好きだとか嫌いだとかの、女子供にとってばかり絶対的な
価値基準にすべてを還元してしまっていい話でもない。
ここ百数十年の、極東社会における諸々のいざこざですら、
帝国主義だの軍国主義だの資本主義だの共産主義だのキリスト教だのの
欧米原産のイデオロギーや宗教信仰によって引き起こされたものばかり。
戦前の日本の国家神道ですら、平田篤胤がキリスト教のドグマ志向を神道に取り入れた
代物で、儒学のような正統な東洋の学問はもちろんのこと、神社神道や沙門仏教などの
正統な東洋宗教が、近代以降の国際社会で活躍の場を得たような事実すらない。
今の、多くの中国人やインド人の、風体の薄汚さやみすぼらしさだって、
たった二割以下の地球資源で、十億人以上もの人々の生活を切り盛りする無理がたたって
いるからこそものであり、欧米人のように重権力犯罪によって八割以上の地球資源を独占する
ような罪業には及んでいないから、そうなってしまっているもの。逆に、欧米人のほうの
体格の良さや物質的繁栄などは、当該の重権力犯罪によってこそ獲得されたものなのだから、
たとえそれが魅力的に見えたとしても、魅力的だからといって決して善なのではなく、
最悪の罪業の実行者だからこそそうなっていることが明らか。
好きだから善だ、嫌いだから悪だ、そんな蒙昧が普遍的に通用するわけもなく、
悪だからこそ好きになれる、善だからこそ好きになれないなんてことはいくらでもある。
「巧言令色すくなきは仁なり」であり、巧言令色のやり手こそは人気をも得るのだから。
「今商王受、無道にして、天物を暴殄し、烝民を害虐す。天下に逋逃の主となり、萃淵藪となる」
「いま殷の紂王は、大逆無道にして、天地の万物を強奪によって損壊せしめ、無辜の市民たちに
危害を加える暴虐を働いている。それでいて天下に遍く指名手配された逃亡犯どもを囲い、
逃亡犯どもはまるで穴ぐらや淵や沼の茂みに逃げ込むように、紂王の傍を救いの場としている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・武成より)
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