「儒に貧賤に隕獲せず、富貴に充詘せず、君王に慁められず、長上に累せず、有司に閔しめられざる有り。
故に儒を曰うに、今衆人の儒を命づくるや妄なり、常ら儒を以って相い詬病すと。孔子舍に至りて、哀公之れを館す。
此の言を聞くや、言は信を加え、行いは義を加う、吾が世の終没するまで、敢えて儒を以って戯れと為さずと」
「孔子『儒者のうちには、極度の貧賤に苛まれたり富貴に淫したりすることでも志しを失ったりはせず、
王君に引け目を抱くこともなく、長者や上位者に列したがりもせず、官職者を妬んだりもしない者がいます。
そのため(醜悪なルサンチマンにかられている)大衆の内には、儒者を盲目だなどと決め付ける者もいます。
儒学に耽ってものが見えない病に陥っているというのです』 孔子が学舎に来ると、哀公は食い扶持と官職を
以ってこれを遇し、先ほどの孔子の言葉について返答した。『その言葉には信実さがあり、その行いにも
道義性がある。私の在位中には、決して儒学を衆人の言うような戯れ扱いにすることを許しますまい』
(権力への取り入りも断って物事をしっかと見据えている所にこそ、王侯をも感服させるだけの信実さが備わる。
それでいて、そのような真に信実ある儒者の姿こそを、迷妄な衆人が盲者などと決め付けたりもするのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——儒行第四十一より)
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