大衆の下愚ってのは、孔子すらもその全救済を諦めているもので(上知と下愚は移らず)、
弘法大師のような完璧超人によってでもなければ、矯正も不可能なもの。
その、弘法大師の興した日本真言宗も、弘法大師並みの後継者は未だ生み出せないままでいる。
いつの時代にも少なからず発生する衆愚を、恒常的に矯正し尽くすことは、現実的に不可能なことで、
衆愚ゆえの迷妄な意志がルサンチマンへと発展して、他者への蔑みに転化することもある程度は避けられない。
ただ、その蔑みをそのままにしておくのではなく、悪や悪人への侮蔑意識へと方向修正させることで
善用する程度のことは恒常的にも可能で、実際、「論語」に書いてあるような、誰にでも分かる範囲内の
初歩的な人間道徳を頒布することで、老若男女誰しもに善徳への畏敬と罪悪への侮蔑を植えつけることができる。
確かに、それはそれであまり高尚でもないことで、犯罪者を愛刀井上真改で斬り伏せる鬼平の姿なども、
見るからには面白くても、あまり高貴であるなどとは言えない。ただ、その程度のあまり高尚すぎない、
誰にでも面白さが分かる程度のところに、醜悪ないじめの心理を「悪への憎悪」へと修正させて善用する、
誰に対しても恒常的な適用が可能な範囲での、いじめの撲滅にもつながる、現実的な善処がある。
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