究極級の陰陽道の精査にも即して確立された天皇という立場の存在意義の復興のためにも、
「全体主義か独裁主義か」といったような両極端を排した、中庸的な考え方が必要となる。
「他人を押しのけてでも自分がのし上がる」というような独尊志向を排するためにこそ、
天皇も万世一系の世襲制でいる。天皇以下の臣下ならばまだ成り上がりの可能性も
あり得るが、それとて豊臣秀吉のように新たな本姓を創設してまで、百姓から関白家
にまでのし上がろうとするような突発性を伴っているようなら、危ういものである。
名目上の位階からでも、無闇なのし上がりを抑制する厳格さを保った上で、なだらかな
上下の序列を形成して行くことが、独裁的でも全体的でもない中正なあり方となる。
そのような中庸を保った体制を是認できて、実際に自分が服して行ける人間こそは自らが
中庸を尊べる君子でもある一方、いまいちそんな分かりにくい体制にはなじめなくて、
自分一人が他者を押しのけてでものし上がりってたいというような人間は、やはり自分自身が
君子としての素養を欠いているのだといえる。身分が上か下か官か民かなどによらず、
できる限りそういった意味での君子的な品位の持ち主ばかりで世の中が占められるように
なるに越したことはないわけだから、上記のような本来の有り方を取り戻した天皇や、
それに準ずる君主が君臨する世の中が世界規模でも実現されていったならば、それに
よってこの地球上も破滅の危機を免れられるのはもちろんのこと、未だかつて到来した
こともないような未曾有の繁栄が全人類に対して実現されて行くこととすらなるだろう。
「損益は盛衰の始めなり」
「損益の自然な流れが物事の盛衰の発端となる。
(盛衰いずれかで言えば盛んであるに越したことはないが、世に限りある富を
人々が分け合う上での損益が極まった時に仕方なく盛衰のうねりが生ずるのである。
故に、そこに『〜ねばならない』などといった恣意を差し挟むべきでもないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・雑卦伝より)
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