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聖書 Part9


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011 2012/10/09(火) 14:12:09 ID:q6yK0YXuqI
「你じに拄杖子有らば、我れ你じに拄杖子を与えん。
你じに拄杖子無くんば、我れ你じの拄杖子を奪わん」
「おまえが参禅修行者用の杖を持っているようならば、俺もおまえに杖を与えよう。
おまえ自身が杖を持っていないようならば、俺はおまえから杖を奪ってやろう」
(「無門関」第四十五則・芭蕉拄杖より)

上の禅書からの引用は、これ自体はスレの主旨に違うことも承知の上で、あえて持ち出してみたもの。
というのも、禅仏教こそは自力作善の聖道門の正統もいいとこで、庶民が生半な覚悟でかじったり
すべきでないものの最たるものでもあるから。だから芭蕉和尚も、参禅の資質のある者とない者とを
これ程にも冷厳に篩い分けたのだという一つの実例を、まず挙げておきたかったというまでのこと。

自力作善の仏門が上記ほどもの徹底した差別志向を敷いていればこそ、他力本願の浄土門は
徹底的な平等志向で、親殺しや仏門毀損にすら及ばなければ、誰でも念仏によって救われるとしている。
救われた先にあるとされる「無量寿経」中の極楽浄土なども、金銀財宝が散りばめられた豪華絢爛たるもので、
かえって聖道門の経典である「華厳経」おける仏国土の描写などよりも、即物的な豪華さに満ちたものとなっている。
(華厳経の仏国土にも即物的な描写はあるが、尽十方にかけてそのような描写が為されている頻度はかえって少ない)

参画者を極度に制限する禅門の寺こそは質素素朴である一方、百姓町人から屠殺人まで誰でも入信可である
浄土門の寺こそは、キンキラキンの宝飾が尽くされてもいる。仏門はかくの如き差別志向や平等志向それぞれの
善用によって、出家者たち自身が政治に直接携わらないうちからの、社会風紀の健全化に務めていく。

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