儒学において、まず五常のうちの始め四つ「仁義礼智」が孟子によって提唱され、最後の
「信」が荀子による覇道政治正当化の論弁に基づいて一応付け足された。諸侯が勢力を競い合う戦国時代において、
合従連衡などの契約面で信用が重要となることが多かったために、信が一応は意味を持つものとして認められていた。
しかし、自力の徳行者にとって信を金科玉条に掲げることは禁物であり、蒙昧な相手との破約が「礼記」や「左伝」
などでも好意的に載せられ、家康公もそのような儒学の信義論に即して、老耄状態の秀吉との約束を破ってもいる。
信は豚魚のように下賤で蒙昧な相手とでも交わせるものであることから、汎用性が高いのは確かだが、自力の
善行に臨む上では、仁義や礼智などと比べて優先度が低く、そればかりを絶対化すると多くの不都合を招く。
それこそ奴隷化した民衆が主権を握る、民主主義社会の社会契約説なども、信の行き過ぎに基づいた愚行の一つ。
奴隷が主権者である世の中で、かつての封建社会におけるような徳治者が生まれえるはずもなく、案の定、
何億人もの人々を餓死や戦死に追いやる最悪の乱世をもたらしてもいる。豚魚にも及ぶ信ばかりが絶対化されて、
仁義や礼智の存在意義が貶められた当然の結果。そろそろ人類史上未曾有の、壮大な破約劇が期待されるところ。
「民、后にあらざれば、克く胥い匡して以て生くること罔し」
「民衆は、帰服する君主を頂かないことには、互いの欠点を正しながら生きていくこともできない。
(人類総奴隷化という劣悪な状況が、自浄作用を持たない乱世を自明に呼び込んでいる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・太甲中より)
善行に臨む上では、仁義や礼智などと比べて優先度が低く、そればかりを絶対化すると多くの不都合を招く。
それこそ奴隷化した民衆が主権を握る、民主主義社会の社会契約説なども、信の行き過ぎに基づいた愚行の一つ。
奴隷が主権者である世の中で、かつての封建社会におけるような徳治者が生まれえるはずもなく、案の定、
何億人もの人々を餓死や戦死に追いやる最悪の乱世をもたらしてもいる。豚魚にも及ぶ信ばかりが絶対化されて、
仁義や礼智の存在意義が貶められた当然の結果。そろそろ人類史上未曾有の、壮大な破約劇が期待されるところ。
「民、后にあらざれば、克く胥い匡して以て生くること罔し」
「民衆は、帰服する君主を頂かないことには、互いの欠点を正しながら生きていくこともできない。
(人類総奴隷化という劣悪な状況が、自浄作用を持たない乱世を自明に呼び込んでいる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・太甲中より)
イスラエル聖書のほうは、四書五経の内容ぐらいはわきまえていれば絶対に犯さないような、盲目蒙昧で
恥ずかしい勘違い発言だらけだが、四書五経のほうはといえば、イスラエル聖書において繰り返されているような
過ちも十分な看取や分析の対象とした上で、その過ちを乗り越えるだけの適切な最善策をも導き出している。
イスラエル聖書のほうが先に書かれて、四書五経が後に書かれたのならば、イスラエル聖書のほうが勘違い発言を繰り返して
いることにもまだ弁解の余地はあるが、実際には四書五経のほうが、イスラエル聖書よりもその成立が500年程度早い。
いずれも数百年以上の時間をかけてゆっくりと成立して来たものであり、編纂時期が多少はかぶってもいるが、
四書五経の編纂時期が、「易経」の編纂が始まった約3100年前から「孟子」の成立した約2300年前までであるのに対し、
イスラエル聖書の編纂は、「創世記」編纂の約2600年前から「ヨハネ黙示録」成立の約1900年前までであり、
全体的な成立の流れが、イスラエル聖書よりも四書五経のほうが4、500年程度も先行している。
現存最古の四書五経の遺文である郭店第一号楚墓の「礼記」や「論語」の断片も、約2300年前のものであることが判明しており、
現存最古のイスラエル聖書である死海文書よりも200年以上昔のものとなっている。知らぬ存ぜぬでは済まされぬ、
正しさの後にやって来た過ちであることが、文献内容の精査でも、考古学的な研究でも完全に証明されつつある。
「蒙を撃つ。寇をなすに利ろしからず。寇を禦ぐに利ろし」
「盲目蒙昧で、頑迷でありながら思い上がった輩を折檻する。盲目にも関わらず従順でもないので、
こちらの態度も強硬なものにならざるを得ないが、強硬のあまりこちらが相手を侵害するほどの事態に陥ってはならない。
むしろ相手の盲目さが他の誰かに侵されて、落とし穴へと誘い入れられるような事態を防いでやるようにすることが好ましい」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・蒙卦・上九より)
恥ずかしい勘違い発言だらけだが、四書五経のほうはといえば、イスラエル聖書において繰り返されているような
過ちも十分な看取や分析の対象とした上で、その過ちを乗り越えるだけの適切な最善策をも導き出している。
イスラエル聖書のほうが先に書かれて、四書五経が後に書かれたのならば、イスラエル聖書のほうが勘違い発言を繰り返して
いることにもまだ弁解の余地はあるが、実際には四書五経のほうが、イスラエル聖書よりもその成立が500年程度早い。
いずれも数百年以上の時間をかけてゆっくりと成立して来たものであり、編纂時期が多少はかぶってもいるが、
四書五経の編纂時期が、「易経」の編纂が始まった約3100年前から「孟子」の成立した約2300年前までであるのに対し、
イスラエル聖書の編纂は、「創世記」編纂の約2600年前から「ヨハネ黙示録」成立の約1900年前までであり、
全体的な成立の流れが、イスラエル聖書よりも四書五経のほうが4、500年程度も先行している。
現存最古の四書五経の遺文である郭店第一号楚墓の「礼記」や「論語」の断片も、約2300年前のものであることが判明しており、
現存最古のイスラエル聖書である死海文書よりも200年以上昔のものとなっている。知らぬ存ぜぬでは済まされぬ、
正しさの後にやって来た過ちであることが、文献内容の精査でも、考古学的な研究でも完全に証明されつつある。
「蒙を撃つ。寇をなすに利ろしからず。寇を禦ぐに利ろし」
「盲目蒙昧で、頑迷でありながら思い上がった輩を折檻する。盲目にも関わらず従順でもないので、
こちらの態度も強硬なものにならざるを得ないが、強硬のあまりこちらが相手を侵害するほどの事態に陥ってはならない。
むしろ相手の盲目さが他の誰かに侵されて、落とし穴へと誘い入れられるような事態を防いでやるようにすることが好ましい」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・蒙卦・上九より)
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」
(権力犯罪聖書——通称聖書——マタイ禍音書6:1)
なぜ「人目を憚らず善を行なえ」ではいけないのかと、わざわざ四書五経を引き合いに出すまでもなく思う。
このほうが言葉の位相からして正しい物言いのはずで、わざわざ「善行しないように注意しろ」で
言葉を区切るような所に、娼婦の私生児に特有のいじけすらもが垣間見られる。
ただ、実際問題、俺も現代の人間であり、カルト教祖とはいえイエスよりも遥か後代の人間であるし、
カルト信仰に基づいてであるとはいえ、イエスが多くの人間に支持されて、俺が全く誰にも支持されていないのも確か。
だからやはり、イエスなんぞよりも遥かに先輩であり、歴史的に支持されて来た度合いも親旧約聖書を遥かに上回る
四書五経中の聖賢の言葉を借りて反駁し直す。それは全く俺自身も納得させられる言葉ばかりで、俺の常識が古来の
聖賢の常識とも共通していて、しかも新旧約信仰などよりも遥か昔から実在していたものであることが特筆に価する。
ニーチェやマルクスみたいに自己流でイエスに楯突いた所で、質・量・古さの全てにおいて新旧約を上回ることは
不可能だが、四書五経という先人の遺産に基づくならば、あらゆる面において新旧約信仰を超克できる。
確かに他力本願ではあるが、善良な他力なればこそ、悪質な他力を降伏できるのでもある。
「惟れ上帝は常ならず。善を作せば之れに百祥を降し、不善を作せば之れに百殃を降す。
爾じ惟れ鄹を小とすること罔く、萬邦惟れ慶せん。爾じ惟れ不鄹を大とすること罔きも、厥の宗を墜さん」
「上帝は誰かに常にえこひいきしたりはせず。善を行なうものには百の幸いをもたらし、悪を行なうものには百の禍いをもたらす。
あなたの善徳にかなった行いがたとえ小さなものであっても、万邦はこれを喜ぶだろうし、
不徳の悪行がどんなに小さくとも、宗廟を絶やすほどの不幸を招くことだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・伊訓より)
(権力犯罪聖書——通称聖書——マタイ禍音書6:1)
なぜ「人目を憚らず善を行なえ」ではいけないのかと、わざわざ四書五経を引き合いに出すまでもなく思う。
このほうが言葉の位相からして正しい物言いのはずで、わざわざ「善行しないように注意しろ」で
言葉を区切るような所に、娼婦の私生児に特有のいじけすらもが垣間見られる。
ただ、実際問題、俺も現代の人間であり、カルト教祖とはいえイエスよりも遥か後代の人間であるし、
カルト信仰に基づいてであるとはいえ、イエスが多くの人間に支持されて、俺が全く誰にも支持されていないのも確か。
だからやはり、イエスなんぞよりも遥かに先輩であり、歴史的に支持されて来た度合いも親旧約聖書を遥かに上回る
四書五経中の聖賢の言葉を借りて反駁し直す。それは全く俺自身も納得させられる言葉ばかりで、俺の常識が古来の
聖賢の常識とも共通していて、しかも新旧約信仰などよりも遥か昔から実在していたものであることが特筆に価する。
ニーチェやマルクスみたいに自己流でイエスに楯突いた所で、質・量・古さの全てにおいて新旧約を上回ることは
不可能だが、四書五経という先人の遺産に基づくならば、あらゆる面において新旧約信仰を超克できる。
確かに他力本願ではあるが、善良な他力なればこそ、悪質な他力を降伏できるのでもある。
「惟れ上帝は常ならず。善を作せば之れに百祥を降し、不善を作せば之れに百殃を降す。
爾じ惟れ鄹を小とすること罔く、萬邦惟れ慶せん。爾じ惟れ不鄹を大とすること罔きも、厥の宗を墜さん」
「上帝は誰かに常にえこひいきしたりはせず。善を行なうものには百の幸いをもたらし、悪を行なうものには百の禍いをもたらす。
あなたの善徳にかなった行いがたとえ小さなものであっても、万邦はこれを喜ぶだろうし、
不徳の悪行がどんなに小さくとも、宗廟を絶やすほどの不幸を招くことだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・伊訓より)
「鬼神の鄹たるや、其れ盛んなるかな。之れを視れども見えず、之れを聽けども聞こえず、物を體して遺すべからず。
天下の人をして齊明盛服せしめ、以て祭祀を承け、洋洋乎として其の上に在すが如く、其の左右に在すが如し。
詩に曰く、神の格るは度るべからず、矧んや射うべけんやと。夫れ微の顯なる、誠の掩うべからざるは、此くの如し」
「心霊の徳は盛んなればこそ、これを直視しようとしても見えず、これを拝聴しようとしても聞こえない。にもかかわらず
万物の根本的な本体として働き余す所がない。なればこそ、天下の人々に潔斎させて身を清めさせ、立派な礼服を着せて
祭祀に赴かせ、祭りの場一面に神気を満ち溢れさせ、上下左右どこもかしこもに鬼神が存在するかのような状態となる。
詩経に『神の降臨は予測できない。ましてやなおざりにできようか』とあるが、微妙にして顕かであり、
誠であるが故に隠れていることがないというのは、かくの如き状態をいうのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一三より)
見えるものばかりに拘泥するわけでもなく、見えないものばかりに期待を募らせるわけでもない、
見えるものと見えざるもの、聞こえるものと聞こえざるものとの総合的な把握にまで四書五経は及んでいる。
形而上と形而下、アプリオリとアポステリオリの断絶を排した斉同的な把握姿勢は、経書中最古の「易経」における
視覚性を超えた空間把握などによって理論的にも裏付けられてもおり、プラトン哲学やユークリッド幾何学が視覚的な
空間把握ばかりにこだわっていた西洋流の学究姿勢とも根本的に異なっている。目に見えるものへの偏重と、目に見えない
ものへの偏重の両極端への分裂が、西洋における学問と宗教の断絶をも生じており、視覚系と超視覚系の統合を5000年
以上もの太古から研鑽し続けて来た、漢学の学問と宗教両面における安定度の高さとはかけ離れたものとなっている。
天下の人をして齊明盛服せしめ、以て祭祀を承け、洋洋乎として其の上に在すが如く、其の左右に在すが如し。
詩に曰く、神の格るは度るべからず、矧んや射うべけんやと。夫れ微の顯なる、誠の掩うべからざるは、此くの如し」
「心霊の徳は盛んなればこそ、これを直視しようとしても見えず、これを拝聴しようとしても聞こえない。にもかかわらず
万物の根本的な本体として働き余す所がない。なればこそ、天下の人々に潔斎させて身を清めさせ、立派な礼服を着せて
祭祀に赴かせ、祭りの場一面に神気を満ち溢れさせ、上下左右どこもかしこもに鬼神が存在するかのような状態となる。
詩経に『神の降臨は予測できない。ましてやなおざりにできようか』とあるが、微妙にして顕かであり、
誠であるが故に隠れていることがないというのは、かくの如き状態をいうのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一三より)
見えるものばかりに拘泥するわけでもなく、見えないものばかりに期待を募らせるわけでもない、
見えるものと見えざるもの、聞こえるものと聞こえざるものとの総合的な把握にまで四書五経は及んでいる。
形而上と形而下、アプリオリとアポステリオリの断絶を排した斉同的な把握姿勢は、経書中最古の「易経」における
視覚性を超えた空間把握などによって理論的にも裏付けられてもおり、プラトン哲学やユークリッド幾何学が視覚的な
空間把握ばかりにこだわっていた西洋流の学究姿勢とも根本的に異なっている。目に見えるものへの偏重と、目に見えない
ものへの偏重の両極端への分裂が、西洋における学問と宗教の断絶をも生じており、視覚系と超視覚系の統合を5000年
以上もの太古から研鑽し続けて来た、漢学の学問と宗教両面における安定度の高さとはかけ離れたものとなっている。
「書経」周書・洪範における「武王殷に勝つ」などの用法からも、勝利というのは「他者の放伐」が元来の意味になっている。
何度でも再起復活が可能なゲーム上やスポーツ上の勝敗などと違い、真剣勝負には決して次がなく、
勝ったものは生き延びて負けたものは死に絶える。それが元来の意味に即した勝敗というもの。
一応、俺がまだ生き延びているという事実だけでも、まだ勝負の決着が付いていない証拠にはなっている。
イエスのほうが多くの人間に支持されて、俺のほうが全く支持されていないのでもあるにしろ、まだ決着は付いていない。
真の勝敗はどちらかが絶滅した時に決まる。勝ってもいない内から勝利宣言する増上慢は、自分は抱かないように気をつけよう。
「彼の中林を瞻るに、薪侯り蒸侯るのみ。民の今方に殆うきに、天を視げば夢夢たる。
既に克く定まること有らば、人として勝たざること靡けん。有皇なる上帝よ、伊あ誰を憎める」
「林の中を見ても薪草ばかりしかないように、政界にもつまらない小人ばかりがはびこっている。
民が危険に晒されているのに、天を仰いでも茫々と不明なまま。世の中がよく安定していたなら、
小人にも勝てないことすらないだろうに。大いなる上帝よ、いったい何が気に障るというのか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・正月より)
何度でも再起復活が可能なゲーム上やスポーツ上の勝敗などと違い、真剣勝負には決して次がなく、
勝ったものは生き延びて負けたものは死に絶える。それが元来の意味に即した勝敗というもの。
一応、俺がまだ生き延びているという事実だけでも、まだ勝負の決着が付いていない証拠にはなっている。
イエスのほうが多くの人間に支持されて、俺のほうが全く支持されていないのでもあるにしろ、まだ決着は付いていない。
真の勝敗はどちらかが絶滅した時に決まる。勝ってもいない内から勝利宣言する増上慢は、自分は抱かないように気をつけよう。
「彼の中林を瞻るに、薪侯り蒸侯るのみ。民の今方に殆うきに、天を視げば夢夢たる。
既に克く定まること有らば、人として勝たざること靡けん。有皇なる上帝よ、伊あ誰を憎める」
「林の中を見ても薪草ばかりしかないように、政界にもつまらない小人ばかりがはびこっている。
民が危険に晒されているのに、天を仰いでも茫々と不明なまま。世の中がよく安定していたなら、
小人にも勝てないことすらないだろうに。大いなる上帝よ、いったい何が気に障るというのか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・正月より)
新儒学においても、主知主義的な朱子学と、知行合一を唱える陽明学との意見の対立などが起こったが、
朱子が孔子に次ぐ亜聖として標榜した孟子の学はといえば、やはり行いよりは知見の醸成を第一に掲げている。
聖人の知見は雄大であり、なかなかその全てを実現するには至らないものであるから、機が熟すまでは学知の研鑽に励めと。
勇猛果敢で、「君子は戦わざる有るも、戦わば必ず勝つ(公孫丑章句下・一)」などという言すら残してはいるが、
戦ったときに勝つまでの深遠な思慮も欠かしはしない。為さざることあり、然る後に以て為すことあるべしと。
「海を観る者は水と為し難く、聖人の門に遊ぶ者は言と為し難し。水を観るに術有り、必ず其の瀾を観よ。
日月明有り、容光をも必ず照らす。流水の物たるや、科に盈たざれば行かず。君子の道に於けるや、章を成さざれば達せず」
「海を知るものは川や水溜りの水を見てもどうとも思わないように、聖人の門に学ぶものは多少聞こえのいい言葉などを
聞いてもどうとも思わない。水の大小にも一定の法則があり、その波の有り様を見れば分かるであろう。日光や月光が
小さな隙間からも差し込んで暗闇を照らすように、大水の波は全てのくぼ地を満たしつつ進んでいく。(逆に小さな水の波は
全てのくぼ地を満たすまでもなく止まる)そのようにして、聖人の道もまた、一つ一つ区切りを付けて行かなければ達成できない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・二四より)
朱子が孔子に次ぐ亜聖として標榜した孟子の学はといえば、やはり行いよりは知見の醸成を第一に掲げている。
聖人の知見は雄大であり、なかなかその全てを実現するには至らないものであるから、機が熟すまでは学知の研鑽に励めと。
勇猛果敢で、「君子は戦わざる有るも、戦わば必ず勝つ(公孫丑章句下・一)」などという言すら残してはいるが、
戦ったときに勝つまでの深遠な思慮も欠かしはしない。為さざることあり、然る後に以て為すことあるべしと。
「海を観る者は水と為し難く、聖人の門に遊ぶ者は言と為し難し。水を観るに術有り、必ず其の瀾を観よ。
日月明有り、容光をも必ず照らす。流水の物たるや、科に盈たざれば行かず。君子の道に於けるや、章を成さざれば達せず」
「海を知るものは川や水溜りの水を見てもどうとも思わないように、聖人の門に学ぶものは多少聞こえのいい言葉などを
聞いてもどうとも思わない。水の大小にも一定の法則があり、その波の有り様を見れば分かるであろう。日光や月光が
小さな隙間からも差し込んで暗闇を照らすように、大水の波は全てのくぼ地を満たしつつ進んでいく。(逆に小さな水の波は
全てのくぼ地を満たすまでもなく止まる)そのようにして、聖人の道もまた、一つ一つ区切りを付けて行かなければ達成できない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・二四より)
「論語」季氏第十六・一〇にも「聴くには聡を思う」とあるが、これは別に都合の良いことだけを聴いて
都合の悪いことは聴かないなんて意味じゃない。都合の良いことも悪いことも、聴く以上ははっきりとよく聴くという意味。
信仰対象はよく聴き、信仰対象でなければ耳も貸さない閉鎖性の劣等さが、
信教外の聖書である四書五経に基づいてこそ明らか。
「大風の有れ隧しき、貪人の類き人を敗うは。
聽言には則ち對え、誦言には醉えるが如くす。
其の良きひとを用いず、覆りて我れを悖らしむ」
「つまらぬ人間が善人を退けるは、まるで大風が吹き荒れるように甚だしい。
都合のい良い言葉には耳を貸して答え、都合の悪い言葉には耳を貸そうともしない。
そうしてつまらぬ者同士が群がり、善人は退けられ、私を含む多くの人々が苦しむ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・桑柔より)
都合の悪いことは聴かないなんて意味じゃない。都合の良いことも悪いことも、聴く以上ははっきりとよく聴くという意味。
信仰対象はよく聴き、信仰対象でなければ耳も貸さない閉鎖性の劣等さが、
信教外の聖書である四書五経に基づいてこそ明らか。
「大風の有れ隧しき、貪人の類き人を敗うは。
聽言には則ち對え、誦言には醉えるが如くす。
其の良きひとを用いず、覆りて我れを悖らしむ」
「つまらぬ人間が善人を退けるは、まるで大風が吹き荒れるように甚だしい。
都合のい良い言葉には耳を貸して答え、都合の悪い言葉には耳を貸そうともしない。
そうしてつまらぬ者同士が群がり、善人は退けられ、私を含む多くの人々が苦しむ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・桑柔より)
>>165の引用のとおり、「衣食が足りたからといって人々が礼節をわきまえるとは限らない」と孟子は言っており、
衣食すら足りれば礼節もわきまえられるかのような管仲の言い分とは多少異なる。ただ、聖人君子でもない一般庶民は、
やはり衣食が足りてからでないと礼節にまで頭が回らないことも認めている。人々が貧困や飢餓に喘いでいることが
そのまま神への礼拝になるなどということも決して認めるわけがなく、それこそは権力道徳聖書の認めない権力犯罪、
劣悪な支配者の暴政を正当化して美化するカルト教義でしかないことのあからさまな証拠になっている。
「今や民の産を制するや、仰いでは以て父母に事うるに足らず、俯しては以て妻子を畜うに足らず、樂歳には身を
終えるまで飽きたり、凶年にも死亡を免れず。此くては死を救いて贍らざらんことを恐る。奚ぞ禮義を治むるに暇あらんや」
「今の為政者が産業階級の庶民を取り計らう姿といえば、上は子が父母につかえさせることも満足にできず、
下は夫が妻子を養うことも満足にできない有様で、幸いに豊作であっても重税に苦しみ、凶作ならば餓死も免れ得ないという始末。
こんなことでは死を免れるだけでも精一杯といったところで、なぜ礼儀礼節を修める余裕などがあろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁惠王章句上・七より)
衣食すら足りれば礼節もわきまえられるかのような管仲の言い分とは多少異なる。ただ、聖人君子でもない一般庶民は、
やはり衣食が足りてからでないと礼節にまで頭が回らないことも認めている。人々が貧困や飢餓に喘いでいることが
そのまま神への礼拝になるなどということも決して認めるわけがなく、それこそは権力道徳聖書の認めない権力犯罪、
劣悪な支配者の暴政を正当化して美化するカルト教義でしかないことのあからさまな証拠になっている。
「今や民の産を制するや、仰いでは以て父母に事うるに足らず、俯しては以て妻子を畜うに足らず、樂歳には身を
終えるまで飽きたり、凶年にも死亡を免れず。此くては死を救いて贍らざらんことを恐る。奚ぞ禮義を治むるに暇あらんや」
「今の為政者が産業階級の庶民を取り計らう姿といえば、上は子が父母につかえさせることも満足にできず、
下は夫が妻子を養うことも満足にできない有様で、幸いに豊作であっても重税に苦しみ、凶作ならば餓死も免れ得ないという始末。
こんなことでは死を免れるだけでも精一杯といったところで、なぜ礼儀礼節を修める余裕などがあろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁惠王章句上・七より)
「欲するところ生よりも甚だしきものあり。悪むところ死よりも甚だしきものあり」云々ということを
孟子も告子章句上・一〇で言っているが、このようなことは孔子の先輩格である子産も言っていて、
「左伝」昭公四年では「国家社稷の利益になることは個人の生死をも超える」云々と述べている。
他にも昭公二十五年にも、子大叔が子産に聞いた言葉として「禍福・賞罰を以て人々に生死の節度を保たせる」
といった話を挙げている。竹法(竹簡に記述した成文法)を制定して非難を被るなどの落ち度もあるが、
孔子に先んずる徳治の実践者としてそこそこの評価を受けている鄭の政治家子産。愚民の生の貪りや
死への嫌悪が、君子にとっては劣後すべき代物であることを孟子にも先んじて提唱はしたものの、
愚民の生死への情念に節度を保たせるために提示した手段が、法治主義に基づく禍福賞罰の徹底止まりで
あったことが片手落ちな部分であり、法政ではなく礼楽によってこそ人々が生死の節度をわきまえることを
提唱した孔子と比べれば(為政第二・三参照)、どうしてもプロトタイプ止まりであったと言わざるを得ない。
ローマ法にも先んじて本格的な法治主義社会を画策した、管仲や子産などの中国法家も、世界的にみれば
政治史上の雄であったといえるが、尭舜禹や湯文武、周公に孔子や孟子といった徳治主義の歴史のほうが
中国では一貫して盛大であったために、法家の扱いはあまり大きくない。実際に春秋戦国時代以降にも
秦始皇帝による法治社会が失敗して、漢や唐における儒家主導の徳治社会が成功を収めているために、
