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聖書 Part5


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001 2010/09/08(水) 19:16:04 ID:0or4dWP6Po
「聖書」という言葉の原典となっている「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下の記述に基づけば、「聖書」とは

①聖人が書いた書物。
②叙勲などを司る記録官による、正式な記録作業によって編纂された書類。
③賢愚の分け隔てなく全ての評価対象者をおしなべて取り上げた書物。
④賢愚をおしなべて取り上げつつも、その格の上下に合わせた公正な評価が行き届いている書物。
⑤年功や等級の高低を重視し、分をわきまえない僭越などを十全に排している書物。

といった条件を満たしている書物のことであり、そのような書物の中でも、最も代表的かつ古典的であるのが四書五経。
①の条件は孔子の書いた「易経」繋辞伝や「春秋経」、曾子の書いた「大学」や子思子の書いた「中庸」などが満たしている。
②の条件は太古の正式な政治記録である「書経」が(ただしあまりにも太古過ぎるため、多少の修繕がなされている)、
③と④の条件は「詩経」の大雅小雅両篇や「春秋経」が、⑤の条件は身分秩序を重んじる「易経」「論語」「礼記」などが
満たしている。まさに四書五経こそは、「聖書」という言葉の厳密な条件を満たしきるために著されたような書物であり、
これほどにも聖書の名に値する書物は、他に存在しないと言えるほど。ここはその真正聖書たる四書五経などについて語るスレ。
(画像は「論語」の主人公孔子、「孟子」の主人公孟子、「大学」の著者曾子、「中庸」の著者子思子の四名。四書の各筆頭)

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002 2010/09/08(水) 19:36:53 ID:pUj26zHsbU:SoftBank
このスレは聖書の名を騙ったニートの言い訳スレです

このニート君は無職であり引きこもりであり童貞であり元イジメられっ子です

あまりにも可哀相なので温かい目でイジッてやって下さい

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003 2010/09/08(水) 22:05:36 ID:0or4dWP6Po
道理が通れば、無理が引っ込む。

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004 2010/09/08(水) 22:07:40 ID:pUj26zHsbU:SoftBank
お前が聖書を騙るのはただの私怨だろ
四書五経という立派な名前があり 作者も聖書と名乗ってないのに

君が本物の聖書を気にいらないだけだろ

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005 2010/09/09(木) 10:16:35 ID:Qz16ONLHbQ:SoftBank
もちろんお前の親もお前みたいなダメ人間を育ててしまった責任はある

しかし年老いた親を働かせ自分は部屋でブクブク肥える事に罪悪感はないのか?

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006 2010/09/09(木) 11:18:25 ID:nE0Otmx5uM
>>4
本物の聖書こそは四書五経であり、いま「聖書」などと呼ばれている新旧約聖書のほうが偽聖書だ。
それが、一つ一つの言葉の定義から厳格化する、名辞の尊重者としての儒者の方向性にも適ったこと。
他にも「義」とか「(拝)礼」とかいった、儒学から剽窃されたイスラエル聖書用語は数多い。
それらは全て 最 原 初 から儒学用語であり、儒学で重視される理念として長年用いられてきた
経緯もあり、別に手放した覚えもないもの。それを後々からカルト教団が剽窃して、全く違った意味で
「聖書」とか「義」とか「礼」とかいった言葉を悪用する。それが、儒家にとってはいい迷惑であり、
重要な儒学用語が悪用されることで儒学のほうの信用度までが落ちる一方、最劣悪のカルト教義を
内包しているカルト集団の側にとっては、語感から好ましさをも抱かれる儒学用語の剽窃によって
自分たちの本義の劣悪さを隠蔽して修飾する役割をも果たしてしまっている。儒学の側にとっては
百害あって一利なく、カルト集団の側にとってばかり不当利得となる儒学用語の剽窃。それを是正
させるところに個人的な感情など踏まえるまでもなく、道理に適っており、無理を引っ込ますに値する。

>>5
親に対してもあくまで、ムスリムあたりの監督下での禁治産に置かれることを奨めており、
その結果として連帯的に自分にまで咎が及ぶのは受け入れると言っている。
自主的な行為能力制限によって、地球社会に与える害悪の度合いを、資本主義先進国の人間としては
最低限に抑えている俺にだって、全く責任がないとは思わないが(あまりの物価の高さから、小銭を使うだけでも不当営利になる)、
それにしたって、今まさに大量リンチ殺人の直接実行犯のゴミクズであるおまえみたいな人間が、一抹の反省の色も見せずに、
擬似制限行為能力者状態である俺のような偉人にまで偉そうな口を聞いている中で、なぜ俺のほうから先に反省したり、
罪悪感を抱いたりしなければならないのか。それこそ各々の立場の等級を逸脱した僭越であり、聖書の本義である
>>1の⑤にも反することだ。反省をするのも、罪悪感を抱くのも、最劣等の重犯罪者であるおまえらこそが先でなければならない。

