「従うを以て正しとなすは妾婦の道なり(孟子・滕文公章句下・二)」というのはすでに既出の引用だが、まさにその通りだ。
君臣の義が重んじられる中国でも、太公望や張良や諸葛亮といった名臣が、武王や劉邦や劉備のような名君に幅を利かすこともあった。
主人と奴隷ほどにも主従関係が絶対化されることがすでに醜悪なことであり、見るかにカッコ悪い。
社会秩序の堅持のために主従関係を嗜むことがあても、それぞれの自主性が尊重されている姿のほうがやはりカッコいい。
上記の孟子の発言もカッコいい一方で、犯罪聖書の絶対服従ばかりを促す女々しい記述のほうはカッコ悪い。
カッコ悪いから、そんなものに従うことがすでに幸福ではない不幸であり、正義ではない悪だ。
物事の根本から正義であり、故に幸せともなる、格好の良さから四書五経は備えている一方で、
見るかに格好が悪いために、不幸な罪悪の塊ともなることが、犯罪聖書にとっての自明な存在性だ。
「夫れ人幼にして之れを學び、壯にして之れを行なわんと欲す。王曰く、姑く女の學べる所を舎てて我れに從へと曰わば、則ち何如。
今此こに璞玉有るに於いて、萬鎰と雖も、必ず玉人をして之を彫琢せしめん。國家を治めるに至るに於いては、則ち曰く、
姑く女の學べる所を舎てて我に從えと曰わば、則ち何を以てか玉人に玉を彫琢することを教うるに異ならんや」
「仮にここに幼少から道を学んできた者がいて、壮年になって学んできたことを実行しようという段でいるのに対し、
王様のほうが『まあおまえの学んできたことはしばらく捨て置いて、わしの言うことに従え』と言えば、どうだろう。
仮にここにまだ磨かれていない宝玉があったとする。値万金の名宝であるにしても、やはり専門の職人にこそこれを磨かせる。
それなのに、国家を治めたりすることにかけては、急に王様ばかりが、多くを学んできた君子などに対しても『学んできたことは
すべて捨て置いて俺の言うとおりにしろ』というのでは、素人が玉磨きの職人に玉磨きを教えるも同然ではないか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁惠王章句下・九より)
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