罪を犯させて罰を科す、マッチポンプ法治主義の出る幕などはほとんどなかったのだった。
孟子も告子章句上・一〇で言っているが、このようなことは孔子の先輩格である子産も言っていて、
「左伝」昭公四年では「国家社稷の利益になることは個人の生死をも超える」云々と述べている。
他にも昭公二十五年にも、子大叔が子産に聞いた言葉として「禍福・賞罰を以て人々に生死の節度を保たせる」
といった話を挙げている。竹法(竹簡に記述した成文法)を制定して非難を被るなどの落ち度もあるが、
孔子に先んずる徳治の実践者としてそこそこの評価を受けている鄭の政治家子産。愚民の生の貪りや
死への嫌悪が、君子にとっては劣後すべき代物であることを孟子にも先んじて提唱はしたものの、
愚民の生死への情念に節度を保たせるために提示した手段が、法治主義に基づく禍福賞罰の徹底止まりで
あったことが片手落ちな部分であり、法政ではなく礼楽によってこそ人々が生死の節度をわきまえることを
提唱した孔子と比べれば(為政第二・三参照)、どうしてもプロトタイプ止まりであったと言わざるを得ない。
ローマ法にも先んじて本格的な法治主義社会を画策した、管仲や子産などの中国法家も、世界的にみれば
政治史上の雄であったといえるが、尭舜禹や湯文武、周公に孔子や孟子といった徳治主義の歴史のほうが
中国では一貫して盛大であったために、法家の扱いはあまり大きくない。実際に春秋戦国時代以降にも
秦始皇帝による法治社会が失敗して、漢や唐における儒家主導の徳治社会が成功を収めているために、
罪を犯させて罰を科す、マッチポンプ法治主義の出る幕などはほとんどなかったのだった。
「十五年春、邾の隱公來朝す。子貢これを觀る。邾子は玉を執ること高く、其の容仰げり。
公は玉を受けること卑く、其の容俯せり。子貢曰く、禮を以て之れを觀れば、二君は皆な死亡するあらん。
夫れ禮は、死生存亡の體なり。將に左右周旋、進退俯仰、是に於いてか之れを取り、朝祀喪戎、是に於いてか
之れを觀んとす。今正月相朝して、皆な度あらず。心巳に亡はれ、嘉事體あらず。何を以てか能く久からん。
高仰は驕なり、卑俯は替なり。驕は亂に近く、替は疾に近し。君は主たり。其れ先ず亡びんか」
「定公十五年の春、邾の隠公が魯に来朝した。孔子の弟子の子貢がこれを拝見したが、来客の隠公が
宝玉を扱う姿勢は高すぎてふんぞり返っており、定公が宝玉を扱う姿勢は低すぎて伏せっていた。
子貢は言った。『礼節を鑑みて申しますと、両君ともじきに死ぬだろうと言わざるを得ません。
いったい礼儀こそは、生死存亡を司る本体であります。日常の一挙一動にも本人の安否がかかっており、
来朝して諸々の祭祀儀礼を執り行う時にもその安否が現れるもの。いま正月に両君が会合したにも関わらず、
そのどちらともが礼法にかなっていないとは、どうして長生きを期待できましょうか。宝玉を扱う姿勢が高すぎて
ふんぞり返っているのは心が高ぶっている証拠ですし、低すぎて伏せっているのは堕している証拠です。高ぶって
いると乱を招きやすく、堕していると病にかかりやすい。わが君(定公)が主なので、先に亡くなるでしょう』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・定公十五年より)
公は玉を受けること卑く、其の容俯せり。子貢曰く、禮を以て之れを觀れば、二君は皆な死亡するあらん。
夫れ禮は、死生存亡の體なり。將に左右周旋、進退俯仰、是に於いてか之れを取り、朝祀喪戎、是に於いてか
之れを觀んとす。今正月相朝して、皆な度あらず。心巳に亡はれ、嘉事體あらず。何を以てか能く久からん。
高仰は驕なり、卑俯は替なり。驕は亂に近く、替は疾に近し。君は主たり。其れ先ず亡びんか」
「定公十五年の春、邾の隠公が魯に来朝した。孔子の弟子の子貢がこれを拝見したが、来客の隠公が
宝玉を扱う姿勢は高すぎてふんぞり返っており、定公が宝玉を扱う姿勢は低すぎて伏せっていた。
子貢は言った。『礼節を鑑みて申しますと、両君ともじきに死ぬだろうと言わざるを得ません。
いったい礼儀こそは、生死存亡を司る本体であります。日常の一挙一動にも本人の安否がかかっており、
来朝して諸々の祭祀儀礼を執り行う時にもその安否が現れるもの。いま正月に両君が会合したにも関わらず、
そのどちらともが礼法にかなっていないとは、どうして長生きを期待できましょうか。宝玉を扱う姿勢が高すぎて
ふんぞり返っているのは心が高ぶっている証拠ですし、低すぎて伏せっているのは堕している証拠です。高ぶって
いると乱を招きやすく、堕していると病にかかりやすい。わが君(定公)が主なので、先に亡くなるでしょう』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・定公十五年より)
山にもいろいろあって、アリ塚程度から泰山のような名峰まであるわけだ。
チベット・ネパール国境付近には世界最大の山系、ヒマラヤ山脈があり、
この日本にも、単体の山としては世界最大級の富士山がある。
山の雄大さを実物から実感する機会が、モンスーン気候でもある東洋にはあったわけだが、
大きめの砂丘も風で吹き飛んでしまう砂漠社会では、そんな機会はなかったわけだな。
「麒麟の走獸に於けるも、鳳凰の飛鳥に於けるも、太山の丘垤に於けるも、河海の行潦に於けるも、みな類なり。
聖人の民に於けるも、亦た類なり。其の類より出て、其の萃より抜きん出たること、生民より以來,未だ孔子より盛なるは有らざるなり」
「麒麟が走る獣の一種であり、鳳凰が飛鳥の一種であり、太山が小高い山の一種であり、黄河や大海が水溜りの一種であるように、
聖人もまた生民の一種ではある。同類にもかかわらず他から抜きん出ていることは、生民の中で孔子が抜きん出たほどのことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・二より)
チベット・ネパール国境付近には世界最大の山系、ヒマラヤ山脈があり、
この日本にも、単体の山としては世界最大級の富士山がある。
山の雄大さを実物から実感する機会が、モンスーン気候でもある東洋にはあったわけだが、
大きめの砂丘も風で吹き飛んでしまう砂漠社会では、そんな機会はなかったわけだな。
「麒麟の走獸に於けるも、鳳凰の飛鳥に於けるも、太山の丘垤に於けるも、河海の行潦に於けるも、みな類なり。
聖人の民に於けるも、亦た類なり。其の類より出て、其の萃より抜きん出たること、生民より以來,未だ孔子より盛なるは有らざるなり」
「麒麟が走る獣の一種であり、鳳凰が飛鳥の一種であり、太山が小高い山の一種であり、黄河や大海が水溜りの一種であるように、
聖人もまた生民の一種ではある。同類にもかかわらず他から抜きん出ていることは、生民の中で孔子が抜きん出たほどのことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・二より)

人道の王道中の王道である儒家、その儒家の正典である四書五経にことごとく反した劣悪な教義を
新旧約聖書が挙げ連ねていることからも、人道に反しているのは明らかだし、アダムとイブの楽園追放寓話で
すべての信者に多動性障害を植え付ける旧約の教義も、悪いことをするぐらいなら何もしないでいたほうがいい、
無為自然の徳を謳う道家の天道にも反している。天道は何も道家だけではなく、インドのヒンズー教や
日本の神道も含むが、やはりその教義の仔細を鑑みれば、新旧約信仰こそはこれらの天道の教義に違反している。
修羅道にあたるイスラムや拝火教を擁する中東と、新旧約信仰下の西洋がいがみ合い続けているのは周知のことだし、
模範的な武家社会となった江戸時代の日本も、キリシタン信仰を廃絶することによってこそ成功を果たしている。
奪い合い殺し合いを貪り続けて止まない新旧約信仰は、人道でも天道でもなく、修羅道ですらない、
地獄餓鬼畜生の三悪道に該当することが明白。それはそれで構造的な存在性を持つことが、仏教の六道十界論に
基づけば認められているのであり、劣悪ではあるが存在してしまう三悪道をいかに排し、修羅人天の三善道を
推進していくかという「断悪修善」が、仏教の一大教義となっている。六道の内の人道に即して勧善懲悪をもくろむ
儒家と比べれば、六道全体を俯瞰する声聞縁覚菩薩仏の四乗から断悪修善を講じる仏教の姿勢は、より徹底的で
あるといえる一方で、自力での修習のためには出家や受戒も要するなど、大きなリスクも伴っている。
俺としては、断悪修善をも本義とする仏教を尊びはする一方で、自分自身は儒家に基づく所存。
新旧約信仰のような人道のフリをした鬼畜道ではない、純度100%の真っ当な人道である儒家を本拠地とする。
仏教ほどもの質は期待できないが、代わりに量を稼ぐことが可能な儒家。幼稚園児にすら教えられる平易さが売り。
「易の書たるや、廣大悉く備わる。天道あり、人道あり、地道あり。三材を兼ねて之れを両つにす。故に六なり」
「易という書物には、天地万物のあらゆる道理がことごとく備わっている。天道もあれば、人道もあり、
地道もある。この三つが八卦のそれぞれの爻となり、上下に重なり合って六つの爻を持つ六十四卦となる。
(天道・人道・修羅道の三善道と、畜生道・餓鬼道・地獄道の三悪道が折り重なって六道と
なることが、まだ仏教も存在していなかった頃の中国人、孔子によっても予言されている。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
新旧約信仰のような人道のフリをした鬼畜道ではない、純度100%の真っ当な人道である儒家を本拠地とする。
仏教ほどもの質は期待できないが、代わりに量を稼ぐことが可能な儒家。幼稚園児にすら教えられる平易さが売り。
「易の書たるや、廣大悉く備わる。天道あり、人道あり、地道あり。三材を兼ねて之れを両つにす。故に六なり」
「易という書物には、天地万物のあらゆる道理がことごとく備わっている。天道もあれば、人道もあり、
地道もある。この三つが八卦のそれぞれの爻となり、上下に重なり合って六つの爻を持つ六十四卦となる。
(天道・人道・修羅道の三善道と、畜生道・餓鬼道・地獄道の三悪道が折り重なって六道と
なることが、まだ仏教も存在していなかった頃の中国人、孔子によっても予言されている。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
「わたしは智恵ある者の智恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」
(権力犯罪聖書——通称聖書——コリント人への第一の脅迫文1:19)
まあ、キリスト教系の大学が「上智大学」を名乗ることのおかしさが明らかな部分でもあるな。
もともと「上智」という言葉の起源も、「上知と下愚は移らず」という「論語」陽貨第十七・三の記述だし、
「義」とか「信」とか「聖書」とかいった言葉だけでなく、こんな所にも儒家用語の剽窃が見られる。
堅実な道徳主義の学問を捨てて、不埒な犯罪主義のカルト信教を世の中が選択した弊害は、
「そんな世の中は完全に捨て去るぐらいでちょうどいい」という結論になって現れた。
「仁の父子に於ける、義の君臣に於ける、礼の賓主に於ける、
知の賢者に於ける、聖の天道に於けるは、命なり。性あり、君子は命とは謂わざるなり」
「父子の仁、君臣の義、賓主の礼、賢者の智、天道の聖などは、天命に即して叶ったり叶わなかったり
することがある。しかし、君子の側は自身の本性からそれを欲するので、天命だからといって諦めたりはしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・二四より)
(権力犯罪聖書——通称聖書——コリント人への第一の脅迫文1:19)
まあ、キリスト教系の大学が「上智大学」を名乗ることのおかしさが明らかな部分でもあるな。
もともと「上智」という言葉の起源も、「上知と下愚は移らず」という「論語」陽貨第十七・三の記述だし、
「義」とか「信」とか「聖書」とかいった言葉だけでなく、こんな所にも儒家用語の剽窃が見られる。
堅実な道徳主義の学問を捨てて、不埒な犯罪主義のカルト信教を世の中が選択した弊害は、
「そんな世の中は完全に捨て去るぐらいでちょうどいい」という結論になって現れた。
「仁の父子に於ける、義の君臣に於ける、礼の賓主に於ける、
知の賢者に於ける、聖の天道に於けるは、命なり。性あり、君子は命とは謂わざるなり」
「父子の仁、君臣の義、賓主の礼、賢者の智、天道の聖などは、天命に即して叶ったり叶わなかったり
することがある。しかし、君子の側は自身の本性からそれを欲するので、天命だからといって諦めたりはしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・二四より)
儒学における童僕(子供、小童)の存在性の解釈は、「易経」蒙卦と旅卦に詳しい。
蒙卦・初六においては「蒙をひらく。もって人を刑するに利ろし。もって桎梏をとき、もって往けば吝かなり」などと、
童僕の蒙昧さがあくまで啓蒙修正の対象とすべきものであることを強調し、そのためには刑罰すら厭わず、
手かせ足かせを解くような甘やかしもしてはならないとしている。一方で蒙卦・六五象伝には
「童蒙の吉なるは、順にしてもって巽なればなり」と、童蒙ゆえに従順で謙遜であることは吉であるともしている。
旅卦・六二象伝にも「童僕の貞を得たりとは、終にとがなきなり」などと、童僕故の貞節さを吉とする記述があり、
「蒙昧であるのは童僕の欠点だが、貞節であろうとすることは童僕の長所である」という、分別の行き届いた童僕解釈が
儒家では伝統的にわきまえられているために、勉学と忠孝を共に奨励することが矛盾を来たさずにも済んでいる。
ただ「子供のようになれ」では、上記のような童僕の長短理解に即した人間の矯正には寄与できない。
それどころか、貞節さは省いて蒙昧さばかりを助長させる結果にもなり兼ねず、
ちゃんと長所と短所を分別する場合とは逆に、より劣悪な結果すらをも招いてしまう。
「闕黨の童子、命を將う。或るひと之を問うて曰く、益者かと。
子曰く、吾れ其の位に居るを見る。其の先生と並び行くを見る。益者に非ざるなり、速やかに成らんと欲する者なりと」
「闕という村の少年が客の取次ぎをしていた。ある人がその姿を見て問うた。『あれは進歩を目指しているものでしょうか』
孔先生は答えた。『私はあれが大人同士の席で真ん中に座っているのを見ましたし、先生先輩と肩を並べて歩いているのも見ました。
着実な進歩を目指しているのではなく、ただ早く大人になりたいというだけの者です』(貞節ではないが蒙昧なままな童僕の一例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・四六より)
蒙卦・初六においては「蒙をひらく。もって人を刑するに利ろし。もって桎梏をとき、もって往けば吝かなり」などと、
童僕の蒙昧さがあくまで啓蒙修正の対象とすべきものであることを強調し、そのためには刑罰すら厭わず、
手かせ足かせを解くような甘やかしもしてはならないとしている。一方で蒙卦・六五象伝には
「童蒙の吉なるは、順にしてもって巽なればなり」と、童蒙ゆえに従順で謙遜であることは吉であるともしている。
旅卦・六二象伝にも「童僕の貞を得たりとは、終にとがなきなり」などと、童僕故の貞節さを吉とする記述があり、
「蒙昧であるのは童僕の欠点だが、貞節であろうとすることは童僕の長所である」という、分別の行き届いた童僕解釈が
儒家では伝統的にわきまえられているために、勉学と忠孝を共に奨励することが矛盾を来たさずにも済んでいる。
ただ「子供のようになれ」では、上記のような童僕の長短理解に即した人間の矯正には寄与できない。
それどころか、貞節さは省いて蒙昧さばかりを助長させる結果にもなり兼ねず、
ちゃんと長所と短所を分別する場合とは逆に、より劣悪な結果すらをも招いてしまう。
「闕黨の童子、命を將う。或るひと之を問うて曰く、益者かと。
子曰く、吾れ其の位に居るを見る。其の先生と並び行くを見る。益者に非ざるなり、速やかに成らんと欲する者なりと」
「闕という村の少年が客の取次ぎをしていた。ある人がその姿を見て問うた。『あれは進歩を目指しているものでしょうか』
孔先生は答えた。『私はあれが大人同士の席で真ん中に座っているのを見ましたし、先生先輩と肩を並べて歩いているのも見ました。
着実な進歩を目指しているのではなく、ただ早く大人になりたいというだけの者です』(貞節ではないが蒙昧なままな童僕の一例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・四六より)
カルト信教とはいえ、聖書信仰も一種の文化ではある。一方で、儒学もまた一種の文化。
己の欲せざるところを人に施して憚らぬ犯罪推進文化と、己の欲せざるところを人に施さぬよう努める道徳堅持文化。
どちらか一方を立てる以上は、もう一方が決して立たなくなる相反性が両者の文化には備わっているため、
儒学を立てる以上は聖書信仰を貶めざるを得ないし、聖書信仰を立てる以上は儒学を貶めざるを得ない。
儒学に基づく封建統治の確立によって、江戸時代には禁教扱いとなったキリシタン。
江戸幕府の大政奉還と廃仏毀釈によって、禁教を解かれたキリスト教信仰。
歴史的にも、両者が決して相容れないことは証明されているし、儒学を専攻としている俺にできる仕事が
今の世にないことも、聖書信仰のまかり通っている世の中で儒学が仕事にもならない何よりの証拠になっている。
低劣だどうだという以前に、儒学の側の死活問題故にこそ、聖書信仰を廃絶せざるを得なくなっている。
「回や、其の心三月仁に違わず。其の餘りは則ち日月に至るのみ」
「(孔子の最高の弟子とされる)顔淵はもう三月ものあいだ仁から心を離さないでいる。
他のものなら一日か、せいぜい一月も離さないでいられるかどうかというところなのに。
(万人を利して我が利ともする仁も、庸徳として恒常的に嗜むことはなかなか難しい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・七より)
己の欲せざるところを人に施して憚らぬ犯罪推進文化と、己の欲せざるところを人に施さぬよう努める道徳堅持文化。
どちらか一方を立てる以上は、もう一方が決して立たなくなる相反性が両者の文化には備わっているため、
儒学を立てる以上は聖書信仰を貶めざるを得ないし、聖書信仰を立てる以上は儒学を貶めざるを得ない。
儒学に基づく封建統治の確立によって、江戸時代には禁教扱いとなったキリシタン。
江戸幕府の大政奉還と廃仏毀釈によって、禁教を解かれたキリスト教信仰。
歴史的にも、両者が決して相容れないことは証明されているし、儒学を専攻としている俺にできる仕事が
今の世にないことも、聖書信仰のまかり通っている世の中で儒学が仕事にもならない何よりの証拠になっている。
低劣だどうだという以前に、儒学の側の死活問題故にこそ、聖書信仰を廃絶せざるを得なくなっている。
「回や、其の心三月仁に違わず。其の餘りは則ち日月に至るのみ」
「(孔子の最高の弟子とされる)顔淵はもう三月ものあいだ仁から心を離さないでいる。
他のものなら一日か、せいぜい一月も離さないでいられるかどうかというところなのに。
(万人を利して我が利ともする仁も、庸徳として恒常的に嗜むことはなかなか難しい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・七より)
実際、今の世界がユダヤ=キリスト両聖書信仰に征服されているのは確かだ。
カルト信仰に基づく欺瞞に根ざしながらであるとはいえ、重権力犯罪によって法外な利権を左右する乱脈の
ペースが新旧約聖書信仰によってこそ握られ、ほとんどそれだけによって世界の存亡が左右されてもいる。
そこに権力道徳を貴ぶ儒家の影響力もなければ、仏教や道教や神道の影響力も皆無といってほどにない。
聖書信仰を傍観的にでも容認しないことには、俺のように仕事一つあり付けないザマにもなっている。
だからこそ、今の世の中は「ウ●コの塊」とでも言っていいほどに有害無益な代物と化している。
何をするよりも何もしないでいたほうが偉い、行動即犯罪の総員テロリスト社会と化していて、
これ以上下といえば、もはや全面核戦争による人類の滅亡ぐらいしかありえない。
そしてその、全面核戦争の危機をもたらしているのも、聖書信仰者である欧米人。
想定しうる限りで最悪の状態の世の中ばかりを全面征服している聖書信仰。
善良な世の中を占有している王君などが羨ましいことはあっても、最悪の乱世を支配している
邪神信仰などが羨ましいわけもなく、さっさとトイレに流されて堆肥にでもなれとしか思わない。
「惟れ受、心を悛むること有る罔く、乃ち夷居、上帝神祇に事えず、厥の先の宗廟を遺てて祀らず。
犧牲粢盛、凶盜に既く。乃ち曰う、吾れ民有るは命有ればなり、と。其の侮りを懲らす罔し」
「殷の紂王は未だ改悛の色を見せることもなく、平素から上帝神祇に仕えようともせず、
先祖代々の宋廟をも打ち棄てて祀ろうともせぬ。生贄の動物やお供えの穀物もごっそり盗人に掠め取られ、
それでもなお『俺が民を保有しているのは天命なのだ』などという。その侮りきった態度を懲らしめようとする者もいない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓上より)
カルト信仰に基づく欺瞞に根ざしながらであるとはいえ、重権力犯罪によって法外な利権を左右する乱脈の
ペースが新旧約聖書信仰によってこそ握られ、ほとんどそれだけによって世界の存亡が左右されてもいる。
そこに権力道徳を貴ぶ儒家の影響力もなければ、仏教や道教や神道の影響力も皆無といってほどにない。
聖書信仰を傍観的にでも容認しないことには、俺のように仕事一つあり付けないザマにもなっている。
だからこそ、今の世の中は「ウ●コの塊」とでも言っていいほどに有害無益な代物と化している。
何をするよりも何もしないでいたほうが偉い、行動即犯罪の総員テロリスト社会と化していて、
これ以上下といえば、もはや全面核戦争による人類の滅亡ぐらいしかありえない。
そしてその、全面核戦争の危機をもたらしているのも、聖書信仰者である欧米人。
想定しうる限りで最悪の状態の世の中ばかりを全面征服している聖書信仰。
善良な世の中を占有している王君などが羨ましいことはあっても、最悪の乱世を支配している
邪神信仰などが羨ましいわけもなく、さっさとトイレに流されて堆肥にでもなれとしか思わない。
「惟れ受、心を悛むること有る罔く、乃ち夷居、上帝神祇に事えず、厥の先の宗廟を遺てて祀らず。
犧牲粢盛、凶盜に既く。乃ち曰う、吾れ民有るは命有ればなり、と。其の侮りを懲らす罔し」
「殷の紂王は未だ改悛の色を見せることもなく、平素から上帝神祇に仕えようともせず、
先祖代々の宋廟をも打ち棄てて祀ろうともせぬ。生贄の動物やお供えの穀物もごっそり盗人に掠め取られ、
それでもなお『俺が民を保有しているのは天命なのだ』などという。その侮りきった態度を懲らしめようとする者もいない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓上より)
乱世の特徴として、朝廷や幕府、政府などの権力機構が小人に乗っ取られるというのがある(「易経」否卦参照)。
しかし、小人だからといって無力であるとは限らず、むしろ己れの卑小さを取り繕うための、
莫大な暴力や利権の溜め込みによってこそ権力に取り入る。君子が莫大な暴力利権と共にあることよりも、
小人が莫大な暴力利権と共にあることのほうが遥かに多く、君子が権力の座に就いた時には、
むしろ世の中総出を挙げての軍備解除や、贋金作りの厳禁などの金融制限策が執り行われる。
小人による私利私欲のむさぼりこそは、世の中全体を貧窮や戦乱に追いやる元凶ともなっているのだから、
実権が小人から君子に明け渡されたとしても、君子は小人の溜め込んだ莫大な暴力利権を私物化したりはせず、
無駄な利権の溜め込みも排して、世の中全体に富を分散させるように務める。
だからたとえば、今の権力者よりはまだ君子な部類に入る俺が、今の権力者に実権を明け渡されたとしても、
俺が第二第三の重権力犯罪者になるまいと務めた結果、今の権力者ほどにも際立った存在ではなくなるだろう。
一般庶民は王侯なんているともいないとも知れない、作為をできる限り排した無為自然の統治によって、
誰しもが権力による締め付けから解放される一方で、俺のことを殊更に意識するようなこともない。
意識しなければならないほどに俺自身は利権を溜め込まず、むしろ利権を分散させるための権力者にこそなるから、
見るからに「偉大なる世界の帝王」的なものが誕生することなどを期待すべきではない。絶対者の下に誰しもが
ひれ伏させられるような、カルト信仰に根ざした期待などは棄てて、恐れられつつも人々に親しまれる、
鬼平さん程度の堅実な壮士が生まれることを期待するぐらいでちょうど。殊更に絶対性を誰かばかりに
集約しようなどとはしない、多神教信仰程度の平穏さに基づいて、時代が進んでいくのがよりよい。
しかし、小人だからといって無力であるとは限らず、むしろ己れの卑小さを取り繕うための、
莫大な暴力や利権の溜め込みによってこそ権力に取り入る。君子が莫大な暴力利権と共にあることよりも、
小人が莫大な暴力利権と共にあることのほうが遥かに多く、君子が権力の座に就いた時には、
むしろ世の中総出を挙げての軍備解除や、贋金作りの厳禁などの金融制限策が執り行われる。
小人による私利私欲のむさぼりこそは、世の中全体を貧窮や戦乱に追いやる元凶ともなっているのだから、
実権が小人から君子に明け渡されたとしても、君子は小人の溜め込んだ莫大な暴力利権を私物化したりはせず、
無駄な利権の溜め込みも排して、世の中全体に富を分散させるように務める。
だからたとえば、今の権力者よりはまだ君子な部類に入る俺が、今の権力者に実権を明け渡されたとしても、
俺が第二第三の重権力犯罪者になるまいと務めた結果、今の権力者ほどにも際立った存在ではなくなるだろう。
一般庶民は王侯なんているともいないとも知れない、作為をできる限り排した無為自然の統治によって、
誰しもが権力による締め付けから解放される一方で、俺のことを殊更に意識するようなこともない。
