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聖書 Part10


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001 2013/02/23(土) 13:55:03 ID:TNBfuzZ8fs
地球人類にとっての最も標準的な聖書として、誰しもがその地位を疑うことのない聖書、四書五経。
その全文はあくまで二千二百年以上前に用意されたものではあるものの(偽古文尚書の一部を除く)、
論語・大学・中庸・孟子の四書と、易経・詩経・書経(尚書)・礼記・春秋の五経を合わせて
「四書五経」として定型化されたのは宋代以降、朱子がこれらの経書を特薦してからである。

それ以前は四書五経だけでなく、他の数多の経書が四書五経並みかそれ以上もの扱いすらをも受けていた。
今でも「孝経」などが儒学の入門書として読むべき筆頭格として重んじられたりもしているが、
昔はそのような扱いすらをも受けていたのに、今では相当に程度の低い経書として扱われるように
なった儒書もいくらかあり、その代表格に性悪論を説く荀子の教説集「荀子」がありもする。

荀子の教説は、孟子の教説(性善論や臨戦論など)と決定的に食い違っている部分があり、
実際に荀子自身も「荀子」非十二子第六で孟子を槍玉に挙げつつその主張を非難するなどしている。
そのため、新儒学の大家である朱子が孟子の教説のほうに軍配を挙げたことを通じて、荀子の教説
のほうは「あくまで反面教師として扱うべきもの」として取り扱われるようになったのである。

ただ、荀子の自説はともかく、その知識や博学さは目を見張るものがある。「荀子」を実際に読めば
分かるとおり、単なる学知の披露度では孟子以上であり、文飾にかけても当時の究極級のものであった
だろうことがうかがえる。(そのため、諸子百家の文筆が粗雑で典雅さに欠けると非難していた
司馬遷までもが、「史記」礼書で「荀子」の文章を多量に引用するなどしてもいる)

にもかかわらず荀子は孟子以下とされ、朱子学はおろかその他の新儒学すらもが、荀子以上にも孟子を
尊重する道を歩んでいったのである。それはなぜかといえば、孟子の教説は簡易であっても誠実さや
情熱に満ちている一方、荀子の教説は博学ではあっても皮相的で誠実さにも欠けるものだったからである。

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160 2013/04/11(木) 14:20:07 ID:77KajChHFY
「瞻るとして父に匪ざるは靡く、依るとして母に匪ざるは靡し。
毛もてにも属さず、裹にも罹かずんば、天の我れを生むも、我れ辰の安くにか在らん(既出)」
「実父ほどに見習うべきものはなく、実母ほどにより所とすべきものは本来ほかにない。もし実父にも属せず、
実母に添うこともできないというのなら、仮に天神が我れを産んだのだとしても、全くの不遇というもの」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・小弁より)

もしも自らが孝の理念に即して父母を敬いの対象とし、老いては介助の対象としたりもしたならば、
それが自分を産み育ててきてくれた相手への恩返しともなって、自らの依存性を打ち消す効能をも持ち得る。
そしたら卑俗な奴隷的根性などもなくなって、本物の独立心を持って物事に臨んでいくことができる
ようにもなる。自らが禄を頂く相手としての主君を敬う場合なども同様の効果を伴う一方、依り頼みと
尊崇の差し引きが必ずしもゼロとならないような関係においては、かえって依存心を募らせることともなる。

架空の超越神への信者の信仰だとか、商売人の顧客への敬いだとかは、依り頼みよりも尊崇の度合いのほう
が多かったり少なかったりするものだから、依存心をより募らせることともなる。虚構神への信仰なぞは、
依り頼む所よりも尊崇の度合いのほうが多かったりするわけだが、それでも依存心を募らせる原因となる。
それは、本当に経済的にも依り頼む所であった父母なり主君なりへの尊崇を蔑ろにしてまで、
虚構神なぞへの尊崇に励んでいるからであり、本当に敬うべき相手への尊崇を怠っているが
故の罪悪感を紛らわすためにこそ、不健全な依存心をも募らせていくこととなるのである。

何者をも敬いの対象としないニヒリストやアナーキストだからといって、依存心を脱却できるわけでもない。
ニーチェなぞも「永遠と言う名の指輪を愛す」云々と、奇形的な依存心を結局は募らせていったわけで、
本当に自らの依存心を乗り越えて精神面からの大人になって行くためにこそ、むしろ父母や主君の如き
恩ある相手への実を伴った尊崇による恩返しを講じて行く必要があるのである。

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161 2013/04/11(木) 15:04:43 ID:77KajChHFY
そして、そのような手段に即した完全なる依存心の脱却の先にこそ、孟子が「浩然の気」とも呼んだような
満足至極な境地が得られもする。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」でのイワンの譫妄症罹患の
描写などに代表されるように、依存心を持つことこそは道徳的なこととされているキリスト教圏などに
おいては、依存心がなければ人は心を病むかの如く思い込まれてすらいる。とはいえそれも、「依存心を
捨てるためにはニヒリストやアナーキストにならなければならない」という思い違いに即しているのであり、
それはかえって奇形的な依存心を募らせることになるからこそ、心を病む原因ともなってしまうのである。

虚構神などへの依存状態が麻薬中毒なら、ニヒリズムの狂気は麻薬中毒者のバッドトリップだといえる。
親や祖神や主君らへの尊崇を通じて本当に依存性から脱却して行くことが、麻薬中毒の克服となる。
女子供までもが必ずしも満たすべき条件でまではないが、大人の男ならぜひ克服すべきことだといえる。

「既に内自ら尽くし、又た外に助けを求む。昏礼是れなり。故に国君夫人を取るの辞に曰く、
君の玉女と共に、寡人と共に敝邑を有ち、宗廟社稷に事うることを請うと。此れ助けを求むるの本なり」
「できる限り自分自身が内実からの努力を尽くしてから、初めて外にも助けを求めるようにもする。
婚礼などもその一つであり、主君が不仁を娶る場合などにも、『願わくばよき妻と共にわが国を保ち、
社稷宋廟に仕えて行かんことを』と、共に成すべきことを前面に押し出した辞を述べるのである。これこそは
人が誰かに助けを求めて共なす手本とすべきあり方だといえる。(ただただ依存する相手などいるべきでない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭統第二十五より)

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