神と行為能力を同一視し、なおかつ神が「超越神」であるのが聖書信仰。
超越的な行為能力を持つ神だから、冤罪で刑死した妾腹の私生児すら蘇らせるとされる。
行為能力と神を同一視はするものの、神を「汎神」としているのがイスラム教。
この世界の現象と密接な関わりを持つ、あるいはこの世界そのものである神がアラーだから、
妾腹の私生児を冤罪で刑死させて蘇らせるような、不自然な所業も為さないとされる。
行為能力と神との間に一定の隔絶を持たせるのがヒンズー教。
神を祭るバラモン階級をカースト上の最高位に置きながら、
その仕事は専ら祭祀業務に限定され、政治活動や商業活動による行為能力の活用は、
専ら下位のカーストであるクシャトリアやバイシャに任される。
行為能力と神とを徹底的に分断するのが、儒学と道教を総合した中国教学。
世俗での行為能力活動は専ら無宗教の儒学が取り仕切り、
道教は隠退と共にのみ怪力乱神の希求を講じたりする。
この世界の西に行けば行くほど、行為能力と神の癒着は深刻化し、
東に行けば行くほど、行為能力と神とが過剰なほどに分断されている。
出家者が自らの行為能力を完膚なきまでにかなぐり捨てて、
その上で政治経済活動の傍観的な顧問ともなる仏教あたりに、
行為能力と神の分断も極まっているが、発祥地のインドではすでに仏教は廃れ、
極東である日本や東南アジアでこそ、今でも信仰されている。
日出ずる東方に光を追い求めて来た人々ほど、行為能力と神の分断を好み、
日没する西方に闇を追い求めて来た輩ほど、行為能力と神の癒着を好むのは、
人間という生物の本能に根差した普遍法則のようである。
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