意識しなければならないほどに俺自身は利権を溜め込まず、むしろ利権を分散させるための権力者にこそなるから、
見るからに「偉大なる世界の帝王」的なものが誕生することなどを期待すべきではない。絶対者の下に誰しもが
ひれ伏させられるような、カルト信仰に根ざした期待などは棄てて、恐れられつつも人々に親しまれる、
鬼平さん程度の堅実な壮士が生まれることを期待するぐらいでちょうど。殊更に絶対性を誰かばかりに
集約しようなどとはしない、多神教信仰程度の平穏さに基づいて、時代が進んでいくのがよりよい。
多神教的な調和性を重んずる以上は、どうしても廃絶しなければならないレベルの致命的なドグマがある。
神道は先祖供養の宗教。それぞれのご先祖様を敬うことから、多神教というものの形態が根本的に成り立っていて、
これは家の神以外を祭ることを「へつらいだ」とする儒学の教えにも即しているし、仏教でも在家信者に対して促すところ。
そして祖神信仰を完全否定するのがキリスト教。神の下では誰しもが平等だなどという美辞麗句の下に、親族兄弟での
殺し合いすら画策させる始末。祖神信仰こそは根本である神道などの多神教信仰とキリスト教が相容れることは決してない。
人はいつかは必ず老いて死に、二度と生き返ることがないというのが仏教の「四諦」などに基づく教え。
一方で、キリストは刑死して3日後に生き返ったとし、最後の審判では誰しもが生き返るというのがキリスト教教義。
仏教が四諦を「真理」としている一方で、キリスト教もまた自分たちの上記のような教義を真理の教えとしている。
真理が二つも三つも乱立し、互いに相反する真理を唱える宗教の並存が容認されていることが、宗教全般の信用性を
失わせる結果を招いており、揚げ足取りの汚濁こそを本領とするキリスト教などのほうが活性化している一方で、
「誹謗正法」を根本から厳禁している正統仏教のほうは衰退している。本池垂迹説などによって神格信仰に当てはめられる
こともあるものの、神や悪魔を超えたとする仏や菩薩の境地を貴ぶ仏教もまた、キリスト教と相容れることはない。
神道は先祖供養の宗教。それぞれのご先祖様を敬うことから、多神教というものの形態が根本的に成り立っていて、
これは家の神以外を祭ることを「へつらいだ」とする儒学の教えにも即しているし、仏教でも在家信者に対して促すところ。
そして祖神信仰を完全否定するのがキリスト教。神の下では誰しもが平等だなどという美辞麗句の下に、親族兄弟での
殺し合いすら画策させる始末。祖神信仰こそは根本である神道などの多神教信仰とキリスト教が相容れることは決してない。
人はいつかは必ず老いて死に、二度と生き返ることがないというのが仏教の「四諦」などに基づく教え。
一方で、キリストは刑死して3日後に生き返ったとし、最後の審判では誰しもが生き返るというのがキリスト教教義。
仏教が四諦を「真理」としている一方で、キリスト教もまた自分たちの上記のような教義を真理の教えとしている。
真理が二つも三つも乱立し、互いに相反する真理を唱える宗教の並存が容認されていることが、宗教全般の信用性を
失わせる結果を招いており、揚げ足取りの汚濁こそを本領とするキリスト教などのほうが活性化している一方で、
「誹謗正法」を根本から厳禁している正統仏教のほうは衰退している。本池垂迹説などによって神格信仰に当てはめられる
こともあるものの、神や悪魔を超えたとする仏や菩薩の境地を貴ぶ仏教もまた、キリスト教と相容れることはない。
互いに相容れない教義同士を並存させた挙句として、神道や仏教のような優良な宗教のほうがその価値を無効化され、
キリスト教やユダヤ教のような劣悪な邪教のほうばかりがその暴力を発揮している。みそくそはくそばかりに有利でみそ
ばかりに不利になる証拠が、今という時代における宗教全般の不遇であり、儒学を復興させる以上は聖書信仰を廃絶せざるを
得ないだけでなく、神道や仏教のような優良な宗教を復興させる上でも、聖書教のような劣悪な邪教の廃絶が必要となる。
どちらかを立てる以上はもう一方は決して立たぬ。みそくそに容認しまくってもくそばかりが立ってみそは立たない。
本気で宗教とか学問とかいったものを考えるのなら、みそくそ処理が通用しない相反性の実在を認めねばならない。
「君子の道は、費にして陰なり。夫婦の愚も以て与り知るべきも、その至れるに及んでは、聖人と雖も亦た能くせざる所あり」
「君子の道は分かりやすい所から分かりにくい所まで多々ある。分かりやすい表向きの所は、愚かな匹夫匹婦にすら
理解できるが、その深奥の分かりにくい所に及んでは、聖人といえども必ずしも理解しきれない所がある。
(愚者だからといってカルト信仰に走らずとも、分かる範囲での君子の道を歩むようにすればいい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一二より)
キリスト教やユダヤ教のような劣悪な邪教のほうばかりがその暴力を発揮している。みそくそはくそばかりに有利でみそ
ばかりに不利になる証拠が、今という時代における宗教全般の不遇であり、儒学を復興させる以上は聖書信仰を廃絶せざるを
得ないだけでなく、神道や仏教のような優良な宗教を復興させる上でも、聖書教のような劣悪な邪教の廃絶が必要となる。
どちらかを立てる以上はもう一方は決して立たぬ。みそくそに容認しまくってもくそばかりが立ってみそは立たない。
本気で宗教とか学問とかいったものを考えるのなら、みそくそ処理が通用しない相反性の実在を認めねばならない。
「君子の道は、費にして陰なり。夫婦の愚も以て与り知るべきも、その至れるに及んでは、聖人と雖も亦た能くせざる所あり」
「君子の道は分かりやすい所から分かりにくい所まで多々ある。分かりやすい表向きの所は、愚かな匹夫匹婦にすら
理解できるが、その深奥の分かりにくい所に及んでは、聖人といえども必ずしも理解しきれない所がある。
(愚者だからといってカルト信仰に走らずとも、分かる範囲での君子の道を歩むようにすればいい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一二より)
人知を超えた神秘性を宿した宗教もまた確かにある。
神道や仏教、道教やヒンズー教こそはそれにあたり、人間の常識を遥かに超えた神仏の世界が、
上記のような“正統宗教”においてこそ展開されている。
しかるに、ユダヤ=キリスト両聖書教はまったくその条件を満たさず、その教義の全てが
人知の範囲内で説明しきれ、しかも人道の最たるものである儒学などと比べて
さらなる人間の劣悪化を助長する“カルト宗教”でこそある。
・人間以上の品性>人間道徳>人間以下の品性
・正統宗教>純粋道徳学(儒学)>カルト宗教
人間以上の存在であるのが正統宗教であるのに対し、人間以下の存在であるのがカルト宗教。
信仰者を人知を超えた神仏の領域へといざなう能力を正統宗教は備えているが、
カルト宗教はかえって信仰者を禽獣同然の下劣な領域へと導く機能しか備えていない。
だから、正統宗教においては程度の低いうちにすら入れられる人間道徳の条件すらも
満たせておらず、道徳性に反する俗世での悪業、重犯罪や重権力犯罪へと信仰者を導いてしまう。
それほどにも劣悪な人間以下のカルト宗教と、人間以上でこそある正統宗教が
くそみそに扱われることで、本当に優良な正統宗教の価値までもが毀損されて、
宗教全般への不信のレッテルが貼られ、宗教嫌いのニヒリズムばかりが横行してしまっている。
ニヒリズムすら、本当は禅仏教などを通じて宗教的に包含しきれるものなのに、
宗教全般を否定しようとする盲目なニヒリズムが、カルト信仰への狂信が横行することと
共に助長されてしまっている。カルト信仰と反宗教主義がコインの裏表であり、
そのような人類劣悪化の元凶としかならないコインが根こそぎ破棄されて然るべきだ。
神道や仏教、道教やヒンズー教こそはそれにあたり、人間の常識を遥かに超えた神仏の世界が、
上記のような“正統宗教”においてこそ展開されている。
しかるに、ユダヤ=キリスト両聖書教はまったくその条件を満たさず、その教義の全てが
人知の範囲内で説明しきれ、しかも人道の最たるものである儒学などと比べて
さらなる人間の劣悪化を助長する“カルト宗教”でこそある。
・人間以上の品性>人間道徳>人間以下の品性
・正統宗教>純粋道徳学(儒学)>カルト宗教
人間以上の存在であるのが正統宗教であるのに対し、人間以下の存在であるのがカルト宗教。
信仰者を人知を超えた神仏の領域へといざなう能力を正統宗教は備えているが、
カルト宗教はかえって信仰者を禽獣同然の下劣な領域へと導く機能しか備えていない。
だから、正統宗教においては程度の低いうちにすら入れられる人間道徳の条件すらも
満たせておらず、道徳性に反する俗世での悪業、重犯罪や重権力犯罪へと信仰者を導いてしまう。
それほどにも劣悪な人間以下のカルト宗教と、人間以上でこそある正統宗教が
くそみそに扱われることで、本当に優良な正統宗教の価値までもが毀損されて、
宗教全般への不信のレッテルが貼られ、宗教嫌いのニヒリズムばかりが横行してしまっている。
ニヒリズムすら、本当は禅仏教などを通じて宗教的に包含しきれるものなのに、
宗教全般を否定しようとする盲目なニヒリズムが、カルト信仰への狂信が横行することと
共に助長されてしまっている。カルト信仰と反宗教主義がコインの裏表であり、
そのような人類劣悪化の元凶としかならないコインが根こそぎ破棄されて然るべきだ。
「真理は人を自由にする」というのも大間違いであり、真理把捉の総本山であるヒンズー教こそは
バラモンからクシャトリヤ、ヴァイシャからシュードラに至る、絶対差別のカースト制を擁してもいる。
中国版の真理把捉教学である道家においても「何もしないことこそは真理に合致する」とし、
「真理は人間の行動などとは関係ない」という、ヒンズー教の主流教義とも一致している。
真理が行動批判によって人々を不自由にするという実情があればこそ、真理と自由の高度な両立を
目論む仏教のような正統宗教までもが派生したのだから、「真理こそは人を自由にする」などという
180度転倒夢想のカルト教義が、共に認められる余地もなく、もしもそんなものが容認されるのなら、
本物の真理を捉えている正統宗教の一切がふいになり、なんらの価値も持たなくなる。
「貉稽曰く、稽大いに口に理あらず。孟子曰く、傷むことなかれ。士は茲の多口に憎まるる。
詩に憂心悄悄として群小に慍まるうと云えるは、孔子なり。肆に厥の慍みを殄たざるも、亦た厥の問を隕さずとは、文王なり」
「貉稽が孟子に問うた。『私は理に適わない悪口ばかりを言われています』 孟子は答えた。
『心配するには及びません。詩経に〔いつも多くの小人に怨まれてちっとも楽しくない(柏舟)〕とは孔子を言ったもの、
〔怨みを絶やすことはできなかったが、さりとて評判を落とすこともなかった〕とは文王を言ったものなのですから』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・一九)
バラモンからクシャトリヤ、ヴァイシャからシュードラに至る、絶対差別のカースト制を擁してもいる。
中国版の真理把捉教学である道家においても「何もしないことこそは真理に合致する」とし、
「真理は人間の行動などとは関係ない」という、ヒンズー教の主流教義とも一致している。
真理が行動批判によって人々を不自由にするという実情があればこそ、真理と自由の高度な両立を
目論む仏教のような正統宗教までもが派生したのだから、「真理こそは人を自由にする」などという
180度転倒夢想のカルト教義が、共に認められる余地もなく、もしもそんなものが容認されるのなら、
本物の真理を捉えている正統宗教の一切がふいになり、なんらの価値も持たなくなる。
「貉稽曰く、稽大いに口に理あらず。孟子曰く、傷むことなかれ。士は茲の多口に憎まるる。
詩に憂心悄悄として群小に慍まるうと云えるは、孔子なり。肆に厥の慍みを殄たざるも、亦た厥の問を隕さずとは、文王なり」
「貉稽が孟子に問うた。『私は理に適わない悪口ばかりを言われています』 孟子は答えた。
『心配するには及びません。詩経に〔いつも多くの小人に怨まれてちっとも楽しくない(柏舟)〕とは孔子を言ったもの、
〔怨みを絶やすことはできなかったが、さりとて評判を落とすこともなかった〕とは文王を言ったものなのですから』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・一九)
「おそれる(恐れる、畏れる)」ということは、人間にとっての健全な防御機能の一つであり、
痛覚によって身体損傷の危険を察知するように、おそれによって破滅などの危険も察知する。
無痛症の患者がいい気になって、屋根の上から飛び降りて大怪我を負ったりするように、
人としての健全なおそれを欠いたところで、人は致命的な破滅へとも知らずに突き進む。
だから周の成王も「畏れざれば畏れに入る(書経・周書・周官)」と言ったのであり、
おそれや痛みを無みする麻薬的な邪義に耽った借りは、後々になって全て返ってくる。
恐るべき悪に耽った以上は禍が免れない、それは道理にかなった法則である上に、
諸法因果の真理を提示する仏教教義にも即していること。四書五経一つにも及ばない
劣悪なカルト教義一つを通すために、あらゆる優等教学が無効化されるわけにもいかず、
実際、完全な無効化などはできない。優等教学の有効性を抑え付けつつ、カルト教義
ばかりをまかり通らせ続けたならば、当然のこととして人類全体が破滅に陥る。
そこに救いを見出そうなどとするほうが間違いであり、全く理に適っていない。
権力犯罪者が全員檻の中に入って、連中の鎮痛剤となってきたカルト教義が根絶
させられることの無謬さと比べて、誤謬の塊であり過ぎるが故に、痛すぎもする。
「賢者位に在り、能者職に在り、國家饟暇あり、是の時に及んで其の政刑を明らかにせば、大國と雖も、必ず之れを畏れん」
「賢人が重要な地位に就き、有能者が相応の職に就いて、国家が平穏でゆとりのあるものとなる。
この時におよんで政治や裁判をも公明正大にすれば、大国であろうともこれを畏れぬことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・四より)
痛覚によって身体損傷の危険を察知するように、おそれによって破滅などの危険も察知する。
無痛症の患者がいい気になって、屋根の上から飛び降りて大怪我を負ったりするように、
人としての健全なおそれを欠いたところで、人は致命的な破滅へとも知らずに突き進む。
だから周の成王も「畏れざれば畏れに入る(書経・周書・周官)」と言ったのであり、
おそれや痛みを無みする麻薬的な邪義に耽った借りは、後々になって全て返ってくる。
恐るべき悪に耽った以上は禍が免れない、それは道理にかなった法則である上に、
諸法因果の真理を提示する仏教教義にも即していること。四書五経一つにも及ばない
劣悪なカルト教義一つを通すために、あらゆる優等教学が無効化されるわけにもいかず、
実際、完全な無効化などはできない。優等教学の有効性を抑え付けつつ、カルト教義
ばかりをまかり通らせ続けたならば、当然のこととして人類全体が破滅に陥る。
そこに救いを見出そうなどとするほうが間違いであり、全く理に適っていない。
権力犯罪者が全員檻の中に入って、連中の鎮痛剤となってきたカルト教義が根絶
させられることの無謬さと比べて、誤謬の塊であり過ぎるが故に、痛すぎもする。
「賢者位に在り、能者職に在り、國家饟暇あり、是の時に及んで其の政刑を明らかにせば、大國と雖も、必ず之れを畏れん」
「賢人が重要な地位に就き、有能者が相応の職に就いて、国家が平穏でゆとりのあるものとなる。
この時におよんで政治や裁判をも公明正大にすれば、大国であろうともこれを畏れぬことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・四より)
怒りとか愛とかいった情念全般の諦観を促す仏教などと比べれば、儒学はずっと情的であり、
孔子も宰我のような不肖の弟子への怒りを隠さなかったし、逆に顔回のような優れた弟子への子愛をも隠さなかった。
しかし、その孔子が顔回を寵愛していたのは、「怒りを遷さず(怒りにかられて八つ当たりをしない。雍也第六・三)」
というような長所をも備えていたからであり、逆に怒りにかられて果断に振る舞い過ぎる
ような蛮勇を宿した、子路のような弟子をしょっちゅう非難してもいた。
孔子もまた、喜怒哀楽によどみのない人間臭さを備えてはいたものの、
喜怒哀楽が行き過ぎるようなことも「過ぎたるはなお及ばざるが如し」としていたのであり、
怒りや愛のような情念にかられて、善悪を見失うことの拙劣さなどへの警戒も欠かしていなかった。
仏教や道教ほどの達観もない、非宗教・無信仰の真人間教学においてですら、情念の放蕩を卑しむ
ぐらいの分別は備わっているというのに、どこぞやのカルト教学ときたら、その情念の放蕩によって
民を選り好む邪神などを祭り上げているのだから、まさに人間以下の卑小さであるといえる。
「仁人の弟に於けるや、怒りを蔵さず、怨みを宿めず、之を親愛するのみ。
之を親しみてはその貴からんことを欲し、之を愛してはその富まんことを欲す」
「仁者が弟などに対するときは、怒りを隠しもせず、さりとて怨みを留めようともせず、ただこれを親愛する。
親しみによってより貴い存在となってくれることを欲し、愛することによってより富裕になってくれることを欲する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・三より)
孔子も宰我のような不肖の弟子への怒りを隠さなかったし、逆に顔回のような優れた弟子への子愛をも隠さなかった。
しかし、その孔子が顔回を寵愛していたのは、「怒りを遷さず(怒りにかられて八つ当たりをしない。雍也第六・三)」
というような長所をも備えていたからであり、逆に怒りにかられて果断に振る舞い過ぎる
ような蛮勇を宿した、子路のような弟子をしょっちゅう非難してもいた。
孔子もまた、喜怒哀楽によどみのない人間臭さを備えてはいたものの、
喜怒哀楽が行き過ぎるようなことも「過ぎたるはなお及ばざるが如し」としていたのであり、
怒りや愛のような情念にかられて、善悪を見失うことの拙劣さなどへの警戒も欠かしていなかった。
仏教や道教ほどの達観もない、非宗教・無信仰の真人間教学においてですら、情念の放蕩を卑しむ
ぐらいの分別は備わっているというのに、どこぞやのカルト教学ときたら、その情念の放蕩によって
民を選り好む邪神などを祭り上げているのだから、まさに人間以下の卑小さであるといえる。
「仁人の弟に於けるや、怒りを蔵さず、怨みを宿めず、之を親愛するのみ。
之を親しみてはその貴からんことを欲し、之を愛してはその富まんことを欲す」
「仁者が弟などに対するときは、怒りを隠しもせず、さりとて怨みを留めようともせず、ただこれを親愛する。
親しみによってより貴い存在となってくれることを欲し、愛することによってより富裕になってくれることを欲する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・三より)
他との共存や共栄が絶対にあり得ないほどにも、致命的なドグマを宿したカルト信教などのほうが、かえって少ない。
仏教や神道などにもある程度は排他的な指向があり、中には創価学会や平田学派のように、他信教への攻撃や廃絶を
目論む派閥も生じているわけだが、全体としては結局、他信教などとの共存や共栄を嗜んでおり、神仏習合や
修験道のような二人三脚的な協力関係すら築かれることもあった。道教やヒンズー教の神である七福神、
帝釈天や吉祥天なども日本で祭られ、神道の神などと共に、人々からの信敬の対象となって来た。
他との共存を徹底的に排除するのは、とにもかくにもアブラハム教であり、ユダヤ=キリスト両聖書教と共に、
イスラム教もその排他性の高さがよく知られている。しかし、イスラムの場合は、聖典コーランの教義によって
新旧約聖書の主要教義をことごとく無効化することで、他者への危害やそれによる自分たちの繁栄の正当化を
切り捨てているために、他信教を自分たちの間で廃絶することはあっても、外界に侵略の魔の手を伸ばしまでする
ことが抑制されているので、よそ様として静観しておく限りにおいては、そんなに迷惑をかけられることもない。
結局、世界の多様性を認める観点からしても、どうしたって他との共存や共栄が絶対に不可能なのは、外界を侵略し
危害を加えることで自分たちが繁栄することを根本教義としているユダヤ=キリスト両聖書教だけでしかない。
排他的であっても、イスラムのように自分たちからの他者への危害を未然に防いでいるのならまだ構わないが、
他者にホロコースト級の危害を加えることでの自分たちの繁栄を目論むことが根本中の根本教義で
あるのような邪教だけは、他信教との隔絶性を保った共存や共栄すらも期待することができない。
仏教や神道などにもある程度は排他的な指向があり、中には創価学会や平田学派のように、他信教への攻撃や廃絶を
目論む派閥も生じているわけだが、全体としては結局、他信教などとの共存や共栄を嗜んでおり、神仏習合や
修験道のような二人三脚的な協力関係すら築かれることもあった。道教やヒンズー教の神である七福神、
帝釈天や吉祥天なども日本で祭られ、神道の神などと共に、人々からの信敬の対象となって来た。
他との共存を徹底的に排除するのは、とにもかくにもアブラハム教であり、ユダヤ=キリスト両聖書教と共に、
イスラム教もその排他性の高さがよく知られている。しかし、イスラムの場合は、聖典コーランの教義によって
新旧約聖書の主要教義をことごとく無効化することで、他者への危害やそれによる自分たちの繁栄の正当化を
切り捨てているために、他信教を自分たちの間で廃絶することはあっても、外界に侵略の魔の手を伸ばしまでする
ことが抑制されているので、よそ様として静観しておく限りにおいては、そんなに迷惑をかけられることもない。
結局、世界の多様性を認める観点からしても、どうしたって他との共存や共栄が絶対に不可能なのは、外界を侵略し
危害を加えることで自分たちが繁栄することを根本教義としているユダヤ=キリスト両聖書教だけでしかない。
排他的であっても、イスラムのように自分たちからの他者への危害を未然に防いでいるのならまだ構わないが、
他者にホロコースト級の危害を加えることでの自分たちの繁栄を目論むことが根本中の根本教義で
あるのような邪教だけは、他信教との隔絶性を保った共存や共栄すらも期待することができない。
いま、俺が聖書教義の不当性を実証するために比較対象として挙げている四書五経、その四書五経を正典とする儒学は、
時には「儒教」として信教同然の扱いを受けることもあるが(主に韓国などで)、基本は純粋な思想哲学であり、
神道や仏教や道教などを他に信仰しながら、儒学をも純粋な学問として学ぶことが昔から伝統とされてきており、
他信教との共存が可能か以前に、多くの信教の調和的な共存を扶助する「縁の下の力持ち」でこそあった。
しかし、聖書信仰はその儒学すら認めず、儒学の人間道徳にも反する劣悪なカルト教義を触れ回って
人々を重権力犯罪にけしかけ、権力道徳の堅持こそを仕事とする儒学のお株すらをも奪ってしまう。
徹頭徹尾、他信教との共存が不可能なだけでなく、儒学のような正学との共存すら不可能な「カルト教学」、
それがユダヤ=キリスト両聖書教。浄土真宗の坊さんですら、四書五経の学術的価値ぐらいは認めているのに。
「我れ三人行えば必ず我が師を得。其の善き者を択びてこれに従い、其の善からざる者にしてこれを改む」
「私は三人で行動すれば必ずその中に師とすべき相手を見つける。善い模範を示す相手には倣い従うようにし、
悪い模範を示す相手はそれを反面教師として自重の材料にするから(儒家の多様性への寛容さを示した一例。
劣悪なカルト教義を擁する聖書信仰ですら、反面教師として自重材料にするぐらいのことはできる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・術而第七・二一より)
時には「儒教」として信教同然の扱いを受けることもあるが(主に韓国などで)、基本は純粋な思想哲学であり、
神道や仏教や道教などを他に信仰しながら、儒学をも純粋な学問として学ぶことが昔から伝統とされてきており、
他信教との共存が可能か以前に、多くの信教の調和的な共存を扶助する「縁の下の力持ち」でこそあった。
しかし、聖書信仰はその儒学すら認めず、儒学の人間道徳にも反する劣悪なカルト教義を触れ回って
人々を重権力犯罪にけしかけ、権力道徳の堅持こそを仕事とする儒学のお株すらをも奪ってしまう。
徹頭徹尾、他信教との共存が不可能なだけでなく、儒学のような正学との共存すら不可能な「カルト教学」、
それがユダヤ=キリスト両聖書教。浄土真宗の坊さんですら、四書五経の学術的価値ぐらいは認めているのに。
「我れ三人行えば必ず我が師を得。其の善き者を択びてこれに従い、其の善からざる者にしてこれを改む」
「私は三人で行動すれば必ずその中に師とすべき相手を見つける。善い模範を示す相手には倣い従うようにし、
悪い模範を示す相手はそれを反面教師として自重の材料にするから(儒家の多様性への寛容さを示した一例。
劣悪なカルト教義を擁する聖書信仰ですら、反面教師として自重材料にするぐらいのことはできる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・術而第七・二一より)
新旧約聖書こと権力犯罪聖書には、他民族や異教徒などへの一方的な迫害を正当化するサディズム的な記述と、
自分たちが信仰する神からの一方的な迫害などを嬉しがるマゾヒズム的な記述との両方が併記されている。
普通はその両者を区別したりはせず、神には迫害され、その鬱憤は他民族や異教徒に八つ当たりするという
ドミノ倒し的な負の連鎖が信者にあてがわれる。しかし、よりサディズム志向の強いものは、犯罪聖書中の
「他者への加害」を正当化したような記述を主に信仰の対象として、主人的な支配者になろうとし、逆に
よりマゾヒズム志向の強いものは、「他者からの被害」を美化したような記述を主に信仰の対象として、
