ウパニシャッド哲学 世界最古の哲学にして、人類哲学の本流


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001 2011/03/04(金) 18:34:31 ID:Z/yErBN3aA
まるで当たり前の事実であるかのように、「哲学発祥の地はギリシャ」だの、
「詩文学の発祥地もギリシャ」だのの、全くの思い違いが公然とまかり通り続けているが、
世界最古の本格的な詩文学は、ギリシャのホメロスなどではなく、インドのヴェーダであり、
そのヴェーダに注解を施す形式で編み出された「ウパニシャッド」こそは、
ギリシャ哲学よりも数百年程度は先んじて発祥した、世界最古の哲学にあたる。

古代中国の諸子百家が、政治行為などに関連する実際論に終始した素朴な「思想」止まりで
あったのに対し、ウパニシャッドは、理念に昇華された思索を重んじる純粋な「哲学」であり、
その内容も、「人類哲学の先駆け」としての存在性にも見合った、極めて上質なものとなっている。

その、哲学的根幹に値する「梵我一如」は、日本人などには、密教や禅などの仏教哲学を通じて
知られている場合が多いが、元はといえば、ヴェーダの解釈学でもあるウパニシャッドの根本教理であり、
ヴェーダの絶対的権威を否定した釈迦が説いた「諸法無我」とも決定的な相違を伴っている。

思索が「ネーティ、ネーティ(〜ではない、〜ではない)」と、否定を重畳していくことによって
アートマン(真我)を把捉し、そのアートマンこそは最高真理ブラフマン(梵)とも同一であるとみなす
ところなどは、「思索の構造が真我であったり梵であったりすることはない」ということを定立しているわけで、
思考が自我であることはウパニシャッドによっては否定されるため、「我れ思う、ゆえに我れあり」の
デカルトのコギト論も、ウパニシャッドによってとっくの昔に完全否定されていることになる。

ヘーゲルが、インド哲学批判の論拠とした「構造体系の欠如」も、「思考それ自体が真我であったり
梵であったりすることはない」という、明確な理念に即して徹底されていることであり、批判材料にはあたらない。
もちろん、思考の絶対性を否定するインド哲学の姿勢が、思考を絶対化する西洋哲学の価値を一切合切無効化
してしまうものだから、西洋哲学者などにとっては特に受け入れがたいものでもあるのだろうが、思考の絶対性を
否定するインドのウパニシャッド哲学こそは、全地球人類にとっての、哲学の源流であると共に本流でもある。

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002 2011/03/04(金) 18:35:29 ID:Z/yErBN3aA
近ごろ、思想哲学板の趣旨に反する駄スレの乱立が甚だしいため、板の趣旨にできる限り見合った
スレをあえて立てておく。思想板のスレとしての模範は引き続き「聖書(四書五経)スレ」で、
哲学板のスレとしての模範は、こちらのウパニシャッドスレで示していくことにしよう。

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003 2011/03/04(金) 22:48:17 ID:Z/yErBN3aA
全地球人類にとっての真の聖書であり、世界最古の思想書でもあるのが、
世界最古の古典「易」を含む四書五経である一方で、世界最古の本格的な詩文学が
古代インドで編み出された「ヴェーダ」であり(ただし口伝が基本とされ、文書による判読は正統とされない)、
そのヴェーダに対する解釈書として提唱されたウパニシャッドが、全人類にとっての「哲学の本流にして源流」ともなっている。

決してギリシャ哲学やギリシャ文学が、人類にとっての哲学や文学の、本流や源流だったりはしないし、
イスラエル発症の新旧約聖書が、人類にとっての真の聖書や、正統な思想であったりすることはない。

じゃあ、ギリシャ学とか新旧約聖書とかってなんなのかといえば、インド哲学や中国思想といった「光に対する影」の存在。
ヒンディズムやチャイニズムが人類文化文明の「本体」であり、全人類を一家と見なした場合の家長たる「夫」であるのに対し、
ヘレニズムやヘブライズムは人類文化文明の「客体」であり、全人類という一家にとっての「妻」に値する存在。

いくら、インド文化や中国文化のほうがギリシャ文化やイスラエル文化よりも質・量・古さの全てにおいて優るからといって、
ギリシャやイスラエルの歴史的存在性を根本から無みすることも、実質的に不可能なことであり、ギリシャ文化や
イスラエル文化だって、一定の質や量や古さを湛えているという、事実までをも否定し尽くすわけにはいかない。

ただ、ギリシャやイスラエルを起源とする西洋文化文明が、インドや中国を起源とする東洋文化文明と比べて、
質・量・古さの全てにおいて「劣位」であるという事実がわきまえられて、あたかも妻が夫に対して主人面をするような
僭越を控えるようにすればいいだけのことであり、そのわきまえすら徹底されたなら、ギリシャやイスラエルに始まる
西洋の文化文明を実相から絶滅させるほどもの措置まで講ずる必要はなくなる。あれはアリだがこれはナシとかじゃなく、
あれもアリだがこれのほうがもっとアリというような、評価の重畳に基づいて、何物をも活かされる選択肢が開かれている。