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007 2010/09/09(木) 11:21:06 ID:Qz16ONLHbQ:SoftBank
早くお前の憧れる乞食になれよ
なにを躊躇する

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008 2010/09/09(木) 13:11:04 ID:nE0Otmx5uM
無辜の市民ならともかく、重犯罪者風情に対して優越を利かすために
本職の乞食行者にまでなる必要がどうしてあろうか。別に、無職やニート止まりでも、
重犯罪者などよりはよっぽど人を殺す人数も少なくて済んでいる。

本人による人殺しの総数では乞食行者<無辜の労働者<無職の穀潰し≪重犯罪者であり、
乞食行者までもが実効的な価値を持つのは、大多数が無辜の市民となってからのこと。
総員犯罪者状態の世の中なら、無職の穀潰しとて十分に無害で有益なうちに入る。
そういう意味でも、ただの無職が社会の頂上とも化すような不健全さの是正のためには、
何よりも重犯罪者の処分が先決。何ものにも増して重犯罪者こそは、先に変わるべきもの。

「(孔子曰く、)天下に道あるときは、盗まず変ぜんか」
「天下に道が行なわれるときには、まず盗賊どもから変わるだろう」
(「荀子」正論篇第十八・七より)

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009 2010/09/09(木) 14:47:08 ID:Qz16ONLHbQ:SoftBank
俺達の為に乞食になれなんて言ってないだろ

お前の理想が乞食なら自分の為に早く乞食になればいいじゃないか
嫌なのか?

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010 2010/09/09(木) 18:49:28 ID:nE0Otmx5uM
KNHS・KNRSスレでさんざん説明していることだが、俺にとっての理想中の理想は、
富貴と貧困の両極端の中道や中庸を行く「行為能力劣後主義」であり、これは世俗思想である儒家や、
大乗仏教でも理想とされるあり方。対して、インドの乞食行者などが没頭しているのは「行為能力否定主義」であり、
道家や小乗仏教などの完成された理念にも基づいているが、俺にとっては「理想中の理想」とまではいかず、
せいぜい「そこそこの理想」止まり。出家もせず、乞食ともならず、妻子すら養いながらも、
清貧や人間道徳や武術をも嗜んで俗世の総員犯罪者化を未然に食い止める、お侍さんのようなあり方こそは
俺自身がもっとも目指しているところでもあり、まさに理想中の理想でこそある。それと比べれば、
乞食や出家者ですら、俺にとっては敬いつつも遠ざける部類。こんな中正にかなった論及は、
極論しか理解できないバカには理解できないんだろうが、要は、俺自身が出家したり乞食になるより、
おまえらが逮捕されて入獄するほうが、俺自身にとっても理想中の理想の道が開けるということだ。

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011 2010/09/09(木) 19:51:37 ID:Qz16ONLHbQ:SoftBank
乞食は嫌なんだ
結局無い物ねだりの甘え
社会に出る努力がしたくないから
皆が君レベルに落ちて欲しいという願望だろ

一人だけ殺した人間も
百人殺した人間も
人殺しには間違いない
君は自分が人殺しと気付いていながらそれを続ける気なんだな
それこそ最低ではないか

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012 2010/09/09(木) 20:06:43 ID:ZN4ytdK13U
聖書は、聖なる書は、思想や知識や言葉ではない。
生きている。
つまり、たとえば、聖書は、イエスは生きているし、今でも、リアルタイムで、影響力を行使する。
その言葉を信じるものを、内面どころか、霊のレベルで変えてしまう、作り変えてしまう。

じゃあ、どうして信じることが出来るようになるかというと、いろいろ、微妙だ。
多分、基本は、熟れた果実が、自然に、落ちるように始まるのではないか。
誰かから、貰うこともあるだろう。
イエスは言った、私の肉を食べねば・・・。私の水を飲むものは乾くことがない・・・。
聖書の言葉は、生きているし、生きたイエスの体、御霊だ、と思う。

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013 2010/09/09(木) 20:13:54 ID:nE0Otmx5uM
「一人殺そうが百人殺そうが同じ」
この時点でもうすでに、罪悪の辛苦に対する、自らの鈍感さを露呈している。

ある程度積極的な生き方をしていく人間として、人殺しも避けられない場合がある。
だからといってその罪を開き直り、どこまでもその罪を進行させていこうとする者と、
人殺しの罪すらも犯さざるを得ない中にも、その罪の軽減に努めていこうとする者と。

人殺し級の罪を犯すか犯さないかで、犯すほうに入るとする。
でも、罪を犯すことはつまらない。犯さないで済むならそれが何より。
これが、罪を犯す中にもマシでいようとする者の論理で、これが際限のない
連続殺人犯よりもマシであるのはもちろんのこと、罪滅ぼしに没頭するあまり、
自らを早死に級の苦行にまで追い込むよりもマシだと考えるのが中庸や中道。