奴隷的な被支配者になろうとする。結局は支配者から被支配者への一方的な迫害関係を正当化や美化した
「SMの書」であることが犯罪聖書の性向であり、君主から民までの調和こそを重んずる、
権力道徳聖書こと四書五経とは、性向の正常さ変態さ如何の部分で、特に際立った違いが見られる。
犯罪聖書中におけるサディズム的な記述は、「ヨシュア記」などにおけるホロコーストの正当化に極まる一方、
マゾヒズム的な記述は、それこそ「福音書(実際の内容は禍音書)」におけるイエスの受難に極まっている。
サディズム的な記述の極まる「ヨシュア記」などが旧約聖書に編入されている一方、禍音書は新約聖書の
筆頭とされているため、新旧約聖書両方を狂信するキリスト教徒のほうが、SMのドミノ倒しを自分たちで
肥大化させられた一方、旧約のみを狂信するユダヤ教徒のほうは、誰しもがSであろうとするために、
あまり自分たちの派閥規模を肥大化はさせられなかった。そもそもSMの変態志向がむやみに肥大化するほうが
卑しいことであり、信仰者がより多いからといってキリスト教のほうがユダヤ教よりもいいだなどとはいえず、
ユダヤがウ●コの塊である一方で、キリシタンのほうはウ●コにゲロがぶっかけられた程度の違いに過ぎない。
「爾、惟れ自ら鞠り自ら苦しむ」
「おまえたちは、自分たちで自分たちを窮地に追い込んで、自分たちで勝手に苦しんでいる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚中)
自分たちが信仰する神からの一方的な迫害などを嬉しがるマゾヒズム的な記述との両方が併記されている。
普通はその両者を区別したりはせず、神には迫害され、その鬱憤は他民族や異教徒に八つ当たりするという
ドミノ倒し的な負の連鎖が信者にあてがわれる。しかし、よりサディズム志向の強いものは、犯罪聖書中の
「他者への加害」を正当化したような記述を主に信仰の対象として、主人的な支配者になろうとし、逆に
よりマゾヒズム志向の強いものは、「他者からの被害」を美化したような記述を主に信仰の対象として、
奴隷的な被支配者になろうとする。結局は支配者から被支配者への一方的な迫害関係を正当化や美化した
「SMの書」であることが犯罪聖書の性向であり、君主から民までの調和こそを重んずる、
権力道徳聖書こと四書五経とは、性向の正常さ変態さ如何の部分で、特に際立った違いが見られる。
犯罪聖書中におけるサディズム的な記述は、「ヨシュア記」などにおけるホロコーストの正当化に極まる一方、
マゾヒズム的な記述は、それこそ「福音書(実際の内容は禍音書)」におけるイエスの受難に極まっている。
サディズム的な記述の極まる「ヨシュア記」などが旧約聖書に編入されている一方、禍音書は新約聖書の
筆頭とされているため、新旧約聖書両方を狂信するキリスト教徒のほうが、SMのドミノ倒しを自分たちで
肥大化させられた一方、旧約のみを狂信するユダヤ教徒のほうは、誰しもがSであろうとするために、
あまり自分たちの派閥規模を肥大化はさせられなかった。そもそもSMの変態志向がむやみに肥大化するほうが
卑しいことであり、信仰者がより多いからといってキリスト教のほうがユダヤ教よりもいいだなどとはいえず、
ユダヤがウ●コの塊である一方で、キリシタンのほうはウ●コにゲロがぶっかけられた程度の違いに過ぎない。
「爾、惟れ自ら鞠り自ら苦しむ」
「おまえたちは、自分たちで自分たちを窮地に追い込んで、自分たちで勝手に苦しんでいる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚中)
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「韓非子」第二巻・二柄第七では、韓の昭侯が、自分が居眠りしているときに着物をかけた役人を、
「職分を侵した越権行為である」として罰する話が出てくる。善いことであるにしろ悪いことであるにしろ、
命令を超えたことは絶対にしてはならないというのが法家の言い分であり、儒家はこの法家を自分たちよりも
程度の低いものとして劣後する一方で、完全に捨て去った「無法状態」になることもまた認めない。
今の刑法や民法に当たるような、事務的な法律を身勝手な理由で破ることは決して認めず、
その代わり、法律よりもさらに重大な理念である仁義や礼節に適った超法規的行為に限って認める。
法家と同じように、儒家もまた世俗の政治学である一方で、法律万能主義以上にも融通の利いた道徳統治によって
秦王朝のような短命には終わらない、恒久的な泰平社会の実現を画策していく。あくまで泰平のための貢献になる
道徳行為のみが超法規的行為であることも認めるのであり、ただの身勝手さが法規を破ることを認めるものではない。
「天子の地は方千里、千里ならざれば以て諸侯を待つに足らず。
諸侯の地は方百里、百里ならざれば以て宗廟の典籍を守るに足らず。
周公の魯に封ぜらるるや、方百里たり。地足らざるにはあらざるも、百里に倹せり。
太公の斉に封ぜらるるや、亦方百里たり。地足らざるにはあらざるも、百里に倹せり」
「昔、周の頃には天子の土地は千里四方と決められていた。千里四方はなければ諸侯を歓待することができなかったからだ。
そして諸侯の封土は百里四方と定められていた。百里四方はなければ宗廟の典籍に書いてある通りの儀式が執り行えなかったからだ。
(天子である武王の弟である)周公が魯に封ぜられた時も、その封土は百里四方だった。土地が足りなかったわけではないが、
天子への僭越を憚ってあえて百里四方に倹約した。(殷周革命における最大の功労者だった)太公望が斉に封ぜられた時も、
その封土はやはり百里四方だった。これまた土地が足りなかったわけではないが、天子に憚って百里四方に倹約した」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・八より)
「職分を侵した越権行為である」として罰する話が出てくる。善いことであるにしろ悪いことであるにしろ、
命令を超えたことは絶対にしてはならないというのが法家の言い分であり、儒家はこの法家を自分たちよりも
程度の低いものとして劣後する一方で、完全に捨て去った「無法状態」になることもまた認めない。
今の刑法や民法に当たるような、事務的な法律を身勝手な理由で破ることは決して認めず、
その代わり、法律よりもさらに重大な理念である仁義や礼節に適った超法規的行為に限って認める。
法家と同じように、儒家もまた世俗の政治学である一方で、法律万能主義以上にも融通の利いた道徳統治によって
秦王朝のような短命には終わらない、恒久的な泰平社会の実現を画策していく。あくまで泰平のための貢献になる
道徳行為のみが超法規的行為であることも認めるのであり、ただの身勝手さが法規を破ることを認めるものではない。
「天子の地は方千里、千里ならざれば以て諸侯を待つに足らず。
諸侯の地は方百里、百里ならざれば以て宗廟の典籍を守るに足らず。
周公の魯に封ぜらるるや、方百里たり。地足らざるにはあらざるも、百里に倹せり。
太公の斉に封ぜらるるや、亦方百里たり。地足らざるにはあらざるも、百里に倹せり」
「昔、周の頃には天子の土地は千里四方と決められていた。千里四方はなければ諸侯を歓待することができなかったからだ。
そして諸侯の封土は百里四方と定められていた。百里四方はなければ宗廟の典籍に書いてある通りの儀式が執り行えなかったからだ。
(天子である武王の弟である)周公が魯に封ぜられた時も、その封土は百里四方だった。土地が足りなかったわけではないが、
天子への僭越を憚ってあえて百里四方に倹約した。(殷周革命における最大の功労者だった)太公望が斉に封ぜられた時も、
その封土はやはり百里四方だった。これまた土地が足りなかったわけではないが、天子に憚って百里四方に倹約した」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・八より)
「虹」は陰陽の交接によって成り立つものとして、中国などでは「結婚」の象徴とされていた。
しかし、結婚だからといって一概にいいもの扱いもできず、男系社会では女子が男子の家に嫁ぐのが基本であり、
嫁いだ以上はその家の者となって、実家を離れることが親愛を損なうものともなることから、
女子があまり婚姻を積極的に欲することは無信無知の愚行とされ、結婚式でも「角隠し」などの、
女性性をあえて隠すような格好をすることが慣習とされていた。
キリスト教式の、花嫁がド派手なウェディングドレスを着ていかにも祝福され通しな結婚式などは、
自分を育ててくれた両親たちを棄てて、他の家に嫁ぐ女子の側の事情への配慮を全く欠いており、
到底男系社会の正統な風習には当たらない。神の愛の下での平等だの、個人主義だのの名目で父母親族
への恩愛を蔑ろにするその所業は無信無知の最たるものであり、それなりの儀式を執り行うにしても、
厳粛さを重んじてヘラヘラと祝福したりはしない東洋式の結婚式のほうが、本当は正しい。
「蝃蝀が東に在るを、之を敢えて指さす莫し。女子の行く有り、父母兄弟に遠ざかり。
朝隮の西に于れば、崇朝に其れ雨ふる。女子の行く有り、兄弟父母に遠ざかり。
乃れ之くの如き人、昏姻を懷えども、大しも信無く、命を知らざるなり」
「東の夕空に虹が昇れども、あえてこれを指さそうとはしない。女子が嫁ぎ行く時には、父母兄弟から遠ざかるもの。
西の朝空に虹が昇ったなら、日中は雨になることも見込まれる。女子が嫁ぎ行く時には、兄弟父母から遠ざかるもの。
欲情のあまり婚姻を急ぐような女子は、信用もならない上に、その命を知りも知らない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・鄘風・蝃蝀)
しかし、結婚だからといって一概にいいもの扱いもできず、男系社会では女子が男子の家に嫁ぐのが基本であり、
嫁いだ以上はその家の者となって、実家を離れることが親愛を損なうものともなることから、
女子があまり婚姻を積極的に欲することは無信無知の愚行とされ、結婚式でも「角隠し」などの、
女性性をあえて隠すような格好をすることが慣習とされていた。
キリスト教式の、花嫁がド派手なウェディングドレスを着ていかにも祝福され通しな結婚式などは、
自分を育ててくれた両親たちを棄てて、他の家に嫁ぐ女子の側の事情への配慮を全く欠いており、
到底男系社会の正統な風習には当たらない。神の愛の下での平等だの、個人主義だのの名目で父母親族
への恩愛を蔑ろにするその所業は無信無知の最たるものであり、それなりの儀式を執り行うにしても、
厳粛さを重んじてヘラヘラと祝福したりはしない東洋式の結婚式のほうが、本当は正しい。
「蝃蝀が東に在るを、之を敢えて指さす莫し。女子の行く有り、父母兄弟に遠ざかり。
朝隮の西に于れば、崇朝に其れ雨ふる。女子の行く有り、兄弟父母に遠ざかり。
乃れ之くの如き人、昏姻を懷えども、大しも信無く、命を知らざるなり」
「東の夕空に虹が昇れども、あえてこれを指さそうとはしない。女子が嫁ぎ行く時には、父母兄弟から遠ざかるもの。
西の朝空に虹が昇ったなら、日中は雨になることも見込まれる。女子が嫁ぎ行く時には、兄弟父母から遠ざかるもの。
欲情のあまり婚姻を急ぐような女子は、信用もならない上に、その命を知りも知らない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・鄘風・蝃蝀)
儒学は「儒教」として信仰対象となり、その正典である四書五経などが信仰の書とされることもある。
しかし基本は純粋な学問であり、その正典たる四書五経なども信仰されることを目的として書かれているのではない。
そのため「礼記」や「左伝」にも、親との遺言の約束を破って妾を殉死させなかった孝行息子の例などが挙げられているし、
「信を好みて学を好まざれば、その蔽や賊(陽貨第十七・八)」ともいう。強いて言うならば、契約を重んずる「信」というものを
仁義や礼といったより高尚な理念の下に置き、仁義や礼と選択肢が相反する場合には、仁義や礼を信よりも優先させることが
「五常(仁義礼智信)」の順列などの形で信仰対象とされる。しかし、この五常や、君臣父子夫婦の序列を貴ぶ「三綱」などとて、
殊更な狂信の対象とはせず、その学問的な価値を図り知ったうえで、シラフの実践対象とするほうがより善いに決まっている。
つまり、儒学はシラフの学問対象や実践対象となる「儒学」であるほうが、殊更な信仰対象にされる「儒教」であるよりも高尚なのであり、
韓国などに根付いた信仰対象としての儒教よりも、日本などに根付いた純粋な学問対象としての儒学のほうが高尚なのでもある。
朝鮮には神道に当たるような土着宗教が少ない一方で、キリスト教信仰は洗脳政策などを通じてまんまと受け入れたりと、
「信」に関して悪食に過ぎる所があり、それもまた、悪衣悪食を恥ずることを卑しむ論語の記述(里仁第四・九)などに
基づいて信仰対象とされているのかもしれない(実際にはこの記述は清貧を貴ぶ意味が込められているだけなのに)。
しかし基本は純粋な学問であり、その正典たる四書五経なども信仰されることを目的として書かれているのではない。
そのため「礼記」や「左伝」にも、親との遺言の約束を破って妾を殉死させなかった孝行息子の例などが挙げられているし、
「信を好みて学を好まざれば、その蔽や賊(陽貨第十七・八)」ともいう。強いて言うならば、契約を重んずる「信」というものを
仁義や礼といったより高尚な理念の下に置き、仁義や礼と選択肢が相反する場合には、仁義や礼を信よりも優先させることが
「五常(仁義礼智信)」の順列などの形で信仰対象とされる。しかし、この五常や、君臣父子夫婦の序列を貴ぶ「三綱」などとて、
殊更な狂信の対象とはせず、その学問的な価値を図り知ったうえで、シラフの実践対象とするほうがより善いに決まっている。
つまり、儒学はシラフの学問対象や実践対象となる「儒学」であるほうが、殊更な信仰対象にされる「儒教」であるよりも高尚なのであり、
韓国などに根付いた信仰対象としての儒教よりも、日本などに根付いた純粋な学問対象としての儒学のほうが高尚なのでもある。
朝鮮には神道に当たるような土着宗教が少ない一方で、キリスト教信仰は洗脳政策などを通じてまんまと受け入れたりと、
「信」に関して悪食に過ぎる所があり、それもまた、悪衣悪食を恥ずることを卑しむ論語の記述(里仁第四・九)などに
基づいて信仰対象とされているのかもしれない(実際にはこの記述は清貧を貴ぶ意味が込められているだけなのに)。
聖書信仰が信教として下劣な部類に入るのは誰しもが認めるところだが、儒学も儒教のような信仰対象にされるのでは、
あまりその教学の上等な享受であるとはいえない。信仰というものは神道や仏教、道教などのような、あまりにも高尚すぎて
常人には十分な実践も不可能な宗教などに対してこそ振り向けられるべきものであり、それが犯罪聖書でないのはもちろんのこと、
道徳聖書たる四書五経もまた、あまり適切な信仰対象には当たらない。信じるぐらいなら、シラフで実践してしまえ、四書五経。
「苓を采る苓を采る、首陽の嶺に。人の為言を、苟にも信ずる無かれ。
旃を舎てよ旃を舎てよ、苟にも然りとする無かれ。人の為言を、胡ぞ焉りとするを得ん」
「首陽山の頂きで、アマクサを摘み摘み想う。偽りだらけの人の言葉を、本当のことだなどと信じるな。アマクサは摘んでも、
人の言葉は捨て去り、仮にも『しかり』などとはするな。偽りだらけの人の言葉を、なぜ『しかり』などとできようか。
(人里はなれた山の頂きで山菜を積む詩。道家的な隠遁指向も垣間見られるが、
『首陽山』という辺り、伯夷・叔斉の気持ちを暗に代弁しているのだと思われる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・唐風・采苓より)
あまりその教学の上等な享受であるとはいえない。信仰というものは神道や仏教、道教などのような、あまりにも高尚すぎて
常人には十分な実践も不可能な宗教などに対してこそ振り向けられるべきものであり、それが犯罪聖書でないのはもちろんのこと、
道徳聖書たる四書五経もまた、あまり適切な信仰対象には当たらない。信じるぐらいなら、シラフで実践してしまえ、四書五経。
「苓を采る苓を采る、首陽の嶺に。人の為言を、苟にも信ずる無かれ。
旃を舎てよ旃を舎てよ、苟にも然りとする無かれ。人の為言を、胡ぞ焉りとするを得ん」
「首陽山の頂きで、アマクサを摘み摘み想う。偽りだらけの人の言葉を、本当のことだなどと信じるな。アマクサは摘んでも、
人の言葉は捨て去り、仮にも『しかり』などとはするな。偽りだらけの人の言葉を、なぜ『しかり』などとできようか。
(人里はなれた山の頂きで山菜を積む詩。道家的な隠遁指向も垣間見られるが、
『首陽山』という辺り、伯夷・叔斉の気持ちを暗に代弁しているのだと思われる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・唐風・采苓より)
「我聞くに曰く、至治の馨香、神明を感ぜしむ。黍稷馨わしきに非ず。明鄹惟れ馨わしきなり。
爾じ尚わくは時の周公の猷を式いて訓えよ。惟れ日に孜孜として、敢えて逸豫する無かれ」
「私の聞くことには、善政徳治を極めたことによる香気は、天地神明をも感動させるという。お供えの黍や粟が芳しいのではなく、
その明徳こそは芳しさとなるのだ。(臣下の君陳へ)おまえこそは願わくは、この周公の教えを用いて民を教導してほしい。
日々を孜孜として勤め励み、決して自らの逸楽ばかりに耽ったりすることがないようにせよ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君陳より)
「わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。
滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者にとっては命から命に至らせる香りです」
(権力犯罪聖書——通称聖書——コリント人への第二の脅迫文2:15-16)
爾じ尚わくは時の周公の猷を式いて訓えよ。惟れ日に孜孜として、敢えて逸豫する無かれ」
「私の聞くことには、善政徳治を極めたことによる香気は、天地神明をも感動させるという。お供えの黍や粟が芳しいのではなく、
その明徳こそは芳しさとなるのだ。(臣下の君陳へ)おまえこそは願わくは、この周公の教えを用いて民を教導してほしい。
日々を孜孜として勤め励み、決して自らの逸楽ばかりに耽ったりすることがないようにせよ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君陳より)
「わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。
滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者にとっては命から命に至らせる香りです」
(権力犯罪聖書——通称聖書——コリント人への第二の脅迫文2:15-16)
果たして、どちらの「香気」が真実の香気なのであるのかということは一旦置いておいて、
香気に対して賛辞を現そうとする周公の姿勢と、コリント脅迫文の作者の姿勢との相違に注目されたい。
後世にも、その善政を評価され続けている歴史的名臣であるにもかかわらず、周公はあくまで「自分はこのように聞く」という形で、
まるで他人事のように徳治が匂わせる香気を提示する。その香気は、天地神明をも感動させるものであり、天下万民を厚生へと
導くものであるから、むしろ為政者たる自分たちはその香気を独り占めにしようとしたりせず、逸楽に耽るようなことも
ないようにと念を押す。対してコリント脅迫文の作者のほうは、ハナっから香気を自分たちで独り占めにしようとする体でいて、
その香気が自分たちにばかり利益をもたらして、他者にはかえって危害を加えるものであることも明示している。
どちらが真の正義であり、もう一方が偽りの正義であるかということを、その契約を付託している神明の真偽を頼りに
するまでもなく、その正義を享受しようとしている者の側の姿勢の真摯さ如何の面で、明らかに道徳聖書たる四書五経のほうが
優良であり、犯罪聖書たる新旧約聖書のほうが劣悪。片や天下万民に利する仁義を旨とし、片や自分たちだけを利する我田引水に
終始しており、その享受者の行状の優劣良悪如何によって、すでにそれらの学知や教義を推進していった場合の結果は見えている。
香気に対して賛辞を現そうとする周公の姿勢と、コリント脅迫文の作者の姿勢との相違に注目されたい。
後世にも、その善政を評価され続けている歴史的名臣であるにもかかわらず、周公はあくまで「自分はこのように聞く」という形で、
まるで他人事のように徳治が匂わせる香気を提示する。その香気は、天地神明をも感動させるものであり、天下万民を厚生へと
導くものであるから、むしろ為政者たる自分たちはその香気を独り占めにしようとしたりせず、逸楽に耽るようなことも
ないようにと念を押す。対してコリント脅迫文の作者のほうは、ハナっから香気を自分たちで独り占めにしようとする体でいて、
その香気が自分たちにばかり利益をもたらして、他者にはかえって危害を加えるものであることも明示している。
どちらが真の正義であり、もう一方が偽りの正義であるかということを、その契約を付託している神明の真偽を頼りに
するまでもなく、その正義を享受しようとしている者の側の姿勢の真摯さ如何の面で、明らかに道徳聖書たる四書五経のほうが
優良であり、犯罪聖書たる新旧約聖書のほうが劣悪。片や天下万民に利する仁義を旨とし、片や自分たちだけを利する我田引水に
終始しており、その享受者の行状の優劣良悪如何によって、すでにそれらの学知や教義を推進していった場合の結果は見えている。
徳治社会では「礼楽刑政」として、政治や刑務の上にすら置かれる「礼楽」の基本原理を示した以下の記述。
楽しみは内にあってそれが徳性の輝きとなり、外面は礼節によって正されることで理性の極みと化す。
内も外も楽しむのでもなければ、内も外も理性によって雁字搦めになるのでもない、調和と従順の中庸を行く徳治。
東洋文化は、外貌的には楚々としてド派手さなどを控えたものが多いが、それは内面の楽との調和を図ってのことであり、
内外共に理性で雁字搦めにされるニヒリスムの表れなどではない。西洋文化などは、内外ともどもお花畑状態の宗教文化と、
内外ともどもニヒリズム状態な無宗教文化の両極端に振れきっているが、内は楽しみ、外は礼に律されという中庸を保った
文化のあり方は未だかつて無く、太古の昔から根本的な部分での中庸をわきまえている、東洋文化の手堅さには感服させられる。
「樂は内に動くものなり、禮は外に動くものなり。樂は和を極め、禮は順を極む。
内和らぎて外順なるときは、則ち民其の顏色を瞻て與に爭わざるなり。其の容貌を望みて、民易慢を生ぜず。
故に鄹輝内に動きて、民承け聽きかざると莫く、理外に發して、民承け順わざるとなし」
「礼楽の楽は内面を躍動させ、礼は外面を制動させる。楽は調和を極める作用を持ち、礼は従順を極める作用を持つ。
内面に調和があって外面が従順であるときには、民はその顔色を見るだけでも共に争わぬようになる。
その容貌を見るだけで軽率な侮りを抱かぬようになり、徳性の輝きが内にこそ躍動して、
民は何事も聞き入れぬことがなく、理性の働きは外に発して、民はどんな命令にも聞き従わぬことがない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・樂記第十九より)
楽しみは内にあってそれが徳性の輝きとなり、外面は礼節によって正されることで理性の極みと化す。
内も外も楽しむのでもなければ、内も外も理性によって雁字搦めになるのでもない、調和と従順の中庸を行く徳治。
東洋文化は、外貌的には楚々としてド派手さなどを控えたものが多いが、それは内面の楽との調和を図ってのことであり、
内外共に理性で雁字搦めにされるニヒリスムの表れなどではない。西洋文化などは、内外ともどもお花畑状態の宗教文化と、
内外ともどもニヒリズム状態な無宗教文化の両極端に振れきっているが、内は楽しみ、外は礼に律されという中庸を保った
文化のあり方は未だかつて無く、太古の昔から根本的な部分での中庸をわきまえている、東洋文化の手堅さには感服させられる。
「樂は内に動くものなり、禮は外に動くものなり。樂は和を極め、禮は順を極む。
内和らぎて外順なるときは、則ち民其の顏色を瞻て與に爭わざるなり。其の容貌を望みて、民易慢を生ぜず。
故に鄹輝内に動きて、民承け聽きかざると莫く、理外に發して、民承け順わざるとなし」
「礼楽の楽は内面を躍動させ、礼は外面を制動させる。楽は調和を極める作用を持ち、礼は従順を極める作用を持つ。
内面に調和があって外面が従順であるときには、民はその顔色を見るだけでも共に争わぬようになる。
その容貌を見るだけで軽率な侮りを抱かぬようになり、徳性の輝きが内にこそ躍動して、
民は何事も聞き入れぬことがなく、理性の働きは外に発して、民はどんな命令にも聞き従わぬことがない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・樂記第十九より)
四書五経に頻出する「君子」という言葉は、元来は「君主の子弟」という意味であり、
商業を含む産業に従事する「小人」よりは上に当たるものの、君主には臣従する中間管理職的な存在。
儒家の祖である孔子もまた、「君臣侯公大夫士農工商」のうちの、ちょうど真ん中付近に当たる士大夫の身分であり、
一時的には魯国の宰相に抜擢されるなどして、魯侯に仕える公子となったこともあった。
それもただ、そうだったというだけではなく、士大夫や公子として謹厳な振る舞いに徹することが、
ありのままに「君子」としての理想的なあり方を体現していたからで、上位の王侯に対する悌順な忠節と、
下位の小人(農工商民など)に対する慈しみ深き厳格さとの両方を備えていることから、親に対して孝行な子供、
子に対して厳しくも情深き親である人間の模範にすらなったから、今でもその道徳性の高さが向学対象とされている。
とはいえ今の世の中は、民主制か、さもなくば軍事独裁制かという、独裁者か下民かのいずれかに大権が牛耳られるしか
