真理にことごとく違うような邪義ばかりを好き好んで信奉して来たからには、
ほとんど全ての真理を敵に回して、真理に基づく救いを得られるようなこともない。
まず、「神」が司るような大まかな真理に即して救われるということは絶対にない。
マリア崇拝もアマテラス崇拝と決定的に相反するものなら、アダムの原罪としての
労働義務なども、道家の無為自然の真理と決定的に相反するものである。天道の
神が司っている真理というのは、大まかな概括のところの真理であるために、
それをよく尊ぶことが手っ取り早く天下の安寧を実現していく上では格好と
なるのだが、大まかなだけに、真理に違うような邪義こそを好き好んでいる
ような相手までをも救ってやるような汎用性は持ち合わせていないのである。
「仏」が司る微にわたり細にわたる絶対真理といえども、大半の真理が邪義の
信奉者にとっての救いになるようなことはない。実質的には道家思想に多少の
哲学的な要素を加えた程度のものとなっている小乗仏教の教理が、今まさに悪逆非道の
放辟邪侈に溺れている邪義の信奉者にとっての救いなどにならないのはもちろんのこと、
自分たち自身の菩薩業の助けにこそなる大乗仏教の唯識思想や中観思想、菩薩業の
先に拓かれた悟りこそを司る華厳思想や法華思想が救いになるようなこともやはりない。
これらは多少なりともの自力作善と共にこそ効験のある絶対真理の教理であるため、
自助努力がまったく不十分なままである邪信の徒の救いなどになることはないのである。
仏の中でも、西方浄土での他力本願の救済を司る阿弥陀如来のみが、"元"邪信者に
対する早急な救いの可能性を多少なりとも示している。当然、邪教を信仰している
最中から救済の対象としてやることはないにしろ(邪教の教理は誹謗正法の条件を
満たしてしまっているため、阿弥陀如来からの救いも受けられない)、邪教への狂信
に基づく悪業の程度が比較的軽度でいて、なおかつ完全なる邪教の棄教と共なる念仏
への帰依を徹底するというのであれば、救いがないとも限らないものとなっている。
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