KNHS、KNRS(行為能力否定主義、行為能力劣後主義)
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「KNHS」・・・行為能力否定主義、もしくは行為能力否定主義者の略。
法的金銭的権利(行為能力)の行使こそは世を乱す元凶であるとして、自らも
できる限り社会的権利をかなぐり捨て、またそれらの権利と無縁であろうとすること。
乞食行に専念するインドの聖人や、世を避けることに専念する中国の隠者など。
「KNRS」・・・行為能力劣後主義、もしくは行為能力劣後主義者の略。
KNHSのように行為能力を完全否定するのではなく、世の繁栄のために
善用することも可能であるとした上で、その暴走による世の乱脈を制御するために、
行為能力を直接取り扱う法治主義や商業を劣後して、道徳主義や士人を優先する。
富貴と貧困の両極端に振れ切らない中道を説いた仏教、鬼神を敬してこれを遠ざく儒家など。
今の世では、とにかく粗大に行使できる者であればあるほど偉いとされている行為能力の価値を
完全否定したり、完全否定とまではいかずとも十分に劣後したりする方向性が東洋哲学にはあり、
それによって乱世を抑制してきた優秀な歴史がある。行為能力を完全否定するKNHSだけでなく、
完全には否定せずとも十分に劣後するKNRSまでもが仏教や儒家などとして樹立されたために、
単なる乞食や隠者の増えすぎによる世の衰退も未然に防止してきた。全肯定しても、
全否定しても弊害の生ずる行為能力への対処として、あらゆる選択肢を取り揃えている。

法的金銭的権利(行為能力)の行使こそは世を乱す元凶であるとして、自らも
できる限り社会的権利をかなぐり捨て、またそれらの権利と無縁であろうとすること。
乞食行に専念するインドの聖人や、世を避けることに専念する中国の隠者など。
「KNRS」・・・行為能力劣後主義、もしくは行為能力劣後主義者の略。
KNHSのように行為能力を完全否定するのではなく、世の繁栄のために
善用することも可能であるとした上で、その暴走による世の乱脈を制御するために、
行為能力を直接取り扱う法治主義や商業を劣後して、道徳主義や士人を優先する。
富貴と貧困の両極端に振れ切らない中道を説いた仏教、鬼神を敬してこれを遠ざく儒家など。
今の世では、とにかく粗大に行使できる者であればあるほど偉いとされている行為能力の価値を
完全否定したり、完全否定とまではいかずとも十分に劣後したりする方向性が東洋哲学にはあり、
それによって乱世を抑制してきた優秀な歴史がある。行為能力を完全否定するKNHSだけでなく、
完全には否定せずとも十分に劣後するKNRSまでもが仏教や儒家などとして樹立されたために、
単なる乞食や隠者の増えすぎによる世の衰退も未然に防止してきた。全肯定しても、
全否定しても弊害の生ずる行為能力への対処として、あらゆる選択肢を取り揃えている。

このスレの主題はあくまでKNHSやKNRSとしていくが、上記の定義に基づいた場合、
とにかく働いとけばいいと思っていたり、社会的に成功すればそれでいいと思っているような
今の先進国の大多数をも占めているタイプの人間は、KNKS(行為能力肯定主義者)や
KNGS(行為能力原理主義者)であるといえる。KNKSはまだ、過労への忌避なども
持っていて、仕事を「仕方なくやるもの」のように考えている場合もあるが、KNGSともなれば、
仕事や社会的成功こそは人生の全てとなり、それらに価値を見出さず、興味も示さないKNHSやKNRSを
「ダメ人間」や「ニート」などといった言葉で貶めようともする。実際、先進国内において無職やニートで
あるような人間は、自分のあり方を「いけないもの」だと思い込んで、やっぱり働いたほうがいいという
内面的なKNKSである場合が多く、自分がKNKSであると共に、無職やニートでもあることの
乖離に悩んでいたりする。つまり、実践面がKNHSやKNRSに即していることと、当人が
KNHSやKNRSであることとは必ずしも連動しておらず、ガッポリ大金を稼ぎながら
「働くことなんかに大した価値はない」などとほざく、ホリエモンのような人間もいる。
この俺はといえば、自分自身ではKNRSを自認しているものの、実践面ではKNHSですらある。
働いたり社会的に成功したりすることにも場合によっては価値があるが、今のような行動即犯罪の世の中に
おいては、まずそのような価値はない。そのため論調はKNRSでありながら、実践面では自他に対して
KNHSを推奨する、多少の名実の乖離がある。ただ、自分自身の実感も踏まえて言わせてもらえば、