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004 2011/03/07(月) 21:35:50 ID:at.KxXDjYA
ウパニシャッド哲学やヴェーダ文学、大叙事詩マハーバーラタやマヌ法典などを擁するバラモン教=現ヒンズー教は、
仏教の六道十界論に基づけば六道中最高位に当たる「天道」、十住心論では下から三番目に当たる「嬰童無畏心」に相当する。
六道のうちでは上から二番目の「人道」にあたり、十住心のうちでは下から二番目の「愚童持斎心」にあたる儒家よりも
一段階だけ程度が高い一方で、六道全体をも超越する仏道の境地からすれば、まだまだ程度の低いものともされる。

もちろん、これは仏教の教義に基づいた品評であり、ヒンズー教はそんな低い評価などを認めず、今から約1300年前の
高名なウパニシャッド哲学者であるシャンカラも、大乗仏教の教義的核心にあたる中観や唯識などに対して反意を唱えている。
その弁明の内容もそれなりに納得のいくものであり、仏教に関しての専門知識も未熟な門外漢などからすれば、
シャンカラと仏者と、どちらのほうがより正しい意見を述べているのか、判然としない所すらある。

釈迦が興した仏教よりもさらにその起源の古い、ヒンズー教の哲学者としての面目躍如たるところがあり、
これは同じく、仏典よりもさらに成立の古い四書五経などを聖典とする、儒者である朱子などが仏教に対して
唱えた反意にも共通するところであり、その成立に関しては、ヒンズー教と儒学は確かに仏教よりも先んじており、
この両者こそは、全世界的に見ても「世界最古の本格教学」としての、一二を争う存在同士となっている。
(もちろんギリシャ学や聖書教なども、これらの教学よりも遥かに成立が遅れている)

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005 2011/03/07(月) 21:36:58 ID:at.KxXDjYA
しかしたとえば、今の大部分のヒンズー教徒には、ヴェーダやウパニシャッド以上にも取っ付きやすい
聖典として好まれている、マハーバーラタのハイライト「バガヴァッド・ギーター」などを読んでみれば、
その内容が、西洋哲学並みにも具体的かつ肯定的な概念をこねくり回していることが分かり、
概念に対する肯定的な論及を繰り出す過程で、積極的な社会奉仕などをも促していることが分かる。

これは、「ネーティ、ネーティ(〜ではない、〜ではない)」といった思考の否定の重畳こそが
梵我一如たる真我アートマンの把捉にもつながるという、ウパニシャッド哲学の主体的な実践やその記述には
なっておらず、むしろ大乗仏教の根本経典の一つである「般若経」のほうが、否定に否定を積み重ねることで
解脱に至るという、ウパニシャッド哲学の大まかな要件をも満たしているといえる。

しかし、般若経を含む仏教は、否定の重畳を躍進する過程でついには「我」をも否定してしまい、
自我すらをも脱落した諸法無我の境地に絶対真理を定立したために、真我こそは最高真理ブラフマン梵とも
同一であるとする、ウパニシャッド哲学のうちの「肯定的要素」との決定的な断裂をも生じてしまうこととなった。

ヴェーダやウパニシャッドやマハーバーラタを教理とするバラモンは、祭司階級とはいえ、一応は世俗の人間だから、
何もかもを否定しつくして、挙句に出家者のように生殖までをも否定してしまったのでは、社会参画すら立ち行かなくなって
しまうから、バラモン・ヒンズー教では、仏教ほどには否定の重畳も徹底されず、そのせいで、ウパニシャッド哲学が
理想とする万事万物の思考からの否定も、半ば片手落ちになってしまっているところがある。ただ、それにしても、
世俗における罪業の輪廻を脱け出せない、六道の範囲内における最高位である天道の教理を、同じ天道である神道や道教以上
にも如実に捉えたヒンズー教の各種教学は、やはり、人類の遺産としての高位に据えるに相応しい存在であるには違いない。

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006 2011/03/29(火) 13:04:39 ID:QSO7dmqqOY
人間の心には、宇宙の神秘とも通じている部分と、通じていない部分との両方がある。
知能も感情も超えたところにある純粋精神こそは、神秘にも通じているところであり、
宇宙の真理や、実相的な物理法則とも合致するものであることから「梵我一如」や「物我一理」とも言われる。

ただ、ここで決して勘違いしてはならないのは、ヒンズー教や朱子学が「我」と定義しているものは、
左右大脳が司る知能や感情も超えたところにある純粋精神のことであって、「我思う、故に我あり」
などという倒錯によって自我と勘違いされた、思考や情念などではないということだ。

思考とは知能の処理であり、情念とは感情の溜め込みであるため、いずれも大脳が司っている。
欲求という情念もまた、感情を司る右脳にその根源があり、それはそれで存在するものではあるにしろ、
決して宇宙の真理や普遍的な物理法則とも通じている、純粋精神だったりするわけではない。

純粋精神の普遍的な在り処を人体ばかりに求めるのも無粋なことだが、仮にあえて求めるというのなら、
中脳に位置する上丹田、心臓に位置する中丹田、臍の下三寸に位置する下丹田の三つであるといえ、
この三つが八卦の上中下三爻の対称性にも符合している。そこに知能や感情を司る左右大脳などは
含まれておらず、上中下の丹田が位置する正中線からも外れた左右両側に大脳は位置しているため、
大脳の絶対化ばかりに陥れば陥るほど、人は純粋精神の把捉から遠ざかってすらしまうのである。