今の世の中で労働者として働き抜く努力なんてのは、「いかに多くの人間を殺せるか」
という努力なわけだから、そんな努力はしたくもないし、まさにすべきでもない。
そんな有害無益な努力をしない中にも、そこそこに俗世での真っ当な生活を送れるのが、
大量強盗殺人犯として生きていくことよりも、早死に級の乞食として生きていくよりも、
この上なく最高最良のあり方。あらゆる選択肢の中で最善だから、それを求めているだけ。

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014 2010/09/09(木) 20:17:47 ID:nE0Otmx5uM
>>12
ただのサイコパスへの罹患を、そんなに誇らしく語られてもな。

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015 2010/09/09(木) 22:23:22 ID:Qz16ONLHbQ:SoftBank
パソコンと携帯 両方持つ事が清貧か?
つか君ニートの友達いないイジメられッコが携帯何に使うの?

それに親が死んだらどっちにしても乞食だろ?

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016 2010/09/09(木) 22:24:30 ID:Qz16ONLHbQ:SoftBank
>>14お前が言うなって感じだけどな

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017 2010/09/09(木) 22:46:11 ID:6/vg3qV5QI:DoCoMo
iPhone手に入れたからって色めき立って投稿しまくるのも、
低脳なサルらしくはあるが、清貧ではないな。

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018 2010/09/10(金) 05:06:06 ID:d8kb8RZhBw
>>14
信仰の分野で、精神医学用語が返ってくるのを見ると、
「あんまりうまくいってないんだなぁ」とか
「なにかトゲが刺さってるんだなぁ」とか、そんな感じ。

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019 2010/09/10(金) 06:14:19 ID:Dsitn2Nogs
http://sikoken.cho-chin.com/01ningen/jibunnomenonaka.htm...

用語(目)(me)
【目の中のちり】【目の中の梁】マタイ7章3節→【目のちりで悩む】→【偽善者たち】 · 【梁】は
「自負心」「自尊心」「自惚れ」などを言い、これのために「神を見る」ことの出来なければ、
「自分の実情」を見ることも出来ない。彼は自分の義を誇り、この ...セルフイメージは大丈夫??

 自己受容__ あなたは、あなたの侭で十分 『愛されてる』のにね。_気が付くと良いのにね。
 http://bbs68.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/news/1284019717... ペイオフ初…発令…

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020 2010/09/10(金) 13:11:00 ID:QFgv10n8i2
ここではスレ違い気味の話なのでsageで書くが、
新旧約聖書信仰こそは、あらゆる精神異常の起源でもあるし、その一種としてのサイコパスの起源でもある。

罪を犯しても神の愛で無条件に許され、刑死しても生き返るお伽噺でどんな重犯罪にも罪悪感を抱かない。
これほどにも精神異常を煽る宗教教義など他になく、イエスは刑死していないとするイスラムのほうがまだ健全ですらある。

信仰ですらあれば健全であり、病気扱いされるいわれもないというのも、
新旧約聖書信仰者にとってのみの逃げ口上であり、信仰が病気であることなんていくらでもある。
それどころか、現実に即さないカルト信仰こそは、精神病理の深刻化を助長する最たるものでもある。

ニーチェやヒトラーのようなニヒリストを信奉していた酒鬼薔薇も、バモイドオキ神という自ら捏造した神様を
信仰対象ともして、ニヒリズムの苦悩を緩和させてもいた。麻薬的な超越者信仰こそは、
自殺級のニヒリズムをも助長させながら生き延びさせるヤブ医者であり、狂信とニヒリズムへの両極化を排することこそは
まさに「分裂病」の真の治療方法ともなるのであり、狂信を煽れば煽るほど、自分のどこかでニヒリズムも深刻化していくものだ。

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021 2010/09/10(金) 14:41:35 ID:j41dCRwg4Q:SoftBank
またそういう根拠のない虚言を意味不明な言葉で並べて…

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022 2010/09/10(金) 17:21:40 ID:QFgv10n8i2
新旧約信仰は、第一義としては「精神薄弱」への没入を目的とする。

新旧約聖書を信仰することは、それすなわち精神の薄弱化を意味し、新旧約信仰者である以上は少なからず精神薄弱者でもある。
むしろ、堅固であってこそ安楽ともなる精神性の確立を、「心のトゲ」だの「目の中のチリ」だのといった
不当な比喩で貶め、どこまでも際限なく精神を薄弱化し、ヤク中のような心神喪失状態へと持っていく。

身体や知能は大人並みであるままに、精神だけが幼児退行化した信者たちの姿が、独特の魅力を放っているように
思われる場合があるのも確かだが、それは早い話が人工的な精神薄弱であり、それ以外のいかなる意味も持たない。

