サイズが 480KB を超えています。500KB を超えると書きこめなくなるよ。

聖書 Part8


▼ページ最下部
001 2012/05/09(水) 19:06:53 ID:s8ZlhMgmXY
世に「聖書」として扱われている書物が、単なる学術書や文芸書などと決定的に異なっている点は、
「一人の人間が、全身全霊をかけてその実践に努めていくことができる書物」である点だといえる。

「○○聖書」という様な、何らかの目的を明確に冠した聖書であれば、その目的を達成するために、
一人以上の人間がその書物の内容を、全身全霊をかけて実践していくことが推奨される。もちろん
「聖書」扱いでない書物にも、それだけの度量を潜在している書物はいくらでもあるが、ことに
「○○聖書」といった名称がすでに定着しているほどの書物であれば、その○○を達成する上での
参考書としての定番扱いがされているわけで、「聖書」としての評価がすでに固まっているからには、
全身全霊をかけてその内容の実践に努めていくだけの価値があると、太鼓判を捺されているのでもある。

中でも、人間社会全体の規範を司るほどもの壮大さを兼ね備えている聖書であれば、それを聖典と
した一大学派や教派が形成されて、国家社会の運営を先導するほどもの勢力を擁する場合がある。
儒学の聖典である四書五経や、仏教の聖典である仏典、ヒンズー教の聖典であるヴェーダや
ウパニシャッド、イスラム教の聖典であるコーランなどが、そのような聖書の典型例であるといえる。

キリスト教とユダヤ教の聖典である新旧約聖書も、そのような、国家社会をも先導するだけの試みに
用いられては来たものの、如何せんその記述内容が粗悪に過ぎるために、それだけでは全く世の中を
司ることができず、仏教や拝火教の教義を拝借したり、無宗教の学術による補強を試みたりすることで
何とか聖書圏も保たれてきたが、それでももういい加減、崩壊が免れ得ない時期に差しかかっている。

世の中全体を司る理念となるだけの価値があって、それにより数百年以上もの泰平社会を実現していく
ことができるほどの聖書というのも、決してただ一つしか存在しなかったりするわけではない。ただ、
世の中を最低限度保っていくことが可能となる単独的な聖書の中でも、特に代表として挙げやすいのが、
儒学の正典である四書五経なので、だからこそ、世界で最も「標準的な聖書」として扱うにも相応しい
書物としての四書五経を、聖書全般を論ずる上での主要題材ともしつつ、ここで論じていくものとする。

返信する

※省略されてます すべて表示...
278 2012/09/19(水) 12:02:20 ID:eXjrHpH5EE:au
四書五経に明記されている倫理基準そのものは、決して体系的ではない。
孔子や孟子の提示する倫理判断も直観的で散逸的なものばかりで、
その一つ一つの言葉の絶対性に固執することが、儒学の粗雑な
宗教化(儒教化)を招く危険性をも孕んでいる。

一方で、四書五経を学ぶことで本人自身が体得する体系的な倫理基準というものは実在する。
特に、易詩書礼春秋の五経を的確に学ぶことで、自らに普遍的かつ体系的な倫理的判断力が
身に付くようになっていて、そこから派生する言行こそは確かに、孔孟のそれにも近似する。
特に基幹となるのは、易の陰陽法則を体得レベルで理解することで、それが経書の勉学の内
でも最難関となる一方、体得すらできたなら孔孟級の聖賢にすら決してなれなくはない。

四書五経を学ぶことによって体得する倫理体系そのものはあまりにも膨大すぎて、
完全に文面化しようとしても永遠にとりとめのないものとなってしまう。それは、
易の陰陽法則から有機的に派生する倫理体系が無尽蔵であると共に、それを勉学の対象
とした者自身が、全身全霊によって当該の無尽蔵な倫理体系を受け止めてもいるからだ。

脳の記憶容量は10テラバイト(5兆文字)以上といい、しかもその記憶構造が本人自身の人体構造や生活とも
密接に関係し合っている。易の陰陽法則もまた、そのような心身全体によって体得されるものであるため、
他人がちょっと聞きかじってみたりした所で、その全容は愚か、片鱗すら掴みようもない場合がほとんど。
しかし、それ程もの膨大さを湛えていればこそ、その倫理体系が実社会でも健全に機能できるのである。

返信する

279 2012/09/19(水) 12:02:48 ID:./YVLKcOBM
四書五経よりもさらに些少な文面上に、「〜しろ」「〜してはならない」形式の実定法を多少
羅列しているだけの旧約の律法なぞが、実社会に適用することで問題を来さなくて済んだりする
わけがないのはもちろんのこと、日本国の中枢で日夜構築が続けられている六法等の現行法ですら、
実社会全体を司る倫理体系としては、あまりにも矮小かつ粗雑なもののままであり続けている。

ある一定の文章や教条などに、この世界を司らせて全く差し支えないなんてことがあるわけがない。
それは孔子や孟子の言葉といえども同じことで、ただ、その言葉が易の陰陽法則から派生している
ことを体得レベルで理解し、自らも同等の普遍法則に即した自主的な言行を心がけることによってのみ、
この世界を正規の為政者として司る君子たるに相応しい人間へと自分がなれるということがあるのみ。

だから、文面至上主義の対象として四書五経を扱うべきですらなく、特定の文面や教義に依存する
怠惰な姿勢を卒業していく取っ掛かりとしてこそ、四書五経を根幹とした為政が推奨できるのでもある。
この文面でも、あの教条でもうまくいかなかったから、今度は四書五経の文面に頼ろう、
そんなことばかりであっていいはずもないのである。

「其の笠伊れ糾きつけ、其の鎛と斯れ趙にて、以て荼蓼を薅う。
荼蓼は朽ちて止み、黍稷は茂りて止む。之れを穫りて桎桎、之れを積みて栗栗」
「菅笠を頭に巻きつけて、鋤鍬を手に田畑の夏草を切り払う。切り払った夏草が
朽ち果てた頃に、穀物もよく茂る。穀物もせっせと刈り取って、せっせと積み上げる。
(食えないものは切り払って朽ち果てさせ、食えるものも刈り取って食うというばかりのこと。
硬直的支配をありがたがっても、いつかは秦帝国のように崩壊して食い物になるばかりのこと)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・閔予小子之什・良耜より)

返信する


▲ページ最上部

ログサイズ:700 KB 有効レス数:323 削除レス数:0





思想・哲学掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50

スレッドタイトル:聖書 Part8

レス投稿

未ログイン (ログイン

↑画像ファイル(jpg,gif,png)