マゾヒストは、まず苦痛が苦痛であることを感じない。
父親が誰かも分からない娼婦の子であるとかの、生まれつきからの激重の辛苦によって、
「苦痛を受け続けていることこそは自分にとっての普通の状態」であると受け止め、
苦痛から逃れ去った状態における安楽などを、その存在性の根本から関知しない。
苦しみを受け続けているのが当然のことだから、まるで息をするようにして
苦痛を欲するだけで、欲した苦痛が得られたことをウレシがりもする。
それは、苦痛が苦痛であることを真摯に受け止めて、その苦痛を乗り越えていく
こととは全く異なるものであり、苦痛を乗り越えていくことが成長になる一方で、
苦痛を快楽だと思い込んで嗜好することは、ただ退化や腐敗を招くのみとなる。
一定量の炭素を含有した鋼は、打ち鍛えられることでより硬さを増していくが、
炭素含有量0%の軟鉄は、いくら叩きすえられても硬さを増したりすることはない。
苦難を乗り越えて成長していくことは、鋼が鍛えられるようなことである一方で、
苦を楽だと思い込んで受け入れるのは、鋼でもないのにただ打たれる軟鉄のようなもの。
孔子とイエスの場合を例に挙げるなら、孔子の場合は妾腹の私生児として生まれながらも、
自ら父親の身元を調べ出して、墓参りもしたところが「鋼」となる機縁となった一方で、
イエスの場合は、父親の身元も調べずに、自らを「神の子」だなどと触れ回ったところが、
打たれても鍛えられない「軟鉄」に終始する機縁になったのだといえる。
妾腹の私生児が「神の子(キリスト)」を名乗った当たりが、マゾヒズムの起源でもある。
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