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007 2011/04/09(土) 06:57:38 ID:3foqkr0gTo
1しか読んでないけど、まあ概ね正しいな。
しかしヴェーダとウパニシャッドの距離と、バラモン様の政治的なバイアスといった問題も考えるべきであって
こう手放しにマンセーってのもどうなの?つーのはある。

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008 2011/04/13(水) 18:45:58 ID:R3OnmrN4D2:SoftBank
1は西洋哲学が近代になってようやく到達した思考法や哲学的志向性は
東洋哲学(ウパニシャッド哲学)では本来のものですらあった
という事を言ってんじゃない?
ヘーゲル弁証法すらヴェーダの中にあると思うと面白いね。

でも、政治的バイアスとか、哲学上関係なくない?
解説よろ。


芥川が「東洋の画家には未だ甞て落款の場所を軽視したるもの
はない。
落款の場所に注意せよなどと言うのは陳套語である。
それを特筆するムアアを思うと、坐ろに東西の差を感ぜざるを
得ない。」と言うのと同義だと思う。

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009 2011/04/13(水) 20:31:07 ID:NhbHGyc6XU
徹頭徹尾、脳内思考を絶対化する西洋哲学が、
思考の絶対的価値を否定する東洋哲学とは相容れないことを説いているわけだが。

質・量・古さ・発行部数の全てにおいて西洋哲学を上回っているにもかかわらず、
哲学展開の場でもある頭脳の至上化(脳化)に対しては消極的であるのが東洋哲学。

そのあまりにもの偉大さとは裏腹に、偉大さの根拠を捉えがたい理由もそこにある。

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010 2011/04/17(日) 19:45:52 ID:DvNZAcNmas
学問を目的のための手段としてしか捉えない、「学問実用主義」の傾向が、
人類最古の学問をも研究対象とする、バラモンや科挙にこそ存在しない。

どうせ、今までにインドや中国で紡ぎ上げられてきた、膨大な量のウパニシャッドや経史子集を
一人の人間が一生をかけても研究し尽くすことなどは不可能であり、せいぜい自分自身が
生きてるうちにできる限り多くのことを学んでいくように努め続けていくしかないわけだから、
存命中に学問を中絶して「これでよし(Es ist gut)」などといえるわけがあり得ない。

もちろん、ただ勉強をし続けるだけでなく、それなりの仕事をこなしていくこともあるわけだが、
だからといって学問を途絶させたりもせず、「学問第一実業第二」の姿勢を保ち続ける。それでこそ、
学知による制御をも振れきっての、放辟邪侈にまみれた犯罪労働に没入したりすることもないわけだから。

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011 2011/04/20(水) 09:50:13 ID:8KFtmevAbM:SoftBank
学問を語るのに「偉大な」とか非学術的な抽象表現を多様すんなよ。
北朝鮮みたい。

ま、いつものきチガイニートなんだろうけど…。

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012 2011/04/20(水) 11:11:06 ID:FXcSWHcfXI
「畏敬や信仰を完全に捨て去ってこそ真の学術だ」などという思い込みからして、
「餓鬼道」に相当する洋学に毒された迷妄に過ぎない。

鬼神を敬してこれを遠ざく、最低限の人間らしさを保つことでこそ、
「人道」に相当する学問もまた成立するのであり、そうでなく、何もかもを
幼稚な天邪鬼や疑心暗鬼に持ち込もうとするのは、学術であろうとも「餓鬼道」に相当する。

ガキだから、どこまでも探求を続けたところで、ただただ餓え渇いたままでいる。
餓え渇いているのは何も、学術的探求がまだ足りないからではなく、
神仏への信仰や目上の相手への畏敬も捨て去っての、自意識過剰な思い上がりに
自分たち自身をやつしているからであって、その醜悪な思い上がりを捨て去って、
人としての最低限の品位を保ったなら、その餓え渇きからして根本的に立ち消えるもの。

餓え渇きに突き動かされての無鉄砲な学術探求は、善も悪もみそくそと化しての
糞喰らいな害悪の探求ともなるため、礼にあらざるものを見ず、聞かず、言動しないでいて
初めて可能となる純粋なミソ=有益無害な物事の探求もまた、自業自得で不可能と化してしまう。

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013 2011/04/20(水) 11:27:43 ID:24BNHTuESY
あーらら、
またレベル下がっちゃったw

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014 2011/04/20(水) 12:10:21 ID:FXcSWHcfXI
あまりにも低レベルな、地獄餓鬼畜生の三悪趣にはまり込んで
出てこられなくなっているのも、おまえらのほうだろうに。

低レベルなのは、放射性廃棄物だけで十分。

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015 2011/04/21(木) 11:37:50 ID:8FBzQCqL/Y
あと、バイオハザードも高レベルよりは、低レベルや皆無であったほうがいいな。