カトリックなどの、表向きに正統とされている新旧約信仰がもたらすのは、この精神薄弱化までで、それ以外であることは
名目上はない。しかし、精神薄弱は必然的なこととして、罪を罪とも思わない「サイコパス」をも派生するのであり、
新旧約信仰すべてがあからさまにサイコパスを標榜しているわけではなくとも、自明のこととしてサイコパス患者をも派生する。

その、サイコパス量産教義としての新旧約信仰を実用化したのがプロテスタントなどで、模範的なプロテスタント国家である
イギリスやアメリカが国家ぐるみで犯してきた人類史上未曾有の大罪などを見ても、新旧約信仰が救い難いほどものサイコパスを
量産してしまうことまでもが明らか。それは、カトリックのような新旧約信仰の正統を自認する側からすれば異端とされることだが、
ただの精神薄弱だけでなく、サイコパスをも量産してしまう素養が新旧約信仰全般に備わっていることは見るに明らかで、
場合によっては精神薄弱だけで済む場合もあるにしても、サイコパスの重犯罪者をも大量生産してしまう、新旧約信仰全体の廃絶に
努めなければ、新旧約信仰に基づく重権力犯罪の収拾も覚束ない。権力犯罪原理主義は、新旧約信仰にとって不可分なものだから。

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023 2010/09/10(金) 18:19:44 ID:j41dCRwg4Q:SoftBank
と意味不明な供述を繰り返し動機は今だ不明です。

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024 2010/09/10(金) 18:36:25 ID:QFgv10n8i2
削除(by投稿者)

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025 2010/09/10(金) 18:47:57 ID:QFgv10n8i2
ここでいう「精神薄弱」とは、精神医学用語上の「知的障害」の旧称としての精神薄弱ではなく、
心を「性」と「情」に分けて、性にのみ精神的な価値を付与し、情には単なる情報としての価値しか付与しない
朱子学的な心理解釈に基づいた場合での、精神たる「性」が薄弱化することを意味している。

重要ポイント:「性+情=心」⇔「純粋精神+純粋知能=心」

現代の精神医学では、朱子学上の性と情に値するような、精神と知能の区別はなく、
精神障害すなわち知的障害であるかのように思われている。しかし、正確には、
人間の知能は性か情かのうちの「情」にのみ当たるものであり、純粋な知能情報から隔絶したところに
純粋精神たる「性」が実在していることを朱子学は認める。この、朱子学で「性」と呼ばれる純粋精神のみが
新旧約信仰者は薄弱化し、「性即理」でもある性に従うことができなくなって、理にかなわない言行をも始める。

漢学レベルの高尚な学問が理解できないというのはあるが、新旧約信仰者とて、あからさまな知的障害を
伴っているとは限らないために、現代の精神医学ではそれが精神薄弱(今で言う知的障害)であるとはみなされない。
しかし、心を性と情に分別して、性にこそ道理的な意義をも見出す朱子学の観点からすれば、新旧約信仰者は
「純粋精神薄弱(性薄弱)」であるのであり、知的障害という意味での精神薄弱以上にも深刻な問題を帯びている。

絶対にサイコパスとまで化しているとも限らないが、新旧約信仰によって必ず被る純粋精神薄弱も、
それだけでも致命的に不健全なものであり、サイコパスとの連帯責任という以上にも、それ自体に問題がある。

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026 2010/09/10(金) 21:39:08 ID:beb.E/VYvw
SoftBank邪魔。

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027 2010/09/11(土) 06:34:11 ID:JRSzI3eAAg
宗教は、存在論であり、絶対実在を論理や知覚(計測)ではなく、自らの存在における共振作用の如きもので知ることな

のではないかとおもう。

世界は、絶対存在が纏う物語、シナリオ、二次的以降の現象世界になる。
つまり、絶対存在ではない「現象世界」はシナリオとして、物語として、無限に展開して、変化する。
何故ならば、相対であり、物語は無限に書き加えることが可能だからだ。
その限界は存在の本質、神、意識の限界と等しいのだと思う。

その場合、サイコパスという「言葉」は現象世界に属する物語の一部になる。
一点だけ、サイコパスという姿だけを見れば、それは、正しいとも言える。
でも、現象世界に投影した神である意識の全体から見れば、無限分の一にしか過ぎない。

それは、顕微鏡で自分の体を眺めて、
「我は細胞なり」
「我は遺伝子なり」
「我は分子なり」
と見るのと同じなのだと思う。

瑣末の医学用語では、命の広大な世界を表すことはとても出来ない。

実は、命とは、人間とは、とてつもなく広大である可能性があるのだ。
何故ならば、人は、分子でもあるが、同時に、「愛」すら持っている。
それは、人間が神でもあることを意味する。
何故ならば、聖典は、神は愛なりと定義するからだ。

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028 2010/09/11(土) 07:56:13 ID:0hrD9Kp5Fo:SoftBank
クスクス

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029 2010/09/11(土) 11:18:33 ID:PoYASkLWGM
>>27が広大で無限であることを殊更に標榜している「現象世界」なるものも、所詮は純粋精神の投影に過ぎず、
純粋精神による着実な制御が行き届いている限りにおいて正当となり、そうでなければ必ず不当となる。

