KNHS、KNRS(行為能力否定主義、行為能力劣後主義)
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「KNHS」・・・行為能力否定主義、もしくは行為能力否定主義者の略。
法的金銭的権利(行為能力)の行使こそは世を乱す元凶であるとして、自らも
できる限り社会的権利をかなぐり捨て、またそれらの権利と無縁であろうとすること。
乞食行に専念するインドの聖人や、世を避けることに専念する中国の隠者など。
「KNRS」・・・行為能力劣後主義、もしくは行為能力劣後主義者の略。
KNHSのように行為能力を完全否定するのではなく、世の繁栄のために
善用することも可能であるとした上で、その暴走による世の乱脈を制御するために、
行為能力を直接取り扱う法治主義や商業を劣後して、道徳主義や士人を優先する。
富貴と貧困の両極端に振れ切らない中道を説いた仏教、鬼神を敬してこれを遠ざく儒家など。
今の世では、とにかく粗大に行使できる者であればあるほど偉いとされている行為能力の価値を
完全否定したり、完全否定とまではいかずとも十分に劣後したりする方向性が東洋哲学にはあり、
それによって乱世を抑制してきた優秀な歴史がある。行為能力を完全否定するKNHSだけでなく、
完全には否定せずとも十分に劣後するKNRSまでもが仏教や儒家などとして樹立されたために、
単なる乞食や隠者の増えすぎによる世の衰退も未然に防止してきた。全肯定しても、
全否定しても弊害の生ずる行為能力への対処として、あらゆる選択肢を取り揃えている。

法的金銭的権利(行為能力)の行使こそは世を乱す元凶であるとして、自らも
できる限り社会的権利をかなぐり捨て、またそれらの権利と無縁であろうとすること。
乞食行に専念するインドの聖人や、世を避けることに専念する中国の隠者など。
「KNRS」・・・行為能力劣後主義、もしくは行為能力劣後主義者の略。
KNHSのように行為能力を完全否定するのではなく、世の繁栄のために
善用することも可能であるとした上で、その暴走による世の乱脈を制御するために、
行為能力を直接取り扱う法治主義や商業を劣後して、道徳主義や士人を優先する。
富貴と貧困の両極端に振れ切らない中道を説いた仏教、鬼神を敬してこれを遠ざく儒家など。
今の世では、とにかく粗大に行使できる者であればあるほど偉いとされている行為能力の価値を
完全否定したり、完全否定とまではいかずとも十分に劣後したりする方向性が東洋哲学にはあり、
それによって乱世を抑制してきた優秀な歴史がある。行為能力を完全否定するKNHSだけでなく、
完全には否定せずとも十分に劣後するKNRSまでもが仏教や儒家などとして樹立されたために、
単なる乞食や隠者の増えすぎによる世の衰退も未然に防止してきた。全肯定しても、
全否定しても弊害の生ずる行為能力への対処として、あらゆる選択肢を取り揃えている。

このスレの主題はあくまでKNHSやKNRSとしていくが、上記の定義に基づいた場合、
とにかく働いとけばいいと思っていたり、社会的に成功すればそれでいいと思っているような
今の先進国の大多数をも占めているタイプの人間は、KNKS(行為能力肯定主義者)や
KNGS(行為能力原理主義者)であるといえる。KNKSはまだ、過労への忌避なども
持っていて、仕事を「仕方なくやるもの」のように考えている場合もあるが、KNGSともなれば、
仕事や社会的成功こそは人生の全てとなり、それらに価値を見出さず、興味も示さないKNHSやKNRSを
「ダメ人間」や「ニート」などといった言葉で貶めようともする。実際、先進国内において無職やニートで
あるような人間は、自分のあり方を「いけないもの」だと思い込んで、やっぱり働いたほうがいいという
内面的なKNKSである場合が多く、自分がKNKSであると共に、無職やニートでもあることの
乖離に悩んでいたりする。つまり、実践面がKNHSやKNRSに即していることと、当人が
KNHSやKNRSであることとは必ずしも連動しておらず、ガッポリ大金を稼ぎながら
「働くことなんかに大した価値はない」などとほざく、ホリエモンのような人間もいる。
この俺はといえば、自分自身ではKNRSを自認しているものの、実践面ではKNHSですらある。
働いたり社会的に成功したりすることにも場合によっては価値があるが、今のような行動即犯罪の世の中に
おいては、まずそのような価値はない。そのため論調はKNRSでありながら、実践面では自他に対して
KNHSを推奨する、多少の名実の乖離がある。ただ、自分自身の実感も踏まえて言わせてもらえば、
KNHSとKNRSの乖離はそれほど心的負担にはならず、行為能力に対して少なからず肯定的である
KNKSやKNGSと、少なからず否定的であるKNHSやKNRSとに名実が分かれた場合にこそ、
セルフイメージと事実上の姿との落差による苦悩が生まれてしまうようである。
とにかく働いとけばいいと思っていたり、社会的に成功すればそれでいいと思っているような
今の先進国の大多数をも占めているタイプの人間は、KNKS(行為能力肯定主義者)や
KNGS(行為能力原理主義者)であるといえる。KNKSはまだ、過労への忌避なども
持っていて、仕事を「仕方なくやるもの」のように考えている場合もあるが、KNGSともなれば、
仕事や社会的成功こそは人生の全てとなり、それらに価値を見出さず、興味も示さないKNHSやKNRSを
「ダメ人間」や「ニート」などといった言葉で貶めようともする。実際、先進国内において無職やニートで
あるような人間は、自分のあり方を「いけないもの」だと思い込んで、やっぱり働いたほうがいいという
内面的なKNKSである場合が多く、自分がKNKSであると共に、無職やニートでもあることの
乖離に悩んでいたりする。つまり、実践面がKNHSやKNRSに即していることと、当人が
KNHSやKNRSであることとは必ずしも連動しておらず、ガッポリ大金を稼ぎながら
「働くことなんかに大した価値はない」などとほざく、ホリエモンのような人間もいる。
この俺はといえば、自分自身ではKNRSを自認しているものの、実践面ではKNHSですらある。
働いたり社会的に成功したりすることにも場合によっては価値があるが、今のような行動即犯罪の世の中に
おいては、まずそのような価値はない。そのため論調はKNRSでありながら、実践面では自他に対して
KNHSを推奨する、多少の名実の乖離がある。ただ、自分自身の実感も踏まえて言わせてもらえば、
KNHSとKNRSの乖離はそれほど心的負担にはならず、行為能力に対して少なからず肯定的である
KNKSやKNGSと、少なからず否定的であるKNHSやKNRSとに名実が分かれた場合にこそ、
セルフイメージと事実上の姿との落差による苦悩が生まれてしまうようである。
KNHSの聖典:
「老子」「荘子」「列子」などの各種道蔵(道家教典)。小乗仏典。ジャイナ教典など。
KNRSの聖典:
ヴェーダ。ウパニシャッド。大乗仏典。四書五経の一部など。
道家の教義がKNHSに即していることは読むに明らか。インドの乞食行者である制度外沙門が
