人間の本性の部分にある善性は信用できる。のみならず、人が最高の信頼を置くべき対象でもあり、
どんな信頼も最後はそこにこそ帰結せねばならないものである。人間の心を一切信用しないと
いうのでは、結局信じるべきものを信じるということを完全に拒むことにもなり、そこで神を
信じたりするというのなら、そのような神が信じるべきでない神であることまでもが確かである。
確かに、本性の所の善性を見失うことで、上っ面だけの振る舞いしかできなくなってしまったような
人間の言うことなどは全く信用に値するものでもないが、だからといって人を信じず、人の心に
信頼の集約先を一切置かないというのなら、もはやどこにも信ずるべきものがなくなるばかりである。
それこそ、人の心の本当のあり方というものを理解できていない、無知者の致命的な事実誤認である。
「万章問うて曰く、敢えて問う交際は何をか心とすべきか。孟子曰く、恭なれ」
「孟子の門弟の万章が尋ねた。『交際にかけては何に心を尽くすべきでしょうか』
孟先生は答えられた。『(相手を信頼した)恭敬の心でいることだ』(孟子は性善論者だから、
相手の本性の部分に偏在する善性を尊重して、まずは人に対して信頼的な態度でいろというのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・四より)
「孔子曰く、操れば則ち存し、舍つれば則ち亡う。出入時無く、其の郷を知る莫しと。惟れ心の謂いか」
「孔先生も『ちゃんと保っておこうとすれば持っていられるが、捨ててしまえば完全に失ってしまう。
出るも入るもその時すら定まらず、どこを一番の居場所としているのかも知れない』と言われていた。
私はこれは『心』のことを言っているのだと解釈している。(上記のような性善説を基調とした論陣を
敷きながらも、あくまで孟子自身も人が心を失うのはたやすいことだとも考えているのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——告子章句上・八より)
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