現象世界の事物は、その何もかもが言葉による明確な説明が可能で、脳内に概念的な知識として納入することができる。
一方で純粋精神はといえば、それ自体を言葉によって説明するのは全く不可能で、概念的な知識と化すこともできない。
せいぜい純粋精神が現象世界に与えた影響の痕跡が、言葉や概念的な知識として散見される程度に止まる。

然るに、新旧約信仰はロゴス信仰であり、言葉はありのままに真理であるとする。
現象世界の事物をありのままに説明することは可能でも、純粋精神については直接表現の不可能な言葉を金科玉条に掲げ、
結果として言葉によって明瞭に説明される現象知識ばかりを偏重するようになり、あまり言葉として聞こえのよくない場合も
多い純粋精神への理解も尊重も全くの留守となる。そのため純粋精神による制御の利いた現象ではなく、ただそれだけで
一人歩きする現象世界ばかりに拘泥することとなり、精神制御が行き届いていないからして、何もかもの行いが不当となる。

現象世界それ自体を無闇に広大視して、その現象世界を超えたところにある純粋精神の把捉を疎かにする新旧約信仰者の
あり方は、ただ「純粋精神薄弱」の一言で説明しきれるものであり、純粋精神薄弱の一環としてサイコパスとも化している
場合がある。純粋精神による現象世界の制御が行き届いていればサイコパスなどには決してならないため、サイコパスという
部分的病理をも帯びてしまっているのは純粋精神薄弱に特有のことであるといえ、人類破滅級の災禍をも及ぼしつつある
英米人などのサイコパスの駆逐のためには、サイコパスの母体としての純粋精神薄弱を供する新旧約信仰からの根絶が必要だ。

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030 2010/09/11(土) 20:45:20 ID:JRSzI3eAAg
結局、世界がこのような方向に向かうのだとしたら、やはり、新約聖書は最も安全な道しるべの一つなのかもしれない。

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031 2010/09/11(土) 21:01:55 ID:PoYASkLWGM
四書五経だって、新旧約聖書よりはまだマシな結果が得られるうちの一つに過ぎませんからw

人類史上最悪最低の破滅へと人類社会を追い込んでいるのが新旧約聖書である一方、
それよりもマシとなるのはもちろんのこと、遥かに最良最高の境地へといざなってくださる教義が
無数にいらっしゃる中で、新旧約聖書よりも一段階か二段階程度マシな結果を提供しているだけな、
最悪ほどではない範囲内の泰平統治を実現してくれるのが、四書五経なだけだから。

あまりにも程度の低すぎる「最低競争」の中での、ビリッケツのどん尻が新旧約聖書である一方で、
下から二番目のブービー賞であるのが四書五経なだけで、それも別に普遍的には偉いことじゃない。
四書五経ぐらいは当然のこととして実践できた先に、どこまでも上り詰めていく限りない高峰がございます↑↑↑・・・

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032 2010/09/11(土) 21:06:01 ID:0hrD9Kp5Fo:SoftBank
君みたいに他人を排除しようとする思想より
人類皆兄弟の方がいい

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033 2010/09/11(土) 21:12:53 ID:PoYASkLWGM
別に現新旧約信仰者を完全に排除しようってんじゃない。

ただ、自分たちの格下中の格下さ加減をわきまえて、賤人ならではの屈従した振舞いに
徹しさえすりゃそれでいいのであって、そのような身分の上下がわきまえられた中にも、
鬼平と彦十のような、序列を超えた友としての付き合いもあったりするのが相応しいということ。

今はそれすらあり得ない。賤人どもが身の程すらわきまえようともしないせいで、
お互いの徳を友とする、身分を超えた朋友としての関係すら、成立のしようがない。

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034 2010/09/11(土) 22:16:31 ID:0hrD9Kp5Fo:SoftBank
君は自分の意見を理解できない他人を見下すが

誰にも理解出来ない思想を盲信し

熱弁し馬鹿にされてる

もしかしたら自分自身が馬鹿かもしれないと思わないか?

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035 2010/09/11(土) 22:23:17 ID:PoYASkLWGM
馬鹿の苦しみは、とっくの昔に卒業してるのでね。

あんな苦しみのさ中でもがき続けているようなやつらには、蔑みしか持ち得ない。

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036 2010/09/11(土) 23:04:29 ID:0hrD9Kp5Fo:SoftBank
イジメられっこ

登校拒否

引きこもり


それは卒業ではなく逃避だよ

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037 2010/09/11(土) 23:10:10 ID:PoYASkLWGM
四肢切断で盲聾でエイズ末期のがん患者だって、
「私は元気よ!」と主張するだけならできる。

現実とは真逆の虚言すら可能な、言葉ごときをなぜ絶対視する?