釈迦やマハーヴィーラの口を借りた小乗仏典やジャイナ教典も、KNHSの聖典として模範的。
一方で、ヴェーダやウパニシャッドは、カースト制のインド社会における祭司階級としての身分を固めている
バラモンが編み出したものであるため、KNHSであるとまではいえない。しかし、バラモンもまた
出家志向を大いに肯定する側面があり(「マヌ法典」などを参照)、KNRS程度であるとはいえる。
体裁上では俗世での積極的な活動を推奨する「論語」などの四書五経にも、隠者や鬼神を敬いつつも
自分たちは俗世での活動を嗜むKNRS的な側面が多々見受けられる。畢竟、東洋哲学宗教は、
少なからずKNHSやKNRS的な側面を付帯している点において、ほぼ共通している。
(例外として、「韓非子」などの中国法家思想や、二宮尊徳の報徳思想などが挙げられる)
「老子」「荘子」「列子」などの各種道蔵(道家教典)。小乗仏典。ジャイナ教典など。
KNRSの聖典:
ヴェーダ。ウパニシャッド。大乗仏典。四書五経の一部など。
道家の教義がKNHSに即していることは読むに明らか。インドの乞食行者である制度外沙門が
釈迦やマハーヴィーラの口を借りた小乗仏典やジャイナ教典も、KNHSの聖典として模範的。
一方で、ヴェーダやウパニシャッドは、カースト制のインド社会における祭司階級としての身分を固めている
バラモンが編み出したものであるため、KNHSであるとまではいえない。しかし、バラモンもまた
出家志向を大いに肯定する側面があり(「マヌ法典」などを参照)、KNRS程度であるとはいえる。
体裁上では俗世での積極的な活動を推奨する「論語」などの四書五経にも、隠者や鬼神を敬いつつも
自分たちは俗世での活動を嗜むKNRS的な側面が多々見受けられる。畢竟、東洋哲学宗教は、
少なからずKNHSやKNRS的な側面を付帯している点において、ほぼ共通している。
(例外として、「韓非子」などの中国法家思想や、二宮尊徳の報徳思想などが挙げられる)
あんたには、「何か」が足りないなぁ。
何だろう?
何だろう?
そりゃあもちろん、「語りすぎている」ことだ。
おまえらみたい賤人を相手にするために、わざと横柄で驕慢にも振舞いつつ、語っている。
そうであることがすでに自らの貫目を引き落とす行為であり、
「偉人であっても態度の恭しさが伴わないのなら、見る姿もない」
という孔子の提示する法則にも即して、確かに威厳のない愚人然とした姿となっている。
封建社会において、将軍や大名のような上位者が匹夫との会話すら避けるのも、
匹夫の愚かさが自分にまで移って威厳を損なうことを恥じるため。
そのことを「差別だ」などとして怨んだところで、貴人を貶めるような言動の卑しさを
自分たち自身が帯びているのだから、貴人がおまえらと同レベルにまで降りてきてくれた
結果としての、俺の愚かしい言動を嫌がったりするのとは矛盾している。
貴人には貴人らしくあって欲しいというのなら、自分たちから隔絶されたところに
貴人がいらっしゃり、自分たちが手も出せなくなるような封建状態を認めなければならない。
おまえらみたい賤人を相手にするために、わざと横柄で驕慢にも振舞いつつ、語っている。
そうであることがすでに自らの貫目を引き落とす行為であり、
「偉人であっても態度の恭しさが伴わないのなら、見る姿もない」
という孔子の提示する法則にも即して、確かに威厳のない愚人然とした姿となっている。
封建社会において、将軍や大名のような上位者が匹夫との会話すら避けるのも、
匹夫の愚かさが自分にまで移って威厳を損なうことを恥じるため。
そのことを「差別だ」などとして怨んだところで、貴人を貶めるような言動の卑しさを
自分たち自身が帯びているのだから、貴人がおまえらと同レベルにまで降りてきてくれた
結果としての、俺の愚かしい言動を嫌がったりするのとは矛盾している。
貴人には貴人らしくあって欲しいというのなら、自分たちから隔絶されたところに
貴人がいらっしゃり、自分たちが手も出せなくなるような封建状態を認めなければならない。
>>4では説明を抜かしてしまったが、大乗仏教やその経典である大乗仏典は、実はKNHSではなくKNRSの聖典。
王族階級(クシャトリヤ)から出家して制度外沙門となった、釈迦が説いた論説により近いとされている小乗仏典は
KNHS的な側面が強く、その実践者である上座部仏教徒も俗世から完全に隔絶したKNHS的な生活に安んずる。
しかし、大乗仏教は、龍樹菩薩のような祭司階級(バラモン)から出家して沙門となった仏教徒などが主に作り上げた
教説であるため、元よりKNRS性が色濃いバラモン教義の影響を大きく受けており、KNHS性は比較的低い。
小乗仏典が素朴な口述に終始しているのに対し、大乗仏典は衆生を魅惑する荘厳や方便で彩られているところなどが
特にKNRS的な側面であり、このような彩りはヴェーダやウパニシャッドにもある一方で、小乗仏典だけにはない。
別段小乗仏典のほうが成立が早いから大乗仏典よりも素朴なのではなく、沙門としてのKNHSに特化しているからこそ
小乗仏教は素朴で飾り気がない。飾り気がない大乗仏教としては禅などがあるが、その禅仏教ですらやはり、小乗仏典の
「法句経」における「諸悪莫作修善奉行」という教義を「3歳の子供にも分かるが、80歳の老人にもできない」と揶揄し
(「正法眼蔵」などを参照)、俗世における積極的な活動の意義を説いたりもする。結局、KNHS的な小乗仏教と、
KNRS的な大乗仏教とのいずれが、仏祖たる釈迦の意向に即しているのかといえば、理論面で即しているのは大乗仏教、
実践面で即しているのは小乗仏教であるといえる。富貴と貧困の両極端に振れきることを咎める釈尊の中道志向は
明らかにKNRS的だが、釈尊自身は身を切るような苦行にも没入した中でこそ、中道第一義諦という真理を大悟した。
大乗仏教でも密教などは、釈尊が成道するに至った苦行の過程までをも再現に努めたりはするが、やはり「秘密」とし、
表向きはあくまでKNRSであることを最上とする。土木事業などにも奔走した、弘法大師の事跡からも分かるとおり。
王族階級(クシャトリヤ)から出家して制度外沙門となった、釈迦が説いた論説により近いとされている小乗仏典は
KNHS的な側面が強く、その実践者である上座部仏教徒も俗世から完全に隔絶したKNHS的な生活に安んずる。
しかし、大乗仏教は、龍樹菩薩のような祭司階級(バラモン)から出家して沙門となった仏教徒などが主に作り上げた
教説であるため、元よりKNRS性が色濃いバラモン教義の影響を大きく受けており、KNHS性は比較的低い。
小乗仏典が素朴な口述に終始しているのに対し、大乗仏典は衆生を魅惑する荘厳や方便で彩られているところなどが
特にKNRS的な側面であり、このような彩りはヴェーダやウパニシャッドにもある一方で、小乗仏典だけにはない。
別段小乗仏典のほうが成立が早いから大乗仏典よりも素朴なのではなく、沙門としてのKNHSに特化しているからこそ
小乗仏教は素朴で飾り気がない。飾り気がない大乗仏教としては禅などがあるが、その禅仏教ですらやはり、小乗仏典の
「法句経」における「諸悪莫作修善奉行」という教義を「3歳の子供にも分かるが、80歳の老人にもできない」と揶揄し