まさに、洋学や聖書信仰に基づく、人々の自意識過剰の思い上がりの増長こそは、
人類という種族にとっての自業自得のバイオハザードでもあって、
思い上がりの塊と化した民衆に、為政者の側も主権まで与えて放辟邪侈を鼓舞する。
結果、資本主義社会(主に欧米聖書圏)という一部の社会の民衆が、
自分たちだけのための我田引水で、数億人もの人々を餓死や戦死に追いやっている。

大局的に見れば、これは明らかに人類という種族全体にとっての自殺行為であり、
自身の体内に悪性新生物を発生させての、末期ガン状態とでも呼ぶべきものとなっている。

人類にとってのガン細胞と化した資本主義者や聖書信仰者と、それ以外の健全な
人類との決定的な違いは、自身の自我が人類という種族、地球という社会の範疇を
逸脱してまで肥大化しているか、もしくは地球人類としての適度な身の程を
わきまえた自我=梵我一如を保てているかという点にあり、梵我一如を逸脱して、
過剰な思索と共に無根拠な自我を肥大化させていくことが、当該の人間が地球人類に
とっての悪性新生物、有害無益なガン細胞格と化していく発端ともなっている。

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016 2011/04/22(金) 00:42:38 ID:7g/Khi1mwI:DoCoMo
語るに及ばぬ、語るに及ばぬ、

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017 2011/04/22(金) 18:16:47 ID:jI5lyjSeK2
こいつが居なくなれば、もう少し板のレベルもあがるのにな。
レベルだけでなく、会話が出来ないことが一番問題なんだけどさ。

早くアク禁になって欲しい。

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018 2011/04/22(金) 19:35:36 ID:7g/Khi1mwI:DoCoMo
思い上がりまくりのクソガキばかりが跋扈する、
高レベルの人間バイオハザードが巻き起こることだろうな。

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019 2011/04/24(日) 15:36:56 ID:p2ice6TPac
狂信者ってのは概ねこういうモンだ。
見てれば色々勉強になる。
孤立して一般の感覚から逸脱した状態で
社会を独自解釈して敵視し始める。

幸い今の所は何もしない現状を肯定する事が目的だから、
何か行動に出る可能性は少ない。

しかし簡単に解釈や自己理論が変化するから注意は必要だ。
ヤバそうになったら通報しないと。

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020 2011/04/24(日) 19:42:54 ID:mwHDLidA8c
信じてるんじゃない。納得しているだけだ。

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021 2011/05/14(土) 10:16:52 ID:LHuzMO5Ht6
>>社会を独自解釈して敵視し始める

ニートや引きこもり、いじめられっ子にはよく見られるパターンだ。

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022 2011/05/14(土) 11:14:32 ID:Pr6xmNiJ.E:SoftBank
儒教ニートはスルーしろよ。

お前の席、ネットにもねーから

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023 2011/05/14(土) 11:37:00 ID:ZR7.Xxg/gI
俺の席などないか、もしくは全て俺の席かだ。

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024 2011/05/17(火) 09:53:50 ID:xWJSwmFgnE:SoftBank
お前の席、ねーから。キモいからくんなよ。
いじめられるだけのくせに。

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025 2011/05/26(木) 21:37:37 ID:xDSscNNQwQ
ウパニシャッドの呪縛から解放されたはずの仏教が、
日本においては先祖がえりを起こしてカルトがはびこる元になってるのは何で?

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026 2011/05/26(木) 22:20:01 ID:O9WLVT2wuo:DoCoMo
日本は、ヒンズー教と仏教両方に影響を与えている
世界最古の宗教「タントラ教(密教)」の正統派が残存する、数少ない国の内の一つだからな。

タントラに手を出した宗教は必ず、大成功と大失敗の両極に振れ切る。
日本では、弘法大師の興した真言密教が、正統派のタントラ教として大成功を果たした
前列があるので、同じくタントラの影響が色濃いヒンズー教も、始めは抵抗感もなく
取り入れられたが、近代以降の文明開化による精神性の荒廃と平行して取り入れられたために、
オウムのような失敗例のカルトをも輩出してしまった。

ちなみに、タントラを取り入れた宗教のうちの
最悪の失敗例が、ユダヤ教でもある。

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027 2011/05/27(金) 19:14:23 ID:AhQOB2PA6k
>>24
ほっといても、そのうちのたれ死ぬだろ。

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028 2011/06/04(土) 19:45:40 ID:g7YMe.RHdM:DoCoMo
人はみな誰しもいつかは死ぬが、最高真理ブラフマンでもある真我アートマンは永久に不滅であるために、
アートマンを把捉できた者は、二度と死を「完全なる断絶」などとは考えなくなるという、事実がある。

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029 2011/06/04(土) 23:05:13 ID:v9SwWmC0X6
梵我一如と大乗仏教の空観がごちゃまぜにされると危険なカルトの発生源に

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030 2011/06/04(土) 23:16:03 ID:jErmETyQ0o
梵我一如は、天命を帯びている人々にとっての諸法無我であり、
諸法無我は、天命を帯びていない者にとっての梵我一如である。

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031 2011/06/05(日) 11:58:30 ID:SICybm/GJo
一般人 → (解脱) → 梵我一如 → (悟り) → 仏

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032 2011/06/05(日) 12:52:18 ID:1oZCXVwGlc:DoCoMo
梵我一如や物我一理は、バラモンや君子階級の長男などの、
天命を帯びたごく一部の人間に限ってその把捉が保証されているものであり、
下賤な身分の出身だったり、また良家の出身でも次男以下だったり女だったりすれば
必ずしもその把捉が認められるものではないために、「良家の長男」などというごくごく一部の
人間しか帯びることがない、天命などを帯びていなくとも、梵我一如の把捉による解脱と
同等の解脱を誰しもが可能とする理念としての、「諸法無我」を釈迦が編み出した。

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033 2011/06/05(日) 15:41:21 ID:SICybm/GJo
アートマンが常在普遍じゃなくて幻だったとしても
梵我一如は成立する?