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038 2010/09/12(日) 05:15:10 ID:ENQTGDFEuo
わたしは下々であり、これから道を歩むものであり、道を探すものにすぎない。
これからも変わるし、変わる用意もある。

でも、あなた方は、道の人でもなく、修行者でもない。
既に十分な何かを得てしまい、変わる必要がない。

私にとって、益になる、学ぶべきものが見えてこない。

返信する

039 2010/09/12(日) 09:43:49 ID:BuGltHWBg.:DoCoMo
その、探し出して歩もうとしている道も、所詮は形而下の現象世界における虚構でしかないし、
益を得よう、学ぼうと欲しているものも、姿形によって説明される現象の知識に過ぎない。

矮小で、それだけでは過ちの塊としかならない現象世界に幽閉されたままでいて、そうであることを開き直りもする。
そのような低劣な姿勢が自然と形而上の道理との連絡を妨げ、あまつさえ真の道理の把捉者を
「道を歩む人ではない」と決め付すらする。確かに道理の把捉者となることは全くの任意であり、
比較的人種的差異の少ない日本のような社会においてですら、道を守っていこうとする士人階級と、
現象世界での生活に終始する産業階級が血筋から断絶したりもしていたわけだが、
それはあくまで形而上に実在する真の道理の把捉の有無によってであり、現象界の些末な虚構を
道だと勘違いして、その拘泥に終始するか否かなどという粗末な違いによってではなかった。

虚構への拘泥者は、形而上の存在たる道にすら、人の形だの父だのの具体的な形を要求し、
姿形すら説明されない所には何らの価値も見出だそうとしない。
それでは姿形は把捉できなくとも、確かに実在する形而上の道理を察知することすらままならず、
その道理の把捉者が何を得ているのかを察することもできない。そして、自らの察知が及ばないことを
貶めの理由とし、矛盾の塊であっても姿形として察知可能な十字架あたりを至上視する。
そこまでしか至らないのが自分であるというのなら、それが賤しめられるべき烙印の根拠であることをも十分に自覚すべきだ。
卑賤であるのに卑賤故の恥じ入りがなく、かえって卑賤であることを開き直るところが、全く矛盾している。

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040 2010/09/12(日) 13:56:28 ID:Cachg/vWZo
前スレ489の、「易経」繋辞伝の「形而上なるものを之れ道といい、形而下なるものを之れ器という」 という句を踏まえた上で、

「君子は器ならず」
「君子は働きの限定された器ものではない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・為政第二・一二より)

という論語の一説をも参照すれば、君子道徳たる儒学において、君子は形而下の現象的存在たる「器」の大小や巧拙によって
その価値が左右されるのではなく、形而上の純粋精神たる「道」の把捉度如何によってその価値が決まるのだということが分かる。

現象原理主義の新旧約信仰はもちろんのこと、中国の道家ですら「大器晩成(老子)」などと器の大小にこだわり、現象面において
愚人が山を動かす大偉業を成し遂げる「愚公移山(列子)」の比喩が、近代中国における毛沢東主義の推進理念ともされていた。

儒家とて現象面での大人となることを禁止するわけではなく、実際に歴史的にも多くの偉大な儒者が輩出されて来てもいる。
しかし、儒家において最重要であるのは、そのような現象面での偉業の有無ではなく、現象を超越したところにある純粋精神たる
「道」を把捉し、道理にかなった性分を養うことなのであり、そのために現象面で貧窮に追い込まれたとて、何も嘆くことはない。

「仁とは人なり。義とは宜なり。合せて之を言えば道なり」
「仁とは人間らしくあることであり、義とは是非善悪のけじめを付けることである。これらを合わせて道という
(人は人らしくあり、善悪の分別も付けてこそ、形而上なるものとしての道にも従えるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・一六より)

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041 2010/09/12(日) 13:58:10 ID:Cachg/vWZo
イスラムも偶像崇拝を禁止するし、ヒンズー教でも宇宙の最高真理とされるブラフマンは、「ならずならず(ネーティネーティ)」
の重畳によってのみ捉えられる、真我たるアートマンと同等のものであるとされるし、儒家の「易経」においても、現象界を道理に
即して制御する場合の抽象理念が、八卦や六十四卦として構築されているだけで、現象界の構造を全く抜きにしたところにある
形而上の存在としての道理そのものを説明してはいない。これらはいずれも形而上の存在が、形而上の存在ゆえに、現象的な知識や
言葉として説明しようがないという背反性に即している例であり、このほうが全く理にかなった形而上理解への態度姿勢でもある。