(「正法眼蔵」などを参照)、俗世における積極的な活動の意義を説いたりもする。結局、KNHS的な小乗仏教と、
KNRS的な大乗仏教とのいずれが、仏祖たる釈迦の意向に即しているのかといえば、理論面で即しているのは大乗仏教、
実践面で即しているのは小乗仏教であるといえる。富貴と貧困の両極端に振れきることを咎める釈尊の中道志向は
明らかにKNRS的だが、釈尊自身は身を切るような苦行にも没入した中でこそ、中道第一義諦という真理を大悟した。
大乗仏教でも密教などは、釈尊が成道するに至った苦行の過程までをも再現に努めたりはするが、やはり「秘密」とし、
表向きはあくまでKNRSであることを最上とする。土木事業などにも奔走した、弘法大師の事跡からも分かるとおり。
KNHSとKNRSの決定的な違いの一つが、「妻子持ちに否定的か否か」という点。
女子供には基本、乞食や隠者となってまでKNHSの実践に努める能力はなく、
結婚して妻子も養うというのなら、そうする男性自身もある程度は行為能力を用いる必要が出てくる。
そのため、乞食行者となる男性の沙門などは妻子を持つことも拒絶し、独身のままで一生苦行に専念するし、
そこまでいかない中国の隠者などもまた、王侯からの贈与や招聘を断って妻子を落胆させたりする(「列子」などを参照)。
否が応にも行為能力を用いざるを得ない、妻子持ちというカルマに対して、専ら否定的であるのがKNHS。
一方、KNRSの場合は、自分が妻子持ちとなることを否定しないのはもちろんのこと、
君臣父子夫婦の三綱を構築するための重要事として、時にKNKSやKNGS以上にも丁重な尊重の対象とする。
もちろんそのために、自らが法的経済的権利を行使することも認めるわけだが、一方でやはり、
行為能力への劣後も欠かさず、法律家や商売人への徹底した差別と共に社会生活を営んでいこうとする。
昔の日本の武家などは強度のKNRSであり、ごちゃごちゃとした成文法制や商業権力への劣後と引き換えに、
切腹のような峻厳な自己規律や、奢侈を控える清貧もわきまえていた。それでいて当然、妻子持ちでもあり、
武家の妻や子供であるものもまた、わざわざ「KNRS」などというおかしな横文字によらずとも、
自分たちがKNRSを旨とする武家であることをわきまえて、謹厳実直な振舞いでいることに努めていた。
女子供には基本、乞食や隠者となってまでKNHSの実践に努める能力はなく、
結婚して妻子も養うというのなら、そうする男性自身もある程度は行為能力を用いる必要が出てくる。
そのため、乞食行者となる男性の沙門などは妻子を持つことも拒絶し、独身のままで一生苦行に専念するし、
そこまでいかない中国の隠者などもまた、王侯からの贈与や招聘を断って妻子を落胆させたりする(「列子」などを参照)。
否が応にも行為能力を用いざるを得ない、妻子持ちというカルマに対して、専ら否定的であるのがKNHS。
一方、KNRSの場合は、自分が妻子持ちとなることを否定しないのはもちろんのこと、
君臣父子夫婦の三綱を構築するための重要事として、時にKNKSやKNGS以上にも丁重な尊重の対象とする。
もちろんそのために、自らが法的経済的権利を行使することも認めるわけだが、一方でやはり、
行為能力への劣後も欠かさず、法律家や商売人への徹底した差別と共に社会生活を営んでいこうとする。
昔の日本の武家などは強度のKNRSであり、ごちゃごちゃとした成文法制や商業権力への劣後と引き換えに、
切腹のような峻厳な自己規律や、奢侈を控える清貧もわきまえていた。それでいて当然、妻子持ちでもあり、
武家の妻や子供であるものもまた、わざわざ「KNRS」などというおかしな横文字によらずとも、
自分たちがKNRSを旨とする武家であることをわきまえて、謹厳実直な振舞いでいることに努めていた。
釈尊がまだ、出家前の釈迦族の王子であった頃、国一番の美女とされる耶輸陀羅姫と結婚し、
息子の羅睺羅をもうけたそうだが、その妻子との縁も絶って釈尊は出家し、6年の苦行の後に
菩提樹の下で悟りを開いた。しかし、この時釈尊は一旦苦行や難行を中止し、近くの村の娘から
乳粥をもらって食すなどの、苦行者にあるまじき行為にも及んだため、修行仲間からも見放されていた。
一方で釈尊は、富貴と苦行の両極端に悟りを得る道はなく、両者の中道を行くことが悟りに至る道であると
悟ったために、このことを布教して多くの信者を得(かつての修行仲間もまた釈尊の下に帰ってきて帰依した)、
かつて出家のために縁を切った妻子の耶輸陀羅や羅睺羅までをも仏弟子として取り入れるに至った。
一度は縁を切った妻子すらをも教団の中に取り入れたあたり、成道後の釈尊は、もはや女子供が実践不能な
レベルの苦行などを弟子達に要求したりはせず、富みすぎず貧しすぎない中正な生活を送らせていたことが分かり、
仏教がいま日本で考えられているような、ただひたすら苦行に挑むストイック主義的なイメージとは、相当に
違った様相をその当初から帯びていたことが分かる。仏教の本義は根本からKNRSであり、KNHSではない。
息子の羅睺羅をもうけたそうだが、その妻子との縁も絶って釈尊は出家し、6年の苦行の後に
菩提樹の下で悟りを開いた。しかし、この時釈尊は一旦苦行や難行を中止し、近くの村の娘から
乳粥をもらって食すなどの、苦行者にあるまじき行為にも及んだため、修行仲間からも見放されていた。
一方で釈尊は、富貴と苦行の両極端に悟りを得る道はなく、両者の中道を行くことが悟りに至る道であると
悟ったために、このことを布教して多くの信者を得(かつての修行仲間もまた釈尊の下に帰ってきて帰依した)、
かつて出家のために縁を切った妻子の耶輸陀羅や羅睺羅までをも仏弟子として取り入れるに至った。
一度は縁を切った妻子すらをも教団の中に取り入れたあたり、成道後の釈尊は、もはや女子供が実践不能な
レベルの苦行などを弟子達に要求したりはせず、富みすぎず貧しすぎない中正な生活を送らせていたことが分かり、
仏教がいま日本で考えられているような、ただひたすら苦行に挑むストイック主義的なイメージとは、相当に
違った様相をその当初から帯びていたことが分かる。仏教の本義は根本からKNRSであり、KNHSではない。
ここでの主題ではないが、旧約聖書などはKNGS(行為能力原理主義)の聖典であるし、
新約聖書もKNKS(行為能力肯定主義)を世の隅々にまで行き渡らせるドグマを擁した聖典である。
KNGSやKNKSのドグマを金科玉条に掲げてきた西洋において、KNHSやKNRSが尊重されたことは
未だかつてない。かろうじて、古代ギリシャのヘラクレイトスの教説などに、多少のKNHS的な論調が
垣間見られるが、やはり全く実践の対象としては認められず、老荘に始まる中国の道家のような勢力とはなり得なかった。
そして何といっても、西洋にはKNRSに関する教説やその実践が絶無である。
別段自分が乞食や隠者にまでなるわけではないが、妻子も養いつつの積極的な社会活動を行なう中に、
法的経済的権力たる行為能力への劣後を心得る均衡の取れた姿勢が、西洋には未だかつて一度も取り入れられたことがない。