KNHSとKNRSの乖離はそれほど心的負担にはならず、行為能力に対して少なからず肯定的である
KNKSやKNGSと、少なからず否定的であるKNHSやKNRSとに名実が分かれた場合にこそ、
セルフイメージと事実上の姿との落差による苦悩が生まれてしまうようである。
とにかく働いとけばいいと思っていたり、社会的に成功すればそれでいいと思っているような
今の先進国の大多数をも占めているタイプの人間は、KNKS(行為能力肯定主義者)や
KNGS(行為能力原理主義者)であるといえる。KNKSはまだ、過労への忌避なども
持っていて、仕事を「仕方なくやるもの」のように考えている場合もあるが、KNGSともなれば、
仕事や社会的成功こそは人生の全てとなり、それらに価値を見出さず、興味も示さないKNHSやKNRSを
「ダメ人間」や「ニート」などといった言葉で貶めようともする。実際、先進国内において無職やニートで
あるような人間は、自分のあり方を「いけないもの」だと思い込んで、やっぱり働いたほうがいいという
内面的なKNKSである場合が多く、自分がKNKSであると共に、無職やニートでもあることの
乖離に悩んでいたりする。つまり、実践面がKNHSやKNRSに即していることと、当人が
KNHSやKNRSであることとは必ずしも連動しておらず、ガッポリ大金を稼ぎながら
「働くことなんかに大した価値はない」などとほざく、ホリエモンのような人間もいる。
この俺はといえば、自分自身ではKNRSを自認しているものの、実践面ではKNHSですらある。
働いたり社会的に成功したりすることにも場合によっては価値があるが、今のような行動即犯罪の世の中に
おいては、まずそのような価値はない。そのため論調はKNRSでありながら、実践面では自他に対して
KNHSを推奨する、多少の名実の乖離がある。ただ、自分自身の実感も踏まえて言わせてもらえば、
KNHSとKNRSの乖離はそれほど心的負担にはならず、行為能力に対して少なからず肯定的である
KNKSやKNGSと、少なからず否定的であるKNHSやKNRSとに名実が分かれた場合にこそ、
セルフイメージと事実上の姿との落差による苦悩が生まれてしまうようである。
KNHSの聖典:
「老子」「荘子」「列子」などの各種道蔵(道家教典)。小乗仏典。ジャイナ教典など。
KNRSの聖典:
ヴェーダ。ウパニシャッド。大乗仏典。四書五経の一部など。
道家の教義がKNHSに即していることは読むに明らか。インドの乞食行者である制度外沙門が
釈迦やマハーヴィーラの口を借りた小乗仏典やジャイナ教典も、KNHSの聖典として模範的。
一方で、ヴェーダやウパニシャッドは、カースト制のインド社会における祭司階級としての身分を固めている
バラモンが編み出したものであるため、KNHSであるとまではいえない。しかし、バラモンもまた
出家志向を大いに肯定する側面があり(「マヌ法典」などを参照)、KNRS程度であるとはいえる。
体裁上では俗世での積極的な活動を推奨する「論語」などの四書五経にも、隠者や鬼神を敬いつつも
自分たちは俗世での活動を嗜むKNRS的な側面が多々見受けられる。畢竟、東洋哲学宗教は、
少なからずKNHSやKNRS的な側面を付帯している点において、ほぼ共通している。
(例外として、「韓非子」などの中国法家思想や、二宮尊徳の報徳思想などが挙げられる)
「老子」「荘子」「列子」などの各種道蔵(道家教典)。小乗仏典。ジャイナ教典など。
KNRSの聖典:
ヴェーダ。ウパニシャッド。大乗仏典。四書五経の一部など。
道家の教義がKNHSに即していることは読むに明らか。インドの乞食行者である制度外沙門が
釈迦やマハーヴィーラの口を借りた小乗仏典やジャイナ教典も、KNHSの聖典として模範的。
一方で、ヴェーダやウパニシャッドは、カースト制のインド社会における祭司階級としての身分を固めている
バラモンが編み出したものであるため、KNHSであるとまではいえない。しかし、バラモンもまた
出家志向を大いに肯定する側面があり(「マヌ法典」などを参照)、KNRS程度であるとはいえる。
体裁上では俗世での積極的な活動を推奨する「論語」などの四書五経にも、隠者や鬼神を敬いつつも
自分たちは俗世での活動を嗜むKNRS的な側面が多々見受けられる。畢竟、東洋哲学宗教は、
少なからずKNHSやKNRS的な側面を付帯している点において、ほぼ共通している。
(例外として、「韓非子」などの中国法家思想や、二宮尊徳の報徳思想などが挙げられる)
あんたには、「何か」が足りないなぁ。
何だろう?
何だろう?