現象的な説明が定義上から不可能である、形而上の事物をあえて現象的に捉えようとし、形而下における肉体という現象が
刑死によって滅ぼされることで、霊魂だけは形而上において現象的な姿形を持って生き続けているなどという迷妄を信じ込む。
そのようなカルト信仰は結局、万事万物を現象界の内側だけでの自家中毒に追いやり、形而上に実は存在している普遍道理なり
絶対真理なりとの連絡を断ち切らせて、現象世界の範囲内だけでの破滅的な迷妄を繰り返させるだけにとどまる。「現象として
破滅的であったりサイコパスであったりするのは部分的なこと」などといいながら、結局その全てが現象の内側に止まっている
には違いなく、形而上の道理や真理に則る場合以上にも、現象界を劣悪化させるばかりであり、それ以上でもそれ以外でもない。

「中人以上には、以て上を語るべきなり。中人以下には、以て上を語るべからざるなり」
「(形而上の精神性も理解できる)中ぐらい以上の人間には、上のことを語ってもいいが、
(形而下の現象しか理解できない)中ぐらい以下の人間には、上のことは語るべきですらない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・二一より)

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042 2010/09/13(月) 11:20:40 ID:E8hhU6JLzo
「聖賢は辛苦に耐えて偉業を成す」という意味のことが、「孟子」告子章句下・一五に書かれているが、
これはあくまで自力の聖人や賢人についてのことで、他力本願に終始し、現象世界の内側だけで蒙昧なままに
一生を終える大多数の下民などに対して推奨されていることではない。常時純粋精神から乖離したままの状態にある
愚人の分際でいて、苦痛にも耐えて努力などしたところには、金融詐欺や強盗殺人への努力までもが含まれて当然。

確かな純粋精神の制御の下で為政をも司る士人こそは最も努力すべきで、そこまでいかずとも、農業や必需工業のような
人々にとって真に必要な産業に従事している人々がその次に努力すべきで、商売人どもは「曽根崎心中」でも読みながら
適当に暮らし、犯罪者は檻の中でじっとしているべきだ。万事には努力すべきこととそうでないことがあり、あらゆる
仕事に従事する人間の中にも努力すべき人間とそうでない人間がいる。現象界に幽閉されたままでいる新旧約信仰者などは、
今すぐにでも苦痛に耐える努力をやめて、ムスリムたちの従順なズィンミー(庇護民)にでもなるのがふさわしい。

「我征きて徂に西し、艽野に至れる。二月の初吉に、載ち寒暑を離ぬ。心し憂いて、其の毒み大だ苦しき。
彼の共人を念いて、涕の零つること雨の如し。豈に帰るを懐わざらん、此の罪罟を畏るるなり」
「出征して遥か西方へと赴き、今は荒野にまで至った。(旧暦の)二月の上旬、夏も過ぎて冬となる。
心は憂いて、その苦痛も甚だしい。故国の家族のことを思うと、涙が雨のように流れ落ちる。
今にも逃げ帰りたい思いだが、逃亡の罪を問われるのを畏れてもいる。(賦役者が本音を吐露する詩)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・北山之什・小明より)

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043 2010/09/13(月) 19:52:11 ID:E8hhU6JLzo
純粋精神たる「性」に根ざした士人こそは最も熱心に働くべきで、農業や工業などの必需産業従事者も義務的に働くべきで、
貨殖一辺倒の商売人は適当にやっているべきで、犯罪者は檻の中に入って何もすべきでない。これが真に正しい職業倫理。

今はその逆。重犯罪者ほど熱心に働き、貨殖一辺倒の商売人こそは、自分たちが世の中に必要不可欠な存在だと思い込んで
義務的に働き、農工業などの必需産業従事者は働いても働かなくてもいいような気分で働き、士人こそはほとんど働いてない。

職業倫理が完全に転倒してしまい、世界も破滅へとまっしぐらな劣悪化を突き進んでいる。今年は日本でも観測至上最高の
平均気温を記録したし、地球温暖化などの形でもその根拠が如実に現れはじめているが、それにしたって、職業倫理が完全に
転倒した今の世の中も、それはそれである程度は堂に入っているところがある。破綻へと突き進む劣悪極まりない社会においても、
イギリス紳士なりアメリカンウーマンなりが、それなりの意匠的完成度を以って世に君臨している。それもまた、清濁併せ呑む
過不足排除型現象論としての易学などによって看破されるものであり、一言でいえばそれは「火水未済」の卦象にあたる。

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044 2010/09/13(月) 19:56:29 ID:E8hhU6JLzo
ここでは易学の内奥にまでのめりこむのはやり過ぎになるのではしょるが、米英人を始めとする資本主義者が、自分たちの劣悪
極まりない行業を正当化する常套句として、「自分たちが全面核戦争による破滅から人類を守っている」などとほざく場合がある。
いま現在、人類全体を完全な破滅に陥らせるほどもの核保有を続けているのは欧米社会のみであり、非欧米の核保有国である
中国やインドやパキスタンなどの全ての核備蓄を合せても、人類を完全な破滅へと陥れるには至らない。