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034 2011/06/05(日) 20:40:47 ID:sdTnk7Rxag
アートマン(真我)ってのは、早い話しが、
自我がブラフマン(真理)との一致を果たせている状態(>>30左下)のことであり、
個々人の自我が必ずしもブラフマンとの一致を果たせているなどとは限らない。

「アートマンは幻か」という問いは、「ブラフマンは幻か」という問いと等価であり、
最高真理ブラフマンが実在するかどうかという点に問題が集約されることとなる。

結論からいえば、それは実在するのであり、
実在するが故に「汝はそれである(Tat tvam assi)」という語りかけが、
最高真理と合致した状態にある、己れの自我が真我であることの自覚を促すのだ。

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035 2011/06/06(月) 18:17:23 ID:dNu8oI5AWQ
真理も真我も縁起の現れ、ってのが諸法無我で、
常在普遍を想定した梵我一如は成り立たないのかなと。

カルトは常在普遍の梵我一如を下敷きにして、
輪廻とかカルマとかを、現に今を生きる自分の生活と直結させて
信者をコントロールにしてる。

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036 2011/06/06(月) 21:36:18 ID:ypAYHwD5YE:DoCoMo
梵は縁起であり、縁起は梵である。
ただ、「それ」を梵と呼ぶ場合には、「それ」の一定的な線形性に着目している一方で、
「それ」を縁起と呼ぶ場合には、「それ」のうちでも不定的な非線形性に着目している。

巨象は巨象として誰の目にも巨大なものとして映るが、
その巨象もいつかは死んで塵芥に帰するし、生きている間においても
新陳代謝によって細胞を構成する各原子からの転変を続けている。

絶対的には諸行無常であり、永遠にそのままでいられるものなどありはしない。
一方で巨象のように、巨大で普遍的な姿を一定的に保つものもある。

普遍的な姿形を保とうとするものが実在することからして、
この世やこの宇宙を司る普遍的な「何か」が実在する証拠であり、
その「何か」に近似しようとする結果として、巨象の出現などがあるといえる。

とはいっても、その「何か」そのものではなく、「何か」と比べれば随分と
断片的で刹那的なものに過ぎない個々の事物が、絶対的なものであったりするわけでは
ないことも確かなので、諸法の実相に常しえなるものがあり得ないことに由来する
諸法無我にも、なんら考えとしての間違いがあるわけではない。

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037 2011/06/06(月) 22:24:29 ID:dNu8oI5AWQ
縁起を関係性そのものと捉える。
縁起=梵なら、梵もまた実体ではなく関係性。

象はそれを形づくる細胞の関係性がたまたま結んだ焦点
細胞もまた分子の、分子もまた原子の、原子もまた…関係性の見え方であって
象と言う実体は無い。

しかし、象と言う概念はあると言う。
概念は認識に由来し、認識は我に他ならない。

梵=我より、我もまた関係性そのものであって実体(主体)を伴わない。

象を認識したのは誰?
神様?

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038 2011/06/06(月) 22:37:56 ID:s/rXm25usQ
最古なんかどうでもいい
どこの先輩にもクズは居る

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039 2011/06/06(月) 22:56:47 ID:IwM/iMF.bQ
040 2011/06/07(火) 18:07:23 ID:VVX036mVu.
発祥が少し早いから何だと言うんだ
〜よりはマシだなどと優位性の主張ばかりしているが糞は糞の域を出ないだろ

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041 2011/06/07(火) 18:25:12 ID:BBvb5Zgbkg
一 そのとき(太初において)無もなかりき、有もなかりき。空界もなかりき、その上の天もなかりき。
  何ものか発動せし、いずこに、誰かの庇護の下(もと)に。深くして測るべからざる水は存在せりや。
二 そのとき、死もなかりき、不死もなかりき。夜と昼との標識(日月・星辰)もなかりき。
  かの唯一物(中性の根本原理)は、自力により風なく呼吸せり(生存の徴候)。これよりほかに何ものも存在せざりき。
三 太初において、暗黒は暗黒に蔽われたき。この一切は標識なき水波なりき。
  空虚に蔽われ発現しつつあるもの、かの唯一物は、熱の力により出生せり(生命の開始)。
四 最初に意欲はかの唯一物に現ぜり。こは意(思考力)の第一の種子なりき。
  詩人ら(霊感ある聖仙たち)は熟慮して心に求め、有の親縁(起源)を無に発見せり。
五 彼ら(詩人たち)の縄尺は横に張られたり。下方はありしや、上方はありしや。
  射精者(能動的男性力)ありき、能力(受動的女性力)ありき。自存力(本能、女性力)は下に、許容力(男性力)は上に。
六 誰か正しく知る者ぞ、誰かここに宣言しうる者ぞ。この創造(現象界の出現)はいずこより生じ、
  いずこより来たれる。神々はこの世界の創造より後なり。しからば誰が創造のいずこより起こりしかを知る者ぞ。
七 この創造はいずこより起こりしや、そは誰によりて実行せられたりや、あるいはまたしからざりしや、
  ── 最高天にありてこの世界を監視する者のみ実にこれを知る。あるいは彼もまた知らず。
(辻直四郎訳「リグ・ヴェーダ」一〇・一ニ九 宇宙開闢の歌)