そりゃあもちろん、「語りすぎている」ことだ。
おまえらみたい賤人を相手にするために、わざと横柄で驕慢にも振舞いつつ、語っている。
そうであることがすでに自らの貫目を引き落とす行為であり、
「偉人であっても態度の恭しさが伴わないのなら、見る姿もない」
という孔子の提示する法則にも即して、確かに威厳のない愚人然とした姿となっている。
封建社会において、将軍や大名のような上位者が匹夫との会話すら避けるのも、
匹夫の愚かさが自分にまで移って威厳を損なうことを恥じるため。
そのことを「差別だ」などとして怨んだところで、貴人を貶めるような言動の卑しさを
自分たち自身が帯びているのだから、貴人がおまえらと同レベルにまで降りてきてくれた
結果としての、俺の愚かしい言動を嫌がったりするのとは矛盾している。
貴人には貴人らしくあって欲しいというのなら、自分たちから隔絶されたところに
貴人がいらっしゃり、自分たちが手も出せなくなるような封建状態を認めなければならない。
おまえらみたい賤人を相手にするために、わざと横柄で驕慢にも振舞いつつ、語っている。
そうであることがすでに自らの貫目を引き落とす行為であり、
「偉人であっても態度の恭しさが伴わないのなら、見る姿もない」
という孔子の提示する法則にも即して、確かに威厳のない愚人然とした姿となっている。
封建社会において、将軍や大名のような上位者が匹夫との会話すら避けるのも、
匹夫の愚かさが自分にまで移って威厳を損なうことを恥じるため。
そのことを「差別だ」などとして怨んだところで、貴人を貶めるような言動の卑しさを
自分たち自身が帯びているのだから、貴人がおまえらと同レベルにまで降りてきてくれた
結果としての、俺の愚かしい言動を嫌がったりするのとは矛盾している。
貴人には貴人らしくあって欲しいというのなら、自分たちから隔絶されたところに
貴人がいらっしゃり、自分たちが手も出せなくなるような封建状態を認めなければならない。
>>4では説明を抜かしてしまったが、大乗仏教やその経典である大乗仏典は、実はKNHSではなくKNRSの聖典。
王族階級(クシャトリヤ)から出家して制度外沙門となった、釈迦が説いた論説により近いとされている小乗仏典は
KNHS的な側面が強く、その実践者である上座部仏教徒も俗世から完全に隔絶したKNHS的な生活に安んずる。
しかし、大乗仏教は、龍樹菩薩のような祭司階級(バラモン)から出家して沙門となった仏教徒などが主に作り上げた
教説であるため、元よりKNRS性が色濃いバラモン教義の影響を大きく受けており、KNHS性は比較的低い。
小乗仏典が素朴な口述に終始しているのに対し、大乗仏典は衆生を魅惑する荘厳や方便で彩られているところなどが
特にKNRS的な側面であり、このような彩りはヴェーダやウパニシャッドにもある一方で、小乗仏典だけにはない。
別段小乗仏典のほうが成立が早いから大乗仏典よりも素朴なのではなく、沙門としてのKNHSに特化しているからこそ
小乗仏教は素朴で飾り気がない。飾り気がない大乗仏教としては禅などがあるが、その禅仏教ですらやはり、小乗仏典の
「法句経」における「諸悪莫作修善奉行」という教義を「3歳の子供にも分かるが、80歳の老人にもできない」と揶揄し
(「正法眼蔵」などを参照)、俗世における積極的な活動の意義を説いたりもする。結局、KNHS的な小乗仏教と、
KNRS的な大乗仏教とのいずれが、仏祖たる釈迦の意向に即しているのかといえば、理論面で即しているのは大乗仏教、
実践面で即しているのは小乗仏教であるといえる。富貴と貧困の両極端に振れきることを咎める釈尊の中道志向は
明らかにKNRS的だが、釈尊自身は身を切るような苦行にも没入した中でこそ、中道第一義諦という真理を大悟した。
大乗仏教でも密教などは、釈尊が成道するに至った苦行の過程までをも再現に努めたりはするが、やはり「秘密」とし、
表向きはあくまでKNRSであることを最上とする。土木事業などにも奔走した、弘法大師の事跡からも分かるとおり。
王族階級(クシャトリヤ)から出家して制度外沙門となった、釈迦が説いた論説により近いとされている小乗仏典は
KNHS的な側面が強く、その実践者である上座部仏教徒も俗世から完全に隔絶したKNHS的な生活に安んずる。
しかし、大乗仏教は、龍樹菩薩のような祭司階級(バラモン)から出家して沙門となった仏教徒などが主に作り上げた
教説であるため、元よりKNRS性が色濃いバラモン教義の影響を大きく受けており、KNHS性は比較的低い。