欧米社会は、自分たち自身で人類破滅の危機をもたらしながら、破滅寸前の緊張状態をも自分たちで画策することによって、
「破滅よりは一応マシである世の中」の支配者であることを盾に、人類社会のイニシアティブをも掌握し続けている。
アフリカやアラブやインドなどで、何億人もの人々が虐殺され続けている現状も、欧米社会総出での全面核戦争によって
人類が滅亡するよりはマシだから仕方ない、ということになる。人類の滅亡を実現できるのも欧米だけならば、今のような、
滅亡よりはマシにしても、地獄の鬼畜にも等しい所業がまかり通る現今の社会もまた、欧米が支配征服しているものに過ぎない。

人類滅亡という最悪の大火よりは、多少の水分補給だけは許している、圧倒的な火勢の優位の中に、なけなしで劣位な水勢が
取り残されている今のような状態が「火水未済」にあたり、自分たちから「人類滅亡」という最悪のシナリオを呼び込んでおいて、
それよりも一段階だけマシなだけな、生かさず殺さずの地獄界をもたらしている、全ての責任が欧米人自身にあるのであり、
「人類を滅亡の危機から自分たちが守っている」という欧米人の自己正当化込みの言い訳は、事実無根であるが故に無効である。

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045 2010/09/13(月) 23:23:27 ID:h0Dj98xf/I:SoftBank
前スレ埋めといてやったぞ

礼は?

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046 2010/09/14(火) 00:21:30 ID:XY7YSrpqEc:DoCoMo
愛しのズィンミーちゃんw

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047 2010/09/14(火) 11:11:39 ID:iSUNxYczpw
頼んでもいないのにわざわざ勝手にスレを埋めといて謝礼を要求する。
自分たちこそは世界最悪の核備蓄者でいて、日本などに対して安全保障の
感謝と信頼を強要するアメリカにも等しい姿だ。本当は守る側ではなく
守られる側、庇護される側となるぐらいでちょうどいい存在なのに。

「民人苦病し、夫婦皆詛う。祝すること益あれば、詛うも亦た損あり。
(中略)其れ善く祝すると雖も、豈に能く億兆人の詛いに勝たんや」
「多くの人々が疫病や飢餓に苦しみ、老若男女誰しもが今の支配者を呪っている。
祝されることが支配者の益になる一方で、呪われることもまた為政者の損となる。
(一部の洗脳済みの人間などに)多少祝されたところで、何十億もの人々の呪いになぜ勝てようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公二十年より)

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048 2010/09/14(火) 11:13:01 ID:iSUNxYczpw
削除(by投稿者)

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049 2010/09/14(火) 13:20:18 ID:K.aQSHGofs:SoftBank
一度ノッてきたくせに

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050 2010/09/14(火) 21:12:25 ID:iSUNxYczpw
愛しのズィンミー(庇護民)。

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051 2010/09/15(水) 13:38:21 ID:zPncMZHFFw
「書経」湯誓や泰誓においても、夏の桀王や殷の紂王が罪人も同然の悪逆非道な振る舞いを繰り返し、
実際に罪人を近づけて共に無辜の市民を虐げて金品を略奪するなどの、盗賊そのままな犯罪行為にも及んでいたことが指摘されている。
特に、殷の紂王の放辟邪侈は、「酒池肉林」などというおどろおどろしい故事成語によっても有名だが、
そのような、非道極まりない犯罪者や権力犯罪者をも多く生み出しておきながらも、その非道さが世の中に対して
どれほどもの悪影響を及ぼしていたのかということが、中国においては非常に具体的で如実な形で指摘されてもいる。
それは、夏桀殷紂のような暴君も多く生み出した一方で、その糾弾者としての湯王や武王なども中国においては多く輩出され、
彼らが暴君を放伐して善政を敷くなどの模範例をも身を以て実現したために、ダークサイドとしての非道な暴政などを
如実に著しても、それを「反面教師」として十分に遠ざけつつ教訓とすることができたから。

然るに、西洋においては、夏桀殷紂に相当するような暴君はいくらでもいた一方で、湯王や武王に該当するような聖王は
一人も輩出されず、支配者から平民にいたるまで総員犯罪者状態であり続けてきたために、その行状を中国の暴君の場合のように
反面教師として遠ざけつつの教訓にすることすらできない。どこもかしこも重犯罪だらけで、それを放伐できるだけの
善政も徳行もどこにも存在しないために、その如実な姿を説明したりすれば、「カラマーゾフの兄弟」における「大審問官」
みたいな全く救いようのない地獄絵図と化してしまう。だから、そのような罪悪まみれの現実から目を背けてお花畑に遊んでいるか、
重犯罪者としての現実を突き進むかの二つしかあり得ない。現実における罪悪まみれを払拭するという選択肢が皆無であるために、
罪悪まみれの現実から目を背けるための、空想上のお花畑を提供してくれるイエスあたりが持て囃されてもいたのだ。

「上天孚に下民を佑けて、罪人黜伏す」
「上天は常に正しい者を助けて、罪人を調伏するものである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・湯誥より)

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