しかしその、西洋において完全なる絶無であるKNRSこそは、東洋において仏教や儒家などのかたちで、
王道中の王道の宗教哲学として高らかに称えられてきた。
KNGS的な側面を持つ「韓非子」などの法家を撃退し、KNHS的な教説を持つ道家は完全なる隠遁へと追い込んで、
中国でも儒家こそは国教扱いの最優等教学となった。KNHSである老荘などの道家が、ヘラクレイトスの言説などで
多少は身に覚えのある西洋人などにも好まれるのに対し、KNRSである儒家は全くの未知の存在であるために、
未だ忌避の対象となり続けている。仏教もまた、KNHS的な側面の色濃い小乗仏教のほうが西洋などで人気がある一方、
大乗仏教のKNRSらしい教義などには、不可解なものゆえの拒絶意識が持たれている。他力本願の浄土教などが、
仏教であるにもかかわらず肉食妻帯を許す本意などは到底理解できず、ただ「分からないもの」として保留され続けている。
新約聖書もKNKS(行為能力肯定主義)を世の隅々にまで行き渡らせるドグマを擁した聖典である。
KNGSやKNKSのドグマを金科玉条に掲げてきた西洋において、KNHSやKNRSが尊重されたことは
未だかつてない。かろうじて、古代ギリシャのヘラクレイトスの教説などに、多少のKNHS的な論調が
垣間見られるが、やはり全く実践の対象としては認められず、老荘に始まる中国の道家のような勢力とはなり得なかった。
そして何といっても、西洋にはKNRSに関する教説やその実践が絶無である。
別段自分が乞食や隠者にまでなるわけではないが、妻子も養いつつの積極的な社会活動を行なう中に、
法的経済的権力たる行為能力への劣後を心得る均衡の取れた姿勢が、西洋には未だかつて一度も取り入れられたことがない。
しかしその、西洋において完全なる絶無であるKNRSこそは、東洋において仏教や儒家などのかたちで、
王道中の王道の宗教哲学として高らかに称えられてきた。
KNGS的な側面を持つ「韓非子」などの法家を撃退し、KNHS的な教説を持つ道家は完全なる隠遁へと追い込んで、
中国でも儒家こそは国教扱いの最優等教学となった。KNHSである老荘などの道家が、ヘラクレイトスの言説などで
多少は身に覚えのある西洋人などにも好まれるのに対し、KNRSである儒家は全くの未知の存在であるために、
未だ忌避の対象となり続けている。仏教もまた、KNHS的な側面の色濃い小乗仏教のほうが西洋などで人気がある一方、
大乗仏教のKNRSらしい教義などには、不可解なものゆえの拒絶意識が持たれている。他力本願の浄土教などが、
仏教であるにもかかわらず肉食妻帯を許す本意などは到底理解できず、ただ「分からないもの」として保留され続けている。
KNGSやKNKSばかりを専らの本分とし、KNHSはちょっとした趣向の対象としかせず、
KNRSに至っては完全なる無視や拒絶の対象とする、西洋文化を主体とした現代社会。
その現代社会が、KNHSやKNRSを徹底して忌避や拒絶の対象とするのは、
そこに意味がないからではなく、あまりにも重大な意味が備わり過ぎているからでもある。
特に、現代においては完全なる無視や拒絶の対象とされている、儒学や大乗仏教を始めとするKNRSは、
行為能力の祭り上げすぎによって今にも破滅に陥ろうとしている、現代社会をただ救えるだけでなく、
KNHSばかりを急激に適用した結果、文明の急激な衰退を招いてしまうような副作用も防げる。
儒者も仏者も、ただ四書五経や仏典ばかりを学ぶだけでなく、当世における代表的な学問宗教をも概ね
吸収した上で、さらにその上に儒家教義や仏教教義を上乗せすることによって、悪い学問宗教を排して
善い学問宗教を推し進めていく雑食的な側面を持っているのであり、俗世との関係を完全に断ち切って
乞食や隠遁に専念するKNHSとはそこが異なっている。
ただ、上記のような形でKNRSたる儒学や大乗仏教を現代社会に適用するのならば、他のいかなる学問宗教にも
増して儒学や仏教を貴ばねばならず、それに連動して、善悪もみそくそに一緒くたとなっている既存の学問宗教への
厳重な劣後を講じなければならない。それがイヤだから、今の社会はKNRSとしての儒学や大乗仏教の効用を
完全無視し、完全に拒絶して、なかったものにしようとしている。まさに儒学や大乗仏教のKNRSとしての効用こそは、
現代社会の破滅を食い止める副作用なしの特効薬であるというのに、未だに服用する踏ん切りが付かないでいる。
KNRSに至っては完全なる無視や拒絶の対象とする、西洋文化を主体とした現代社会。
その現代社会が、KNHSやKNRSを徹底して忌避や拒絶の対象とするのは、
そこに意味がないからではなく、あまりにも重大な意味が備わり過ぎているからでもある。
特に、現代においては完全なる無視や拒絶の対象とされている、儒学や大乗仏教を始めとするKNRSは、
行為能力の祭り上げすぎによって今にも破滅に陥ろうとしている、現代社会をただ救えるだけでなく、
KNHSばかりを急激に適用した結果、文明の急激な衰退を招いてしまうような副作用も防げる。
儒者も仏者も、ただ四書五経や仏典ばかりを学ぶだけでなく、当世における代表的な学問宗教をも概ね
吸収した上で、さらにその上に儒家教義や仏教教義を上乗せすることによって、悪い学問宗教を排して
善い学問宗教を推し進めていく雑食的な側面を持っているのであり、俗世との関係を完全に断ち切って
乞食や隠遁に専念するKNHSとはそこが異なっている。
ただ、上記のような形でKNRSたる儒学や大乗仏教を現代社会に適用するのならば、他のいかなる学問宗教にも
増して儒学や仏教を貴ばねばならず、それに連動して、善悪もみそくそに一緒くたとなっている既存の学問宗教への
厳重な劣後を講じなければならない。それがイヤだから、今の社会はKNRSとしての儒学や大乗仏教の効用を
完全無視し、完全に拒絶して、なかったものにしようとしている。まさに儒学や大乗仏教のKNRSとしての効用こそは、
現代社会の破滅を食い止める副作用なしの特効薬であるというのに、未だに服用する踏ん切りが付かないでいる。
>>8でも書いたとおり、KNHSとは違って、KNRSは妻子持ちにも肯定的であり、当然そのためにも
世の中で積極的な活動を行なっていくことを認める。認めるどころか、KNRSの勤労志向こそは、
「働かずに済むのなら働かずにいたい(でも働かなければならない)」ですらあるKNKS以上にも
積極的なものであり、お勤めの重要さ如何によっては身命すら挺する点ではKNGS以上でもある。
その、勤労意識旺盛なKNRSが今の社会で全く活躍する余地がないのは、KNRSが活躍する場を
KNGSやKNKSが奪い去っているからでもある。たとえば、今の社会においてKNRSが急に
法律家や商売人への十分な差別を嗜みつつの社会活動の場を得ようとすれば、即座に法律家や商売人の
抵抗を受けて、実定法による締め付けや、食料資源からの資源贈与のブロックで、排除の対象とされる。
完全なる否定の対象になるわけではなくとも、ただ差別の対象になって卑しまれることだけでも、
今の社会で天狗状態な法律家や商売人にとっては耐え難いことであり、自分たちの暴走を食い止めてくれる
