カントの哲学について語ろう!


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001 2011/04/29(金) 05:51:54 ID:HztDmUoU9s
イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724年4月22日 - 1804年2月12日)は、プロイセン王国出身の思想家で大学教授である。
近代において最も影響力の大きな哲学者の一人である。
『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらす。
ドイツ観念論哲学の祖ともされる。

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002 2011/04/29(金) 11:54:01 ID:h5v3IVHTVE
荘子や列子がより素朴で分かりやすい言葉で述べてくれていた形而上学の基礎を、
やたらと概念的で意味不明瞭な言葉でこね回してさも自作物のように見立てたり、
空海や道元のような偉大な仏者が、本物の厳しい修行によって把捉に成功していた自性(物自体)を、
何らの実践も伴わない机上の空論だけで撫で回した挙句に「自性は把捉できない」と決め付けたりと、
遥か昔に東洋でより適正な形で醸成されていたある種の思想哲学を、我流で大幅に劣化させて
有害無益な雑念雑考に貶めた挙句に、それを「新たな哲学の機軸」であるかのようにまで見立て、
必要もないのにわざわざあえて好き好んでの、思想哲学全般の退廃をもたらした張本人。

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003 2011/05/03(火) 09:15:22 ID:q75usX8YBk:DoCoMo
居間に居る、ぉ母んと。

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004 2011/05/04(水) 05:30:35 ID:5EpIurotjM
>>2

それって本当ですか?

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005 2011/05/04(水) 10:43:10 ID:4jydPro71.
カントの臨終間際の言葉「これでいい(Es ist gut.)」も、
紀元前の諸子百家の直筆の一つである「列子」に出てくる。

未開の僻地に、長男を家内安全の祈願のための生贄にして食ってしまう奇習
を持つ蛮族がいることなどを受けて、老荘に次ぐ道家の偉人として知られる
列子こと列御寇が「これでもいい(未だ異と為すに足らず)」と断じている。
(「列子」湯問第五・六を参照)

列子の場合は、長男こそを家督相続者とする正統な封建制の実在をも踏まえた上で、異端の
蛮族の悪習としての長男殺しにも「それはそれで別にいい」という判断を加えているわけで、
これは、優良なものも劣悪なものもあっていいのだという「万物斉同」の理念に即している。

一方で、カントのほうはといえば、人々を悩乱ばかりに陥れる、晦渋なわりに実質は不実な
机上の空論哲学を数多捏造しまくっておいて、挙句に「これでいい」といいつつ死んだわけで、
ひょっとしたら列子もまた「それでいい」とすら言うかもしれないが、正統な思想哲学も
わきまえた上で、異端の雑学なども「それはそれであり」とするのではなく、異端の雑学
ばかりしか知らないままの状態で「これでいい」とするのでは、真理からはあまりにも
程遠いというようなことをも列子はいっている(「列子」仲尼第四・十六などを参照)。

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006 2011/05/11(水) 08:13:00 ID:yzRRzS6flg:SoftBank
明和にカント原書で読める奴なんていねーだろ

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007 2011/05/21(土) 19:24:47 ID:RnlbC4s.LU
>>2>>5
スレを立てた人の気持ちを無視してそんなレスをするような人が
何か真実について知っているとも思えないし、
仮に何か知っていたとしても何も学べないだろう。

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008 2012/06/22(金) 00:50:09 ID:pTNIHn/gr2
009 2013/02/03(日) 17:18:50 ID:ZNUOQhor.6
「カント」って言葉、口にするの、ちょっと恥ずかしかったりする。

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010 2013/02/04(月) 01:43:09 ID:3DaWUrm9xA
>>6
文字をなぞると言う文字通りの意味での読む、ならいるかもしれんけど
読解するのはそこらへんの哲学の院生でも怪しいからなあ・・・。

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011 2013/04/06(土) 14:28:29 ID:qJ9NjTVR7g
カントはまだそれなりのことを言ってるだろ
その後に続く奴らが先鋭化させて
なんのこっちゃ分からんことになっただけで