最古にして究極。

返信する

042 2011/06/07(火) 20:30:57 ID:ZMn/L6XFyk
>>41
不可知論?
有我のウパニシャッドが仏教的な無我に通じるあたりの話が聞きたいっす

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043 2011/06/07(火) 21:09:53 ID:BBvb5Zgbkg
ウパニシャッドがどんな自我でも肯定しているわけではなく、
最高真理ブラフマンとの同一化を果たした真我アートマンのみを肯定している。

>>30図の上二つのように、個我が真正な物理との一致を果たせていない
状態などというのもよくあることであり、適正な研鑽も行わないでいる
ただの人間は、大体が梵我一如などとは程遠い不安定な自我を宿したままでいる。

梵我一如を果たした自我、すなわちアートマンは、この世界この宇宙を
構成するあらゆる事物を我が股肱耳目であるかのようにわきまえるようになる。
その故に、日月星辰の運行などの面で一定の普遍性を保ち続けている
この世界この宇宙の安定性にも即して、磐石な心の平穏をも得ることができる。

しかし、梵我一如を果たすこと自体が、万人を平らげるほどもの権能を持つ
大王や聖人でもないことにはなかなか不可能なことであり、この世界のごくごく
一部分にしか携わっておらず、なおかつ一部分のことしか理解できないような
人間が梵我一如によって心の平穏を得ることはなかなか覚束ない。

そのため釈迦が、結果的に梵我一如と同等の平穏を得られながらも、
梵我一如ほどには環境的な優遇を必要としない理念としての諸法無我を編み出した。

梵我一如と同等の心の平穏を、諸法無我によっても得ることができるのは、
究極真理が有とも無とも知れない、微妙不可思議な境地に実在しているからこそ
のことであり、究極真理がただやたらに肥大化した自我だったり、その反動
としての自我の喪失だったりするわけではないからこその、特殊事情だといえる。

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044 2011/06/08(水) 01:03:02 ID:PPV9kqteX6
だいぶ腑に落ちてきた。
諸法無我が梵我一如のエコノミー版だとするとだけど。
梵我一如はリングサイドのS席で
諸法無我は街頭テレビみたいなもんか。
片や実在、片や幻…


でもやっぱ万物普遍の真理にドレスコードが有るってのが納得できない。
梵我一如は選ばれし自我の到達点なの?
それだと哲学と言うより宗教っぽい。
やっぱりカルトの温床。

ウパニシャッドの今日性を語るなら、
そこに答えが欲しいよ。

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045 2011/06/08(水) 06:04:44 ID:EXxJXg6BUw:DoCoMo
>この一切は標識なき水波なりき。

全世界、全宇宙を最原初から永遠に司り続けているかの波と比べれば、
この前の大津波はおろか、恐竜を滅ぼしたとされる隕石衝突による大津波や、
地球誕生後まもなく衝突して、地質の多くをえぐり取って月を生み出したとされる
ジャイアントインパクトによる衝撃波すらもが、小雨でできた水溜まりの波紋とも大して変わりはしない。

真にアートマンの把捉者となるためには、
人としてこの世に生を受けたことに対する一定以上の「誇り」を供えている必要がある。
それが、この世界この宇宙の真の雄大さとも合致できるほどにも、雄大なる気高さでなければ。

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046 2011/06/08(水) 10:53:08 ID:cpsJX5Jl7Y
>>37
俺はキミの解釈に同意する派

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047 2011/06/08(水) 11:41:01 ID:d2IeEEDVUM
>>41の何がすごいかって、日月星辰すら生まれていなかった
太初においては、まだ神すらもが存在しなかったというところだ。

日月星辰あたりの、個別的な普遍法則と共に神も生じたのだから、
それ以前に存在する神などを想定したところで仕方がない、
それ以前からずっとこの宇宙を監視している神などがいたところで、
そんな神は「無から生じた有」であるこの世界この宇宙とは直接関係がない。

不可知論なんて幼稚なものではなく、超越的な絶対神などによって
創作運営されているわけではないこの世界この宇宙の普遍法則に即して、
実質的な意味を持つ神を全て、宇宙開闢以降の形而下にのみ規定している。

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048 2011/06/08(水) 11:49:09 ID:Zg74EqBavk
だからまがいものの域を出ないだろうが

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049 2011/06/08(水) 11:59:21 ID:d2IeEEDVUM
だから本物だってんだ。