選択肢がない、全く中庸を欠いた政治状態にあるため、君主と民衆の架け橋となる、士大夫のような中間管理職的な
人間の権限が一切認められず、よって士大夫こそが模範となる君子のあり方も十分に体現されることすらない。
商工民が経書をかじって実践などをしようとした所で、所詮はごっこ遊びにしかならず、ちゃんと政治的な責任を背負い、
万人を利して我が利ともする仁義道徳に根ざしてこそ君子たり得るものなので、我田引水こそは根本目的である
商工民が君子になろうとしたところで、たいまつを掲げながら消火活動を試みるようなざまとなる。
「邦に道あれば則ち仕え、邦に道なければ則ち巻きてこれを懐にすべし」
「天下国家に仁義道徳が通用している時には人に仕え、通用していない時にはその志しをくるんで懐に隠しておく。
(とにかく人に服して諂っていればそれでいい小人とは違い、君子には仕えるべきものとそうでないものがある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——衛霊公第十五・七より)
商業を含む産業に従事する「小人」よりは上に当たるものの、君主には臣従する中間管理職的な存在。
儒家の祖である孔子もまた、「君臣侯公大夫士農工商」のうちの、ちょうど真ん中付近に当たる士大夫の身分であり、
一時的には魯国の宰相に抜擢されるなどして、魯侯に仕える公子となったこともあった。
それもただ、そうだったというだけではなく、士大夫や公子として謹厳な振る舞いに徹することが、
ありのままに「君子」としての理想的なあり方を体現していたからで、上位の王侯に対する悌順な忠節と、
下位の小人(農工商民など)に対する慈しみ深き厳格さとの両方を備えていることから、親に対して孝行な子供、
子に対して厳しくも情深き親である人間の模範にすらなったから、今でもその道徳性の高さが向学対象とされている。
とはいえ今の世の中は、民主制か、さもなくば軍事独裁制かという、独裁者か下民かのいずれかに大権が牛耳られるしか
選択肢がない、全く中庸を欠いた政治状態にあるため、君主と民衆の架け橋となる、士大夫のような中間管理職的な
人間の権限が一切認められず、よって士大夫こそが模範となる君子のあり方も十分に体現されることすらない。
商工民が経書をかじって実践などをしようとした所で、所詮はごっこ遊びにしかならず、ちゃんと政治的な責任を背負い、
万人を利して我が利ともする仁義道徳に根ざしてこそ君子たり得るものなので、我田引水こそは根本目的である
商工民が君子になろうとしたところで、たいまつを掲げながら消火活動を試みるようなざまとなる。
「邦に道あれば則ち仕え、邦に道なければ則ち巻きてこれを懐にすべし」
「天下国家に仁義道徳が通用している時には人に仕え、通用していない時にはその志しをくるんで懐に隠しておく。
(とにかく人に服して諂っていればそれでいい小人とは違い、君子には仕えるべきものとそうでないものがある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——衛霊公第十五・七より)
なんと、「平和」という言葉の出典も四書五経の「礼記」。
聖徳太子が十七条憲法で引用した「和を以て貴しと為す」という名言も「礼記」儒行第四十一にあり、
真摯なる礼節のわきまえと共にこそ、平らかなる人々の調和が叶えられるのであると分かる。
親族兄弟での殺し合いすら予言しているようなカルト教祖に付いていって、
平和の徳が衰滅させられることこそあれ、隆盛することなどあるはずもなく。
「土敝ゆるときは則と草木を長ぜず、水煩しきときは則ち魚鼈大ならず、氣衰ふるときは則ち生物遂げず、世亂るるときは則ち
禮慝にして樂淫す。是の故に其の聲哀しんで莊そかならず、樂しんで安からず、慢易して以て節を犯し、流湎して以て本を忘る。
廣きときは則ち奸を容れ、狹きときは則ち欲を思う。條暢の氣を感ぜしめて平和の鄹を滅す。是を以て君子は之を賤しむなり」
「土壌が痩せている時には草木も長大には育たず、漁期も決めずに乱獲していれば魚介類も獲れなくなり、そうでなくても、
冬のように気候が寒冷となる頃には生物の活動も衰える。それと同じように、世が乱れているときには礼節も隠されて、
人々も礼楽には当たらないような淫らな快楽に耽るようになる。そのため人々の声はいつも哀しみを帯びて荘重さを失い、
無理に楽しもうとしたところでどこまでも安らかならぬ渇望に苛まれる。驕慢安易にして節度を侵し、だらしなさに溺れて
物事の根本を見失う。寛容であろうとする時には奸邪を受け入れ、狭量であろうとする時には私利私欲ばかりを守ろうとする。
(仁者なら、寛容であろうとする時には天下万民の利益を受け入れ、狭量であろうとする時には奸邪を排しようとするだろう)
天地に満たされた伸びやかなる気に不埒な感傷を与えて平和の徳を衰滅させる。君子はこのようなことこそを賤しむ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
礼楽が覆い隠されて、奸邪を受け入れて仁義に狭量な、驕慢さ安易さばかりはびこる現代は、まさに「人類の冬」だといえる。
聖徳太子が十七条憲法で引用した「和を以て貴しと為す」という名言も「礼記」儒行第四十一にあり、
真摯なる礼節のわきまえと共にこそ、平らかなる人々の調和が叶えられるのであると分かる。
親族兄弟での殺し合いすら予言しているようなカルト教祖に付いていって、
平和の徳が衰滅させられることこそあれ、隆盛することなどあるはずもなく。
「土敝ゆるときは則と草木を長ぜず、水煩しきときは則ち魚鼈大ならず、氣衰ふるときは則ち生物遂げず、世亂るるときは則ち
禮慝にして樂淫す。是の故に其の聲哀しんで莊そかならず、樂しんで安からず、慢易して以て節を犯し、流湎して以て本を忘る。
廣きときは則ち奸を容れ、狹きときは則ち欲を思う。條暢の氣を感ぜしめて平和の鄹を滅す。是を以て君子は之を賤しむなり」
「土壌が痩せている時には草木も長大には育たず、漁期も決めずに乱獲していれば魚介類も獲れなくなり、そうでなくても、
冬のように気候が寒冷となる頃には生物の活動も衰える。それと同じように、世が乱れているときには礼節も隠されて、
人々も礼楽には当たらないような淫らな快楽に耽るようになる。そのため人々の声はいつも哀しみを帯びて荘重さを失い、
無理に楽しもうとしたところでどこまでも安らかならぬ渇望に苛まれる。驕慢安易にして節度を侵し、だらしなさに溺れて
物事の根本を見失う。寛容であろうとする時には奸邪を受け入れ、狭量であろうとする時には私利私欲ばかりを守ろうとする。
(仁者なら、寛容であろうとする時には天下万民の利益を受け入れ、狭量であろうとする時には奸邪を排しようとするだろう)
天地に満たされた伸びやかなる気に不埒な感傷を与えて平和の徳を衰滅させる。君子はこのようなことこそを賤しむ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
礼楽が覆い隠されて、奸邪を受け入れて仁義に狭量な、驕慢さ安易さばかりはびこる現代は、まさに「人類の冬」だといえる。
「封神演義」などの小説にも見られる、酒池肉林や炮烙の刑といった、殷の紂王の悪行の数々、
中には事実であるものもあれば、創作であるものもあり、中国史上にも稀に見る悪玉の暴君として、
半ば誇張気味にすらその悪行が後世に伝えられることとなった。
そのあまりの悪評高さに、孔子の弟子の子貢も「噂ほどにはひどくなかっただろう(子張第十九・二〇)」
と述べており、誇張気味の悪評がすでに、孔子の生きた春秋時代末期にも定着していたことが分かる。
しかし、紂王の悪行三昧も全くの創作というわけではなく、酒池肉林や炮烙の刑も実際にやったようだし、
何よりも「詩経」や「書経」などに、文王や武王が紂王の悪行三昧に苦言を呈したり、ついに放伐せんという
時の誓いの言葉などにおいて、本当に紂王がやっていた中でも致命的だった悪行が事細かに述べられている。
すでにここでも何度も引用しているところだが、簡単に言えば「奸邪を受け入れて小利を貪る」、
具体的には、賢臣や君子を退け佞臣や小人ばかりを近づけ、挙句には盗賊集団とまでも手を組み、
無辜の市民を襲っては利益を奪い去り、君主の身でありながら私利私欲ばかりを貪るといったもの。
(>>174の「詩経」大雅からの引用や、>>196の「書経」周書からの引用を参照)
これこそは、典型的な権力犯罪者の姿であり、酒池肉林のような私的な享楽以上にも致命的に許されない部分。
「史記」貨殖列伝冒頭で司馬遷も「最低の為政者は民と争う」と言っているが、自らが治めるべき民を敵に回し、
権力を順当な統治のためではなく、民の虐げのために乱用するようになる。小利を貪ることも純粋な商売人であれば
そんなに大きな問題とはならず、奸邪に走ることですら純粋な盗賊であるのみならば、十分な村八分を受けて
そんなに大きな被害をもたらすこともない。しかし、人の上に立つ権力者こそは奸邪や小利と結びつき、
子供のようなわがままを権力の嵩にかかって押し通すようになった時には、その危害たるや半端なものではなく、
天下全土が「人類の冬」とでも言えるほどの荒廃に陥ってしまう。
中には事実であるものもあれば、創作であるものもあり、中国史上にも稀に見る悪玉の暴君として、
半ば誇張気味にすらその悪行が後世に伝えられることとなった。
そのあまりの悪評高さに、孔子の弟子の子貢も「噂ほどにはひどくなかっただろう(子張第十九・二〇)」
と述べており、誇張気味の悪評がすでに、孔子の生きた春秋時代末期にも定着していたことが分かる。
しかし、紂王の悪行三昧も全くの創作というわけではなく、酒池肉林や炮烙の刑も実際にやったようだし、
何よりも「詩経」や「書経」などに、文王や武王が紂王の悪行三昧に苦言を呈したり、ついに放伐せんという
時の誓いの言葉などにおいて、本当に紂王がやっていた中でも致命的だった悪行が事細かに述べられている。
すでにここでも何度も引用しているところだが、簡単に言えば「奸邪を受け入れて小利を貪る」、
具体的には、賢臣や君子を退け佞臣や小人ばかりを近づけ、挙句には盗賊集団とまでも手を組み、
無辜の市民を襲っては利益を奪い去り、君主の身でありながら私利私欲ばかりを貪るといったもの。
(>>174の「詩経」大雅からの引用や、>>196の「書経」周書からの引用を参照)
これこそは、典型的な権力犯罪者の姿であり、酒池肉林のような私的な享楽以上にも致命的に許されない部分。
「史記」貨殖列伝冒頭で司馬遷も「最低の為政者は民と争う」と言っているが、自らが治めるべき民を敵に回し、
権力を順当な統治のためではなく、民の虐げのために乱用するようになる。小利を貪ることも純粋な商売人であれば
そんなに大きな問題とはならず、奸邪に走ることですら純粋な盗賊であるのみならば、十分な村八分を受けて
そんなに大きな被害をもたらすこともない。しかし、人の上に立つ権力者こそは奸邪や小利と結びつき、
子供のようなわがままを権力の嵩にかかって押し通すようになった時には、その危害たるや半端なものではなく、
天下全土が「人類の冬」とでも言えるほどの荒廃に陥ってしまう。
殷の紂王よりもさらに以前にいたとされる夏の桀王も、同様な悪行三昧に走ったせいで湯王の放伐を被ったというし、
秦の始皇帝なども、法律万能主義という武器を盾にしてはいたものの、その内実は上記のような暴君とも
代わる所がなかった。そして今の、法律万能主義にさらに「民主主義」という盾を二重に重ねた現代社会の政治体制も、
結局は内面に夏桀殷紂のごとき、権力犯罪による暴虐三昧の種を宿したままでいることには代わりなく、君主の徳性が
根本のところから正されていく権力道徳の条件を満たせていない点は同じ。奸邪の受け入れは民主主義によって
高度に正当化され、小利の貪りは資本主義によって高度に正当化された上で延命を続けており、さも悪性のガンが
強力な抗ガン剤によって何とか進行を防がれているものの、ガンそのものの治療はほったらかしにされているかの如く。
「王の所に在る者、長幼卑尊、皆な薛居州ならば、王誰と與にか不善を為さん。
王の所に在る者、長幼卑尊、皆な薛居州に非ざれば也、王誰と與にか善を為さん」
「王君に近侍するものが、年齢の長幼や身分の貴賤を問わず、皆な薛居州のような賢人ならば、王は誰と共に不善をなし得ようか。
また王君に近侍するものが、年齢の長幼や身分の貴賤を問わず、皆な薛居州のような賢人でないとすれば、王は誰と共に善をなし得ようか。
(問題は年齢の長幼や身分の貴賤以上にも、各人の徳性が正されていることである。そのためには当然、長幼貴賤の序も必要となるが)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・六より)
秦の始皇帝なども、法律万能主義という武器を盾にしてはいたものの、その内実は上記のような暴君とも
代わる所がなかった。そして今の、法律万能主義にさらに「民主主義」という盾を二重に重ねた現代社会の政治体制も、
結局は内面に夏桀殷紂のごとき、権力犯罪による暴虐三昧の種を宿したままでいることには代わりなく、君主の徳性が
根本のところから正されていく権力道徳の条件を満たせていない点は同じ。奸邪の受け入れは民主主義によって
高度に正当化され、小利の貪りは資本主義によって高度に正当化された上で延命を続けており、さも悪性のガンが
強力な抗ガン剤によって何とか進行を防がれているものの、ガンそのものの治療はほったらかしにされているかの如く。
「王の所に在る者、長幼卑尊、皆な薛居州ならば、王誰と與にか不善を為さん。
王の所に在る者、長幼卑尊、皆な薛居州に非ざれば也、王誰と與にか善を為さん」
「王君に近侍するものが、年齢の長幼や身分の貴賤を問わず、皆な薛居州のような賢人ならば、王は誰と共に不善をなし得ようか。
また王君に近侍するものが、年齢の長幼や身分の貴賤を問わず、皆な薛居州のような賢人でないとすれば、王は誰と共に善をなし得ようか。
(問題は年齢の長幼や身分の貴賤以上にも、各人の徳性が正されていることである。そのためには当然、長幼貴賤の序も必要となるが)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・六より)
しかし、本当に充実した毎日を遅らせてもらっている。
毎日四書五経から短文を引いて寸評を加える、ただそれだけで
どこまでも精神の健全さを保ち、心の修養にも努められる。
科挙のエリートだと、四十過ぎまで経書の勉強を続けてもまだ半人前扱い
される場合があったそうだが、それほどにも漢学の度量は深いということだ。
願わくば、おまえら全員が檻の中に入って道徳労働が可能となってから、
俺もそれなりの仕事をしながら経書の勉強も続けていきたいものだ。
毎日四書五経から短文を引いて寸評を加える、ただそれだけで
どこまでも精神の健全さを保ち、心の修養にも努められる。
科挙のエリートだと、四十過ぎまで経書の勉強を続けてもまだ半人前扱い
される場合があったそうだが、それほどにも漢学の度量は深いということだ。
願わくば、おまえら全員が檻の中に入って道徳労働が可能となってから、
俺もそれなりの仕事をしながら経書の勉強も続けていきたいものだ。
四書五経はあくまで、世に出てバリバリ働くことを奨励している書物であり、
「老子」「荘子」「列子」のような隠遁志向に根ざした書物ではない。
俗世の世知辛さをも最大級に受け止めて、それを乗り越えるだけの徳性を蓄えつつ
世に打って出るための精神的な武器として有効である書物。その徳性も、あくまで
自己修養を旨としており、脳内超越神への依存などによって陶酔状態に陥ることで、
俗世の世知辛さを苦痛として感じることもないマヒ状態に陥ったりするわけでもない。
ただ、経書の勉強とそれによる自己修養によって養われた徳性が
全く活かされもしないような賤業に携わらされることは、絶対に非とまではしないまでも、
是とまでもしない。四書五経はあくまで勤労を「奨励」する書物であって、「義務化」
する書物ではないから、どんな仕事でもいいから働いとけば是、働かなければ非なんていう
蒙昧な主張はどこを読んでも見当たらない。二宮金次郎の報徳思想なども、このような
経書の記述などを参考に勤労を奨励しており、隠遁志向の道家の学なども多少は学んだ上で、
勤労を義務化はせずとも奨励する儒家などの教えを追認する形で奨励してもいる。
近現代の日本人は、特に小中学校の校庭などに飾られている金次郎像などから、
さも二宮金次郎こそは、現憲法の27条にも記載されている勤労の義務化を提唱した人間だ
などと思い込んでいる場合があるが、二宮金次郎はあくまで勤労を「奨励」したのみであり、
その思想哲学的な根拠も、四書五経のような立派な正学によっている。勤労を奨励するのではなく
義務化して、どんな仕事でもいいからとにかく働いとけというエコノミックアニマル志向を
日本人に植え付けたのは、現憲法を創案したGHQであり、その論拠は旧約犯罪聖書における
アダムとイブの楽園追放寓話などでこそある。決して二宮金次郎の報徳思想や、その論拠でもある
四書五経によってではなく、カルト宗教の邪義によってこそ、日本人は牛馬のようにこき使われている
「老子」「荘子」「列子」のような隠遁志向に根ざした書物ではない。
俗世の世知辛さをも最大級に受け止めて、それを乗り越えるだけの徳性を蓄えつつ
世に打って出るための精神的な武器として有効である書物。その徳性も、あくまで
自己修養を旨としており、脳内超越神への依存などによって陶酔状態に陥ることで、
俗世の世知辛さを苦痛として感じることもないマヒ状態に陥ったりするわけでもない。
ただ、経書の勉強とそれによる自己修養によって養われた徳性が
全く活かされもしないような賤業に携わらされることは、絶対に非とまではしないまでも、
是とまでもしない。四書五経はあくまで勤労を「奨励」する書物であって、「義務化」
する書物ではないから、どんな仕事でもいいから働いとけば是、働かなければ非なんていう
蒙昧な主張はどこを読んでも見当たらない。二宮金次郎の報徳思想なども、このような
経書の記述などを参考に勤労を奨励しており、隠遁志向の道家の学なども多少は学んだ上で、
勤労を義務化はせずとも奨励する儒家などの教えを追認する形で奨励してもいる。
近現代の日本人は、特に小中学校の校庭などに飾られている金次郎像などから、
さも二宮金次郎こそは、現憲法の27条にも記載されている勤労の義務化を提唱した人間だ
などと思い込んでいる場合があるが、二宮金次郎はあくまで勤労を「奨励」したのみであり、
その思想哲学的な根拠も、四書五経のような立派な正学によっている。勤労を奨励するのではなく
義務化して、どんな仕事でもいいからとにかく働いとけというエコノミックアニマル志向を
日本人に植え付けたのは、現憲法を創案したGHQであり、その論拠は旧約犯罪聖書における
アダムとイブの楽園追放寓話などでこそある。決して二宮金次郎の報徳思想や、その論拠でもある
四書五経によってではなく、カルト宗教の邪義によってこそ、日本人は牛馬のようにこき使われている
「景春曰く、公孫衍・張儀は豈に誠に大丈夫ならざるや。一たび怒れば而ち諸侯懼れ、安居すれば而ち天下熄う。
孟子曰く、是れ焉んぞ大丈たるを得んや・子未だ禮を學ばざるか。丈夫の冠するや、父之れを命じ、女子の嫁ぐや、母之れを命ず。
往きて之を門に送り、之れを戒めて曰く、往きて女の家に之き、必ず敬みて必ず戒め、夫子に違うこと無かれと。(以下の引用は既出)
順うを以て正しと為すは、妾婦の道なり。天下の廣居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行く。志を得れば民と與に之れに由り、
志を得ざれば獨り其の道を行う。富貴も淫する能わず、貧賤も移うる能わず、威武も屈する能わず。此れを之れ大丈夫と謂えり」
「景春がいった。『(外交家として名を馳せた)公孫衍や張儀こそは大丈夫と言えるのではないでしょうか。なにしろ彼らが怒れば、
諸侯の離間工作によって戦争を巻き起こすために諸侯は恐懼し、逆に彼らが安息して居れば、天下はみな平穏でいるのですから』
孟子はいった。『そんなことで、なぜ大丈夫だなどと言えようか。男子が元服するときには、父がこれに大人としての心得を教え、
女子が嫁ぐときには母が婦女としての心得を教える。女子を実家の門まで送っては之を戒めて、これからあなたの家ともなる夫の家に
嫁いでは、必ず慎み戒めて夫に逆らうようなことが無いようにと教える。このように、従うを以て正しいと為すは婦女においてのみ正しい
とされることであり、諸侯に媚びへつらって外交を引き受けることが仕事である、公孫衍や張儀などが大丈夫であるなどとは到底いえない。
諸侯に諂ったりすることもなく、天下全土をわが家として広く居住まい、天下全土において正しき位に立ち、天下全土に通ずる大道を歩む。
志を叶えられる仕事に与れば、民と共にその仕事に励み、志を叶えられる仕事に与れなければ、たった独りであろうとも道に即している。
富貴の誘惑も乱すことはできず、貧賤の苦しみも変節させるには足らず、武力による威嚇も屈させるに値しない、これをこそ大丈夫という』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・二)
孟子曰く、是れ焉んぞ大丈たるを得んや・子未だ禮を學ばざるか。丈夫の冠するや、父之れを命じ、女子の嫁ぐや、母之れを命ず。
往きて之を門に送り、之れを戒めて曰く、往きて女の家に之き、必ず敬みて必ず戒め、夫子に違うこと無かれと。(以下の引用は既出)
順うを以て正しと為すは、妾婦の道なり。天下の廣居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行く。志を得れば民と與に之れに由り、
志を得ざれば獨り其の道を行う。富貴も淫する能わず、貧賤も移うる能わず、威武も屈する能わず。此れを之れ大丈夫と謂えり」
「景春がいった。『(外交家として名を馳せた)公孫衍や張儀こそは大丈夫と言えるのではないでしょうか。なにしろ彼らが怒れば、
諸侯の離間工作によって戦争を巻き起こすために諸侯は恐懼し、逆に彼らが安息して居れば、天下はみな平穏でいるのですから』
孟子はいった。『そんなことで、なぜ大丈夫だなどと言えようか。男子が元服するときには、父がこれに大人としての心得を教え、
女子が嫁ぐときには母が婦女としての心得を教える。女子を実家の門まで送っては之を戒めて、これからあなたの家ともなる夫の家に
嫁いでは、必ず慎み戒めて夫に逆らうようなことが無いようにと教える。このように、従うを以て正しいと為すは婦女においてのみ正しい
とされることであり、諸侯に媚びへつらって外交を引き受けることが仕事である、公孫衍や張儀などが大丈夫であるなどとは到底いえない。
諸侯に諂ったりすることもなく、天下全土をわが家として広く居住まい、天下全土において正しき位に立ち、天下全土に通ずる大道を歩む。
志を叶えられる仕事に与れば、民と共にその仕事に励み、志を叶えられる仕事に与れなければ、たった独りであろうとも道に即している。
富貴の誘惑も乱すことはできず、貧賤の苦しみも変節させるには足らず、武力による威嚇も屈させるに値しない、これをこそ大丈夫という』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・二)
1日ネット三昧か・・・
「戸を出でずして以て天下を知り、まどをうかがわずして以て天道を見る」とは老子の言であり、
同様の引きこもり業を実践して大悟した話が「列子」にも出てくる。
確かにそれは行き過ぎなことで、四書五経でそんなひきこもり志向が賞賛されているわけでもなく、
治水事業などのために、家に帰る間もなく方々を駆け回り、すね毛をすり減らして晩年には跛足と化した
夏王朝の創始者禹王などが、道家では批判の対象とされる一方で、儒家では評価の対象とされる。
しかし、実際問題として、乱世において儒家が通用する機会は極めて少なく、
楚漢戦争中に劉邦直属の説客として諸国を駆け回った老儒者の酈食其も、
味方であった将軍韓信の妬み込みな追い落としによって、説得先の斉で煮殺されることとなった。
「儒者は進取を共にするは難く、守成を共にするは可なり」と、自身も儒者だった叔孫通までもが
言っており、ある程度情勢の落ち着いた世の中であるならともかく、乱世における非常的な
処世法としては、儒学は到底有効であるとは言えず、目的のために選ばれない手段としての兵家や、
一切何もせずに引きこもることでストライキ状態に入る道家などのほうが有効ではある。
天下統一後も、諸侯の反乱や匈奴の侵略などでしばらくは情勢が落ち着ききらなかった前漢の初期にも、
呂后や文帝といった劉邦の後継者までもが、無為自然か、さもなくば規制緩和かといったような、
民衆の抑え付けを極力排した道家的統治を実践することで、事態の平穏化と民力の温存に努め、
武帝の代に至ることでついにその隆盛も極まり、蛮族匈奴も滅亡するなどして泰平が確立されたため、
董仲舒などを用いて儒学を官学化し、道家的統治によってこそ進取された泰平を、儒家によって守成する目処が立った。
同様の引きこもり業を実践して大悟した話が「列子」にも出てくる。
確かにそれは行き過ぎなことで、四書五経でそんなひきこもり志向が賞賛されているわけでもなく、
治水事業などのために、家に帰る間もなく方々を駆け回り、すね毛をすり減らして晩年には跛足と化した
夏王朝の創始者禹王などが、道家では批判の対象とされる一方で、儒家では評価の対象とされる。
しかし、実際問題として、乱世において儒家が通用する機会は極めて少なく、
楚漢戦争中に劉邦直属の説客として諸国を駆け回った老儒者の酈食其も、
味方であった将軍韓信の妬み込みな追い落としによって、説得先の斉で煮殺されることとなった。
「儒者は進取を共にするは難く、守成を共にするは可なり」と、自身も儒者だった叔孫通までもが
言っており、ある程度情勢の落ち着いた世の中であるならともかく、乱世における非常的な
処世法としては、儒学は到底有効であるとは言えず、目的のために選ばれない手段としての兵家や、
一切何もせずに引きこもることでストライキ状態に入る道家などのほうが有効ではある。