ありがたい存在であるにもかかわらず、わが身ばかりの可愛さから、KNRSに活躍の場を与えようとしない。
もちろん上記のような問題を解決することも可能で、一定以上の徳性の持ち主であるKNRSに対しては、
銃刀法で禁止されている帯刀なども許す超法規的措置を取り、石高制を復活して食料資源の私有を厳禁し、
その全てをKNRSの下での公有物とするなどすれば、法律家や商売人からの圧力で、KNRSが社会的な
活躍の場を奪われたりすることはない。実際にはさらに、KNRSのほうが実定法などによらない臨機応変な
政治行為や刑事行為に臨むことや、食料資源以外の重要な物質資源や工業産品のKNRSによる公有化など
までが試みられてしかるべきであり、そこにこそ、法律家や商売人ではないKNRSならではの勤労の場が生まれる。
もちろん勤労するからには俸禄も得て、俸禄によって妻子を養いもする。私益ではなく純粋な公益のためにのみ
働くKNRSの家系はより貴ばれて、かつての武家のように子々孫々の継承すらもが行なわれていくこととなる。
世の中で積極的な活動を行なっていくことを認める。認めるどころか、KNRSの勤労志向こそは、
「働かずに済むのなら働かずにいたい(でも働かなければならない)」ですらあるKNKS以上にも
積極的なものであり、お勤めの重要さ如何によっては身命すら挺する点ではKNGS以上でもある。
その、勤労意識旺盛なKNRSが今の社会で全く活躍する余地がないのは、KNRSが活躍する場を
KNGSやKNKSが奪い去っているからでもある。たとえば、今の社会においてKNRSが急に
法律家や商売人への十分な差別を嗜みつつの社会活動の場を得ようとすれば、即座に法律家や商売人の
抵抗を受けて、実定法による締め付けや、食料資源からの資源贈与のブロックで、排除の対象とされる。
完全なる否定の対象になるわけではなくとも、ただ差別の対象になって卑しまれることだけでも、
今の社会で天狗状態な法律家や商売人にとっては耐え難いことであり、自分たちの暴走を食い止めてくれる
ありがたい存在であるにもかかわらず、わが身ばかりの可愛さから、KNRSに活躍の場を与えようとしない。
もちろん上記のような問題を解決することも可能で、一定以上の徳性の持ち主であるKNRSに対しては、
銃刀法で禁止されている帯刀なども許す超法規的措置を取り、石高制を復活して食料資源の私有を厳禁し、
その全てをKNRSの下での公有物とするなどすれば、法律家や商売人からの圧力で、KNRSが社会的な
活躍の場を奪われたりすることはない。実際にはさらに、KNRSのほうが実定法などによらない臨機応変な
政治行為や刑事行為に臨むことや、食料資源以外の重要な物質資源や工業産品のKNRSによる公有化など
までが試みられてしかるべきであり、そこにこそ、法律家や商売人ではないKNRSならではの勤労の場が生まれる。
もちろん勤労するからには俸禄も得て、俸禄によって妻子を養いもする。私益ではなく純粋な公益のためにのみ
働くKNRSの家系はより貴ばれて、かつての武家のように子々孫々の継承すらもが行なわれていくこととなる。
KNRSが食料資源や必需工業資源、必需工業産品などの公有化に取り組む場合には、もちろん今の石油メジャーや
穀物メジャーのような、一部の人間だけでの身勝手な資源の占有とはならないように、公正な運用に務めていく。
そうなることを保証できるのは、とにもかくにもKNRSが「行為能力劣後主義」だからだ。
たとえ公有化のための正当運用であるとはいえ、資源や生産品の運用に携わることは、それ自体が行為能力の行使に当たる。
それは元来、KNRSやKNHSにとって卑しいことであり、自らが資源や物品を公有のためにでも保管することすら卑しいことだ。
だから「全ての財産は借り物であり、いつかはお返ししなければならないもの」という家康公の考え方などにも即して、
とかく財物の保有をそうである限りにおいて卑しみ、なるべく自分自身の金蔵などは空っぽであるようにする。
KNRSとは、存在性の根本からそういった価値観を持つ人間のことなのだから、原理的に資源や物品の
不当運用に溺れることができず、溺れた以上は切腹すら要求されることになる。
妻子を得ることなどもそれと同じであり、性愛や家族愛に溺れて公的意識を見失ったりすることは憚られる。
しかし、世の中で積極的な活動に臨む以上は、真っ当な所帯を持つことが必要となり、一生独身でいればいいKNHSの
ようではいかないために、君臣父子夫婦の三綱を成立させるための正当な便宜として、妻子を持つことにもなる。
再三言うとおり、妻子を持つことも少なからず行為能力の行使につながってしまうため、その部分に溺れきって
行為能力への劣後を怠ってしまうのではKNRS失格であり、妻子の側にすらそのような状況に陥らせないための心構えがいる。
穀物メジャーのような、一部の人間だけでの身勝手な資源の占有とはならないように、公正な運用に務めていく。
そうなることを保証できるのは、とにもかくにもKNRSが「行為能力劣後主義」だからだ。
たとえ公有化のための正当運用であるとはいえ、資源や生産品の運用に携わることは、それ自体が行為能力の行使に当たる。
それは元来、KNRSやKNHSにとって卑しいことであり、自らが資源や物品を公有のためにでも保管することすら卑しいことだ。
だから「全ての財産は借り物であり、いつかはお返ししなければならないもの」という家康公の考え方などにも即して、
とかく財物の保有をそうである限りにおいて卑しみ、なるべく自分自身の金蔵などは空っぽであるようにする。
KNRSとは、存在性の根本からそういった価値観を持つ人間のことなのだから、原理的に資源や物品の
不当運用に溺れることができず、溺れた以上は切腹すら要求されることになる。
妻子を得ることなどもそれと同じであり、性愛や家族愛に溺れて公的意識を見失ったりすることは憚られる。
しかし、世の中で積極的な活動に臨む以上は、真っ当な所帯を持つことが必要となり、一生独身でいればいいKNHSの
ようではいかないために、君臣父子夫婦の三綱を成立させるための正当な便宜として、妻子を持つことにもなる。
再三言うとおり、妻子を持つことも少なからず行為能力の行使につながってしまうため、その部分に溺れきって
行為能力への劣後を怠ってしまうのではKNRS失格であり、妻子の側にすらそのような状況に陥らせないための心構えがいる。
クンニリングス
CUNNILINGUS
NとSしかかぶってないし、どちらかといえばKNGSのほうがかぶっている。
「NHK(日本放送局)」のような日本語の略称なのだから、西洋流の記号操作とも無縁。
東洋流の象徴主義もそれはそれで密教や修験道などがあるが、そんな高尚なもんでもない。
本当はアルファベット一文字すらも使わずに済むのが何より。
NとSしかかぶってないし、どちらかといえばKNGSのほうがかぶっている。
「NHK(日本放送局)」のような日本語の略称なのだから、西洋流の記号操作とも無縁。
東洋流の象徴主義もそれはそれで密教や修験道などがあるが、そんな高尚なもんでもない。
本当はアルファベット一文字すらも使わずに済むのが何より。
コイツなんで引きこもってシコッてるの?
