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聖書 Part10


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028 2013/02/25(月) 16:40:09 ID:xHUmWMMtxw
正直、二世教こそは、この世の害悪の主体的な元凶になってしまいがちなものである。
今はたまたま聖書信仰がその代表格たり得ているけれども、他力本願の現世努力放り投げという
姿勢全般が罪悪に繋がりがちなものなのであり、普通に考えて忌むべきものなのである。

その中でたまたま害悪の抑制に与するような二世教があったとしたところで、むしろそのような
信教のほうが二世教のうちでは変則的なものとなっている。(だから浄土教の悪人正機説
なども見てくれ変則的な論説となっている)現世をないがしろにしてまで来世を希求するのと、
現世は現世でそれなりでいながら来世の光明までをも希求するのとでは、むしろ現世を蔑ろに
する場合のほうが「より二世教らしい」といえる。だから、二世教の一般的価値というものを
高く見積もるのであれば、自然と聖書信仰あたりが突出した権威性をも帯びてくるようになって
しまう。そうならないためには、聖書信仰という特定の信教を非とするだけでなく、二世教
という宗教的体裁全般の価値の見直しまでもが講じられていかなければならないのである。

ペルシャの哲学者スフラワルディーも、東方こそは光の精神文明、西方こそは闇の物質文明で
あるとする照明論哲学を展開しているが、東方こそは自力作善を主体とした文化の隆盛地と
なって来た一方、西方こそは他力本願を主体とした文化の蔓延地ともなっている。現世での
光の希求を拒絶して来世への嘱望に逃避して来たからこそ、現世の西洋文化こそは闇を主体
とした文化文明であり続けて来てしまった。それは結局、来世にしか光明を見出すべきでない
とした最悪級の二世教の根拠地ともなって来たからなのだから、真の光に与るためにこそ、
そのような志向を信者に強要する邪教の払拭を講じていくことで、西洋人までもが真の光明に
与っていけるようになるのだといえる。無論、真の光明に与りたいのかどうかは知らないが。

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