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012 2013/04/12(金) 15:43:30 ID:rQBu1HkToM
人間が成長するにしたがって形成されてゆく人格のうちで、
体験的に獲得してゆくもの以外に「先天的なもの」と「先験的なもの」が存在する事を発見した。
「人間の」利他的行動が利己的行動より古く、精神の位階の上位に属する先天的な性質とした。
古くから利己的行動は動物本能由来であり、利他的行動が文明的であるとされてきたが、
逆に、利己的行動は「人間」が人間として自覚した段階以降で得た物質的欲望の範疇で、
むしろ利他的行動のほうが、社会行動を行う動物の古い性質を文明的に発展させたものである。
したがって利他的行動は先天的であり、利己的行動は先験的であるとされる。

誕生以前に既に与えられた精神の神殿をもって、人はこの世で人格を育むのである。
先験的、体験的な性質を削り落とし、磨き上げられてゆく理性=善や正義、道徳の姿が
「純粋理性批判」であり、それが日頃安易に使う善や正義とは全く異なる、
容易には手にできない厳しい光を放つ宝石であることが「実践理性批判」に綴られている。
難しいのはその精緻で複雑な証明過程のせいではなかろうか?

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013 2013/04/13(土) 14:39:31 ID:QYL22AE2lk
パソコンでたとえると
「先天的なもの」=Basic
「先験的なもの」=OS
「体験的なもの」=Application Soft
でいいのかな?

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014 2013/04/20(土) 15:38:40 ID:er6iLJAiCg
今日、ママンが死んだ。

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015 2013/10/20(日) 21:23:14 ID:N459CXo5Cs
私は論理的なものが自分自身としても好きだし、これまで良くも悪くも西洋人が世界を
リードしてきたのは論理的思考を受け入れる土壌が西洋社会に十分あったからだと思う。
だから、そういった方向に突き進むことができれば政治問題も環境問題も解決しやすい
から、国のためにも絶対よいはずだ。私はそうやって国のためになりたい。

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016 2013/10/20(日) 21:37:55 ID:N459CXo5Cs
カントの理論が数学と少し違うことは面白い。
数学は1+1=2だが、カント哲学は1+1=2に等しいだけの1+1だ。
つまり1+1=1+1であり2ではないのだ。まあ確かにそういう考え方も
よく考えたら可能だ。

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017 2014/09/15(月) 16:52:57 ID:TsvFaBndMc
なるほどね。

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018 2014/09/17(水) 01:22:20 ID:FDASlnoeLc
>>7

批判的論証に耐えられないのなら哲学など辞めてしまえ。

発言者の気持ち??

哲学はいつからご機嫌取りのおべんちゃらに成り下がったんだ。
君は哲学に近寄るには愚かすぎる。

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019 2014/09/17(水) 01:29:06 ID:FDASlnoeLc
>>13

パソコンでたとえると
「先天的なもの」=ハードウェアの論理回路
「先験的なもの」=OS
「体験的なもの」=値
じゃないか?

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020 2014/09/24(水) 16:16:20 ID:VZiko5Qcqw
>>16
つまり半人前がふたりそろっても一人前にはならず
半人前が倍になるってことですね。
わかる〜

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021 2014/09/25(木) 14:26:04 ID:8P6fSjq9OQ
そういう見方すれば、
人気とか世論とか炎上とか…
数をかさに着ても、マイナスの累乗ってことになるなあ
わかる〜

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022 2014/11/29(土) 13:51:27 ID:LHgrvlrJzQ
あ、そうですか。

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023 2015/01/18(日) 00:49:18 ID:lMY8YtU6vs
「先天的なもの」=おなにい
「先験的なもの」=せくろす
「体験的なもの」=はってんば