KNHS
KNHS
現時点における地球上の石油の埋蔵量は、最短で40年以内に枯渇する程度だと言われている。
もちろん今の石油消費のペースでいけばの話で、自動車が電気化され、火力発電が核融合発電に完全に
置き換えられるなどすれば、消費ペースもぐっとおさまって、枯渇するまでの期限もずっと伸びるようになる。
実際のところ、電気自動車や核融合発電の実用化は、技術面ではとっくの昔に可能となっていて、
にもかかわらず実用化されないくすぶり状態を強要され続けている。それは、電気自動車や核融合発電が実用化すれば
自分たちの取り分がなくなる石油メジャーなどの圧力で、実用化が滞らされているからで、化石燃料に頼らない
進歩的技術がいま大量に温存されているのがこの日本でもあるからこそ、日本への風当たりも強まっている。
もちろん石油は、燃料として用いるだけでなく、プラスチックなどの物質資源としても用いられるため、
わざわざ石油が枯渇してから石油メジャーが自滅するとしても、迷惑この上ない。また、電気自動車や核融合の技術では、
大気中の酸素で燃料を直接燃やすことにより作動する、ジェットエンジンの完全な代替となる見込みはないため、
ジェットエンジンの燃料となるケロシンに用いられる程度の石油の温存もまた、ジェット機を存続していくというのなら
望みたいところ。早い話が、わざわざ石油が枯渇する時点まで石油メジャーに頑張られても、困るということだ。
もちろん今の石油消費のペースでいけばの話で、自動車が電気化され、火力発電が核融合発電に完全に
置き換えられるなどすれば、消費ペースもぐっとおさまって、枯渇するまでの期限もずっと伸びるようになる。
実際のところ、電気自動車や核融合発電の実用化は、技術面ではとっくの昔に可能となっていて、
にもかかわらず実用化されないくすぶり状態を強要され続けている。それは、電気自動車や核融合発電が実用化すれば
自分たちの取り分がなくなる石油メジャーなどの圧力で、実用化が滞らされているからで、化石燃料に頼らない
進歩的技術がいま大量に温存されているのがこの日本でもあるからこそ、日本への風当たりも強まっている。
もちろん石油は、燃料として用いるだけでなく、プラスチックなどの物質資源としても用いられるため、
わざわざ石油が枯渇してから石油メジャーが自滅するとしても、迷惑この上ない。また、電気自動車や核融合の技術では、
大気中の酸素で燃料を直接燃やすことにより作動する、ジェットエンジンの完全な代替となる見込みはないため、
ジェットエンジンの燃料となるケロシンに用いられる程度の石油の温存もまた、ジェット機を存続していくというのなら
望みたいところ。早い話が、わざわざ石油が枯渇する時点まで石油メジャーに頑張られても、困るということだ。
道家や小乗仏教のようなKNHSなら、石油メジャーなどに対してもやりたい放題を尽くさせた挙句に、
プラスチック原料やジェットエンジン燃料の保全の余裕すら残すことなく自滅していくことを認めるだろうが、
KNRSの場合はそうではなく、石油メジャーが後を野山と化してしまう前に、そこそこの余裕を残した範囲内で
自首することを促す。それは、世の中が急激な資源枯渇によって即死したりするのではなく、いつかは死んでしまう
中にも、満足のいく繁栄や安泰に与ろうと望むからで、それは、石油メジャーのような資源の浪費にも振れきらず、
KNHSのような資源の枯渇の諦観にも振れきらない、中道中庸志向を重んずるからで、故にこそKNRSは、
KNKSやKNGSのように世界をあっという間な破滅にも陥らせないし、KNHSのようにそうなることを認めもしない。
極端にアリか、極端にナシかの両極には振れ切らず、そこそこな中にも安泰な繁栄を保っていく、KNRSにこそ、救われる滅びがある。
プラスチック原料やジェットエンジン燃料の保全の余裕すら残すことなく自滅していくことを認めるだろうが、
KNRSの場合はそうではなく、石油メジャーが後を野山と化してしまう前に、そこそこの余裕を残した範囲内で
自首することを促す。それは、世の中が急激な資源枯渇によって即死したりするのではなく、いつかは死んでしまう
中にも、満足のいく繁栄や安泰に与ろうと望むからで、それは、石油メジャーのような資源の浪費にも振れきらず、
KNHSのような資源の枯渇の諦観にも振れきらない、中道中庸志向を重んずるからで、故にこそKNRSは、
KNKSやKNGSのように世界をあっという間な破滅にも陥らせないし、KNHSのようにそうなることを認めもしない。
極端にアリか、極端にナシかの両極には振れ切らず、そこそこな中にも安泰な繁栄を保っていく、KNRSにこそ、救われる滅びがある。
50年後に、プラ屑一つが金塊並みの値段で取引きされたり、なんてことがないように。
(今でもカスタムメイドのプラモなどではたまにあるが)
(今でもカスタムメイドのプラモなどではたまにあるが)
その、「その場にいれば体感できるもの」の価値を否定ないし劣後しているのだから、別にそれは落ち度ではない。
多くの人々の命をも左右する、法的経済的権利たる行為能力の行使には、当然のこととして多大なる感傷も伴う。
その、「権力の魔性」に囚われてある種の中毒状態となり、部屋の中にこもっている無職にすら「おかしい」と分かるような
凶行にまで手を染め始める。それを老子は完全な否定の対象とし、「戸を出でずして以て天下を知り、まどをうかがわずして
以て天道を見る。その出ずることいよいよ遠くして、その知ることいよいよ少なし(「老子」第四十七章)」と言った。