神を「形而下の存在」として捉えるのが正統な宗教。
イスラムですら、超越神アラーを、この世界を形成する「汎神」と見なしている。

形而下についてのみ「神性」を認め、形而上については「無」を認める。
形而上が「無」だからといって絶望したりニヒリズムに陥ったりするのでもなく、
一切皆無の虚空の徳をそれはそれで称える宗教が仏教などとして派生している。
これもまた正統な宗教の一派であり、ただ形而上に構造的な超越神を見出そう
などとする宗教ばかりが、致命的な完全誤謬を帯びたカルトとなる。

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050 2011/06/08(水) 22:24:01 ID:d2IeEEDVUM
形而下の実体性に着目したヒンズー教の梵我一如と、
形而上と形而下の超微細における虚空に着目した仏教の諸法無我とが、
結果的に同質の心の平穏の糧となっているのは、とにもかくにも
「形而上に実体を持つ超越神」が実在していないことによる。

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051 2011/06/10(金) 02:41:41 ID:hCZKWuKzGQ
有我と仏教的無我の接点については、だいぶ腑に落ちた。
でもこれ、無から有が生じる瞬間に何らかの意志を想定してしまうタイプの
人には届かない気がする。

辛い生の対価を、来世への投資信託で回収しようとする人って、
魂の永続性を前提にした、カルマとか前世とかへの現実感と、
仏教的無我の感覚から、今ある自分の生の価値への無執着が、
共に臨場感を伴って同居してるのよね。

梵我一如と諸法無我が同根だって言うと、この人たちは間違っていないのかもしれない。
でも実際はこれ、カルトに利用されてるだけよね。

ウパニシャッドの今日性を語る人なら、
この手の人たちに語りかける平易な言葉を持ってるかもしれないと、
期待してるわけであります。

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052 2011/06/10(金) 11:17:00 ID:h.RvXSGkzk
カルトの温床になっているのは梵我一如ではなく、
形而上に夢想された実体的な超越神との接続を根拠に
肥大化してしまった「自意識過剰」の自我でこそある。

「人は一度死ねば二度と生き返らない」という諸行無常の仏法も、
肉体や思考の不滅性までをも認めているわけではないウパニシャッド哲学
によってすらある程度は認められるところだが、死刑囚が刑死することで
三日後に生き返る無理を説くカルト教義の信者などからすれば到底認められない。
それは、ウパニシャッドもまた「この世界この宇宙」を司る最高真理としての
ブラフマンとの一致を果たしたアートマンの不滅を認めているのに対し、
件のカルト教義のほうはといえば、刑死者が「この世界この宇宙の外側」
にいる形而上の超越神との連絡によって奇跡を起こしたとされているから。

形而上の実体的な超越神との連絡を根拠に、この世界この宇宙における
絶対的な無理を有理に摩り替えてしまうカルト教義、そのカルト教義を狂信
している信者の心理状態はといえば、この世界この宇宙を司る絶対法則から
完全に乖離したところで自我を肥大化させてしまっている状態にあり、ちょうど
>>30右上の、「物」の外側で肥大化してしまっている「我」に相当するような
自我を備えてしまっている。それは>>30左下の、物との一致を果たせている
梵我一如の自我(アートマン)とは全く相容れないものであり、このような梵との
一致を欠いた自我の肥大化こそは自意識過剰の温床ともなっていることからして、
「梵我一如との相反こそはカルトの温床である」ということまでもがいえる。

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053 2011/06/10(金) 11:44:17 ID:Pel0vX5jh2:DoCoMo
人道の儒家だけでなく、天道のヒンズー教や道家、修羅道の拝火教やイスラムにも
地獄・餓鬼・畜生の三悪道を司る聖書信仰や洋学の「上位互換」としての素養が具わっている。

しかし、完全な出家行によって地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道全体を俯瞰する仏道には、
地獄・餓鬼・畜生の三悪趣に限っての上位互換であるような意味も素養も具わってはいない。

そもそも、仏道だけでは「この世」は成り立たず、
誰しもが完全な自力の仏者と化してしまえば、子作り一つしなくなって
あっという間に人類がこの世から消滅してしまう。

自分自身が自力の仏者とまではならない範囲での、
いち社会構成員としてのあり方をもよくわきまえる必要があるのであり、
それはもちろん、地獄・餓鬼・畜生の三悪道などではなく、修羅・人・天の三善道、
できれば修羅をも排した人・天の純善道であったほうがいい。

そのためには、地獄・餓鬼・畜生を司る聖書信仰や洋学に依存しないのはもちろんのこと、
六道全体を超越する仏道などへの分不相応な執心も避け、天道のヒンズー教や道家、
人道の儒家などの、身の丈に合ったシラフ教学のわきまえをこそ大事にしていくべきなのだ。

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054 2011/06/10(金) 14:06:25 ID:h.RvXSGkzk
この世界この宇宙が創造された瞬間から生じた「意」というのも、>>41の四にいうとおり、確かにある。
しかしそれは、この世界この宇宙の絶対法則であるブラフマンとの一致を実現できている
真我アートマンに限っての話であり、ブラフマンから乖離したところで身勝手に空回りしつつ
肥大化している自意識過剰の自我=非アートマンである個我の持つ意志ではない。