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024 2015/03/15(日) 10:31:06 ID:D5wjyiJ1Ww
カントは「徳」と「福」との原理的な不一致に固執した上で前者の価値の絶対的な優位を説いているが、
いま挙げたような道徳に直接かかわらない価値がいくつも存在するという問題とは別に、次のような洞察もまた重要である。
 それは、私たちの生活の現実の中には「善」と「快」、「徳」と「福」とは、事実上一致している場合が非常に多いという点である。
両者はけっしていつもぶつかり合うわけではないのだ。
 たとえば、困っている人を助けると相手が喜ぶのはもちろん、自分もいい気持になる。我を通さずに譲る気持ちをもつと、
自分のなかに余裕のある心が確認できて満足感を抱く。
 これはなぜだろうか。
 エゴイズムだけの観点からこの現象を分析すれば、自分が優位に立てたからだとか、相手に感謝されることが自分の価値を高め、
自己愛を満たすように感じられるからだといった指摘以上に出ることはないだろう。
だがこれは間違いとは言えないにしても、同義反復の思考停止というべきである。

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025 2015/04/14(火) 16:53:27 ID:JqNph5i3Ws
ケーニヒスベルクの思想家であるカントによれば、私たちが物において置く(=感覚する)ことしか、先験的に(=必然的なやり方で)物を知ることが出来ない(『純粋理性批判』Kritik der reinen Vernunft (第二版への序文)。
カントによれば、人間は「物自体」(Ding an sich)を認識できない。認識の対象は、感覚に与えられ得るものだけであり、人間理性は、ただ感性にあたえられるものを直観し、これに純粋悟性概念を適応するにとどまる。
カントによると、人間が物それ自体が何であるかその本性が何であるかその真理が何であるか現実が何であるか、知り得ない。
カントは、人間悟性は自分の内部(に映る現象)を知るに留まる、とした。今まで、人間の外部にある物事が、人間の知性を規定してこれが何かを知らしめた、これからはカントによれば、人間の悟性が物を規定する、とした。

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026 2015/05/10(日) 17:53:09 ID:LcE84JayRE
一生、女性を知らなかったなんて・・・・。
良い人生だったのかな?

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027 2015/05/10(日) 21:05:33 ID:3I5Bh/IvU.
内部にあるものを発見するのがすごいんだよ、人生は。
内部に何かが見つけられるからすごいんだよ、人間は。
でも、それを掘り下げ、発見するためには、徹頭徹尾、外部との交渉が不可欠。

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028 2015/05/11(月) 14:10:44 ID:Q3rtzeZToQ
動機においてはそのとおり。
人間の精神世界の消息をたどり、その辺縁に至らんとする探求の出発点は人間の発見であるから。
しかし、その探求そのものは、自らのたましいの奥底に向かう思弁的な孤独な旅路だ。
ブッダやイエスの思想も人との雑多な交わり中で紡がれたものではない。

それから、カントの時代のドイツ文人が、19世紀国民国家誕生の黎明にあって
国民という文明史に登場したまったく新しい集団を、どのような精神において組織しうるか、しうるべきか?
という未曾有の課題に立ち向かった事を前提にしなくては、彼らのめざしたもの自体が見えにくくなる。

「二人のハインリヒ」H・トライチュケとH・グレーツ。プロイセンの歴史学の父と敬愛された学者と、ユダヤ文人の著名な論争書簡がある。
ニイツェやリルケの苦悩にまで至る、あるいはローゼンベルクの酸鼻を極めた失墜に至る、
19世紀ドイツ精神の苦闘の黙示のような輪郭がそこにある。イスラエル建国精神にもつながりかねないようなね。

NHKドラマ、タイトルなんだっけ?吉田松陰が同じ動機によって苦闘したことがかすかに忍ばれるよ。
ニイツェ風にいえば「神が太古の人間の祖先であり、英雄が現世の人間とつながる失墜した神の子、あるいは呪われ滅びを約束された神の子であるなら、
ドイツの新しい歴史の神話が今綴られているのだ。神のように生き、英雄のように人間世界に下っていくのだ」
とかなんとか。

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