KNHSである老子と比べればまだ外向的なKNRSである儒家でも「君子は家を出でずして、教えを国に成す(「大学」九章)」
といい、ソワソワと出歩きまわって諸々の事物を見聞すること以上にも、自省に基づく事物への能動的な制御を重んずる。
莫大な分量の行為能力の行使によって建設された大建造物などを見れば、それだけでも普通の人間はすくむし、
さらに自分がその建設に携わったりするのであればなおのこと。しかし、そのような行為能力の濫用によって構築された事物の
体感的な威嚇に怖気づくことをKNHSやKNRSは恥とし、大した必要性もなく、ただ見るものを圧倒するためだけに
作り上げられた構造物などに対しては、徹底した差別をも努力する。莫大な行為能力を行使することの魔性に囚われた人間なども
「小人」として侮蔑し、自分がそのような人間にならないようにできる限り努める。それでこそ、「花は桜木、人は武士」
とまで言われた、かつての武士のような、立派な行為能力劣後主義者として称えられるようになることもできるから。
多くの人々の命をも左右する、法的経済的権利たる行為能力の行使には、当然のこととして多大なる感傷も伴う。
その、「権力の魔性」に囚われてある種の中毒状態となり、部屋の中にこもっている無職にすら「おかしい」と分かるような
凶行にまで手を染め始める。それを老子は完全な否定の対象とし、「戸を出でずして以て天下を知り、まどをうかがわずして
以て天道を見る。その出ずることいよいよ遠くして、その知ることいよいよ少なし(「老子」第四十七章)」と言った。
KNHSである老子と比べればまだ外向的なKNRSである儒家でも「君子は家を出でずして、教えを国に成す(「大学」九章)」
といい、ソワソワと出歩きまわって諸々の事物を見聞すること以上にも、自省に基づく事物への能動的な制御を重んずる。
莫大な分量の行為能力の行使によって建設された大建造物などを見れば、それだけでも普通の人間はすくむし、
さらに自分がその建設に携わったりするのであればなおのこと。しかし、そのような行為能力の濫用によって構築された事物の
体感的な威嚇に怖気づくことをKNHSやKNRSは恥とし、大した必要性もなく、ただ見るものを圧倒するためだけに
作り上げられた構造物などに対しては、徹底した差別をも努力する。莫大な行為能力を行使することの魔性に囚われた人間なども
「小人」として侮蔑し、自分がそのような人間にならないようにできる限り努める。それでこそ、「花は桜木、人は武士」
とまで言われた、かつての武士のような、立派な行為能力劣後主義者として称えられるようになることもできるから。
君に就職する行為能力があることを願うばかりだ
就職はしないが、君が考えているような就職先の
社長や会長をひれ伏させる仕事を、新たに興すことはあるだろう。
社長や会長をひれ伏させる仕事を、新たに興すことはあるだろう。
クンニリングス
昔、2回くらいしか出席しなかった倫理学の試験の前日に、初めて教科書を開いたときの気持ちを思い出してしまった。
聞いたこともない言葉の羅列で、文章も難解で、全然、先に進めない・・・。
こんな文章を書く先生だとは、予想も出来なかった。
「インセスト」という言葉だけ今でも記憶に残っている。
とりあえず何か用いて書いて提出して、「可」を貰った。
聞いたこともない言葉の羅列で、文章も難解で、全然、先に進めない・・・。
こんな文章を書く先生だとは、予想も出来なかった。
「インセスト」という言葉だけ今でも記憶に残っている。
とりあえず何か用いて書いて提出して、「可」を貰った。
「行為能力」ってのは、法的経済的権利を行使する能力を指す法律用語。
ただ人間が体を動かしたり、無償労働をしたりするだけでは、行為能力の行使とはならない。
精神異常による行為能力の濫用甚だしく、「これはもうダメだ」と判断された人間に
禁治産処分が下されることを「行為能力制限」といい、そうなった禁治産者を「制限行為能力者」ともいう。
KNKSやKNGSにとっては、行為能力制限を科されることは、わが身の終わりにも等しいことだが、
KNHSにとってはめでたいことですらあり、KNRSにとっても別段落胆するほどのことでもない。
行為能力の行使なんてのは、人間にとっての全ての活動のうちでもごく限られたものに過ぎず、
しかもどちらかといえば劣悪な部類のもの、そんなものばかりに囚われて物事の実相の把握も
ままならなくなった精神異常者が、健全な精神を取り戻していくための道程が
行為能力制限であると捉えるなら、なぜそれを悲観する必要などがあろうか?
ただ人間が体を動かしたり、無償労働をしたりするだけでは、行為能力の行使とはならない。
精神異常による行為能力の濫用甚だしく、「これはもうダメだ」と判断された人間に
禁治産処分が下されることを「行為能力制限」といい、そうなった禁治産者を「制限行為能力者」ともいう。
KNKSやKNGSにとっては、行為能力制限を科されることは、わが身の終わりにも等しいことだが、
KNHSにとってはめでたいことですらあり、KNRSにとっても別段落胆するほどのことでもない。
行為能力の行使なんてのは、人間にとっての全ての活動のうちでもごく限られたものに過ぎず、
しかもどちらかといえば劣悪な部類のもの、そんなものばかりに囚われて物事の実相の把握も
ままならなくなった精神異常者が、健全な精神を取り戻していくための道程が
行為能力制限であると捉えるなら、なぜそれを悲観する必要などがあろうか?