天下統一後も、諸侯の反乱や匈奴の侵略などでしばらくは情勢が落ち着ききらなかった前漢の初期にも、
呂后や文帝といった劉邦の後継者までもが、無為自然か、さもなくば規制緩和かといったような、
民衆の抑え付けを極力排した道家的統治を実践することで、事態の平穏化と民力の温存に努め、
武帝の代に至ることでついにその隆盛も極まり、蛮族匈奴も滅亡するなどして泰平が確立されたため、
董仲舒などを用いて儒学を官学化し、道家的統治によってこそ進取された泰平を、儒家によって守成する目処が立った。
引きこもりすらも全肯定する、道家はあくまで非常手段であり、総員テロリスト状態と化しているような
乱世に冷や水をぶっかける、消火栓的な役割のみを担う。総員テロリスト状態の乱世の中でも、
特にその主導者であるような連中が、軒並み自滅して死ぬなり投獄されるなりした上で、元凶根絶後の世の中の
ほうの泰平も確立されてから初めて、儒家による守成的な泰平統治も確立されていく。今はまだ、儒家までもが
絵に描いた餅状態であり、実際の餅を作って食べるようになるのは、その餅を食べるに値しない奴らがいなくなってから。
「富にして求むべくんば、執鞭の士と雖も、吾れ亦た之れを為さん。如し求むべからずんば、吾が好む所に從わん」
「(邦に道が行われて労働即道徳ともなり、)富すらも求めていいようならば、鞭をもつ市場の監督のような、しがない仕事すら
やっても構わない。しかし、(邦に道が行われず行動即犯罪となって未だ)求めてはいけないようならば、好きなようにやっていよう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・術而第七・一一より)
乱世に冷や水をぶっかける、消火栓的な役割のみを担う。総員テロリスト状態の乱世の中でも、
特にその主導者であるような連中が、軒並み自滅して死ぬなり投獄されるなりした上で、元凶根絶後の世の中の
ほうの泰平も確立されてから初めて、儒家による守成的な泰平統治も確立されていく。今はまだ、儒家までもが
絵に描いた餅状態であり、実際の餅を作って食べるようになるのは、その餅を食べるに値しない奴らがいなくなってから。
「富にして求むべくんば、執鞭の士と雖も、吾れ亦た之れを為さん。如し求むべからずんば、吾が好む所に從わん」
「(邦に道が行われて労働即道徳ともなり、)富すらも求めていいようならば、鞭をもつ市場の監督のような、しがない仕事すら
やっても構わない。しかし、(邦に道が行われず行動即犯罪となって未だ)求めてはいけないようならば、好きなようにやっていよう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・術而第七・一一より)

キリスト教徒の脳内にもその映像が備わる。それによって「我が心のうちにイエスがいらっしゃる」ということになって、
どんなに悪いことをしても、脳内の十字架に張り付けられたおっさんが、自分の代わりに罪を償ってくれた気になる。
キリスト教徒は、「鏡映認知障害者」だということだ。
キリストの偶像なんかではなく、鏡をのぞき見すらすれば、そこには紛う方なき自分自身の鏡像が映る。
その自分自身に関しての鏡映認知は疎かにして、自分自身とは全く別個の存在でしかない、十字架にかけられたおっさんを
自分自身と同等の姿だと思い込み、利権を貪る重権力犯罪者などでいながら、自らの罪が磔によって償われた気になっている。
稚拙なもんだ。少しも上等な宗教信仰でないのはもちろんのこと、そのカラクリからして子供だましであり、
子供だって多少賢けりゃ騙されるとも限らない。鏡映認知能力は、高等生物である人類の大部分はもちろんのこと、
人間の3歳児相当の知能を持つチンパンジーですら備えているというから、まさにキリスト教徒はチンパンジー以下。
異人種をサル扱いしていた白人のキリスト教徒たちこそは、
そのサル以下の知能の持ち主であることが、自分たちの宗教信仰のお粗末さによってこそ明らか。
「賢を見ては斉しからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省みる」
「すぐれた人を見れば自分もあやかろうと思い、低能な輩を見ればわが心の内に帰り、自らを反省する。
(相手が賢者であるにしろ低能であるにしろ、自他の別個性を踏まえた上で、
自らがどうあるべきかを別におもんばかる。健全な鏡映認知に即した戒め)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・一七より)

鏡映認知障害者なら、たとえばこの聖母子像を見ただけでも、まるで自分が聖母マリアに愛されているような気分になれる。
実際には、本人自身は画中のイエスのように赤ん坊であるわけでもなければ、自分がそのイエスのように、
聖母マリアに愛されているわけでもない。それでも、自分が目視したものが何でも自分自身に見えてしまう
鏡映認知障害者ならば、まるで自分自身が画中の赤ん坊になって、自分自身が美人の母親に愛されているような気になれる。
人間の3歳児と同等の知能を持つとされる、チンパンジーの成獣よりもさらに低い知能しか持ち合わせていないのが
鏡映認知障害者なわけだから、自分自身が3歳以下の赤ん坊であると思わせられることにも、確かに納得がいく。
そしてその、3歳以下の赤ん坊が愛されるようにして、自分もまた聖母に愛されていると思い込んで悦に入る。
これが、キリスト教で「神の愛」とか「キリストの愛」とか言われているものの正体。
鏡映認知の不全によって、十字架にかけられたイエスを見ただけで、さもそれが自分自身の姿であるかのように思い込んだり、
マリアに抱きかかえられている赤ん坊のイエスを見ただけで、まるで自分がそのイエスのように愛されている気になったりする。
気のせいだ。
全くの「気のせい」で、キリストを信仰するキリスト教徒たち自身が、イエスのように十字架にかけられて刑死したわけでもなければ、
赤ん坊であるイエスのようにマリアに抱きかかえられているわけでもない。刑死して罪が償われたのも気のせいなら、聖母に抱きかかえられて
寵愛されているのも気のせい。贖罪も偽物なら、愛も偽物。単なる気のせいに過ぎないを贖罪や愛を、ただ執拗に信じ込んでいるのみ。
「愛すらも気のせい」ってのが、本当にイタイところだ。ラブゲーをやって、登場人物に愛されたつもりになってるオタク並みか、
それ以上にもイタイ。ラブゲーはまだ、愛されムードをそれなりに演出してるから、多少バカなぐらいでも感情移入できるだろうが、
磔刑像や聖母子像はその演出すらなく、ただ十字架にかけられたおっさんを見ただけで自分自身の罪が償われた気になったり、
仲睦まじい母子像を見ただけで、自分が母親に愛されている赤ん坊になった気でいたりしてるんだから、ラブゲー以上にも真性だ。
偽物の虚構を本物だと信じ込む病理にかけてこそ、聖書信仰はラブゲー以上にも真性の深刻さを帯びているといえる。
それ以上にもイタイ。ラブゲーはまだ、愛されムードをそれなりに演出してるから、多少バカなぐらいでも感情移入できるだろうが、
磔刑像や聖母子像はその演出すらなく、ただ十字架にかけられたおっさんを見ただけで自分自身の罪が償われた気になったり、
仲睦まじい母子像を見ただけで、自分が母親に愛されている赤ん坊になった気でいたりしてるんだから、ラブゲー以上にも真性だ。
偽物の虚構を本物だと信じ込む病理にかけてこそ、聖書信仰はラブゲー以上にも真性の深刻さを帯びているといえる。
削除(by投稿者)
ここで主に引用してるのは仏典ではなく四書五経だが。
漢籍と仏典の区別も付かないのだろうか?
浄土三部経中の「観無量寿経」は、サンスクリット原典が遺失して漢訳版しか残っていない。
「十住心論」や「教行信証」は原漢文で、「論語」や「左伝」などの漢籍からの引用もある。
「正法眼蔵」や「歎異抄」に至っては原文から和文。インドの土着宗教であるバラモン・ヒンズー教ならともかく、
仏教は古来からインドという国を超えた全世界的な広がりを見せており、宗祖の達磨から
中国で布教を行い始めた禅仏教など、インドには元から存在しない仏教宗派もある。
始祖の釈迦から言語に囚われない布教を重んじて、サンスクリットよりも権威性の劣るマガダ語やパーリ語での
布教も行った。サンスクリット原典での精査が必要なのは、仏典よりもむしろヴェーダやウパニシャッドのほうだ。
漢籍も、今はこうやって原文読み下しと訳文で精査している。白文や訓点のみで読めればなおのこと善いだろうが、
古代の純漢文は現代中国語ともずいぶん読み方が異なっているようだし、日本語独特の読み回しにも味わいがある。
日本語による注釈がまだ未遂状態な、中国正史や全唐詩、朱子語類などの大部分は、嫌でもそのまま読まなけりゃならないが、
すでに注釈の行き届いている漢籍は、無理して原典にこだわるよりは、読み下しや訳文からでも、その内容の吟味に
努めたほうがいいと思う。金科玉条に掲げる以上にも、実用書として有用なことが漢籍には多く書かれているから。
「爾と偕に老いんとせしに、老ゆれば我れを怨ましむ。淇には則ち岸有り、隰には則ち泮有り。
總角の宴げ、言笑も晏晏と。信を誓うも旦旦たり、其の反らんことを思わざる。反らんこと是れ思わざれば、亦た已ぬるかな」
「あなたと共に老いることを誓ったというのに、老いてはもはやあなたを怨むばかり。川には岸があり、沢には水際があるように、
何事にも必ず限界がある。揚巻髪を結うほどにも幼い少女だった頃には、笑い話すも愉快で、信仰を誓うも深沈たるものだったのに、
もはやあの頃が返ってくるなどとは想像もつかない。あの頃が返ってくることなど諦めて、もうこれまでにしましょうね」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・衛風・氓より)
漢籍と仏典の区別も付かないのだろうか?
浄土三部経中の「観無量寿経」は、サンスクリット原典が遺失して漢訳版しか残っていない。
「十住心論」や「教行信証」は原漢文で、「論語」や「左伝」などの漢籍からの引用もある。
「正法眼蔵」や「歎異抄」に至っては原文から和文。インドの土着宗教であるバラモン・ヒンズー教ならともかく、
仏教は古来からインドという国を超えた全世界的な広がりを見せており、宗祖の達磨から
中国で布教を行い始めた禅仏教など、インドには元から存在しない仏教宗派もある。
始祖の釈迦から言語に囚われない布教を重んじて、サンスクリットよりも権威性の劣るマガダ語やパーリ語での
布教も行った。サンスクリット原典での精査が必要なのは、仏典よりもむしろヴェーダやウパニシャッドのほうだ。
漢籍も、今はこうやって原文読み下しと訳文で精査している。白文や訓点のみで読めればなおのこと善いだろうが、
古代の純漢文は現代中国語ともずいぶん読み方が異なっているようだし、日本語独特の読み回しにも味わいがある。
日本語による注釈がまだ未遂状態な、中国正史や全唐詩、朱子語類などの大部分は、嫌でもそのまま読まなけりゃならないが、
すでに注釈の行き届いている漢籍は、無理して原典にこだわるよりは、読み下しや訳文からでも、その内容の吟味に
努めたほうがいいと思う。金科玉条に掲げる以上にも、実用書として有用なことが漢籍には多く書かれているから。
「爾と偕に老いんとせしに、老ゆれば我れを怨ましむ。淇には則ち岸有り、隰には則ち泮有り。
總角の宴げ、言笑も晏晏と。信を誓うも旦旦たり、其の反らんことを思わざる。反らんこと是れ思わざれば、亦た已ぬるかな」
「あなたと共に老いることを誓ったというのに、老いてはもはやあなたを怨むばかり。川には岸があり、沢には水際があるように、
何事にも必ず限界がある。揚巻髪を結うほどにも幼い少女だった頃には、笑い話すも愉快で、信仰を誓うも深沈たるものだったのに、
もはやあの頃が返ってくるなどとは想像もつかない。あの頃が返ってくることなど諦めて、もうこれまでにしましょうね」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・衛風・氓より)
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キリスト教徒こそは渇望の塊であり、七つの海を駆け回ってまでの世界侵略に及んだこともその現れでこそある。
最終的な世界侵略の優位者となったのはイギリスなどのプロテスタント勢力だったが、日本の戦国時代あたりまでは
スペインやポルトガルなどのカトリック勢力の侵略行為も活発で、日本に初めてキリスト教を伝染させたザビエルも
ポルトガルの宣教屋だった。今ではオカルト扱いされている南アメリカのマヤ文明なども、早い話がカトリック勢力からの
ホロコースト被害に遭っただけで、イギリス人によるタスマニア原住民のホロコーストとも並んで、
人類が“完遂”させた民族浄化の数少ない実例となっている。
ここ2、30年におけるキリスト教勢力による地球規模での人類史上未曾有の大虐殺も、その温床はといえば
遥か以前にまで遡り、コロンブスがアメリカ大陸を発見した1492年あたりから、キリスト教勢力による外界侵略の
魔の手はすでに伸ばされ始めており、しかもホロコーストのような大権力犯罪をも古来からずっと伴いつつある。
>>104図中の資本主義先進国による虐殺被害も、あくまでここ2、30年の被害だけに限っており、100年前や200年前にも、
ここまで数的には多くないにしろ、同じような蛮行をキリスト教徒は繰り返してきており、七つの海すら飲み干さんとする、
重大犯罪行為への際限ない渇望を根絶させるためには、もはやキリスト教全体の破棄が免れ得ないことが明らかとなっている。
「衡門の下、以て棲遲す可し。泌の洋洋たる、以て飢えを樂す可し」
「かやぶきの粗末な家でも、のどかな暮らしはできる。したたる程の泉水だけでも、飢渇を癒すには十分だ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・陳風・衡門より)
最終的な世界侵略の優位者となったのはイギリスなどのプロテスタント勢力だったが、日本の戦国時代あたりまでは
スペインやポルトガルなどのカトリック勢力の侵略行為も活発で、日本に初めてキリスト教を伝染させたザビエルも
ポルトガルの宣教屋だった。今ではオカルト扱いされている南アメリカのマヤ文明なども、早い話がカトリック勢力からの
ホロコースト被害に遭っただけで、イギリス人によるタスマニア原住民のホロコーストとも並んで、
人類が“完遂”させた民族浄化の数少ない実例となっている。
ここ2、30年におけるキリスト教勢力による地球規模での人類史上未曾有の大虐殺も、その温床はといえば
遥か以前にまで遡り、コロンブスがアメリカ大陸を発見した1492年あたりから、キリスト教勢力による外界侵略の
魔の手はすでに伸ばされ始めており、しかもホロコーストのような大権力犯罪をも古来からずっと伴いつつある。
>>104図中の資本主義先進国による虐殺被害も、あくまでここ2、30年の被害だけに限っており、100年前や200年前にも、
ここまで数的には多くないにしろ、同じような蛮行をキリスト教徒は繰り返してきており、七つの海すら飲み干さんとする、
重大犯罪行為への際限ない渇望を根絶させるためには、もはやキリスト教全体の破棄が免れ得ないことが明らかとなっている。
「衡門の下、以て棲遲す可し。泌の洋洋たる、以て飢えを樂す可し」
「かやぶきの粗末な家でも、のどかな暮らしはできる。したたる程の泉水だけでも、飢渇を癒すには十分だ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・陳風・衡門より)
罪があったり無かったりする程度の世の中では、罪の有無が有罪と無罪を分け、
誰しもに罪がある乱世においては、罪の軽重が有罪と無罪を分ける。
誰しもが贋金作りに奔走していた武帝期の漢において、その首謀者や責任者にこそ重罰が科され、
大多数の従犯民は恩赦で赦免されたように(「史記」平準書参照)、どこもかしこもが
罪で溢れ返っている世の中における、相応の断罪方法もまたちゃんと用意されている。
今ならば、金融犯罪の主導者や、その重大共犯である各界の権力者などが、実際に断罪される人間となる。
一方で、罪で溢れ返る世の中を根本から画策していく、聖書信仰のようなカルト信教もまた、
人としてではなく文化として断罪され、18禁メディア並みに村八分を受けた扱いとなる。
中国や日本の大部分では今もそうだが、全世界地球人類誰しもが、カルト信仰依存から卒業する。
「悠悠たる昊天、曰く父母なり。罪無く辜無きに、亂此くの如く憮いなり。
昊天已なはだ威あり、予れ慎に罪無し。昊天泰だ憮いなり、予れ慎に辜無し」
「雄大にして見晴るかす上天よ、わが父母よ。我こそは無罪にして無辜なれるも、世の乱れはかくのごとく痛ましい。
さりとて上天の畏怖も甚だしく、かつ我に真に罪は無し。上天もまた世の乱れを悼むも、我に真に罪は無し」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)
誰しもに罪がある乱世においては、罪の軽重が有罪と無罪を分ける。
誰しもが贋金作りに奔走していた武帝期の漢において、その首謀者や責任者にこそ重罰が科され、
大多数の従犯民は恩赦で赦免されたように(「史記」平準書参照)、どこもかしこもが
罪で溢れ返っている世の中における、相応の断罪方法もまたちゃんと用意されている。
今ならば、金融犯罪の主導者や、その重大共犯である各界の権力者などが、実際に断罪される人間となる。
一方で、罪で溢れ返る世の中を根本から画策していく、聖書信仰のようなカルト信教もまた、
人としてではなく文化として断罪され、18禁メディア並みに村八分を受けた扱いとなる。
中国や日本の大部分では今もそうだが、全世界地球人類誰しもが、カルト信仰依存から卒業する。
「悠悠たる昊天、曰く父母なり。罪無く辜無きに、亂此くの如く憮いなり。
昊天已なはだ威あり、予れ慎に罪無し。昊天泰だ憮いなり、予れ慎に辜無し」
「雄大にして見晴るかす上天よ、わが父母よ。我こそは無罪にして無辜なれるも、世の乱れはかくのごとく痛ましい。
さりとて上天の畏怖も甚だしく、かつ我に真に罪は無し。上天もまた世の乱れを悼むも、我に真に罪は無し」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)
中国で管仲や子産などによって初めて体系化され、それより少し後に古代ローマなどでも提唱された法律万能主義、
法家それ自体は、すでに子産の代において批判の対象とされ、「左伝」昭公六年に、成文法を公布した子産を
書簡を通じて大批判する叔向の弁が載せられている。儒家の正典である「左伝」にあえてそのような
史実が記録されているあたり、儒家もまた反法家であるかのように思われかねないが、別に儒家は法家を
完全否定するのではなく、法律よりもより積極的な修善志向としての道徳を、法律にさらに上乗せしているのみ。
ちょうど、仏教よりも100年ほど早くザラスシュトラによって提唱された拝火教(ゾロアスター教)における、
最高神アフラ・マズダーに付託しながらの善徳信仰が、より積極的な善徳の自力修習に努める仏教よりも
程度の低いものとはされながらも、密教の一部や浄土教などにおいて参考にされているのと同じ。
法律で罪悪を禁止すること、善徳を他力信仰に付託することなどは、それらもまた修善であるには違いないが、
あくまで消極的な修善であるが故に、より積極的な修善に努める儒家や自力仏教と比べれば、程度が低い。
別に法律や他力信仰を敵に回すわけではないが、道徳や真理修得はさらにそれらの上にあるということ。
法律を敵に回して罪悪への他力信仰に没入するカルト教義などは、道義上の敵に回すことにもなるだろうが、
法律や善徳への他力信仰に対しては、あまり頼りにはならないが、道義上相反するという所まではいかない。
悪法によって善悪がみそくそにされるようなことに対しても、悪法を特定して非難するのみであり、
善法の遵守にかけては、儒家は単なる法家以上にも積極的ですらあるのだ。
「君子は法を行いて、以て命を俟つのみ」
「君子は人としての法度にかなった行いに努めた上で、後は天命を待つのみである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三三より)
法家それ自体は、すでに子産の代において批判の対象とされ、「左伝」昭公六年に、成文法を公布した子産を
書簡を通じて大批判する叔向の弁が載せられている。儒家の正典である「左伝」にあえてそのような
史実が記録されているあたり、儒家もまた反法家であるかのように思われかねないが、別に儒家は法家を
完全否定するのではなく、法律よりもより積極的な修善志向としての道徳を、法律にさらに上乗せしているのみ。
ちょうど、仏教よりも100年ほど早くザラスシュトラによって提唱された拝火教(ゾロアスター教)における、
最高神アフラ・マズダーに付託しながらの善徳信仰が、より積極的な善徳の自力修習に努める仏教よりも
程度の低いものとはされながらも、密教の一部や浄土教などにおいて参考にされているのと同じ。
法律で罪悪を禁止すること、善徳を他力信仰に付託することなどは、それらもまた修善であるには違いないが、
あくまで消極的な修善であるが故に、より積極的な修善に努める儒家や自力仏教と比べれば、程度が低い。
別に法律や他力信仰を敵に回すわけではないが、道徳や真理修得はさらにそれらの上にあるということ。
法律を敵に回して罪悪への他力信仰に没入するカルト教義などは、道義上の敵に回すことにもなるだろうが、
法律や善徳への他力信仰に対しては、あまり頼りにはならないが、道義上相反するという所まではいかない。
悪法によって善悪がみそくそにされるようなことに対しても、悪法を特定して非難するのみであり、
善法の遵守にかけては、儒家は単なる法家以上にも積極的ですらあるのだ。
「君子は法を行いて、以て命を俟つのみ」
「君子は人としての法度にかなった行いに努めた上で、後は天命を待つのみである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三三より)

知能指数も、全体平均の100前後もあれば十分に理解できるような、平易な表現が尽くされている。
しかし、常時IQ100前後はないと、さすがに分からない。
たとえ一時的にであろうとも、知能指数をチンパンジーよりも低い40以下、
20や30といった重度の知的障害者レベルにまで引き落とすカルト教義などに陥っていたのなら、
たとえIQ180や200の天才であろうとも、四書五経の内容を理解することはできない。
極端な低能にも高知能にもぶれない、人としてのまっとうな知能を堅持し続けられている「庸徳」の持ち主だけが、
四書五経の内容も理解することができ、まさに知能の高低からの中庸を儒学は守り通しているといえる。
IQ100程度のまともな知能を堅持した上で、さらに高い知能を目指すのは全く構わないことで、
大乗仏教の密教や禅などが特に、高い知能と徳性を共に要求される内容になっているので、それらに「進学」してもいい。
ただ、知的障害レベルの低能から、急に天才や秀才を目指すのは全くの手順の取り違えであり、
まずは凡人並みの品性を修得することが先決。常にIQ100程度ではい続けることだ。
「凡そ我れの造れる邦、彝ならざるに從うこと無かれ。慆淫に即す無かれ。各おの爾の典を守りて、以て天の休を承けよ」
「私の創造した国家においては、中庸を欠いた常ならぬことどもに従ってはならぬ。驕りに任せて極端なことをしてはならぬ。
各々がそれぞれの身分に即した法度を守ることで、天の定められた大いなる命を請け従うのだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・湯誥)
キリスト教徒は、当然のこととして“常時”キリスト教徒でもある。
仮りに知能テストを受けて人並みのIQだと認定されたり、一流大学に合格したり一流企業に入社したりしたとしても、
やっぱり当人は常時キリスト教徒でいる。聖書から洗礼名をもらってたり、西洋人だと実名から聖書の引用だったりもし、
常日ごろいつでもキリスト者でいるように心がける。
それはつまり、いつでも必ず自らの知能指数を20〜30程度の重度知的障害レベルにまで引き落とす
用意ができているということで、チンパンジー級の鏡映認知能力すらも失った迷妄によって自らをキリストだなどと思い込み、
磔刑を受けて生き返った気になることで、どんなに重い罪を犯してもすでにその罪が償われたような気になる。
知的障害者が必ずしも犯罪者であるわけではないし、心神喪失をいいことに罪を犯して回る素養を蓄えているわけでもない。
しかし、キリスト教徒こそは、社会活動を行える程度の器質的な知能も備えながら、社会人にあるまじき犯罪行為などに
手を染めた時には、キリスト信仰によって知能を重度知的障害レベルにまで退行させて、自分自身が檻の中に入って
ちゃんと刑罰を受けたわけでもないのに、すでに自分自身の罪が償われたようなつもりになっている。
キリスト教徒こそは、人工的な知的障害の悪用者であり、IQ20〜30程度の重度知的障害レベルへの知能退行が、
罪を罪として認識し、罪悪感を抱くこともできなくなることを逆手にとって、その部分だけを宗教信仰として祭り上げることで、
どんな罪を犯しても罪悪感のかけらも抱かない精神薄弱者にすら社会的な延命の余地を与えたのがキリスト教でもある。
仮りに知能テストを受けて人並みのIQだと認定されたり、一流大学に合格したり一流企業に入社したりしたとしても、
やっぱり当人は常時キリスト教徒でいる。聖書から洗礼名をもらってたり、西洋人だと実名から聖書の引用だったりもし、
常日ごろいつでもキリスト者でいるように心がける。
それはつまり、いつでも必ず自らの知能指数を20〜30程度の重度知的障害レベルにまで引き落とす
用意ができているということで、チンパンジー級の鏡映認知能力すらも失った迷妄によって自らをキリストだなどと思い込み、
磔刑を受けて生き返った気になることで、どんなに重い罪を犯してもすでにその罪が償われたような気になる。
知的障害者が必ずしも犯罪者であるわけではないし、心神喪失をいいことに罪を犯して回る素養を蓄えているわけでもない。
