昔、総理大臣だった頃の森喜朗が「日本は天皇を中心とする神の国」発言をして、
まだ強勢だった野党の袋叩きに遭って辞職に追い込まれたことがあったが。
この発言は、国家の神聖性を日本ばかりに限定している点がおかしいといえばおかしい。
まるで物理方程式のF=maやE=mc^2が全宇宙に遍在しているのと同じように、
人間が「国家」という単位の社会的共同体を形成する時、そこには自明な神聖性が生ずる。
それはたとえば共産主義国のような、宗教や君主の権威を否定する国で
あろうとも変わらない。富国強兵のために不可欠なこともあって結局は、
共産主義の指導者に当たる存在が神にも等しい権威を占有することになる。
違うのは、国家統治の拠り所とする思想哲学や宗教信仰が、
国家権力の自明な権威性を否定している場合がある点であり、
その点では民主主義やキリスト教も共産主義と共通している。
近代に国家主義を掲げた代表格としてはナチスドイツなどがあるが、
大昔から国家権威の自明な神聖性を否定し続けて来た西洋社会のど真ん中で
無理にぶち上げられたものであったために脆弱となり、儚くも瓦解した。
国家の自明な権威性を認めるために、本来は右翼のような異形となる必要もない。
鳥居に立小便を引っ掛けるのをはばかる程度の節度さえあればそれでいい。
天皇制も、そのような心がけに立脚する上で最も自然な国家体制なだけである。
そう考えることがたとえば、儒学的な格物致知によっても是認されることである。
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