刑罰としての刑務所への入獄も、非常に重大な行為能力制限の一種だ。
塀の外には一切出られず、檻の外にも許可なく出させてはもらえない、厳重な外出制限があり、
所持品も極めて制限され、食事も決まったものだけとなり、雑役も時給数十円止まりとなる。
トイレや着替えも看守から丸見えで、プライバシー保護も強制的に剥奪される。
人間が被る行為能力制限の中でも、最も重大なのが刑事処分であり、最悪生きる権利すらも奪われる。
ただ人間が生きるだけなら、原始人やホームレスのように法経済的権利を一切行使せずにいる
こともできなくはないわけだから、極刑級の刑罰はもちろん、行為能力制限以上ですらあるが、
その肝要のところは、当人の行為能力の濫用を戒める点にある。殺人や強盗のような明らかな犯罪も、
他者の行為能力の行使を阻んだり、行為能力を強奪する行為であるからして、世の中にとって有害無益であるから、
罰せられるのだし。(畢竟、法治主義社会における犯罪への刑罰は、それ以上の意味を伴っていない)
塀の外には一切出られず、檻の外にも許可なく出させてはもらえない、厳重な外出制限があり、
所持品も極めて制限され、食事も決まったものだけとなり、雑役も時給数十円止まりとなる。
トイレや着替えも看守から丸見えで、プライバシー保護も強制的に剥奪される。
人間が被る行為能力制限の中でも、最も重大なのが刑事処分であり、最悪生きる権利すらも奪われる。
ただ人間が生きるだけなら、原始人やホームレスのように法経済的権利を一切行使せずにいる
こともできなくはないわけだから、極刑級の刑罰はもちろん、行為能力制限以上ですらあるが、
その肝要のところは、当人の行為能力の濫用を戒める点にある。殺人や強盗のような明らかな犯罪も、
他者の行為能力の行使を阻んだり、行為能力を強奪する行為であるからして、世の中にとって有害無益であるから、
罰せられるのだし。(畢竟、法治主義社会における犯罪への刑罰は、それ以上の意味を伴っていない)
禁治産や入獄の共通体験までは、さすがに受け入れられないなw
それはあくまで、そうならざるを得ない人々に限ってのものだから。
しかし、インドの乞食行者などの本格派のKNHSは、禁治産や入獄以上もの
行為能力制限をわざわざ自らに課して、早死にすらしてしまいかねない
劣悪環境化に自分たちから身を置いている。それは確かに自殺的行為であり、
一概に生存本能の否定と結びつけることもできなくはないが、彼らの行いが
ただの自殺や自殺行為と違うのは、自分たちの自殺級の自主的行為能力制限が、
行為能力の濫用によってこそ乱脈化する世の中の平定に自分たちが寄与するという
確かな理念があるところで、実際、欧米人などが深刻な行為能力の濫用に明け暮れている
現代においても、インドに何千万何億人もの自主的制限行為能力者がいらっしゃることが、
破滅級の生の貪り一辺倒へと人類が化すことを食い止める、ありがたいバランサーとなってもいる。
それはあくまで、そうならざるを得ない人々に限ってのものだから。
しかし、インドの乞食行者などの本格派のKNHSは、禁治産や入獄以上もの
行為能力制限をわざわざ自らに課して、早死にすらしてしまいかねない
劣悪環境化に自分たちから身を置いている。それは確かに自殺的行為であり、
一概に生存本能の否定と結びつけることもできなくはないが、彼らの行いが
ただの自殺や自殺行為と違うのは、自分たちの自殺級の自主的行為能力制限が、
行為能力の濫用によってこそ乱脈化する世の中の平定に自分たちが寄与するという
確かな理念があるところで、実際、欧米人などが深刻な行為能力の濫用に明け暮れている
現代においても、インドに何千万何億人もの自主的制限行為能力者がいらっしゃることが、
破滅級の生の貪り一辺倒へと人類が化すことを食い止める、ありがたいバランサーとなってもいる。
[YouTubeで再生]
その、インドの乞食行者が7000万人以上も集まって開催される「世界最大の祭り」、
ヒンズー教のクンブメーラも(スレ画>>1もそのクンブメーラの1カット)、
今年も盛大に催されたはずなのに、この日本ではほとんど取り上げられすらしない。
なぜかって、人は動いても、金はほとんど動いてないから。
乞食行者は、乞食なだけに、所持金なども一切持たず、人々の布施で生き延びている。
乞食同士で組合や会議をやったところで、話し合うのは「どこが乞食する穴場か」とか。
だから乞食行者が集まって祭りを開催したところで、収益の場としてあまりにもみみっち過ぎるので、
乞食全体の収益の何万倍何億倍もの資本を左右している資本主義先進国などからは、全くの無視の対象となる。
乞食のマンパワーの凄さに圧倒されて、日本などにまで乞食志願者が溢れ返りはじめれば、
今の日本の為政者にとってこそ都合が悪いから、なるべく近寄らせないようにもしている。
行為能力否定の如実な有り様を見せ付けられれば、仮初めの行為能力肯定などは灰燼に帰してしまうからな。

ヒンズー教のクンブメーラも(スレ画>>1もそのクンブメーラの1カット)、
今年も盛大に催されたはずなのに、この日本ではほとんど取り上げられすらしない。
なぜかって、人は動いても、金はほとんど動いてないから。
乞食行者は、乞食なだけに、所持金なども一切持たず、人々の布施で生き延びている。
乞食同士で組合や会議をやったところで、話し合うのは「どこが乞食する穴場か」とか。
だから乞食行者が集まって祭りを開催したところで、収益の場としてあまりにもみみっち過ぎるので、
乞食全体の収益の何万倍何億倍もの資本を左右している資本主義先進国などからは、全くの無視の対象となる。
乞食のマンパワーの凄さに圧倒されて、日本などにまで乞食志願者が溢れ返りはじめれば、
今の日本の為政者にとってこそ都合が悪いから、なるべく近寄らせないようにもしている。
行為能力否定の如実な有り様を見せ付けられれば、仮初めの行為能力肯定などは灰燼に帰してしまうからな。
お釈迦様に言わせれば、ただ乞食行ばかりに没頭する沙門の姿も、それはそれでやりすぎなもので、
行為能力の濫用で莫大な資本を稼ぎまくる富豪とも同じように、忌避の対象とされる。
富貴と貧困の両極端はコインの裏表。そのコイン全体が中道や中庸の立場からすればいらない。
行為能力の全肯定に振れ切ることも、全否定に振れ切ることも、どちらも多大なる弊害を招くものであり、
行為能力の存在価値をある程度は認めつつも、道徳や真理と比べれば十分な劣後の対象とする、
中正を保った人としてのあり方が、東洋哲学史上の最偉人として一二を争う
釈尊と孔子の両人によって、至上無上のものとして認められている。
行為能力の濫用で莫大な資本を稼ぎまくる富豪とも同じように、忌避の対象とされる。
富貴と貧困の両極端はコインの裏表。そのコイン全体が中道や中庸の立場からすればいらない。
行為能力の全肯定に振れ切ることも、全否定に振れ切ることも、どちらも多大なる弊害を招くものであり、
行為能力の存在価値をある程度は認めつつも、道徳や真理と比べれば十分な劣後の対象とする、
中正を保った人としてのあり方が、東洋哲学史上の最偉人として一二を争う
釈尊と孔子の両人によって、至上無上のものとして認められている。
そもそも人間が植物を支配しようとする考えがおこがましい
人間がどんなに地球を汚染し自ら首を締め滅んだとしても植物はその後 何食わぬ顔でまた繁殖し満ち溢れるだろう
そう考えると神はもはや人間に興味もなく人間を滅ぼす気も無くなっているのかも知れない
つまり草刈りをしていてよって来た蚊をツマミながら食せばもはや一石二鳥であろう
しかし最近蚊に刺されると血液サラサラ効果があると聞いたが本当なのだろうか?
なら俺の血栓ぎみの体はやはり明日の日曜日に草刈りをするべきだろう
人間がどんなに地球を汚染し自ら首を締め滅んだとしても植物はその後 何食わぬ顔でまた繁殖し満ち溢れるだろう
そう考えると神はもはや人間に興味もなく人間を滅ぼす気も無くなっているのかも知れない
つまり草刈りをしていてよって来た蚊をツマミながら食せばもはや一石二鳥であろう
しかし最近蚊に刺されると血液サラサラ効果があると聞いたが本当なのだろうか?
なら俺の血栓ぎみの体はやはり明日の日曜日に草刈りをするべきだろう
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スレッドタイトル:KNHS、KNRS(行為能力否定主義、行為能力劣後主義)