小乗仏典が素朴な口述に終始しているのに対し、大乗仏典は衆生を魅惑する荘厳や方便で彩られているところなどが
特にKNRS的な側面であり、このような彩りはヴェーダやウパニシャッドにもある一方で、小乗仏典だけにはない。
別段小乗仏典のほうが成立が早いから大乗仏典よりも素朴なのではなく、沙門としてのKNHSに特化しているからこそ
小乗仏教は素朴で飾り気がない。飾り気がない大乗仏教としては禅などがあるが、その禅仏教ですらやはり、小乗仏典の
「法句経」における「諸悪莫作修善奉行」という教義を「3歳の子供にも分かるが、80歳の老人にもできない」と揶揄し
(「正法眼蔵」などを参照)、俗世における積極的な活動の意義を説いたりもする。結局、KNHS的な小乗仏教と、
KNRS的な大乗仏教とのいずれが、仏祖たる釈迦の意向に即しているのかといえば、理論面で即しているのは大乗仏教、
実践面で即しているのは小乗仏教であるといえる。富貴と貧困の両極端に振れきることを咎める釈尊の中道志向は
明らかにKNRS的だが、釈尊自身は身を切るような苦行にも没入した中でこそ、中道第一義諦という真理を大悟した。
大乗仏教でも密教などは、釈尊が成道するに至った苦行の過程までをも再現に努めたりはするが、やはり「秘密」とし、
表向きはあくまでKNRSであることを最上とする。土木事業などにも奔走した、弘法大師の事跡からも分かるとおり。
KNHSとKNRSの決定的な違いの一つが、「妻子持ちに否定的か否か」という点。
女子供には基本、乞食や隠者となってまでKNHSの実践に努める能力はなく、
結婚して妻子も養うというのなら、そうする男性自身もある程度は行為能力を用いる必要が出てくる。
そのため、乞食行者となる男性の沙門などは妻子を持つことも拒絶し、独身のままで一生苦行に専念するし、
そこまでいかない中国の隠者などもまた、王侯からの贈与や招聘を断って妻子を落胆させたりする(「列子」などを参照)。
否が応にも行為能力を用いざるを得ない、妻子持ちというカルマに対して、専ら否定的であるのがKNHS。
一方、KNRSの場合は、自分が妻子持ちとなることを否定しないのはもちろんのこと、
君臣父子夫婦の三綱を構築するための重要事として、時にKNKSやKNGS以上にも丁重な尊重の対象とする。
もちろんそのために、自らが法的経済的権利を行使することも認めるわけだが、一方でやはり、
行為能力への劣後も欠かさず、法律家や商売人への徹底した差別と共に社会生活を営んでいこうとする。
昔の日本の武家などは強度のKNRSであり、ごちゃごちゃとした成文法制や商業権力への劣後と引き換えに、
切腹のような峻厳な自己規律や、奢侈を控える清貧もわきまえていた。それでいて当然、妻子持ちでもあり、
武家の妻や子供であるものもまた、わざわざ「KNRS」などというおかしな横文字によらずとも、
自分たちがKNRSを旨とする武家であることをわきまえて、謹厳実直な振舞いでいることに努めていた。
女子供には基本、乞食や隠者となってまでKNHSの実践に努める能力はなく、
結婚して妻子も養うというのなら、そうする男性自身もある程度は行為能力を用いる必要が出てくる。
そのため、乞食行者となる男性の沙門などは妻子を持つことも拒絶し、独身のままで一生苦行に専念するし、
そこまでいかない中国の隠者などもまた、王侯からの贈与や招聘を断って妻子を落胆させたりする(「列子」などを参照)。
否が応にも行為能力を用いざるを得ない、妻子持ちというカルマに対して、専ら否定的であるのがKNHS。
一方、KNRSの場合は、自分が妻子持ちとなることを否定しないのはもちろんのこと、
君臣父子夫婦の三綱を構築するための重要事として、時にKNKSやKNGS以上にも丁重な尊重の対象とする。
もちろんそのために、自らが法的経済的権利を行使することも認めるわけだが、一方でやはり、
行為能力への劣後も欠かさず、法律家や商売人への徹底した差別と共に社会生活を営んでいこうとする。
昔の日本の武家などは強度のKNRSであり、ごちゃごちゃとした成文法制や商業権力への劣後と引き換えに、
切腹のような峻厳な自己規律や、奢侈を控える清貧もわきまえていた。それでいて当然、妻子持ちでもあり、
武家の妻や子供であるものもまた、わざわざ「KNRS」などというおかしな横文字によらずとも、
自分たちがKNRSを旨とする武家であることをわきまえて、謹厳実直な振舞いでいることに努めていた。
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