しかし、キリスト教徒こそは、社会活動を行える程度の器質的な知能も備えながら、社会人にあるまじき犯罪行為などに
手を染めた時には、キリスト信仰によって知能を重度知的障害レベルにまで退行させて、自分自身が檻の中に入って
ちゃんと刑罰を受けたわけでもないのに、すでに自分自身の罪が償われたようなつもりになっている。
キリスト教徒こそは、人工的な知的障害の悪用者であり、IQ20〜30程度の重度知的障害レベルへの知能退行が、
罪を罪として認識し、罪悪感を抱くこともできなくなることを逆手にとって、その部分だけを宗教信仰として祭り上げることで、
どんな罪を犯しても罪悪感のかけらも抱かない精神薄弱者にすら社会的な延命の余地を与えたのがキリスト教でもある。
キリスト教徒すなわち器質からの知的障害者ではなく、IQ100を超えるような常人レベルの知能の持ち主でもあり得る。
しかし、連中がキリストを信仰している限りにおいては、少なからず重度知的障害レベルにまで知能退行している部分がある。
人としてそれなりの社会活動を行う知能と、重度知的障害級の低能とを同時に持ち合わせた精神分裂病患者でもあり、
重度知的障害であるのみならず、重度精神障害でもあるため、あらゆる行為能力を剥奪された禁治産者であることが適当。
IQ100程度の、人としての当たり前な品性を保ち続けることが「庸徳(中庸)」であり、これもまた君子の徳目であるから、
部分的にでも知能を重度知的障害レベルに引き落とすようなことすらあってはならず、もちろんそのような知能退行と、
人並みの知能や高知能の両刀使いである分裂病者であったりしてもいけない。別にIQが180や200でなくてもいいから、
常にIQ100程度ではあり続けること。IQ20〜30などにわざと知能を退行させるような薄徳には絶対に及ばぬこと。
「孰れか微生高を直と謂わん。或るひと醯を乞う、諸れを其の鄰りに乞いて之れを與う」
「誰が微生高のことを正直だなどと言ったのか。あやつの所に酢をもらいに行ったら、
自分も隣人から酢をもらって来てそれを与え、うわべだけを取り繕ったという。どこが正直なものか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・二四より)
しかし、連中がキリストを信仰している限りにおいては、少なからず重度知的障害レベルにまで知能退行している部分がある。
人としてそれなりの社会活動を行う知能と、重度知的障害級の低能とを同時に持ち合わせた精神分裂病患者でもあり、
重度知的障害であるのみならず、重度精神障害でもあるため、あらゆる行為能力を剥奪された禁治産者であることが適当。
IQ100程度の、人としての当たり前な品性を保ち続けることが「庸徳(中庸)」であり、これもまた君子の徳目であるから、
部分的にでも知能を重度知的障害レベルに引き落とすようなことすらあってはならず、もちろんそのような知能退行と、
人並みの知能や高知能の両刀使いである分裂病者であったりしてもいけない。別にIQが180や200でなくてもいいから、
常にIQ100程度ではあり続けること。IQ20〜30などにわざと知能を退行させるような薄徳には絶対に及ばぬこと。
「孰れか微生高を直と謂わん。或るひと醯を乞う、諸れを其の鄰りに乞いて之れを與う」
「誰が微生高のことを正直だなどと言ったのか。あやつの所に酢をもらいに行ったら、
自分も隣人から酢をもらって来てそれを与え、うわべだけを取り繕ったという。どこが正直なものか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・二四より)
中には器質からの知的障害であるキリスト教徒もいるだろうが、大部分のキリスト教徒は、
脳構造からの器質的な欠陥によって物理的に知能が低下している、完全な知的障害者(脳機能障害者)ではない。
ただ、劣悪なカルト信仰によって、人工的に自らの知能を重度知的障害レベルにまで低下させることで、
実害を伴う罪を犯した場合などにおける、罪悪感が全く抱けない状態に自分たちを追い込んでいる。
常時IQ20〜30程度である脳機能障害者であれば、全く法律行為などを行う能力も持たないため、
自力で金融詐欺のような知能犯罪に及ぶこともできない。しかし、キリスト教徒やユダヤ教徒の場合は
器質的な脳機能障害ではないので、法律行為や商業行為などを行う上での必要な能力を持てないこともない。
しかし、それらの行為能力の濫用によって他者に実害を加えた場合などに、IQ100程度の常識的な知能を
持つ人間であれば当然抱くような罪悪感を、IQ20〜30程度の低能状態に自らを追い込むカルト信仰によって
かなぐり捨てるために、聖書信者は、罪悪感を捨て去るための便宜的手段として知能退行を悪用しているといえる。
脳構造からの器質的な欠陥によって物理的に知能が低下している、完全な知的障害者(脳機能障害者)ではない。
ただ、劣悪なカルト信仰によって、人工的に自らの知能を重度知的障害レベルにまで低下させることで、
実害を伴う罪を犯した場合などにおける、罪悪感が全く抱けない状態に自分たちを追い込んでいる。
常時IQ20〜30程度である脳機能障害者であれば、全く法律行為などを行う能力も持たないため、
自力で金融詐欺のような知能犯罪に及ぶこともできない。しかし、キリスト教徒やユダヤ教徒の場合は
器質的な脳機能障害ではないので、法律行為や商業行為などを行う上での必要な能力を持てないこともない。
しかし、それらの行為能力の濫用によって他者に実害を加えた場合などに、IQ100程度の常識的な知能を
持つ人間であれば当然抱くような罪悪感を、IQ20〜30程度の低能状態に自らを追い込むカルト信仰によって
かなぐり捨てるために、聖書信者は、罪悪感を捨て去るための便宜的手段として知能退行を悪用しているといえる。
IQ100程度の知的健常者でい続けることもできなくはないため、聖書信者は完全な知的障害者としての
条件を満たしているとはいえない。しかし、犯罪行為に手を染めたりしても全く罪悪感を抱かないような
サイコパス状態に自らを追い込むために、重度知的障害レベルへの知能退行を実現するカルト信仰を
悪用していることは、「重度精神障害」の条件を満たしてはいるといえる。
それどころか、犯罪行為による罪悪感の払拭のために、重度知的障害レベルへの知能退行を悪用することは、
あらゆる精神障害の中でも最も深刻かつ重度な障害であるといえ、ただ自分自身が何もできない、
働くことも悪いこともできないというような症状を伴う精神障害以上にも、最も危険極まりない障害だといえる。
ただ何もできなくなるだけの精神障害ならば、別に人さまに迷惑をかけることもなく、最悪でも自分自身が
貧窮して餓死したりするだけでしかない。しかし、犯罪行為に伴う罪悪感を、人工的な知能退行によって払拭することで
際限のない犯罪行為に手を染めるような症状を伴う精神障害こそは、人さまに迷惑をかけて死傷にも追い込むものだから、
これこそは最も厳重な行為能力制限下に置かれる必要があるといえ、あらゆる法律行為の自力での行使を剥奪される
成年被後見人などの、最重度の禁治産者として扱われることが適切かつ急務であるといえる。
「君子野に在り、小人位に在り。民棄てて保んぜず。天之に咎を降す」
「賢明な君子は野に放擲され、低能な小人ばかりが位について栄華を誇る。そのために天も災いを下して咎めている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・大禹謨より)
条件を満たしているとはいえない。しかし、犯罪行為に手を染めたりしても全く罪悪感を抱かないような
サイコパス状態に自らを追い込むために、重度知的障害レベルへの知能退行を実現するカルト信仰を
悪用していることは、「重度精神障害」の条件を満たしてはいるといえる。
それどころか、犯罪行為による罪悪感の払拭のために、重度知的障害レベルへの知能退行を悪用することは、
あらゆる精神障害の中でも最も深刻かつ重度な障害であるといえ、ただ自分自身が何もできない、
働くことも悪いこともできないというような症状を伴う精神障害以上にも、最も危険極まりない障害だといえる。
ただ何もできなくなるだけの精神障害ならば、別に人さまに迷惑をかけることもなく、最悪でも自分自身が
貧窮して餓死したりするだけでしかない。しかし、犯罪行為に伴う罪悪感を、人工的な知能退行によって払拭することで
際限のない犯罪行為に手を染めるような症状を伴う精神障害こそは、人さまに迷惑をかけて死傷にも追い込むものだから、
これこそは最も厳重な行為能力制限下に置かれる必要があるといえ、あらゆる法律行為の自力での行使を剥奪される
成年被後見人などの、最重度の禁治産者として扱われることが適切かつ急務であるといえる。
「君子野に在り、小人位に在り。民棄てて保んぜず。天之に咎を降す」
「賢明な君子は野に放擲され、低能な小人ばかりが位について栄華を誇る。そのために天も災いを下して咎めている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・大禹謨より)
たまには外の空気吸えよ
孔子孟子老子荘氏荀子列子墨子韓非子鬼谷子恵子公孫龍子・・・
中国諸子百家にあてられている「子」という文字は、今の「師」という意味で、
「子曰く」とは「先生は仰った」という意味にあたる。
今の日本だと、女子の名に用いられる「〜子(こ)」とも混同されかねないため、
ここで「論語」などからの引用を行う時には、「子曰」をあえて省いたり、
文脈上省けない場合にも「孔先生は言った」などと置き換えたりしている。
ただ、論語の大部分の格言が「子曰」に始まっているのは周知のことで、
あらゆる師の中でも最高の師にあたる孔子の格言であることから、
固有名詞である「孔」も抜きにして、「子曰」とのみ冠した上で言葉が述べられている。
「墨子」だと「子墨子曰」になっているし、「孟子」でも「孟子曰」になっている。
固有名詞抜きの「子曰」といえば、なんといっても孔子の専売特許であり、
孔子こそは、全世界全人類にとっての代表中の代表たる師であるといえる。
ところで、孔子は何の「師」かといえば、教学の師だ。教師中の教師であり、学師中の学師。
別に、奇術師中の奇術師でもなければ、ペテン師中のペテン師でもないから、
奇術師やペテン師にこそ特有の奇を衒った言行などはどこにも見当たらない。
むしろ、模範的な教師たらんとするあまり、堅物すぎるような言行すら見られ、
有名進学塾の名物教師などのような、サービス精神にも乏しいところがある。
善くも悪しくも、それが模範的な教師としてのあり方であり、
生徒を善い方向に教導するためにこそ、己れの研鑽に対して真摯であろうとする。
それでこそ教師としては理想的なのであり、奇術師やペテン師や詐欺師などとは違う。
「堅物だから教師に相応しくなく、奇を衒うサービス精神が旺盛だから教師に相応しい」
などというのは、学問の本分を取り違えた根本からの過ちであり、奇術やサービスのほうが
大事だというのなら、それを学問への志しなどと混同するべきではない。奇術に関して、
サービスやペテンに関して興味があるというのなら、別に思想哲学板にいるべきでもない。
中国諸子百家にあてられている「子」という文字は、今の「師」という意味で、
「子曰く」とは「先生は仰った」という意味にあたる。
今の日本だと、女子の名に用いられる「〜子(こ)」とも混同されかねないため、
ここで「論語」などからの引用を行う時には、「子曰」をあえて省いたり、
文脈上省けない場合にも「孔先生は言った」などと置き換えたりしている。
ただ、論語の大部分の格言が「子曰」に始まっているのは周知のことで、
あらゆる師の中でも最高の師にあたる孔子の格言であることから、
固有名詞である「孔」も抜きにして、「子曰」とのみ冠した上で言葉が述べられている。
「墨子」だと「子墨子曰」になっているし、「孟子」でも「孟子曰」になっている。
固有名詞抜きの「子曰」といえば、なんといっても孔子の専売特許であり、
孔子こそは、全世界全人類にとっての代表中の代表たる師であるといえる。
ところで、孔子は何の「師」かといえば、教学の師だ。教師中の教師であり、学師中の学師。
別に、奇術師中の奇術師でもなければ、ペテン師中のペテン師でもないから、
奇術師やペテン師にこそ特有の奇を衒った言行などはどこにも見当たらない。
むしろ、模範的な教師たらんとするあまり、堅物すぎるような言行すら見られ、
有名進学塾の名物教師などのような、サービス精神にも乏しいところがある。
善くも悪しくも、それが模範的な教師としてのあり方であり、
生徒を善い方向に教導するためにこそ、己れの研鑽に対して真摯であろうとする。
それでこそ教師としては理想的なのであり、奇術師やペテン師や詐欺師などとは違う。
「堅物だから教師に相応しくなく、奇を衒うサービス精神が旺盛だから教師に相応しい」
などというのは、学問の本分を取り違えた根本からの過ちであり、奇術やサービスのほうが
大事だというのなら、それを学問への志しなどと混同するべきではない。奇術に関して、
サービスやペテンに関して興味があるというのなら、別に思想哲学板にいるべきでもない。
などということを説明したところで、今まさに重度知的障害レベルにまで知能が退行している
キリスト教徒たち自身からまず、自分たちの過ちに気づいて改悛反省するなどということはあるまい。
まずはキリスト教徒でもないような第三者が、キリスト教徒たちの真性の重度精神障害を切にわきまえて、
もう一人前の思想哲学宗教の享受者などではないことを正式に認めた上で、好悪や支持不支持などを排した
切実な事務処理としての、重度精神障害罹患型カルト宗教の廃絶に努めていかなければならない。
「子貢問うて曰く、孔文子は何を以てか之れを文と謂うや。
子曰く、敏にして學を好み、下問を恥じず、是れを以て文と謂うなり」
「子貢が問うた。『衛の大夫の孔文子は、なぜ文という贈り名(死後におくられる名)なのでしょうか』
先生(もちろん孔子)は答えた。『敏腕でありながら学問好きでもあり、目下の者にすら教えを乞うことを
恥じないほどにも向学心が豊かであったために、文聖としての偉大さを評価されて文と贈り名されたのだ』
(『史記』仲尼列伝にも、孔子が万人を師とするほどもの向学心の持ち主であったことが記録されている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一五)
キリスト教徒たち自身からまず、自分たちの過ちに気づいて改悛反省するなどということはあるまい。
まずはキリスト教徒でもないような第三者が、キリスト教徒たちの真性の重度精神障害を切にわきまえて、
もう一人前の思想哲学宗教の享受者などではないことを正式に認めた上で、好悪や支持不支持などを排した
切実な事務処理としての、重度精神障害罹患型カルト宗教の廃絶に努めていかなければならない。
「子貢問うて曰く、孔文子は何を以てか之れを文と謂うや。
子曰く、敏にして學を好み、下問を恥じず、是れを以て文と謂うなり」
「子貢が問うた。『衛の大夫の孔文子は、なぜ文という贈り名(死後におくられる名)なのでしょうか』
先生(もちろん孔子)は答えた。『敏腕でありながら学問好きでもあり、目下の者にすら教えを乞うことを
恥じないほどにも向学心が豊かであったために、文聖としての偉大さを評価されて文と贈り名されたのだ』
(『史記』仲尼列伝にも、孔子が万人を師とするほどもの向学心の持ち主であったことが記録されている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一五)
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母子家庭の末弟のノータリン息子が、
「お兄ちゃんたちには将来があるけど、あんたには将来がないから勉強しなくてもいいの」と言われ、
三人の兄たちが勉強している中で一人だけほっとかれる。つまんないから暇つぶしに色々といたずらをやってみて、
最後にはお兄ちゃんやお母さんまで巻き込んでのてんてこ舞い状態にしてしまう。
本当に勉強をしようとしている兄たちのように、ノータリンの末弟も遊ぶことが勉強だと
思っているのかもしれないが、あんまりことお遊びが行き過ぎたせいで、兄たちの勉強までをも阻害してしまう。
まさに、今の地球人類社会の縮図。誰が三人の兄で、誰がノータリンの末弟なのかは、もうあえて指摘もするまい。
「大夫強くして君之れを殺すは義なり」
「一部の派閥内の主であるような者が強くなりすぎた場合などに、天下全土を司る君主がこれを殺すのは義である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)

「お兄ちゃんたちには将来があるけど、あんたには将来がないから勉強しなくてもいいの」と言われ、
三人の兄たちが勉強している中で一人だけほっとかれる。つまんないから暇つぶしに色々といたずらをやってみて、
最後にはお兄ちゃんやお母さんまで巻き込んでのてんてこ舞い状態にしてしまう。
本当に勉強をしようとしている兄たちのように、ノータリンの末弟も遊ぶことが勉強だと
思っているのかもしれないが、あんまりことお遊びが行き過ぎたせいで、兄たちの勉強までをも阻害してしまう。
まさに、今の地球人類社会の縮図。誰が三人の兄で、誰がノータリンの末弟なのかは、もうあえて指摘もするまい。
「大夫強くして君之れを殺すは義なり」
「一部の派閥内の主であるような者が強くなりすぎた場合などに、天下全土を司る君主がこれを殺すのは義である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)
削除(by投稿者)
「子貢、告朔の餼羊を去らんと欲す。子曰く、賜や、爾は其の羊を愛む、我は其の禮を愛む」
「子貢が、魯の国での告朔の礼が形骸化し、羊を生贄にする慣習ばかりしか残されていないのを見て、
その生贄もやめさせようとした。それを見て孔子は言われた。『賜(子貢)よ、おまえはその羊を惜しがって
いるようだが、私はその羊の生贄すらなくなることで、礼の風習が完全に途絶えてしまうことのほうが惜しい』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・一七より)
儀礼が形骸化して最後に羊の生贄だけが残ったのは、当然祭りの後に羊の肉を食うからだ。
その物質主義的な傾向を子貢は卑しんだが、孔子は「それでもまだないよりはマシだ」とした。
でも、子貢のほうが実は貨殖功利でいち財産を気づいていたり、孔子のほうが野に放擲されて貧窮したりしている。
高祖劉邦の重臣で陰険な戦略家だった張良も、穀物すら口にしない菜食主義者だったというが、かえって世知辛い
浮世に精通して嫌気がさしたような人間のほうが、その罪滅ぼしとでもいわんかのような極端な浄行に努めようとする。
梁の恵王にまみえた孟子も、祭りの生贄になる牛を見た恵王が、牛を不憫に思ってより小さな羊に替えさせたことを
惻隠の情の表れとして称えるなど、恵王本人ですら気づかなかったような仔細にまで配慮を行き届かせている。
こういう細かな部分の緩急を読み取れるのは、孟子が苦学者でもあった現れであるといえ、極端から極端に
走ったりしない中正も、やはり極端な乱行や浄行を避けるところで育まれるものであるのだろう。
「子貢が、魯の国での告朔の礼が形骸化し、羊を生贄にする慣習ばかりしか残されていないのを見て、
その生贄もやめさせようとした。それを見て孔子は言われた。『賜(子貢)よ、おまえはその羊を惜しがって
いるようだが、私はその羊の生贄すらなくなることで、礼の風習が完全に途絶えてしまうことのほうが惜しい』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・一七より)
儀礼が形骸化して最後に羊の生贄だけが残ったのは、当然祭りの後に羊の肉を食うからだ。
その物質主義的な傾向を子貢は卑しんだが、孔子は「それでもまだないよりはマシだ」とした。
でも、子貢のほうが実は貨殖功利でいち財産を気づいていたり、孔子のほうが野に放擲されて貧窮したりしている。
高祖劉邦の重臣で陰険な戦略家だった張良も、穀物すら口にしない菜食主義者だったというが、かえって世知辛い
浮世に精通して嫌気がさしたような人間のほうが、その罪滅ぼしとでもいわんかのような極端な浄行に努めようとする。
梁の恵王にまみえた孟子も、祭りの生贄になる牛を見た恵王が、牛を不憫に思ってより小さな羊に替えさせたことを
惻隠の情の表れとして称えるなど、恵王本人ですら気づかなかったような仔細にまで配慮を行き届かせている。
こういう細かな部分の緩急を読み取れるのは、孟子が苦学者でもあった現れであるといえ、極端から極端に
走ったりしない中正も、やはり極端な乱行や浄行を避けるところで育まれるものであるのだろう。
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状況が悪くなってるとしても、それは俺ではなくおまえらのせいだ。
俺は自分自身にできる限りにおいての、最もマシな選択の限りを尽くしている。
野放し状態の重権力犯罪者や重度精神障害者=現代人の大部分との付き合いも避けて、
今の世の中においては最もマシな部類の人間であることに勤めている。
その俺が今の状況をより悪くしている張本人などであるはずがなく、
事態をより悪くしていったり、少なくとも善くしたりマシにしようともしていない
おまえらのほうがよっぽど、今という劣悪な状況の責任者であるに違いない。
野放し状態の重権力犯罪者や重度精神障害者でもあるおまえらが、
性懲りもなく今の社会の最高責任者でもあり続けることで、世の中全体が破滅へと追い込まれ、
ちょうど今でも何千万人と餓死して行っているアフリカの飢餓民などのように、
俺もおまえらの重権力犯罪の犠牲になって、他業自得によって殺害されてしまう。
それは、決して俺の本望ではないが、少なくとも、おまえらとつるんで
今の世の中での重権力犯罪に加担したりするよりは、まだ望むところだ。
もちろんおまえらを檻の中や閉鎖病棟の中に閉じ込めて、俺のほうが世の中を
健全な状態へと持っていく道徳労働に励むほうがより善いに決まっているが、
それがかなわない限りにおいて、おまえらとの友愛を受け入れさせられて共犯と化せられるのと、
おまえらとの友愛を拒んだ挙句に野垂れ死にに追い込まれるのと、いずれかでしか
あり得ないというのなら、当然のこととして後者を選ぶ。別に武王や周公ほどの
徳性を備えているわけでもないおまえらへの協力など、伯夷や叔斉級の聖人でなくたって断る。
俺は自分自身にできる限りにおいての、最もマシな選択の限りを尽くしている。
野放し状態の重権力犯罪者や重度精神障害者=現代人の大部分との付き合いも避けて、
今の世の中においては最もマシな部類の人間であることに勤めている。
その俺が今の状況をより悪くしている張本人などであるはずがなく、
事態をより悪くしていったり、少なくとも善くしたりマシにしようともしていない
おまえらのほうがよっぽど、今という劣悪な状況の責任者であるに違いない。
野放し状態の重権力犯罪者や重度精神障害者でもあるおまえらが、
性懲りもなく今の社会の最高責任者でもあり続けることで、世の中全体が破滅へと追い込まれ、
ちょうど今でも何千万人と餓死して行っているアフリカの飢餓民などのように、
俺もおまえらの重権力犯罪の犠牲になって、他業自得によって殺害されてしまう。
それは、決して俺の本望ではないが、少なくとも、おまえらとつるんで
今の世の中での重権力犯罪に加担したりするよりは、まだ望むところだ。
もちろんおまえらを檻の中や閉鎖病棟の中に閉じ込めて、俺のほうが世の中を
健全な状態へと持っていく道徳労働に励むほうがより善いに決まっているが、
それがかなわない限りにおいて、おまえらとの友愛を受け入れさせられて共犯と化せられるのと、
おまえらとの友愛を拒んだ挙句に野垂れ死にに追い込まれるのと、いずれかでしか
あり得ないというのなら、当然のこととして後者を選ぶ。別に武王や周公ほどの
徳性を備えているわけでもないおまえらへの協力など、伯夷や叔斉級の聖人でなくたって断る。
富貴も得るに値するほどマシな世の中なら得たって構わないが、得るに値しないなら得ないまでのこと。
おまえらと共に得るに値する富貴など、この世界この宇宙どこを探したって一つも見当たらない。
「豐年黍多なり稌多なる。亦た高き廩有り、萬億に及ぶ秭。
酒を為り醴を為りて、祖妣に烝め畀え、以に百禮を洽せまつるに。降福は孔と皆たき」
今年は豊年で餅黍も餅稲もたくさん獲れた。米倉に蓄える稲束も高々と、万億の量に及ぶ。
酒を造り甘酒も造り、祖先の神様にお供えもして、百礼を尽くして祭ることの、なんとめでたさこの上ない。
(富貴豊作を素直に喜ぶ気持ちも、人としての精神の健全さの現れの一つだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・臣工之什・豐年より)
おまえらと共に得るに値する富貴など、この世界この宇宙どこを探したって一つも見当たらない。
「豐年黍多なり稌多なる。亦た高き廩有り、萬億に及ぶ秭。
酒を為り醴を為りて、祖妣に烝め畀え、以に百禮を洽せまつるに。降福は孔と皆たき」
今年は豊年で餅黍も餅稲もたくさん獲れた。米倉に蓄える稲束も高々と、万億の量に及ぶ。
酒を造り甘酒も造り、祖先の神様にお供えもして、百礼を尽くして祭ることの、なんとめでたさこの上ない。
(富貴豊作を素直に喜ぶ気持ちも、人としての精神の健全さの現れの一つだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・臣工之什・豐年より)
誰の責任かは問題じゃない、状況が悪くなっていくという事自体が一番問題だ。
世の中を責めてみても、その世の中に存在している以上は絶対そこから逃げられない。
いくら長大な論文という形で悲鳴をあげ続けても、誰もお前を助ける事はできない。
世の中を責めてみても、その世の中に存在している以上は絶対そこから逃げられない。
いくら長大な論文という形で悲鳴をあげ続けても、誰もお前を助ける事はできない。
いつ、誰が助けを頼んだよ?
