日本の仏教


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001 2015/01/02(金) 23:22:41 ID:Fi/zBXEXv.
禁欲せず妻帯し金儲けと子供に寺を継がせる事だけ考える葬式仏教
金づるの檀家以外は立ち入り禁止の寺
日本の仏教に未来はあるのだろうか

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097 2024/02/25(日) 03:55:30 ID:qSgI/j/Sqk
7世紀にチベット高原を統一した吐蕃王朝~第33代の王ソンツェン・ガンポが誕生した617年がチベットの歴史の始まりとして考えられ、高原の住人たちに「チベット国」、「チベット人」の観念が共有されるようになった。 7世紀から9世紀まで、吐蕃は婚姻による外交と征服戦争によって、南はネパールやシャンシュンを支配し、北でシルクロードのオアシス都市を巡ってウイグル人、テュルク人など多くの民族と覇を競い、唐と、断続的に交戦・停戦/和平を繰り返しつつ交際した。640年には仏教初伝伝説の一つとなっている文成公主の降嫁が行われ、822年-823年には、対等・平等の立場で講和や国境の確定、使節の往来などをとりきめた長慶会盟の締結に成功した。

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098 2024/02/25(日) 03:58:39 ID:qSgI/j/Sqk
玄奘(602 - 664)西域の旅
629年当時は唐王朝が成立して間もなく国内情勢が不安定で、玄奘は密出国し河西回廊を経て高昌に至った。
 高昌王である麴文泰は、熱心な仏教徒で、玄奘のインドへの強い思いを知り、金銭と人員の両面で援助し、通過予定の国王に対しての保護・援助を求める高昌王名の文書を持たせた。
玄奘は西域の商人らに混じって天山南路の途中から峠を越えて天山北路へと渡るルートを辿って中央アジアの旅を続け、ヒンドゥークシュ山脈を越えてインドに至った
『大唐西域記』646年(貞観20年)の成立

玄奘三蔵の『大唐西域記・巻十』には、ベンガル地方では後期まで提婆達多派の教団が存在しており、釈迦仏を除いた賢劫の三仏を信奉していた事などが記されている。
後年における提婆達多派の教団では、提婆達多の遺訓を尊び、独自の戒律を定めて、釈迦を除く過去の6仏を信仰していたことが明らかとなっている
提婆達多は戒律をより厳しくするなどを釈迦仏に進言するも、これが受け入れられなかったことから、釈迦教団から分派したことで、それが次第にスケープゴートにされた

道昭(629- 700)は今の大阪出身で653年遣唐使の一員として入唐し、玄奘三蔵に師事して法相教学を学ぶ。玄奘はこの異国の学僧を大切にし、同室で暮らしながら指導をした

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099 2024/02/25(日) 04:08:37 ID:qSgI/j/Sqk
過去七仏
  

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100 2024/02/25(日) 04:11:30 ID:qSgI/j/Sqk
中国への仏教伝来
インドで成立した仏教が、中国に伝来した時期については、文献上では前漢の哀帝の紀元前2年に大月氏国の使者が伝えたのが最初とされる。そして最初の信者となったのが後漢の明帝(在位57年~75年)の異母弟楚王英であり、皇帝としての最初の信者は後漢の桓帝(在位147~167年)であった。後漢での仏教は道教の仙人である黄帝と一緒に仏陀が祀られており、不老長寿の霊力のあるものとして信じられた。仏教は現世的な功利を目的とする信仰の形で後漢の社会に受け入れられたのであった。

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