この世界には一定の線形性を持つ法則と、無限の非線形性を帯びたカオスとがある。
アートマンはこのうちの線形法則に大まかに一致することができている自我のことであり、
個々の人間がこの世界の全ての線形法則に合致できるほどもの素養を必ずしも備えているわけではないが、
少なくとも、人が生きている限りにおいて、この世界の線形法則の一部分に、常に意を合致させ続ける程度のことはできる。
しかし、この世界の線形法則の、ほんの一部分への意のすり合わせすらも拒絶して、完全にこの世界の法則に反する
盲目な意志ばかりを蓄える場合がある。それはこの世界で言えば、非線形のカオスに基づいて生ずるものであり、
この世界の線形法則から完全に離脱したところで生じ、さらにそこで別個の線形的な法則を構築させていくことすらある。

早い話しが、「ガン細胞」だ。

人間の身体は健康な状態では、ガン細胞の増殖を未然に食い止められているが、一旦ガン細胞が独立して
勝手な増殖を始めれば、自然には制御が利かなくなって、がん細胞もろとも個体の死にいたることが多い。

ガン細胞のような「不良セクター」が多少は人間のような多細胞生物に組み込まれているのも先天的なことではあるが、
決してガン細胞が無制限に増殖することが先天的な宿命なのではなく、それはそれで「疾患」と特筆されるもの。
ガン細胞が個体の健康や命を蝕むほどにも増殖することは、後天的なことである上に、健康に人生を送ろうとする、
先天的に人間に与えられた健全な意欲にすら反するものである。それと同じように、人類の存続すら危ぶませるような
カルト信仰を推進していこうとする盲目な意志もまた、人類という種族にとって後天的なものである上に、
人類を健全な繁栄へと導こうとする、ブラフマンとも合致した真我アートマンが抱く意欲にも反するものである。

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055 2011/06/10(金) 20:56:22 ID:r7ncp2.XP2
一神教嫌いなんだねぇ。。。
無知な私見で恐縮だけど、無を想定するのも神を信じるのも、
因果の起点を求める点で良く似た心情な気もする。
それと>>53で言う仏道の役立たずっプリは空観のことですね。
仏教にはそれに対する答えとして仮観ってのがあったように思いますが、
ま、そんな事が言いたいんじゃなくて。

魂の永続性をうたい、存在の目標地点を示すウパニシャッドと
それを前提にしたバラモン教的輪廻やカルマの論理に、
仏教的な空の感覚でもって自我への執着の喪失が重なると、
今、現にある生を安易に来世への投資、つまり導師やら教祖やらに預けてしまい、
現実の生活を崩壊させる結果になっていないか。
さらに高じると、その思考の構図を内心から溢れさせ、
「悪い事する奴は、これ以上悪いカルマを積ませないために、
早く殺した方がそいつのためになる」ってなオウムのポアの論理に近づくのではないか。
これが俺の懸念。

ウパニシャッドが本物か、まがい物かはわからん。
でも、ウパニシャッドが今日においてもその正当性が損なわれてないと言うなら、
この懸念に、救済を求めるがゆえにカルトにはまる人にも届く言葉で
答えてくれるんじゃないかなーーーっと期待しとるのです。

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056 2011/06/10(金) 21:25:16 ID:Pel0vX5jh2:DoCoMo
ガン細胞としての活動を推進するカルト信仰にはまることこそは
真の救済を遠ざける、ほとんど唯一にして最大の原因に他ならない。

ガン細胞としての活動をカルト信仰によって活性化させるからこそ、
ガンを切除するような荒療治による処分しか期待できなくなるのであって、
カルト信仰によって社会のガン細胞と化すことすら辞められれば、本人はただの人。
最高真理ブラフマンとも一致する真我アートマンを得られる可能性すらある、真人間だ。

ただ、そうなるための素養がどうしてもあったりなかったりしてしまうのは、
ひとえにカルト信仰に依存してしまう中毒症状の高低によっている。

人間を切除すべきガン細胞も同然の廃人と化す唯一最大の原因であるカルト信仰への耽溺が
誰にでも即座に払拭できればそれに越したことはないが、残念ながらそうもいかず、
人間がガン細胞も同然と化す唯一最大の原因であるカルト信仰との同一性すら
抱いてしまっているような人間までもがいるから、どうしても人間自身に対する
処分までもが少なからず避けて通れない場合があるだけだ。

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057 2011/06/11(土) 14:03:21 ID:pgJTIb/PH.
>>56
処置なしって言ってるように見える

カルトへの依存性を中毒と喝破したなら、
切除とか外科的手法でなくて、内科的なアプローチは無いの?

カルトが浸食した、いわゆる現代人の心の隙間を、
カルトにも届く言葉で、
ただしカルトと同じ手段(マインドコントロールとかね)に寄らず
中和、解放、補完するのは
正統性を語るものの使命だと思うんだが。

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058 2011/06/11(土) 14:43:27 ID:S6NKkrnZdY
殺せるものはみんな殺し尽くして〜♪

あとに残るは自分たちの入園式〜♪ とくらぁ

幼稚園はお嫌い?

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