ただ檻の中や閉鎖病棟の中でじっとしてろって言ってるだけじゃねえか?
ただ何もしないでいるだけで、世の中に与える害悪の度合いが遥かに引き下がるような、
有害かつ無益な行為能力濫用者どもの自業他得によって、やむを得ないわけでもないのに
受動的な破滅に追い込まれている人々が何万何億にも上っている。そこに対して俺なんかが
何らかの作為を加えて救ってあげたりするだなんてこともなければ、作為を加えることで
救ってもらうだなんてこともない。ただ何もしなくなればいいだけのこと。
世の中が積極的に善くなる以前に、まず殊更に悪くはならないこと。
そのために誰かが誰かに助けられる必要なんて少しもなく、ただ害悪の元凶にもなっている、
野放し状態の重権力犯罪者やサイコパス患者が積極的な活動をやめればいいだけのこと。
そしたらわざわざ助けられなくたって、俺だって俺なりの自力によって相応の生活も営んでいく。
否が応もなく、多くの人々が重権力犯罪によって、やむを得ないわけでもないのに命を落として
いっている今の世の中で、自分ばかりが助かりたいだなんて選民志向も、俺にはない。そんな
志向を宿していることはかえって卑しいことだとも思うから、進んでかなぐり捨てすらもする。
つまり、俺が権力犯罪被害によってのたれ死ぬことが、選別的に救われることは断じて拒む。
それだったらまだのたれ死んだほうがマシ。ただ、のたれ死ぬでもなく、のたれ死ぬところを
選別的に救われるでもなく、権力犯罪者どもが一網打尽となって誰しもが活路を開かれる中に、
自分もまた生き延びるをつてを模索していくというのなら、それが最高であるに違いない。
俺が個人的に救われる<俺が天下万民と共にのたれ死ぬ<天下万民と共に俺も生き延びる。
ただ檻の中や閉鎖病棟の中でじっとしてろって言ってるだけじゃねえか?
ただ何もしないでいるだけで、世の中に与える害悪の度合いが遥かに引き下がるような、
有害かつ無益な行為能力濫用者どもの自業他得によって、やむを得ないわけでもないのに
受動的な破滅に追い込まれている人々が何万何億にも上っている。そこに対して俺なんかが
何らかの作為を加えて救ってあげたりするだなんてこともなければ、作為を加えることで
救ってもらうだなんてこともない。ただ何もしなくなればいいだけのこと。
世の中が積極的に善くなる以前に、まず殊更に悪くはならないこと。
そのために誰かが誰かに助けられる必要なんて少しもなく、ただ害悪の元凶にもなっている、
野放し状態の重権力犯罪者やサイコパス患者が積極的な活動をやめればいいだけのこと。
そしたらわざわざ助けられなくたって、俺だって俺なりの自力によって相応の生活も営んでいく。
否が応もなく、多くの人々が重権力犯罪によって、やむを得ないわけでもないのに命を落として
いっている今の世の中で、自分ばかりが助かりたいだなんて選民志向も、俺にはない。そんな
志向を宿していることはかえって卑しいことだとも思うから、進んでかなぐり捨てすらもする。
つまり、俺が権力犯罪被害によってのたれ死ぬことが、選別的に救われることは断じて拒む。
それだったらまだのたれ死んだほうがマシ。ただ、のたれ死ぬでもなく、のたれ死ぬところを
選別的に救われるでもなく、権力犯罪者どもが一網打尽となって誰しもが活路を開かれる中に、
自分もまた生き延びるをつてを模索していくというのなら、それが最高であるに違いない。
俺が個人的に救われる<俺が天下万民と共にのたれ死ぬ<天下万民と共に俺も生き延びる。
元号事典をパラパラとめくっていて気づいたが、
明和水産の語源になっている「明和(1764-1772)」も、実は「書経」からの引用なんだな。
虞書・堯典の「百姓を昭明し、萬邦を協和せしむ」という部分。
これは「昭和」の引用元でもあり、「平成」の出典も「書経」の虞書・大禹謨。
禁中並公家諸法度で、幕府も「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」と取り決めるなどしていたが、
確かに朝廷は古来から学問を重んじていて、その最大の学問対象はなんといっても四書五経、
次いで史書、詩歌の順となっている。日本文化の通奏低音ともなっている儒学。
あまりにも常時響き渡り続けているために、誰もそれをそれと意識することすらない。
「子、磬を衛に撃つ。蕢を荷ないて孔氏の門を過ぐる者あり。曰く、心有るかな、磬を撃つこと。
既にして曰く、鄙しきかな。硜硜乎たり。己れを知ること莫くんば、斯れ己まんのみ。
深ければ則ち﨤し、淺ければ則ち掲す。子曰く、果なるかな。難きこと末きなり矣」
「先生が衛で磬という打楽器を演奏されていたとき、もっこを荷なって家の門を通り過ぎようとする者がいた。
一聴して『心ある音だな、この磬の音色は』と言った。しかししばらくしてまた言った。
『しかし卑俗なものだ。自分を分かってもらいたいあまりの緊張感をも帯びている。
誰も自分のことを分かってくれないのなら、ただ活動を控えていればいいだけのこと。
深い川では着物を脱ぎ、浅い川では裾を上げる(詩経・匏有苦葉からの引用)。
そのようにして、世の乱れに対しても適当に対応すればいいだけのことさ』
先生は言った。『思い切りのいい人だね。しかし、別に難しいことでもないさ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・四一)
明和水産の語源になっている「明和(1764-1772)」も、実は「書経」からの引用なんだな。
虞書・堯典の「百姓を昭明し、萬邦を協和せしむ」という部分。
これは「昭和」の引用元でもあり、「平成」の出典も「書経」の虞書・大禹謨。
禁中並公家諸法度で、幕府も「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」と取り決めるなどしていたが、
確かに朝廷は古来から学問を重んじていて、その最大の学問対象はなんといっても四書五経、
次いで史書、詩歌の順となっている。日本文化の通奏低音ともなっている儒学。
あまりにも常時響き渡り続けているために、誰もそれをそれと意識することすらない。
「子、磬を衛に撃つ。蕢を荷ないて孔氏の門を過ぐる者あり。曰く、心有るかな、磬を撃つこと。
既にして曰く、鄙しきかな。硜硜乎たり。己れを知ること莫くんば、斯れ己まんのみ。
深ければ則ち﨤し、淺ければ則ち掲す。子曰く、果なるかな。難きこと末きなり矣」
「先生が衛で磬という打楽器を演奏されていたとき、もっこを荷なって家の門を通り過ぎようとする者がいた。
一聴して『心ある音だな、この磬の音色は』と言った。しかししばらくしてまた言った。
『しかし卑俗なものだ。自分を分かってもらいたいあまりの緊張感をも帯びている。
誰も自分のことを分かってくれないのなら、ただ活動を控えていればいいだけのこと。
深い川では着物を脱ぎ、浅い川では裾を上げる(詩経・匏有苦葉からの引用)。
そのようにして、世の乱れに対しても適当に対応すればいいだけのことさ』
先生は言った。『思い切りのいい人だね。しかし、別に難しいことでもないさ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・四一)
論語に菜食をすすめる記述や
仏教も菜食を進めてるのに
(ただしブッダ自体は肉をたべていたと思われる)
菜食を実行しないだろうなこの人はww
たぶんよく味付けされたステーキなんかを舌鳴らしながら食べてるんだろうw。
別に俺も菜食してるわけじゃないけどな。
一度だけ一年ぐらい肉と魚をやめたことがあったが。
だが君は論語や仏典を読み込んでるなら菜食を実践するべきだw
孔子も実践を重んじるだろう?
子曰、君子欲訥於言、而敏於行、
仏教も菜食を進めてるのに
(ただしブッダ自体は肉をたべていたと思われる)
菜食を実行しないだろうなこの人はww
たぶんよく味付けされたステーキなんかを舌鳴らしながら食べてるんだろうw。
別に俺も菜食してるわけじゃないけどな。
一度だけ一年ぐらい肉と魚をやめたことがあったが。
だが君は論語や仏典を読み込んでるなら菜食を実践するべきだw
孔子も実践を重んじるだろう?
子曰、君子欲訥於言、而敏於行、
肉も食うさ。食うことは食うが、食い過ぎも禁物だ。
古来から、牛やら羊やらの家畜が神への生贄として捧げられた上で屠られていたのは、
人間自身が肉を食うために、自分たちと同じ高等動物を殺害する後ろめたさを払拭するためだった。
だからこそ、神に捧げるわけでもないのに、ただ肉を売りさばくためだけに家畜を殺す
屠殺業者などへの差別が生じたりもしていた。孟子も「君子は包厨を遠ざく」といい、
生贄の牛をより小さな羊に替えさせた恵王の情け深さを褒め称えたりするなど、
ただ欲望のままに肉食を欲したりすることが、確かに儒家でも控えるべきものとされている。
しかし、実際のところ儒家は牛羊豚鶏などを生贄にする儀式を礼節上、推奨してもいる。
生贄に捧げた畜獣を当然あとで食うわけで、「喪に服している間は中年までは肉を食わず、
高齢者だけは食べてもいい」などの記述が「礼記」にもあるなど、肉食に関しての取り決めも細密。
年寄りが死者の後追いなどをしないように、栄養ある肉食を絶やさぬようにとの配慮から、
服喪中の肉食すらも認めているように、肉食の効用も十分に推し量った上で、節度を保った上での肉食を認めている。
もちろん、人間までは食うべきでないとしている。生きとし生けるものは何でも食う中国では、
本当に人間を神の生贄に捧げて、その肉を食うところまでやっていたことがある。
もちろんその人間も重犯罪者であったりしたわけだけれども、人肉食も「礼記」や「左伝」では非難されている。
本当に生贄に捧げて、本当に食った上で、やっぱりいけないことだと再認しているわけだから、
御伽噺上の人間の生贄を称えているアレなどよりも、よく経験を積んだ上で正しい判断を下しているといえる。
古来から、牛やら羊やらの家畜が神への生贄として捧げられた上で屠られていたのは、
人間自身が肉を食うために、自分たちと同じ高等動物を殺害する後ろめたさを払拭するためだった。
だからこそ、神に捧げるわけでもないのに、ただ肉を売りさばくためだけに家畜を殺す
屠殺業者などへの差別が生じたりもしていた。孟子も「君子は包厨を遠ざく」といい、
生贄の牛をより小さな羊に替えさせた恵王の情け深さを褒め称えたりするなど、
ただ欲望のままに肉食を欲したりすることが、確かに儒家でも控えるべきものとされている。
しかし、実際のところ儒家は牛羊豚鶏などを生贄にする儀式を礼節上、推奨してもいる。
生贄に捧げた畜獣を当然あとで食うわけで、「喪に服している間は中年までは肉を食わず、
高齢者だけは食べてもいい」などの記述が「礼記」にもあるなど、肉食に関しての取り決めも細密。
年寄りが死者の後追いなどをしないように、栄養ある肉食を絶やさぬようにとの配慮から、
服喪中の肉食すらも認めているように、肉食の効用も十分に推し量った上で、節度を保った上での肉食を認めている。
もちろん、人間までは食うべきでないとしている。生きとし生けるものは何でも食う中国では、
本当に人間を神の生贄に捧げて、その肉を食うところまでやっていたことがある。
もちろんその人間も重犯罪者であったりしたわけだけれども、人肉食も「礼記」や「左伝」では非難されている。
本当に生贄に捧げて、本当に食った上で、やっぱりいけないことだと再認しているわけだから、
御伽噺上の人間の生贄を称えているアレなどよりも、よく経験を積んだ上で正しい判断を下しているといえる。
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礼儀は純粋道徳と現実活動の中庸だ。
正式な礼法に基づいて執り行われる儀式などが、道徳性に根ざしていなければ
ならないのはもちろんだが、逆に現実上の利害得失から極端にかけ離れたものとなってもいけない。
豪華なお供え物などを祖神にお供えしたとしても、ご先祖さまはとっくの昔に亡くなってるわけだから、
最後には自分たちでお供え物を食べることになる、そのような儀式外のことを考慮に入れないよりは、
考慮に入れた上で礼法を構築していったほうが、四六時中いつであっても通用する礼法ともなる。
悟りを得た坊さんでもないから、もちろん性欲はある。
性欲はあっても稼ぎはないから遊べもしない。これまた故出精戒まで守らされる
坊さんではないから自慰だってしないことはない。ただ、もちろんそれが本望ではなく、
一人前の稼ぎによって妻子も養っていく立場になることのほうが望みだ。
しかし、それは「重権力犯罪者や重度精神障害者として」ではないから、
そのような人間のクズに成り下がりながらでしか稼ぐことができないような状態である
今の世の中で稼いだりはできないので、やむやむなくなく自制状態を保っているわけだ。
欲望はあっても、それを自制することによって社会的な害悪を最小限に食い止めもする、
それは、礼儀の理念にも即していることなので、儒学を志すものとしては当然のたしなみであるといえる。
食欲にしろ性欲にしろ、欲はほしいままにするべからず(礼記・曲礼上第一)。
ほしいままにすらしなければ欲望すらも認められるのが礼儀なのだから、
仏教の戒律などよりもよっぽど融通が利いているといえる。
正式な礼法に基づいて執り行われる儀式などが、道徳性に根ざしていなければ
ならないのはもちろんだが、逆に現実上の利害得失から極端にかけ離れたものとなってもいけない。
豪華なお供え物などを祖神にお供えしたとしても、ご先祖さまはとっくの昔に亡くなってるわけだから、
最後には自分たちでお供え物を食べることになる、そのような儀式外のことを考慮に入れないよりは、
考慮に入れた上で礼法を構築していったほうが、四六時中いつであっても通用する礼法ともなる。
悟りを得た坊さんでもないから、もちろん性欲はある。
性欲はあっても稼ぎはないから遊べもしない。これまた故出精戒まで守らされる
坊さんではないから自慰だってしないことはない。ただ、もちろんそれが本望ではなく、
一人前の稼ぎによって妻子も養っていく立場になることのほうが望みだ。
しかし、それは「重権力犯罪者や重度精神障害者として」ではないから、
そのような人間のクズに成り下がりながらでしか稼ぐことができないような状態である
今の世の中で稼いだりはできないので、やむやむなくなく自制状態を保っているわけだ。
欲望はあっても、それを自制することによって社会的な害悪を最小限に食い止めもする、
それは、礼儀の理念にも即していることなので、儒学を志すものとしては当然のたしなみであるといえる。
食欲にしろ性欲にしろ、欲はほしいままにするべからず(礼記・曲礼上第一)。
ほしいままにすらしなければ欲望すらも認められるのが礼儀なのだから、
仏教の戒律などよりもよっぽど融通が利いているといえる。
まだやってたのか。早く病院に行ったほうが良いんだけど
周りの家族とかは諦めてるのかねえ・・・。可哀相に。
周りの家族とかは諦めてるのかねえ・・・。可哀相に。
四書は今でも人口に膾炙しているし、「詩経」や「書経」や「易経」も、元号への引用や占いなどを通じてそれなりに流布されている。
「春秋左氏伝」は純粋な歴史書であり、「史記」などでその記録が焼き直されているところもあるし、乱世の卑俗な為政者どもの
劣悪な行状に対する懲罰的な意図も込められているため、万人が模範とすべき名言や格言の引用先としての利用価値は低い。
四書五経中でも「礼記」こそは、模範とすべき名言や格言の宝庫であり、その具体的な実践手段を事細かに記録した実用書でもあるという、
極めて高い利用価値を備えながらも、未だ十全な活用の果たされてきたことのない不遇の書(「不具の書」ではない)となっている。
「古代中国の礼法を今の人間がそのまま用いる必要はない」ということは、佐藤一斎も「言志四録」で述べており、
実際、日本には日本特有の礼法を精選した「延喜式」などの格式集があるので、日本人がそっくりそのまま参考にする上で適切なのは
むしろ礼記よりも延喜式などのほうなわけだが、結局、礼法というものがどのような根拠に基づいて構築されているのかという
理論的な原典となっているのはやはり礼記のほうであり、単なる堅苦しい形式主義としてのみ礼儀作法を嗜むよりは、それぞれの礼法が
いかなる根拠に即してて成立して来たのかを、礼記などを参考にして理解しながら礼儀作法も嗜んでいくほうが、意味不明な礼式に
辟易を抱いたりすることもなく、よくよく納得しながらの充実した道徳活動が推進していけるようになるだろう。
「春秋左氏伝」は純粋な歴史書であり、「史記」などでその記録が焼き直されているところもあるし、乱世の卑俗な為政者どもの
劣悪な行状に対する懲罰的な意図も込められているため、万人が模範とすべき名言や格言の引用先としての利用価値は低い。
四書五経中でも「礼記」こそは、模範とすべき名言や格言の宝庫であり、その具体的な実践手段を事細かに記録した実用書でもあるという、
極めて高い利用価値を備えながらも、未だ十全な活用の果たされてきたことのない不遇の書(「不具の書」ではない)となっている。
「古代中国の礼法を今の人間がそのまま用いる必要はない」ということは、佐藤一斎も「言志四録」で述べており、
実際、日本には日本特有の礼法を精選した「延喜式」などの格式集があるので、日本人がそっくりそのまま参考にする上で適切なのは
むしろ礼記よりも延喜式などのほうなわけだが、結局、礼法というものがどのような根拠に基づいて構築されているのかという
理論的な原典となっているのはやはり礼記のほうであり、単なる堅苦しい形式主義としてのみ礼儀作法を嗜むよりは、それぞれの礼法が
いかなる根拠に即してて成立して来たのかを、礼記などを参考にして理解しながら礼儀作法も嗜んでいくほうが、意味不明な礼式に
辟易を抱いたりすることもなく、よくよく納得しながらの充実した道徳活動が推進していけるようになるだろう。
>>257の引用に関連しての話だが、何もしないでじっとしているのなんて、簡単なことだ。
今だとマッカーサー憲法の27条に違反する関係などで、働かないことが非人も同然の扱いを受けるが、
何のことはない、何もしないだけなのだから、害もなければ益もない、恬淡寂寞とした安穏たる存在であるのみ。
人間ってのは、そういう風にできている。別に牛馬のようにこき使われることで
精神の安定を得たりするのではなく、何もしないでじっとしている中にこそ、最高の安定を得ることができる。
その安定をあえて選択せずに、あたかも孔子や二宮尊徳のように、熱心な勤労に励むということは、これまた結構なことだ。
しかし、何もしないでいることが苦しみであり、何かをしていることが精神の安定に繋がるなどという間違った見識に即して、
多動性障害も同然の奴隷使役に没頭したりするのでは、無為自然の徳も計り知った上で、あえて積極的な労役に勤めようとする、
真っ当な勤労道徳にすら反することとなる。無為自然の徳を否定しているのみならず、健全な勤労道徳をも共に否定しており、
行動と不動のいずれにおいても、人として誤ったあり方ばかりを尽くすことになる。
何もしないところに最高の安定を保証するのは、何も俺に始まったことではなく、老荘列などの道家思想や、
仏教思想の一部などが、無為自然の手堅さを明確に是認してもいる。にもかかわらず「何もしないことが悪」だなどという
風説ばかりがまかり通っているのは、旧約犯罪聖書におけるアダムとイブの楽園追放寓話の流布のせいであったりする。
このようなカルト教義が正式なものとして触れ回られることで、何もしないでいることへの罪悪感が人工的に生み出されもし、
本当に何もしないでいることが苦しくもなる。そもそも、そのようなカルト教義の正当性を認めず、「何もしないことが悪」だ
などという観念を脳内から取っ払った上で何もしないでいれば、奴隷使役などに没頭するよりも遥かに安定した精神が得られる。
今だとマッカーサー憲法の27条に違反する関係などで、働かないことが非人も同然の扱いを受けるが、
何のことはない、何もしないだけなのだから、害もなければ益もない、恬淡寂寞とした安穏たる存在であるのみ。
人間ってのは、そういう風にできている。別に牛馬のようにこき使われることで
精神の安定を得たりするのではなく、何もしないでじっとしている中にこそ、最高の安定を得ることができる。
その安定をあえて選択せずに、あたかも孔子や二宮尊徳のように、熱心な勤労に励むということは、これまた結構なことだ。
しかし、何もしないでいることが苦しみであり、何かをしていることが精神の安定に繋がるなどという間違った見識に即して、
多動性障害も同然の奴隷使役に没頭したりするのでは、無為自然の徳も計り知った上で、あえて積極的な労役に勤めようとする、
真っ当な勤労道徳にすら反することとなる。無為自然の徳を否定しているのみならず、健全な勤労道徳をも共に否定しており、
行動と不動のいずれにおいても、人として誤ったあり方ばかりを尽くすことになる。
何もしないところに最高の安定を保証するのは、何も俺に始まったことではなく、老荘列などの道家思想や、
仏教思想の一部などが、無為自然の手堅さを明確に是認してもいる。にもかかわらず「何もしないことが悪」だなどという
風説ばかりがまかり通っているのは、旧約犯罪聖書におけるアダムとイブの楽園追放寓話の流布のせいであったりする。
このようなカルト教義が正式なものとして触れ回られることで、何もしないでいることへの罪悪感が人工的に生み出されもし、
本当に何もしないでいることが苦しくもなる。そもそも、そのようなカルト教義の正当性を認めず、「何もしないことが悪」だ
などという観念を脳内から取っ払った上で何もしないでいれば、奴隷使役などに没頭するよりも遥かに安定した精神が得られる。
おまえらはまだ、カルト教義に脳内を蝕まれているせいで、何もしないでいることを確かに苦しみだと感じてもいる。
しかし、俺はもうすでに脳内からカルト教義による洗脳を払拭して、無為自然の徳こそは真正であるとわきまえているから、
何もしないでいることに心からの安定を感じ取ってもいる。もちろん安穏としてばかりいたいというのではなく、
孔子や二宮尊徳のように、健全な勤労道徳に即して働きたいという気持ちもあるが、別にそれはおまえらのように、
カルト教義に蝕まれて、無為自然を苦であると感じているから働きたかったりするのではない。心から、世のため人のために
挺身していきたいという、仁徳ないし菩提心の発露によって働きたいと思っているのであり、別に働かなくたって、
何もしないでいたって、それが苦であるだなどということはなく、むしろ自分ばかりが安穏とし過ぎていることが後ろめたいほどだ。
「(憲問うて曰く)克、伐、怨、欲行われざるを以て仁と為すべし。子曰く、以て難しと為すべし。仁は則ち吾れ知らざるなり」
「孔子の弟子の原憲が問うた。『勝ち気と自慢げと怨恨と欲望が完全に捨て去れたなら仁と言えましょう』
先生は言った。『それらは確かに難しいことだ。しかし、それだけで仁と言っていいのかは分からない』
(無為の易行と戒律厳守の難行のどちらも仁には当たらず、克伐怨欲の自然な抑制が仁ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・二より)
しかし、俺はもうすでに脳内からカルト教義による洗脳を払拭して、無為自然の徳こそは真正であるとわきまえているから、
何もしないでいることに心からの安定を感じ取ってもいる。もちろん安穏としてばかりいたいというのではなく、
孔子や二宮尊徳のように、健全な勤労道徳に即して働きたいという気持ちもあるが、別にそれはおまえらのように、
カルト教義に蝕まれて、無為自然を苦であると感じているから働きたかったりするのではない。心から、世のため人のために
挺身していきたいという、仁徳ないし菩提心の発露によって働きたいと思っているのであり、別に働かなくたって、
何もしないでいたって、それが苦であるだなどということはなく、むしろ自分ばかりが安穏とし過ぎていることが後ろめたいほどだ。
「(憲問うて曰く)克、伐、怨、欲行われざるを以て仁と為すべし。子曰く、以て難しと為すべし。仁は則ち吾れ知らざるなり」
「孔子の弟子の原憲が問うた。『勝ち気と自慢げと怨恨と欲望が完全に捨て去れたなら仁と言えましょう』
先生は言った。『それらは確かに難しいことだ。しかし、それだけで仁と言っていいのかは分からない』
(無為の易行と戒律厳守の難行のどちらも仁には当たらず、克伐怨欲の自然な抑制が仁ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・二より)
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